L'art de croire             竹下節子ブログ

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「父の祈りを」(ジム・シェリダン) その2

(これはこの前の記事の続きです)

父と子のテーマ

父と子が同じ房で暮らしていたというのはいくら演出でも不自然な気はする。

ともかく刑務所の中で二人はそれまでの生活すべてよりたくさんの言葉を交わして濃密な関係になる。

自分がはじめてサッカーの試合で勝った時に父親がほめてくれずに「ペナルティを誘発したのではないか」と質問したことを息子は忘れられない。

そこは父親が「よくやった」とまず祝福してやるべきだったというのは教育心理学的に正しいだろうが、この父親にとっては、息子のチームが勝つことよりも、息子が「不正をしない」「正々堂々と戦う」ことの方が大切で、それこそが息子に伝えたいメッセージなのだった。

だから、大人になった息子が泣き崩れても、父は「悪かった、本当はお父さんも君たちを誇りに思っていたんだよ」などということは言わない。

息子が峻厳な父からほしかったメッセージは、「よくやった」という言葉以前に「愛してるよ」という一言だったろう。

それは、子供の時も刑務所で同房に勝った時も実は同じなのだ。

父はそれを言わない。

息子を愛しているのは自明だからだ。
愛しているからこそ、「不正をしない」立派な人間になってほしいと思っている。

どうして母親が気づいてやれなかったのだろう。
「今はとにかくあの子に愛してるよとだけ言ってだきしめてやって、」と。

それは、父親が、この母親には「愛してる」と言い続けてきたからだ。
息子には「父」としての責任を感じて「正しい生き方」を見せ、「正しい生き方」を教えることが使命だと思って優先してきた。しかし、母親は自分の守るべき存在であり、愛を表明する存在だった。

だから母親はただ愛していると父親から言ってほしい息子の気持ちを忖度できなかった。
多分、自分自身は息子に「愛している」と言ってきたから、まさか息子が父からのその言葉に飢えているとは思わなかったのだろう。

もともと「愛している」という言葉を家庭で発さない父親なら息子もそこまで父の愛の表明を渇望しなかったかもしれない。でも彼は父が母に「愛している」と言えるのを知っていた。

父は息子がドラッグを吸うのが許せない。息子は「わかった、お父さんが生きている間はもう吸わないと誓うよ、それでいいかい」と言うのだけれど、父は許せない。

結局、一生吸わないと誓わされる。息子はいい加減な男だけれど、この父との間に交わされる「誓い」には二枚舌が不可能だということを知っている。

そして息子がそれを知っていることを父も分かっているので、安心するのだった。

このシーンは親子の間に実は強固な信頼関係があることをうかがわせて救われる。

父の死後息子が冤罪を証明するために戦うのは父の愛した母のためでもあった。
父が死んだ後、母に向け続けられた父の愛を表明することが彼の使命となった。

彼ははじめて父親から必要とされたのだ。

息子役のDD ルイスも父親役のPポスルスウェイトもさすがの名演だ。

ただ、見た目があまりにも違っているので、映画の中の父と母から絶対にこんな息子は生まれないだろうというレベルの違和感がついてまわった。
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by mariastella | 2016-08-29 00:32 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン監督/DDルイス主演)1994

先日Arte で視聴したこの映画、テーマが多すぎる。

まず、悲しいくらいに「アイルランド」映画だ。

イギリスのEU加盟は1973年、この映画のもととなったIRAによるロンドンのギルドフォード・パブ爆破テロが1974年だから、まだ、南北のアイルランドの国境が取り払われて交流が進むという感覚はなかったころかもしれない。

それから40年も経って2016年の英国のEU離脱決定の後で、北アイルランドの人たち(祖父母や両親がアイルランド人であればOK)が英国のパスポートとアイルランドのパスポートの両方を持てるということで申請に殺到したというのは記憶に新しい。

分離独立運動は1998年に和平が成立したが問題は継続している。英国のEU離脱が決まった今、再燃することは間違いがない。

1.カトリックのテーマ

タイトルだが、日本語では「父への祈り」と、獄中で無念の死を遂げた父の慰霊をするかのように息子が生まれ変わって戦った、ような印象を与えるけれど、原題は『In the Name of The Father』で、これはもちろん典礼の「in the name of father son and holy spirit(父と子と聖霊の名において)」(その後でアーメンと続く)をもじったものだ。

父とはもちろん父なる神である。

映画の中での父はロザリオを持っていて、刑務所の中でも毎日ロザリオの祈りを唱えている。

それを見る息子は笑い飛ばす。

多分小さいころには家中で唱えていたものだろう。

それを刑務所に入ってからも律儀に続けている父を笑うのは、

「何をいまさら。あんたの聖母様(ロザリオは聖母マリアへの祈りが中心)が何もしてくれないから俺たちはこんな目にあっているんだぜ。すべてはこんなものを信じているせいなんだ。祈っても無駄なのは証明済みさ」

というような気持が哄笑となって出てきたのだ。

アイルランド問題の底には宗教問題がある。

カトリックが優勢なところに、宗教改革の後でスコットランドやイングランドから北部に入植してきたプロテスタント系住民が自分たちに有利な選挙方法で権力を掌握し、カトリックを迫害した。

住居や就職でも差別された。

この映画でも、父親の仕事が健康を蝕むもので、それはカトリックだからだと息子が指摘している。

また息子は無職でヒッピーまがいで盗みを働く「不良」だが、首からは十字架をぶら下げている。

カトリックであることは宗教ではなくてアイデンティティの問題なのだ。

ロンドンに行った息子とようやく電話で話せた時も親は「ミサには出ているか?」と尋ねている。
息子はもちろん嘘をつく。そこで「そんなもん、出るわけないだろ」とは言わない。

法廷に出る時も母親が陪審の印象をよくするためにと「日曜日の服」を用意する。
つまり地元では日曜には背広を着てネクタイを締めて親と共に教会に行っていたのだろう。

父は、刑務所の食堂で、テロの真犯人であるIRAの活動家と出会う。
彼に頼んで息子の無実を晴らしてもらうという意識より先に、父は無差別テロがゆるせない。

お前が殺したのは「すべて神の子」なんだ、と怒りを見せる。

唯一の救いは刑務所に聴罪司祭が出入りしていたろうということで、彼の死を息子に知らせに来るときにローマンカラーを付けた司祭がたずねてくる。

父の名がジュゼッペというイタリア名であることが妙なトラウマになっていることもおもしろい。

ジュゼッペは聖家族のヨセフであり、カトリック世界では普通の名だが、国によってジョゼフ、ヨセフ、ホセ、などと読み方が変わる。

祖母が父親を妊娠していた時に町にやってきたイタリア人のアイスクリーム売りがジュゼッペということでそう名付けたのだそうだ。
父親の生まれた時代のアイルランドで一人だけ「ジュゼッペ」という名で育つのは確かにトラウマになりそうで、息子までそれを意識している。

