L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フェミニズム( 20 )

東京ウィメンズプラザで平塚らいてうのフレンチ・フェミニズムに出会う

うちから歩いて行ける書店である青山ブックセンターに、注文していた本を取りに行った。その帰りに、いつも目に入っていたが素通りしていた東京ウィメンズプラザに入った。
そこの図書館はわくわくするようなものだった。

雑誌「青鞜」の第1号の復刻版を開いた。もちろん平塚らいてうの有名な「元祖女性は太陽であった」を読んだ。当時の雑誌の形で読むとインパクトが違う。
男女同権を目指すアングロサクソン的フェミニズムとは違って、完全にフランス型ユニヴァーサリズムの人間主義であったことも再発見。

「太陽」とは全人格であり、性別を超えたものだと書く。
太陽が男で月が女というような構造を逆転するというような話ではない。

では全人格の取り戻しに何が必要かというと、「熱誠」であるという。その言葉を言い換えると、

熱誠=祈祷力=意思の力=禅定力=神道力=精神集注力

だと言う。

そして精神集注力こそが、人間の深さの奥においてのみ見られる現実そのものという神秘に通じる唯一の力だという。

ロダンのファンで、芸術家はインスピレーションをただ待つのではなく、「欲求」しなくてはならないとも言う。ロダンはインスピレーションを「欲求」した。

何かを欲求するときに超越的な視野なしには、真実に到達できないと言うことだ。

明治44年のこのマニフェスト、全く古くないどころか、今のフェミニズムに決定的に欠けている全てが詰まっている。
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by mariastella | 2017-04-08 00:24 | フェミニズム

レバノンでイスラム・スカーフを拒否したマリーヌ・ル・ペン

連載中の「フランスとイスラム」はまだまだ延々と続くのだけれど、このところおもしろいニュースがありすぎるので少し寄り道。

その一つは、ただいまフランス大統領選キャンペーン中の極右FNの党首マリーヌ・ル・ペンがレバノンを訪問して、火曜日にベイルートのモスクでスンニー派のトップであるグラン・ムフティと会見する前に、スカーフで頭を覆うことを拒否したニュースだ。

彼女はエジプトで2015年5月にやはりスンニー派のトップと会見した時にもイスラム・スカーフを強要されなかったことを根拠にして拒絶した。

彼女は前日にそのことを伝えてあり、返事がなかったので問題ないと思った、と言い、ムフティの側はスカーフ着用は義務であることを伝えてあると言い、くいちがっている。

レバノンはもともと中東の真ん中に、英仏が「キリスト教の飛び地、緩衝地帯」として人工的に国境線を引いた国だが、今はイスラム勢力の方が強い。

ル・ペンは、公立学校や役所だけではなく公共の場所でのユダヤの帽子のキッパやイスラムスカーフの着用禁止の法律を提唱しているぐらいだから、彼女のこの「毅然とした態度」には、FNの支持者からは好意的に受け止められた。「フランスと全世界の女性に向けた自由と解放の素晴らしいメッセージだ」と、マリーヌの右腕であるフロリアン・フィリポがすぐにTweetした。

マリーヌは、自分はイスラムに偏見を持っているわけではない、イスラム過激派と戦うだけだ、グラン・ムフティへのリスペクトの気持ちは変わらない、と弁解した。

ううーん、わざわざイスラム圏の国に出かけて行ってしかもその宗教施設でそこのトップに会うのだから、向こうの習慣をリスペクトするのは当然だという気もする。ただし、仏教寺院で靴を脱げといわれれば、男女とも同じだし、床を汚さないという礼儀もあるからマリーヌも従ったと思う。モスクで女性だけが髪を覆うことは、衛生上の理由も考えられない。

このことについての私の個人的感想については前にわりと詳しく書いたことがある。
そちらの記事をまず読んでほしい

数年前にプラハのシナゴーグでの体験から感じた本音だ。

私は前にマリーヌ・ル・ペンだけは、「女性政治家」のステレオタイプに入れられない特異な存在だということも書いたことがある
しかし、確かに、モスクの中では、彼女は「政治家」である前に「女性」認定されるのであり、向こうが求めるそのアイデンティティに課せられる規則を受け入れないのなら、拒否される。

いや、ニュアンスは少し違うかもしれない。ヴェールを被ることを拒否したのはマリーヌで、彼女はかぶり物のない頭のまま突破しようとして排除されたのではなく自分から出て行った。

この段階では彼女は別にフランスの外交官でもないし、いわゆる公式訪問というわけでもない。

だから、彼女のとった行動自体は日頃の主張と整合性がある。
こういうケースを想定してわざと仕掛けた、というよりは、かぶり物のない頭でモスクの指導者と会見している写真をねらっていたのかもしれない。

後日談をもう少し観察していきたい。
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by mariastella | 2017-02-23 00:39 | フェミニズム

アンゲラ・メルケルとアンデン・パクトの男たち

Arteでアンゲラ・メルケルのドキュメンタリーをやっていた。

もう10年もヨーロッパのトップに君臨する彼女についてはすでにいろいろなところで特集とかドキュメンタリーを見たことがある。

父親がプロテスタントの牧師、東独出身の物理学者、牧師館には知的障碍者のための施設が併設されていて彼女も通っていたなど、多少のプライヴェートのエピソードもすでに耳にしたことがある。

