L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フェミニズム( 23 )

命を狙われて生きるということ

テレビのインタビュー番組で、2015年のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、ジハディストからひどい言葉で「死刑宣告」を受けているフランス人とモロッコ人のハーフの女性ジャーナリストで宗教社会学者のZinebが話しているのをみた。

カサブランカ生まれで、彼女の共同体のイスラム教が女性を劣位に見なしているというその一点で、早くからイスラム教を丸ごと捨て去ったという。
すごく明快だ。

純潔を守って善き妻となり金曜日ごとに夫の家族をもてなさない女は、即「遊び女」とみなされる。
17才半でモロッコから抜け出した。

宗教社会学などはパリで学んだ。
モロッコの刑法ではラマダンの期間にムスリムが正当な理由なしに公の場所で飲み食いすると罰金と6ヶ月の懲役が制定されている。それに抗議して2009年に、ラマダン中にピクニックすることを呼びかけるなどの活動で官憲に追われ、スベロニアに亡命し、シャルリー・エブドに記事を書くようになった。

当時のシャルリー・エブドは破産寸前の苦しい経営だったけれど、編集長のシャルブらが自分たちの給料をカットしてまでZinebを正式に雇い入れてフランスに招いたのだそうだ。

それは初耳だった。

テロの日はカサブランカにいて襲撃を免れたが、「ムスリム女性」(父親がムスリムのモロッコ人なので自動的にムスリムとなる)でありながら冒涜的なシャルリー・エブドに加わっているのだから、過激派にとってはZinebは万死に値する。

で、2015年に生まれた娘を抱える身で、身の安全のためにパリのアパルトマンを転々としながら外では完全に警護されて暮らしている。

「一歩外に出たら自由ではない」という逆説的な状況。

まだ35才だ。

人はどの時代にどの国に生まれるかは選べない。

私は生まれた国には住んでいないが、不思議なことにあまりカルチャーショックがなかった。

日本にいた頃に主婦連だとかウーマンリブとかいう活動は知っていたが、身近の女性はみな不当なくらいに優雅に暮らしていた。女性であることはちやほやされることはあっても、社会の中で差別に向かい合うほど長く日本にいなかった。
日本の社会に女性差別があるのは分かっていたけれど、それは分かりやすい「宗教」の文脈などではなくて、漠然とした同調圧力みたいなものだったから、「戦う」とかいう対象にはならなかったのだろう。

でも、フェミニズムにかかわることで「死刑宣告」を受ける文化があるのだ。

フランスのテロはその後「無差別テロ」や「警官、軍人」を標的にしたテロへとシフトしていっているので、私たちは「シャルリー・エブド」事件の記憶を風化させてしまっている。

名指しで死刑宣告された一人の女性は、もう大勢の同志と「連帯」して通りを行進することはできない。

昨日の記事で書いたACT UPの若者たちも、エイズという病によって理不尽に死を宣告されたが、団結することはできた。

Zineb女史の孤絶を思うと愕然とする。

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by mariastella | 2017-09-07 02:50 | フェミニズム

地球のために何ができる? 2

承前


エリザベト・バダンテールはアングロサクソン型の男女同等、犠牲者主義(男は敵で女は被害者)、クォータ制、逆差別推進というタイプのフェミニストではなく、人類は皆自由と平等だというフランス型普遍主義のフェミニストだ。すべての人が人間としての尊厳を損なわれないで生きていけるための戦いの一環としてだけフェミニズムも現れてくる。

私はそういうフレンチ・フェミニズムの支持者だ。

「男と同じようになる」とか「男に勝つ」とか「男を敵にする」という二元論的闘争は苦手だ。でも、「男と戦う」のでなく「自由のために戦う」女性を見るのは好きだ。オジャランのロジャヴァ革命の理論やクルドの女性戦士なんてぞくぞくする。

ずいぶん前に女性編集者から「竹下さんのフェミニズム論を読んでみたい」と言われた時には意外な気がした。

私はすでに、アングロサクソン風フェミニズムの裏返しである恩恵ばかり受けてきた人間なのでそのことが後ろめたかったからだ。

詳しいことは書かないが、要するに、ただ、これまで甘やかされ放題で生きてきたということだ。まともに振り返れば、ほとんどアベル症候群になってもよさそうなくらいだ。

(アベル症候群を説明するのに、今、日本語で検索したらこういう論文〈天理大学カウンセリングルーム紀要 第 l巻 2004 共感との関連からみた罪悪感:発達的観点から〉というのが出てきたので該当部分をコピーする。)

>>>>富裕の罪悪感  他人と比較して自分が恵まれた幸せな境遇にいることを自覚することで生じる罪悪感である。 1960年代の有産階級出身の若者を社会運動に駆り立てた動機がこの富裕の罪悪感であったと Hoffmanは考えている 。社会経済学的にいえば、それは「階級的罪悪感」ともいえる。これは共感の最終段階である「目前状況を超え出た視点からの共苦を基盤に形成される発達的に上位段階での罪悪感である。しかし、時代、地域といった文化的影響を受けやすく、現在では目にする 機会が減ったと述べている 類似の現象については、 Modell(1984, chap. 5)が論じている 。この種の罪悪感の背後には、 「自分が何か良いものを手に入れることは、他の誰かが剥奪されることを意味する」 p75)という空想が伺えるという。(註九