(続く)
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by mariastella | 2016-08-28 04:08 | 映画

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』、

映画史に残ると言われるこの「黄昏のウェスタン」のノーカット版を先日arteで視聴した。

見るかどうかすごく迷ったのだけれど、結局見た。

なぜ迷ったかと言うと、前から何度も書いたように、数年来、もうホラーとかヴァイオレンスとかカタストロフィとかを扱った映画はできるだけインプットしないようにしているからだ。
単純に言って血が流れるようなのを見たくない。

私は時々悪夢をみるが、なぜだかそれを忘れずに反芻してトラウマにしてさらに次の悪夢につながるというタイプ。
それは、なぜか戦場など流血沙汰の真ん中にいることもあれば、例えば砂漠で一人きりになり絶対に救われないと分かって絶望するとか、ミサイルがあちらこちらに落ちてくるのを自宅の窓から眺めて、ああついに第三次大戦が始まったのだなあ、私はここで死ぬんだなあとつくづく思うとか、悪夢の中ですでに悪夢の内容を反芻している。

あまりにもリアルで実感をともなうつらいものばかりなのだけれど、ある時、実生活で、戦争も知らず、大けがをしたこともなければ災害や事故の現場に居合わせたことすらない私がこういうリアルな夢を見るのは何が根拠なのだと思った時に、そういう視覚的ヴァーチャル・リアリティの体験は私にとって映画にしかないことに気づいたからだ。

第二次大戦の大空襲で逃げ惑った体験のある私の母は、時々悪夢にうなされることがあったのだけれど、空襲の夢を見なくなるのにまる半世紀かかったと言っていた。私のは主として映画からくるものだから、そういう情報をシャットアウトすれば簡単に悪夢をシャットアウトできるかもしれないと思ったのだ。

そういうわけだから、映画におけるヴァイオレンスというジャンルの嚆矢となったという1969年の『ワイルドバンチ』など、真っ先に私の「検閲」にひっかかる。同じサム・ペキンパーの『わらの犬』は日本での初公開時に観ている。だからこの監督のヴァイオレンスの感じは想像がつく。

それでも、他に思うところがあって『ワイルドバンチ』を視聴した。

結果は、悪夢に燃料を与えるような怖さはまったくなかった。
女も子供も町を行く人も無差別に殺されるし、血まみれのシーンも続出なのに。

印象的なのはむしろ空の青さだとかカメラワークとか、メキシコの女性たちがテレサの遺体を運びながら長々と連祷するのに男がイライラして「やめろ、この偽善者め !」的な言葉を吐くシーン(こういう無法の場所ではキリスト教は「女子供用」と認識されているのだなあとあらためて思う。いや、女性と女の子用と言ってもいい)などだった。

武器輸送列車を襲うスリルとか、4人で200人のところに向かう時の「友情のためには命を捨てる男らしさ(と称されているもの)と哀愁」などは、まあよくできた映画のお約束の範囲内だ。

で、大量の撃ち合いはあまり怖くなかった。

むしろ、傷ついた仲間ひとりにとどめの一発が撃たれるときの方がずしんと来る。

「大量撃ち合いヴァイオレンス」というのはあまりにもリアルとかけ離れているので私の悪夢の材料にはならないらしい。

よく考えたら、こういうほぼ機械的な撃ちあいより、「倒錯」の方が悪夢の種になるのだ。
信頼していた母親が実は蛇女になっていた、というたぐいの怖さや、隠されていたものを見てしまって「見たなー」と言われるような怖さ、ヴァイオレンスも憎しみやら狂気やら倒錯に裏付けられているものは怖いけれど、『ワイルドバンチ』や『七人の侍』的なヴァイオレンス・シーンは、ゲーム的で怖くない(悪夢の材料にはならないという意味で)ということが分かった。

怖いのはプロセスなのだ。だからホラーとかサスペンス映画の方が要注意だ。

と、長々と前置きを書いたけれど、この映画が「怖くない」ということ自体に、大いに問題がある。

派手な撃ち合いシーンを見ていて、私は、

「ああ、こんなものを大量に見ているから、アメリカが今でも銃社会なのは無理ないなあ」

とか

「このシーンに一種のカタルシスを覚えたり、あるいは、自分も死ぬと分かっていても一人でも多くの奴を道連れにしてやる、と言う覚悟に潔さを覚えたりする人がたくさんいるとすると、ISのビデオやテロリストの行為に鼓舞される若者が出てきてもおかしくないなあ」

と思ったのだ。

この映画が製作された時代はアメリカがベトナム戦争の泥沼に陥った時代だ。
映画の舞台は1913年で、メキシコの軍事政権に人民のゲリラが戦いを挑んでいた時代だ。

でも、テキサスの司法官が、強盗団(ワイルドバンチ)のリーダーであるパイクをひと月以内に殺すことを条件に犯罪者を釈放することが別の伏線になっているように、内乱中のメキシコだけでなくアメリカもけっこうな「無法」ぶりだ。
つまり、「暴力」がまだ法的な装置として確立されていないような社会では、「人権」など言葉でしかなく、女たちが聖人の名を唱える「連祷」の「偽善」と何ら変わるところはないのだ。

今はこの映画から半世紀近く経とうとしている。
この映画の舞台となった時代からは丸一世紀以上経過している。

アメリカの銃社会は変わっていない。
少しでも性能のいい武器を少しでも多く手に入れようと世界中の国が虎視眈々としているのも変わらない。
非戦闘員を巻き込むリスクのある空爆なども毎日のようにニュースになる。

この映画のヴァイオレンス・シーンを見てすっきりした、とか、男の哀愁とかかっこよさとか滅びる者の美学とかを感じるのと同じ感覚で、今、ISによる軍事訓練やテロやリンチのビデオをウェブで見て「自分も死を覚悟で聖戦に発たなくては」と鼓舞され、「Let’s go.」「Why not ?」(ワイルドバンチで最後に4人が死地に向かう時の言葉)と答えて武装する若者たちが確実にいる。

「カタルシスを与えるような戦争映画を作るのは犯罪だ」という日本の映画監督の言葉を読んだけれど

それにも通じるだろう。

日本ではまだ実感がわかないけれど、ISの人集め戦略を見ていると本当に怖い。

シンボリックなのは、この映画の中で主人公のパイクが最後は背後から子供に撃たれることだ。

パキスタンで、シリアで、フランス国内の過激派モスクの中で、子供たちは「兵士」として教育される。
いや、暴力が支配する環境にいるだけで、子供たちは普通に暴力的で普通に残酷で、「殺す存在」になる様子が、この映画のそこかしこに挿入されている。

ヴァイオレンスをジャンルとして確立した映画の古典『ワイルドバンチ』。

今の時代に視聴されてこそ、いろいろなことを考えさせてくれる。
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by mariastella | 2016-08-25 00:45 | 映画

