L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:哲学( 16 )

星の王子さまとプラトンとパスカル

星の王子さまについて前にこんな本を読んだ記事を書いた。

最近、ラジオのコメントと、ある論文を読んだことで、なるほどなあと思った。

ラジオのコメントは、星の王子さまは、jeunisme(若者中心主義というか若さ礼賛主義)のバイブルになっているというのだ。

大人たちが、子供時代の自由な発想、物事の本質を直観する力、といった幻想の楽園を懐古する教えだと。

子供たちが「星の王子さま」を読んで気に入るのは、最初の絵解きのところとキツネとのやりとりの一部だけだと。

まあ、そう言われてみれば納得できる。
よく人生の指南書みたいに扱われているからだ。

もう一つはフランスのDEAの論文で「星の王子さま」のイデオロギーのルーツを分析したものをネットで読んだことで、日本などでは特に「星の王子さま」由来であるかのように言われている様々な警句のほとんどすべてが哲学者や神学者から来ているものだというのが一望できた。

ある意味で、フランスの貴族家庭に生まれ、しっかりと道徳教育を受け、カトリック系の学校に行き、哲学の授業を受けて哲学のバカロレアを通過したというサン・テグジュペリが、20世紀前半のフランス上流の文化生態系の産物だった、という当たり前の事実である。

日本でもえらく有名な星の王子さまに与えるキツネの教え。

「じゃあ秘密を教えるよ。
 とてもかんたんなことだ。
 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
 いちばんたいせつなことは、目に見えない」

というやつだ。

On ne voit bien qu'avec le coeur,
l'essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくてはよく見えないってことさ、
本質というものは目に見えないんだ)

 
本質というのを「かんじんなこと」と訳すものもある。

「本質は目に見えない」というのはプラトンだ。

「心で見なくてはならない」というのはパスカルだ。


プラトンは「善」を至高のイデアだとする。太陽が近く可能な光のすべての源であるように、「善」は知的な光の源である。「善」は、それ自体は目に見えないが、物事を見えるようにしてくれるものだ、とソクラテスに言わせた。

パスカルは、

C’est le coeur qui sent Dieu, et non la raison. Voilà ce
que c’est que la foi, Dieu sensible au coeur, non à la rai-
son (Pensées- 278).(神を感じるのは心であって理性ではない。信仰とはこれだ。神は心で知覚できるもので理性ではない(パンセ278)

と言う。

これを普通の日本人が目にしたら、遠い国の遠い時代の別々のことに聞こえるかもしれないけれど、サン・テグジュペリの生きた文化生態系においては、自然に結びついている行動指針の言葉だった。

よく見てみると、肉体の器官としての「目」と「心」を対比しているのではなく、「理性」と「心」の対比であり、それが見る「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」というのは実は、「善」であり「神」なのだ。
特定の価値観が前提になっている。

日本語訳が「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」とあって、「「いちばんたいせつなもの」とか「かんじんなもの」とはなっていないのは本質をとらえている。
「善」や「神」は、「もの」ではなくて「こと」だからだ。

けれども、パスカルがあれほど悩んで「理性」から「心」に「転向」して「パスカルの賭け」を決意したのだけれど、今の「無意識心理学」によれば、理性と心は実は対立関係にあるわけではない。

「判断」「識別」には感情が大きく関係している。いや、感情抜きでは、情報の収集と分類はできても、絶対に結論に至らないという。
理性の機能をつかさどるのは感情だ。情報を最終的に処理するのは「心」だ。

脳と心は同じものではない。脳は頭蓋骨に納まった器官で、様々な働きをするが、「心」はネットワークの中にしか存在しない。心は脳と脳が相互にかかわった結果生まれるものだという。

パスカルにこの知見を読ませたかったなあ、と思う。
(私がパスカルと話したかったと前に書いたのはこういうことも関係している。)

