L'art de croire             竹下節子ブログ

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ウィーンの話 その18  フリーメイスンとヒトラー

ウィーンの国立図書館のフリーメイスン展示で実は一番興味深かったのは、二度の大戦間に、オーストリア生まれのヒトラーが総統として率いるドイツ国家社会主義のナチス党のオーストリア支部(1926年成立)がどのように台頭したかという状況だ。
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これは、1931年に起きたBauerという商人の殺害未遂事件に関して、フリーメイスンが関わっていたというプロパガンダのポスターで、オーストリア・ナチスの初期の活動家がそれについて講演している。
彼らがファシズムを広めるにあたって、フリーメイスンはかっこうのスケープゴートだった。
「フリーメイスンとユダヤの陰謀」というお決まりの陰謀論のルーツはこの頃にある。
世界恐慌による経済危機に苦しむ当時、フリーメイスンは分かりやすい「悪」の代表となった。
この1931年、ヒトラーはまだオーストリア人(しかし1925年にオーストリア再入国を拒否されて無国籍状態)だった。ヒトラーがドイツ国籍を得たのは1932年で、翌年の1933年にはドイツの首相になっている。
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私たちはオーストリアも1938年にナチス第三帝国に侵略され組み入れられた「被害者」だという印象を持っている。でもそれは、第二次大戦後処理で、ウィーンを占領したソ連が擁立した共産主義系の政権が西側連合国にかろうじて認められて分断が避けられ、「ナチスドイツの被害者」認定してもらえたからである。そして「永世中立国」の優等生の振りができた。

このフリーメイスン展でのフリーメイスンの扱いを見ていると、オーストリアナチスの黒歴史とヒトラーの出自をどう消去するか、という無意識の、あるいは政治的な選択が見えてくる。

「ドイツ性」とどう付き合うのか、その中で、ウィーンの特殊性をどう生かすのか、などの多層なニュアンスが見えてくる。

ウィーンはモーツアルトやソリマンのパトロンとなった自由で芸術的な都市でなくてはならない。それにはウィーンのフリーメイスンが必要だ。「ナチスドイツの被害者」面をするには「フリーメイスンの友」でなくてはならない。

フリーメイスンはウィーンの観光商品であるだけでなく政治商品なのだ。

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by mariastella | 2017-09-12 02:45 | フリーメイスン

ウィーンの話 その17  標本にされたソリマンの最期

ソリマンとモーツアルト(続き)

これも一次資料にあたっていないので確実には言えないのだが、ソリマンがフリーメイスンに入会して数年後に破産したとか大きな負債を抱えたという話もある。

彼の晩年がどのようなものであったかはよく分からないのだけれど、娘がしかるべき家庭の男と結婚して、前にも書いたように孫も歴史に名を残しているのだから、完全に無力な状態であったとは思えない。


ともかく、1796年、75歳になっていたソリマンはウィーンの街を歩いていた時に路上で動脈疾患(心臓か脳か不明)の発作で斃れて死んだ。


パリではフランス革命が勃発して恐怖政治を経た後、ナポレオンがイタリア遠征をした年だ。モーツアルトが死んで5年、ソリマンを愛したヨーゼフ二世が死んで6年経っていた。ヨーゼフ二世には後継ぎがなく、弟のレオポルドが即位2年後に死んだその息子フランツ二世が後を継いでいた。


ソリマンの遺体はフランツ二世に引き渡され、内臓だけが埋葬され、皮が剥がされて木型のマネキンに貼られる形で標本にされた。

珍しい「黒人」の剥製を作るために売られたのだ。

その「標本」は、半裸で羽根をまとい、貝殻の首飾りをつけるという「アフリカ原住民」の姿で自然史博物館のアフリカのコーナーに陳列された。

ウィーンの動物園の守衛だった黒人や六歳の黒人少女ら3人と共に、サバンナの動物の剥製を配したアフリカ展示の一部となったのだ。

ソリマンをキリスト教徒にふさわしく埋葬してくれるようにという子孫の申し立てもあったが聞き入られなかったようだ。オーストリアはすでにフランス革命戦争に突入していた。

生前あれほど尊敬され愛されていたソリマンが死後にこのような無残な形で扱われたということの根っこに、ウィーンの持つ独特の退廃や倒錯を感じてしまうのは考え過ぎだろうか。

フランスには、「黒いモーツアルト」と呼ばれた混血の作曲家に有名なシュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ(1745-1799)がいる。