でも、今回このドキュメンタリーを見て、なんだか改めて、奇跡のような人だなあ、と思った。

前に女性の政治家について書いたことがある。

フランスの女性政治家についてや、
ジャンヌ・ダルクとヒラリー・クリントンや小池都知事について

そのどちらにもメルケル首相は出てこない。

メルケルが「女性政治家」の観察のフィールドに入ってこないのはマリーヌ・ル・ペン女子と似たポジションのかもしれないと漠然と思っていた。

でも実はメルケルさんのことはかわいいなあ、と思っていた

この番組を見ると、若い頃は超かわいいし、おかっぱ頭もジャンヌ・ダルクそのもので、フランスだったら絶対そう言われていただろうなあと思う。

女性にも好かれていて、側近を信用できる女性で固めたというのも意外だった(girls campと呼ばれる)。 
番組で証言しているヴァチカンのドイツ大使も女性だった。

ちなみにフランスは14世紀から教皇庁に大使を送っているが、女性は一人もいない。

オバマ大統領はキャロライン・ケネディ(カトリック)を大使にするつもりだったが、彼女がプロ・ライフ(中絶反対)ではなかったので拒否されたという。フランスもゲイの活動家を送ろうとして拒否されたと言われている。
今の在ヴァティカンのアメリカ大使は外交官出身ではなく40年もアメリカのカリタス(カトリックの社会福祉組織)で働いていた人だ。昨年引っ越した立派な大使館にいる。

(大使の人選って、相手国が拒否できるのって知らなかった。それともヴァティカン限定? いや、ヴァティカンも公式に拒絶したわけではないけれど。カトリックでないとだめということもなく、イラン大使をはじめムスリム国の大使もいるし。)

話がそれたが、それでも、メルケルのドイツが女性大使をヴァティカンに送っているのはそれなりの意味がある気がする。

で、話はそんなことではなく、この番組で一番驚いたのは、東独から来たジャンヌ・ダルク風の、でも、控えめで野心を表に出さない感じのかわいいアンゲラが、自党内で、典型的なゲルマン男の政治家たちからなる「アンデン・パクト」(メンバーの名が分かるという意味では秘密結社ではなく「非公開互助会」とか呼ばれているが、まあ似たようなものだ。で、男限定。)を敵にしていたということだ。

彼らと彼らの戦略のすべてを出し抜いて、ヘルムート・コールの後に、SPDのシュレーダーの一期をおいて、CDU(キリスト教民主同盟)から出馬して首相になった。

今の堂々とした感じからは、マルティーヌ・オーブリーやル・ペン女史を思わせるけれど、オーブリーやル・ペンは、若い頃から意志の強さとか気の強さとか野心を感じさせる雰囲気だった。
メルケルの若い時は、学生時代ソ連の数学コンクールで優勝したりしているのに、西側の男たちの間にいると、本当に、田舎の物理研究所勤め以外の外の世界を何も知らないでポッと出てきた素朴な女の子(30代でも18歳くらいに見える)という風体なのだ。

一方、コールの後釜を狙う軍団のようなアンデン・パクトの男たちは、もう、「多様性って何?」って言いたくなるほど互いに似ているマッチョなゲルマン・エリートの風貌。
ラテンの男たちやドナルド・トランプみたいに分かりやすい男たちとは正反対の、「秘密」が似合う男たちだ。

よくこんなところで生き延びて彼らを鮮やかに出し抜いたなあと思う。

しかも、彼女の演説は、聞く人によって、左派にも、改革者にも、ナショナリストにも解釈されて共感を呼ぶ柔軟さだ。
社会主義体制、科学研究チームという、自由より規律優先の社会から来たので「変革」を肯定的にとらえるおもいきりの良さも、どこにいようと自分の立ち位置こそが「中道」なのだという自信に満ちたバランス感覚も、アンデン・パクトの男たちには想像もつかないことだったろう。

一方で、ヘルムート・コールとミッテランが思い入れたっぷりに独仏の和解やらEUの発展に尽くしたのと違って、メルケルはEUに対しても科学者らしい知的で冷静な打算を隠さない統治者の顔を持つ。

それでも、ヒラリー・クリントンが逆立ちしても演じられないような「素朴さ」や「暖かさ」みたいな空気を発することもできる。私生活は公開しないけれどジャガイモのスープを作るところはOK。

いやぁ、彼女は4期目も狙うらしいから、まだ先のことかもしれないけれど、リタイアしたらぜひ自叙伝でも読みたい。そんなの書くタイプではない気がするが・・・

アンデン・パクトの男たちによる回想も読んでみたいけれどまだ利害が一致しているからね。
番組でもアンデン・パクトのローラント・コッホなどが証言していたけれど、なかなか微妙なニュアンスも読み取れた。

それにしても彼らをここまでリスペクトさせたのはメルケルって、やっぱり、すてきかも。

(Arteのサイトでこの番組は今のところまだ試聴できます)
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by mariastella | 2016-12-08 04:03 | フェミニズム

ブルキニの話

数日前、澤藤統一朗さんのブログにブルキニ(イスラム女性用のブルカ風水着)をめぐってのフランスのいざこざについての記事があった。

このテーマはあまりにも複合的なのでスルーしようと思ったのだけれどひとことだけ書いておく。

今回の海岸でのブルキニ禁止条例については、ブルキニを着て浜辺にいる女性の服を脱がそうとするような倒錯的なシーンもあって確かに問題外だった。

私も澤藤さんのように、この条例を無効とした国務院の決定はさすがフランスだと思った。

ムスリムを規制する条例が出るたびに反応するカトリックも、「私は来週、修道会のシスターである妹を浜辺に誘うつもりだが、ヴェールをつけたシスターの服装で座っていても尋問されるのかと心配だ」と揶揄している人がいた。