理性と心に関するこのような知見に至るまで、西洋思想の文脈では、プラトン、アウグスティヌス、パスカル、サン・テグジュペリは一連であって大きな変革はなかったのだ。
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by mariastella | 2017-01-06 00:05 | 哲学

エリカのパーティに招かれている

ソリプシストK研究の第一人者(というか唯一の専門家)エリカがアパルトマンを改装したのて゛、Kの本の改定版が出る記念もあってパーティを開くことになった。

日本で10年働いたことがあるというエリカの妹もちょうどアメリカから来ている。

Kについては以前のブログ記事を見てください。

他は出版関係者が多いが、ダンサー、画家、絵画修復家、家具職人が一人ずつ。共通語はエリカの妹をのぞいてフランス語だ。次の金曜日の夜に招かれている。

エリカのうちでのパーティと言われると、なんだかÉric-Emmanuel Schmittの『La Secte des égoïstes』を連想してどきどきしてしまう。エリカに最初にKの話を聞いた時も、私はシュミットのこの小説のことを引き合いに出してその違いを解説されたというのに。

エゴイストとかエゴサントリスト、つまり自己中心主義者は、他人の存在を想定し、認めて、その上で他と比べた自分の優越や優先や利益を掲げているのだから、ソリプシストとは言えない。ソリプシストにとって存在するのは自分だけだから、他人は存在しないが、それは見かけの他人だの環境だのというものが実は「自分」であるということでもある。ソリプシストは他人と争わないし、敵を負かす必要もない。競争原理やパワーゲームは存在しないのだ。

ある意味で、私が直ちにエリカやKに惹かれたのは、あまり認めたくないけれど、私も実はソリプシスト的感性を持つ人間で、そういう人間は互いに互いを見つけるのかもしれない。

なぜなら、相手もまた自分でしかないからだ。

ヴェルサイユからの帰り、トリオのアーティストHとラモ-について話しながら、ふとそんなことを考えた。

もう一人の仲間のMの方は、非常に閉鎖的な人間だが、明らかに、自分と信頼関係を結べるパートナーを絶望的に必要としている。

Mに比べると、人間関係をうまくこなしているように見える私やHには、表面的な「人なつこさ」の下に、実は、「他人を他人としては必要としていない」というソリプシストの強靱さが隠れているような気がする。

私とHとは、性も世代も人種も生育環境も大きな隔たりがあるわけだが、私は最初から彼の内面が手に取るように分かった。というか、手に取るようにしか分からなかった。考えたら、ラモ-にも同じ匂いがする。

ソリプシストは「自分」という限界を設けたり分節したりしないのだから「孤独」ではない。
でも、自分の「外」に「隣人がいない」という意味では孤独である。

だとしたらそれはショッキングなことでもある。

「汝の隣人を愛せよ」というのが厳密には成り立たないからだ。

それは恐ろしいことでもあるが、また、「神を愛する」というのと「隣人を愛すること」とセットになっている本当の意味もそこに潜んでいるような気がする。

それが人格の乖離、パラノイア、神秘主義者の世界に踏み込むことになるのか、あやういケースもあるだろう。

でも、そこまでいかなくとも、「ソリプシスト」体質というのはあるような気がするし、この頃それがようやく分かってきたのでもう一度Kを掘り下げてみたい。
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by mariastella | 2012-09-19 00:48 | 哲学

ソリプシストKのための覚書10

 エリカの新訳が出た。

http://www.decitre.fr/livres/Oeuvres-completes.aspx/9782729118785

 私はデータでも持っているからいいけれど、重くて字が細かいので、何かこれから先Kと付き合っていくのが難しい。

 エリカは7月から半年間ウィーンに招かれてパトチカの哲学書の翻訳のチェックにとりかかるそうだ。

 今、代替医療の陰謀論的構造について考えているので、エリカにその話をしたら、つまり、気功とmagnétiseurとが同じ原理ではないかという話をしたら、彼女は自分の体験を話してくれた。一度magnétiseurのところに行ったら、あなたは狂気の淵にいると言われて、治療されずに金も取られずに追い出されたそうなのだ。それって、ある意味怖い話じゃないか?