フランスと黒人: ジュリアン・ランバルディの『マルリー・ゴモンへようこそ』

ジュリアン・ランバルディの『マルリー・ゴモンへようこそ』(Bienvenue à Marly-Gomont de Julien Rambaldi)は多分日本で公開されそうもない映画だろう。

私の関心のある「フランスと黒人」のテーマであると同時に、主人公がリールの医学部で博士号をとったのが1975年で、一家がピカルディの無医村に移住するのだけれど、ちょうど私が最初にノールやピカルディの村や地方都市の家々を訪れた同じ時期の話なので、懐かしいというか、雰囲気がよく分かる。

Kaminiというラッパーが子供時代を回想したラップを歌っていてそれが彼の両親の話なのだ。
実話をもとにしたものだ。

黒人が認められるには普通よりも努力して優秀にならなくては駄目だ、と父が子供たちに言ったり、サッカーで認められるのは無知な者がとる道だとサッカーを禁じたり、当時のフランス・チームに1人だけ黒人選手がいるのが映されたり、白黒テレビ(そう、1970年代半ば日本ではとっくにカラーテレビだったけれどフランスに来たら白黒が主流で驚いた。チャンネルも3つしかなかった)やダイヤル電話や、見渡す限りの畑と牛の群れとか、懐かしいしおもしろい。

70年代半ばに私が滞在したフランドルの田舎の隣人は「戦後にイギリス人を一人とベトナム人を一人見たけれどあなたは3番目の外国人だ」と言っていた。

日曜の教会のミサに出るのが住民全員の社交の場であることもよく分かる。

ここで、黒人一家がコンゴ(当時はザイール)から来ていることも重要だ。
コンゴはベルギー領(タンタンの冒険のコンゴ編を読むとその様子がよく分かる)であるからフランス語が公用語で、カトリック人口が多いのでフランスと相性がいい。

この映画ではクリスマス・イヴのミサで黒人医師の家族や友人がコンゴからやってきて、ゴスペルを歌いだすシーンが痛快だけれど、今のフランスでも、ブラック・アフリカの中でカトリックがマジョリティの国からの移民はすんなりと地域のカトリック教会に通うので、植民地時代の名残とはいえカルチャーの一部が共通しているのがよく分かる。

レイシズム、無知、子供たち、サッカー、いろいろなクリシェが面白おかしく繰り広げられるのだけれど、全体にエレガントでフレッシュで、楽しい。

このような村に黒人一家が来るだけでもインパクトがあるのに、体を見せたり触らせたりする医者という役割が深刻で、余計に人々の警戒心を誘う。

そこに自治体選挙まで絡んで、思いがけない展開になるのだけれど、夫婦の葛藤もよく描けていて、子供たちによる感動的なシーンには素直に心を動かされる。

この映画が批評家たちにはあまりうけていないというのは、「実話」の持つ意外な予定調和が嘘っぽく安易に見えるからかもしれない。

でも、「よそ者」、マイノリティを前にした時にすべての人間が陥る偏見や警戒や排他性の実態と、それが決してのり越えられないものではないことを教えてくれる小さな宝石のような映画だとすなおに思った。

今のフランスのサッカー・ナショナルチームの半数が黒人からなっているのを見ても、この映画の時代から40年の歳月が経ったことに感慨をおぼえる。

けれども・・・

もう少し視界を広げてみれば、事態は何も変わっていない。

正直言って、大学病院や研究室は別として、総合医と呼ばれるいわゆる町医者(個人で開業しているものや地域の医療センターの勤務医)のレベルで、私はこの40年間、黒人医師を見たことがない。

普通こちらではそういう開業医やセンターには看護師はいないので、看護師レベルの黒人もほぼ見かけない。

それは住民(つまり患者)に黒人の率が高い地域でも同様である。

フランスに多く差別の対象ともなって社会問題となるマグレブ(モロッコ・チュニジア・アルジェリア)系の医師はいる。
むしろ優秀な人が多いと認識されている。

移民の子弟というハンディを負いながら医師になるにはもともと普通より優れた知力や精神力や意志力を必要とするからであるからだろう。
そしてフランスでは医師となるには、医学部とは国立大学の医学部しかない。
1年目から2年目に行く時に9割が落とされ、留年は一度しか許されない(2度目に落ちたら別の学部に映ることは可能だ)。
しかし学費はほぼ無料に近い。
2年目の最初の研修で看護助手の資格を得られるので大学病院でのアルバイトも可能である。3年目から週一度は大学病院での研修が始まり夜勤も始まり、4年目からわずかながら給料が出て、5年目と6 年目では日本のインターンと同じく患者を診療する実地研修があり日本のインターンと同じくらいの給料が出る。
その後の医師国家試験はマークシートなどではない論文などで、その全国順位によって、その後4年間の研修勤務先と専門が振り分けられる。

4年後に博士論文審査に通れば「自由の身」になれる(ここが今回の映画の出発点。しかしその時代はまだ「一般医」に関しては医師免許取得後2年の研修でOKだった)。

開業するにしても、「保険医療外の診察」をできるためには公立病院での一定のポストに数年間つかなくてはならない。

フランスで医師になるには金がかからないし、その代わり、レベルは保証されるということだ。

だから「移民の子弟」にも道が開けている。

彼らに不利なのは、その道を志し、それが可能だと情報を与えたりモチヴェーションを与えてくれたりする環境の部分だ。

で、黒人。

黒人にとっても、基本的には同じはずだ。

それが1975年のリールですら可能だったからこそこの映画がある。

にもかかわらず、私は40年間、身近で黒人のホームドクターを見たことがない。

この映画によってそれに気づいた。

しかも、もっと衝撃的なのは、もしメディカルセンターに行って、ホームドクターを選ぶ(社会保険に届けなくてはならない)時に、黒人の医師と白人の医師がいた場合、自分はまず100%白人の医師を選ぶに違いないということだ。

ふたりの国家試験通過の成績や経歴を比べることはせず、肌の色で選ぶだろうということだ。

一般にフランスでは、医学のフィールドで、アジア人にはまず偏見がない。

インテリほど「東洋医学」への漠としたあこがれすらある。それに対してブラック・アフリカの医療は呪術だという偏見がある。
サッカーのナショナル・チームでは確かに黒人が半数に達しているけれど、国際大会でも、水泳や体操競技には黒人の存在感は極めて薄い。

陸上競技での活躍ぶりと比べるとはっきりしている。

スラム街でもボールを蹴ることができてスターになれるチャンスのあるサッカーと違って、賞金や給金の面でサッカーのスター選手とは桁違いに低く、訓練にも施設や道具などの初期投資が必要なスポーツはブラック・アフリカに不利である。

