L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 155 )

『君の名は』

先月日本から戻る機内で観たもう一つの日本映画はアニメの『君の名は』だった。

評判が高いのは聞いていたけれど、高校生のラブストーリーのようだったので、少しだけ見て退屈したら他の映画に変えようと思って一応見てみた。

映像の美しさに度肝を抜かれた。

ほとんど「おもてなし」映画みたいに美しく、テクノロジーと伝統、都会と地方が共存するクール・ジャパン。
フランスではまだ公開されていないけれど絶対フランス人に受けると思う。

こちらで仲間にネットで予告編の映像を見せたら息をのんでいた。

すごい。

美を昇華した芸術的な観光映画みたいだ。

飛騨の小さな村の神事やら、普通の女子高生が「巫女」となるシチュエーションやら見どころがいっぱいだ。

ストーリーの方は、はじめは、よくある「人格入れ替わり」ものかと思った。
それが若い男女の間で起こるというのが、新鮮なのか初々しいのか分からないけれど、まあおもしろい。
2人ともスマホをもって交信するというのは「今の子」ならではだし、男女の差だけではなく、都会と地方、マンションで父と2人暮らしの少年と、引き戸の日本家屋で祖母や妹も一緒に暮らす少女、と、シチュエーションが対照的で、目まぐるしく変わる「背景」の美しさが引き立つ。

そこで起こる失敗や友達の反応やらのエピソードは、まあ、コミックにはよくある展開なので、チープだしつっこみどころはいろいろあるものの、想定内という感じだ。

ところが、話は意外な方向に広がり、この「入れ替わり」が、実はヒロインが受け継ぐ伝統技術の組みひもと同じように、パラレル・ワールドが3年という時間のずれをもったまま絡みあっているものだと分かる。

少女の住む村は1200年ごとに彗星のかけらが落ちてクレーターをつくるのだとか、村の滅亡を救うために代々神職の「宮水」家の女性が、その「入れ替わり」能力を介して「協力してくれる男」を近未来で取り込むのだとかいうSFになってくる。

都会の夜、地方の村の夜、そして、そのどちらをも照らす銀河や彗星。
映像はますます美しくなる。

少年は自分に課せられた「使命」を発見できるのか、夢の中のように記憶が定かでない若い2人は村を救えるのか、というスリル、そしてそんな絶対不条理の状況の中でも生まれる2人の恋心は…、と結局、最後までしっかり試聴した。

けれども、ディティールを含めたすべての「背景」のほれぼれする美しさに比べて、当然とはいえアニメのキャラにしか見えない登場人物たちの、特に日常のシーンの貧弱さとのギャップが、魅力というより違和感として残ったのは不思議だ。

この映画のコメントをなかなか書く気にならなかったのは、その不思議さからくる一種のためらいのせいだった。それはまだ、消失は、していない。
[PR]
by mariastella | 2016-12-10 00:45 | 映画

ポランスキー『おとなのけんか(Carnage)』2011

私は時々、フランス人と日本人のメンタリティの方が、アメリカに比べると近いような気がすると書いてきた。時代が変わっても古くからの権威や文化が古層のように残っているのも宗教への関わり方も含めてそう思うことが多い。

でも、このロマン・ポランスキーの映画を見ると、この部分(つまり都会のプチブルジョワの本音と建て前)に関しては、アメリカとフランスがほぼ同じ感じで、日本はまったく違うとつくづく思った。

それを雄弁に語っているのがこの邦題のつけ方だ。

『おとなのけんか』......

あんまりだ。

もとはフランスのヤスミナ・レザの『Le Dieu du carnage(虐殺の神)』という戯曲が原作で、舞台をブルックリンに移してアメリカでもヒットしたらしい。(その戯曲の邦題も『おとなはかく戦えり』だそうだ)
時間、場所、筋の「三一致の法則」に乗っ取ったフランス戯曲らしい構成だ。

映画は、アメリカが舞台だが、ある夫婦の自宅ですべてが展開するので、パリで撮影されたという(ポランスキーはアメリカに入国すると逮捕されるリスクがある)。

11歳の少年がブルックリンの公園で同級生を棒で殴り、前歯の2本を折る怪我を負わせた。「被害者」の親であるロングストリート夫妻は、事の次第を書面にして確認するために「加害者」の親であるカウワン夫妻を自宅に招いた。カウワン夫妻は協力的で下手に出て、お互いに、同じレベルの生活、階層であることに納得しながら上品にことをすませるはずだった。

