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L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:歴史( 9 )

ヒトラーと神とエヴァ・ブラウン

白水社の『ふらんす』に連載していた『ナポレオンと神』を単行本化するために構想しなおしているところだが、実は、頭の中では「ヒトラーと神」というテーマが重なって蠢いている。

ナポレオンとヒトラー、この2人はカトリックのカルチャーの中で生まれ育ち、その儀式やら規律やらがわりと好きだったという共通点がある。

ナポレオンはそのカトリック教会を排斥したフランス革命の革命思想とフランス文化のベースにあるカトリックとの折り合いをつけながら、いかにして自分が神に取って代わるかを考えた。

ヒトラーも、福音ルター派とカトリックがせめぎあっているようなドイツにおいて、宗教の問題にかかわらずにそれを飛び越えて自分が神に取って代わろうとした。

神のオーラを自分に利用できる限りは、既成の諸宗教の教義や典礼に対してむしろリベラルな態度をとっていたといってもいい。

ユダヤ人の殲滅は彼にとって「人種」の問題で、別にユダヤ教を攻撃していたわけではなく、エディット・シュタインのように、カトリックに改宗したユダヤ人でも収容所に入れられて殺されている。

エヴァ・ブラウンもカトリックだったが、この2人が自殺の前日まで結婚しなかったのは、ヒトラーが「ドイツと結婚した」男として女性票を得たかったからなどと言われている。

これも、「キリストと結婚」することで生涯独身を通すカトリックの司祭職が「神の代理人」としてのイメージを強固にしていることと共通する。

普通の「独裁者」なら、自分の得た権益を「子孫に残す」ために血のつながった子供を残したがり、姻戚関係をつくるために他の権力者の娘と結婚したがる。ナポレオンも例外ではなかった。

ヒトラーは結婚したがっていたエヴァに「天才には子供はいらない」と言っていたそうだ。

この言葉からは、「結婚する」ことが「子供をつくる」ことと同義であり、ヒトラーが「結婚したくなかった」のは「子供をつくらない」という意志に関係していたのかもしれない。
だから死を前にした時には結婚に同意した。

自分の親戚よりもエヴァの親戚を徴用しているし、エヴァの姉がユダヤ人意志と結婚すると国外へ逃がしてやったり、エヴァが1人で寂しくないように妹も養ったり、両親や親族といっしょに南仏へバカンスに送り出したり、エヴァ自身が撮影して残した多くの映像からは、ほとんど相思相愛の雰囲気すら伝わる。

ベルクホーフの山荘にやってきた子供たちの手を引いている姿は、家庭的ですらある。

山荘のホーム・シネマ室では、ドイツでアメリカ映画の上映を禁止していたのにかかわらずエヴァの好きなハリウッドの恋愛映画や、自分の好きなウエスタンの映画を2人で観ていた。

子供のころからカウボーイごっこが好きで、しかもかならずリーダーの役をつとめていたという。

山荘ではなんとチャップリンの『独裁者』を見ていたという話もある。

私は『独裁者』をはじめて見た頃、なんとなく戦後の映画かと思っていた。映画の印象が強烈だったので、記録映画のヒトラーの映像を見ても、なんだかチャップリンと重なって、滑稽で、どうしてこんな男がこのような国民的人気を博したのだろうと不思議だった。

エヴァ・ブラウンのカメラに映るプライヴェートのヒットラーは、あの髪型と髭をのぞけば、エヴァのような女性に愛されたことが何となくわかるような「普通の感じよさ」さえ備えていたように見える。

つまり、エヴァは、彼の権威や権力に魅力を感じたり利用したりしようとたというよりは、「神」を演じていない時のヒトラーのことを屈託なく普通に好きだったという感じが映像から伝わってくる。

「神になりたい」男が、時代の情況をうまく利用して、自分の国の大祭司としてセルフプロデュースした手腕と、その過程でいとも簡単に非人間的な怪物になっていく様子には、戦慄させられる。

ヒトラーには第一次大戦中にフランス人女性との間をもうけた子供がいるという話もよく知られているが、真偽のほどは定かではない。第一次大戦中にはジャンヌ・ダルクに関する神秘体験?をしたという話もあった。

自分を神格化するに際して、ゲルマンの神々のネオ・パガニズムを利用し、基本的にニヒリスティックで無神論的な国家社会主義に宗教的典礼と演出を採用した。

「慈悲のモラルを持つユダヤ=キリスト教」

 と、

「ドイツ国民とその運命、血の中に流れる神と自然に対するエネルギッシュで英雄的な信仰」

とは両立しない、

と語るヒトラーは、「ドイツ教会」とか「ドイツ・キリスト教」などはどこにもないユートピアだ、人はキリスト教徒か、ドイツ人かのどちらかでしかあり得ない、と言った。
フランスがずっととってきたガリア教会主義とは反対だ。

ナポレオンとヴァティカンの「コンコルダ」と、1933年7月にヒトラーの締結したコンコルダとのちがい、国家社会主義を批判するカトリックへの迫害とルター派のへの迫害との違い、ライン神秘主義との関係など、興味深いことは次々と出てくる。

楽しみだ。
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by mariastella | 2016-04-03 07:10 | 歴史

ドゥブロヴニク その3

ドゥブロヴニクで感慨深かったのは、「戦後」の実感だ。

1991年から92年にかけてのユーゴスラビアの内戦で、この城塞都市も爆撃を受け、多くの犠牲者も出たし、戦死者も出た。

しかしユネスコの世界遺産に登録されたことも手伝って見事な復興を遂げ、観光都市として再生した。クロアチアは2013年にEUに加盟したし、カトリック文化圏であったことも幸いして、いち早く「西欧」化できた。