 で、お勧め代替医療として、有名なホメオパシーの医者を紹介してくれた。

 これがなんと、

 ユニシスト uniciste

なのだ。

 ソリプシストの次はユニシストかい。

 ホメオパシーは子供や動物にも効く。まあ、得意分野とそうでないのがあるのだけれど。

 フランスではどの薬局でも安く売っているので、うちにも常備薬としていろいろある。子供の蕁麻疹がすぐに消えて助けられたこともある。他の薬の副作用が消えたこともあった。

 そういう標準薬と違って、ユニシストはまったく違う処方をする。しかも予約に半年待たされたりして信頼のほどを試されるのだそうだ。基本は紹介制。フリーメイスンみたいだなあ。

 どんな宗教でも、中途入信の動機は「持病の治癒」が一番強力だ。障害や痛みが消えるということが人にもたらすインパクトは計り知れない。その前では障害や痛みを受け入れる意味付けなんてふっとんでしまう。

 自己治癒力やプラセーボ効果は今でもすべて謎の領域だ。

 私のような懐疑とネガティヴ・スパイラルの人が「奇跡」を体験したらほんとうに「回心」とかするんだろうか。多分そういう奇跡や回心がセットになっている地平とは別の地平で私は痛がったり思考したりしているような気がする。

 
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by mariastella | 2010-06-01 18:16 | 哲学

Ludibrionisme(ソリプシストKのための覚書9)

 サイトの掲示板でKの 「Je suis LUDENS absolu」という文が引かれていたので少し。

 Ludibrionisme は、K のソリプシスムのシステムにおいては重要なものの一つである。
 
 私には何となくシュールリアリズム系のイメージがあったのだが、K にとってはこの世の不条理からの逃走、絶望のねじ伏せの香りがする。

 K の中ではいろいろなISMが循環していて階層化しにくい。

 私がK の文の難解さの前で尻込みする理由の一つは、頭の隅にエリカのフランス語能力への不信感が拭いきれていないからだと思う。今日ついにそのことを遠まわしにエリカに言ったら、K の原文の方が難解で、エリカの翻訳のおかげで理解できたことがたくさんあるとチェコ人から感謝されているのだと言われた。

 11月にはチェコに行き、パトチカの国際学会の報告書をチェックして英仏語とチェコ語の翻訳語の検討をするのだそうだ。メール文書を送ってもらえないのかと聞いたら、メールではチェコ語のアクセントがとんだりスペースがあいたりとても細かいチェックができないそうだ。

 パトチカでさえ、翻訳は、伝言ゲームみたいに大変なことになって内容が変わっているケースもあるそうだ。
 例えば、彼にとっては重要な1936年に書いた論文は、カナダに移住した英語使いのチェコ人が、フランス語に逐語訳して、それをもとにベルギー人がリライトしたものだそうだ。たとえば、現象学にはよくあるKinesthésie(この言葉は、バロック音楽奏法でも使われる。バロックバレーでも重要な身体運動意識概念だ)という言葉を知らなかった訳者が、わざわざ「これはSinesthésie (共感覚)のことでしょう」とパトチカに言って変えてしまったというのだ。パトチカは絶望のあまり「ああ、それはいいですね」とか言って礼を言ったらしい。パリで学んだパトチカはフランス語が分るのでそのフランス語訳のひどさにがっかりした。
 そのひどいフランス語訳を読んで引用したイタリア人学者が、学会発表のためそれを学生に英語に訳させて、報告書ではその英語からまたチェコ語に戻されたので、最初のものとは似ても似つかない代物になっていた。ひどい話だ、
 