ロングストリート夫妻の妻はスーダンのダルフールについての著書がある作家ペネロピ(ジョディ・フォスターが相変わらずすばらしい)、夫が金物商を営むマイケル。

カウワン夫妻は、妻が投資コンサルタントのナンシー(ケイト・ウィンスレット)、夫が製薬会社の副作用スキャンダルをもみ消そうとしている弁護士アラン。

最初は「子供の喧嘩」の解決だったものが、弁護士がしょっちゅう携帯電話で話していて、それにみんながストレスを感じ、気分が悪くなったナンシーが吐いて美術書を汚してしまう。
それをきっかけに社交的な仮面が剥がれて険悪になり、言い争いの組み合わせも、夫妻対夫妻、夫同士対妻同士、夫と妻の取り替った状態など、感情のまま、特に日頃のうっ憤などでエスカレートする。

子供のけんかが「大人のけんか」に変わる、という話であるのは事実だけれど、単なるヴォードヴィルではなく社会派ヴォードヴィルなのだ。

弁護士役のクリストフ・ヴァルツ は『ターザンreborn』で、帝国主義時代の差別主義の権化のようなベルギー人役をやった人だ。 この映画でも自分はコンゴに行ったことがあるというのもおもしろい。どこか最近亡くなったロバート・ヴォーンに似た雰囲気があってなつかしい。

両夫婦とも、NY のブルジョワだけど、ロングストリートの方がリベラルで民主党に投票するタイプ、カウワンは共和党に投票するタイプだ。

で、原作がフランスものだから当然とはいえ、この2組の夫婦や、招待されて出向くこういうシチュエーション、アパルトマン、会話の仕方など、フランスでもすごくありそうなことで、とてもリアルだ。こういう感じの夫婦をいくらでも知っている。
でも日本で子供がけんかした時に、夫婦で相手の夫婦とこういう感じでもてなしを受けながら話し合いに出かけるなどというシチュエーションは想像できない。
ブルジョワ家庭でも、子供のこの種の問題で当事者の2組夫婦が行動を共にすることはないだろう。
だからこういう感じの「おとなのけんか」にはなり得ない。

ジョディ・フォスターの演じる妻は、美術が好きで、スーダンの子供たちなど世界の悲惨に関心があって著書もあることをひそかに誇り、社会意識の高い人で、世界のどこで起こっていることでも自分たちに関係がある、と主張する。ジェーン・フォンダの例が出て来る。フランスならジェーン・バーキンか?

元のタイトルの「虐殺の神」というのは弁護士が口にするセリフで、「僕は虐殺の神を信じている」と言ったり、ジョン・ウェインの名をあげたりするのだけれど、要するに、強い方によって弱いものは淘汰されるということだ。動物の世界では最も強い雄だけが雌を獲得して強い子孫を残す。
けれども、人間は、分かち合ったり、助けたり、弱者を排除しないで生きていくように進化してきた。サバイバルのために争わなくていい人々は特に、弱者を助けることに情熱を燃やすことすらある。

言い換えると、、「子供のけんか」は、「動物レベル」だが、「大人」はそのレベルを超えて上品に平和に協調してやっていけますよ、という「文明人」レベルですよ、という合意がある。「けんかしない」はずだ。

ところが、それが過剰になって、弱者を救う姿勢における偽善や、それをしない他者の弾劾や、ポリティカリイ・コレクトの際限ない検閲や自主規制へとエスカレートしていく。

けれども、オーバーワークで疲れ、家族とのつきあいに疲れ、外面をつくろうことに疲れた人たちは、特に酒で自制心のタガが緩むと、本音が噴出する。

ダルフールについての本を書いた人に対して「セネガルのニガーが」と黒人差別の言葉を使ったり、タブーの差別語が連発される。クー・クラックス・クランの名も出る。

つまり、社会的、階層的な仮面が落ちると、「動物的あるいは動物的本能でけんかする子供たち」のような本音が垂れ流される。

とはいえ、自分だけの利益しか考えない状態から、共同体の利益を考え、近くの弱者を助け、さらに、遠くにいて姿の見えない弱者にすら思いをいたすようになるのも、また、人間が獲得してきた人間らしさのひとつであって、けっして虚偽ではない。