Ellenberger (1954)は、この種の罪悪感を「アベル症候群」と呼び、その心理的構成要素に ついて、論じている 。アベル症候群のひととは、「運命に甘やかされた人」で、「他人より幸福 なのを自覚して、漠然とした罪業感を覚え、他人のやっかみを感じているが、十分な自己防衛はきていない人」(p306)である 。アベル症候群は、「(1)幸運と、(2)その結果としての漠然と した罪業感と、(3)羨望の的となっている事実と、(4)不十分な自己肯定感(p307)とから構成されているという <<<<

私の「幸運」は、平和な時代に豊かな国に生まれて育ってきたこともあるが、その中には、たまたま「女の子」だったからすべてが許されてきたというのも含まれていたので、犠牲者主義のフェミニズムに対しても罪悪感があったのだ。

飢えで死んでいくソマリアの子供たちとか、ナパーム弾で焼かれるベトナムの子供たちとか、ありとあらゆるこの世の不幸と不条理は子供の頃から耳にし目にしてきた。フランスでは知識人がアンガージュマンを、と言って、ラテン・アメリカのゲリラに加わったりスペイン戦争やらに参加したりしていた時代だった。

でもフレンチ・フェミニズムは犠牲者主義ではなく、男たちとも連帯して「人間」を扱ったものだったから、私にはハードルが高くなかった。

その第一の論客がエリザベト・バダンテールだったのだ。

しかも彼女はシンプルでエレガントで、知的で堂々としていてすてきだった。

夫君のロベール・バダンテールと同じ理念と志をもって歩んでいるところも理想的だった。それ以上のプライバシーには興味がなかった。

ところが、ある時、彼女が自分には3人の子がいて孫たちもいる、とインタビューに答えた時、なんだか裏切られたような気がしたのには自分でも驚いた。

少し調べると、パリの一等地のすばらしいアパルトマンに住んでいて、世界有数のの広告代理店の創業者の孫で大株主だということも知った。

それ以来、彼女がどんなに弱者の側に立って社会正義のために正論を言っても、失業中のシングルマザーやDVを受けて子供と非難している女性などの苦境にほんとうに共感できるのだろうか、愛も家族も金も知性も地位も権力もすべて持っている「あんたに言われたくない」と思われないだろうか、などと違和感を感じるようになったのだ。

一方で、民衆が立ち上がったフランス革命の理論的支柱となったのは、啓蒙の世紀の貴族や聖職者の知識人たちである。ほんとうに虐待されたり奴隷状態にあったりする人はその日のサバイバル以上のことは考えられない。生活に困っていない人だけが、広く他者に目を向けることができる、と言うのは真実だとも思った。

目を向けるだけでなく、フランスの大貴族のラ・ファイエット侯爵が自費でアメリカに渡って独立戦争を助けたように、身の危険を冒してでも遠くにいる他者の支援に駆けつける人も実際にいた。

恵まれた環境でぬくぬくしているのではなく積極的に「行動」を起こす人もいるわけだ。日本でなら、先ごろ亡くなった犬養道子さんのような人も思い浮かぶ。「おじょうさま」で特権もあり知名度も人脈もある人が、貧しい子供たちに出会ってから人道支援、難民救済に尽くした。

弱者に寄り添うために同じ弱者である必要はない。ビル・ゲイツだってメリンダ夫人(カトリック)と共に、世界最大の慈善基金財団を創って実際に「現地」へ足を運び続けている。

そうは思っても、バダンテールでもなく犬養さんでもなくビル・ゲイツでもなく、ただ親や周囲の人に甘やかされてきたというだけでチキンな私が、いくら世界の不公正に義憤を覚えても、地球の環境悪化や温暖化に危機を感じても、何もできないし何もやらない日常は変わらない。資源ゴミをリサイクルして、多少は省エネを心がけたしたとしても、原発依存国フランスで電気をたくさん使って不自由なく暮らしている事実は変わらないのだ。

私は『ラ・デクロワッサンス』のようなメディアから叩かれるような有名人ではもちろんないから、それでも、ひっそり偽善的に生きていける。いや、この新聞を買うだけで、多少の「償い」感を得させてもらっているくらいだ。

で、バダンテール女史はいったいそこでなんと言われて叩かれているのだろうか ?

おそるおそる読んでみると・・・


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by mariastella | 2017-07-26 06:18 | フェミニズム

前川さん証言と詩織さん事件 その3

前川さんに続いて詩織さんのことを書こうと思ったのだけれど、結局どう書いていいかまだ分からない。
あるブログで、フェミニズムの女性論客たちがほとんどこの件について発信していないことを指摘したものがあった。上野千鶴子さんや香山リカさんやらのツィッターに何も出ていないということだった(今は知らない)。
江川紹子さんはきっちりと発信していて、私も読んだけれど、彼女って本当にすてき。

個人的に言うと、「顔出し」をした詩織さんの外見があまりにも私の好みだったので、まず外見に反応した後ろめたさがあって、距離をおけなかった。
江川さんはもちろん詩織さんの外見などには触れない。

