L'art de croire             竹下節子ブログ

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『奇蹟がくれた数式』マシュー・ブラウン

帰りの機内で見たイギリス映画。

これも『ターザン』と同じで、帝国主義的、白人優位主義に少し気分が悪くなった。

インドの独学の天才数学者が、いわゆる「免状」を持たないゆえに、エスタブリッシュメントに受け入れられない。

数学の天才という普遍的説得力があるのに、植民地、人種差別、学術システム外差別という壁が厚い。

デーヴ・パテールというおなじみの俳優が1887-1920に生きたラマヌジャンという実在の数学者を演じる。
第一次大戦のトラウマが大きな時代背景となっている。

女神ナマギリからインスピレーションを受ける、神から与えられたものでない真実など意味があるのか、というスタンスの彼と、無神論者で非戦論者で孤独な独身者というハーディ教授の友情物語だが、文化背景のあまりの違いで意思疎通がうまくいかない。

ハーディはケンブリッジの教授で尊敬される成功者だけれどコミュニケーションがうまく取れない。
それでもリトルウッド(トビー・ジョーンズ)という最高の同僚に救われている。このキャラクターがユニークですばらしい。
実際は、ハーディはラマヌジャンより10歳しか年長ではない。リトルウッドは年齢不詳に見えるがハーディより2 歳若い。

この映画を可能にしたのは、プリンストン大学のインド系数学教授が共同制作者になったからで、映画の中でも、インド人の留学生がラマルジャンと交流する。

イギリスは女王をリスペクトしてクリケットをやる国からの移民は差別せずに多様社会を成功させているから移民に人気があると言われているが、基本が共同体の棲み分け社会であって、アングロサクソンのエリートの中に同化されるためのハードルはとても高い。
第一次大戦のころのラマヌジャンが兵士から暴行を受けるシーンなどはリアルで見ているのもつらい。
食糧難の時の菜食主義者の不自由さも切実だ。

研究から祈りや食事に至るまでを枠づける宗教の中で生きる男と、社会規範と良心の自由の間で自己を律するカントみたいな孤独な男の交流。
二人が真に友人ではなかったということが分かる「告白」が、ラマルジャンに「妻がいる」ことだというもので、その衝撃の大きさそのものが今の時代の私たちには驚きだ。

原題は『無限を知っていた男』で、数式の美しさと、エレガンス、無限への感性と超越神や聖なるものへの感性、けれどもそれを「証明」することの願望や必要性、信じるということはどういうことなのか、神を信じるのか、神を信じている人間を信じるのか、などのさまざまな問いを喚起する深遠なものだ。

けれどもその数学的な部分の感動は、その片鱗も暗示してくれないので、抽象的なままに終わってしまうのが残念だ。
私の高校時代『大学への数学』という雑誌に「エレガントな回答を求む」というコーナー(今検索したら「数学セミナー」という雑誌だというから私の記憶違いかもしれない)があって、毎回いろいろ考えたことがある。
エレガントなひらめきというのを目の前にして感嘆させてくれたのは、一年先輩の友人だった。
彼の受験時が東大の受験中止の年に当たり、京大へ進学してそのまま兄弟の数学教授になった人だ。

正しいものも美しくなくては意味がない、という感じはその時に実感した。

この映画ではそういうカタルシス(映画では無理だろうし、映画を見る人の能力では無理なのだろう)がないのが欠落感として残る。

美しい妻やインドに一人取り残されたくない母の思惑などもサイド・ストーリーになっているけれど、携帯電話やインターネットのある時代だったらいったいどういう展開になっていただろうな、などと思う。
若い頃に携帯やメールがあったら人生が変わっていたろうというシーンが私自身にもいくつかあったことを思い出す。
21世紀におけるインド人科学者や技術者のグローバルな活躍を考えるにつけても感慨深い。
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by mariastella | 2016-11-13 01:50 | 映画

デヴィッド・イェーツの『ターザンreborn』

帰りの機内で4本の映画を試聴。フランス映画はなかった。

行きの機内で見たアメリカ映画は『ズートピア』だったのだが、コメントを書けなかった。
なんだかとても立派で正しい映画で、そのよくできている具合が、現実のアメリカやこの世界で起こっていることとあまりにもかけ離れているので言葉が出なかったのだ。

ところが帰りの機内で見たアメリカ映画とイギリス映画はあまりにも気分が悪くて、でもこちらの方が現実を反映している。

一つはアメリカ映画の『ターザンreborn』だ。

特殊撮影の迫力あるアクション映画とだけ思えば楽しいだろうが、私にとっては、もろコンラッドの『闇の奥』ですかという息苦しさで、とりあえず「ああ、ベルギーに住んでなくてよかった」、と思うってしまうくらいだ。