また、水泳では肌の露出が大きく、「違い」が目立つ。

加えて、「光と闇」「清潔の白と不潔の黒」などの多くのステレオタイプが黒人以外の集合無意識に浸透しているから、「同じ水に入る」ことへの忌避感を促す。

この場合も、日本人に対してはそれがないのは、国の豊かさに加えて、体操や水泳での国際的活躍から見てもよく分かる。

スケートでもそうだろう。フランスで唯一黒人女性スケーターが一世を風靡したことがあるが、そのテクニックと力は評価されても芸術点という名の「優美さ」は評価されなかった。
「白鳥の湖」の群舞に黒人バレリーナは入ることができない(身長、体形など他の多くの基準で落とされる人が多いのは当然だけれど、少なくとも白人やアジア人なら肌の色だけで落とされるということはない)。

アメリカで黒人差別の根が深いことは今現在も世界中の話題になっている。

しかし、フランスに長く住むアジア人である私自身が、もし選択肢があるなら黒人の医者は選ばないだろうという偏見があることに気づいたのはショックだった。

もちろん、信頼できる人から「あの医者は優秀だ」と推奨されたなら別だ。

つまり、同じ条件(その人の優秀さや経歴か分からない、評判も分からない)という場合には、「見た目」で選ぶということで、その見た目が肌の色であるということの衝撃。

「見た目」ということであれば、別に黒人だけが差別されているわけではなく、医療の世界では「40代から50代の男」というのが最も患者の信頼をそそり、どんなに優秀でもたとえば「30歳で小柄で若く見える女性」などは警戒されるのが実情だ。

こういう「見た目で選ぶ」というのは社会的に刷り込まれてきた忌むべき偏見なのだろうか。

あるいは、長い目で見て一種の「自然選択」としての合理性を有しているのだろうか(経験のなさそうな若い医師や心身の下り坂にある年配の医師よりも壮年が確かだとか、家族を支える責任を負っている「男」の方がすべてに真剣だろうとか‥)。

これまで黒人の生徒や黒人とのハーフの子供たちの生徒たちを教えた時にいろいろ考えてきたことを書いてきたことがあるが、これほどあからさまに自分自信の持つ偏見を照らしてくれた映画ははじめてだった。

もっとも、この映画を見て、みな笑って、最後にはほっこりして終わるというだけの人の方が圧倒的に多いだろうけど。

PS :

ふと思い立ってこのブログ内検索で「黒人」を入れてみたら、実に多くの記事で黒人について語っているのをあらためて知った。

ヨーロッパで何十年も暮らしている日本人である私が人種差別の本音について考える場合、一番わかりやすいからだろう。

ちなみにいつものおバカな「猫に置き換えて考える」脳内ゲームをやってみた。

まず、猫の外見が人間とかけ離れていることにはまったく差別感がないどころかかわいくてしょうがないけれど、今、私が倒れて、突然猫の姿の医者が診察しに現れたら、私は身をまかす前に、

「あっ、ち、ちょっと、待って、つ、爪、切ってますか…」

とあわてて聞くだろうなあ。

触診するなら肉球で触ってください。
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by mariastella | 2016-07-22 00:15 | 映画

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』スティーヴン・フリアーズ監督Florence Foster Jenkins

前に『偉大なるマルグリット』(グザヴィエ・ジャノリ監督カトリーヌ・フロ主演)について 書いた時、同じテーマがヒュー・グラントとメリル・ストリープでも制作中だと書いたけれど、それがようやく封切されたので、好奇心満々で観に行った。

50代半ばのヒュー・グラントは久しぶりで年とったなぁという感じだが、俳優になる野心を捨てて楽になった英国貴族の庶子という役どころで、この人が、同衾しないまま25年も続いている別居結婚の妻を本当は愛しているのかどうかよくわからない微妙なところがうまい。

最初の結婚で梅毒に感染したがその後50年も生きながらえた裕福な妻で音楽メセナのフローレンスを演じるのが67歳のメリル・ストリープで、老け役メイクとはいえ、そして10年前とはいえ『プラダを着た悪魔』のような役を演じていた人が、このような老いて疲れた役で説得力ある熱演しているのはさすがだ。

この不思議な二人に、夫の若い愛人と、妻の歌の伴奏をするために雇われたピアニストが絡むのだけれど、ニコラス・ケージを若く小柄にしたみたいな表情の30代のサイモン・マクスウェル・ヘルバーグという俳優がうまい。ほとんどが雄弁な表情だけで語られる。

当然『マルグリット』と比較しようと思って観に行ったのだけれど、実在の同じ人がモデルなのに映画は全く違うので比較しにくい。

『マルグリット』は時代も遡らせ場所もフランスに変えた不思議な人工のおとぎ話の中で、ずっと悲壮で残酷な物語が展開していた。

マルグリットは愛に飢えて精神の病を抱え、音楽耳を持っていて、ただ一つの欠点は自分の声を客観的に聴けなかったことで、録音した自分の声を聴いて初めて幻想が崩壊する。

『フローレンス』の方は実話通りに、舞台は1944年のニュー・ヨークだ。

日本人としては、第二次大戦の末期に日本が戦っていたのはこんなに華やかで裕福な社交界があり、カーネギー・ホールでトスカニーニが指揮していたような国なんだなあ、という感慨がまずある。

ラストに、慰労のために招待された酔っぱらいの海軍兵ら千人がカーネギーホールに詰めかける様子や、フローレンスがショックを受けた酷評の載ったニューヨーク・ポスト紙の一面には大きな字でJapan Sea Power Brokenとか書いてあるなど、複雑な気持ちになる。

フローレンスは、マルグリットとちがって、ぼろぼろなのは精神よりも肉体だ。

精神の方は、ある意味、献身的な夫にいつも見守られていることでマルグリットよりも数段満たされると言っていい。

歌の「下手ぶり」だが、

マルグリットは、自分の出す音を聴けていないということについて、音楽を教えているものの一人としていろいろなことを考えさせられたが、

フローレンスの方は、単に、歌が下手で、テクニックもなく何より体力もない老女が、自分のレベルに合わないレパートリーを無理にうたって当然破綻しているというだけだ。

マルグリットの「音の外し方」は確かプロの歌手が研究してわざわざ音を外してアフレコをしていただけあって、「下手さ」に説得力がある。

フローレンスは実際の声のレコードも残っているわけだけれど、そこには「下手さ」があっても「悲壮さの裏打ち、悲劇の予感」はない。

フローレンスは梅毒による手の神経の麻痺以前にはピアノも弾いていたのだから、平均律のピアノならそれなりに弾けていたということなのだろう。

ピアニストが採用されたのはフローレンスの前でのオーディションで、静かな曲を所望されてサンサーンスの『白鳥』を弾いてみせたからだった。

後日、左手の指は麻痺しているけれど右手指はかろうじて動かせるフローレンスが右手でショパンのプレリュードをぽろんぽろんと弾き始める。
するとそこにピアニストが左手のパートをそっと加えてやる。

