L'art de croire             竹下節子ブログ

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帰りの機内で観た映画3本

日本からフランスに帰る時の機内で映画を3本観たが、日本映画もフランス映画も見なかった。

日本映画と中国映画で見始めたものもあるのだけれどどちらも途中で退屈してやめてしまった。

で、見終えたのはアメリカ映画とイタリア映画に韓国映画という珍しい組み合わせになった


アメリカ映画は『007スペクター』

007のシリーズを映画館に見に行くことがなくなってからずいぶんになる。でもこの最新作は予告編でメキシコの「死者の日」の様子を何度も見せられたので興味をそそられていた。
またいわゆるボンド・ガールがレア・セドゥというフランス女優だし、モニカ・ベルッチも、イタリア人だけれどフランス人と結婚してパリに暮らしていたし、フランス語でフランス映画の女優としても人気だった人だから、この映画が公開された時にはフランスで、2人が何度もテレビでインタビューを受けていた。

モニカ・ベルッチは50代で最年長のボンド・ガールとかで、レア・セドゥの方は、ボンドが本気で恋をしたという設定になっていると話題になっていた。

ダニエル・クレイグによるボンドの最終作とかいう話だった。

クレイグは歴代のボンド俳優と比べて何となく地味で内向きというか禁欲的な風情もあったけれど、この純愛風結末にはぴったりだ。

007シリーズは小説も映画も最初がちょうど私の中学生時代と重なっていたので、冷戦時代や英国のスパイものという独特の世界がある種のインパクトを持って刷り込まれた懐かしいもので、その後も、エンターテインメントとしてよくできた映画だと割り切って結構観に行っていた。
でも近頃は、「無用なヴァイオレンス・シーンを目に入れない」という方針に従ってスルーしていたのだ。

レア・セドゥがかわいいし、ベン・ウィショーのような共演者もいい感じで、話の展開のご都合主義や予定調和もあまり気にならなかった。ヴァイオレンスやサスペンスも機内の個人スクリーンで囲って観る限りはそんなにトラウマにならない。

イタリア映画はリッカルド・ミラーニの『これが私の人生設計』

やはりイタリア映画が今の私に一番近い生活感覚だ。
公営住宅の若者たちやゲイのカップルや、男性と伍して活躍するキャリア女性とか、なじみのあるものばかりだ。急に押しかけてくる母親や伯母さんのキャラがいかにもイタリア的だけれど。
ライト・コメディだが、結末がどうなるか気になって最後までちゃんと見てしまったしそれなりに幸せな気分にもなれた。主人公の男女の感じもいい。

韓国映画はガン・ヒョジンの『Wonderful Nightmare』

これもコメディなのだけれど、そして、やり手弁護士の女性が交通事故で生死の境にいるが、夫と二人の子供を持つ「おばさん」として一ヵ月生きれば蘇生させてもらえることになるという荒唐無稽でカルカチュラルな話なのだけれど、中身がつまっていてよくできている。

ヒロインのオム・ジョンファは好みだし、夫役のソン・スンホンが、なんだか滑稽なくらい妻ひと筋なのもそれなりに説得力があってじんときて、中学生の娘役も個性的でインパクトがある。

細かいエピソードがぎっしり詰まっていて中身が濃いので、その不思議な「一ヵ月」に見ている方も同調して最後はどうなるのかはらはらするし、涙も出てくる。

結論が、「女性はやっぱり家庭をもった方が幸せ(夫と子供から愛されているのが条件だけど)」というところに落ち着くのは安易な気もするけれど。
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by mariastella | 2016-05-12 02:51 | 映画

『母と暮らせば』

日本に向かう機内で山田洋次監督の『母と暮らせば』を観た。

去年が隠れキリシタンの信徒発見150周年だったし、毎年暮れの「ゆく年くる年」のミサの様子などで長崎というとカトリックという刷り込みが日本人のマジョリティにあるのかなあと思わされる作りだったのに驚いた。

フランスのドキュメント番組で、長崎の大司教が長崎のカトリックにはずっと邪宗門として迫害されたトラウマがあって云々と答えていたのを聞いて、そんなことないよな、長崎の人ってほんとにそんなこと考えているのかなあと思ったことを思い出した。

映画では、亡くなった家族にいわゆる陰膳を供えるような普通の日本人家庭の仏壇の代わりにキリスト教の祭壇があるという感じだった。

祭壇の前でイエズス・マリア・ヨゼフと唱えるとか必ず「アーメン」で終わるとかいうことの他に、キリスト教っぽいのはヒロインが「父よ、私の魂を御手に委ねます」という部分で、信徒の苦しみは十字架の上で死んだイエスの苦しみに重ねられて、「父」のみ旨に従うというところだ。

それでも息子の幽霊が「運命だ、諦める」と言うと、母は「運命じゃない、地震や津波は運命だけど戦争は人間が始めたんだから」と抗議する。反戦映画になっている。

3・11の震災の後で日本の少女がローマ法王に、神様がいるならどうして自分たちはこういう目に会わなければならないかと手紙を書いたことは有名だ。

ある意味で、分かりやすい個人的な因果応報の「罪の報い」とはならない災厄を前にした時に人は運命論で諦めようとすることがある。
それに対抗するためにキリスト教の神は独り子を捧げたわけだ。