家族に配慮して姓は公表しないという話だったが、私も他の多くの人と同じくネットで彼女のFBをすぐに見た。ますます見とれた。

彼女が私の娘だったら、私もばんばん表に出て支援するだろうし、彼女が私の恋人だったとしても、顔出しで共闘すると思う。

そういうバイアスがかかっているので、彼女が戦おうとしているモノや彼女を踏みにじったヒトたちに対してどういうひどい言葉を発してしまうか自分でも分からないので、やはりここは自粛して、真に役立つ言葉が醸成されるまで待つことにした。

若くて美しい女性を前にして、やにさがるのも、征服しようとするのも、逆におとしめて攻撃するのも、みんな同じルーツであるような気がする。

詩織さんに見とれている自分が上等だとももちろん思えない。
でも彼女を応援します。

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by mariastella | 2017-06-09 02:54 | フェミニズム

東京ウィメンズプラザで平塚らいてうのフレンチ・フェミニズムに出会う

うちから歩いて行ける書店である青山ブックセンターに、注文していた本を取りに行った。その帰りに、いつも目に入っていたが素通りしていた東京ウィメンズプラザに入った。
そこの図書館はわくわくするようなものだった。

雑誌「青鞜」の第1号の復刻版を開いた。もちろん平塚らいてうの有名な「元祖女性は太陽であった」を読んだ。当時の雑誌の形で読むとインパクトが違う。
男女同権を目指すアングロサクソン的フェミニズムとは違って、完全にフランス型ユニヴァーサリズムの人間主義であったことも再発見。

「太陽」とは全人格であり、性別を超えたものだと書く。
太陽が男で月が女というような構造を逆転するというような話ではない。

では全人格の取り戻しに何が必要かというと、「熱誠」であるという。その言葉を言い換えると、

熱誠=祈祷力=意思の力=禅定力=神道力=精神集注力

だと言う。

そして精神集注力こそが、人間の深さの奥においてのみ見られる現実そのものという神秘に通じる唯一の力だという。

ロダンのファンで、芸術家はインスピレーションをただ待つのではなく、「欲求」しなくてはならないとも言う。ロダンはインスピレーションを「欲求」した。

何かを欲求するときに超越的な視野なしには、真実に到達できないと言うことだ。

明治44年のこのマニフェスト、全く古くないどころか、今のフェミニズムに決定的に欠けている全てが詰まっている。
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by mariastella | 2017-04-08 00:24 | フェミニズム

レバノンでイスラム・スカーフを拒否したマリーヌ・ル・ペン

連載中の「フランスとイスラム」はまだまだ延々と続くのだけれど、このところおもしろいニュースがありすぎるので少し寄り道。

その一つは、ただいまフランス大統領選キャンペーン中の極右FNの党首マリーヌ・ル・ペンがレバノンを訪問して、火曜日にベイルートのモスクでスンニー派のトップであるグラン・ムフティと会見する前に、スカーフで頭を覆うことを拒否したニュースだ。

彼女はエジプトで2015年5月にやはりスンニー派のトップと会見した時にもイスラム・スカーフを強要されなかったことを根拠にして拒絶した。

彼女は前日にそのことを伝えてあり、返事がなかったので問題ないと思った、と言い、ムフティの側はスカーフ着用は義務であることを伝えてあると言い、くいちがっている。

レバノンはもともと中東の真ん中に、英仏が「キリスト教の飛び地、緩衝地帯」として人工的に国境線を引いた国だが、今はイスラム勢力の方が強い。

ル・ペンは、公立学校や役所だけではなく公共の場所でのユダヤの帽子のキッパやイスラムスカーフの着用禁止の法律を提唱しているぐらいだから、彼女のこの「毅然とした態度」には、FNの支持者からは好意的に受け止められた。「フランスと全世界の女性に向けた自由と解放の素晴らしいメッセージだ」と、マリーヌの右腕であるフロリアン・フィリポがすぐにTweetした。

マリーヌは、自分はイスラムに偏見を持っているわけではない、イスラム過激派と戦うだけだ、グラン・ムフティへのリスペクトの気持ちは変わらない、と弁解した。

ううーん、わざわざイスラム圏の国に出かけて行ってしかもその宗教施設でそこのトップに会うのだから、向こうの習慣をリスペクトするのは当然だという気もする。ただし、仏教寺院で靴を脱げといわれれば、男女とも同じだし、床を汚さないという礼儀もあるからマリーヌも従ったと思う。モスクで女性だけが髪を覆うことは、衛生上の理由も考えられない。

このことについての私の個人的感想については前にわりと詳しく書いたことがある。
そちらの記事をまず読んでほしい

数年前にプラハのシナゴーグでの体験から感じた本音だ。

私は前にマリーヌ・ル・ペンだけは、「女性政治家」のステレオタイプに入れられない特異な存在だということも書いたことがある
しかし、確かに、モスクの中では、彼女は「政治家」である前に「女性」認定されるのであり、向こうが求めるそのアイデンティティに課せられる規則を受け入れないのなら、拒否される。

いや、ニュアンスは少し違うかもしれない。ヴェールを被ることを拒否したのはマリーヌで、彼女はかぶり物のない頭のまま突破しようとして排除されたのではなく自分から出て行った。