彼も失意のうちに死にはしたがそれは王家に庇護されていたことがフランス革命で裏目に出たからだったので、ソリマンとは全く違う。

シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュはフランスで最初の黒人のフリーメイスンで、グラントリアンの「9人の姉妹」ロッジでイニシエーションを受けたとされるがその正確な年は分からない。


しかし1781年にフリーメイスンの音楽家たちと共に「パーフェクト・ユニオンのオランピック・ロッジ」の後援でオランピック・ロッジ・コンサートという管弦楽団をオーガナイズしている。

パリのシュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュのような生き方は、ウィーンのソリマンには不可能だった。


それでも、この二人を結びつけるのはモーツアルトでありフリーメイスンだ。


ウィーンのフリーメイスンはソリマンの尊厳を守ることはできなかった。


1848年、ウィーン会議以来の体制に反旗を翻すウィーン三月革命がおこり、爆薬を投げ込まれた自然史博物館が全焼し、ソリマンの標本も灰燼と帰した。


フランス・バロック音楽とウィンナ・ワルツの差には、実は、いわくいいがたい毒がひそんでいる。

いつか言語化できる日が来るかもしれない。


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by mariastella | 2017-09-11 02:51 | フリーメイスン

ウィーンの話 その16 フリーメイスンとイルミナティ

ソリマンとモーツアルト(続き)


ハプスブルクのオーストリア帝国の社交界で完全に同化し受け入れられていたというより、人格も高潔で誰からも畏敬されていた黒人のソリマンが、フリーメイスンとなるのは1781年のことだ。

すでに60歳になっていた。同じ年に25歳のモーツァルトが、神聖ローマ帝国領のザルツブルク大司教コロレドに解雇されてウィーンで新生活を始めることになった。すでに名声が知れわたっていた天才はすぐにウィーンの社交界の支援を得た。フリーメイスンにはもともとアーティスト枠があって、ハイドンも常連だったからモーツアルトもすぐにロッジに出入りしたと思われる。

モーツアルト、ハイドン、ソリマンが出あったのもフリーメイスンのロッジだ。けれどもなぜかモーツァルトはハーモニーロッジでイニシエーションを受けていない。モーツアルトがイニシエーションを受けたのはハーモニーロッジより小規模の「慈善ロッジ」だった。最もこの二つのロッジは夏至の聖ヨハネ祭などを共同で開催している近い関係にあった。

「慈善」ロッジのグランマスターはオットー・フォン・ゲミンゲンで、彼は1778年にマンハイムでモーツアルトのパトロンだった。ゲミンゲンの紹介で同年にモーツアルトはパリのフリーメイスン作曲家で歌手のジョゼフ・ルグロらと出会っている。るグロはラモーのオペラで歌ったカウンターテナーで、モーツアルトと出会った時はコンセール・スピリチュエルを指揮してモーツアルトやハイドンに管弦楽を発注した。


フリーメイスンは貴族、アーティスト、啓蒙思想家たちのサロンという機能を果たしていたが、一応は「秘密結社」なので、その後の記録などがはっきりせず、文献によって異同がある。

1781年にウィーンのフリーメイスンの15人が「真のハーモニーへZur wahren Eintracht」という名の新しいロッジを作り、ソリマンはそこに迎えられて、たった4週間でマイスターの列に加えられた。ソリマンがそのロッジに友人のイグナス・フォン・ボーンを連れてきたと書いている人もいるが、逆に、1783年に全オーストリアのグランド・マスターであるフォン・ボーンによってソリマンがイニシエーションを受けたという人もいる。イグナス・フォン・ボーンがグランド・マスターとなったのは1782年だとする記述もある。

ソリマンは「ハーモニー」ロッジのグランド・マスターとなり「マシニッサ(紀元前3世紀の末にローマの支援で北アフリカのヌミディア王に即位したベルベル人だから黒人ではない)」と名乗ったともいう。

モーツァルトは『後宮からの誘拐』の大公セリムのイメージをソリマンからインスパイアされたとか『魔笛』のムーア人モノスタトスのモデルにしたとか言われている。ソリマンはバリバリの黒人で、トルコ人でもアラブ人でもベルベル人でもないが、当時のヨーロッパの感覚では、中南米のインディオでも北米インディアンでもトルコ人でもエジプト人でもなんでもエキゾチックという部分ではいっしょくただった。それは差別というより、ソリマン自身もエキゾチックなキャラクターを個性あるオーラとして利用していたのだろう。

当時のフリーメースンにはそういうエジプト趣味や秘教趣味が混然としていた。

ロッジに関するこれらの前後関係やヒエラルキーの異同について何が正しいのかは今の段階でチェックしていない。メイスン関係の記録の多くは破棄されたので第一次資料が少なく、確実なことは言えないのかもしれない。