けれども、災厄の後で発せられる「なぜ私が」、とか「なぜ私じゃなくあの人が」という問いは永遠に残る。

興味深いと思ったのは、幽霊がなぜ3年も出てこれなかったのかという説明に、突然の死を実感できなかったからといことの他に、母親が息子の死を信じていなかったからだという部分だ。

生者と死者の双方がアンテナを立てないと彼岸とのコネクションが成立しないという説と合致している。

幽霊が泣いたりして動揺すると消えてしまうというのも、相手に向けてのアンテナがなくなるからだ。

他に気になることもある。

70年前のカトリック世界で、「終油の秘跡」を受けずに多くの信者が死んだことは、「それでは天国に行けない」というトラウマにならなかったのだろうか。長崎のカトリック教会はどういうケアをしたのだろうか。

フランスでは、第一次世界大戦の時に行方不明を含む大量の戦死者が出た時に、従軍司祭の役割も含めていろいろなことが変わった。政教分離法成立の後だったが、戦死者はそのまま「聖人」扱いされて、教会のステンドグラスも飾った。

こういうのとかこういうの

イエスと子供たちの画像のステンドグラスを戦死した息子の顔とともに教会に寄付した父親もいた。

こういう風に共同体ぐるみで喪と癒しのプロセスを実現するには、やはり「宗教的な場所」が必要だったのだろう。

その意味で、『母と暮らせば』の映画で、関係者の多くが「信者」だったり、最後の教会での葬儀に皆が集まって母子が天に帰っていくのが結末だったりするのはなるほどと思うけれど、広島は? 

広島でも、原爆で焼失したカテドラルが、戦後、世界平和記念聖堂として再建されている。被爆したドイツ人司祭は日本に帰化したそうだ。

平和を希求する精神から逸脱しない限り、ユニヴァーサル系宗教施設の果たせる役割は小さくない。
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by mariastella | 2016-04-13 15:55 | 映画

『A perdre la raison』(ヨアキム・ラフォス監督映画)

ニルス・アレストリュプとタアール・アイムという絶妙の疑似父子というか子弟タイプのカップルに、『ロゼッタ』のエミリー・ドゥケンヌが三つ巴で演じる実在の事件を基にした映画。

配役に惹かれてTVで何となく見始めたらやめられなくなった。

ほとんど心理戦だけなのに、ある意味で、ものすごく怖い。

エミリー・ドゥケンヌも、なんだかロゼッタのやりきれなさと二重写しになる。不幸過ぎ。ベルギーの社会派映画ってやりきれなくなるものがある。

スカルラッティが流れているのも暗示的だ。

ニルスの演じる「父」アンドレは、裕福な開業医で、職住接近、充実した暮らし、モロッコのある家族を助けるためにそこの娘と偽装結婚し、息子の一人をベルギーに引き取って育てた。
その息子ムニールは明るい青年になったけれど、勉強は今一つ。
でも長く付き合っている女性ミュリエルと結婚を決意する。
独立して居を構える資金はない。