それくらいに、オーストリアのクリストフ・ヴァルツの演じるベルギーの公使(はっきり言ってあまりベルギー人っぽく見えない。フラマンでなくワロンということだろうけれど)の演じるレオン・ロムというのが、悪役すぎる。

こういうのを見ていると、ヒトラーのホロコーストよりすごい。
ヒトラーは、自国内のマイノリティを排除したわけだけれど、象牙(これも気分が悪くなるほど大量に獲られている)や宝石を求めて他の文化圏を侵略して、なんの迷いもなくそこに暮らしている人を殺したり奴隷にしたりするのだから。

ベルギーがカトリック国というのもひっかかる。

今のフランスなんかでは、ブラック・アフリカ人でも、セネガルなどイスラム圏から来る人よりも、コンゴから来る人の方がはるかに受け入れられやすい。
カトリック教会の教区民になるからだ。
教区によっては彼らの存在感は大きいし、司祭不足の地域ではコンゴ人の司祭も普通にいる。

でもそれはみな、コンゴがベルギーの植民地だったからだと思うと複雑だ。

タンタンの冒険のコンゴの巻だったって、30年前に読むのと今読むのとではまったく違って、よくこんなものが通用しているなあと思うくらいだ。

その上、この映画のレオン・ロムというのが、最初から最後まで、カトリック的なロザリオの数珠を手にしている。
9歳の時にエルサレムの土産として神父からもらった特殊なロザリオで、これをいつも手に持っていて、最初はその手で花を摘む画像が出て、先住民の部族に囲まれた時もそれをしっかりと握っている。
最後はターザンの首を絞めつける凶器としても使われる。

このベルギー人の奴隷売買をはじめとする蛮行や腐敗ぶりは、ターザンに同行した黒人のジョージ・ワシントン・ウィリアムス博士というアメリカ人によって1890年7月に告発される。

でもこの博士そのものが、黒人だけれど、南北戦争のトラウマを引きずり、多くのインディアンを殺した体験があって罪悪感に苦しんでいる。
そのあたりで、人種差別が単純な黒白の問題ではない錯綜した深刻な問題であるということが表現されているのだろうけれど、アメリカ映画だからアメリカの役割も大切になっているわけだ。

でも全体として気分が悪いし、なんだか、槍を持って集まる先住民の男たちの「非文明的」、「野蛮」な様子の迫力を見ていると、もし私が黒人だったら今さらこんな役を家族や知人には演じてほしくない、などと思ってしまう。

アレクサンダー・スクルスガルドのターザンは逞しい体に少年のようなかわいい表情の頭がついていて、そのギャップがかわいいといえばかわいかった。
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by mariastella | 2016-11-10 03:04 | 映画

奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ (2014)監督マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール

機内で見たフランス映画『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ 』


パリ東南郊外県庁所在地のクレトゥユ公立リセの1年のクラス。

後でコメント検索したら、日本人の感想に、「服装、態度、とても高校生とは思えない」、というのがあった。

いや、あんなものだ。
先生もリアルだ。

すでに落ちこぼれ組という設定からすると、小中学校ですでに1、2度は落第している生徒が多いだろうから、日本の高1よりは年取っているかもしれない。

現実の問題がうつされる。

3年間は我慢したがバカロレアの証明書をとりに来たときはイスラム・スカーフを外さずに女子学生の親子が教師に悪態をつく。

普通のフランス人の少年がイスラムにかぶれてイスラム名を名のり出し、ひげのばしてイスラム服を着て、普通のムスリムの少年を不信心だと責める。

ムスリムの少女の服装が肌を露出しすぎだとムスリムの少年たちが囲んで、肌を隠さないのなら娼婦とみなす、と脅す。

この辺は今のフランスの深刻な問題だ。
リアルだと思う。

親しい友人にもリセの教師はたくさんいる。同じような深刻な問題についてみなで話し合ってきた。。

でもいくら悪ぶっていても子どもは子ども、可能性は無限だ。

フランスの高1のクラス、私は東京(リセ・フランセ)で一度、パリで一度受け持ったことがある。

隔世の感があるのは、今はみながスマホを持っていたり、USBを使ったり、貧しそうな家庭の子供も自分用のPCを持っていることだ。なんでも検索できる。

私の生徒は東京のフランス人の子弟だったし、パリでもカトリック系私立中高一貫校だったから、基本的にはみないい子だったし宗教や文化の問題はなかった。それでも態度は生意気で挑発的だった。