浜辺に座っていても、泳ぐわけではなく着衣の人などいくらでもいる。
まあフランスのリゾートでは少ないだろうけれど、日焼けしたくなくてできるだけ肌を覆って日陰に座っている年配のご婦人など十分いるわけで、そんな人に、肌を隠すのが悪いなどというのはまったくの倒錯だ。

問題は、女性が、男性の作った条例や法によって服装を規制されることのほうで、イスラムをあげつらうなら、シャーリア法では、厳密に言えばブルキニどころか、そもそも男性(父、兄弟、夫を除く)のいる浜辺に女性が行くことが禁じられている。
肌は覆っているが体の線を出しているブルキニを着てリゾート地の海岸に行くなどとんでもないことだ。

フランスの場合は、露出の多い水着で泳ぐことを共同体から禁止されてこれまでプールや海に行けなかった女性たちがブルキニができたおかげで海に行くことができた、むしろ「女性解放」の第一歩だなどと言われているのでことがややこしい。

そうやって海に来たムスリムの女性に、公共の秩序に反するから他の女性のように肌を露出しろなどというのはまったくグロテスクなのだが、問題はそこではない。

問題は、ブルキニをはじめとするシャリーア法にかなった女性の服が新しいマーケットを形成していることのほうだ。

たとえば、シャリーア法を適用しているサウジアラビアでは、イスラムスカーフで髪をおおったりアバヤで体をおおったりするのは初潮を迎えた後の女性ということになっている。そして閉経した女性はヴェールをとってもいいともある。

もともと髪を隠していないで町に出ると「売春婦とまちがわれる」ことを避けるためにヴェールの着用が推奨されたといういわれとも合致している。修道女のヴェールも「イエスと結婚している」女性であって、他の男とは結婚しないというしるしだった。普通の既婚女性もヴェールをかぶっていた。

それがいつのまにか、フランスにおけるムスリムの共同体の一部では、イスラムスカーフをつけてない女性はみだら、不品行、男を誘っている、のようなハラスメントの対象になってきた。

宗教と関係なくても、女性が痴漢にあったりセクハラされたりした時に、挑発的な服装をしていたからだ、そんなところに夜一人でいるのが悪い、などといわれるのと同じ構造だ。

で、ブルキニだが、これはこういう問題を利用したビジネスの話なのだ。

なんと今では2,3歳の幼児用の、かわいい色とりどりの頭巾と服の一体型で全身を覆うタイプのイスラム服さえインターネットで売られている。

需要のある所に商品が開発される。

フランスのオートクチュールもイスラム女性向けモデルを打ち出したことで物議をかもした。

ブルキニは宗教ではなくビジネスなのだ。

素敵なデザインだから、堂々と来ているのよ、どこが悪いの? 的になってくる。
2歳の女の子のアバヤやブルカも「かわいい」から着せてるのよ、となってくる。

市場論理に目をくらまされて私たちはいつの間にかいろんなことで変な方向に行って、なかなかそれに気がつかない。

それに気づかせてくれただけでもブルキニ騒ぎは有用だったとも言える。

市場経済の戦略にとって、ムスリム女性向けの水着というのはまさに「ブルーオーシャン」(競争相手のいないマーケット)であった。

「売春婦でないのなら男を誘惑するような服を着てはいけない」などという根強いドレス・コードを、長年かけて苦労して、やっと打ち破ってきた女性たちが好きなかっこうをしている浜辺に、それが進出してきたのだ。

ブルキニの問題はイスラムの問題ではなく、政教分離の問題でもなく、フェミニズムの問題である。
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by mariastella | 2016-09-01 06:29 | フェミニズム

母性愛の神話と母性遺伝子

「母性」(子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいておこうとする性質)が社会的に形成されてきた神話であるとする『母性という神話』の著者エリザベート バダンテールは私の賛同するフレンチ・フェミニズムの旗手(アングロサクソン型フェミニズムが席巻している今では貴種?)だけれど、何十年と「母性愛」を観察した結果、私の考えは少し違ってきた。

バダンテールは、

いわゆる「母性愛」は本能などではなく、母親と子どもの日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。それを「本能」とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想である

とするのだけれど、私は、「母性」(子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいて世話しようとする性質)は確かに「本能」ではないが、「母性遺伝子」のようなものが存在するのだと今は思う。

本能ではないから、あるかないかは人によって違う。

それは性別と関係がない。

この遺伝子(ここでは便宜上遺伝子という言葉を使うがもちろん特定されているわけではない。仮説だ。)がない個体は、子供の世話を進んですることがない。

だから、集団生活をしない動物なら、この遺伝子のないメスが生まれた子を放置すると子供は死ぬ。

その結果、その遺伝子(つまり母性遺伝子の欠如した個体の遺伝子)は絶えるので、母性遺伝子のある個体が自然淘汰を免れて多く残る。

けれども集団生活をする動物なら、母性遺伝子のない母に放置された子供を代わりに保護する個体が現れる。
それがオスであることもあるし、他のメスが自分の子と一緒に育てることもある。
時には異種の動物に保護されることもある。

で、人間の場合は特殊で、母性遺伝子のない女性もほとんど淘汰されないできた。

母性遺伝子のない女性もたいていは子供を育てるからだ。

社会的な役割を模倣したり、押し付けられたりするからである。

また、強制や幻想がなくても、自分が育てられてきた環境を模倣したり自然に学習したりするということもある。

その「やり方」やモデルは確立しているので、「本能」だの「心」だのが伴わなくても比較的簡単にこなせる。

だから「放置」というのは例外となる。

社会によっては、乳母制度などで、母性遺伝子のある人とない人の住み分けが可能である時代や場所もある。

母性遺伝子のない女性でも子供を保護し、養うという行動をとるのは、生存戦略として機能している。
社会的に必要とされ受容されるからだ。

だからこそ、ヒトが一番、「母性遺伝子のないメス」がたくさん生き残っている動物となっている可能性がある。

母性愛を「本能」とするのが、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想であるというのはバダンテールに同意するけれど、生まれながらに「母性遺伝子」を持っている人は男女を問わず存在する。
環境と関係がない。