アンドレは、自分の医院の受付助手の職をアンドレに提供、新婚旅行もプレゼント(二人はアンドレも同行する条件でその好意を受ける)し、自宅に彼らを同居させる。

ミュリエルは金髪の白人だが、いわゆる「アラブ系」のムニールとの結婚に文化的障害を感じていない。

若くて幸せそうなカップル。
ミュリエルには小学校のフランス語教師というちゃんとした職もある。

ところが、彼女は次々と三人の娘を出産することになる。

その娘たちの世話にもアンドレは協力的だ。

しかし、この、子供が増えていく、という「幸せ」なことがだんだんとミュリエルの軛となっていく。

しかも女の子ばかり。

誰も何も言わないが、彼女が4人目を妊娠した時にアンドレが

「今度は男の子を生むようにするんだな」

とひとこというのがずしんと響いて、冷ややかな何かが心に刺さる。

4人目は待望の男の子で、ムニールが「これは僕の息子」と嬉しそうに抱き上げるのも、なんだか彼の出身のムスリム家庭の差別意識を彷彿とさせる。

一つ一つはこれというインパクトはない。

しかし、子供が増えれば増えるほどアンドレに依存していくような状況がミュリエルに耐えがたくなることが分かる。

4人目は中絶するかどうか迷ったほど精神状態が悪くなる。

広い家、自分たちの家に引っ越したい。

ミュリエルの危機を見てとったアンドレは主治医として精神科医(心理療法士?)に紹介状を書き、ミュリエルは休職して休養し、カウンセラーを受ける。

彼女の希望通り庭のある広い快適な家も買う。
しかも、若夫婦の名義で。

その資金は、アンドレがそこの同居人としての15年分の家賃を前払いするという形でつじつまを合わせる。

けれども、物質的な条件が整えば整うほど、ミュリエルの心は壊れていく。

この「転落」の恐ろしさには、ゾラの『居酒屋』を連想してしまった。

人の心が崩壊するのには、戦争や暴力や貧困や不治の病が必要だというわけではない。

平和な国に住み、快適な住居があり、安定した仕事があり、愛し合う夫がいて子宝にも恵まれる。

それを提供してくれるゴッドファーザー的な男は、親切で穏やかで、その富も人を騙したり搾取したりして築いたものではない。医師という人助けの仕事をして得たものだ。

モロッコにいるムニールの家族とも親しく付き合っている。

そのすべてが裏目に出る。

心に抱えた不全感、疚しさなどが自己不信を招く。

でも、快適な暮らしを捨てられない。

画面で血が一滴も流れなくても、ホラーのようなシーンがある。

うーん、人は、足らないものがあり、不満があり、敗北感や被害感情を持つ時に、「不幸の原因」を、親だの社会だの、時代だの、共同体だの、運命だの、前世だの、悪魔だの、何でもいいから「自分以外のもの」に押し付けて「悪」を「外化」し、恨み、罵倒し、否定し、捨て去ることで立ち直るようにできているのかもしれない。

それができない時、、意志が委縮し、心が壊れ、そして、最期に、理性を失う。

ミュリエルは4人の子を下の子から順番に次々と切り殺す。

自分も死のうとするが死にきれない。

実際の事件では子供は5人だったそうだ。
母親は終身刑となり今も服役している。

映画の冒頭に、病院のベッドの上で「子供たちをモロッコに埋葬してくれ」と息も絶え絶えにムニールに頼むミュリエルの姿が映し出されている。
モロッコでムニールの家族たちと過ごしたバカンスの思い出は、途上国の庶民の生命力や逞しさの記憶として刻まれたのだろう。

病室を出たムニールは部屋の外にいるアンドレと抱き合う。

この「親子」、その後また結構仲良く人生をリセットしてやっていくんではないだろうか。

モデルになった医師は映画化に抗議したそうだ。

よく考えると、最初からいびつなところはある。

アンドレが独身のまま人道的な偽装結婚をしたり養子をとったりすること自体がある種の「権力の行使」とも考えられる。

あらゆる点で「優位にある者」から一方的に与えられる「いつくしみ」は、一つ間違えれば単純な悪意よりも人を傷つけることがある。

そして、定職を持つ女性が「子供を次々と生む」ことの実存的プレッシャーの深刻さ。

名優たちの鬼気迫る名演によってできた名作の残す、この後味の悪さ。

このタイプの「不幸」に普遍性があることによって認めざるを得ない人間の業の深さ。

無傷では出てこれない映画だった。
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by mariastella | 2016-03-08 00:20 | 映画

河瀬直美監督の「あん」

河瀬直美監督の「あん」を見た。

フランスにはあずき餡の好きな人も多いのでこちらのタイトルは『東京の美味Les Délices de Tokyo』となっていて、餡ってこうやって作るんだーという文化体験に惹かれた人も多い。

興味深かったけれどなぜか満足感は得られなかった。

世代も世界も異なる孤独な3人が心を通わせるというきちんと作りこみやすいストーリーの上に、

カメラワークが美しく、
エコロジー風味、グルメ風味、小津風味、そして生きづらさに対処する人生観、
孤独な3人に共通するのは母親との別れや母親との齟齬、

これだけ普遍的なあれこれがあって、樹木希林などみな演技もすばらしいし、禁欲的な主人公が感極まって涙するというシーンさえあるのに、この涙もろい私がまったく心を動かされなかったのは不可解なくらいだ。

ほころびかなさすぎるというのも一つだろう。

淡々としているように見えて実は言葉が多すぎる。

それでいて、何かが内部から崩壊するとか内部で爆発するとかいうような粘力がない。

河瀬監督の得意なカンヌ映画祭向きの材料は全部そろっていて、フランスでもそれを期待する人々にはきっちり評価されたけれど、期待されるすばらしさ以上のもの、あるいはそれ以外のもの(破綻を含めて)が見えてこないことで、この映画と醒めた関係しか築けなかった人たちもいる。

私もその一人なのだろう。

単にハンセン氏病患者の前世紀までの日本での扱いの実態を知って驚いたフランス人もいた。

ハンセン氏病を含む皮膚病は外見を損ねることも多いらから古今東西、患者は病気だけではなく社会的な犠牲者でもあった。伝染性であるものもそうでないものも、皮膚疾患というのは隠すのに限界があるし、日常生活で人と人の接触は主として「手」を介して行われるから、「手」の外見の異常は人に忌避感を起こさせやすいし、「伝染する」という恐れを抱かせる。

キリスト教ではナザレのイエスの頃から、このハンセン氏病系の皮膚病で社会から差別されている人への積極的な支援があった。

安土桃山時代に日本に来た宣教師たちは日本では彼らへの福祉がないことを知り、だからこそ、自由に活動できる部分だったので、各地で彼らを世話し始めカトリック大名の支援を受けて病院までつくった。キリスト教のことはあやしむ為政者たちも、その活動に驚いて、リスペクトのコメントを記している。実際ハンセン氏病の人たちの多くがカトリックの洗礼を受けて、高山右近と共にルソンに追放された人たちもいる。