 昔、ノストラダムスの『予言書』の訳が、世界の終わりだとか歴史上の事件を予言していると類の話がはやったが、あの時も、日本の訳は英語からの重訳がほとんどで、もともと分りにくい詩がなおさら変な風になっていたのを思い出す。たとえば、原文のフランス語で動詞の原型がぽつんと置かれているのを、英語でも対応する動詞になっているのだが、英語では原型と現在形が同じであれば、日本語ではそれがちゃんと活用しているように訳されていたりした。ある意味で分りやすくなっているが恣意的だ。

 言語の壁はやはり大問題だ。私は個人的には、思想の核というのは非言語領域にストックできるような気がするのだけど、それを元の言語と違う言語で取り出すときには、逆の操作をした時にまた元に戻るかどうかというのは確かに微妙だし。

 エリカが pdf で送ってくれたテキストの分は、例えば Ludibrionisme で検索すると当該箇所が次々出てくるからこれはありがたい。もう少しじっくり読む時間が取れればいいのだけれど万聖節の休みはトリオの録音にかかりきりだったし・・・ そのうちもう少しまとまったことを書きたいが今はメモだけ。
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by mariastella | 2009-11-10 09:25 | 哲学

K のソリプシズムの考えかた その後

 必要があって、手元にあったD・クーパーの『反精神医学』(岩崎学術出版社)を35年ぶりに読み返した。

 関心のあり方が変わると本が変わる。本も環境と同じで、自分との関係性の中で始めて存在するプロダクトであるんだなあ、と今さらながら思う。
 この人の「反精神医学」の実践は今どうなっているんだろう、とネットで検索してみたら、なんと、1986年に55歳の若さで亡くなっていた・・・・

 35年前も、脱自(Ex-stasis)と入自(en-stasis)と宗教神秘体験の関係に注目したのだが、今回は、私があるという存在(=being that I am )と私があるという無(=nothing that I am)という切り口に特に反応した。

 「私」が戦略的に解体した非存在とは、特殊な限定された無であって、それは一般的な空虚とか無効化された存在(=a-voided being)ではない。
 一般的な意味での自我的な「存在」と、非特異的な無との2極に拡散される間の微小な地点に「具体的特異的な私の存在」がある。

 今、11月下旬に出る『自由人イエス』(C・デュコック、ドンボスコ社)で展開された「自由」論を、宗教としてのキリスト教の言葉を使わずに書きなおす試みをしているのだが、それにすごく役立ちそうだ。

 Kのソリプシズムの理解にもつながりそうだ。

 K のソリプシズムについては、はじめは、無神論の一形態かと思った。

 次に、神秘主義のヴァリエーションかと思った。

 今は、哲学的自由論の枠の中で語れると思っている。

 ソリプシズムは自我的でない自由の一形態であり、自己の解体と再統合を可能にする練り上げられた生存戦略の一つなのである。

 実は、最近読んだ大井玄さんの環境と自己論には、正直言って、そのバイアスのかかり方にがっかりした。こういう、「はじめに結論ありき」という論の立て方は誰でも陥りやすいので要注意だが。
 でも、まあ、人間が実存的不安や情動を最小にするために世界や自己やその関係を仮構するというのは分るので、その仮構の仕方が「キリスト教世界 対 非キリスト教世界」だったり、それがいつの間にか、「西洋近代の無神論的物質主義 対 多神教的協調世界」になってたりとぶれるのも、分らないではない。そういうのを整理するためにこそ、私は無神論の系譜研究を始めたのだから。

 どういう世界の仮構の仕方が、最も平和と共存を望めるのかという問題はもちろん複合的なのだが、それには、「自由」の問題の根本的な検討が必要になる。Kのソリプシズムは一つのユートピア的自由地点である「特異化した無」を標榜することによる「遍在」の試みなのかもしれない。

 D・クーパーは、正常と狂気を対立項におかない。正常の反対は異常であり、統計学的概念に過ぎない。ある種の「精神病者」とレッテルを貼られた人は、単に「正気」を選択しただけかもしれないという。「異常で正気」という組み合わせもあるのである。