この曲は左手の和音のハーモニー進行が美しいもので、私も生徒に教えるときにメロディを意識させるためによくシンプルな右手だけを弾かせて伴奏を私が弾いてやることがある。
単純な右手を支える一見単調な左手の起伏に富んだ表情が上品だ。

このささやかな小さなデュオがピアニストとフローレンスの心を結びつけて彼らを「友だち」に変えた。
そのプレリュードがそのまま突然ジャズ風にアレンジされて、フローレンスの夫と愛人が楽しむシーンに陽気にかぶさっていく。

そのような音楽は効果的に使われているのだけれど、歌の部分は重要ではなくヒュー・グラントとメリル・ストリープのクローズアップが多用される表情のインパクトの方が大きい。

しかし『マルグリット』のような悪意や偽善や絶望が渦巻いていたり堆積したりしていないので、全体的に上品で穏やかで、フローレンスがどんなにエキセントリックでも弱々しいままだ。いつ暴発して崩れ去るかもわからない鬼気迫るマルグリットのようにはならない。

最も情動が刺激されるシーンは、小劇場では空気を読めずに笑い転げて退場させられた教養のなさそうなブロンド女が、カーネギーホールでは立ち上がって、笑い出し騒ぎ出した海兵隊たちを怒鳴りつけ、フローレンスが歌い続けられるように、と熱弁するシーンかもしれない。

カーネギーホールの資料で今も、もっとも人気があるのがこの時の貸し切り公演のものだそうだ。

コンサートの前に海軍総督がフローレンスに感謝の辞を述べるシーンもあった。

アメリカが日本と戦争していなかったら、この日の公演はなく、この映画も生まれていなかったのかもしれない、とふと、考える。
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by mariastella | 2016-07-15 07:17 | 映画

『テレーズの罪』(オードレー・トトゥ主演)の追記

昨夜アップした記事に追記しようとしたら、文字数が多すぎて不可能という表示が出たのでここに追加します。

まず、幽閉生活でぼろぼろになったテレーズが、義妹の婚約者との対面のために無理やり姿を現せて衝撃を与えるシーン。

この時の「厚化粧」の黒いアイラインが流れて黒い涙となっているのが映画のタイトル画像になっている。テレーズの顔はうつろというより挑戦的だ。この画像一枚で、テレーズの内面と外面、個人と家族、世間体の分裂がはっきり出ている秀逸なものだ。)

また、日本語表記を確認するために検索したら、日本語訳が遠藤周作さんのもので、『深い河』の中にも言及されているとあった。この舞台のブルジョワ家族にとって何の疑問もない「世間体第一」の犠牲になるのが常に「母性」を楯にとられる女性だということに日本社会を重ねたのだろうか。遠藤さんはカトリック作家としてその「解放」に「希望」を持ち続けながら深淵の周りをぐるぐるまわっていたのだろうか。

今の日本でも、多くの「主婦ブログ」によって、似たような状況があることを知ることができる。
テレーズに「ブログ」による発信方法や連帯方法があったならああいう展開にはならなかったことだろう。

サイバー世界を経由する「救済」が、同じルートによる「誘惑」を超えると信じたい。
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by mariastella | 2016-06-29 16:29 | 映画

クロード・ミレールの遺作『テレーズの罪(テレーズ・デスケルウ)』

この映画はボルドーから80km離れたロケ地で撮影され、クロード・ミレールは毎朝、撮影前にボルドーで放射線治療を受けていたという。

ボルドーの近くで土地持ちのふたつのブルジョワ家庭が互いの利益のために姻戚関係を結ぶ。
厳しい父のもとを去って仲のいい女友達アンヌの兄ベルナールとの結婚はテレーズにとっては「家族から解放される避難所」だった。

けれども、ベルナールは狩りが趣味で共通の話題もない男だった。

アンヌの方は、修道院のシスターから教育を受ける中で、「神秘的な情熱」を知り、パリから来た男ジャンと恋仲になるが、家族から付き合いを反対される。

アンヌと別れさせるためにジャンに会ったテレーズは彼女の知性や好奇心を理解したジャンとの会話によって、地方にいては想像もできなかった自由なパリの生活に憧れる。

その時すでにテレーズは妊娠していて、子供も生まれるが、不全感はくすぶったままで、心臓病の予防のために少量のヒ素を飲む夫の毒殺を企てる。

それによって彼女が何を求めていたのか、彼女自身も多分分かっていない。

ベルトランの体調はどんどん悪くなり、処方箋を書き換えて薬局に行き薬の量を増やしたことから彼女が疑われた。
しかし妻に毒殺されかけたというスキャンダルを表に出すことはできない。
ベルトランは寝室を分けて娘にも合わせないが妻に弁護士をつけ、日曜にはそろって教会に行き続ける。

自分も偽証してまで妻を不起訴にするが、その後でうちを出て、テレーズを屋敷の一部屋に幽閉する。
テレーズは離婚されるという自由も得られないし、うちから出されることすらないのだ。
実家にも戻れない。父は夫に服従するようにと言い渡す。

召使に見張られながらテレーズは壊れていき、アンヌがしかるべき婚約者を連れて来た時には兄嫁として出てくるが、その変貌は衝撃的で、ベルトランはアンヌの結婚式の後でテレーズをパリで一人暮らしさせる。

テレーズには持参金(土地)があるのでベルトランは彼女を養い続け、大家族だから結婚式や葬儀の度に教会で娘に会えるだろうと言う。
そこまで家族が崩壊しても、教会の行事に出席することが「秩序」なのだ。

それでもパリで憧れのカフェのテラスに座るテレーズは「再生」し、はじめてベルトランに謝罪する。

いったいどうなるのか、と飽きないで見ることのできる映画なのだが、何事もはっきりと表現されないので理解できないまま終わる、という感想を持つ人がいるかもしれない。

原作はモーリアックの有名な小説『テレーズ・デスケル―』だ。

テレーズにはモデルがいる。1905年に夫の毒殺未遂で逮捕され、無罪になったが処方箋偽造で有罪になったブランシュ・カナビィという女性だ。

モーリアックは家族という檻に閉じ込められた女性が、野生動物が檻の中をぐるぐる回るようにしてやつれていく孤独を書きたかったと言う。

原作のテレーズのモノローグから三つのテーマが浮かび上がる。

その一つは生物学的女性の条件の悲惨さだ。
ブルジョワ家庭では女性が「子孫を創る」装置でしかなく、しかも産褥死が多かった。
テレーズの母も産褥死し、父は女性蔑視し、テレーズには性の禁忌が刷り込まれていた。

義妹となるアンヌの方は宗教的な環境でシスターたちに囲まれて「イエスへの愛」などを知るのに、テレーズの父は地方の左翼の無神論者でテレーズも不可知論者であり、愛の表現を知らないのは皮肉だ。
しかし、無神論の実家と敬虔なカトリックの婚家は、利害が一致すれば問題なく姻戚関係を結ぶ。
その偽善にテレーズは傷ついている。