高山右近は最近殉教者として認められて列福が決まったのでいろいろ検索できる。

上意下達が基本の日本なので大名から改宗させるというのは宣教者の戦略ではあったけれど、ハンセン氏病患者を改宗させるというのは「戦略」外のことで、ましてや貿易上、外交上の利点があるわけではないので、純粋にキリスト教基本マニュアルに従ったものだったと考えられる。

キリスト教もヨーロッパで王権と結びついて政治や利権の道具となってきたことはお約束の展開だったが、特に独身(つまり子孫に利権や財を残すという誘惑のない)の修道士や司祭からなる修道会の活動の中では、「社会的弱者の無条件救済」という脊髄反射が温存されていたのだ。

そしてそれが凡人の共同体にとってあるいは為政者にとっていかに「不都合」であっても、福音書のメッセージの根幹であることは否定できないので少なくとも大声で公に批判されることはなかった。

この伝統は今も、基本的にすべての難民を受け入れろ、と言い、障碍者を本気で抱きしめるフランシスコ教皇の姿に受け継がれている。

難民歓迎と言うメルケル首相を批判することはできても、フランシスコ教皇の行為をスタンド・プレーだと言うのはナザレのイエスの行動を批判するのに通じるので脱キリスト教化が進む欧米でさえ抑止力が働くのだ。

まあその観点からいうと、『あん』の最後に、徳江さんが、料理のための道具を主人公に遺したこと、それを基に主人公が人生をリセットして笑みを取り戻すラストシーンは、「犠牲によって他を生かす」というキリスト教テーマに着地しているのかもしれない。

この世で自分のなりたいものになれなかったり人の役に立てなかったりしても、いろいろな形での「寄り添い」が、いつかどこかで何かの形で誰かを生かすことにつながるのだ、という示唆がある。

簡単に感動させられてカタルシスをもらえる映画でならあまり考えなくてもすむことを考えさせられたという意味では、この映画に感謝する。
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by mariastella | 2016-02-24 20:55 | 映画

『ニューヨーク眺めのいい部屋売ります』その他

年末年始に日仏を往復した機内でみた映画の続き。

『ニューヨーク眺めのいい部屋売ります』

近頃多い熟年俳優が主人公の映画。だから世代的にもシチュエーション的にも共感できる。
モーガン・フリーマンとダイアン・キートンという組み合わせだからうまい。

どちらも私よりは少し上の世代だけれど、原作の小説ではこの2人はもっと年とっている設定のようだ。
私の周りにも、年とったので階段のない家に引っ越したいとか病院の近くにとか子供たちの近くにとか、住み慣れた家を売りに出す人たちがいるし、それでもうまく買い手がつかなくて、思い直してそのまま何となく住んでいるケースもあればついに動けなくなって施設に入った人もいるので、なんだかリアルだし、身につまされる。

病院も遠くない都市や都市近郊の二世帯住宅に住んで子供や孫世代との関係も良好という人以外はいつか突きつけられる問題だ。

白人教師と黒人アーティストという一見対照的なカップルの生き方も、愛犬が「かすがい」になっているのもなんだか親近感がわく。

変な話だけれど、一番私のツボにはまったのは、愛犬の治療に金をかけるかどうかということで、獣医の電話を妻とかわった夫が、成功するかどうか分からない治療はしなくていい、と獣医に言い渡すのかと思ったら、「できることはすべてお願いします」と言ったシーンで、これは、完全に、妻への愛の告白だなあと分かる。
この一点で、この夫婦の愛情の堅固さが確認できる。
妻は彼がこういうことをどこかでは分かっていたと思うけれどやはり一瞬は心配した。
その心理もよく分かる。
愛の告白は時々上書きしないといけない。

話は愛犬の容態に加えてニューヨークらしいテロ事件のせいで売買に影響が出るかどうかというところも、昨秋からパリのテロのせいで不動産事情が動いていることもあってリアルだ。

自分たちも決して裕福ではないのに弱者に向ける視線もやさしい。ほっとする。

バレエがテーマで興味があったけれどホラーは避けているので見ていなかった『ブラック・スワン』も見た。

なんかマンガチックなストーリーだ。要するに母と娘の葛藤モノなのだ。バレエそのものはそれほど見ごたえがない。

ホラーを避けている、と言えば、日本で、NHK出版新書の戸田山和久著『恐怖の哲学-ホラーで人間を読む』というのを買った。すごくおもしろそう。

いろいろな理由で見ていなかった2005年の『ブロークバック・マウンテン』も見た。
もう10年も経っていたのだ。
ヒース・レジャー、ジェイク・ジレンホール、アン・ハサウェイ、ミシェル・ウィリアムズという4人の存在感が半端ではない。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』のアン・リー監督と言うのもあらためてすごいなあと思う。