この段階では彼女は別にフランスの外交官でもないし、いわゆる公式訪問というわけでもない。

だから、彼女のとった行動自体は日頃の主張と整合性がある。
こういうケースを想定してわざと仕掛けた、というよりは、かぶり物のない頭でモスクの指導者と会見している写真をねらっていたのかもしれない。

後日談をもう少し観察していきたい。
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by mariastella | 2017-02-23 00:39 | フェミニズム

アンゲラ・メルケルとアンデン・パクトの男たち

Arteでアンゲラ・メルケルのドキュメンタリーをやっていた。

もう10年もヨーロッパのトップに君臨する彼女についてはすでにいろいろなところで特集とかドキュメンタリーを見たことがある。

父親がプロテスタントの牧師、東独出身の物理学者、牧師館には知的障碍者のための施設が併設されていて彼女も通っていたなど、多少のプライヴェートのエピソードもすでに耳にしたことがある。

でも、今回このドキュメンタリーを見て、なんだか改めて、奇跡のような人だなあ、と思った。

前に女性の政治家について書いたことがある。

フランスの女性政治家についてや、
ジャンヌ・ダルクとヒラリー・クリントンや小池都知事について

そのどちらにもメルケル首相は出てこない。

メルケルが「女性政治家」の観察のフィールドに入ってこないのはマリーヌ・ル・ペン女子と似たポジションのかもしれないと漠然と思っていた。

でも実はメルケルさんのことはかわいいなあ、と思っていた

この番組を見ると、若い頃は超かわいいし、おかっぱ頭もジャンヌ・ダルクそのもので、フランスだったら絶対そう言われていただろうなあと思う。

女性にも好かれていて、側近を信用できる女性で固めたというのも意外だった(girls campと呼ばれる)。 
番組で証言しているヴァチカンのドイツ大使も女性だった。

ちなみにフランスは14世紀から教皇庁に大使を送っているが、女性は一人もいない。

オバマ大統領はキャロライン・ケネディ(カトリック)を大使にするつもりだったが、彼女がプロ・ライフ(中絶反対)ではなかったので拒否されたという。フランスもゲイの活動家を送ろうとして拒否されたと言われている。
今の在ヴァティカンのアメリカ大使は外交官出身ではなく40年もアメリカのカリタス(カトリックの社会福祉組織)で働いていた人だ。昨年引っ越した立派な大使館にいる。

(大使の人選って、相手国が拒否できるのって知らなかった。それともヴァティカン限定? いや、ヴァティカンも公式に拒絶したわけではないけれど。カトリックでないとだめということもなく、イラン大使をはじめムスリム国の大使もいるし。)

話がそれたが、それでも、メルケルのドイツが女性大使をヴァティカンに送っているのはそれなりの意味がある気がする。

で、話はそんなことではなく、この番組で一番驚いたのは、東独から来たジャンヌ・ダルク風の、でも、控えめで野心を表に出さない感じのかわいいアンゲラが、自党内で、典型的なゲルマン男の政治家たちからなる「アンデン・パクト」(メンバーの名が分かるという意味では秘密結社ではなく「非公開互助会」とか呼ばれているが、まあ似たようなものだ。で、男限定。)を敵にしていたということだ。

彼らと彼らの戦略のすべてを出し抜いて、ヘルムート・コールの後に、SPDのシュレーダーの一期をおいて、CDU(キリスト教民主同盟)から出馬して首相になった。

今の堂々とした感じからは、マルティーヌ・オーブリーやル・ペン女史を思わせるけれど、オーブリーやル・ペンは、若い頃から意志の強さとか気の強さとか野心を感じさせる雰囲気だった。
メルケルの若い時は、学生時代ソ連の数学コンクールで優勝したりしているのに、西側の男たちの間にいると、本当に、田舎の物理研究所勤め以外の外の世界を何も知らないでポッと出てきた素朴な女の子(30代でも18歳くらいに見える)という風体なのだ。

一方、コールの後釜を狙う軍団のようなアンデン・パクトの男たちは、もう、「多様性って何?」って言いたくなるほど互いに似ているマッチョなゲルマン・エリートの風貌。
ラテンの男たちやドナルド・トランプみたいに分かりやすい男たちとは正反対の、「秘密」が似合う男たちだ。

よくこんなところで生き延びて彼らを鮮やかに出し抜いたなあと思う。

しかも、彼女の演説は、聞く人によって、左派にも、改革者にも、ナショナリストにも解釈されて共感を呼ぶ柔軟さだ。
社会主義体制、科学研究チームという、自由より規律優先の社会から来たので「変革」を肯定的にとらえるおもいきりの良さも、どこにいようと自分の立ち位置こそが「中道」なのだという自信に満ちたバランス感覚も、アンデン・パクトの男たちには想像もつかないことだったろう。

一方で、ヘルムート・コールとミッテランが思い入れたっぷりに独仏の和解やらEUの発展に尽くしたのと違って、メルケルはEUに対しても科学者らしい知的で冷静な打算を隠さない統治者の顔を持つ。

それでも、ヒラリー・クリントンが逆立ちしても演じられないような「素朴さ」や「暖かさ」みたいな空気を発することもできる。私生活は公開しないけれどジャガイモのスープを作るところはOK。