もうひとつは地方社会の閉鎖性への反抗だ。

カフェのテラスに座れて群集の中で匿名の一人になれるパリと違って、家の中で所有され、支配され続ける生活はテレーズを蝕む。
パリのことを語るジャンは、ボルドーからパリに出てきてその自由さを知った若きモーリアックの姿だ。

婚家が敬虔なカトリックと言っても、それは信仰ではなく、女子供が既成秩序に服することを担保するものであり、地方の名士としての「外面」であった。
だからこそ、宗教上の罪である離婚もできないし、名誉のためにはスキャンダルをもみ消す。

個人の幸福は犠牲にする。その意味で、毒殺を試みたテレーズも毒殺されかけた夫も、犠牲者である。

テレーズの罪も「神を信じていない」からだと責められる。
神、というより罪に対する神罰を恐れていたらこんなことにはならなかった。
恐れは知恵の始まりなのだ、と彼らは言う。

婚家にとって、愛の神や赦しの神はいない。
だからこそ、世間的には偽証してまで不起訴を勝ち取っても、テレーズを赦すわけではなく、残酷に徹底的に復讐、報復する。彼女の人格、尊厳を奪ったのだ。

三つ目のテーマが、最後にテレーズが得たかに見える「女性の解放」である。

しかし、カトリック作家であるモーリアックの最大のテーマは、テレーズのように、怪物でもない「普通の女性」がなぜ夫の毒殺という恐ろしい行為を実行に移したのかということだろう。

古代ローマで皇帝クラディウスを暗殺た連続毒殺魔ロクスタ以来、女性が計画的に人を殺すとはどういうことなのか。
激情に駆られての殺傷ではない。
「意志」があった。

人を殺すような選択をするのは「ひとでなし」、「怪物」なのだろうか。

『テレーズ・デスケルー』の第一稿のタイトルは『良心-神の直感』というものだった

キリスト教の言葉としての「良心」は、人が直感的に抱いている神的な意識であるという意味だ。

ではどうして人は良心に背く、神に背くような行為をするのだろう。

それは神が自由意志を人間に与えたからだ。自由意志という病を人は抱えている。

だとしたら、それを行使したからといって、それは被造物である人間の責任ではない。

『テレーズ・デスケルー』の冒頭にはボードレールの『パリの憂鬱』の「マドモワゼル・ビストリ(外科刀)」の一節が引かれている。

主よ、憐れみたまえ、狂った男たちや女たちを憐れみたまえ!
おお、造物主よ! 彼らがなぜ存在するのか、どのように造られどのようにすれば造られないですんだのかを知っている御方の眼に、怪物など存在できるでしょうか。

というものだ。

ボードレールのその一節の前には

「造物主よ、支配者よ、「掟」と「自由」を造りたもうた方よ、なすがままにさせたもうた主よ。」

という呼びかけがある。

「掟」と「自由」の両方を作ってなすがままにさせたのは造物主なのだ。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。(ローマ人への手紙8-20)」とある通りだ。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。

けれども希望があるのは、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(同21)」

すなわちキリスト教の信仰においては、実は、「自由」とは自分の限界を超えて、神との関係に参入する自由なのである。

信仰のなかったテレーズにはその「自由」がなかった。

だから「希望」もなかった。

テレーズはランド地方の荒れ野に住み、心も荒れ野をさまよっていた。

旧約聖書の詩編63は、ダビデが荒れ野にいた時の賛歌である。

神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。

テレーズは乾いた時に神を求めるすべを知らなかった。

それでも、神は、テレーズに、憐れみと慈しみの眼を向けている。
人間には神を求めない自由があるが、神には選択肢はない。

一方、原作と映画ではいろいろなことのニュアンスが違っている。

テレーズの夫のベルトランもまた妻と同じように、この時代のこの階級のこの地方の犠牲者であったというとらえ方がはっきりとわかるようになっている。

ベルトランは妻の心を忖度できず妻の知性を理解できない自らの愚鈍さの犠牲者でもある。

けれどもベルトランはこの、自分の周囲の女性にはない個性を持ったテレーズに惹かれていて、テレーズから愛されていないことに最後までフラストレーションを抱いている。
それをジル・ルルーシュがうまく演じている。テレーズがオードレー・トトゥだから説得力がある。

テレーズは原作ではモノローグで内面を語るが、映画では外に出る台詞しか聞こえない。

オードレー・トトゥーが原作を読んでいたかどうかは知らないが、シナリオの自分の台詞すべての横に「内面の声」「テレーズが本当に言いたいこと」を書きつけていたそうだ。
それが彼女の表の台詞に深みを与えている。

それはジル・ルルーシュもそうで、この時代のこの階級の習慣で互いに敬称で話しているのに、時々二人共親称が飛び出ることがあり、それが内面と外面がショートした火花のような効果を出している。

原作では回想形式になっているものを時系列で撮影し、ラストシーンでパリの待ちを歩くテレーズの表情から、群衆の中で匿名の存在でいられることの喜びがにじみ出ていることで、映画は「解放」や「自由」を強調している。

モーリアックの視線が「神が自分の創造したものに対する憐れみ」に徹しているのとはかなり違う。

考えてみると、女性の毒殺者をヒロインにした映画はいろいろある。

毒殺という「選択」には実存的な絶望があるのかもしれない。

死を間近にしたクロード・ミレールは、それでも、「希望」を描きたかった。
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by mariastella | 2016-06-29 08:51 | 映画

ロマン・ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』

そんな暇はないのに、ついついArteでロマン・ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』を見てしまった。

2013年のカンヌの上映作で、当時何度もメディアで取り上げられたから概要は知っていたけれど、どう考えても私の好みのテーマではなく、ロマンスキーの妻でヒロインのエマニュエル・セニェも、若き日のポランスキーとそっくり、と話題になった舞台監督役のマチュー・アマリックも好みの俳優ではないので、スルーしていたのだけれどテレビで見てやはりすごいなあと感心した。

エマニュエル・セニェは、元となった戯曲のテキストを読んだポランスキーがすぐに「これは彼女だ」、と思ったというくらいだから、ぴったりだ。

彼女は名女優だ。この2人劇の膨大なセリフも祈りのように自然に繰り返して唱えられるくらいに記憶したと言っている(この祈りはいわゆる「ロザリオの祈り」のようなものをイメージしているのだろう)。

戯曲のさらに元ネタはオーストリアのマゾッホの自伝的小説で、戯曲はアメリカのものだったけれど、ポランスキーは今のフランス、というより「パリの知識人」の共同幻想に基づいてアレンジしている。

あらためて、世代は違うけれど、ポランスキーもセニェも、知的レベルの高さと妄想力の強さで似たもの夫婦なのだなあと思った。

セニェは、コメディ・フランセーズの名門のアーティスト家系でパリのブルジョワ地区で生まれ育っている。
演劇が国家のアイデンティティの肝であるフランスのエリートだ。
ポランスキーはパリで生まれているが、時代背景もあって波乱含みの少年時代を送っている。

