L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:陰謀論と終末論( 2 )

IRIS 会議

 結局IRISの会議に行ってきた。

 こういうの。

 http://www.iris-france.org/docs/pdf/2010-05-programme-csa.pdf

 何と、私が興味ないので失念していたのだが、Le Roy Ladurie は、数年前に紀元千年以降のヨーロッパの気候について本を出していて、地球温暖化の文脈で話題になっていた。今回は全くそれを繰り返しただけだ。地球温暖化とそれにまつわる終末論者の盛衰について何か話すのかなあと思っていた私が完全にずれていた。彼の名の字面を見ただけで中世のオクシタンに心がとぶ私って・・・

 でも、そのおかげで、普通はスルーしそうなテーマの会議に出席できた。原則一般公開だが、参加登録時にIRISとの関係優先になるし、いわゆる宣伝はしてないから、「関係者」ばかりという感じだ。

 結果的に非常に興味深かった。

 コペンハーゲンの環境会議の失敗について、環境会議のパラドクスは、

 一番汚してるやつが一番発言力が強くなる、 La nuisance est la puissance.

 というところだというのがおもしろい。

 もちろん、アメリカ、中国、ブラジル、インドなどで、これら、最も地球を汚している国が相対的に、クリーンにする力も最も大きいわけだから、主導権を握るというのだ。それに対して、アジア・アフリカの他の新興国はどんなになりふりかまわず汚していても、主導権をとるほどには汚していないというわけだ。日本やオーストラリアやヨーロッパのようにすでに環境対策に取り組んでいる国は、発言の重さが足りない。

 しかし今までの国際会議はパワーゲームだったが、環境会議だけは、どこかの国が一人勝ちとかできるテーマではなく、一蓮托生なのだから、この場所でこそ世界秩序を、という話だ。そこでネックになるのは、もちろん世界の南北格差や、貧富の差であり、各国間の格差の是正と公正な分配がないとそれはあり得ない、しかし、それを実現するには、各国の内部における格差の是正と連動しなければならない。「豊かな国」ほど、格差が広がっている。また、アメリカや中国でも、政府の都合とは別に、民間レベルで環境意識や弱者救済の分配ソシアルが盛り上がっているし、先ごろのコチャバンバ(ボリヴィア)での国際ソシアル・フォーラムでの「国際環境法廷」をつくろう決議のように、政府レベルやリーダーレベルでない国際共闘も高まりつつある。

 「フランスやヨーロッパ中心主義ではないか」という発言に、「ヨーロッパは地球をこういう形で搾取してきた歴史的責任があるから、同じ意識を新興国に課すことはできない」とちゃんと答えていた人がいたのも好感が持てた。


 最初に世界の貧困対策を訴えた国連の人は、「ここで décideurs にメッセージを伝えられるのは嬉しい」と熱弁した。

 ということは、ここに参加しているのは、やはり、(私をのぞいて)政策決定力のあるリーダーたちなのか、と、先ごろ書いた『脱陰謀論』のせいで、好奇心が湧く。元財務大臣のゲマール議員も発表したが、この人の名を聞くと、「あの子沢山でパリの真ん中にトレーニングルームつきの広大な官舎をあてがわれたスキャンダルで失脚した人だなあ」と思ってしまう。

 実際、何度も何度も、gouvernance mondiale  という言葉が連発される。陰謀論のせいで、何だか、色目で見てしまう。黒人の作家が、「さっきから gouvernance mondialeが充分でないという話があるが、ということは少なくともgouvernance mondiale がすでに存在するということですね」と、陰謀論者チックなことを言った。

 EUの関係者は、「いや、その胚芽のようなものはある、国連だってその一つだ、しかし、各国のローカルな事情と国際会議のタイミングは合うとは限らず、国連も世界政策の触媒となる代わりにただの公証人となっている。国際会議は協力coopérationの場ではなく調整 coordinationの場でしかないのが現実だ。」とこたえていた。

 食糧問題で、先進国で食糧の四割が捨てられる無駄と、途上国で倉庫や道路や加工場所の欠如のためにやはり生産された食糧の半分以上が打ち捨てられることがある無駄について、二つを混同するなという議論、ブラックアフリカでは、灌漑も肥料も欠如しているので真の農業大臣は太陽だ、という話、それから、この種の話で必ず出てくる、こうしている間にも6秒に一人の子供が貧困のために死んでいるという話・・・

 私は、環境原理主義とか環境ビジネス、環境の政治利用などが嫌いだし、絶望感や罪悪感をかき立てる言説も嫌いなのだが、同じことでも誰がどこでどのように言うかということで、全く変ってくるのを痛感した。

 マラウェイの例のように4年で飢餓から農産輸出にまでラディカルに変わった成功例もあるらしく、強くて大きい立場の者が弱くて小さい立場の者の尊厳を保証しながらサポートする限り、2050年に90億人に達する人類を養うために食糧の70%増産(無駄を解消することも含めて)は決して不可能ではないらしい。

 ル・ロワ・ラデュリーなんかは、フランスが21世紀に入って温暖化してることを保証して、そのおかげでワインの出来がきわめていい年が多かった、と締めくくった。とぼけていい味の人だ。