いやぁ、彼女は4期目も狙うらしいから、まだ先のことかもしれないけれど、リタイアしたらぜひ自叙伝でも読みたい。そんなの書くタイプではない気がするが・・・

アンデン・パクトの男たちによる回想も読んでみたいけれどまだ利害が一致しているからね。
番組でもアンデン・パクトのローラント・コッホなどが証言していたけれど、なかなか微妙なニュアンスも読み取れた。

それにしても彼らをここまでリスペクトさせたのはメルケルって、やっぱり、すてきかも。

(Arteのサイトでこの番組は今のところまだ試聴できます)
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by mariastella | 2016-12-08 04:03 | フェミニズム

ブルキニの話

数日前、澤藤統一朗さんのブログにブルキニ(イスラム女性用のブルカ風水着)をめぐってのフランスのいざこざについての記事があった。

このテーマはあまりにも複合的なのでスルーしようと思ったのだけれどひとことだけ書いておく。

今回の海岸でのブルキニ禁止条例については、ブルキニを着て浜辺にいる女性の服を脱がそうとするような倒錯的なシーンもあって確かに問題外だった。

私も澤藤さんのように、この条例を無効とした国務院の決定はさすがフランスだと思った。

ムスリムを規制する条例が出るたびに反応するカトリックも、「私は来週、修道会のシスターである妹を浜辺に誘うつもりだが、ヴェールをつけたシスターの服装で座っていても尋問されるのかと心配だ」と揶揄している人がいた。

浜辺に座っていても、泳ぐわけではなく着衣の人などいくらでもいる。
まあフランスのリゾートでは少ないだろうけれど、日焼けしたくなくてできるだけ肌を覆って日陰に座っている年配のご婦人など十分いるわけで、そんな人に、肌を隠すのが悪いなどというのはまったくの倒錯だ。

問題は、女性が、男性の作った条例や法によって服装を規制されることのほうで、イスラムをあげつらうなら、シャーリア法では、厳密に言えばブルキニどころか、そもそも男性(父、兄弟、夫を除く)のいる浜辺に女性が行くことが禁じられている。
肌は覆っているが体の線を出しているブルキニを着てリゾート地の海岸に行くなどとんでもないことだ。

フランスの場合は、露出の多い水着で泳ぐことを共同体から禁止されてこれまでプールや海に行けなかった女性たちがブルキニができたおかげで海に行くことができた、むしろ「女性解放」の第一歩だなどと言われているのでことがややこしい。

そうやって海に来たムスリムの女性に、公共の秩序に反するから他の女性のように肌を露出しろなどというのはまったくグロテスクなのだが、問題はそこではない。

問題は、ブルキニをはじめとするシャリーア法にかなった女性の服が新しいマーケットを形成していることのほうだ。

たとえば、シャリーア法を適用しているサウジアラビアでは、イスラムスカーフで髪をおおったりアバヤで体をおおったりするのは初潮を迎えた後の女性ということになっている。そして閉経した女性はヴェールをとってもいいともある。

もともと髪を隠していないで町に出ると「売春婦とまちがわれる」ことを避けるためにヴェールの着用が推奨されたといういわれとも合致している。修道女のヴェールも「イエスと結婚している」女性であって、他の男とは結婚しないというしるしだった。普通の既婚女性もヴェールをかぶっていた。

それがいつのまにか、フランスにおけるムスリムの共同体の一部では、イスラムスカーフをつけてない女性はみだら、不品行、男を誘っている、のようなハラスメントの対象になってきた。

宗教と関係なくても、女性が痴漢にあったりセクハラされたりした時に、挑発的な服装をしていたからだ、そんなところに夜一人でいるのが悪い、などといわれるのと同じ構造だ。

で、ブルキニだが、これはこういう問題を利用したビジネスの話なのだ。

なんと今では2,3歳の幼児用の、かわいい色とりどりの頭巾と服の一体型で全身を覆うタイプのイスラム服さえインターネットで売られている。

需要のある所に商品が開発される。

フランスのオートクチュールもイスラム女性向けモデルを打ち出したことで物議をかもした。

ブルキニは宗教ではなくビジネスなのだ。

素敵なデザインだから、堂々と来ているのよ、どこが悪いの? 的になってくる。
2歳の女の子のアバヤやブルカも「かわいい」から着せてるのよ、となってくる。

市場論理に目をくらまされて私たちはいつの間にかいろんなことで変な方向に行って、なかなかそれに気がつかない。

それに気づかせてくれただけでもブルキニ騒ぎは有用だったとも言える。

市場経済の戦略にとって、ムスリム女性向けの水着というのはまさに「ブルーオーシャン」(競争相手のいないマーケット)であった。

「売春婦でないのなら男を誘惑するような服を着てはいけない」などという根強いドレス・コードを、長年かけて苦労して、やっと打ち破ってきた女性たちが好きなかっこうをしている浜辺に、それが進出してきたのだ。

ブルキニの問題はイスラムの問題ではなく、政教分離の問題でもなく、フェミニズムの問題である。
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by mariastella | 2016-09-01 06:29 | フェミニズム