ドゥブロヴニクの旧市街は特に城塞都市であるから、観光客はおしかけても、すりなどの「よそ者」が出入りしにくい。地元の人は皆互いに顔見知りだろうし、観光産業で経済を支えているのだから、その質の維持や向上に熱心だ。その結果、パリなどよりはるかに治安がいいと言える。

しかし、戦争の惨禍を伝える写真や戦死者の肖像写真などを見ていると、それがたった二十数年前の出来事だったことに驚く。今ホテルやカフェやレストランや土産物屋で働いているあの人やこの人も、30歳以上の人ならみな戦争を体験し、爆音を聞き、死者を見、瓦礫の後の復興も見てきたわけだ。

フランスで私の住んでいる町も1944年に米軍の爆撃でかなりのダメージを受けた。
私の住んでいる建物は1880年代の建物で焼け残ったものだけれど、壊滅に近い区域もあったようだ。

そして、フランスはアルジェリア戦争などは別として、その後「本土」では70年間戦争がなく、それは日本も同じだ。

私の小さい頃は周りの大人はすべて戦争体験者だったわけだが、「戦後」の実感はあまりなかった。私の記憶にある日本の町にはもう「焼け跡」などなく、いつもこぎれいだった。身近に地震などの災害もなかったので、「被災地が復興した」という過程を実際に見たこともない。

ドゥブロヴニクは中世に栄え、17世紀の地震で壊滅した後で復興し、20世紀末にダメージを受けてまた復興した。

その町は宮崎アニメの舞台のモデルになったほど、テーマパーク風で味わいがある。
この町のたった20年での再生ぶりに、戦争と戦後というものを考えさせられた。

私の若い時に日本でも戦後何十年だとか、もはや戦後ではない、とかよく言われてきた。しかし自分が若かったので10年や20年というのがとてつもなく長い期間に思えたから、戦争ははるか過去の話に思えたのだ。

たとえば戦後20年と言われても、その時の「20年」は自分の人生の大半を占めるような長さだったから、「復興していても当たり前だろ」という感覚があったのだと思う。

でも、今の年になると、「20年前なんてまだほんの少し前」という感覚だ。
1991年というと、今と同じ快適な暮らしをしていた。

そんな時にすぐ近くの東ヨーロッパでは内戦が繰り広げられていたのだなあとあらためて思う。

その頃からすでに争っていたパレスティナはいまだ内戦が生々しい。
旧共産圏でもウクライナなどでは内戦状態が現在進行形だ。

そんな中で、ドゥブロヴニクはよくここまで復興して観光都市になった。
旧市街の規模が小さく、本当にテーマパークのようなまとまり具合なので、そこでがんばってきただろう「地元の人」の顔が見えるからよけいに感慨深い。

そのせいか、ドゥブロヴニクのホテルのテレビでパリ解放70周年のセレモニーの様子を見た時も、そのことに今までと違う重みを感じた。

ドゥブロヴニクの人たちの表情を通して知った戦禍と復興の実感は、私にとって戦争と戦後という歴史の視座が変わる補助線のようなものだったのかもしれない。
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by mariastella | 2014-09-03 01:17 | 歴史

ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その7

(これは「ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その6」の続きです)

第一次大戦によってフランスにおける死者への「喪」の服し方が劇的に変わったことについては後述しよう。

しかし簡単に言っておくと民間のレベルで「煉獄」が消滅した。

戦争での苦しみと犠牲によって戦死者はすでに「贖罪」を果たして天国へ直行、みな聖人となったのだ。

これはある意味では日本の戦死者の「英霊」がみな「祭神」に昇格したことと同じ感性かもしれない。

そうなのだ、戦争や大災害による大量の犠牲者を前にした時、人は「犠牲者」をまとめて祭ってしまいたいのだ。それによって、「死者の恨みや苦しみ」とそれが生存者に罪悪感を与えたりする畏れと恐れを回避するために、「慰霊」し、ひいては生存者を「守護してもらおう」という都合のいい感性でもある。多くの「神々」や「聖人」たちはこうして祭られてきた。

フランスの場合興味深いのは、第一次大戦で、アラブ・アフリカの植民地国からも志願兵を募り、軍需工場の働き手としても移民を奨励したことだ。そのほとんどはアルジェリア、モロッコ、チュニジアにセネガルなどのムスリムだった(アルジェリアはフランスの「県」あつかいなのでそもそも徴兵された)。

この時、政教分離で激しくカトリック教会を排斥していたフランスがカトリックの神や聖人を必要とし、一丸となったように、フランスのために戦うムスリムの宗教性も、もちろんまるごと受け入れられた。

イゼールの戦いに送られた植民地軍の駐屯地には兵士たちのために仮のモスクが建てられ、日に五度のメッカに向けての祈りが軍隊ごと許可された。

第一次大戦で宗主国フランスのために「動員」(「同じ血を流せば同じ権利を」と約束された)されたイスラム教徒は60万人と言われていて、そのうち5万5千人が戦死した。10%に近い。

そして、戦後、これらのイスラム教徒の戦死者を祭るために建てられたのがパリ市内の大モスクであり、そこにすべての戦死者の名が刻まれた。今でも大統領が訪れて謝意を表する。

あのイデオロギッシュな政教分離だの、公共の場での宗教シンボル着用禁止だのというフランスにして、これである。

日本の場合、植民地における宗教がどうなっていたのかよく分からない。国家神道が強制されたのは想像できるが、もともと一神教的素地のない場所だし、兵士たちは皆平等に現人神である「天皇陛下の赤子」と見なされていたのだろうか。