私の中でどこかゲイ・カウボーイ・ムービーという先入観があったのだけれど、女性たちの思いや家族の関係、親子や義理の親子、裏切りや離婚も含めて超・普遍的なテーマが満載で、すごくよくできている。

20年にわたる大河ドラマかと思うと原作が短編小説というのにも驚きだ。

だから凝縮して強度があるのかもしれない。

主人公の2人が20歳から40歳までなのだけれど、俳優2人は撮影当時20代の若さだった。

亡くなったヒース・レジャーは最初から何か老成した感じだし、ジレンホールの方は最初から最後まで青年みたいで、ふたりの間では時がとまっている。

このアメリカ中西部が主舞台出1963年から1983年の20年という時代と場所は私とかけ離れているのである意味想像もつかないけれど、だからこそ、人が人生の選択をする時の責任や失敗や後悔や卑怯さなどの普遍性が胸に迫って苦しいくらいだ。

人生の岐路では選択だけではなくて遂行の意志を絶えず更新するのが大切なのかもしれない。
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by mariastella | 2016-02-03 23:53 | 映画

『ディーパンの闘い』

年末に日本に行った時に機内で見た映画いくつか。

機内では、映画館では見ない映画を観ることにしている。

ヴァイオレンス、ホラーなど悪夢の原因になる映画は普段極力見ないようにしているのだけれど、機内なら画面が小さいし、あれこれで中断するのであまり集中しないからトラウマが少ないと思うからだ。

その一つが、去年のカンヌで賞をとったジャック・オディアールの『ディーパンの闘い』。

映画館の座席に座っていたら、その深刻さに後悔したと思う。

そもそもフランス映画は私にとって全体的にリアルで身につまされる。
言葉を共有していることも大きいが、住んでいる場所、時代が重なる映画は特にそうだ。

今のヨーロッパの難民問題はもちろんだけれど、移民の子弟のゲットー化している一部の大都市郊外の団地における恒常的な暴力や犯罪など、すぐ身近にある問題だ。

ディーパンはスリランカからの移民だけど、スリランカ移民は昔から日本レストランでした働きしている人も多かった。
前にうちに来ていたフィリピン人のメイドさんは、メトロでスリランカ人に声をかけられては、一緒に住もうと言われていた。スリランカのネットワークは強いのか、住むところや働くところが一応ある人が多いらしく、彼らは特に不法滞在のフィリピン女性をターゲットにして同棲を持ちかけるそうで、そういうカップルが少なくないのだと言っていた。

ディーパンは、内戦下のスリランカからフランスに逃げるために知らない女性と少女と疑似家族を作った。
本当の妻子は戦争で失っている。
「家族」の難民受け入れがしやすいのは今も同じだ。ローマ法王が各教区に一家族を受け入れよと言ったことは記憶に新しいけれど、その「家族」が本物の家族かどうかなんてわからないなあ、とこの映画を観ると不信の念が湧いてしまう。

ディーパンは団地の管理人の職を得るが、周りはドラッグと暴力の世界だ。
それでも黙々と、難民なのだからとにかく面倒に巻き込まれないように仕事をこなす。無感動のように見える。

家族として同居する相手の女性と少女も、それぞれ戦争のトラウマを抱えていて、せっかく逃げてきたフランスで同じようなヴァイオレンスが繰り広げられるのにパニックを起こしている。女性は親戚のいるロンドン行きを目指している。

心が壊れた3人がばらばらにサヴァイヴァルを図っているわけだ。

その中で、いろいろな人間的な感情も生まれるのだが、最期についにマフィアの暴力に巻き込まれた時にディーパンが「切れ」て、修羅場をくぐった元兵士の力が爆発する。

じっと耐えていた男が最後に悪をばったばったとやっつけるという意味では、カタルシスがあって、壮絶な闘争シーンも気分よく見ることができるのは、安易と言えば安易な筋運びだけれど後味は悪くない。

こんな暴力炸裂の結末なのにそれなりに爽快感があっておもしろい、というのは、ロベール・アンリコの1975年の映画『追想』(Le vieux fusil)でフィリップ・ノワレが一人でナチスの兵隊を皆殺しにするシーンに通じる。

『追想』は温厚な普通の医者が突然復讐鬼になるわけで、自分のテリトリーにナチスが侵入して妻子を蹂躙したものだ。ディーパンのは元兵士といういわば殺戮のプロでもあり、外国人の身でよその国に何とか居場所を見つけようとしているのだから立場は逆だ。

『追想』の復讐は空しく、殺人連鎖であり、主人公を突き動かすのが妻子との幸せな思い出ばかり。
ディーパンは妻子との思い出などは封印して、人間性も封印していたのに、自己防衛の暴力をすごい強度で発散した後で「人間性」が戻って来る。

非暴力的に見えていたヒーローが実はすごく勇敢で悪に立ち向かう、あるいは冷たくて利己的に見えていたヒーローが突然弱い者を守るために立ち上がる、という形のストーリー自体はアメリカ映画にもいくらでもある。