一つ確かなことは、精錬技術に詳しい鉱物学者でトランシルヴァニア貴族であるフォン・ボーンの存在の意味だ。ソリマンの友人であったフォン・ポーンによってこのロッジが科学技術系になったということは確からしい。(ソリマンはコバルト鉱山に投資していたのだからそこからのつながりがあったのだろうか。)

フォン・ボーンはバイエルンのイルミナティのメンバーでもあった。

イルミナティというと、フリーメイスンと同じく今でも陰謀論の常連だが、17765月に結成されて1785年に禁止されたので短い期間しか存在しなかった。

フリーメイスンとの違いは、自由思想家、合理主義者らによる啓蒙活動団体としてフリーメイスンよりも過激だったことだろう。バイエルンもウィーンもカトリック文化圏で、メンバーはすべてカトリック信徒だった。

当時のドイツのカトリックはイエズス会に支配された保守的なものだったので、ラディカルな啓蒙主義者がイルミナティなどに向かったのだ。


フリーメイスンもイギリスのロイヤル・ソサエティに根を下ろしていたように、どちらも、もともと科学と親和性がある。エジプトの秘教趣味のせいで神秘主義やオカルトと混同されがちだけれど、古代趣味へと遡るのは、いろいろな宗教が分かれる以前の源泉となる普遍的なフィロゾフィアがあったはずだという探求心が原動力になっている。

フリーメイスンもイルミナティも当時は自由主義者と平和主義とアーティストの貴重な友好の場でありシンクタンクでもあったのだ。(続く)


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by mariastella | 2017-09-10 00:21 | フリーメイスン

ウィーンの話 その15 ソリマンとモーツアルト

(これは前の記事の続きですが、前の記事に「追記」を加えました。合わせてお読みください。)

国立図書館のフリーメイスンの展示の中で、アンジェロ・ソリマンの肖像画が存在感を放っていた。モーツアルトハウスでも同じ肖像画が展示されていた。


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モーツアルトとソリマンを絡めてウィーンのフリーメイスンを語ることは、そこが知的で芸術的で自由で平等な啓蒙の世紀のサロンだったことを強調するのにぴったりなのだろう。

ソリマンはとにかくあらゆる点で秀逸な人で、これほどの人を前にしたら、教養のある人士ほど本気で傾倒したことはたやすく想像できる。知識人とアーティストは、人種のカテゴリーを超える。けれども、死ねば、ソリマンはただの黒人だ。黒い肌だけが残る。そして、黒人は「動物」と同じだという集団的な偏見に組み伏せられてしまった。ソリマンとはどんな人だったのだろう。

ソリマン(1721-1796)は今のナイジェリア北部で生まれ、子供の時に馬一頭と交換されて奴隷としてヨーロッパ人に売られた。10歳まではラクダの世話係をさせられていた。すでにその頃から、利発だったのだろう。その後でシシリアの富豪に引き取られ、その妻から語学と数学の教育を与えられ、1732年にカトリックの洗礼も受けてアンジェロ(天使)という洗礼名を得た (本名はMmadi-Makeだったらしい)。ヨーロッパ白人の仲間になる第一歩だ。洗礼を受けた911日を自分の誕生日だとした。その後で帝国の執政官に売られ、執事となった。

執事長として主人と共に旅行し、戦争にも行き、戦場で主人の命を救った。

服装のセンスも群を抜いていた。肖像画は29歳の頃の姿だ。英・仏・伊・独・ラテン語にチェコ語を自在に操り、剣術、航海術、チェスの達人で、作曲もした。

1755年、ウィーンで、主人の死の後32歳でリヒテンシュタイン公に仕え、皇太子の教育係にもなった。1764年リヒテンシュタイン公と共にフランフルトに行き、「ファラオン」を演じて得た大金をオーストリア東南部のコバルト鉱山に投資してさらに儲け、解放されて独立した。1768年にはウィーンの中心部でアルザス貴族出身の未亡人マグダレナと結婚した。ナポレオン軍の将軍も出した家系だ。結婚はシュテファン大聖堂の枢機卿による特別の計らいで実現した。