『植民地朝鮮と宗教  帝国史・国家神道・固有信仰』三元社

[編著者]磯前順一+尹海東

という本を見つけたけれど未読なのでよく分からない。

フランスでは「フランス」という国家は「無宗教」であり、しかし内部にある宗教に優越・優先するとされていた。20世紀の初めにはそれはカトリック教会の既得権益の排除と同義だったわけだが、原則としてはすべての宗教が、「公共の地位を与えられない」という意味で「平等」だった。

だから、戦争によって「神」だの「聖人」だの「喪の儀式」だの、ありとあらゆる「聖なるもの」が「ナショナリズム」のもとに呼び返され、結集した時は、もちろんイスラム教もOKだったわけである。

日本のように「国家」の基盤に「国家神道」を組み込んで「近代国家」の仲間入りした国が戦争をする時に、植民地を巻き込んで生と死、「犠牲」と「聖なるもの」をマネージメントする場合は、別のロジックであったろうことは大いに想像できる。

ともかく、フランスは、第一次大戦の現実によって、

「人は実存の危機においては宗教共同体を必要とする」こと、

「ナショナリズムの沸騰する時には、多様な共同体をプライヴェートな部分に押し込んで掲げていた普遍主義の理念などふっとんでしまう」

というこの二点を、決定的に自覚してしまったのだ。

それを思うとき、「アメリカのプラグマティズムに対してフランスが理想主義的でヨーロッパ中心の独善主義だ」などというお決まりの対比などが、実は、深いところで逆転していることが見えてくる。

(続く)
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by mariastella | 2014-02-20 00:49 | 歴史

ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その6

第一次大戦で繰り広げられたナショナリズムの狂騒と敵への憎悪は、英米に支えられたフランスの一応の「勝利」によって簡単に消えるものではなかった。

停戦条約がヴェルサイユ宮で調印されたことには大きな意味があった。

普仏戦争の敗北の後で1871年1月18日、フランスに大勝利したプロイセン王がドイツ帝国を宣言したのがこの鏡の間であったからだ。

1918年の11月に大戦がフランスの勝利に終わったと言っても、フランスはドイツと同じようにぼろぼろになっていた。実際の戦場になっていないアメリカは無傷だ。

最も大きな被害をこうむったのはフランスの北と東、北イタリア、ポーランド、バルカン諸国である。橋や鉄道や道路などのインフラも破壊された。経済は底をつき、債権者となったアメリカの繁栄の時代がやってきた。

戦争未亡人はフランスで60万人、イギリスで20万人にのぼった。

18-27歳のフランス人の4人に一人が死んだ。

4つの大帝国が滅亡した。

ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国である。

ドイツは88000k㎡に住む800万人を失い、そこからフィンランド、エストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、チェコスロバキア、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアが生まれた。

第一次大戦によって、「ヨーロッパ中心史観」の「ヨーロッパ」は「終わった」といっていいだろう。

そしてその「終わったヨーロッパ」への喪の服し方は、誰も知らなかった。

実際、それまで「正義」だの「神」だのを掲げていたはずの戦争が単なる野蛮な相互大量虐殺に終わったことを見て、「戦争の不条理」に向き合うことから逃げた人々もいた。いや、それまで権力争いや理念の擁護やナショナリズムなどの説明があった戦争をはじめて「不条理」と見る人々が現れ、その人たちの一部が、はじめて、不条理からの逃避を昇華する方向に向かったと言えるかもしれない。

戦争の不条理のリアクションとしてダダイズムやシュールリアリズムが生まれた。

第一次大戦がなければ、既成秩序、合理主義などを否定するこれらの運動は生まれていなかっただろう。

アンドレ・ブルトンは18歳で血と泥にまみれ、ナショナリズムを嫌悪した。

「俺様ヨーロッパ」は彼ら自身の標榜していた理念についていけない自分たちの現実に失望したのだ。

しかし逃げるだけではことはすまない。

なんといっても実際に大量に出た死者をどう扱うかという問題が残った。

「ヨーロッパの喪」どころか、身元も確認されずに戦死した大量の死者の「喪」をなんとかしなくてはならなかった。(続く)
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by mariastella | 2014-01-16 00:35 | 歴史

ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その1

ヨーロッパ中心史観に依拠すると、20世紀は75年しかなかった。

ここでいうヨーロッパ中心史観とは別に世界の中心がヨーロッパだという尊大な意味でなく、ヨーロッパからみた世界史という意味だ。それは決して看過できない。


その75年とは1914年から1989 年である。

つまり、第一次大戦がはじまってからベルリンの壁が崩壊するまで。

来年が第一次大戦の始まりの100周年なので、このところいろいろなメディアでさまざまな特集が出始めているし、関連書籍も出てきた。

それで始めて、私にも、第一次大戦の大きな意味が分かり始めた。

それまではなんとなく、第一次大戦は第二次大戦によって「上書き」されてしまったような印象があったのだ。

第一次大戦の終戦記念日が来る毎に、元軍人やその遺族の生存者が年々減っていき、ついにゼロになっていくのをぼーっと眺めていた。

しかし、第一次大戦は、第二次大戦よりも決定的な精神の変革をヨーロッパにもたらしていたのだ。

フランスに40年近く住んでいて、2014年を迎えようとする今、はじめてそれが分かった。

少しずつだがこれからそれについて書いていこうと思う。

この第一次大戦に始まってベルリンの壁崩壊で終わるヨーロッパの20世紀がヨーロッパにもたらしたものは、まさにそれまでのヨーロッパ的普遍主義の終焉の自覚だった。第一次大戦とそれが必然的に内包していて再び炸裂した第二次大戦のせいで、ヨーロッパは、自分たちの価値観について自問することを覚えた。