これが高2からがらりと変わって大人になる。

でも態度如何にかかわらずよく見るとみな子どもでフレッシュで可愛い。

授業の後に残って相談を持ちかける生徒もいた。

請われて臨時で日本語を教えていた時、普通は「マダム」と呼ばれるのだけれど、「せんせい」と呼ばせた。

「ボンジュール、マダム」の語順は日本語ではない。「センセイ、コンニチハ」と言うのだと教えた。

学年末、「次の先生もリスペクトしなさい」と言ったら、口々に、「ぼくらのセンセイは一生、センセイだけだ」と言い出した。

かわいい。

若者の成長に寄与できるのは何よりも楽しい。

楽器の生徒も幼稚園から高校卒業までずっと見守った生徒がたくさんいて、成長を見てきた。


語学を教えるときも音楽を教えるときも、よろこびをベースにした人生観の形成に役立つことを第一目標にしてきた。


そのためにも私の喜びを伝えることを大切にしてきた。

この映画の教師の気持ちはよく分かる。


自分で考えること、

それをコミュニケートすること、

それによって集合知を形成すること、


このプロセスを教えることが一番大切だ。


フランスの教育哲学の一番いい部分が、危機の状況の中で発揮される例だろう。

試験の点数だけを気にしているような平和なクラスではこの大切なものが忘れ去られるというのはひとごとではない。
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by mariastella | 2016-10-21 10:17 | 映画

シン・ゴジラ

日本に来る前に見たかったフランス映画が3本、行きたい芝居がひとつあったのに、校正などしているうちにすべて見逃した。

で、夜行便にもかかわらず、日米仏映画を1本ずつ見る。

日本映画はネットでいろいろなコメントを読んでいた『シン・ゴジラ』。

いろいろな軍隊、武器、軍事作戦のリアルなオンパレードで、

「武器があれば使いたい、使っているのを見てみたい、効果を見てみたい」

という欲求に迎合しているようで、私のようなタイプはひいてしまう。

でも、人同士の権力や領土や経済的な闘争による戦争ではなく、怪物」という分かりやすい「敵=悪」を殲滅するということで、エイリアン相手よりもさらに分かりやすい仮想敵設定を正当化。

「想定外」への対応も、いろいろな含意を思わせる微妙なパロディだ。

しかし、日米安保だとか、永遠に戦後が終わらない、日本はアメリカの属国だとか、これも分かりやすい政治メッセージは、ある意味で新鮮だ。

もっと評価できるメッセージは、ゴジラのデータなどを秘密にせずに世界中にばら撒いて共有することで得られる集合知の大切さである。

さらにもっとも痛快だったのが、日本がようやく「欧米」の区別をして、国連安保理で拒否権を持ち、アメリカに楯突くのが伝統のフランスに根回しをしすることで日本への核爆弾投下を延期させたところだ。

フランスがアメリカ独立戦争を助けたことは今でも「絶対消えない外交上の貸し」として残る。フランスからのプレゼント自由の女神が立っている限り残るだろう。

日本への原爆投下にフランスの知識人たちは本気でショックを受け、トラウマになった。

カミカゼ特攻機がアメリカの軍艦に命中して火を噴く実録映像を見ると映画館の中で拍手が起こるお国柄でもある。ジャポニスムの昔から、エリート、アーティストは日本びいきでもある。

サウジアラビアですらアメリカへの牽制手段としてフランスからも武器を買っている。

アメリカ封印対策はフランスを活用。


というわけで、日仏有効映画としてシン・ゴジラはマル。フランスで公開されたら絶対に受けて「親・ゴジラ」となるだろう。
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by mariastella | 2016-10-19 14:42 | 映画

ロマン・ポランスキーの『吸血鬼』

もう一月くらい前に、TV5でロマン・ポランスキーの『吸血鬼』を見た。

フランスでは『ヴァンパイアの舞踏会』として有名でホラー・コメディとしてのミュージカルもあるから、なんだかよく知っている気になっていたけれど、初見だということが分かった。

このTV5の映画放映というのもめったに見ないので、最初に昔の日本のTVの「洋画劇場」の淀川長治みたいな人が出てきて解説を始めたのにも驚いた。話しぶりまでそっくりだ。
1967年のポランスキーの最初のカラー映画であること、この撮影でシャロン・テート二恋をして結婚したこと、アメリカでは監督の気に染まぬ編集をされて不満だったこと、完全版が1968年5月革命を経て新しい時代が蠢動していたフランスで封切られて大成功をおさめたことなどが解説された。
フランスと相性のいい外国アーティストは少なくない。

あらためてシャロン・テートの殺人事件のことをネットで検索してしまった。
ポランスキー自体がなんとなく倒錯的な人だから、もっと関わっていたのかという印象が刷り込まれていたけれど、完全に人違いの被害者だったのでトラウマはすごかっただろう。