 精神異常についてもそうだとしたら、いわゆる生活習慣病もそうかもしれない。
 各種検査で「異常値」が出ても、それは、必ずしも、「病気」とイコールではない。正常値とは健康な人の検査値の平均あたりを指すだけで、「健康」な人の「すべて」が「正常値」というわけではない。

 検査の「異常値」や生活上の「異常行動」は、必ずしも「疾患単位」ではない。それはある個人と環境(あるいは他者)との相互作用のパターンの一定の組み合わせであり、それが多かれ少なかれ特異であるだけだ。
 精神病や生活習慣病は、ある個人の「内に」起こっているのではなく、環境との間に起こっている何かなのである。人間の臓器ももちろん内的な閉鎖系ではなく、たえず呼吸や摂食などにより外の環境と連動している。

 こう考えると、「病気」や「狂気」を疾患単位として封じ込めたり排除したりして「正常」への復帰を目指すcureとは別に、健康とか正気とはそれぞれの人にとって何なのかを考えて再統合を手伝うhealという考え方が大切だということになる。偏った生活習慣もそうだが、単に「老化」するだけでも人は検査上の「異常値」の方に向うのだから、そのへんの考え方は、これからますます重要になるだろう。真のQOLに一番大切なのも「自由」だし。
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by mariastella | 2009-10-21 18:52 | 哲学

Sade と Michel Onfray

 私は Michel Onfray が無神論にかける情熱が理解できなかった。
 アメリカではあるまいし、今のフランスで、あれほど熱心に無神論を唱えたり、反キリスト教論を展開する理由が分からなかったのだ。しかも、議論の種が古い。1905年の政教分離法の前ですか、と言いたくなる。カトリック攻撃も、十字軍やガリレイ裁判や異端審問が悪いと責めんばかりで、何だかダン・ブラウンばりに無教養というか、第二ヴァチカン公会議も、現在のフランス司教会議の立場とかも知らないのか、と脱力する。

 ところが、先々週の『Le Point』誌のサド特集で、彼のコメントが載っているのを読んで、ああ、この人って、こんな人だったんだ、と思った。

 彼は、サドが無神論の嚆矢で近代哲学の始まりなどではなく、むしろ封建時代の最後の哲学者で、アポリネールやブルトンらに持ち上げられたせいで、安易に「古典」の地位を獲得したことをに批判的だ。カミュの『反抗的人間』などの方を評価している。Michel Onfray は、「表現の自由」の名のもとに人間の尊厳が傷つけられるのが間違いだと思っていて、物書きとは一定の義務を負う者だと信じている。

 好感度アップだ。口が悪いと思っていたが、ピュアな人なんだね。

 サドは有力貴族だったので、家族が願い出なければ、ほとんど罪が野放し状態だったというところはジル・ド・レも似たようなものだ。ただし、サドの時代の一部貴族の性的放縦というのは半端ではなかったし、彼は、ジル・ド・レと違って、実際に人を殺すことはしていない。閉じ込められて、しかし「表現の自由」を得て花開いたのだが、だからといって、何でもありというのは変だと思っていた。文豪の裏小説みたいなものならそれなりの含羞というか、罪悪感もあって別だが、権力者の確信犯っていうのは、全体主義の芽を秘めていると思う。
 ナポレオンはサドを口を極めて罵っているが、ほんとに真逆のタイプだ。
 
 サドは無神論を自称していたが、冒涜冒聖に快楽を見出していたので、聖なるものにはすごくこだわった。神を無視したのでなく、例えば十字架を穢すことに至上の歓びを感じていたのだ。聖なるシンボルはどれも大切な小道具だった。でも、汚辱や破壊やタナトスの魅力をことさら言い立てるのがそんなに上等なこととは私には到底思えない。サドは、今では、原文をすべてネット上で読めるし、古典文学にも入っている。それを近代がタブーや偽善から解放されていった進歩と見るのか、サドがその侵犯を快楽としていた「聖なるもの」そのものがなくなったことで失われたバランスの意味を考えるべきなのか、難しい。ヴァーチャルであればどんな犯罪のシミュレーションでもOKなのかという、今日のモラルの問題にも通じるだろう。
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by mariastella | 2009-08-03 06:23 | 哲学