でもディーパンを見て、やはりフランス映画の『追想』を連想してしまったのはなぜだろう。

ディーパンも『追想』の主人公も「ヒーロー」ではないからかもしれない。

時代の病、戦争における「正義の行使」の意味と葛藤、ヒーローがどこかアンチヒーローでしかいられない不条理感などが、ハリウッド映画では描かれていないからかもしれない。

ベースにある戦争、難民、ゲットーなどの深刻さ、やりきれない日常、そこに突然繰り広げられるアクションの完成度の対比が印象的なのだ。

ディーパン役が、実際にスリランカからフランスに亡命した作家のアントニーターサ ン・ジェスターサンという人なのだが、あまりにも、うまい。

他の映画のことはまた後で。
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by mariastella | 2016-01-31 23:51 | 映画

『アムール、愛の法廷』クリスチャン・ヴァンサン監督ファブリス・ルキーニ主演『L’Hermine』

この監督と俳優の組み合わせは1990年の『discrète 』以来だそうだ。

ルキーニは名優なのにあまり賞に縁がなくて、ヴェネツィア国際映画祭の「金獅子賞」を獲得した今度の作品で最優秀男優賞を獲得して感激していた。

ルキーニは、前にも書いたことがあるように、私の好みのタイプではないが好みの俳優である。

この映画は彼にぴったりで、地方裁判所の裁判長として小さな世界ではトップの位置にあり、愛がないが金のある妻からうちを追い出されて一人暮らしをしている。「二ケタの判事(彼にかかる被告はみな懲役10年以上の重い判決を受けている)」との異名がある、60がらみのベテラン、厳格で、融通の利かない、人間味のない法律機械のようなプロとして恐れられたりけむたがられたりしている。

その日の裁判長はインフルエンザにかかって最不調でいよいよ不機嫌でいらいらしていた。

被告は27歳の男で七ヶ月の実子を足で蹴って脳挫傷で殺した疑い。

法廷で陪審員(裁判員)が選ばれる。

その中に、彼が6年前に腰だかの手術をして7週間入院していた時の麻酔医であったデンマーク人女性がいた。

彼はこの女医に恋をしたことがある。

彼女は手術後の病棟で一つ一つのベッドを見回り、患者の額に手を当て、手を取り、脈をとったりさすったりして血圧や脈拍の数字を確認していく。
彼女が近づくと彼は目を閉じて寝ているふりをしながら、彼女に触れられることで舞い上がっていたのだ。

裁判長という職業、家庭でのお客様扱い、(服を取りに一度戻るシーンでは歓迎してくれるのは愛犬だけで、メイドたちからも邪魔者扱いされている)、彼を生身の弱い人間として扱ってくれる人などいない。

でも、人は、入院して手術してリハビリするという状況になると、突然社会的役割や家庭での立ち位置などと関係なく、無防備な子供のように扱われる。

弱い立場になり、仕事からも肩書から家庭からも切り離されて「無名」の一患者となった彼の前に、実生活では絶対にないことが起こる。
女性がやってきて寝たきりの彼を見下ろし、身体を近づけ、そっと手を取って注意を集中してくれるのだ。

彼はラブレターを出し、返事をもらえず、その後手術を担当した外科医夫妻と彼女を一緒にレストランに招待する。そして「すごく会いたかった」とSMSを送るのだけれど「とてもおいしい食事で、楽しかった」とだけ返される。

あえなく失恋。

ところがその彼女が突然、彼が王のごとく君臨する「法廷」という小宇宙に「陪審員」として闖入したのだ。

彼女の存在が彼を変える。

愛を知ったものだけが弱者へのいつくしみも知るのだ。

で、いろいろあるのだが、被告は無罪となる。

「法廷とは真実を解明することが目的の場所ではない、人々に法をどのように守らねばならないのかを示すことが目的だ」

と彼は裁判員たちに告げた。

その裁判長の「変身」が彼女の心をも動かすことになる。

裁判員一人一人の個性や多様性が巧みに描写され、被告や被告の妻、証人たちもリアルで人間的だ。

私は個人的にもフランスの法廷や病院の関係者が身近にいることもあって、法廷シーン、病院シーンもおもしろかった。ヒロインと高校生の娘との会話にも親近感があるし、舞台となるピカルディのサントメールという町もよく知っている。

陪審員を経験した人は一人しか知らないけれど、日本で裁判員制度が導入される時にフランスの陪審制度について『新潮45』だかに記事を書いた時に詳しく調べたので、そのシステムはよく知っている。

そういう事情が重なって、すごく興味をもって見た映画だ。
フランスの法廷も病院も女子高生も北の町も知らない人が見たらどの程度面白いのか分からない。

映画のラブストーリーとかラブコメディは、暴力や残酷やホラーよりはましだけれど、私にとってあまりすすんでみる気がしないジャンルだ。

でもルキーニは私と同世代だし、まあ熟年の恋みたいなおとなしいテーマなのでわりとおもしろかった。

ルキーニの饒舌とフレンチ・エレガンス的抑制とのミスマッチが刺激的ですらある。
デンマークの女優Sidse Babett Knudsen(シセ・バベット・ クヌッセン) もナチュラルですてきだ。