で、この映画のポランスキーは、さすがに若い。なかなか魅力的でもある。

古いと言えば古いが、独特の味わいがある。

ポランスキーが演じるのは吸血鬼研究者の助手で、城砦に閉じ込められたとき大砲の上に乗ってロザリオの祈り(アヴェ・マリア)を唱えだすところがおもしろい。
「舞踏会」の曲がチェンバロ曲でバロックなのに踊り方がバロックではないことにも興味を惹かれた。
1967年と言えばまだバロックバレーの振り付け譜の研究が始まったばかりだからこんなウィーン風なのかもしれない。
舞踏会から逃げる時に教授と助手がそれぞれ長い剣をとって十字架の形に組むと吸血鬼たちの結界になる。

舞踏会のあいさつでドラキュラ伯爵がルシファーの名を出しているので、要するにキリスト教的な世界での「神か悪魔」という対立の構図がある。

集まった仲間に「血の兄弟」と呼びかけていたのがおもしろい。

「血がつながったきょうだい、血縁」という表現だが、吸血鬼の口から出るとダイレクトだ。

そう思うと「血縁」という言葉もなんだか不気味な気がしないでもない。
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by mariastella | 2016-10-18 13:40 | 映画

パスカル・ショメイユの『Un petit boulot』 ついでにジョルジュ・ロトネールも。

パスカル・ショメイユの新作。

『ハートブレーカー』のショメイユとロマン・デュリスの組み合わせだし、ロマン・デュリスとミシェル・ブランのコンビがおもしろそうだというだけの理由で見た映画。

少なくとも飽きない。最後までどうなるかとひやひやした。

でも、あの終わり方では、「青少年」の教育に悪いなあと素直に思ってしまう。

工場閉鎖で失業した三人の仲間の話で、みんな家族を守って生きるために必死だが、主人公のジャックは恋人に逃げられて一人になる。
地域のマフィアのボスが、妻を殺すバイトを持ちかける。
実はその前に別の一人も声を掛けられていたが断っていた。

その仲間が「人殺しはいやだ」、という理由を

「僕はカトリック、洗礼も受けてるし、初聖体もやってる」

というのがおもしろい。

「初聖体もやってる」というのは、赤ん坊の時に洗礼を受けただけではなく、初聖体を受けるために「カテキズム=要理のクラス」にも通ったいう意味だ。
この階層でいうと私立のカトリック校に行ったとは思えないので、共働きの親で、おばあちゃんに連れられて教区の教会に通ったのだろうと分かる。

その他、ベルギーでの殺人依頼主の女性との会話で、

「あなた、神を信じてる?」
「いや」
「私も。私は教会へ行く人よ。この後で隣の教会に祈りに行くからそこにきて」

と待ち合わせ場所を指定するのもおもしろい。

croyant というのとpratiquantというのを分けているのだ。

普通はこれと逆で、
「信じているけど定期的に教会には通わない」
というのがマジョリティでほとんどデフォルトだ。

この場合の「信じている」というのは「無神論者ではない」というほどの意味で、カトリックのアイデンティティが残っているという程度だ。

前の例で仲間が人殺しを断った理由に「僕はカトリックだから」と言ったのと同じ程度の意味である。

それが逆になって

「信じていないけれど教会には通う」

と言っているわけだ。

あえて言えば、熱心に教会に通っている人たちがほんとに神を信じているかどうかなんてわからない、とも読める。

実際本当に神を信じているなら教会の中で殺人の手順を相談するなど罰当たりなわけで、ひょっとしてそれをチェックするためにまず「あなた、神を信じてる?」と聞いたのかもしれない、などと思ってしまう。

ロマン・デュリスとラブストーリーで絡む女優アリス・ベライディが私好みでかわいい。

ガソリンスタンド併設の小スーパーを視察に来るスーツ姿の上司があまりにも感じが悪くて、社会派ドラマによくあるカリカチュラルな造形なのだが説得力がありすぎる。

放尿シーンやトイレでの武器などの受け渡しシーンが多すぎ。匂うような映画だ。

しかし、主人公ジャックの言葉を借りると普通の「シンプル」だが幸せなのかどうかはわからないな生活をしていた男が、工場の閉鎖でシンプルさを失い、思ってもみなかった殺人に手を染めるというテーマを考えると、最近TVで久しぶりに見なおしたジョルジュ・ロトネールの『七番目の陪審員』(1962)となんとなく比べてしまった。主人公がのモノローグが絶えず流れるところも似ている。