アメリカは自問しないですんだ。

それが欧と米の一番の違いだ。

第二次大戦後の日本は「自問しないアメリカ」にぴったりくっつくことで「自問しない」復興を選んだ。

その思考停止の半世紀に私は生まれて育った。

「自問し続ける」ヨーロッパのカルチャーに出会って、冷戦以降のグローバルな世界に問いを投げかけ続けたが、今ようやくその問いのルーツであり、何も答えは出ていない「第一次大戦で起こったこと」に目を開かれようとしている。

いったい、何が起こったのだろう。(この項、不定期更新します)
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by mariastella | 2013-11-08 00:54 | 歴史

マイノリティをカテゴリー化することの危険について

(リシュリューの猫はお休みです。)

ドイツでは出生証明書に男女の他に性別未定の項目が付け加えられるようになるとラジオで言っていた。
男女の性は胚の早い段階でホルモンの量によって基本の女性形が男性になっていくことで決まるので、その量や期間などによって分化がグラデーションになっているのはよく知られている。

卵子には男女別がないのだ。染色体もいろいろな複合系がある。

実際、両性具有など性別が不確かな子供の誕生は決して少なくない。

これまでは出生時に医師と両親が決定して、手術したリホルモンを投与したりして男女のどちらかに押し込めてきた。

その結果、長じて性同一性障害に悩む人もいる。

ホモセクシュアリティやバイセクシュアリティとして現れることもある。

性的マイノリティの人たちはいつも差別されてきたが、中でも、それと戦うゲイのロビーがいつしか力を持つようになり、今や、同性結婚法などがあちこちで成立しつつある。

もちろん次世代を育てるという社会の存続のためには「男=父」と「女=母」と子供という家族の枠組みは必要なのでそれを囲い込んで社会的に保護するというのは理解できる。

けれども、性的傾向は別に「ホモセクシュアルとそれ以外」の二項のみに分けられるわけではない。

ホモセクシュアル以外に非-性的人間も少なくないし、そもそも人生の長いスパンで見ていけば普通の人が性的存在である期間すらそんなに長くないかもしれない。

また、同性愛嗜好の他に、「社会的に不都合な性的嗜好」はいくらでもあるし、その中には、小児虐待のペドフィリアや屍体損壊のネクロフィリアのような犯罪として取り締まることが必要なものももちろんある。

しかしゲイのロビーが強くなると、解放されて市民権を得られるのはまさにゲイのコミュニティだけなのであって、「その他」の多数者の中に埋もれている性的マイノリティは、まるで存在していないかのようになる。

この世には「同性愛者」と「異性愛で子供を産んで育てるマジョリティ」のどちらか、というくくりになってしまうのだ。

ドイツの新民法では、性別未定の人は、成長してから自分で決定することができるそうだ。こういう曖昧ゾーンを設けて二分法に風穴を開けるのはいいことだと思う。

そもそも、差別されている社会的マイノリティや社会的弱者のうちの特定のグループを擁護するような運動は、全体としては人権尊重が少しずつ拡大されていくのだろうが、弊害もある。

特定のグループの「解放」「勝利」の影で、かえって見えなくなり忘れ去られる弱者も出てくるし、特定のグループがカテゴリー化されるとその内部での多様性が無視されるので、かえってグループ差別を固定化してしまうこともある。同性愛の場合でも、ゲイ・プライドのような派手な運動が着実な成果を上げる一方で、ひっそりと地味に社会に同化して生きることを選択したゲイの人はかえって肩身が狭くなるかもしれない。

そのような例として、アメリカ大陸植民地化の歴史の中で盛んになった黒人奴隷貿易のことをあらためて考えさせられた。

以前にも触れたが、もともと奴隷とは、戦争に負けた国の人間や、同国内でも貧困層の人々を強者が平気で搾取していたわけで、必ずしも肌の色とは関係がない。

旧約聖書の出エジプト記でも神がユダヤ人たちに律法を与えた時、主人の財産としての奴隷の扱いについても詳しく述べている。そこでも、「あなたがヘブライ人である奴隷を買う場合は…」などという記述があるように、「奴隷制度」とは、人種の差と直接結びつかない力関係が基本なのだ。

つまり、人間の社会では古今東西、「強者が弱者をモノとして生殺与奪をほしいままにする」、という形があって、人身売買による奴隷制はそのひとつであるに過ぎない。

実際、新大陸にはヨーロッパの農奴や犯罪者や浮浪者などの社会からはじき出された弱者も多く送りこまれた。その中で黒人が圧倒的に多くなったのは、気候に適応し労働力として最もコストパフォーマンスがよかったからである。

すでに15世紀以来、コーヒー、砂糖、タバコどの嗜好品を手に入れるために1200万人もの黒人奴隷が西アフリカから投入された。奴隷の歴史の中でも最も大規模なものだ。

ところが、もとは「強者」対「弱者」の構造の一部であった黒人の搾取が特化されていくことになる。

黒人は「洗礼を受けていない非キリスト教徒」という異文化的存在でもあったので、現地のインディオたちと同じく「キリスト教徒」対「野蛮人」という図式にシフトし、さらに「白人」対「黒人」という肌の色の差異に落としこまれていったのだ。

しかし、キリスト教は普遍宗教であるから、根本的には肌の色での差別は許容できない。

実際、ヨーロッパの本国においては、植民地における黒人奴隷制度を激しく糾弾する人たちが出てきた。

その非難をかわすために作られたのが1685年の「黒人法」だった。

コルベールが起草しルイ14世がサインした。

アンティーュ、ルイジアナ、ギュイエンヌ、そして今はフランスの海外県となっているモーリス島にレユニオンという植民地全体に適用されたもので60条からなり、財産としての黒人奴隷の扱い方を規定する。