エゴイズムと博愛の気持ち、責任感と無関心、礼儀と乱暴、それらは共存していて、それらを分かつものは薄氷でしかない、ということだ。

この映画を見ていると、この登場人物たちは今年ならみなトランプに投票したかもしれない、と思えてくる。

トランプが勝利したのは、貧しい白人たちの不満の受け皿になったからだと言われているが、決してそれだけではない。NYのブルジョワだって、ストレスフルで孤独で、外面をとりつくろうことに疲れていたら、こうなるのだ。5 年前の映画だが、もうそこには、「トランプを選んだアメリカ」がある。
さらに、この映画を見れば、そのアメリカの心性が、人間性に根差した普遍的な問題だということが、分かってくる。

同時にきわめて21世紀的な問題でもある。

「虐殺の神」というのは、要するに弱肉強食のネオリベラリズムの神でもあるからだ。

20世紀の後半に、「自由世界」が第二次大戦後の「復興」を遂げた間、この「虐殺の神」には枷がかけられていた。「自由世界」の内部で、「共産主義」シンパという身中の虫が増殖しないように、「社会民主主義」を飼っていたからだ。

もとより「自由競争」は公平なシステムではない。
スタート地点からいろいろなハンディを負っている人がいて、そもそも全く競争に参加不可能な弱者もたくさんいる。それらの人々や競争の敗者も含めて、すべての人が尊厳をもって共存できるような社会を運営するために財を分配するという思想が生まれた。生産力が低い時代には個々の共同体でそれなりに機能していた互助システムが破綻したからだ。人間のモノ化に対抗して共産主義が生まれた。

けれども実際に現れたのは、必然的に全体主義化する「一党独裁型の社会主義」だ。
それに対して生まれたのが、「民主主義によって運営する社会主義」というスタイルの社会民主主義だ。

ところが冷戦が終わって、敵が自滅したので、「自由世界」の「虐殺の神」にかけられていた枷が外れた。

「虐殺の神」がグローバルする中で、統治者にとって不急不要になった社会民主主義は、冷戦時代の「意識高い系」の世代を中心に、アフリカの貧困や環境保全、差別撤廃、動物愛護などの方向にシフトしながら、ライフスタイルへとイデオロギー化していく場合がある。

それを担う人の多くが、競争社会におけるいわゆる「勝ち組」である。その中には、この映画が描いているような、

夫が「虐殺の神」を信奉して競争にはげみ勝ち組の場所を確保して、
妻がボランティアをして家庭における夫の不在を埋めて自分の生き方に意味を見出す、

という組み合わせが生まれてくる。

(「夫が稼いだ金で妻が消費に励んで経済を回す」方が多いかもしれないけれど。)

そのような矛盾や欺瞞などが膨らむと、見かけの「幸福」のあやういバランスなど、「逆殺の神」の聖霊がささやくたった「一言の本音」によって崩れてしまうということなのだろう。

『おとなのけんか』は、一見幸せそうな他人のカップルの化けの皮が剥がれる過程を見ておもしろがるような映画ではなく、「ポランスキーの映画を見に行ける」ような人たちに、自分の立ち位置と生き方について本格的な自問を促す映画なのだ。
[PR]
by mariastella | 2016-12-09 00:09 | 映画

『後妻業の女』

日本からの帰りの機内で見た日本映画のひとつが『後妻業の女』。

日本映画の独特のおもしろさをよく伝えているので、見ていて「日本人としての視点」を離れることができない。

よくできた映画は、どんなに特殊な国の話でも、遠い過去やありえない未来の話でも、その特殊性の中にかえって普遍的な人間性がくっきりと見えてきて、観客の自我の普遍的な部分に訴えて人間性を養ってくれるところがある。

でもこのタイプの日本映画って、どこかでとても日本的な心性に居直って作られているので、見ているとすごくおもしろいのだけれど、「普遍」どころか、いわば末梢神経を刺激されるような満足感に着地する。

大竹しのぶや豊川悦司が巧いのは分かるが、特に印象的なのが、笑福亭鶴瓶だった。

大竹しのぶらは「演技が巧」いので、このブラック・コメディが生き生きと展開する。

でも笑福亭鶴瓶の演じるキャラは、なんだかリアリティがあって怖い。

笑福亭鶴瓶という人は、いかにも飾り気がなく優しく楽しく、誰からも親しまれて好かれるタイプだと思う。
彼がそのキャラのまま出てきて、それが実は、後妻業のカップルを上回る「ワル」だったという設定だ。
こういう「見かけによらない悪い奴」というか、「相手を警戒させない見かけを武器にした悪い奴」というギャップの怖さが、鶴瓶だからこそ強烈だ。
そして、ある意味リアルだ。
こんな奴はいくらでもいる。いや、人は誰でも「他人を警戒させないようにふるまって生きている」のだから、その本音が出るか出ないかは紙一重の差ではないか、と思えて怖くなった。