その意味で、母性は神話ではない。

その他のケースとして、母性遺伝子がないにも関わらず、その幻想を引き受けて役割を果たすことをエゴイズムの中に取り込んでいる人もいる。

つまり幼子をいつくしむというのではなく、自己愛の肥大としての疑似母性だ。

この場合は子供がもう庇護を必要としなくなっても共依存に陥る場合が多い。

また、母性遺伝子と女性のキャリア志向は、男性の場合と同じくまったく関係がない。

母性遺伝子があっても子供を持たない人や、子供を保育所、ベビー・シッター、子供の父親、実家などにあずけてキャリアを追及する人ももちろんいる。

でも、そんな人でも、母性遺伝子があれば、通りすがりの他人の赤ん坊を見るだけで心が騒ぎ抱きたくなるのだ。

母性遺伝子のある人は、自分の子でなくとも子供を保護しいつくしむ。

男性の場合これが社会的に阻まれることもあるかもしれない。

マザー・テレサが北京世界女性会議へ宛てたメッセージの中で、

「女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物-それが母性なのです。」

などと、「母性神話」を女性や母親としっかり結びつけているように、母性遺伝子を持っている人自身(マザー・テレサがそうであったと仮定して)が、誤解している場合もある。

「母性愛」が女性特有で素晴らしいものだとする言説は、母性遺伝子のない女性を苛んだり、彼女らの人生に不全感を与えたりする。

もっともマザー・テレサがその後に続けて、

「子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう」

と言ったこと自体は間違っていない。

母性遺伝子の有無にかかわらず、男女の別にかかわらず、すべての人が子供(あるいは相対的弱者)を保護しいつくしみ愛することを「学習」するのが人間の使命のようなものだからだ。

けれども、誰かが「母性愛」を感じられないとか、弱い人の世話をせずに楽になりたいとか感じたからと言って罪悪感に苛まれる必要はない。

「母性愛」や「隣人愛」にあふれた愛ある行動を自然にとれる人はそういう「賜物」に恵まれたのでそれを大いに発揮してくれればいい。

それに恵まれなかった人は、自分に与えられた別の「賜物」を通して、子供(あるいは相対的弱者)をいつくしみ愛する広い「きょうだい愛」に参画してもいいのだ。

PS 1 いつものごとく、このテーマを猫に投影してみると、母性遺伝子と猫かわいがりは別物だ。

母性遺伝子の発現を代償的に猫に投影している人たちや人間と同時に猫にも向けている人ももちろんいるけれど、ヒトの赤ちゃんはかわいいと思えないけれど猫だけはかわいいという人はいくらでもいる。
自分の子供よりも猫の方がかわいいという人も。
それはジョークとしては通用しても「社会的公正」ではないので大きな声では言えないし、自分ですら気づいていない人もいる。
母性遺伝子があろうとなかろうと、子供でも猫でも、かかわったものには責任をもって関係を全うすることに努力することがたいせつなのだろう。

猫を猫かわいがりする人にはそういう遺伝子があるのかどうかは知らないが、そうでない人からは冷ややかに猫バカだとみられるだけだ。
一方、母性遺伝子のある人が心から赤ちゃんをいつくしんでいる姿に接すると誰でも感動し、神々しいと思う。

でもそういう人にはそれが自然で普通なのだ。
そうでない人は劣等感や罪悪感を抱く必要がない。

愛することを「学習」して、赤ちゃんの笑顔や信頼という見返りがあれば最高だし、それがなくても命を守るという使命を遂行することに意義を感じることができる。

愛やいつくしみといった一見普遍的に見えることですら、みんな出発点がちがうのだ。でも、正しい「方向」というものは絶対にある。

PS 2 母性遺伝子があるかどうかをチェックするのは簡単だ。一般的なヒトの赤ちゃんを前にしてかわいい、抱きしめたい、と思うかどうか。そこに「世話をしたい」というのがセットになっていると本物だ。仔猫を前にしてかわいい、抱きしめたい、と思っても別に四六時中世話したいと思わない人は多い。

昨年の秋、シリア難民の3歳の子供が浜に打ち上げられた写真を見てヨーロッパ中が難民受け入れに好意的になったように、子供や赤ちゃんや動物の子供が苦しんだり傷ついたりするのを不当だとかかわいそうだとか思うこと自体はもっと広い意味での本能的な情動に組み込まれているような気もする。
けれども「そばにおいて世話したい」というのはまた別のものなのだ。
この仮説について、検討することはまだまだたくさんある。
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by mariastella | 2016-08-06 00:38 | フェミニズム

聖女たちの戦場  (昨日の続き)

朝のラジオで、アメリカ共和党のフランス支部!みたいなグループのメンバーがインタビューを受けていた。(そんなものがあることも知らなかった。)

トランプが大統領になる、という本を出したばかりだそうだが、例のパキスタン系アメリカ人兵士の戦死者の両親に対するトランプの暴言で、世論調査の向きが変わったり、マケインら共和党有力者がヒラリーに投票すると言ったところなので、この著者はあせっているのではないかと思ったが … 全然平気だった。

あの発言で共和党の支持者の票を5%失うかもしれないけれど、民主党支持者の票を20%獲得できる、などと断言している。フランスはアメリカのリベラルなメディアばかりを重視しているからわからないのだ、と。