主人公の二人と彼女の娘の女子高校生が同席するシーンがあるのだけれど、娘よりも大人の二人の方が高校生みたいにかわいいのだ。
娘の前で大人としてふるまおうとすればするほど、逆にまるで親の目を盗んでデートしている高校生、いや中学生みたいになる。

強面の裁判官とか職業意識の高い麻酔医とかは関係ない。

それがすごくリアルなのだけれど、若い人には伝わるのだろうか。

後からじわじわと幸福感が伝わってくる映画だった。
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by mariastella | 2015-12-08 04:11 | 映画

ヤン・アルテュス=ベルトランの『Human』

9月半ばに公開されたヤン・アルテュス=ベルトランの『Human』ほど鳴り物入りだったのに期待外れだった映画も珍しい。

とにかく多くの人に見てもらうために、ということで、国連や映画館の上映の他にTVでも放映されインターネットでも無料で見ることができるという画期的な公開のされ方で話題になった。

『HOME』と同様の美しい航空写真の合間に世界中で63ヶ国語、2020人にインタビューしたという断片が出てくる。

みなクローズアップ。

パレスティナやイスラエルの人、アフガニスタンの兵士、コロンビアの子供たち、フランスの年金生活者など雑多で、「あなたにとって幸福とは?」などの質問に時おりはっとするような答えを聞ける。

いろんな人がいるなあ、という感慨、個々のケースでの悲憤や感動、はあるのだが、いや、あればあるほど、3時間以上の長上場が重く、耐えられなくなる。

こんなにユニークでアィデアと野心がある大作がここまでつまらないというのは驚きで、こちらの感受性に問題があるのかもしれないと心配になるくらいだ。

今ではウェブで多くの良質で珍しい画像が出回っていて、多くの人にシェアされながら回って来るので、この手の情報に対してなんだかすっかり「すれて」しまった。

昔ならナショナル・ジオグラフィック誌でも買わなければ見られなかったような素晴らしい写真、珍しい写真が、音楽付きで出回っているし感嘆して何度も見たものもある。

アルテュス=ベルトランの編集というものが大きなメッセージ性を担っているはずなのだけれど、ばらばらで「うねり」にならない。

地球の自然と文化の多様性、人間の愛や悲しみの普遍性、平和の大切さと決意、みたいなものをねらっているのは分かり過ぎるほど分かるのに、その分かりやすさが安易さになってぺったりと動かない。

だからコメントのしようがなくて今まで書かなかったのだけれど、これは「モノをつくる側」にとってメッセージを伝えることの意味と方法についてじっくり考えるヒントを与えてくれると近頃思うようになったので、ひとまず覚書として残しておこう。
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by mariastella | 2015-11-11 01:27 | 映画

『ガープの世界』

先日、arteでロビン・ウィリアムスのドキュメンタリー番組があって、その前にジョージ・ロイ・ヒル監督の『ガープの世界』(1982)が放映された。この映画を観ていないことに気がついた。

昨日の記事で触れたように「時代が変わると家族の形も変わる」ということがこれを見ているとつくづくわかる。

ガープやジェーンがタイプライターで小説を書いているのを見るだけで、PCならいろんなことが変わっただろうなあと思うし、浮気にまつわるカタストロフィーも、携帯、SMSなどがあれば変わっていただろうなあと思う。
今はチャイルド・シートが義務だからこういう事故は防げただろうし。
ジェーンのウーマン・リブも、今となっては、シングルマザーもワーキングマザーも、ただ仕事に専念するシングルの女性もいくらでもいるから、隔世の感がある。

ノスタルジーをそそられるアメリカン・ストーリーで、アングロサクソ・アメリカの自由さとプロテスタントの罪悪感とのずれも面白い。

それでも、今もまったく変わっていない問題も実はたくさんある。

カップルを介さずに子供を産むかどうかの選択や、レイプの問題、群衆がいるところで銃に狙撃されるリスク、性同一性障害の生き難さなどがそうだ。

ジェニーが「欲望が男を卑しくする」と言っているのも基本的には変わらない。

しかしこの時31歳くらいだったロビン・ウィリアムスだが、あまりにもロビン・ウィリアムスであって、「ガープ」という登場人物には見えないので困った。

特に高校生の頃の役など、老けすぎていて現実感がなく、違和感を感じっぱなしだった。

最後も33歳という年齢のようだが、やはり老けている。

ロビン・ウィリアムスが老けているのかもしれないけれど、それとも今の私の周りの30代初めの男の子たちがずっと若いからだろうか。

これも時代のせいだろうか。

アーヴィングはこの原作を、33歳で2人の子の父親である時に書いたと言う。その後で年の離れた3番目の子が生まれているし、「子供を失う恐怖」がテーマの一つと自分で言っているのも、ふーん、この人ってガープのような感じの人なんだったんだろうなあ、と思う。