この法文化の目的は、絶対王政の強化にもあった。奴隷の主人である植民者たちは自分たちの権利が制限されたと考えてこの法律に不満を唱えた。

黒人法によると、主人は奴隷を鎖につないでも鞭うってもいいが、傷つけたり拷問したり殺してはいけない。
10年働けば毎週7,5リーヴルの小麦と2リーヴルの塩漬け牛肉、三匹の魚を最低支給しなくてはならない。
しかし、最も大切な条項は、奴隷は洗礼を授けられなくてはならず、カトリックの教えを受け、結婚は司祭によって司式されるなどである。

この「カトリック化」によって、王は「無力な黒人を買って奴隷化する」という非難をかわし、奴隷貿易を、「無教育で野蛮な黒人をカトリックに改宗させる」という文化事業にすりかえようとしたのである。時には当事者自身、本気でそれを信じていたふしもある。

その偽善は19世紀まで続き、1848年に奴隷制が廃止された後も、フランスの帝国主義は「未開の人間を無知から解放する」という名目を掲げていた。

フランスの植民地にはもともとアパルトヘイト政策はなかった。
肌の色による差別という感覚がなかったのだ。
肌の色が同じで洗礼を受けたカトリックであろうと、単に弱者が強者に搾取されていただけだった。

それなのに、その差別が「肌の色」に還元されて批判された時点でこの「黒人法」が出てきたので、「非キリスト教徒を教化する」という正当化がなされたわけである。

結果として、他の多くの弱者が肌の色や宗教に関係なく差別されている事実が不問に付されてしまった。

その後の解放運動も、黒人というカテゴリーの被差別者ばかりがクローズアップされることになる。

中途半端な法律が差別の基準を特定したり、特定されなかった被差別者の権利回復を遅らせてしまったりという例のひとつだろう。

たとえカテゴリー別に少しずつ差別をなくしていくことしかできなくても、「相対的弱者の非差別をなくす」という普遍的な目標を忘れると、社会のひずみは治らない。

(参考Le nouvel Observateur2544/ p60 )
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by mariastella | 2013-08-21 08:59 | 歴史

民族浄化、キプロス、政教分離

ミャンマーでは、ビルマのビン・ラディンと言われる過激な僧の扇動で、マイノリティであるイスラム教徒の殺害が勃発している。

イラクやエジプトの独裁政権が倒れた後ではマイノリティのキリスト教徒が迫害されテロの対象になり続けている。シリアの内戦地域でも同様だ。

ミャンマーの方はあまり報道されない。アウン・サン・スーチーも口先では批判はしているが積極的な対策をとらない。圧倒的な数の仏教徒たちが大切な選挙民であるからだ。

またミャンマーのムスリムはほとんどがインド系やインドからの移民なので、「民族浄化」の色彩もある。

軍事独裁政権のタガが外れると自由になった人々は異種を排除し始めるのだろうか。

中近東のキリスト教徒は、イスラム教が成立する前にキリスト教徒だったのだから、厳密には「民族浄化」ではないが異種である「欧米」とキリスト教を共有していることで、「敵」と見なされているところがある。

こういう事情を見ていると、たとえ一見どんなに不自然で人為的でも、今の地球では、どの国家も厳格に「政教分離」を進めていくしか平和の道がないように見える。


たとえばキプロス共和国の場合を見てみよう。

ここはギリシャ語を話す正教徒の国で、「キリスト教」圏なのだが、15世紀にオスマントルコに征服されたし、その後20世紀に大英帝国に併合され1959年に独立したがイギリス連邦加盟国の一員という位置にある。

ユーロ圏であり、ギリシャと同じく深刻な経済危機にあり、失業率は15%に上り、EUからの援助を受ける代わりに過酷な緊縮財政を強いられている。

ところが、この国のキプロス正教の大主教は大金持ちだ。

正教つながりでモスクワとも強固なラインでつながっている。

政府に介入して財務大臣を更迭することなども堂々と行われている。

地元ビール・ブランドの大株主であり、国で第三の銀行(Hellenic bank)の株も29%を持っている。国に次いで第一の大地主でもあり、少なからぬ土地を国に貸して賃貸料をとっている。もちろん貧しい子供の給食を提供するなどの慈善事業もしているのだが、クリソストモス主教がまず第一級のビジネスマンであることは間違いがない。

なぜ、経済が破綻している国で教会がこんなに豊かなのかというと…

ニコシア大学のテオパヌス経済学教授によれば、オスマントルコの支配下で、キプロス正教の主教が政治的にオスマントルコとの交渉相手になったので、島の住民たちはオスマントルコに奪われることを恐れてこぞって財産を教会に寄付した、その結果、教会に富が集中したという。

そもそも、15世紀にオスマントルコの攻撃を受けた時、正教は、まずローマ教皇にSOSを発信した。その時ローマ教皇は、正教がカトリックの支配下に入るという条件なら援軍を送ると言ったので、結局援軍は来なかったという。

だから、キプロスがオスマントルコ支配下の時代を通じてギリシャ人の文化、正教の文化を保存できたのは、100%、正教会のおかげだという認識が今のキプロスの基盤にあるわけだ。

