L'art de croire             竹下節子ブログ

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ウィーンの話 その25 ガイドブック事情

2ヶ月近く書いてきたウィーンの話、まだ行ったコンサートについてとか、美術館についても書いていないことが多い。このブログを覚書にしようと思っていたのだけれど、なんだか時間に立つにつれてモチヴェーションが下がってきた。

昔は旅に出るたびにノートを持っていて毎日毎日その日のうちに記録していたものだ。
今は、写真だけ取っておいて、後は少しずつブログにアップして…などと思っていると、かえってこぼれおちるものが多い。

そしていろいろな旅を重ねたり、同じ場所でも世紀をまたいで再訪するとその違いに驚いたり、全部が複合的になって、記録よりも一冊の論考を書きたくなってしまう。

細切れな覚書はかえって記憶を風化させるということが分かった。
行ってみれば、外付けメモリーに入れておいたことで安心して本体の記憶にうまく組み込めなくなる。

だからここでひとまず打ち切ることにする。

多くのシリーズが「中途半端」になっていることに申し訳なさ(続きを待ってくれる人もいるので)を感じるが、これまで書いたもののすべてはこれから書くものの栄養となっていることは確かだ。

で、今回のウィーンで驚いたことのひとつにガイドブックがある。

21世紀に入ってから、いやここ数年、ヨーロッパの各地に出かけるたびに、気づかされることだ。

それは、日本語のガイドブックとフランス語のガイドブックのあまりもの違いだ。

同じ国のことを書いているとは思えない、というくらい雰囲気が違うことがある。

昔はそうではなかった。

多分、昔の日本のヨーロッパ観光ガイドブックは、英語圏のガイドなどをベースにしたごく基本的なものだったろうし、フランスのミシュランのガイドブックなどもきっと参考にされていたのだと思う。フランスのガイドブックは今も昔もミシュランのものがあるし、今は、体験者の声を集めた「地球の歩き方」風のものも多くなったけれど、それは予算別みたいな感じがある。バックパッカー用と、カルチャー中心のものと。


ところが、日本は、バブル時代以来、外国旅行者がどっと増えたり、リピーターが増えたり、そして何よりも、今はインターネットのおかげで、誰もが写真入りの紀行文をアップしたりするので、間口がどっと広くなった。

個人がネット上で情報を発するハードルは日本が圧倒的に低い。

そして、それにつれて、もちろん、ガイドブックを製作したり編集したりする側も、何度も何度もリピートして、体験して、写真を撮りまくっているので、なんだか個人のブログと同じような感じになっている。


写真が多すぎ。


食べ物情報が多すぎ。


今回のウィーンのために日本語では「まっぷる」というのと「ことりっぷ」というのを2冊買ったのだけれど、とにかく、ケーキの写真が多い。

「ばらまきみやげはここで買おう」という記事もある。


私は基本的にフランス語のガイドブックを使う。その方が使い勝手がいい。(日本語でカタカナ表記が多いとかえって不便なだけだから)


けれども、日本のガイドブックには日本人ならではの贅沢さやツボにはまる部分があるので参考にすることにしていた。


ところが、まあ、私が目的としている教会巡りや聖遺物巡りについての情報などは最初からあてにはしていないものの、食べ物とケーキ、レストランとカフェの写真入りの詳細な紹介のオンパレードには正直驚いた。


この傾向はなんだかだんだんひどくなっている。


日本語ガイドブックのパリ観光のものは見たことがないので分からないが、ウィーンのものと同じように、レストランやカフェやお土産物の写真満載なのだろうか。

これだけでちょっとしたカルチャーショックだ。


さすがに、日本の観光地や寺社巡りなどの日本語のネット情報にはコアなものもあって参考になるのだけれど、例えばウィーンって、もうシュニッツェルかザッハートルテばかりで、モーツアルトとシュトラウスとクリムトとシシ―(皇妃エリザベト)がいろどりとしてあるだけ、みたいな印象だ。


日本の観光客にとって、ウィーンもパリもロンドンも、似たようなものではないかという気さえする。


バロックバレエで久しぶりにエリカに会ったので、ウィーンとプラハとドイツのバロックの違いについて最近考えたことを少し話した。


思えば、プラハに行ったときはもちろんエリカにアドヴァイスしてもらったので日本語のガイドブックは買わなかった。今度ウィーンのものを買ったら、ウィーン、プラハ、ブタペストは三つでセットになっているのだ。


ウィーンのことをエリカと話すと刺激的だ。

先にもっと聞いておけばよかった、と少し後悔。

(エリカはチェコのソリプシスト、ラディスラフ・クリマ研究の第一人者です。クリマについては『無神論』p264で少し触れました。このブログでもソリプシストKで検索すればいろいろ出てきます。ここなど


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by mariastella | 2017-09-25 03:17 | 雑感

ユヴァル・ノア・ハラリ式気楽な生き方

『サピエンス全史』で有名な歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ は新作『Homo deus』で未来論を繰り広げている。