この映画はスイスの国境に近い町のブルジョワたちの偽善がテーマなのだが、やはり、「幸福ではないがシンプルな生活」が崩れる恐怖が描かれる。

最初に、主人公のブルジョワで妻子持ちの中年男が出来心で、水辺で半裸で寝ている女性に襲いかかり、声をたてられないように首を絞めてしまう「発端」が映されるのだけれど、この前後のシーンにずっとヴィヴァルディの「夏」が流れている。
白黒映画だけれど明るい夏の光の中で、この曲がこんなに苦しくドラマティックだったとは知らなかったと思うくらいに濃密で緊迫した空気を醸成する。

毎日仕事の後に規則正しくポーカーに興じる仲間の薬局主、獣医、警視、判事、医師などに対して、画家という「自由業」でしかも若いという二つの点で「異質」分子である男が、恋人殺しの冤罪に問われる。

真犯人である薬局主(ベルナール・ブリエが名演)は、あれは殺人でなく処刑だったんだ、などと自分に言い聞かせるのだが、無実の男が犯人にされるとなるとさすがに良心が痛み、国境を超えてスイスの教会に飛び込んだ。

司祭に告解し、拘留されている画家の無実を当局に知らせてくれるかと期待するのだが、

「まず、自首しなさい、神の慈しみはその時点からもたらされる、自分の魂を救いなさい」

と言われる。

実際、この司祭は、当局に、今捕まっている男は犯人ではないことを通知するのだけれど、彼らはそれを握りつぶす。司祭に告解に行ったということだけでも、「真犯人」が彼らの仲間であることは想像がついたからだろう。

町のブルジョワたちが一番避けたいのはスキャンダルで、一番守りたいのは「シンプル」な生活のルーティーンなのだ。

皮肉なことに、真犯人の薬局主だけが、良心に従っているうちにそのルーティーンから解放され、ある種の自由を獲得する。「真実があなたを自由にする」というやつだ。
しかし、事態は思いがけない展開となり、「偽善」が勝つ。

半世紀も隔たりがあるというものの、こういうフランスの社会派の犯罪映画を2本続けてみると、ハリウッド映画から得られるような「単純なカタルシス」がいまさらながら恋しくなる。
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by mariastella | 2016-09-09 01:06 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン)その3

(これは前回の続きです)

冤罪のテーマ

1972 年にイングランドの統治に反対する市民らのデモに陸軍が発砲した血の日曜日事件以来、IRAによるテロも激化した。
1975年のテロ特別法で、証拠がなくても容疑者を7日間交流することが可能になり、これが徹底していたので、IRAによるテロは実際下火になった。

法治国家では法が変われば正義も変わる。

9・11の後のアメリカの愛国法など、21世紀でもいくらでも起こるエピソードだ。

ただ、真犯人が名のり出た後もイギリス当局は主人公たちの再審をしないばかりか、実は、最初に主人公が自分たちのアリバイを証言してくれると主張していたホームレスの男を探し出していた事実も握りつぶしていた。

ホームレスの男の証言によって主人公らのグループがパブ爆破については無罪だと分かったうえで、それでも彼らがアイルランド人のヒッピーであることは変わらないのだから、政治的判断で「犯人検挙」を演出していたわけだ。

しかし、実は法廷に出さない極秘文書に、ホームレスの証言記録が残っていた。それを偶然見つけた弁護士によって再審が行われ、全員釈放となる。
それまでにはイギリス人も含めて多くの支援団体ができていた。
父を病気で死なせてしまった息子が父の無念を晴らすためにようやく本格的に抗議行動を起こすようになったからだ。
彼と父だけではなく親戚の子供たち(14歳のいとこなど)に至るまで、共犯を問われて服役し、人生を狂わされていた。

それにしても、そんな不都合な極秘書類、封印するぐらいだったら、どうして「破棄」していなかったのだろう。

証拠を隠すくらいに、恣意的で公正でない検察が、破棄だけはしないでとっておいたというところが、これも「先進的法治国家」ならではの「お花畑」ぶりという気もする。

しかし、これだけの歴史に残る「冤罪」であったにかかわらず、証拠を隠ぺいしていた検察側や暴力や脅迫で自白を強制した警察の側も、結局、だれも責任を問われず、だれも罰せられなかった。

ドレフュス事件を思い出す。
ドレフュスを冤罪に陥れた責任者たちはやがて何もなかったように昇格して出世している。

ドレフュスは「歴史」となり、ドレフュスを擁護した運動も「歴史」となったが、「責任者」も「真犯人」も雲散した。

一つの冤罪が生まれる背景には、たんなるエラー、判断の過ちなどではなく、その冤罪の出現を可能にする大きく重い歴史と政治の装置があるということだろう。

この映画は、今の時代に貴重なメッセージを伝えてくれる。

テロの脅威、非常事態宣言、テロ捜査における様々な特令。

今、過去に学ばなければ、私たちは「疑わしきは罰せよ」の安心感にきっと惹かれてしまう。
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by mariastella | 2016-08-30 00:27 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン) その2