バカロレア

 今年も、フランス最大の通過儀礼、哲学のバカロレア試験が、先週いっせいに行われた。

 テーマをひとつ選んで4時間の筆記。

 今年のテーマは『言語は思想を裏切るか?』『不可能を欲望するのは不条理か?』(理科系)
『交換することで獲得するものは何か?』(経済系)などで、大体、予測できるテーマばかりで、1年間勉強してきたから楽だったと思う、というリセの哲学教師のコメントもあった。

 ここで言いたいのは、フランスの高校生がこういうテーマを準備したり、4時間もそれについて考えて何か書こうとすることに比べて、日本の高校生は・・・なんていうことではない。そういうことは考えないようにしている。

 言いたかったのは、ヨーロッパ連合27カ国中、哲学が中等教育の必修になっているのは、10カ国もあるということで(フランスの他、ルクセンブルク、オーストリア、ポルトガル、スペイン、スロヴァキア、ルーマニア、イタリア、ブルガリア、ギリシャ)、政教分離や宗教地図と歴史とを考えるとなかなか味のある分布である。
 必修と言っても、フランスのように国家資格としての通過儀礼になっているところは他にないようで、哲学史、テキストの論評、概念の解説、などに留まるところも多い。

 他の国は課目自体が選択制=オプションが多い。

 全くないところ(市民教育、宗教教育の中に組み込まれていたりする)が4カ国ある。

 それは、イギリス、アイルランド、ベルギー、ポーランドである。

 この顔ぶれも、興味深い。

 ヨーロッパの歴史は、キリスト教やローマ・カトリックと深くかかわり、ヨーロッパ近代の歴史は、神学と葛藤し、神学を非宗教化した近代哲学と深く関わっている。
 キリスト教が発展した土壌となったギリシャ・ローマ世界の哲学も低層にある。

 哲学教育をどう扱うかということは、ヨーロッパの理念やアイデンティティにおいてかなり重大なことであり、なかなかイデオロギー的なことでもあるのだ。

 
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by mariastella | 2009-06-22 22:26 | 哲学

ソリプシストKのための覚書その8

 エリカがアメリカに一時帰国している今、チェコの女性と知り合った。

 私はすぐに彼女を質問攻め。

 Kの名は知っているが読んだことはない。Kが共産党政権下で禁書だったことも知っている。

 チェコのカトリシズムについて質問。

 教区はたいていみなカトリックの看板を掲げているが、内容は、カトリックとフス派に分かれている。その事実を知らない、気づかない人も多い。

 彼女の家族はずっとヤン・フスに忠実だった。カトリックのどんな教義も、批判精神なしに受け入れたことがない。共産主義政権が倒れた後、カトリックがまた勢力を増やそうとした。

 彼女(30代くらいだと思う)の両親は共産主義政治に巻き込まれないように精密科学の研究を選んだ。二人とも物理学者。そして家族はみんな自覚的フス派。カトリックは形だけ。

 とにかく、「白い山の戦い」以降、すべてが変わった。

 というのだ。

 エリカから聞いてはいたが、やはり軽く驚いた。

 共産主義の崩壊よりも「白い山の戦い」の方が画期的な出来事なのか?

 それって、1620年だ。何か、関が原の戦いの結果をずっと引きずっている、みたいな感じ?