オーストリア皇帝ヨーゼフ二世も彼を敬愛し、名実ともにウィーンの名士となっていた。

この時点では、彼は本当に尊敬されていたのだと思う。「黒人なのにすごい」という偏見はなかったと思う。

ヨーロッパ人の中で圧倒的に目立つ黒い肌だから、その「見た目」は無視できないと思うかもしれないが、ヨーロッパのエリート階級は、一般に、ある状況(この場合は知性や教養や芸術や武術)のサークルの中では、人種差別をしない。建前や偽善ではなくて、本気で同胞になってしまうのだ。特に、伝統的なカトリック国(つまりアイデンティティ意識がもう希薄になっているユルイ社会)ではその傾向が強い。この点では日本の方がずっと「見た目」による偏見や差別がすべての階層に根強いというのが、今の時代でも通ずる私の実感だ。

ソリマンの孫のEduard von Feuchtersleben も高級官吏となり、作家として名を残している。『モンテクリスト伯』で有名なデュマの父も黒人奴隷と白人のフランス人との間に生まれていた。啓蒙の世紀のエリートたちに認められた点で共通している。

で、ソリマンとフリーメイスンとモーツアルトの関係は?(続く)


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by mariastella | 2017-09-09 05:09 | フリーメイスン

ウィーンの話 その14 国立図書館とフリーメイスン (追記あり)

世界で最も美しいと言われるウィーンの国立図書館。
(私はプラハのストラホフ修道院の図書館の方がすてきだと思うけど。)

で、中は確かに豪華でこんな感じ。
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まるで宮殿みたいだけれど図書館らしいのはこういうところ。
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でも、驚いたのは、ここで、近代フリーメイスン創設300周年記念展をやっていたことだ。至る所に展示品が並んでいる。
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確かにモーツアルトハウスでもフリーメイスンのロッジの絵があって、魔笛もそうだけれど、モーツアルトの音楽とフリーメイスンの音楽が切り離せないことも分かるけれど…。
ウィーンって、国立の歴史建造物の中で、国をあげての観光の目玉にフリーメイスンが取り上げられる町なんだなあ、と感心したのだ。

パリにもフリーメイスン博物館がなかなか充実した展示をしていて、美術館として公式に認定されているけれど、それはれっきとしたフリーメイスンのロッジの建物の中にある。

ウィーンの国立図書館はいわゆる王宮地区にあって、王宮の一部をなしている。
パリで言えばヴェルサイユ宮殿の中にあるようなものだ。

ウィーンではモーツァルトが「目玉商品」のひとつだから、フリーメイスンも観光「商品」なのだ。

では、例の各種陰謀論、サブカルチャーやネット言説などとは関係のない18世紀テイストの上品で歴史的な展示だけかと思うと、のっけから、
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ほーら、メルケル首相もローマ法王も、マクドナルドも、ミッキーマウスも、あのスターもこの有名人も、みーんな、フリーメイスンのシンボルっぽいジェスチャーや形をしているでしょ、

という感じのパネルがあって、とってもポピュリズム。

いいのか、ウィーン。(続く)

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追記: この記事について、サイトの掲示板Forum3に次のようなコメントがありました。


>>>ウィーンの国立図書館の「フリーメイスン展」には驚きました。
ポップなコラージュ作品は、国立図書館の制作なのか、それとも個人の誰かの作品でしょうか?
ウォルト・ディズニーがメイスンであることは知っていましたが、現ローマ法王やメルケル首相もそうなんですか!
帰属を知らしめる、あるいは誇ること、本人にとってどれほどの名誉があるのか、門外漢の私には全く想像におよびません。<<<

このコラージュは当然ながら単なる釣り、というか「つかみ」です。
見る人の好奇心を掻き立てる「演出」です。
私の驚いたのは、その内容でなく、いくら「巷にあふれるいい加減な話をまず出してから真相に迫る」というコンセプトにしても、こんな立派な国立図書館の展示にそんな2チャンネルなコラージュを堂々と出していることでした。

誰かがある動作やしぐさをしたら即「フリーメイスン」だとか「・・人」だとか他のセクトだとか「認定」っていう言説は、差別や疑心暗鬼の煽動にせよただの娯楽にせよ、ネット上ではうんざりするほどあります。私はそういうものに抵抗する姿勢ですから、誤解なさらないようにお願いします。




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by mariastella | 2017-09-08 01:01 | フリーメイスン

フリーメイスンと陰謀論

講談社の広報誌『本』に書いたフリーメイスンについてのエッセイがネットで読めるのでリンクをしてほしいと要望があったのでここにはっておきます。

その後フリーメイスンつながりでデジタル・イミダスというところにも陰謀論についての記事を書いたので(まだアップされていません)久しぶりにベスト新書を読み返しました。

この種のテーマではどのようなアプローチをしても、陰謀論オタクからも反陰謀論者からも批判されるのは分かり切っていたので、それでも誰にでも少しは楽しめるところがあるようにと架空の陰謀研究会の記録を挿入しました。今でも後悔はしていません。