(これはこの前の記事の続きです)

父と子のテーマ

父と子が同じ房で暮らしていたというのはいくら演出でも不自然な気はする。

ともかく刑務所の中で二人はそれまでの生活すべてよりたくさんの言葉を交わして濃密な関係になる。

自分がはじめてサッカーの試合で勝った時に父親がほめてくれずに「ペナルティを誘発したのではないか」と質問したことを息子は忘れられない。

そこは父親が「よくやった」とまず祝福してやるべきだったというのは教育心理学的に正しいだろうが、この父親にとっては、息子のチームが勝つことよりも、息子が「不正をしない」「正々堂々と戦う」ことの方が大切で、それこそが息子に伝えたいメッセージなのだった。

だから、大人になった息子が泣き崩れても、父は「悪かった、本当はお父さんも君たちを誇りに思っていたんだよ」などということは言わない。

息子が峻厳な父からほしかったメッセージは、「よくやった」という言葉以前に「愛してるよ」という一言だったろう。

それは、子供の時も刑務所で同房に勝った時も実は同じなのだ。

父はそれを言わない。

息子を愛しているのは自明だからだ。
愛しているからこそ、「不正をしない」立派な人間になってほしいと思っている。

どうして母親が気づいてやれなかったのだろう。
「今はとにかくあの子に愛してるよとだけ言ってだきしめてやって、」と。

それは、父親が、この母親には「愛してる」と言い続けてきたからだ。
息子には「父」としての責任を感じて「正しい生き方」を見せ、「正しい生き方」を教えることが使命だと思って優先してきた。しかし、母親は自分の守るべき存在であり、愛を表明する存在だった。

だから母親はただ愛していると父親から言ってほしい息子の気持ちを忖度できなかった。
多分、自分自身は息子に「愛している」と言ってきたから、まさか息子が父からのその言葉に飢えているとは思わなかったのだろう。

もともと「愛している」という言葉を家庭で発さない父親なら息子もそこまで父の愛の表明を渇望しなかったかもしれない。でも彼は父が母に「愛している」と言えるのを知っていた。

父は息子がドラッグを吸うのが許せない。息子は「わかった、お父さんが生きている間はもう吸わないと誓うよ、それでいいかい」と言うのだけれど、父は許せない。

結局、一生吸わないと誓わされる。息子はいい加減な男だけれど、この父との間に交わされる「誓い」には二枚舌が不可能だということを知っている。

そして息子がそれを知っていることを父も分かっているので、安心するのだった。

このシーンは親子の間に実は強固な信頼関係があることをうかがわせて救われる。

父の死後息子が冤罪を証明するために戦うのは父の愛した母のためでもあった。
父が死んだ後、母に向け続けられた父の愛を表明することが彼の使命となった。

彼ははじめて父親から必要とされたのだ。

息子役のDD ルイスも父親役のPポスルスウェイトもさすがの名演だ。

ただ、見た目があまりにも違っているので、映画の中の父と母から絶対にこんな息子は生まれないだろうというレベルの違和感がついてまわった。
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by mariastella | 2016-08-29 00:32 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン監督/DDルイス主演)1994

先日Arte で視聴したこの映画、テーマが多すぎる。

まず、悲しいくらいに「アイルランド」映画だ。

イギリスのEU加盟は1973年、この映画のもととなったIRAによるロンドンのギルドフォード・パブ爆破テロが1974年だから、まだ、南北のアイルランドの国境が取り払われて交流が進むという感覚はなかったころかもしれない。

それから40年も経って2016年の英国のEU離脱決定の後で、北アイルランドの人たち(祖父母や両親がアイルランド人であればOK)が英国のパスポートとアイルランドのパスポートの両方を持てるということで申請に殺到したというのは記憶に新しい。

分離独立運動は1998年に和平が成立したが問題は継続している。英国のEU離脱が決まった今、再燃することは間違いがない。

1.カトリックのテーマ

タイトルだが、日本語では「父への祈り」と、獄中で無念の死を遂げた父の慰霊をするかのように息子が生まれ変わって戦った、ような印象を与えるけれど、原題は『In the Name of The Father』で、これはもちろん典礼の「in the name of father son and holy spirit(父と子と聖霊の名において)」(その後でアーメンと続く)をもじったものだ。