で、2人共、才能があるだけではなく、教養が豊かで、にもかかわらずフランス特有の「インテリ-左翼-無神論」のスタイルがある。
映画でも強調される「ヴィーナス」の「異教性」もその表れだ。

映画の中で、ヒロインが、監督トマの妻のことをなぜかよく知っていることが分かるのだけれど、

「ルイ・ルグランのカーニュを出てノルマル・シュップのユルムね」

と言い、トマが

「いや、アンリ・キャトルでエセックだ」

と訂正するやりとりがある。

ルイ・ルグランとアンリ・キャトルはフランスのエリート養成機関であるグランゼコールの準備校の中でも双璧をなす国立学校で、ユルムのノルマル・シュップはパリの高等師範学校で最高の知性が集まり、エセックESSECはやはり一流のビジネススクールで、いずれも「庶民」にとっては違いすら分からない高嶺の花であり、「カーニュ」という言葉すら知らないだろうが、こういう細かい訂正の会話がさらりと通じているのがますます登場人物やポランスキー夫妻のエリート性を印象付ける。

ポランスキーは登場人物が3人であるほぼ処女作の『水の中のナイフ』を撮った時からもう、いつか登場人物が2人だけの映画を撮ってみたいと思っていたそうで、40年以上も経ってそれを実現したわけだ。

といっても、この2人の登場人物は、劇中劇の登場人物を演じながら、現実乖離して二重になっていく。
そこに「ポランスキーと似たアマルリック」と「ポランスキーの妻セニェ」が、「夫婦の妄想」みたいなものをメタ構成しているので、登場人物は、実は2人というより、6人が複雑に絡み合っている。

けれども、ポランスキーと似ていると言われたアマルリックは、当初のキャスティングではなく、当初考えられていたのはなんと『サン・ローラン』にも出てきたルイ・ガレルだったそうだ。

もしセニェより20歳も若い美貌のガレルが演じていたら、印象はずいぶん変わっていただろう。デカダンス性や倒錯性は高まっていたかもしれない。

一方、アマルリックは、ポランスキーに似ているとか似ていないというより、非常に「フレンチ・エレガンス」のある人だということがこの映画で大きな意味を持っている。

フレンチ・エレガンスというのは、情感、情緒、感動などを決して外にはマキシマムに出さないというところにある。生の「感情」を抑えるが、それは単なる抑圧でなく、まさにエレガンスで、別の形に加工して表に出す。

この映画でアマルリックが演じるトマは「見知らぬ女優に翻弄されて右往左往する男」を演じているわけだが、欲望と支配-被支配関係が変化する。女による最初の韜晦の後で、互いを同じレベルのエリート同士と理解した故に、劇場という密室での監督という「優位」を維持できない葛藤が生まれる。

彼女の台詞、彼女のしぐさ、彼女の即興などを目にし耳にするたびに、トマの顔が輝く。

これはこの映画の評で巷に言われているように、彼が自分のマゾヒズムに目覚めるとか欲望のとりこになり魔女の手にかかって地に堕ちていくというようなものではない。

このような状態に置かれてもなお残るトマの抑制、トマのエレガンスそのものがぞくぞくするくらいに刺激的なのだ。
知的に同等であるという認識を共有した男と女の間では、欲望が大きい方が欲望の対象から支配される。

(追記 : 通常女性より社会的にも腕力的にも優位にあることに慣れている男性が、「同等」の立場に立たされて、しかし欲望は大きいということで被支配の立場に置かれるというケースが多い。この映画もそういう構造になっている。セニェの方がアマルリックよりも背が高いのもおもしろい。しかしそれは別に(逆支配を内包する)マゾの喜びではない。純粋につらいのだ。その様子が、それを感知するセニェに全能感を与え女神が完成する、という意味ではフェミニスト映画かもしれない)

この映画を、フェミニズムの映画だという評もあり、いや、表面的にはフェミニズムによって男を支配しながら実は男による逆支配がある、という評もある。
つまり男のつくった映画である限り、表面に現れるフェミニズムの主張は、まさにマゾヒストの男が女に無理や女に男を鞭打たせているような倒錯的逆支配だということだ。

ポランスキーはそんなことは考えていないと思う。

彼は日本のポルノ映画のマゾの表現を観て驚いたと言っている。
その驚きが投影されただけで、フェミニストのふりをするつもりなど最初からないのだと思う。

この映画のシチュエーションを楽しみ、トマが深みにはまり状況が重くなればなるほど自由でシンプルに楽しんでいるに違いない。

その自由さ、シンプルさ、に観客は引き込まれるので、マゾの映画とか、ブラックコメディだけなら、他にいくらでも刺激的なものがあるだろう。

登場人物の2人の知的な駆け引きで面白いのは携帯電話だ。

トマと一緒に暮らしているインテリの「フィアンセ」からワーグナーのオペラの呼び出し音で二度電話がかかる。

この気まずさだけは、エレガンスでカバーできない。

アマルリックの魅力が切断される。

そして戻ってきたら、二度ともセニェも電話中である。

二度目は、話しているふりをしているだけだろう、と看破する。
この一度目と二度目との間の2人の理解度、力関係、ストレスの変化が、彼の「看破」に現れる。

それは知らぬ間に翻弄されだんだんと深みにはまったというよりは、むしろ自主的な「選択」に近づいたということだ。

だからそれ以後のトマの女装やらさまざまな幻想やらは、どう見えようとも「祝祭」なのだ。

「うっかり魔性の女に騙されてマゾの火遊びをしていたら大変なことになってしまった」

などという話では、ない。
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by mariastella | 2016-06-09 20:57 | 映画

『地下室のメロディー』のギャバンとドロン

映画を観ていて、俳優の年齢と自分の年齢で見方が変わるということを前の記事で書いたが、先日TVで『地下室のメロディ』(アンリ・ヴェルヌィユ)を本当に久しぶりに見て、また感慨深いものを覚えた。

1963年公開のこの映画はジャン・ギャバンとアラン・ドロンが最初に共演した犯罪映画だ。

若い頃のドロンって犯罪映画がよく似合う。

で、この映画とか『太陽がいっぱい』とかは、私が中学生時代くらいに同時代的に観たものだ。

その時のジャン・ギャバンはすでに「年より」のカテゴリーの人間として私にインプットされていた。

今思うと、1962年の撮影時のギャバンは、58歳でしかなく、今の私より若いのだ。

でも老け顔だし、こういうキャラなのだからたとえその前の映画を観ても「年配者カテゴリー」に入れていたと思う。その上、ギャバンは私がフランスに住むようになってすぐに亡くなったので、「同時代性」はない。