私はネットでの批評は一切見ないことにしているのですが、その記事を書くためにザッピングしていたら偶然私の新書について丁寧に解説したブログに行き当たり、自分で読み返すよりも便利だと感心しました。

こういう共感的なコメントを見ると、著者冥利に尽きます。

昨日はフランスでもチュニジアなどでもまたテロがありました。
ラマダンの金曜日だから殉教者として戦死して天国に行くチャンスだと呼びかけていたISに反応したようですが、それを未然に防げなかったのかというインテリジェンスの問題がまた取り上げられています。

陰謀論にも通じますが、反社会的な行動計画や犯罪を計画している個人やグループやネットワークがある場合、情報を収集して分析し、調査し、その結果、「陰謀を暴く」というのは大切です。

「陰謀」は「暴く」ものであって「陰謀論」として「あげつらう」ものではないとつくづく思います。

もっともその「暴き方」にもいろいろあって、むやみにメスをいれてあちこちに転移してしまうというようなやり方ではだめで、中期的長期的な視点が必要です。

容易ではありません。
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by mariastella | 2015-06-27 23:42 | フリーメイスン

スコットランド問題を見てるとため息が出る

スコットランドの独立に関する国民投票、結局延期されないで行われるらしい。

シリアでのスコットランド人殺害の影響の他にも、IMFが恫喝というか圧力をかけてきたので、予想は反転して独立反対派が54%に上っていた。EU離脱扱いも確実なので、イングランドよりEU寄りのスコットランド人にとってはつらい。

過去にヨーロッパでの国民投票による平和裏の分裂にはノルウェーがスウェーデンから離脱(わざわざデンマーク王に頼んで立憲王国にした)があるが、よく見ると、そう「平和」にことが運ぶわけではない。ノルウェーも独立国として安定するのに10年はかかっている。

スコットランドでは緊張が高まって銃を持ち出す人もいるそうだ。

それだけではない。個人的にたまげたのは、9/13に繰り広げられた独立阻止のフリーメイスンの示威パレードだ。

エディンバラに極右プロテスタントのオレンジ・フリーメイスンたち1万5千人が北アイルランドとイングランドからやってきた。笛や太鼓付きで、白手袋とロッジの襷をかけた男たちだけの行進。

北アイルランドのプロテスタントの多くは17-8 世紀にスコットランドから移住した人たちだ。

この「オレンジスト」のお気に入りのスローガンはローマ教皇否定 の« no popery » で、1970年代の北アイルランドの内戦のルーツとなったという。しかしこの時にはなぜかカトリックのアイルランド共和軍(IRA)の過激さばかりが報道された。 

今回の恣意行進では、独立派の「イエス」のバッジをつけている人々を「社会主義の私生児」と罵って乱暴したりする程度だったがグラスゴーでの行進では12歳の子供の頭をビンので殴ったそうだ。

これってスコットランド独立派からすると一種の「内政干渉」というか、ひどい話である。

もちろんクリミアにおけるロシアの戦車ではない。

部族同士が戦う中東でもない。

でも、底に流れる「示威によって支配」しようとするアルカイックなメンタリティは、時代が変わっても、文明が違っても、地政学的状況が変わっても、共通しているような気がする。

まあ、それが一見平和的文明的になったと見える社会でも、「示威」行動の代わりに金権支配で実は同じようなことがまかり通っているのだけれど。

平和と経済について、日本とフランスで興味あるパラレル現象があるのに気付いたので次回はそれを紹介しよう。
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by mariastella | 2014-09-15 18:38 | フリーメイスン

フリーメイスンとカトリックについて補足

これは前に書いた記事の補足です。

前の記事にも修正と補足をしたので確認してください。

さて、前の記事では違いがはっきり分からなかったのだが、

今回の事件でアネシィのヴザン神父の属しているのはグラン・トリアンGODFで、

司教の許可を得ていたというオ―タンのデブロス神父が属していたのはグランド・ロージュ・ナショナル・フランセーズGLNFだった。

この違いは大きい。

私が内部の人と接触したり本部を訪れたりした限りではGODFもまだ十分「宇宙の設計者」を掲げている雰囲気なのだが、そしてカトリックを容認しているのも事実だが、今は、「宇宙の設計者」に対する崇敬をメンバーの条件にしていない。いわば政教分離の「世俗」グループである。