どうなんだろう。

このパキスタン系兵士の事件より前、先日、このままではトランプが絶対大統領になるというマイケル・ムーアの文をこのブログで読んだ


すごく実感がある。もう20年以上前にアイオワの中流家庭と少し関わったことがあったが、イギリスがどこにあるかも知らず、テレビで見るニュースはアイオワの地方ニュースばかりだった。

この記事を読むと、世界中がおかしくなってきているのが現実味を増して怖くなるし、アメリカの星条旗絶対神聖主義よりも単純な「異文化差別」「異種差別」の方が根強いのかなあとも思えてくる。そして「異種差別」の中には「女性差別」も入っている。

ジャンヌ・ダルクは「異種排除」の戦い(イギリス軍をフランスから一掃するなど)の先頭に立つときには崇められる。

けれども「異種統合」の戦いを率いる時には「性差別」の標的になるのかもしれない。

カトリック史の中での「聖母マリア」の崇敬を見ていると、「異種統合」を巧みに回避して
「なになにの聖母」 「どこそこの聖母」と細かく「じぶんちの聖母」を打ち立てた後で、
「悪魔と戦う」強いイメージを賦与されている場合が多い。

イエス・キリストはそういう形では分断されない。

根強いと言われる「ヒラリー・クリントンへの不信感」には異種排除のフィールドで戦っていないことによる女性差別があるのかもしれない。

それに比べると「栄光あるイギリスの利益」のために戦いに打って出る形のテレザ・メイ首相の方がずっとやりやすそうだ。
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by mariastella | 2016-08-03 17:41 | フェミニズム

イラン映画 『Nahid』とイスラム・スカーフ

イランの若手女性監督による映画『ナイード』鑑賞とそれについてのディスカッションに参加した。

監督はIda Panahandeh

前にこの映画とかこの映画の記事を書いたファルハディ監督の弟子的存在。

ファルハディほどのサスペンスフルな強靭さはないけれど色彩の演出が素晴らしい。

知り合いにカスピ海を見下ろせるバルコニーのあるアパルトマンを持っている人がいるのでいつか行きたいと思っていたのだけれど、この映画の灰色の湿った空気の立ち込めたカスピ海を見ていると、行きたくなくなる。

カスピ海の浜を映す監視カメラを通した多くの映像は、その無機質の中に、「見られることを厭わない」覚悟の表明ともなる。

景色、街の色、服の色に至るまで無彩色に近く、ぼかしもかけられていて、その中でヒロインが買ってしまった真っ赤なソファと、9歳以下なのでまだ髪を隠す必要のない少女のピンクの服と赤毛、そして、ヒロインも、元夫も息子も流す真っ赤な血。

赤は情動の噴出のようだ。

イランでは離婚すると親権は男親に渡るが、男親が薬物中毒ということで、再婚しないことを条件に息子を引き取ることに成功した女性の葛藤の物語。

彼女はカスピ海の畔でホテルを経営するやもめ男と相愛になる。

彼の幼い娘の世話をするためにも結婚したいが息子を手離すわけにはいかない。

で、「期限付き結婚」を選択する。「期限付き」なのでパスポートなど公の書類には跡が残らない。

シーア派にしかないこの期限付き結婚というのは、要するに、イマムの司式による結婚という枠以外のすべての性的交渉を禁止するもので、昔は、いわゆる売春宿にもイマムがいて、性的交渉をする前にいちいち短時間の期限付き結婚を認めていたこともある、と解説者が言っていた。

それは妊娠した場合に正式な父親を特定できるからだともいうけれど、要するに、一夫多妻によって金がかかることを避けるためでもあるそうだ。

イランのほとんどの人は、保身のために厳しいシャリア法に表向き従ってはいるがもちろんそれを不満とする人や、同性愛者などもともとそれと合致できない人もいる。

だからイランで生きるということは嘘をついて生きることだ。

ジャーナリストのラミタ・ナヴァイさんの著作が紹介される。

この映画でも、ヒロインは信頼できるはずの新しい夫に嘘をつくのだけれど、嘘をつくことがそのままサバイバルであるとして育ったのだからしょうがない。

出演は『別離』にも出ていたSareh Bayatだが、彼女も、監督も、共にホメイニ革命の1979年生まれだということが象徴的だ。

イスラム革命の後で生まれた女性たちが30代後半になってようやく偽善や嘘から立ち上がって女性の自立を唱えているというのではない。

そもそも1979年のイスラム革命を担った大きな力が自由を求める女性たちだったのだ。

後から思うと信じられないけれど、亡命中のホメイニはフランスでアメリカと癒着したイランの王制を批判してフランスのインテリ左翼に共感されていた。

フランス革命の刷り込みのあるフランス人には「王制打倒の革命」へのシンパシーがあったのだ。アンチ・アメリカの伝統もあった。

ホメイニは「王制打倒の共和国」を標榜し、実際、一応イスラム「共和国」と称した。その上、無神論をイデオロギーとする共産党と手を組むことにもやぶさかではなかった。

だから、イランの女性たちも、「革命」によって女性の完全な自由、男女平等の日が来ると思っていたのだ。

ところが2月の革命の後、すぐに、イスラム・スカーフ着用が語られ、女性がスカーフなしで歩いていると、戒告された。

そんなはずではなかった。
イスラム・スカーフが着用義務が憲法に書き込まれるようになってはもう遅い。

女性たちがすぐに声をあげ、ソーシャル・ネットワークのない時代にテレビで呼びかけただけで、3/8に1万5千人の女性がテヘランでデモをした。

世界のどこでも男性によって書かれる法で女性のあり方が規制されるところがある限りは、女性はもちろん、あらゆるマイノリティへの差別構造は崩せない、と考えた多くの人が世界中で賛同した。