ガープの奥さんのヘレン役の女優メアリー・べス・ハートがすごく可愛い。

こんな人があっさり学生と浮気するのだから、「欲望に卑しい」のは女性でも同じなのかもしれない。

でも、浮気などが全部結果的に「罰せられる」感じになるのはやはり「罪と罰」的なプロテスタント文化の影響なのかなあと思う。

一貫して強いジェーンはグレン・クローズにぴったりの訳で、すてきだけれど、ジェーンの周りに集まるようないわゆる「フェミナチ」と呼ばれるような過激な女たちとちがって、こういう「ほんもの」のフェミニストはある種の男の怒りをかって結局殺されるのだからやりきれない。

映画の後のドキュメンタリーで見たロビン・ウィリアムスは私と同じ年の同じ月生まれで、去年自死したが、今世紀に入ってのアフガニスタンのアメリカ軍慰問の熱心さには驚いた。

それにしても、アルコールとドラッグと鬱のトライアングルって、一度はまると完全に逃れるのは至難の業のようだ。

欲望が卑しくする、どころではない、欲望に殺されてしまう。
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by mariastella | 2015-10-28 01:45 | 映画

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』と『オデッセイ』

見逃していた『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』をブルー・レイで観る機会があった。

不思議な映画だ。

3Dの特殊撮影の美しさが売り物なのだけど、大きくもないTV画面で観たのでキッチユな感じが目立ってあまり感動的、幻想的という感じがなかった。

興味深いと思ったのは、フランス語版で観ていたので、フランスらしさがよく伝わってきたところだ。

ヒーローの少年が生まれて育ったのがポンディシェリというインドの旧フランス植民地で、町もフランス風、学校でもフランス語を習い、脱出しての移民先もフランス語圏があるカナダだ。

船の意地悪な給食係りがフランスの名優ドゥパルデューのちょい役と言うのも面白い。

主人公のおじが世界中のプールで一番素敵なのがパリのピシーヌ・モリトールだと言ったことで主人公の名がピシーヌ・モリトールになる。

で、ピシーヌ(プール)なのだけれど、それが「小便をする」を連想させて学校でからかいの種にされる。その単語もフランス語と共通している。

で、最初のピだけとって、ギリシャ語のπ(パイ)だと呼ばれるようにするのだけれど、フランス語では円周率も「ピ」と発音されるし、映画のタイトルも『ピのオデッセイ』となっている。

この映画をうちの猫のスピノザ(スピヌー、スピンボーイ、スピなどの他にピーと言うだけでも反応する)を膝にのせて観ていた。

猫がピーで、主人公もピーで、映画の中のベンガル虎は狂暴だけれどうちの猫は喉を鳴らしている。

ユゴーが「猫を飼う喜びは猛獣を愛撫する歓び」と言ったように、画面の虎リチャード・パーカー(実在の漂流船の犠牲者の名)が歯をむき出して咆哮しているのを見ながらうちの猫を撫ぜまくっていると理由のない優越感を感じてしまう。

ピー少年が途中で寄った架空の島はセント・ヘレナ島に似たシルエットだ。

原作小説が『パイの物語』で、英語のタイトルが『ライフ・オブ・パイ』なのにフランス語でオデッセイという言葉が使われているのが、リドリー・スコット監督の『オデッセイ』を連想させる。

どちらもたった一人で過酷な自然の中に置き去りにされた主人公のサヴァイヴァル・ストーリーだ。

こういうサヴァイヴァル能力が極端に低い私にとっては想像するだけで悪夢の世界だけれど、火星で一人きりのマット・デイモンの環境は硬質で、パイ少年の環境は、虎、太平洋、人食い島、クジラ、無数のトビウオやミアキャットなど、極端に有機的なものだ。

しかも、パイ少年の話は、実は漂流のトラウマを抑圧するためのアレゴリーだったらしいと最後に分かって、なんだかおどろおどろしい話になっている。

パイ少年が「神さま」に運命を託すタイプの宗教的感受性の強い少年であるのとは対照的に、火星に置き去りにされた宇宙飛行士は、木の十字架を削って燃料にするなど(このシーンを冒涜的だとか、いやキリストが彼の命を救ったのだとかいう議論が戦わされたそうだ。スコット監督は、自分は不可知論者だと言っている)、冷静で実務的だ。

火星のシーンや宇宙船がすべて特殊撮影や造りものであることは当然で驚かないのに、『ライフ・オブ・パイ』に出てくる太平洋の大自然だとか嵐、実在の動物や魚がCG合成だと言って感心するのも面白い心理だ。

『オデッセイ』は大スクリーンで観たからそれなりに迫力があったし、先端科学的なディティールも興味深い。

『ライフ・オブ・パイ』は漂流するということ自体は現実的な話なのに何から何まで幻覚的で濃い。

『オデッセイ』にはヴァイオレンスがない。

『ライフ・オブ・パイ』には牙をむく虎のような分かりやすいヴァイオレンスと、少年の心の葛藤の凄まじさという隠れたヴァイオレンスがある。

同じ時期に違う形で観た対照的な映画だった。
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by mariastella | 2015-10-25 07:20 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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