だからこそ、逆に、ヴザン神父は、神父としてカトリックの神の信仰と、メイスンとしての活動が補完的で両立できると思っていた。

実は、その前に今も理神論で「宇宙の設計者」への礼拝を含むGLNFからも「勧誘」されたそうだ。
GLNFでは聖書を大切にするという触れ込みだった。でもその勧誘自体がカルト的で抵抗があった、スピリチュアルな団体では自分の信仰とバッティングするかもしれない、それに比べてGODF の自由な雰囲気に惹かれたという。

では、オ―タンのデブロス神父がGLNFに加入するのを司教が容認したというのは、GLNFが少なくとも無神論ではなくて神を信じている団体だから寛大に扱えたのだろうか。

実際は、GODFは「無神論」ではなくて、「宗教の種類も有無も問わない」というだけである。
自分の私的な信仰は持ち続けることができる。

だからカトリックの中にも、むしろGLNFの方が神学的な問題が深刻だという人もいる。

つまり、GLNFではユダヤ=キリスト教のレトリックをちりばめた典礼で「宇宙の設計者」を礼拝させて、メンバーはそれぞれがそこにかってに自分たちの神を重ねればいいという安易なスタンスなので、神学的エラーに陥るというのだ。

また誰でも自分たちの神(仏でも何でもいいわけだ)を思いながら「宇宙の設計者」を拝するというシンクレティズム、相対主義こそが真のキリスト教の敵だという判断もある。

一方のGODFでは絶対者に帰依する必要がないので、自分の信仰を裏切らずにすむ、とヴザン神父は考えたわけだ。

もちろんヴザン神父が侵した「神父としての違反」は軽いものではない。

まず、1983年の新教会法自体からはフリーメイスンを名指しての禁止は消えたが、同年の11/26に当時の教理省長官だったラツィンガー(後のベネディクト16世)が、教会によるメイスンへの否定的判断は変わっていない、フリーメイスンに入ることは重い罪の状態に相当すると宣言しているので、ヴザン神父はそれに違反した。

次に、それに対して司教の判断をあおぎ許可を求めることをしなかった。

さらに、2010年の春に密告されて司教から真偽を問われた時に否認した。つまり嘘をついた。

2011 年の密告には、彼がメイスンとして講演するという内部報が同封されていた。司教はこの段階で、メイスンか教会かを選択するように申し渡した。

最後の違反は、3月7日の最後通牒に従わなかったこと、つまり、神父に叙階された時にした司教への従順の誓いを破ったことだ。

ヴザン神父は2012 年の1月に、ことの是非を分別するための黙想行に入り、その結果、自分が間違っていないという結論に達したのだそうだ。

メイスンの友人たちからは脱会した方がいいと勧められた。しかしそれは自分の絶対の自由に反すると思って留まったという。

とはいっても、もともと彼がカトリックの司祭となったのも、自由意思だった。自由意思によってある役割を引き受けたからにはそれに伴う義務や拘束も受け入れるということであるから、彼の「自由」原理主義には無理がある。

実際、そもそも現在のカトリックがメイスンを認めないと言っているのは、昔のような陰謀論のような話のせいではない。

キリスト教が「神の恩寵によるすべての人の救い」を掲げるのに対して、イニシエーションの儀式により選択的に自力でステップアップを目指すエリート的なメイスンのシステムが合致してないからである。

知識を獲得していくというグノーシス的なスタイルも、「愛」を優先する教会とは相容れないとする。

私が興味深いと思うのは、そもそも近代メイソナリ―ができた18世紀は啓蒙の世紀だったわけだが、その時にはじめてメイスンを公式に弾劾したクレメンス12世が、メイソナリ―がたとえ悪行を行わなくても、「秘密に活動する」ということそのものが啓蒙の「光」への憎悪であると言ったことだ。

秘密結社というのが光に対する闇に相当するので啓蒙の精神に反する、というのはなかなか明快な判断だったという気がする。18世紀の高位聖職者たちは啓蒙の世紀の申し子だったのだ。1738年のことである。

ヴザン神父は11 歳で司祭職を志したが影響を受けた司祭から「自由であれ」と言われた、叙階されてからルーマニアで正教に興味を持った。その後ではオプス・デイにも惹かれたという。 

もともと「自分探し」系のひとだったわけだ。

司祭としても、自分には、公教要理(カテキズム)を教えるより人々に生きる意味を教えることが重要だったと言っているから、スピリチュアル・カウンセラーなどの方に適性があったのかもしれない。

長い歴史の波に現れてチェック機能や自浄機能を数々備えているカトリックのような巨大機構の中に入ったことが間違いだったのだろう。
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by mariastella | 2013-06-08 09:05 | フリーメイスン