その点、「後妻業」カップルは、もちろん詐欺のために表の顔をつくろってはいるのだけれど、いわば「分かりやすいワル」であって、相手が下心や欲で目が曇っていない限り、「想定内のワル」だ。

一方、鶴瓶の演じるワルは、にじみ出る「全人格」を裏切る想定外のワルであり、相手の「無防備」を襲う最もたちの悪いものだ。

こういうタイプをこういう形で見せるのは日本映画以外で見たことがない。

いいことにつけ悪いことにつけ、癖になる感じのすごく日本的なツボというのは確かにある。

今回、ハロウィーンの後では、日本でもクリスマス用のデコレーションや小物がたくさん売っていた。
その中には、同じように、日本以外では絶対お目にかかれないような、独特のものがたくさんある。やはりどこか末梢神経を刺激するような、とか言えない。
とても新鮮で、日本にいた時あれこれ買いこみたくなった。

いやいや、私は中東やアフリカに帰るわけではない、フランスに帰るのだから、クリスマス用品やプレゼントはいたるところで売っている。日本のようにクリスマスが終われば正月用品に切り替わるのでなくクリスマスと新年が一体化しているから、市場の規模も大きい。フランスで買えばいいのだ、と自分に言い聞かせてセーブした。

フランスに戻ればやはりクリスマスセールが始まっていてとても華やかだし、奇麗なものがたくさんある。
けれども、ちょっとひねった、ガラパゴス・テイストのものはない。

LEDランプが一般化してからは家庭用イルミネーションの種類はぐんと増えたし、メイド・イン・チャイナのものもたくさんある。でも、全体的に大味、正道、というか、普通というか、がほとんどで、あとはブランド品や伝統工芸品などのすてきなものがあるけれど、日本のようにはっとするひとひねりしたものが巷の隅々にまでほとんどデフォルトになっているのとは違う。

『後妻業の女』のおもしろさを考えていたら、そんなことに気づいてしまった。
[PR]
by mariastella | 2016-12-01 03:18 | 映画

アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』

今年のカンヌ映画祭で脚本賞、シャハーブ・ホセイニーが男優賞を受賞したイラン映画。

前作の『ある過去の行方』については前にここで書いている。その前の『別離』についてはここで

『セールスマン』というタイトルは、主人公のカップルが、劇団員でアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演じているからだが、フランス語タイトルの『顧客』という方が、意味深長だ。

最初にカジノだとかボーリングだとかいうネオンが出てきたので一瞬驚いたけれどアメリカが舞台の芝居の大道具だった。テヘランでアメリカの芝居をやるリスクにも触れられている。女優が帽子の下にちゃんとスカーフで髪を隠しているのもイランならではだ。
主人公が教師を務める学校の文学の教材も検閲されている。

脚本賞を得たのが納得できる、まるでミステリーのようなスリリングな展開で、はらはらするし、驚きの結末だ。
夫婦の関係、そこに仲間の子供が加わるときの関係、隣人関係、高校教師と男生徒たち、怒り、憎悪、復讐、憐憫、赦しなどが、アクションとリアクションとして連なっていく。

どこをとっても巧い。
しかも、決めつけがない。
人はおかれた人間関係や立場によって色々な欲望を持ち、誘惑にさらされ、自分を正当化したり、自制を完全に失ったりする。
強さも弱さも卑怯さも優しさも、みんなほんものだ。
哀しいし、痛切でもあるけれど、主人公の二人が演劇という芸術に情熱を傾けているところ、最後にそれがクラスの生徒たちの心もとらえるところなどに、救いを感じる。

こういう映画を撮ることが、宗教原理主義体制に対する何よりも有効なレジスタンスであり、自由の意味を考えさせてくれる。

いつもは映画についてコメントするときはいわゆる「ネタバレ」を気にしないのだけれど、ここではそれを書く気がしない。

その「ネタ」は思いがけない重いテーマであって、この映画もその解決を語っていないし、主人公たちのリアクションを肯定も否定もしてしない。

これについて書き始めたら映画評ではなく、哲学に足を踏み込んでしまう。

「悪の陳腐さ」はいつも哀しい。この映画で突きつけられる「悪の弱々しさ」は、もっと哀しい。
[PR]
by mariastella | 2016-11-28 04:12 | 映画