母性愛の神話と母性遺伝子

「母性」(子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいておこうとする性質)が社会的に形成されてきた神話であるとする『母性という神話』の著者エリザベート バダンテールは私の賛同するフレンチ・フェミニズムの旗手(アングロサクソン型フェミニズムが席巻している今では貴種?)だけれど、何十年と「母性愛」を観察した結果、私の考えは少し違ってきた。

バダンテールは、

いわゆる「母性愛」は本能などではなく、母親と子どもの日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。それを「本能」とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想である

とするのだけれど、私は、「母性」(子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいて世話しようとする性質)は確かに「本能」ではないが、「母性遺伝子」のようなものが存在するのだと今は思う。

本能ではないから、あるかないかは人によって違う。

それは性別と関係がない。

この遺伝子(ここでは便宜上遺伝子という言葉を使うがもちろん特定されているわけではない。仮説だ。)がない個体は、子供の世話を進んですることがない。

だから、集団生活をしない動物なら、この遺伝子のないメスが生まれた子を放置すると子供は死ぬ。

その結果、その遺伝子(つまり母性遺伝子の欠如した個体の遺伝子)は絶えるので、母性遺伝子のある個体が自然淘汰を免れて多く残る。

けれども集団生活をする動物なら、母性遺伝子のない母に放置された子供を代わりに保護する個体が現れる。
それがオスであることもあるし、他のメスが自分の子と一緒に育てることもある。
時には異種の動物に保護されることもある。

で、人間の場合は特殊で、母性遺伝子のない女性もほとんど淘汰されないできた。

母性遺伝子のない女性もたいていは子供を育てるからだ。

社会的な役割を模倣したり、押し付けられたりするからである。

また、強制や幻想がなくても、自分が育てられてきた環境を模倣したり自然に学習したりするということもある。

その「やり方」やモデルは確立しているので、「本能」だの「心」だのが伴わなくても比較的簡単にこなせる。

だから「放置」というのは例外となる。

社会によっては、乳母制度などで、母性遺伝子のある人とない人の住み分けが可能である時代や場所もある。

母性遺伝子のない女性でも子供を保護し、養うという行動をとるのは、生存戦略として機能している。
社会的に必要とされ受容されるからだ。

だからこそ、ヒトが一番、「母性遺伝子のないメス」がたくさん生き残っている動物となっている可能性がある。

母性愛を「本能」とするのが、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想であるというのはバダンテールに同意するけれど、生まれながらに「母性遺伝子」を持っている人は男女を問わず存在する。
環境と関係がない。

その意味で、母性は神話ではない。

その他のケースとして、母性遺伝子がないにも関わらず、その幻想を引き受けて役割を果たすことをエゴイズムの中に取り込んでいる人もいる。

つまり幼子をいつくしむというのではなく、自己愛の肥大としての疑似母性だ。

この場合は子供がもう庇護を必要としなくなっても共依存に陥る場合が多い。

また、母性遺伝子と女性のキャリア志向は、男性の場合と同じくまったく関係がない。

母性遺伝子があっても子供を持たない人や、子供を保育所、ベビー・シッター、子供の父親、実家などにあずけてキャリアを追及する人ももちろんいる。

でも、そんな人でも、母性遺伝子があれば、通りすがりの他人の赤ん坊を見るだけで心が騒ぎ抱きたくなるのだ。

母性遺伝子のある人は、自分の子でなくとも子供を保護しいつくしむ。

男性の場合これが社会的に阻まれることもあるかもしれない。

マザー・テレサが北京世界女性会議へ宛てたメッセージの中で、

「女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物-それが母性なのです。」

などと、「母性神話」を女性や母親としっかり結びつけているように、母性遺伝子を持っている人自身(マザー・テレサがそうであったと仮定して)が、誤解している場合もある。

「母性愛」が女性特有で素晴らしいものだとする言説は、母性遺伝子のない女性を苛んだり、彼女らの人生に不全感を与えたりする。

もっともマザー・テレサがその後に続けて、

「子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう」

と言ったこと自体は間違っていない。

母性遺伝子の有無にかかわらず、男女の別にかかわらず、すべての人が子供(あるいは相対的弱者)を保護しいつくしみ愛することを「学習」するのが人間の使命のようなものだからだ。

けれども、誰かが「母性愛」を感じられないとか、弱い人の世話をせずに楽になりたいとか感じたからと言って罪悪感に苛まれる必要はない。

「母性愛」や「隣人愛」にあふれた愛ある行動を自然にとれる人はそういう「賜物」に恵まれたのでそれを大いに発揮してくれればいい。

それに恵まれなかった人は、自分に与えられた別の「賜物」を通して、子供(あるいは相対的弱者)をいつくしみ愛する広い「きょうだい愛」に参画してもいいのだ。

PS 1 いつものごとく、このテーマを猫に投影してみると、母性遺伝子と猫かわいがりは別物だ。

母性遺伝子の発現を代償的に猫に投影している人たちや人間と同時に猫にも向けている人ももちろんいるけれど、ヒトの赤ちゃんはかわいいと思えないけれど猫だけはかわいいという人はいくらでもいる。
自分の子供よりも猫の方がかわいいという人も。
それはジョークとしては通用しても「社会的公正」ではないので大きな声では言えないし、自分ですら気づいていない人もいる。
母性遺伝子があろうとなかろうと、子供でも猫でも、かかわったものには責任をもって関係を全うすることに努力することがたいせつなのだろう。