 宗教の帰属の問題は根が深い。Kのソリプシスムが生まれたのは、そういう土壌なのだ。

 
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by mariastella | 2009-06-09 02:52 | 哲学

ソリプシストKのための覚書その7

 エリカは今アメリカに一時帰っている。

 彼女はKの全集を出している途中のフランスの出版社に交渉したが、印税をもらえなかった。
 チェコで、新しい手稿が発見されたということで、アメリカから戻るとすぐにチェコに行くそうだ。
 
 不況のせいで、普通の翻訳の仕事も少なく、彼女の経済状況は悪くなっている。

 Kを紹介する本を何か書けばそれを日本に紹介する仲介を私ができるかもしれないと言ってみたら、とんでもないと言われた。Kの作品の彼女のフランス語訳(詳細な註付)を重訳する時間も力量も私にはないし、彼女は、自分の仏訳からの重訳で利を得るつもりも全くないと言った。

 そうは言っても、私にはチェコ語は読めないし、チェコの全集もすべて彼女が編集校訂注解したものである。
 1991年に39歳で死んだ彼女の夫(フランス人)の死因はエイズだそうだ。そのあたりの事情も複雑そうである。

 私は、このところKの著作を読めていないので、これ以上書けないのだが、Kのソリプシズムが、ユニヴァーサリズムの究極の形だというのはますます確信が持てて来た。
 この頃、何を読んでも、ああ、Kのソリプシズムはまさにこれなんだ、と思うことが多い。

 パリで今、聖母訪問会の修道女の手芸刺繍作品の一部を見ることができる。

聖母訪問会の創立者はサン・フランソワ・ド・サル(フランシスコ・サレジオ)とジャンヌ・ド・シャンタルという「霊的カップル」で、この二人の関係に私はとても興味があり、『聖女伝』(筑摩書房)で書いたことがある。彼らが死んだオーヴェルニュの聖母訪問会は、美術館もあって、修道女たちの数世紀にわたる珠玉の作品が展示されている。今回のパリの展示会のことで、聖母訪問会のサイトをネット上で訪ねたら、最初のページに、サン・フランソワ・ド・サルの言葉が載っていた。

 "La Foi est un rayon du Ciel,
qui nous fait voir Dieu en toutes choses
et toutes choses en Dieu."
Saint François de Sales

 「信仰とは、天から射す光であり、すべてのうちに神を見せてくれ、神のうちにすべてを見させてくれる。」

 すべてのうちに神を見る、だけなら、汎神論的でもあるが、神のうちにすべてを見る、というのとセットになると、それは、K のソリプシズムの境地に近い。


 新約聖書のヨハネの手紙1-4-12にある言葉、

 「いまだかって神を見たものはいません。
 私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちのうちに留まってくださり、
 神の愛が私たちのうちで全うされているのです。」

 というのも、それっぽい。

 この最初の文は、今読んでいる Maurice Bellet の 『Dieu, personne ne l'a jamais vu』という本のタイトルにもなっている。この人は、神父で神学者で精神分析学者であり、30年前に『Le Dieu pervers(倒錯の神)』という本を読んだことがある。その頃はカトリック神学で精神分析学アプローチが結構流行っていて、私には新鮮に見えたのでいろいろ読んだのだ。で、30年後、彼がどうやって信仰を生きているのかと言えば、いや、小冊子ながらすばらしい腕の冴えである。

 その中に、人が人と連帯するところに生まれる躍動の中では、すべての人が「無限」を共有する、というようなことが書いてある。

 C'est, de façon décisive, ce qui se tient au coeur des relations humaines quand elles sont présence partagée, écoute réciproque, soin, partage, amour, et allant jusque vers l'ennemi et l'etranger. Au coeur de cet entre nous se tient tout l'insaisissable, qui fait que chaque humain est pour tout humain l'infini, et non ce qu'il peut saisir, par savoir ou pouvoir, y compris sous prétexte du bien ou de la vérité.(p77)

みんな違ってみんな特別、違いが個性、などという安易な言説の逆である。

 Maurice Bellet の語るのは、神や神々が消えてしまった世界で、人間がどのように「死の論理」でなく「生」に向かっていけるのかということであり、神という言葉がかって担っていた機能を問題にするが、特定の神を掲げるわけではない。