 この会議録はそのうちに少なくとも一部はネット上で公開されると思うが、早起きして出かけていった価値はあった。
 トップダウンの世界秩序なんて所詮不可能だが、草の根のボトムアップにも、高い視座が必ず必要だ。陰謀論や終末論に凝っている人たちにも、たまには、良心的な国際会議で語られていることをきっちり聞いてもらいたいものだ。
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by mariastella | 2010-05-05 23:58 | 陰謀論と終末論

Le botulisme

7月の帰国時に、あるNPOに依頼されて陰謀論のリテラシーについて講義をすることになりそうだ。

 1998年に、ノストラダムスの予言についてのリテラシーについて、朝日カルチャーセンターで連続講義したのを思い出した。1999年の7の月は遠くなったが、21世紀になって、終末論は影をひそめたかというわけではなく、当時とは比較にならないほどに、インタネット世界が広がっているせいで、端末機の前で孤独に恐怖に駆られる人も飛躍的に増えるわけで、ある意味、深刻になっている。

 今度出す『無神論』にも書いたが、科学主義や合理主義が一見デフォルトになっているかのような今の時代なのに、トンでも論というのはますます盛んで、冷静に考えれば絶対ありえないような陰謀論などもむしろ巧妙、悪質になり、マーケッティングによって何でもできるというか、個人は昔より脆弱になっている気もする。

 体と心がしばしば乖離するように、合理主義や現実主義と、救済願望や不安も別個に共存しするのだろうか。
 一番不愉快なのは、「情報」とか「知識」とかが権力と結びついたり、弱者の支配の道具になることだ。

 「秘密の智恵」は選ばれた仲間にしか教えられないとか、警告だけはしてやるが、その理由付けは普通人の理解を超えるからしない、とか、検証のできないような「権威」を持ってきてそれを楯にして「真実」を振り回すとか、安全や健康若さや美や長命は金で買えるとか、コーチングや、自己管理や自助努力で達成できるとか、そういう言説が私はすごく嫌いだ。

 昔から陰謀説も終末論による脅しも存在した。ニューエイジによって増幅し、その後グローバル化し、今はそれがネオリベラリズムと結びついてますます複雑になっている。
 それを読み解くリテラシーは、究極的には、自己肥大から背を向けて身近な弱者と連帯するアンテナを調整するだけでいいのだが、一度懐疑や恐怖にとらわれたら、そこからの脱出が容易に自己目的化するのは、誰でも体験することである。

 2012年問題の読み解きについて頼まれていた仕事も、終末論と陰謀論の切っても切れない似た語り口をまたささやかながら分析したいので、講義の準備とともに進めるかもしれない。

 私にそう思わせたのは、昨日(2月8日)のニュースで、あのBHL(人気哲学者)が、botulisme の犠牲になったと認めたことを知ったからである。ノルマリアンのくせに、ノルマリアン伝統のcanular(意図的な嘘)に引っかかったわけだ。
 『イマニュエル・カントの性生活』という偽書(Jean-Baptiste Botul )からまじめに引用してしまった本が2月10日に出るそうで、それをすっぱ抜かれ、明後日のLe Point誌でBHL自身が釈明というか、騙されたことを認めたコラムを書いてるらしい。

 まあ、モノを書く仕事をしている者として、ちょっとひやりとしないでもない出来事である。
 しかし、以前にダヴィンチコードがらみで書いたことがあるように、ヨーロッパ、特にフランスにおける「偽書」のメンタリティは独特のものがあり、エリートの芸として成り立っているのに、それが一人歩きしてアメリカあたりでおおまじめに あげつらわれたりする。

 逆に言えば、偽書であってもそれがどうした、という部分もある。それが人のお役に立ってみんな幸せとか、みんな楽しんだとか、真実にはいろんなレベルがあるとか、結果オーライというのはいいのだが、BHLのようなインテリがまともに脚をすくわれては、かなりまずい。

 まあ、今度のことは、ちょっとした笑い話だが、BHLだからこそ、こうして明らかにされたわけで、たとえば普通の人が偽書やあやしい言説を真に受けてそれが、増殖され、脅しのツールになったり、「売れるものが正しいもの」みたいになると、どこかでほんとの犠牲者が出るかもしれない。
 
 来月からジャンヌ・ダルクについての連載をはじめるのだが、ジャンヌ・ダルクをめぐる言説ですら、ノストラダムスをめぐる言説と変わらないというか、同じような「流言」定着の構造があって、ちょっとショックでもある。

 もっとも、人々を結びつける神話や大きな物語というものもこの世にはたくさんある。その要素にあやしいものがあるとか嘘があるとか、証明できないとかいう反論だけでは切って捨てることのできない「意味」を担い続けてきた物語もあるのだ。それを利用する権力者や、自分の都合のいい神話をつくって支配のツールとする権力者もいるから、評価はますます難しくなる。しかし、偽書や流言やトンでも話をどのようにかわしていけばよいかという智恵も、古今東西の事例からきっと学ぶことができる、と、ひとまず「信じる」ことにしよう。

 

 
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by mariastella | 2010-02-09 23:51 | 陰謀論と終末論



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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