第一、1959年の独立時の大統領は、大主教のマカリオス三世で、この人は再選され続けて、ギリシャ介入の一時期を除いて1977年に死ぬまで終身大統領職にいた。

独立した時にはトルコ人もいたのだが、1974年に南北に分断されて、今ヨーロッパ連合の一員であるキプロス共和国は、ほぼギリシャ人の単一民族国家となっている(移民には同じ正教のルーマニア人やブルガリア人の他にパキスタン人やフィリッピン人もいる)。

「民族浄化」は南北分断で解決したわけだ。

このキプロスの話(Figaro 2013/6/21)を読んでいると、政教分離とは何かということをつくづく考えさせられる。

キプロスの歴史から民族と宗教と政治を分けることはできない。

そして、実際、ほとんどの国が、近代的な意味での国家として成り立つまでに多かれ少なかれ「民族浄化」という隠れた(時にはあからさまな)誘惑に導かれて、政治とマジョリティ宗教の癒着の歴史を歩んできたのだろうと思う。

それでも、政治体制が、敢えて「歴史」や「伝統」を否定してでも、自覚をもった「政教分離」へと向かった国だけが、本物の普遍的な共生への道を開いてきた。

強権支配による見せかけの平和などではないし、カリスマ的リーダーへの盲目的信頼でもない。

マイノリティの抑圧や排除や、歴史的に貸し借りのある国同士の憎悪や敵対心などの多くの罠を避けながら、また絶えず是正しながら、少しずつ、少しずつ、この地球で平和な共生の場所を広げていくには、「正しい政教分離」がどうしても必要なのだ。
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by mariastella | 2013-06-28 01:42 | 歴史

宗教弾圧と日本

世界史において、異教徒の弾圧、迫害の話はいつでもどこにでもあるし、時として想像を絶する残虐さがあるのも共通している。

どこかの民族や社会が他宗教に比較的寛容に見える場合でも、それは経済的繁栄や政治権力の安定などによる一時のことでしかないことがほとんどだ。

その意味では、日本における「キリシタン弾圧」も、非常に残酷なものもあったし、拷問や処刑を受け持つ下級役人などの中には、単に命令に従っているという以上にひょっとして本格的なサディストがいたのではないかと思えてしまうのだけれども、それでも、日本におけるキリシタン狩りには、日本ならではの犠牲者へのリスペクトというエピソードがいろいろ残っている。

確かに、処刑されたキリシタンの中には大名も含めた身分ある人もいたし、その主人に倣って改宗してそのままそれに殉じたという人が少なくないから、彼らが他人を殺めた犯罪人などではないことも、周囲のみなが知っている。

棄教を求める幕府の通達に従わないという罪はあっても、「直接の主人や父や夫に殉じて信念を覆さなかった」という意味では、日本的な美意識に適っていた。

しかも、抵抗せずに静かに運命を受け入れる人たちに対する尊敬の情も伝統的にある。

で、キリシタンをうち首にした役人の中にも、リスペクトの姿勢を崩さず、処刑の時に周りにいた群衆も、みなが合掌したなどというエピソードも残っている。

もう一つ、日本には、自分がいわゆる悪行をしたわけではないのに命を断たれるという「非業の死」を遂げた人に対する「畏れ」の念もある。

「何とか、やすらかに成仏(キリシタンだけど…)してください」と祈ってしまうのだ。

しかも、安土桃山時代にけっこう日本の各地で活動していたキリシタンの修道会は、当時の日本が「天刑病」として忌み、隔離していたハンセン氏病などの感染病にかかった人たちを組織的に世話した。

「捨て子」の世話と「癩病」者の看護は伝統的にキリスト教の守備範囲なのだ。

そしてその二点は当時の日本の社会で見捨てられていた部分だったから、いくらでもキリスト教が進出することができた(後に、修道会本部から医療行為を禁じられて去った修道士もいる)。

日本人はそのことに驚き、敬意の念をもって記録した。

そういう文脈の中で、円空の話をあらためて考えた(前田速夫『異界歴程』)。

円空本人も癩病者だったのではという仮説のもとに、円空が名古屋でキリシタン殉教者の霊を弔ったのは、キリシタンが癩者の治療に当たっていたからだろうというのだ(池田勇次さん)。(前田速夫『異界歴程』より)

愛知県犬山市五郎丸万願寺五郎丸の稲荷社には、キリシタン弾圧による殉教者の供養塔があるそうだ。

五郎丸村では、7年間に124人が捕らえられたそうで、村の人口が半減したという。万願寺という地名も、もとはキリシタン寺で、禁教令によって取り壊されて、「諸神諸佛諸菩薩(しょしんしょぶつしょぼさつ)」と書かれた卒塔婆が残っているという。

福島県の猪苗代成就院で処刑されたキリシタン110人のためには、成就院の僧侶の建てたキリシタン供養の像がある。

有名な天草の乱の激戦地にもキリシタン千人塚という供養碑があるが、こちらは、

「鬼理志丹の根源は専ら外道の法を行い 偏に国を奪わんと欲するの志ふたつ無きなり」

などと書かれているから、リスペクトというよりは非業の死をとげた人たちの荒魂封じ込めのようなニュアンスがある。

さすがに「神にして祀ってしまう」というのはしなかった。

でも、日本には、赤穂浪士の討ち入りに続く切腹や、源義経と弁慶の最期への思い入れのように、いわゆる「判官びいき」というものがあるから、キリシタンの悲惨な運命も、古今東西の「宗教弾圧残酷物語」の中では、少し救われるような気がする。
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by mariastella | 2013-04-27 00:26 | 歴史

人類の起源-カトリック教会とインディオの魂

これは前回の記事の続きです。

インディオも黒人もアジア人もキリストにおいてはその違いがなくなり「みな同じ人間」であるという普遍主義の論議は、キリスト教においてはパウロのガラテヤの信徒への手紙の中の有名なフレーズ、