ロン・ハワード『インフェルノ』

ダン・ブラウン作のロバート・ラングドンの映画化シリーズ第3作『インフェルノ』。

『ルイ14世の死』があまりに息が詰まりそうだったので、気分を変えるためにハリウッド映画に行ってみた。
フィレンツェが舞台というのも大画面で見るのが楽しそうだったし。

なんかもう、007みたいに追跡シーンばかりで展開が速くて飽きないのだけれど、007ならヒーローが絶対強そうでカタルシスもあるけれど、このラングドン教授は最初から最初まで傷だらけで記憶はないの体調は悪いの幻覚は見るの、で、映画を見ているこちらが疲れる。

一方、女優は悪役もふくめてすてきで元気いっぱいだ。イギリス人のフェリシティ・ジョーンズ はかわいいし、デンマーク人のシセ・バベット・ クヌッセンは相変わらずすばらしい。
前にもフランス映画でいい味を出していたが、最近も「ブルターニュの女」というフランス映画でヒロインを演じている。
ひっぱりだこだ。
知的で抑制があって、しかしとても優しく温かく女性らしさがあるというギャップがいい感じで、地味なのだけれど印象に残る人だ。

この映画ではWHOの事務局長役で、最初に出てきたときは、腹に一物ある怖い女ボスというイメージなのだけれど、実はラングドンの元恋人だった。ラングドンはハーヴァードに、彼女はスイスのWHOにと、それぞれ自分の天職の使命を発揮するところに別れていくという設定。

それはなんだか中学生の恋みたいなのだけれど、ファブリス・ルキーニが相手役でもそうであったように、この人が演じると説得力があっていい感じだ。

男の悪役は、フランスのコメディアンのオマール・シーや、目玉が飛び出しそうで怖いインド人イルファン・カーンなど個性的で、パッとしないトム・ハンクスを補っている。
マッド・サイエンチストを演じるベン・フォスターという人だけが普通っぽい。

話は歴史や美術、宗教と直接の関係はなく、007の敵風の陰謀論みたいなものなので、前2作のようなつっこみどころはない。

実は、今年映画館で観たハリウッド映画に『スター・トレックBEYOND』がある。
付き合いで観たのだけれど、そして、飽きずに見て、後からいろいろ情報を収集したのだけれど、
コメントを書くことがどうしてもできなかった。

今年観た中で、同じ種類の映画、つまり、それなりに面白かったのに、コメントの書きようがなかったものに、実はディズニーの『ズートピア』がある。

二作とも、ポリティカリー・コレクトというか、アメリカの描く人類の正しい理想みたいなものがある。

性格や条件や「強さ」などがまったく違うキャラクター間の友情、
平和が実現して戦争のない世界、
しかしそれを軟弱で平和すぎる刺激のない世界とみて、争いの種をまく「悪者」。

『スター・トレック』で、多様な人種が、同じ連邦の理念のもと、平和的に協力し合いながら宇宙探索を進める世界、それを異星間の平和条約にまで拡大しようという使命感。
『ズートピア』で草食動物と肉食動物が共存し、キリンもネズミも同じ列車で旅行できるような多様性を実現している世界。

なんというか、それらのあまりにもの「正しさ」と、理想を鼓舞してくれる「いい感じ」が、現実のアメリカやアメリカが主導している世界の状況とギャップがありすぎて、居心地が悪かった。

その点、この『インフェルノ』には、そのマッド・サイエンティストの「巨悪」みたいなものも、それを善意で信奉してしまう人々の「間違った理想」「間違った正義感」も、ある意味で、リアルな愚かさなので、イデオロギーが入り込む余地もない。なんだかぱっとしないヒーローの等身大のあがきの後を追うだけ、という気楽さがある。

大仰な人類救出劇の中で小さな安堵、小さな迷い、などの表現が一応成功している。

まあ、この『インフェルノ』を見てライフポイントを回復したので、次はシリアスなイラン映画アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』に挑戦だ。これについては次に。
[PR]
by mariastella | 2016-11-27 00:51 | 映画

 アルベルト・セラ『ルイ14世の死 La Mort de Louis XIV』

イオネスコに『Le Roi se meurt』(王が死ぬ)という戯曲がある。死を受け入れない王の周りで舞台の小道具や装置が少しずつはぎとられる。

この映画『ルイ14世の死』は、1715年、太陽王ルイ14世が寝たきりで過ごす最後の3週間。
なにもはぎとられない。はぎとられるのは生命だけ。

薄暗がり。
鳥の声、虫の声、羽音、時計の音。
ひそひそ話。
孤独。

足の切断をためらう医師たち。すでに完全な体ではなくなっている。
イギリス人にしか抽出できないというエッセンスを入れたあやしい薬を売り込む男。
豪華な部屋と黄昏の暗さ。まるでレンブラントの絵の世界。
特に解剖のシーンは。