その日のデモは女性主導のデモとして今でも世界最大規模のものとなった。
リヨンの女性がそれを撮影したのを今も見ることができる。

その大騒ぎに驚いたホメイニ師は数日後にスカーフ着用令をひっこめた。

それなりの犠牲は払ったものの女性が勝利したのだ。
スカーフ着用が完全に義務化されるには数年を要したそうだ。

イランの法律はその後、 「女性の社会進出」や学問の権利について、一応の「平等」を保証することになった。
その結果、大学や専門職に女性の割合が圧倒するようになったのでクォータ制を設けて男性の数を保つ必要ができたほどだ。

そうしないと司法試験も外交官試験も女性ばかりが合格する。

そのような一見「女性進出」のフィールドを与えられることで、女性たちはイスラム・スカーフの着用を譲歩せずにいられなくなったのだろう。

いや、スカーフの着用が彼女らの社会進出のモティヴェーションになったのかもしれない。

私は20世紀の終わりごろ、朝日カルチャーセンターでの講義に出席していた女性から、イランでは男女は分けられてはいるけれど、女性はあらゆる職階を昇り詰めることができて、日本よりむしろ女性が優遇されている、というような話を聞いたことがある。

しかし、弁護士にはなれても判事にはなれないように、実際は閉ざされている道もあるし、あれほど多くの女性が通りに出て叫んだにもかかわらず結局イスラムスカーフが「義務付けられ」てしまった状況が続く限り、深い所に女性のルサンチマンは残っているだろう。

しかし女性がいろいろな職業に就くようになって、想定外の面白いことも起こった。

例えば、バスでは男性が前から乗り前に座り、女性は後ろからと分けられていたのだが、1997年に女性運転士のバスが登場した。

女性と男性を分けるというのが法律だから、この場合は女性が前に乗らなくてはならない。

しかし前に乗ることに男性優先の含意を見ていたために後ろに乗ることを拒否した男が出てきたり、男女別を守るために女たちが前に乗るようになったりと、原則が崩れてきたのである。

2010年にははじめて女性が在マレーシアの大使に任命されたそうだ。シャーの時代にもなかったことだ。

中東情勢も含めてこれからのイランの情勢にも、イラン女性の目を通して注目していきたい。
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by mariastella | 2016-03-10 22:44 | フェミニズム

女性政治家への性差別とその「例外」

フランスの政界におけるセクシスム(性差別)についてのドキュメンタリー番組を偶然見た。

かなりシビアなテーマを切り下げているのに、そこはフランス風としか言いようのないエスプリがあって、よくできている。

フランスも政界は「男の世界」がデフォルトだったから、そこにある基準は男性用のものしかない。

フランスでは選挙の候補者を男女同数立てない政党は罰金を払うことになっているが罰金を払っても男性候補者をたてる政党は多い。

先日の地方選でははじめて、どの候補も男女一組という方法がとられた。

それでも実際は女性は飾りでしかないことが多いのだが、「いるだけ」でも「目に見えるだけ」でも、人々の意識がだんだんと変わってくるから意味があるのだという。

前に、イギリスではサッチャー首相などのカリカチュアがひどく醜かったのにフランスのギニョールなどでは男性のデフォルメはすごくても女性政治家は概してきれいなままであることを書いたことがある。

これについて女性の外見をリスペクトすることはいいことだと私が言うと、フェミニストの友人から、

それ自体が女性差別だ、男性と同等の扱いをされるならデフォルメされているはずだ、

と言われた。

でも私は、たとえばサルコジ前大統領は大嫌いだったが、彼の身長について何かというと差別言辞が普通にとびかうのはもっと嫌だった。本人の努力で変えられないような身体的要因について揶揄するのを許すのと女性政治家を女性ということで揶揄することは同じ流れにある。

で、「政治家」の「基本形」が短髪ダークスーツの中高年男性であるから、女性はヘアスタイルからアクセサリー、服や靴まで、モデルというものがない。

それで何をどうしても揶揄される。

女らしくないとか、女っぽすぎるとか、派手すぎるとか地味すぎるとか、とにかく外面をまずコメントされるのだ。

政策インタビューでヘアスタイルの変化の意味について質問された女性候補が怒り出したこともあるし、セゴレーヌ・ロワイヤルが社会党の大統領候補のプレ選挙に出た時は「子供の世話はだれがするのだ」と対立候補に言われた。

内閣には女性大臣が多用されているが、「アリバイ作り」の感は否めないし、子育て中の若い女性も多い(ロワイヤル女史も4人の子供がいた)。

ドキュメンタリーの中では、女性閣僚の一人が、子供の学校が昼から休みになる水曜日に定例会議をするのを変えてくれと申し出たら、第五共和制になって以来ずっと水曜日であり変えられない、と断られたという証言もあった。

しかしこのドキュメンタリーのコメントで私が一番驚き納得したのは、そのような「女性」というレッテル付けからたった1人「圏外」にいる大物女性政治家がいるという指摘だった。

次の大統領選では決選投票にまで進むと言われている人だ。
極右人民戦線党の党首マリーヌ・ル・ペンである。

確かに、彼女のことを形容する時は誰も「女性」とは言わない。

ル・ペンであり、極右であり、その言動、その政策だけが問題にされる。
外見をとやかく言われることはまったくない。

ひとつには党を創設した父親のジャン=マリー・ル・ペンのイメージが強いからかもしれない。
最初は一卵性父娘のようにセットになって、いつの間にか世代交代して娘が父を追い出しかねない勢いになっているのだが、娘はそのまま父の進化型というイメージなのだ。