猫を猫かわいがりする人にはそういう遺伝子があるのかどうかは知らないが、そうでない人からは冷ややかに猫バカだとみられるだけだ。
一方、母性遺伝子のある人が心から赤ちゃんをいつくしんでいる姿に接すると誰でも感動し、神々しいと思う。

でもそういう人にはそれが自然で普通なのだ。
そうでない人は劣等感や罪悪感を抱く必要がない。

愛することを「学習」して、赤ちゃんの笑顔や信頼という見返りがあれば最高だし、それがなくても命を守るという使命を遂行することに意義を感じることができる。

愛やいつくしみといった一見普遍的に見えることですら、みんな出発点がちがうのだ。でも、正しい「方向」というものは絶対にある。

PS 2 母性遺伝子があるかどうかをチェックするのは簡単だ。一般的なヒトの赤ちゃんを前にしてかわいい、抱きしめたい、と思うかどうか。そこに「世話をしたい」というのがセットになっていると本物だ。仔猫を前にしてかわいい、抱きしめたい、と思っても別に四六時中世話したいと思わない人は多い。

昨年の秋、シリア難民の3歳の子供が浜に打ち上げられた写真を見てヨーロッパ中が難民受け入れに好意的になったように、子供や赤ちゃんや動物の子供が苦しんだり傷ついたりするのを不当だとかかわいそうだとか思うこと自体はもっと広い意味での本能的な情動に組み込まれているような気もする。
けれども「そばにおいて世話したい」というのはまた別のものなのだ。
この仮説について、検討することはまだまだたくさんある。
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by mariastella | 2016-08-06 00:38 | フェミニズム

聖女たちの戦場  (昨日の続き)

朝のラジオで、アメリカ共和党のフランス支部!みたいなグループのメンバーがインタビューを受けていた。(そんなものがあることも知らなかった。)

トランプが大統領になる、という本を出したばかりだそうだが、例のパキスタン系アメリカ人兵士の戦死者の両親に対するトランプの暴言で、世論調査の向きが変わったり、マケインら共和党有力者がヒラリーに投票すると言ったところなので、この著者はあせっているのではないかと思ったが … 全然平気だった。

あの発言で共和党の支持者の票を5%失うかもしれないけれど、民主党支持者の票を20%獲得できる、などと断言している。フランスはアメリカのリベラルなメディアばかりを重視しているからわからないのだ、と。

どうなんだろう。

このパキスタン系兵士の事件より前、先日、このままではトランプが絶対大統領になるというマイケル・ムーアの文をこのブログで読んだ


すごく実感がある。もう20年以上前にアイオワの中流家庭と少し関わったことがあったが、イギリスがどこにあるかも知らず、テレビで見るニュースはアイオワの地方ニュースばかりだった。

この記事を読むと、世界中がおかしくなってきているのが現実味を増して怖くなるし、アメリカの星条旗絶対神聖主義よりも単純な「異文化差別」「異種差別」の方が根強いのかなあとも思えてくる。そして「異種差別」の中には「女性差別」も入っている。

ジャンヌ・ダルクは「異種排除」の戦い(イギリス軍をフランスから一掃するなど)の先頭に立つときには崇められる。

けれども「異種統合」の戦いを率いる時には「性差別」の標的になるのかもしれない。

カトリック史の中での「聖母マリア」の崇敬を見ていると、「異種統合」を巧みに回避して
「なになにの聖母」 「どこそこの聖母」と細かく「じぶんちの聖母」を打ち立てた後で、
「悪魔と戦う」強いイメージを賦与されている場合が多い。

イエス・キリストはそういう形では分断されない。

根強いと言われる「ヒラリー・クリントンへの不信感」には異種排除のフィールドで戦っていないことによる女性差別があるのかもしれない。

それに比べると「栄光あるイギリスの利益」のために戦いに打って出る形のテレザ・メイ首相の方がずっとやりやすそうだ。
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by mariastella | 2016-08-03 17:41 | フェミニズム

イラン映画 『Nahid』とイスラム・スカーフ

イランの若手女性監督による映画『ナイード』鑑賞とそれについてのディスカッションに参加した。

監督はIda Panahandeh

前にこの映画とかこの映画の記事を書いたファルハディ監督の弟子的存在。

ファルハディほどのサスペンスフルな強靭さはないけれど色彩の演出が素晴らしい。

知り合いにカスピ海を見下ろせるバルコニーのあるアパルトマンを持っている人がいるのでいつか行きたいと思っていたのだけれど、この映画の灰色の湿った空気の立ち込めたカスピ海を見ていると、行きたくなくなる。

カスピ海の浜を映す監視カメラを通した多くの映像は、その無機質の中に、「見られることを厭わない」覚悟の表明ともなる。

景色、街の色、服の色に至るまで無彩色に近く、ぼかしもかけられていて、その中でヒロインが買ってしまった真っ赤なソファと、9歳以下なのでまだ髪を隠す必要のない少女のピンクの服と赤毛、そして、ヒロインも、元夫も息子も流す真っ赤な血。

