L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 322 )

鈴木正文さんと教育勅語

docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。

日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。

素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。

1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。

教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。

「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」

「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」

「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」

「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」

以上だ。

これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。

ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。
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by mariastella | 2017-04-26 00:39 | 雑感

アメリカのシリア攻撃

アメリカのシリアへのミサイル攻撃について、ヴィヴィエンヌ・ウェストウッドが、「もしヒラリー・クリントンが大統領になっていたとしても同じ結果だったろう」とコメントしていた。

これをどう読むかは各自考えて下さい。

私はこれについて、アメリカのプロテスタント倫理神学の大家であるスタンレー・ハウアーワスの言っていたことを想起せずにはいられなかった。

トランプの言辞は、完全にアメリカという国を「教会」と見なしている。
彼の忠誠や正義にまつわるレトリックは 長い間アメリカでシステムとして機能してきたキリスト教のレトリックと全く同じだ。アメリカの脱キリスト教の状況は、フランスの世俗化や日本の宗教離れなどの比ではない、重大な方向に向かっている。あそこまでアメリカ・ファーストとかアメリカに忠誠をとか言い切って通じてしまう背景には、「神のみに拠る」、神以外の権威を立てない、神以外を拝まない、という一神教の出発点にある超越価値という設定がある。

昨日の記事の続きにもなるが、その超越点を可視化したもの(ここではアメリカ)にを拝むようになればこれは「偶像崇拝」と言って、一神教の求心力に比例するくらい最悪のものになるわけだ。

「神の国」を夢みて出発したはずのアメリカが、いつの間にか「神イコール国」になってしまった。
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by mariastella | 2017-04-11 00:11 | 雑感

刺抜き地蔵と六義園

先日、はじめて巣鴨の刺抜き地蔵に行って来た。

原宿に住んでるのにどうしてわざわざ「おばあちゃんの原宿」に?と聞かれたが 、それは…おばあちゃんだから…?

その「おばあちゃん」らしさはなるほどいろいろある。

部分カツラの屋台で試着している女性がいたり、痩せて小柄なお年寄りが多いのになぜか大きめの下着がたくさん売っていて、「ご利益パンツ」とか「長寿パンツ」とか書いてある。

境内にある高島易断の占いコーナーには、原宿なら恋愛運ばかりなのに、「これからの人生と寿命 5000円」などと書いてあった。なるほどなあ。

その後で六義園に行ったのだが、ここも65歳以上150円の入園料で高齢者優遇。
年齢を証明するものを何も携行していなかったのだが、何も問われず顔パス。

高齢者でも敢えて普通料金を使うという矜持のある人もいるそうなので、その辺の自主性尊重なのかユルイのか分からない日本の空気はむしろ好感が持てる。

中では江戸の大神楽というのをやっていて、今までは寄席でよく見た芸のルーツ(もっと遡れば門付け芸だが)を、この季節にこの場所で見ることの楽しさを味わえた。

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六義園の枝垂れ桜
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by mariastella | 2017-04-07 00:33 | 雑感

ロシアのテロ、メキシコの治安、日本の花見

先日、サンクト=ペテルブルクのメトロでテロ?があったようだ。
この夏に行く予定だったのが、別のところに変更したばかりなのでよかったなあと思った。

でも、考えてみれば今でも、日本で、「パリは怖くないですか、フランスはやはりテロで怖いですか」などと聞かれる。最近のテロの記憶があるからだろう。

でも、怖いといえば、アメリカの方がいつも銃撃事件に巻き込まれそうだし、日本でも精神状態の異常な人が保育園に刃物を持って侵入したなどのニュースを見ると、いわゆるテロでなくとも、悪い時に悪い場所に居合わせるリスクは誰にでもどこにでもありそうだ。

宗教的な意味合いのあるテロと言っても、たとえばエジプトや中東で教会が襲われたり、フランスでノルマンディの教会内で司祭が殺されたりしたのと違って、メキシコなんかの方がずっとカトリック司祭に身の危険がある。

メキシコではこの10年で40人以上の司祭が殺されている。
去年は1週間のうちに3人の司祭が誘拐されて拷問されて殺され、今年ももう2人殺された。

イスラム過激派なんかとは関係がない。
大体が組織犯罪、麻薬マフィアによるものだ。

司祭が狙われるのは、カトリック教会がマフィアを断罪するからでもあるし、司祭一人の相場が1万5千ドルだという身代金目当てでもある。

日本やフランスのような国に住んでいたら想像もつかないような危険がある場所は、「戦争」や「内戦」状態の国でなくともいろいろあるということだ。

お花見をしながら、そんなことが頭を離れない。
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by mariastella | 2017-04-06 00:24 | 雑感

上野教会のルルド、願わくば花の下にて…

先日、カトリック上野教会というところに行った。
祭壇に向かって左側にほぼ等身大の聖母の像があって向かい合って誰かが跪いている。なんだろうと思ったら、その横にとっても日本的な掛け軸がかけてあって、その文を見て、それがルルドの御出現だと分かった。こういうのが教会の内部にあるのって初めて見た。洞窟がなくて、聖母とベルナデッタが同じ面に位置している。