彼女の外見がどうかというと、極右らしいというか白人フランスのイメージ通りの明るい金髪が肩にかかっている。同じ金髪でも短髪のメルケル女史とは違う印象だ。こんなとかこんなふうに胸のあいた服にペンダントという「女性」らしいスタイルもしている。

まだ今年47歳で、一男二女の母。

二度離婚して今もパートナーがいるが、みな党の歴代幹部だ。

「女性」人生のフルコースをこなしていて、その意味ではロワイヤル女史と同じなのに、「子供の世話は誰がする?」というような揶揄はない。

もちろん極右、「共和国の敵」としてそれこそ『シャルリー・エブド』などではひどいカリカチュアが出るが、彼女の場合、それは決して性差別に発してはいない。

ドキュメンタリーの中でも分析されていたが、政治家というのは人の集まりの中で「いかに大きな声」を出すかが重要で、声質の高い女性、細い声の女性は声量から言ってもどうしても不利になる。

高い声は子供の声にも通じ、男の子は声変りをして、「大人の男になる」ことと「低い声」がセットになっているから、女性が選挙戦や議会で高い声を張り上げていたらヒステリックだとか感情的だとか批判される。

ロワイヤル女史は低音だったのでその点は落ち着いた印象を与えたが、声で「女性」性を揶揄される女性政治家は少なくない。

ところがル・ペン女史は、生まれついての大声の上、がらがら声で迫力がある。体型も、太っていないが骨格が堂々としている。「大きく強い」印象がある。

それらの要素が相まって、ル・ペン女史は自らを性別、性差別、ジェンダー差別の圏外に置くことに完全に成功しているというのだ。

そういわれてみれば、確かにそうだ。

ロワイヤル女史が大統領になっていたら「フランス初の女性大統領」と言われたろうし、次にヒラリー・クリントンが大統領になったら「合衆国初の女性大統領」と言われることだろう。

けれども、もしル・ペン女史が大統領になったら「フランス初の女性大統領」ではなくて、「極右国民戦線の大統領」で「共和国の危機」となる。

ル・ペン女史の支持率の急上昇はいろいろな意味で気になる問題なのだけれど、セクシスムの観点から見ると、なかなか珍しいケースだと感心した次第だ。
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by mariastella | 2015-04-28 00:32 | フェミニズム

イランとチュニジアを見て人権とフェミニズムを思う

イランで2009年に改革派の抗議が沈静してしまった後、今回の大統領選にはずっと注目していた。

その後の4年間に「アラブの春」が起こり、どう展開してきたかをイラン人はずっと観察していたはずだ。

そこで学習した一つは「内戦を避ける」ということで、イラン人の「希望」は決して近視眼的ではない。

大統領選で最初に8人の候補がいた時、テレビで3度の政策表明があって、2度目に保守派が「国益よりもイスラムの光を世界にあまねくもたらすのが優先」と語ったのに対し、改革派は「経済の立て直し」を語った。

ここ2年来、25%の失業率、経済制裁による通貨の暴落、50%が貧困カテゴリーで生きるという社会では、イスラムがどうとかいうよりも生活水準の向上の方が緊急の課題であることはいうまでもない。

結局改革派が辞退して投票のボイコットを呼びかけていたのでどうなることかと思ったが、ぎりぎりになって穏健派のロハニ(日本人にとってようやく覚えやすい名前のリーダーが登場してくれた043.gif)への投票をよびかけた。

その結果、18時までの投票が23時まで続いたところもあったそうで、ロハニは第1回投票で過半数を得票して選出された。

まあ最終的にはイスラムの「最高指導者」というのが絶対権力を持っているのでまだまだどう転ぶが分からないが、内戦に向かわない改革は穏健の道しかない。

報道されたイラン投票所に女性の姿が多いのが目立ったので、期待できた。

トルコのデモ隊にも女性が多かったし、チュニジアのアラブの春のデモにも女性の姿が多かった。

そういう場所には希望がある。

人類の少なくとも半数を占めるのに構造的に搾取されている女性が解放されない限り真の人間解放はないからだ。そして女性たちが抗議行動に参加するというのはそれを支持する男性がいることでもあり、それまでの水面下の教育や思想の改革の努力が実ったということだからだ。

例をひとつ挙げよう。

ファウジア・レキクというチュニジアの女性物理学者がいる。

彼女は1960年代初めにパリで物理学を学んでいた。チュニジア人留学生の集まるル・ゲ・リュサックのカフェで、法学を学んでいたモハメッド・シャルフィと出会った。

シャルフィはイスラムの保守的な家庭で育ったのでイスラム神学にも通じ、その上でフランスの政教分離に強い共感を抱いた。

3年パリで学んだ後チュニジアで学生運動を率いたが、1968年に逮捕されて15ヵ月投獄された後、左翼運動から遠ざかった。
パリでもその他の地域でも同じなのだが、1970年前後というのは毛沢東思想や共産主義が台頭してきた頃で、左翼運動が過激化していったからだ。

1971年にパリで民法のアグレガシオンを取得してチュニスに戻った時は空港までからわざわざやってきた学生たちに歓呼の声で迎えられた。

彼は人権主義に基づいた政教分離の擁護者として1989年には教育大臣にまでなる(1994まで)。

一方、パリから戻ってチュニジア大学で物理学の教鞭をとるようになったファウジア・レキクは、そのシャルフィと結婚して3人の娘を生んだ。

単に人権主義とか思想の自由とか政教分離とかだけを標榜している男は実力行使をいとわないで過激化していくことがある。そのような道をとらずに穏健な方法でじっくりと社会を変えていくタイプの人は、娘を持つ家庭をなした人に多い。自分の娘の将来を考えてはじめて、女性の抑圧されているところには人間の解放がないと気づくからかもしれない。