 しかしこれは、Kのソリプシスムにおける、私もあなたも、「すべて」であり「永遠」であり、支えあう「神」なのだというのにすごく似ている。

 この辺のニュアンスは、「神って愛だよね」みたいなクサイ言葉とか、それを揶揄するようなレベルにいては到底分らない。

 私がこういうことを話したら、エリカは反論しない。だとしたら、Kのソリプシスムの神学に関する私の理解や予感はそう外れていない気がする。

 Kと同時代のチェコの文学をちょっと読んでみようと思ったら、つい、脱線して、ロシアのアンドレーエフの『キリスト教徒』という短編に沈没した。証人として裁判所に呼ばれた娼婦が、自分はキリスト教徒でないから聖書にかかえて宣誓できないし、良心も持ち合わせていないから良心にかけて誓うこともできない、と言い張り、裁判官も検事も弁護士も陪審員も聖職者もみな、あきらめてしまう話である。洗礼を受けているからキリスト教徒だろうとか、イエスを信じてるならキリスト教徒だとか、みんなが何とか彼女のアイデンティティを押し付けようとするのに、彼女は、実にシンプルにすべての欺瞞をなぎ倒すのだ。絶対に古くならない名作である。

 
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by mariastella | 2009-06-05 04:34 | 哲学

ソリプシストKのための覚書その6

 Kとの付き合いの方向性がだんだん固まってきた。

 オペラや建築についてのKの論考を読んでいるうちに、Kの限界も分ってきたのだ。

 今、K を論じる人はほぼ皆無といっていい。

 私が大学教師ならゼミで取り上げ、院生に研究させるのもいいんだけど、などと思っていた。
 Kの残したcorpusは膨大で、これまで誰も、彼を思想史や哲学史に位置づけることがなかったので、紹介書や研究書というものもない。しかし、Kは一種の怪物であるから、思想的に強靭さのない若い学生などがはまり込んだら、はじき飛ばされるか、変に共振しておかしくなるかという確率は高い。

 私の見たところ、そしてエリカとも話し合ったところ、

 K には神学的教養はあった。
 精神分析や無意識については、伝聞知識しかなかった。
 仏教については、ショーペンハウエルのバイアスのかかった理解しかなかった。
 言語を介するコミュニケーション型アートに対して不信感があった。

 と言えそうだ。
 
 Kの醍醐味は、やはり、ソリプシスム自体についての分析と論考である。
 私は、ソリプシスムというのは、はじめは無神論かニヒリズムのヴァリエーションだと思っていたが、次にユニヴァーサリスムの一つの形だと理解し、さらにミスティシズムのヴァリエーションだと理解するようになった。

 古今の神秘家と呼ばれる人は、神秘体験は言語化できないものだと言い、「神秘体験」後の教えや行動は残すが、神秘体験そのものは文字通りミステリーの領域である。
 そういう意味では、Kは、それを論理化する稀有の人である。
 
 はじめは、K が、ある「神秘体験」=啓示体験によって、自分が神であると認識した人であり、そういう視点に立つ哲学というものを覗きたいという好奇心に私はかられていた。しかしK にとっての「自分=神=他者」という体験は、ロジカルな帰結であり、それを基に哲学していくのだが、絶え間ないフィードバックがあって、その理性主義そのものが一番「狂っている」といえば言える。

 無神論の系譜の紹介の仕事が終わった後で、ソリプシスムの系譜を調べてみたい。いろいろな宗教の教祖や「聖人」や神学におけるソリプシスムを調べるのは新しい観点になる。
 ソリプシスムは「思い込み」からくる出発点ではなく、宗教的洞察による到達点の一つであるからだ。

 Kは、膨大な未踏ゾーンにかかわらず、対話可能な存在となりつつある。
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by mariastella | 2009-04-07 21:30 | 哲学



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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