父とはもちろん父なる神である。

映画の中での父はロザリオを持っていて、刑務所の中でも毎日ロザリオの祈りを唱えている。

それを見る息子は笑い飛ばす。

多分小さいころには家中で唱えていたものだろう。

それを刑務所に入ってからも律儀に続けている父を笑うのは、

「何をいまさら。あんたの聖母様(ロザリオは聖母マリアへの祈りが中心)が何もしてくれないから俺たちはこんな目にあっているんだぜ。すべてはこんなものを信じているせいなんだ。祈っても無駄なのは証明済みさ」

というような気持が哄笑となって出てきたのだ。

アイルランド問題の底には宗教問題がある。

カトリックが優勢なところに、宗教改革の後でスコットランドやイングランドから北部に入植してきたプロテスタント系住民が自分たちに有利な選挙方法で権力を掌握し、カトリックを迫害した。

住居や就職でも差別された。

この映画でも、父親の仕事が健康を蝕むもので、それはカトリックだからだと息子が指摘している。

また息子は無職でヒッピーまがいで盗みを働く「不良」だが、首からは十字架をぶら下げている。

カトリックであることは宗教ではなくてアイデンティティの問題なのだ。

ロンドンに行った息子とようやく電話で話せた時も親は「ミサには出ているか?」と尋ねている。
息子はもちろん嘘をつく。そこで「そんなもん、出るわけないだろ」とは言わない。

法廷に出る時も母親が陪審の印象をよくするためにと「日曜日の服」を用意する。
つまり地元では日曜には背広を着てネクタイを締めて親と共に教会に行っていたのだろう。

父は、刑務所の食堂で、テロの真犯人であるIRAの活動家と出会う。
彼に頼んで息子の無実を晴らしてもらうという意識より先に、父は無差別テロがゆるせない。

お前が殺したのは「すべて神の子」なんだ、と怒りを見せる。

唯一の救いは刑務所に聴罪司祭が出入りしていたろうということで、彼の死を息子に知らせに来るときにローマンカラーを付けた司祭がたずねてくる。

父の名がジュゼッペというイタリア名であることが妙なトラウマになっていることもおもしろい。

ジュゼッペは聖家族のヨセフであり、カトリック世界では普通の名だが、国によってジョゼフ、ヨセフ、ホセ、などと読み方が変わる。

祖母が父親を妊娠していた時に町にやってきたイタリア人のアイスクリーム売りがジュゼッペということでそう名付けたのだそうだ。
父親の生まれた時代のアイルランドで一人だけ「ジュゼッペ」という名で育つのは確かにトラウマになりそうで、息子までそれを意識している。

(続く)
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by mariastella | 2016-08-28 04:08 | 映画

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』、

映画史に残ると言われるこの「黄昏のウェスタン」のノーカット版を先日arteで視聴した。

見るかどうかすごく迷ったのだけれど、結局見た。

なぜ迷ったかと言うと、前から何度も書いたように、数年来、もうホラーとかヴァイオレンスとかカタストロフィとかを扱った映画はできるだけインプットしないようにしているからだ。
単純に言って血が流れるようなのを見たくない。

私は時々悪夢をみるが、なぜだかそれを忘れずに反芻してトラウマにしてさらに次の悪夢につながるというタイプ。
それは、なぜか戦場など流血沙汰の真ん中にいることもあれば、例えば砂漠で一人きりになり絶対に救われないと分かって絶望するとか、ミサイルがあちらこちらに落ちてくるのを自宅の窓から眺めて、ああついに第三次大戦が始まったのだなあ、私はここで死ぬんだなあとつくづく思うとか、悪夢の中ですでに悪夢の内容を反芻している。

あまりにもリアルで実感をともなうつらいものばかりなのだけれど、ある時、実生活で、戦争も知らず、大けがをしたこともなければ災害や事故の現場に居合わせたことすらない私がこういうリアルな夢を見るのは何が根拠なのだと思った時に、そういう視覚的ヴァーチャル・リアリティの体験は私にとって映画にしかないことに気づいたからだ。

第二次大戦の大空襲で逃げ惑った体験のある私の母は、時々悪夢にうなされることがあったのだけれど、空襲の夢を見なくなるのにまる半世紀かかったと言っていた。私のは主として映画からくるものだから、そういう情報をシャットアウトすれば簡単に悪夢をシャットアウトできるかもしれないと思ったのだ。

そういうわけだから、映画におけるヴァイオレンスというジャンルの嚆矢となったという1969年の『ワイルドバンチ』など、真っ先に私の「検閲」にひっかかる。同じサム・ペキンパーの『わらの犬』は日本での初公開時に観ている。だからこの監督のヴァイオレンスの感じは想像がつく。