後から検索すると、この教会は聖ベルナデッタ教会なんだそうだ。パリ外国宣教会の神父たちが戦後に建てたそうで、東京にベルナデッタに捧げられた聖堂がまだなかったからだそうだ。

そういえば、あの掛け軸もいかにもパリ外国宣教会のテイストだなあと思った。

上野の方に歩く道の両側が桜並木になっていて、白っぽくてはかなげなソメイヨシノの花ってやっぱり独特な風情だと嬉しかった。

もう半世紀近く昔に祖父が亡くなった時、火葬場への山道を車で登った時に見た満開の桜のことを思い出す。
出席者のほぼ全員が西行の「願わくは花の下にて春死なむ……」の歌を口々に引用していた。

よかったね、って。

この和歌のおかげで、この季節に葬いをした人々はさぞや慰められてきたのだろうな、と感無量だ。
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by mariastella | 2017-04-05 00:16 | 雑感

決定実験

放送大学がどうしてこんなに面白いのかの理由が分かった。
私は滅多にこの時期に日本にいないから気づかなかったけれど、要するに今新学期ということで、どの講座も「つかみ」の概論をしてくれているからだ。
植物から見たヨーロッパ史というのも日本との関係も含めて興味深かったし、分子分光学というのも衝撃的におもしろかった。

それは「決定実験」の考え方だ。

私はこれまで、量子力学などでは不確定性理論などがあるし、「目には見えない世界」についてはいわゆる決定不全性があるのだと思っていた。

でも、光子が波動であると同時に粒子でもあることを示す実験と、粒子である電子が波動であることを示す実験を並べて これは「決定実験」なので、理解はできないけれども「無理やり納得」しなければならないという事態があるのだそうだ。

これって、神の存在証明のような不毛な話や、奇跡の治癒の証明のような怪しげな話のことを連想すると、なかなか感銘深い。

信じられないこと、目に見えないこと、「超越」というものを「無理やり納得」させられる「回心」とは一体なんだろう、などと思ってしまった。
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by mariastella | 2017-04-04 00:13 | 雑感

ビッグイシュー 日本版

東京のうちから5分くらい歩くと表参道と青山通りの交差点がある。そこでいつも「ビッグイシュー 日本版」を買う。普段いないからバックナンバーも買う。

今はネットで多くの雑誌のデジタル版が読めるので日本に来てももうほとんど雑誌を買わないし、大抵は広告ばかり多くてつまらない。
TVもニュース以外は、いつも同じような人たちが同じようなことを言っていて、それでも微妙に好奇心を引き出されて、見てしまうと後悔する。

で、雑誌はビッグイシュー、TVは放送大学がお気に入り。

3月のビッグイシューの「どこにもない食堂」特集はとても興味深かった。

神保町の「未来食堂」のコンセプトなど秀逸だ。誰でも賄いを手伝えて、50分手伝うと1食がタダになって、余分な権利はただめし券としてお店の入り口にメッセージ付きではって、ひつようなひよにつksってもらえる。とてもエレガントなやり方だ。

その他、毎日外国人シェフが変わる日替わりカフェ、
聾者が手話で働くスープカフェ、サイン・ウィズ・ミー。
LGBTのコミュニティベースのアジアンビストirodori。

その他いろんな記事があるがどれも個性的だ。
どの号も決して失望させない

ビッグイシューを買いましょう。
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by mariastella | 2017-04-02 01:15 | 雑感

宇治神社、宇治上神社、平等院、奏楽の菩薩たち

これは兎の通う道「兎路」に由来するという宇治神社の清めの水
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宇治にゆっくりするなんて何十年ぶり。
宇治上神社の方の、「桐原水」の方は、小洞窟といった趣きだった。

平等院が極楽浄土のテーマパークみたいな意味で造られたこと、本堂を囲む阿弥陀来迎図と、それを待つ臨終者の絵を見ていると、年のせいかはじめて、実感を伴って、古来、死にゆく人たちは本当に阿弥陀のご来迎だの、聖母マリアのお迎えを信じてそれで死の不安が和らいだのだろうかと想像してみる。

無神論者の方が、死ねばブラックアウトと覚悟を決めていたのだとすると、信仰を持っている人の方が希望も恐怖もセットにして持っていたのかもしれない。
西方浄土の渇望は、来世での転落への不安のリアクションなのか、死の苦しみや痛みから解放されることがメインなのかどちらだろう、自分はこのような演出で「救われる」タイプなのだろうか、いざとなるとパスカルの賭けのような方向に行くのだろうか、やはり想像が及ばない。

如来のまわりに配された踊ったり舞ったりの「雲中供養菩薩」たちは、聖母を囲む奏楽の天使たちと同じ役どころだけれど、素晴らしい造形だ。

それにしても、 浄土に迎えられるとしても、九品という等級があるのは世知辛い気もする。
キリスト教的には恩寵 、恵みは「無償」という含意があるから、もっと救われるかもしれない。浄土に行ってまで格差があるなんて。