入れ歯を飲み込んだ大理石のライオンのような顔
の周りを大振りの鬘が覆う。

容態が変わるたびに医者たちが議論する。

嚥下できない。
話せない。
ミサ。
告解。
終油の秘跡。

宗教は役に立っているのか?
ナントからかけつける枢機卿。
王がMonseigneur と呼んでいる。
それは司教の呼び方で枢機卿は votre Éminence ではないのかなあ。

監督はカタルーニャのアルベルト・セラ。スペイン・バロックの色も濃い。
撮影はポルトガルだったらしい。

こんな映画、だれが観るのか。

ルイ14世とその時代のファン。
ダンサーでバロック・ギタリストでダンス・アカデミーやヴェルサイユ文化を作ってくれた人への敬意。

ヌーヴェル・ヴァーグへのノスタルジー。
ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーに見出された少年ジャン=ピエール・レオ-がヌーヴェル・ヴァーグのシンボルのような映画人生を生き、72歳になって、75歳のルイ14世を演じているからだ。

すごい迫力だ。

権力者の死、に興味がある人には必見かもしれない。

ナポレオンの死を思う。
生前退位できずに苦しみながら死んだヨハネ=パウロ二世。
生前譲位できない日本の昭和天皇の死。
パブリックの死。
逆説的にすごく孤独だ。

半熟卵を口にしたりビスケットをかじったりするたびに宮廷の人が拍手する。
目を開けると大仰に歓声を上げる。
見世物のようでもある。緩慢な公開処刑。完全に死ぬまで退位はできない。
職務、機能、権能を担ったまま死ななければならない。

こういうのを見ていると、権威も権力も宮殿もいらないから、清潔で近代的で、鬘と宮廷服をつけていない医師に看取られて安らかに死にたい、と実感する。

今の時代に生きていてよかった、とも思うけれども、中東の野戦病院で血を流して死んでいく子供たちを思い浮かべると、やはり、問題は死に方でなくて、どう生きるかなのだ、と分かる。
[PR]
by mariastella | 2016-11-25 00:23 | 映画

クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』

2003年のこの作品。昨日書いたように、「名作」とは私には思えない。
俳優たちが名演なのは認める。

でも『ポリナ』のような、ビルグンドゥス・ロマンやイニシエーションの物語がない。

人は人生のどの段階でも、少しずつ新しいものを発見したり地平や視界が開けたり、見えないものが見えるようになったり、試練や喪失を経ても成長したと思えたりできるものだ。
だから、映画のテーマというのも、どこかにそんな要素を描いているか、あるいはそのような体験をさせてくれるものがほんとうに心に残るのかもしれない。

少なくとも小さなエゴを突破するようなシーンがほしい。

『ミスティック・リバー』は人間の心理のいろいろなスペクトルを描きだして見事であるのに、そこに閉じこもっているせいでカタルシスを得られないのだ。

人は人生で受けた傷をどのように生きるのかに関しての洞察は与えてくれる。
この映画の中心になる傷は、ある少年が子供の時に友人2人の目の前で拉致されて監禁されたトラウマが大人になった3人に残っているというものだ。

この映画の救われなさから、教えられることもある。

やはり、「恐れるな」ということだ。

「他者からの残忍な行為に対して恐怖を抱く」ことが「他者に対して残忍になる」ことにつながる。

恐怖が悪の連鎖を生むのだ。
憎悪が憎悪を生むというのもそうだが、憎悪にまでいかない恐怖が十分、残忍さを生む。

テロリズムというのもそうで、いつ襲われるかもしれないという恐怖(テロル)を与えることが最大の効果となる。無差別殺人の残忍さへの恐怖が、人の心を残忍さで武装させる。
抑止力などという名がつくこともあるが。

そのことからしても、子供の虐待はもちろん、残忍な行為の犠牲者にトラウマのケアをすることがいかに大切かが分かる。

フランスでカトリックの聖職者による過去の小児性愛スキャンダルを隠してきたことについて、司教団がルルドでの総会で公式に謝罪した(11/7)。
この種の事件は隠れてひっそりと扱われるべきだと考えたことが誤りだったと。
もちろん、保身の意識もなかったとは言えない。
これからはこの悪と立ち向かうために、自分たちの存続を優先しようという誘惑に負けないで立ち向かうと明言した。