フリーメイスンの司祭が停職処分された話

フランス・アルプスのアネシィ司教区の司祭パスカル・ヴザンが2001年からフリーメイスンのグラントリアン(GOFまたはGODF)で活動していたことから、ローマからの指示を受けた司教により、5月26日付けで辞職を余儀なくされた。

2010年にヴザン神父がフリーメイスンに所属していると密告した手紙を受け取った司教から問いただされた時、司祭は否認した。

2011年にもふたたび密告の手紙があり、フリーメイスンをから脱会するように言われて、

「信教の絶対的自由」

によってカトリックとフリーメイスンを両立させると答えた。

結局ヴァティカンの教理省の指示で、司祭職から外されることになった。

メイスンを脱退して教会に戻る道は開かれているそうだ。しかし教区でミサをあげられないだけではなく、本人も聖餐にあずかれないという処置なので、目下のところはいわゆる「破門」に近い。

1月17日に、地元の週刊誌のサイトのインタビューを受けて、自分は熱心な政教分離派だと唱えていて、同性婚法にも賛成している。

43歳の「働き盛り」であり、フリーメイスン脱会を要求されてからはずっとダモクレスの剣を吊るされて生きている心地だったが、まさか本当に「解雇」(半年から1年の間給与が払われ続けるそうだが)されるとは思ってもいなかった、と神父は語る。

自分は司祭になるために生まれてきたと召命を自覚しているし、信仰は強固であるそうだ。

もう第3共和国時代のようなフリーメイスンとカトリック教会の対立などない、と彼は言う。

「自分は、思想と表現の自由を福音書によってインスパイアされた」のだとも言う。

過去に、フリーメイスンだったがそれを司教から許可されていたことで話題になったのは、オータンのジャン=クロード・デブロス神父だ。
1999年に亡くなった時、12月4日にオ―タンのカテドラルで葬儀ミサが行われたが、9日、フィガロ紙の死亡欄に、1980年に司教に許可されて以来フリーメイスンに属していたこと、メイスンの位階を昇っていたことなどが詳しく掲載された。

1980年に許可したという当時の司教はもう去っていて、99年にコメントを求められた司教は、18日に、地方の司教にはメイスンの妥当性を判断する権利がないとしたヨハネ=パウロ二世の言葉(1983/11/26)を引いた。

実際1917年5月の教会法には2335条がフリーメイスン即破門と明記されていたのが、1983年1月の新法からはフリーメイスンという言葉は消えている。教会に反する団体に入り主要な役割を果たす者に対するミサ禁止の罰則規定のみがある。

弁護士でありオ―タンの巡礼責任者でもあったデブロス神父はフリーメイスンに入会した時32歳だった。

今回のヴザン神父は今43歳ということだから、入会時は31歳とほぼ同年代だったわけだ。

以下、下線部は6/8修正

これについて、ラ・グランド・ロージュ・ナショナル(GNLF)の書記長クロード・ルグランは、自分たちの「神」はキリスト教の神ではないが、GOFが反教権主義なので目の敵にされているのだ、と語っている(ル・モンド)。
しかし、GOFには26000人の司祭が入会している、と言われているのだ。

これをどう見るか。

まず、グラントリアンの方では信仰を問わないのでカトリックでも無神論者でも容認される。

ただし「宇宙の設計者」を認める理神論的な団体である。(今は公式には理神論を捨てている。6/8註)

そして、メンバーは、自分で公表するのは自由だが、他のメンバーの名を公にすることは禁じられている。

だから、たとえ司祭が入会していても自分で公にしなければ世間には分からないことになる。
ただし活動が派手だったり、今回のように「密告」されたりすれば、今のカトリック教会からは脱会を勧告されるのが普通のようだ。

教会の務めをちゃんと果たしていて第三者にさえ分からなければ、愛人がいようと同性愛であろうと、小児性愛(これは犯罪だから大変だが)であろうと内々で隠蔽されることが多い世界だから、フリーメイスンに属すること自体が「お目こぼし」になっていたとしても、それ自体は特に不思議ではない。

フランスのように政教分離がはっきりした国で「共和国」的な理念を掲げる聖職者がフリーメイスンに接近することも不思議ではない。

ただ、ヴザン神父はその言動自体が今のカトリック教会の路線より「過激」で自由主義的だったので、保守的な信者などの不興を買っていたということは大いに考えられるし、それが「密告」にもつながったのだろう。