先日、大相撲の千秋楽の後 、相撲評論家みたいな人が国技とは何かについてコメントして、アメリカの国技は野球でメンバーが9人、スリーアウト、三塁、9回までと、3の倍数なのは三位一体のキリスト教で、多く点を取ったら勝ちというのは資本主義、などと言っていた。

私はすぐに三品に上中下の生が分かれた九品の浄土のことに思いがいたって、一見気の利いたことを軽々しくいうものではないなあと、自戒。
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by mariastella | 2017-04-01 17:38 | 雑感

宝積寺の亀や菩薩や金剛力士

天王山の中腹、大山崎山荘のほぼ隣にある宝積寺の清めの水の亀。蛇口じゃなくて亀口だ。
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天下分け目の天王山。
宝積寺には秀吉の出世石とか、一夜で出来たとかいう「一夜の塔」(三重の塔)があったり、迫力満点の閻魔大王やと眷属の像がある。十一面観音もいい。

本堂の脇の廊下にはこんな菩薩(?)もいる。
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木造の金剛力士像の一人の腕が、手を逆に回して腕全体の筋肉の表現が解剖学的にリアルだ。
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個性的な真言宗のお寺だった。
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by mariastella | 2017-03-31 00:30 | 雑感

大山崎山荘と夏目漱石

京都盆地の西 桂川、宇治川 木津川が合流して淀川になるのが見える景勝地天王山の中腹にある大山崎山荘のテラスからの風景。桜はまだ蕾だった。
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庭園ははっとするほど個性的でとても大正時代のものとは思えない。邸宅も美術館も、昭和7年にできたモネの睡蓮などのある地下のギャラリー なんて、まるで直島の地中美術館みたいだ。
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でも、なにより驚いたのは、この山荘を造った加賀正太郎という証券業者と、明治の文豪 夏目漱石との関係だ。漱石は亡くなる1年前に京都に滞在した時、祇園の女将が連れてきた加賀と会う。

3/20 文芸芸妓として知られた女将と知り合い、その機知を気にいる。
3/22大山崎に別荘を建設中の加賀が、女将に頼んで、漱石にその別荘の命名を依頼に来る。
単に命名だけでなく実際にその地を見てほしいと執拗に頼む。
4/15 女将と共に大山崎へ。
4/17 東京に戻る。
4/18 手紙が溜まっていてその返信に追われ、加賀の依頼にまだとりかかれていないと書く。
4/29 山荘の命名案を14,5も送る。しかも弁解がましい。

考えないわけではないが、何も頭に浮かばない、と言いつつ、竹とか三川という言葉を入れた一つ一つの案について、その言われ、長所短所のコメントも丁寧に付けている。(これらの書簡が表装されて展示されていた)
で、「気に入らなければ遠慮はいりませんから落第になさい」と書いた。

それを真に受けたのか、まだ20代の若き富豪の加賀は、文豪の漱石の命名案をボツにして、「大山崎山荘」とだけ名付けたのだ。

これを知った漱石は「悪ければ悪いで、あれでは気に入らないからもっと別なのを考えてくれと言えばいいのに」と語っていたそうだ。

おそらく事前に漱石に十分な謝礼でも 前払いしていたのだろうけれど…驚きだ。
加賀はイギリス帰りでキューガーデンに感銘を受けて山荘の造営を思い立ったというから、おそらく同じイギリス帰りの漱石に何かイギリス風の命名を期待していたのだろう。「文豪に命名してもらった」という成金の名誉欲はでなく、イギリス風が欲しかったのだ。
その後の加賀の活動や感性を見ていると、彼は本物の「国際人」だったようで、「イギリス帰り」と言っても中味は明治の文人だった漱石の命名センス(杜甫の詩句や荘子などが出典)には失望したのだろう。

それにしても、漱石の書簡や日記を見ていると、あまりにも自然体で、まるで今の若者がfacebookで日記を書いているようなノリで驚く。鬱っぽい気分も率直に書くし、親近感をおぼえるほどだ。
私は3月末の寒さにうんざりしていたのだが、ある冬、最初に京都に着いた時の漱石は、「日本にこんなに寒いところがあったとは……」みたいなことを書いていて、東京から持ってきた自分の熱がどうなることやらなどと言っているので笑えた。それら全てがしっかりした墨蹟であるのもミスマッチで楽しい。

「今、午後十時です。」とか「現に今書く手紙は」とか、臨場感というか同時性があるのもまるでメールのやりとりみたいだ

ともかく、加賀が、結局「山荘名撰主人意に満たず」としながらも、さすがに別の人にイギリス風の名をつけてもらうことはなく、ただ「大山崎山荘」としたのは漱石へのリスペクトだったのかもしれない。

漱石は大山崎を訪れた翌年に沒し、その翌年山荘が完成した。ちょうど百年前のことだ。
1932年に漱石書簡が表装されて1935年の漱石忌に橋本関雪邸で展示され、その次が2017年の今年(漱石生誕150周年)だそうだ。

いいところに巡り合わせた、と思う。
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by mariastella | 2017-03-30 00:19 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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