ナチスの時と同じだ。一人一人のユダヤ人の運命よりもカトリック教会はカトリック教会の存続を優先するために、ナチス非難の矛先を和らげた。その意味で、今回、そこまで踏み込んで謝罪するのはなかなか潔い。

そのことについてあるカトリック新聞に一コマ漫画が載っていた。

男の子の手を引いた男が暗い顔をしている。
男の子が心配して「悲しいの?」「あの人たち(司教たち)が謝ったのはパパにだったの?」と聞く。
父親は答える。
「ぼくの中にまだいる君と同じくらいの年の男の子にって言った方がいいかな」「だけどどうやってその子の年でも分かるような言葉で説明していいのか分からないんだ」

そうなのだ。
傷ついた子供は傷ついたまま葬られている。
その屍をかかえたまま大きくなったのは別の男だ。
屍を蘇生させ、傷を癒さない限り、謝罪など意味をなさない。

『ミスティック・リバー』の犠牲者にも過去の自分と同じくらいの年の息子がいる。
父親となった自分は、子供のころの自分ではない。傷ついた子供はゾンビとなって大人の男の中に巣くっている。
男は、自分を葬ることでしか、傷ついた子供のゾンビを追い払うことはできなかった。

この映画をこのように終わらせては、トラウマをかかえて生きている多くの人たちに希望のメッセージを届けることはできない。『ポリーナ』の美しさを観た後なのでなおさら、アートというものの使命について考えさせられてしまった。
[PR]
by mariastella | 2016-11-21 01:56 | 映画

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
[PR]
by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画

『奇蹟がくれた数式』マシュー・ブラウン

帰りの機内で見たイギリス映画。

これも『ターザン』と同じで、帝国主義的、白人優位主義に少し気分が悪くなった。

インドの独学の天才数学者が、いわゆる「免状」を持たないゆえに、エスタブリッシュメントに受け入れられない。

数学の天才という普遍的説得力があるのに、植民地、人種差別、学術システム外差別という壁が厚い。

デーヴ・パテールというおなじみの俳優が1887-1920に生きたラマヌジャンという実在の数学者を演じる。
第一次大戦のトラウマが大きな時代背景となっている。

女神ナマギリからインスピレーションを受ける、神から与えられたものでない真実など意味があるのか、というスタンスの彼と、無神論者で非戦論者で孤独な独身者というハーディ教授の友情物語だが、文化背景のあまりの違いで意思疎通がうまくいかない。

ハーディはケンブリッジの教授で尊敬される成功者だけれどコミュニケーションがうまく取れない。
それでもリトルウッド(トビー・ジョーンズ)という最高の同僚に救われている。このキャラクターがユニークですばらしい。
実際は、ハーディはラマヌジャンより10歳しか年長ではない。リトルウッドは年齢不詳に見えるがハーディより2 歳若い。

この映画を可能にしたのは、プリンストン大学のインド系数学教授が共同制作者になったからで、映画の中でも、インド人の留学生がラマルジャンと交流する。

イギリスは女王をリスペクトしてクリケットをやる国からの移民は差別せずに多様社会を成功させているから移民に人気があると言われているが、基本が共同体の棲み分け社会であって、アングロサクソンのエリートの中に同化されるためのハードルはとても高い。
第一次大戦のころのラマヌジャンが兵士から暴行を受けるシーンなどはリアルで見ているのもつらい。
食糧難の時の菜食主義者の不自由さも切実だ。

研究から祈りや食事に至るまでを枠づける宗教の中で生きる男と、社会規範と良心の自由の間で自己を律するカントみたいな孤独な男の交流。
二人が真に友人ではなかったということが分かる「告白」が、ラマルジャンに「妻がいる」ことだというもので、その衝撃の大きさそのものが今の時代の私たちには驚きだ。

原題は『無限を知っていた男』で、数式の美しさと、エレガンス、無限への感性と超越神や聖なるものへの感性、けれどもそれを「証明」することの願望や必要性、信じるということはどういうことなのか、神を信じるのか、神を信じている人間を信じるのか、などのさまざまな問いを喚起する深遠なものだ。

けれどもその数学的な部分の感動は、その片鱗も暗示してくれないので、抽象的なままに終わってしまうのが残念だ。
私の高校時代『大学への数学』という雑誌に「エレガントな回答を求む」というコーナー(今検索したら「数学セミナー」という雑誌だというから私の記憶違いかもしれない)があって、毎回いろいろ考えたことがある。
エレガントなひらめきというのを目の前にして感嘆させてくれたのは、一年先輩の友人だった。
彼の受験時が東大の受験中止の年に当たり、京大へ進学してそのまま兄弟の数学教授になった人だ。