それに対して、ドロンは今年81歳になるが、別に知り合いではないけれど、この40年を同じ国で同じ言葉を話して共に生きてきた同時代人という感じがある。

だから今のドロンを見ても、「81歳のおじいさん」というカテゴリーには入らず、『太陽がいっぱい』や『地下室のメロディー』の美男チンピラが年齢を重ねてきた姿、に見えるのだ。

今はビデオでも何でもあるけれど、昔は一般人の子供の頃とか若い頃の姿などは古い写真や無声の8mmフィルムでしか見ることができなかった。
今はもういない自分の家族や、もうお互いに年を重ねた友人たちの声やしぐさなど若い頃の姿は「思い出の中」にあるだけだ。

それなのに知り合いでもない映画俳優の姿は、実際にあったことがなくても、今でも昔の映画の中で話しぶりやしぐさを追認できる。それと共に、懐かしさや時の経過による変化などをたっぷり味わえる。

それにしても、若い頃のドロンの美貌というのは今見ても独特のものがある。

この『地下室のメロディ』の役にしても、はじめはジャン=ルイ・トランティニャンが予定されていたのに、ドロンが無給でいいから、と自薦したのだそうだ。そのかわりに中国、ロシア、日本への配給権をもらい、すぐに日本語字幕を作成して日本にプロモーションに行って大ヒットしたのだそうだ。

なんだかすごいマーケティングのセンスのあるエージェントがついていたのだろうか。

もともとスポンサーがアメリカ資本のMGMで、監督のヴェルヌィユとシナリオのモシェル・オディアールと主役ギャバンの三者による作品を三本制作という契約の中のひとつで、アメリカでは無名のドロンには食指が動かなかったのだという。

このころの映画を最近になって見るといつも思うのは、登場人物がいつでもどこでもタバコを吸っていることだ。それを別にしたら、昔日本で字幕で観たフランス映画を今フランス語で細かいニュアンスまで全部理解できるというのはいつもながら新鮮だ。

台詞があまりにもよくできているので、これを字幕で観ていた時っていったいどういう風にインプットされていたのだろうと不思議だ。

その中で非言語的なテーマ音楽だけが強烈にノスタルジーをそそる。

内容はと言えば、最初のシーンで1960年代に、パリ近郊に多くの集合住宅の建築ラッシュがあったことを思い出したり、今ちょうどカンヌ映画祭開催中なので、犯罪の舞台がカンヌのカジノであることなどに親近感を覚えたりする。

アラン・ドロンの映画デビューが、職を探していたドロンに「そんなにハンサムなのだからカンヌ映画祭の時に浜辺を歩いていればきっと誰かから声をかけられるよ」と言った人がいて実際そのとおりになったというエピソードも想起される。

彼は別に私の好みではないけれど、さぞやオーラのある美貌だったのだろうと、この映画でも想像できる。

私が子供の時にピアノのレッスンに通っていた近くの商店街に「貸本屋」さんがあって、『映画の友』という雑誌をよく借りていた。

兄から、「世界一の美男がアラン・ドロン、世界一の美女がエリザベス・テイラーとされている」と聞いて、なるほどいつもこの2人の写真が載っていたのを眺めていたことを思い出す。

その2人のうち、エリザベス・テイラーは私にとって最後までヴァーチャルで、スクリーンの上の人、雑誌のグラビアの「外国人」だったけれど、何十年も同じ国に住むアラン・ドロンは、いろいろなインタビュー記事やラジオやテレビで肉声を聞いているうちに「昔から知っている人」みたいな存在になるとは本当に不思議だ。

で、映画としては、よく言われるように、ドロンとギャバンの台詞が一切ない最後の数分のためにあるようなもので確かによくできている。

2時間も犯罪者に付き合わされると彼らの計画が成功するのを期待する気持ちになるので、どうして別のカバンを用意しておかなかったのかなどとつっこみたくなる。

最後のシーンの無情感、不条理みたいなもののインパクトはすごいし、あそこでどんなにパニックになったとしても、カバンをプールに投げ込むというのだけはあり得ないだろう、という最大のつっ込みはなぜか浮かんでこない。

そのことが、演出の力と若きドロンの名演とを最も雄弁に語る。
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by mariastella | 2016-05-18 02:09 | 映画

François Desagnatの『Adopte un veuf(男やもめと暮らす)』。

芝居に続いて、フランスらしい映画を観に行った。

François Desagnatの『Adopte un veuf(男やもめと暮らす)』。

主演がアンドレ・デュソリエというのが好みだ。

役者としても好きだけれど、最近、自分の周りにいる男たちと同年輩の男が主人公である映画に興味が湧く。

若い頃には「70歳の男」というのは祖父とか父親のカテゴリーの他者だった。

今私の周りにいる60代から70代の男たちの多くは、若い頃から知っている人たちで、「70歳の男」ではなく「70歳になった男」である。だからデ・ニーロの『マイ・インターン』だの『ニューヨーク眺めのいい部屋売ります』などもおもしろかった。

もっとももそんな映画でも、ヒロインの方は若いことが多い。
それは嫌ではない。私は脳内オッサンの部分があるのでどうせスクリーンで眺めるなら若くて好みの女優を見たい。自分のことは外から見えないので、自分も「高齢者になろうとしている元若い女性」だという認識はないし、昔から知っている同年輩の女性たちもみなまだ若くてきれいに見えるので、「年を重ねたことによる哀愁」というのは感じられない。

でも、男たちの哀愁は時々半端ではない。

この映画の主人公であるリタイアした産婦人科医のように突然伴侶に先立たれた男はなおさらだ。
産婦人科医であるのに妻が子供を持てない身体だったという設定もむなしさや寂しさを加える。

そこに登場する気のいいパン屋の女性や、底抜けに明るい女子学生や根暗の女性看護師など、こちらは誰も私の好きなタイプの女優はいないのだけれど、彼女らのデリカシーのなさやエネルギーが傷心のやもめに少しずつ命を吹き込んでいく。

ひとりで広いアパルトマンに暮らすユベール(デュソリエ)のところに転がり込む女子学生役のBérengère Kriefはいわゆるお笑いの舞台芸人でパワフルだが、その過活動ぶりが演技なのか天然の持ち味なのか分からない無邪気さを併せ持つ。

予定調和的な筋運びのコメディなのだけれど、ユベールは、この「はれた惚れた」で暮らす若い人たちの間で別世界の人間のような立ち位置になっている。
まさに、「70歳のやもめ」でしかなく、決して「70歳になった男、やもめになった男」、ではないのだ。

私の目にはユベールが過去も含めた「男」に見えるので、その断絶ぶりが不自然なくらいだった。

デュソリエの作品を自分も彼も若いころから同時代的にたくさん見てきているからそう思うのかもしれない。

今カンヌ映画祭の最中で華やかな話題があふれているけれど、当分は映画も見ないでまじめに仕事をすることにしよう。
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by mariastella | 2016-05-17 00:14 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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