赤は情動の噴出のようだ。

イランでは離婚すると親権は男親に渡るが、男親が薬物中毒ということで、再婚しないことを条件に息子を引き取ることに成功した女性の葛藤の物語。

彼女はカスピ海の畔でホテルを経営するやもめ男と相愛になる。

彼の幼い娘の世話をするためにも結婚したいが息子を手離すわけにはいかない。

で、「期限付き結婚」を選択する。「期限付き」なのでパスポートなど公の書類には跡が残らない。

シーア派にしかないこの期限付き結婚というのは、要するに、イマムの司式による結婚という枠以外のすべての性的交渉を禁止するもので、昔は、いわゆる売春宿にもイマムがいて、性的交渉をする前にいちいち短時間の期限付き結婚を認めていたこともある、と解説者が言っていた。

それは妊娠した場合に正式な父親を特定できるからだともいうけれど、要するに、一夫多妻によって金がかかることを避けるためでもあるそうだ。

イランのほとんどの人は、保身のために厳しいシャリア法に表向き従ってはいるがもちろんそれを不満とする人や、同性愛者などもともとそれと合致できない人もいる。

だからイランで生きるということは嘘をついて生きることだ。

ジャーナリストのラミタ・ナヴァイさんの著作が紹介される。

この映画でも、ヒロインは信頼できるはずの新しい夫に嘘をつくのだけれど、嘘をつくことがそのままサバイバルであるとして育ったのだからしょうがない。

出演は『別離』にも出ていたSareh Bayatだが、彼女も、監督も、共にホメイニ革命の1979年生まれだということが象徴的だ。

イスラム革命の後で生まれた女性たちが30代後半になってようやく偽善や嘘から立ち上がって女性の自立を唱えているというのではない。

そもそも1979年のイスラム革命を担った大きな力が自由を求める女性たちだったのだ。

後から思うと信じられないけれど、亡命中のホメイニはフランスでアメリカと癒着したイランの王制を批判してフランスのインテリ左翼に共感されていた。

フランス革命の刷り込みのあるフランス人には「王制打倒の革命」へのシンパシーがあったのだ。アンチ・アメリカの伝統もあった。

ホメイニは「王制打倒の共和国」を標榜し、実際、一応イスラム「共和国」と称した。その上、無神論をイデオロギーとする共産党と手を組むことにもやぶさかではなかった。

だから、イランの女性たちも、「革命」によって女性の完全な自由、男女平等の日が来ると思っていたのだ。

ところが2月の革命の後、すぐに、イスラム・スカーフ着用が語られ、女性がスカーフなしで歩いていると、戒告された。

そんなはずではなかった。
イスラム・スカーフが着用義務が憲法に書き込まれるようになってはもう遅い。

女性たちがすぐに声をあげ、ソーシャル・ネットワークのない時代にテレビで呼びかけただけで、3/8に1万5千人の女性がテヘランでデモをした。

世界のどこでも男性によって書かれる法で女性のあり方が規制されるところがある限りは、女性はもちろん、あらゆるマイノリティへの差別構造は崩せない、と考えた多くの人が世界中で賛同した。

その日のデモは女性主導のデモとして今でも世界最大規模のものとなった。
リヨンの女性がそれを撮影したのを今も見ることができる。

その大騒ぎに驚いたホメイニ師は数日後にスカーフ着用令をひっこめた。

それなりの犠牲は払ったものの女性が勝利したのだ。
スカーフ着用が完全に義務化されるには数年を要したそうだ。

イランの法律はその後、 「女性の社会進出」や学問の権利について、一応の「平等」を保証することになった。
その結果、大学や専門職に女性の割合が圧倒するようになったのでクォータ制を設けて男性の数を保つ必要ができたほどだ。

そうしないと司法試験も外交官試験も女性ばかりが合格する。

そのような一見「女性進出」のフィールドを与えられることで、女性たちはイスラム・スカーフの着用を譲歩せずにいられなくなったのだろう。

いや、スカーフの着用が彼女らの社会進出のモティヴェーションになったのかもしれない。

私は20世紀の終わりごろ、朝日カルチャーセンターでの講義に出席していた女性から、イランでは男女は分けられてはいるけれど、女性はあらゆる職階を昇り詰めることができて、日本よりむしろ女性が優遇されている、というような話を聞いたことがある。

しかし、弁護士にはなれても判事にはなれないように、実際は閉ざされている道もあるし、あれほど多くの女性が通りに出て叫んだにもかかわらず結局イスラムスカーフが「義務付けられ」てしまった状況が続く限り、深い所に女性のルサンチマンは残っているだろう。

しかし女性がいろいろな職業に就くようになって、想定外の面白いことも起こった。

例えば、バスでは男性が前から乗り前に座り、女性は後ろからと分けられていたのだが、1997年に女性運転士のバスが登場した。

女性と男性を分けるというのが法律だから、この場合は女性が前に乗らなくてはならない。

しかし前に乗ることに男性優先の含意を見ていたために後ろに乗ることを拒否した男が出てきたり、男女別を守るために女たちが前に乗るようになったりと、原則が崩れてきたのである。

2010年にははじめて女性が在マレーシアの大使に任命されたそうだ。シャーの時代にもなかったことだ。

中東情勢も含めてこれからのイランの情勢にも、イラン女性の目を通して注目していきたい。
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by mariastella | 2016-03-10 22:44 | フェミニズム



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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