正しいものも美しくなくては意味がない、という感じはその時に実感した。

この映画ではそういうカタルシス(映画では無理だろうし、映画を見る人の能力では無理なのだろう)がないのが欠落感として残る。

美しい妻やインドに一人取り残されたくない母の思惑などもサイド・ストーリーになっているけれど、携帯電話やインターネットのある時代だったらいったいどういう展開になっていただろうな、などと思う。
若い頃に携帯やメールがあったら人生が変わっていたろうというシーンが私自身にもいくつかあったことを思い出す。
21世紀におけるインド人科学者や技術者のグローバルな活躍を考えるにつけても感慨深い。
[PR]
by mariastella | 2016-11-13 01:50 | 映画

デヴィッド・イェーツの『ターザンreborn』

帰りの機内で4本の映画を試聴。フランス映画はなかった。

行きの機内で見たアメリカ映画は『ズートピア』だったのだが、コメントを書けなかった。
なんだかとても立派で正しい映画で、そのよくできている具合が、現実のアメリカやこの世界で起こっていることとあまりにもかけ離れているので言葉が出なかったのだ。

ところが帰りの機内で見たアメリカ映画とイギリス映画はあまりにも気分が悪くて、でもこちらの方が現実を反映している。

一つはアメリカ映画の『ターザンreborn』だ。

特殊撮影の迫力あるアクション映画とだけ思えば楽しいだろうが、私にとっては、もろコンラッドの『闇の奥』ですかという息苦しさで、とりあえず「ああ、ベルギーに住んでなくてよかった」、と思うってしまうくらいだ。

それくらいに、オーストリアのクリストフ・ヴァルツの演じるベルギーの公使(はっきり言ってあまりベルギー人っぽく見えない。フラマンでなくワロンということだろうけれど)の演じるレオン・ロムというのが、悪役すぎる。

こういうのを見ていると、ヒトラーのホロコーストよりすごい。
ヒトラーは、自国内のマイノリティを排除したわけだけれど、象牙(これも気分が悪くなるほど大量に獲られている)や宝石を求めて他の文化圏を侵略して、なんの迷いもなくそこに暮らしている人を殺したり奴隷にしたりするのだから。

ベルギーがカトリック国というのもひっかかる。

今のフランスなんかでは、ブラック・アフリカ人でも、セネガルなどイスラム圏から来る人よりも、コンゴから来る人の方がはるかに受け入れられやすい。
カトリック教会の教区民になるからだ。
教区によっては彼らの存在感は大きいし、司祭不足の地域ではコンゴ人の司祭も普通にいる。

でもそれはみな、コンゴがベルギーの植民地だったからだと思うと複雑だ。

タンタンの冒険のコンゴの巻だったって、30年前に読むのと今読むのとではまったく違って、よくこんなものが通用しているなあと思うくらいだ。

その上、この映画のレオン・ロムというのが、最初から最後まで、カトリック的なロザリオの数珠を手にしている。
9歳の時にエルサレムの土産として神父からもらった特殊なロザリオで、これをいつも手に持っていて、最初はその手で花を摘む画像が出て、先住民の部族に囲まれた時もそれをしっかりと握っている。
最後はターザンの首を絞めつける凶器としても使われる。

このベルギー人の奴隷売買をはじめとする蛮行や腐敗ぶりは、ターザンに同行した黒人のジョージ・ワシントン・ウィリアムス博士というアメリカ人によって1890年7月に告発される。

でもこの博士そのものが、黒人だけれど、南北戦争のトラウマを引きずり、多くのインディアンを殺した体験があって罪悪感に苦しんでいる。
そのあたりで、人種差別が単純な黒白の問題ではない錯綜した深刻な問題であるということが表現されているのだろうけれど、アメリカ映画だからアメリカの役割も大切になっているわけだ。

でも全体として気分が悪いし、なんだか、槍を持って集まる先住民の男たちの「非文明的」、「野蛮」な様子の迫力を見ていると、もし私が黒人だったら今さらこんな役を家族や知人には演じてほしくない、などと思ってしまう。

アレクサンダー・スクルスガルドのターザンは逞しい体に少年のようなかわいい表情の頭がついていて、そのギャップがかわいいといえばかわいかった。
[PR]
by mariastella | 2016-11-10 03:04 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