洗礼を受けてキリストに結ばれるなら「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(3-28)

という部分を根拠にして、基本的にはすでに形作られていた。

それなのに、なぜ「インディオには魂がない」から虐殺し放題というような流れができたのだろう。

たとえば、キリスト教ヨーロッパとアフリカの「黒人」との遭遇はそれまであまり問題になっていない。

なぜなら、アフリカは中東と地続きであって、イエスも幼い時に父母と共にエジプトに亡命していたし、そもそも地上の諸民族はノアの三人の息子の子孫だと思われていたからだ。

ところが、旧約における「世界」では、当然アメリカ大陸は想定されていなかった。

だから、アメリカ大陸にも先住民がいて文化もあったということ自体が、ユダヤ=キリスト教の世界観にとっては不都合だったのだ。

その「不都合」の核心とは、なにもも、

アメリカの先住民の文化や宗教が異なっているとか技術文明において「劣っている」とかいう認識による差別があって、そのような劣等民族をも「神の前に平等だ」とするのに抵抗がある、

というようなことではない。

不都合とは、アメリカ先住民を人間だとすると、アダムとイヴから始まってノアやアブラハムやヤコブへと展開していった創世記物語の筋書きと時代(アダムが創造されてから約6000年)とに「合わなくなる」という神学的事情からきたものだった。

「新世界の人間」が神によって別口に創造されていたならば、神の天地創造は単一のもの(monogénisme)でなく複数(polygénisme)だったということになる。

現代なら逆に、すべての人類の先祖はアフリカ大陸に生まれた後で全世界に広がっていき、大陸が切り離されたのはその後のことだったということになっているから、人類のルーツが同じだということが矛盾ではない。

けれども、当時のヨーロッパ人にとっては、「新世界」は文字通りの「新世界」であって、「彼らの神の創った世界」と共通のルーツがあるなどとはとても考えられなかった。

そうなのだ。

西洋キリスト教が「新世界」の先住民を最初は人間だとは見なさなかったのは、いわゆる「人種差別」などではなく、神学的整合性を必要としたからだったのだ。

他に、地球の成り立ちの時期にも、齟齬が出始めた。

ルネサンスの神学者たちは、「聖書の年代記」と「プラトン的時間」をなんとか両立させようとした。

ノアの系譜と、デウカリオンの系譜のどちらも正しいとしたら、どちらが先なのか、などと大真面目に議論した。(旧約のノアは大洪水でリセットされた人類の生き残りで再スタートさせた。デウカリオンはギリシャ神話のプロメテウスの息子で、やはり大洪水の後で石を背後に投げて新しい人間を創った。)

新大陸の先住民を「人間ではない」と切って捨てることも、解決法の一つだったのだ。

といっても、さすがに、現地の宣教者らはすぐに、先住民も彼らの宗教を持っていて神々を信じていることに気がついている。

「相対化」が始まった。

すでにヨーロッパでは宗教改革が始まりつつあった時代だ。カトリック陣営とプロテスタント陣営は互いに互いを「無神論者」だと攻撃し合っている。

そういう時代だからこそ、、偶像を崇拝している先住民たちを「人間」だと認めた上でカトリックに改宗させることの方が、神学的整合性などよりも有効な戦略で、現実的な選択ではないだろうか。

16世紀の半ばに生まれたジョルダーノ・ブルーノは、先住民を「人間ではない」などと言っている神学者たちをからかって、「そう、人間以上だ」と言い、新旧の勢力が殺し合っているヨーロッパ人よりも彼らの方が、宗教に対してずっと敬虔であると言った。

ブルーノは、コペルニクスの地動説も支持していたから、地球が中心でないということは、もうどこにも中心はなく、言いかえればあらゆるところが中心だ、とも言った。

一匹のアリが宇宙の中心かもしれない。

無限の世界の中では地球上のあらゆるところがヨーロッパでもある。

馬にとっての美醜、豚にとっての美醜が違うように、「普遍的美」というのはない。すべては相対的であると同時に動的でもある。

神の似姿である人間の尊厳というのも、所与のもの、存在論的なものではない。

獣のような忌むべき人間もいる。

逆に、獣も人間も、同じ物質が同じ生命の力によって生かされているのであり、無限の生命の中では同等である。

人間が「ひとつである」ことは、純血や固定した概念ではなく、多様で動的な概念である。

それを認めるには、「西洋のキリスト教の形=普遍」という考えを捨てなくてはならない。

この地球に大洋に隔てられた新大陸があり異なった文化や肌の色を持つ人々がいるのは「多様性の調和」である。

多様性の背後に唯一性を見、唯一性の背後に多様性を見ることこそが洞察なのである。

また、宇宙は「無限」ではあるがその中の多様な個々の存在を相互に動的に結びあわせる手のようなものがあって、それは中心を持たないネットワークである。

多様性や差異性は未来への障害ではない。

宗教は殺戮をもたらす道具と化してはならない。

人間の尊厳はよりよい社会を築くための努力にあるのだ。

たとえ「野蛮人の魂の救済のために布教する」という「意図」が肯定できるとしても、伝染病を持ちこんだり戦争をしかけたりして先住民の伝統や文化や自然環境を破壊したという「結果」は弾劾すべきである。

ジョルダーノ・ブルーノのこのような考察は、21世紀の今も全く色あせていない。

それにしても、このブルーノが異端として火刑されたり、一見ばかげた帳尻の合わせ方ばかりしている一神教神学者が多かったりしたとはいえ、全体として、「普遍宗教が真の普遍主義の構築に果たした役割」は、やはり看過できない。