それでも、他に思うところがあって『ワイルドバンチ』を視聴した。

結果は、悪夢に燃料を与えるような怖さはまったくなかった。
女も子供も町を行く人も無差別に殺されるし、血まみれのシーンも続出なのに。

印象的なのはむしろ空の青さだとかカメラワークとか、メキシコの女性たちがテレサの遺体を運びながら長々と連祷するのに男がイライラして「やめろ、この偽善者め !」的な言葉を吐くシーン(こういう無法の場所ではキリスト教は「女子供用」と認識されているのだなあとあらためて思う。いや、女性と女の子用と言ってもいい)などだった。

武器輸送列車を襲うスリルとか、4人で200人のところに向かう時の「友情のためには命を捨てる男らしさ(と称されているもの)と哀愁」などは、まあよくできた映画のお約束の範囲内だ。

で、大量の撃ち合いはあまり怖くなかった。

むしろ、傷ついた仲間ひとりにとどめの一発が撃たれるときの方がずしんと来る。

「大量撃ち合いヴァイオレンス」というのはあまりにもリアルとかけ離れているので私の悪夢の材料にはならないらしい。

よく考えたら、こういうほぼ機械的な撃ちあいより、「倒錯」の方が悪夢の種になるのだ。
信頼していた母親が実は蛇女になっていた、というたぐいの怖さや、隠されていたものを見てしまって「見たなー」と言われるような怖さ、ヴァイオレンスも憎しみやら狂気やら倒錯に裏付けられているものは怖いけれど、『ワイルドバンチ』や『七人の侍』的なヴァイオレンス・シーンは、ゲーム的で怖くない(悪夢の材料にはならないという意味で)ということが分かった。

怖いのはプロセスなのだ。だからホラーとかサスペンス映画の方が要注意だ。

と、長々と前置きを書いたけれど、この映画が「怖くない」ということ自体に、大いに問題がある。

派手な撃ち合いシーンを見ていて、私は、

「ああ、こんなものを大量に見ているから、アメリカが今でも銃社会なのは無理ないなあ」

とか

「このシーンに一種のカタルシスを覚えたり、あるいは、自分も死ぬと分かっていても一人でも多くの奴を道連れにしてやる、と言う覚悟に潔さを覚えたりする人がたくさんいるとすると、ISのビデオやテロリストの行為に鼓舞される若者が出てきてもおかしくないなあ」

と思ったのだ。

この映画が製作された時代はアメリカがベトナム戦争の泥沼に陥った時代だ。
映画の舞台は1913年で、メキシコの軍事政権に人民のゲリラが戦いを挑んでいた時代だ。

でも、テキサスの司法官が、強盗団(ワイルドバンチ)のリーダーであるパイクをひと月以内に殺すことを条件に犯罪者を釈放することが別の伏線になっているように、内乱中のメキシコだけでなくアメリカもけっこうな「無法」ぶりだ。
つまり、「暴力」がまだ法的な装置として確立されていないような社会では、「人権」など言葉でしかなく、女たちが聖人の名を唱える「連祷」の「偽善」と何ら変わるところはないのだ。

今はこの映画から半世紀近く経とうとしている。
この映画の舞台となった時代からは丸一世紀以上経過している。

アメリカの銃社会は変わっていない。
少しでも性能のいい武器を少しでも多く手に入れようと世界中の国が虎視眈々としているのも変わらない。
非戦闘員を巻き込むリスクのある空爆なども毎日のようにニュースになる。

この映画のヴァイオレンス・シーンを見てすっきりした、とか、男の哀愁とかかっこよさとか滅びる者の美学とかを感じるのと同じ感覚で、今、ISによる軍事訓練やテロやリンチのビデオをウェブで見て「自分も死を覚悟で聖戦に発たなくては」と鼓舞され、「Let’s go.」「Why not ?」(ワイルドバンチで最後に4人が死地に向かう時の言葉)と答えて武装する若者たちが確実にいる。

「カタルシスを与えるような戦争映画を作るのは犯罪だ」という日本の映画監督の言葉を読んだけれど

それにも通じるだろう。

日本ではまだ実感がわかないけれど、ISの人集め戦略を見ていると本当に怖い。

シンボリックなのは、この映画の中で主人公のパイクが最後は背後から子供に撃たれることだ。

パキスタンで、シリアで、フランス国内の過激派モスクの中で、子供たちは「兵士」として教育される。
いや、暴力が支配する環境にいるだけで、子供たちは普通に暴力的で普通に残酷で、「殺す存在」になる様子が、この映画のそこかしこに挿入されている。

ヴァイオレンスをジャンルとして確立した映画の古典『ワイルドバンチ』。

今の時代に視聴されてこそ、いろいろなことを考えさせてくれる。
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by mariastella | 2016-08-25 00:45 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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