フランス・カトリックの「進歩派」の祖と言われる19世紀のラコルデール神父のことを思い出す。

彼は「信教の自由」を普遍的なものとして政教分離を雑誌の記事で唱えた人だが、フランスの教会でスキャンダルを引き起こした後で、当時の教皇グレゴリウス16世の判断に委ねた。
その結果Mirari Vosという教勅によって信教の自由や表現の自由が弾劾された。

この時のラコルデールもちょうど30歳だった。

彼は教皇の判断には従い、その後、ドミニコ会士になって内部改革をしたりいろいろな説教によって別の道を選択したりしながら戦略を変えていったのだ。

フリーメイスンとカトリックは両立します、とか相互補完的です、と主張するような、二者だけを視野に入れたレトリックにこだわるのとは、根本的に違う。

聖職を選択したということ自体が「神からの召しだし」に自由意思で応えたものであったのなら、30代のはじめあたりで革新の風に吹かれてすぐに「上司に逆らう」ことを選択するのは、後で不毛に終わるような気がする。

なんであれ、改革の信念というものは、さまざまな困難をかわし、乗り越え、時には引き返したり脇道に分け入ったりしながら少しずつ醸成させていくもので、その改革がたとえ自分の代で実現できなくても、必ず根をはって次世代を動かすことがある。

聖職者が「信教の自由=フリーメイスン」ととびつくのは安易で浅い選択ではないだろうか。

もっとも、そういう理由ではなく単に人脈作りのためにだけメイスンに入会している聖職者たちがいるとしたら、彼らはヴザンなどよりもっとしたたかで、密告されて活動停止に追い込まれたりなどはしないのかもしれない。
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by mariastella | 2013-05-26 02:14 | フリーメイスン

フリー・メイスンとキリスト教----ベルナール・ベレのことなど

フリーメイソンとキリスト教が両立するかどうかについての考え方の変遷を調べていたら、いろいろ不思議な話に出くわす。

たとえば、福音派の教会の中にメイスンのメンバーがいることついての対処の仕方についての記事だ。

フリー・メイスンがリベラルなプロテスタントの牙城だという見方は知っているが、プロテスタント右派である福音派との関係など考えてもいなかった。

列福もされているヨハネ23世が1935年以来のメイスンだったという噂は薔薇十字団との接近と共に、よく出てくる話なのだが、教皇になる前の彼にメイスンとして出会って影響を受けたと言っているJean Lincelinという人の最近作にまつわるインタビュー記事を読んで、そのこだわりにも驚いた。

カトリックとフリーメイスンが両立できるかということついて長い記事を書いているフランク=ウィリアム・シャフネールという人もいて、「大司教」だというから一体誰かと思ったら、カトリックはカトリックでもガリア教会の司教だった。

ついでに今のフランスに残るガリア教会のさまざまなサイトを渉猟してみた。その中で知っているのは15区にある聖リタ教会の教区だけだ。

フランスのような国、理神論やら無神論やら政教分離やらがカトリック教会と対立したり拮抗したりした国でのエゾテリスムの歴史とフリーメイスンの歴史は錯綜している。ガリア教会の人がそれを語るのも不思議ではない。

その歴史の激流の中で霊的な光だの真の智恵だの自己実現だのを真摯に追求する人は、時としてユニークな人生を送る。

ドン・ベルナールともよばれるBernard Besret(ベルナール・ベレ)という人などその典型だ。

13歳で母親を失った後、オルダス・ハクスリー(この人も14歳で母を亡くしている)の『永遠の哲学」に影響を受け、もう少し後の時代ならインドあたりに旅するところを1950年代だったため、18歳で地元のブルターニュのシト-会の修道院の門をたたいた。

20歳でローマに送られて神学博士号を得て、1960年にはまだ25歳の若さで修道院長になり、第二ヴァティカン公会議でも活躍して修道院の改革もしたのに68年の五月革命を経てドグマというものから離れた。

1974年に修道会を去り、政府のためにパリのヴィレット科学都市構想の仕事などをして活躍するのだが、修道会でのように霊的なことを話し合う場を求めてフリーメイスンに入会する。

ところが、結局、1997年に道教に「改宗 ?」して、2010年には中国で伝統文化センターを開設したんだそうだ。

「永遠の哲学」(つまりあらゆる宗教に共通するルーツとなる思想がある)の出発点をついに見出した形である。

この人の経歴はカトリックとしても充分に「濃い」ので、単にキリスト教しか知らなかったヨーロッパ人がオリエントに憧れた、などという話ではない。

フリーメイスンがそういう道程においていったいどのような役割を果たしてきたのかは、いっそう興味深いものである。
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by mariastella | 2013-05-18 07:07 | フリーメイスン



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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