シャルフィは3人の娘サミア、ファトマ、レイラが学校でアラビア語、歴史、宗教・哲学教育の中でどのようなことを教えられているかを観察して丹念に分析した。

その結果はひどいものだった。

子供たちは「共和国」に住んでいると教えられるのに同時に唯一の正しい体制はカリフによるものだと教えられる。一夫多妻が禁じられている国なのに宗教・哲学のクラスでは一夫多妻の利点を教えられている。

これでは子供たちに共和国理念など育つわけがない。

シャルフィはチュニジア人権同盟を率いた後で、1989年に教育大臣にまでなり、市民教育の強化と批判精神の養成などの教育の改革に尽くした。

彼の努力が、「アラブの春」で先頭に立った若い世代の男女を育てたといえるだろう。

彼は「アラブの春」を見ることなく2008年に死んだが、妻のファウジア・レキクは、ベン・アリが去った後の暫定新政権で教育国務大臣となり、女性の結婚年齢を17歳以上にすること、女性の合意なしに結婚できない法律の成立に関与した。

その後で政治からは去ったが、チュニス大学物理学教授であり続け、今年の春にフランスで『ヴェールをかぶった科学』という著書を発表している。

「科学」はフランス語で女性名詞であるので、女性と同じくイスラム・スカーフをかぶせられたという意味である。

この本によると、1970年代にすでに、チュニジアではイスラムによる科学の統制が始まった。

夫が逮捕されたのと同じく、世界的に過激な左翼が台頭した時期だったので、それを警戒するためにイスラム勢力が反応したのだ。

イスラムと言えば中世から何世紀もの間、科学や文明の最先端を担ってきた歴史がある。科学的蒙昧とは縁遠かったはずだ。

で、なんと、科学の統制政策のために、アメリカの原理主義者の創造論などを研究したらしい。

つまり、科学をコーランとの整合性に照らし合わせて規制するというやり方だ。

これは科学と信仰などという問題ではなく、教条主義と思想の自由の問題である。

つまり、信仰ではなく政治なのだ。

イスラム原理主義が、アメリカのキリスト教原理主義からヒントを得るのだから、権力者のイデオロギーとはやすやすと宗教や文化の壁を越えるということである。「一神教同士の対立」なんてない。

チュニス大学で物理学を教えていたファウジア・レキクは、「光の速度は有限である」と教えた時に、コーランと矛盾するという否定にぶつかった。アインシュタインは間違っているというわけだ。

ファウジア・レキクは、人権擁護と政教分離の専門家である法学者の夫とは別の立場から、科学の自律、思想の自律、信教の自律、「考えること」の自律、批判精神の大切さを唱えるのである。

この人が女性で3人の娘の母であるというところに、チュニジアの希望が感じられる。

若者たちが失望し、今やあちこちで暴力的な衝突が起こっているというチュニジアだが、こんな人たちがいる限りは「アラブの春」で芽吹いたものが花咲く前に枯れてしまうことはないと信じたい。
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by mariastella | 2013-06-17 00:17 | フェミニズム

フランスのオニババ

昨年パリの近郊モントルィユ市に公的資金が投入された高齢女性のグループホームが建った。

もう10 年も前からプロジェクトがあったのだが、女性限定というのでは両性の平等を保証する憲法違反ではないかというのでなかなか実現しなかった。

しかし提唱者である86歳のフェミニストであるテレーズ・クレールが2008年にレジオン・ドヌール勲賞を授かったこと、同年に緑の党の女性がモントルイユの市長なったことが後押しして着手され、2012年10月に完成したのだ。

市民精神、連帯、無宗教、エコロジーが四つの柱となっている。

今は60歳から87歳の女性21人が自治管理している。

一人一人はシャワー、キッチン付き35平米のワンルームに住み、一階には200平米の共同スペースがあっていろいろな活動が展開されている。

活動といっても、単にダンス教室みたいなものだけではなく、今の社会で老いるということについての議論や啓蒙活動が中心だ。共同生活者に介護が必要となったり認知症になったらどうするかなどについても話し合いが繰り返されている。

テレーズ・クレールは普通に結婚して4人の子の母となった人だが、68年の5月革命で「自由」に目覚めて離婚し、以来フェミニズムの闘士として活躍してきた。今年のインタビュー・クリップにはヌード写真まで載っているのだが、堂々として楽しそうでかっこいい。

老いに対する社会の視線を変えたいという意気込みの成果がもう出ている。

で、このグループホームの名前が「オニババの家」なのである。

いや、「La Maison des Babayagasメゾン・デ・ババヤガ(ババヤガたちの家)」という名だ。

バーバヤーガはスラブ神話に登場する妖婆で森の中にすみ子供などをとって食う。

オニババと限りなく似ている。語感もオニババと山姥を足したような迫力だ。

そういえば昔、『オニババ化する女たち』という本(年輩の読者からフランスに送られてきて感想を求められた)があって「社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババと」なるとされていた。

日本のグループホームのネーミングを見てみると、「ひまわり園」(幼稚園ですか…)とか「くつろぎ」「やすらぎ」「のどか」などで、「オニババ」なんてあり得ない。

フランスのオニババの家、いやババヤガの家は、他の都市にも同じプロジェクトが立ち上がっているそうだ。同じモデルでババヤガ・チェーンの展開となるようである。

オニババにはなりたくないがババヤガにはなっていいかも。
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by mariastella | 2013-05-28 02:48 | フェミニズム



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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