「万物の創造主たる父の前ではみな兄弟だ」

という単純で画一的な普遍主義を掲げて拡散していった普遍宗教が、彼らにとっての「新世界」で多様性に出会った時に、その葛藤からダイナミズムが生じる。

「画一性」と「唯一性」とは違うのだと知って成熟していったのだ。

それとは反対に、もともと画一的全体主義的志向のない共同体的宗教、つまり、利害を共有する限定的な共同体内の「マイ宗教」というのは、他者や他文化と出会ってもショックの種類が違う。

「ああ、おたくはそうなんですか、でもうちではこうなんですよ」

で衝突を回避することもあるし、思考停止に陥ったり、よそ者を排斥したりすることもある。

特に、共同体主義の社会がよそから来た普遍主義に出会った時は、普遍主義が「普遍」の名のもとに押しつけてくる「普遍」の侵襲から当然身を守ろうとする。

その押しつけさえなければ、メジャー「マイ宗教」の秩序で成り立っている共同体は、よその宗教に対して抵抗しないで好奇心を示す余裕がある。

よその神さまたちが「マイ宗教」にどんどん習合していくこともある。

けれども、「普遍宗教」が「一神教」で、

「自分たちの神による救いを受け入れなければ地獄堕ち」だとか、

「ユア宗教を捨てなさーい」

とか言い出すと、共同体主義の社会がそれを跳ね返そうとするのは当然だ。

「新世界」でも同じようなことが起こった。

カナダのオンタリオ地方に最初のフランス人コロニーができた頃、イエズス会士Jean de Brébeufが1635年に残した記録によると、

イエズス会士から唯一神の信仰を天国と地獄の概念と共に説教された時、アメリカ・インディアンは

「それはあなたたちの国ではもっともなんだろうが私たちの国では違う、どの国もそれぞれのやり方があるのだ」

と抵抗した。

そこでイエズス会士は持参した地球儀を見せて

「世界はひとつなのだ」

と示したら、彼らはもう、反論できなかったというのだ。

あらゆる共同体を抱合するただひとつの普遍世界の大きさを小さな地球儀で証明してみせるというのも逆説的でおもしろい。

もうその頃にはキリスト教西洋は「大航海」によって地球の形と大陸の分布をかなりの精度で把握していたし、カトリックは「人類すべて兄弟」の改宗を目指していたから、地球儀という小道具を駆使して「共同体主義を超える普遍主義」を説いてみせたわけである。

もっともそれはまだ「汎ヨーロッパ主義」の域にとどまる「上から目線」のものであったけれど、初期に「インディアンには魂がない=人間ではない」かのように虐殺していった頃とは雲泥の差がある。

ルネサンスの頃のカトリック(普遍)教会が、普遍主義と共同体主義、多様と統一のはざまで哲学的な意味での「グローバリゼーション」の可能性を探ってきたこのような道程は、今も続いている。

ルネサンスの「人間中心主義」から「神の似姿」の根拠を消して「神なきユマニスム」に向かったもの(モダニズム)と、その人間中心主義そのものを解体して、相対化を推し進めていったもの(ポスト・モダニズム)という二つの大きな流れが生まれた。

「相対化」にも民俗学的、構造主義的な人間観の構築を目指したものと、脱構築のための脱構築があった。

相対化されてのっぺりとした世界には拝金主義などあらゆる種類の偶像崇拝が跋扈することになった。

「神なきユマニスム」の方は、普遍主義や普遍理念を「超越」から解放しようとしながらも、実は福音書から受け継いだ理念を守って「弱者救済のために社会問題に参入する」などの姿勢を固持していたのだが、それはたやすく政治イデオロギーという名の偶像崇拝にとりこまれていくことになった。

レミ・ブラグ(Rémi Brague)は、「神なきユマニスム」の限界について考察した好著を上梓したばかりだ。

ブラグは、神なきユマニスムの行き詰まりは、神を否定した時に人は人の尊厳も失ってしまうことに由来するのではないか、人の尊厳と神とはセットになっているのではないか、超越を視野に入れない人間中心主義は傲慢な独善主義となり結局は人間の中にもヒエラルキーを作って疎外してしまうのではないか、と問う。

また、レヴィ・ストロースやミシェル・フーコーによる相対化にも言及して、一神教の神による「十戒」のような上からの倫理規定なしに基本的人権の概念に到達するような「人類に普遍的なモラル」が遍在し得るのかとも問いかけている。

この人や、ジャン=フランソワ・マテイ(Jean-François Mattéi)のようにキリスト教的ルーツをポジティヴに語る人は、実は今のフランスの知識人の中では肩身が狭い。

「カトリックだ」という解説が必ずついてまわる。

「人間の使命は自然と宗教の支配からの解放だ」という考え方からは、「超越的なもの」の必要性を説く者は反動的だと見なされかねない。

ポスト・モダニズムの陣営からは、「未だにヨーロッパ思想の優越性を信じてい」と批判される。

しかし、たとえ自然と宗教から解放されたつもりでも、実際は、人はまたたくまに欲望やイデオロギーに支配された。

自然や神からは自由になったつもりでも、金の奴隷になり労働を搾取され、国家に統制される。

もう一度、自然や宗教との関係性を考えなおしてみるのは大切なことかもしれない。

そう考えていくと、「新世界」を発見し、多様性に直面し、アリストテレスやプラトンに耽溺し、キリスト教普遍主義からユマニスムの普遍主義へと試行錯誤を重ねていた16世紀という時代の研究者たちの集まりが、なんだか、前衛的で熱いものに思えてきた。
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by mariastella | 2013-03-24 07:51 | 歴史



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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