結構希望を持たせてくれる楽観的なことも書いているのだけれど、なんだかなあ、とも思ってしまう。


L’OBSno2757のインタビューを読んで少し微妙な気分になった。

例えば、フランスで暮らしている私にはいつも金正恩のミサイルならぬダモクレスの剣みたいに気になるテロリズムについて、こう言い切る。

2000年に入ってから今まで、EU全域でテロの犠牲者は平均すると年50 人。

それに対して、交通事故による死者の数は平均して年8万人。

肥満と糖尿病による死者でも5千人。テロ攻撃で死ぬよりコーラを飲み過ぎて死ぬリスクの方が大きいんですよ。

テロリズムは何よりも一種のショーです。

人の恐怖を掻き立て、それを鎮めるために国家は過剰防衛をしてみせる。

象の耳にハエを入れて陶器店に入れたら暴れてすべてを破壊する。

アメリカという象の耳にテロを仕掛けると世界を破壊して回る。

過剰反応はテロより怖い。実際のリスクに見合って冷静に扱えばテロリズムはなくなる、


と。

ううーん、言うことはもっともでもある。

でも、ということは、交通事故を減らすためのキャンペーンとか標識や道路の整備とか、安全性の高い車の開発とかの方にテロ対策の千倍以上の予算を費やすというのは多分不可能だから、テロ対策の予算を今の交通事故対策予算の千分の一にしろということなのか?

テロリストの巣屈を無人機で「空爆」するとか、テロ対策の警備パトロールを増やすとか監視カメラを増やすとか持ち物検査を厳格にするなどの「ショー」的な対策をやめて、紛争地域での貧困や差別の解消に協力するなどの地道な対策に特化しろということ?

このハラリさんは絶対に肉を食べないし、テクノロジーの発展で肉が動物を殺さずに合成で作られるような形の「進歩」を夢見ている。2013年に実験室で作られた最初のハンバーガーは33万ドルの開発費がかかったのが今は11ドルでできるというから、家畜を殺すような産業は近い未来になくなるだろう。

自由とは好きなものを手に入れることだなどと信じさせたのは資本主義だ。これからは内的自由と「意識」を高めなくてはならない。

と、ある意味で引き算の思考でもあり、実際、スピリチュアル系であるそうだ。

でも、スピリチュアルな部分と、統計の数字を並べて納得させる部分との流れがなんとなく不自然だ。

テロと交通事故と糖尿病は比べられないだろ、とも思う。

こういう言説を「意識の高くない状態」で読むと、自分の保身と長生き志向に意識が傾いてしまう。

そういえば、ジェフリー・S・ローゼンタールの『運は数学にまかせなさい』(ハヤカワ文庫ノンフィクション)を思い出した。メディアのウソを見抜く回帰分析などを紹介して、確率・統計論で人生を賢く生きる方法の本だ。

人生で起こることはランダムで、まあ、情報の多くは陰謀論と同じで誰かが得をする罠なのだから、気楽に生きた方がいいよ、というポジティヴなメッセージの記憶がある。でも、今確認していないから分からないが(同じころに読んだ同じシリーズのマーク・ブキャナンの『歴史は「べき乗則」で動く』だったかもしれない)、ひとつ心にとめたことがあった。確か、数多くの保険商品は確率論から言うと無意味で不要だけれど、火災保険だけは、どんなに確率が低くても、起こる可能性はゼロではないし、起こった時の損害や責任は普通の人の全財産でも償えないほどの膨大なものだから、かけておく必要があり、義務がある、という話だった。

それを思うと、パリの街でテロに遭遇しても即死とは限らないしフランスなら国家がケアしてくれるけれど、北朝鮮が日本の米軍基地に核爆弾を打ち込んだりしたら、その確率がどんなに低くても、壊滅的被害になるのだから、「恐怖を煽る」ことを誰かが利用していても、無視することはなかなか難しい。

「賢明な技術とは何を見過ごすかを見極める技術だ」(ウィリアム・ジェームズ)という言葉をもう一度、反芻してみよう。



付録。今日のニテティスブログです。




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by mariastella | 2017-09-24 05:49 | 雑感

国連総会での首脳演説 トランプとマクロン

日本でも国連におけるトランプの「北朝鮮破壊」のような強気発言が報道されていたけれど、なんだかもうこの人の品のない過激ぶりに麻痺してしまった。


フランスではもちろん、その後の演説でマクロン大統領が環境保護や弱者救済をエレガントに語るのが何度も映されて、オバマ大統領を思わせるとか言われた。

トランプの時代だからそのコントラストが際立って、ある意味で得しているかもしれない。


その上、イギリスのEU離脱が決まっているから、国連の安全保障委員会の常任理事国の中で、フランスは唯一のヨーロッパの顔となる。


米、中、露、英、仏。


経済的には今のロシアは弱いが軍事大国だし、英と仏が分かれると、イギリスが過去の帝国主義の盟主、フランスは団結したEUの代表、と見えるから、これもイメージ戦略的には悪くない。


経済的な覇者であるドイツは、こういうところでは、日本と同じくやはり第二次大戦の敗戦国というレッテルから逃れられない。


この安全保障「五大国」、いずれも核兵器所有国だから、北朝鮮でなくとも鼻白むが。

で、このマクロンの、一応「フランスらしい」、アメリカに盾突く発言だが、それを評して「地球という人類の集合住宅の管理組合(国連)の自治会会長」のスタンスだと言った人がいた。

悪くないたとえだ。

最上階に住み自分ちだけリフォームしてセキュリティシステムや耐震設備を整えている金持ちが自分は管理組合なんて無視してもいい、と言ったとしても、

建物全体のメンテナンスが放置されれば、害虫や害獣も忍び込むかもしれないし経年劣化もあるし、いつか土台から崩れるかもしれないのだ。

余裕のある居住者が金を出し合って全体を支えたり、孤立した居住者のケアをしたりした方が最終的には建物全体の健康寿命を延ばす。


そのようにスケールを変えて考えてみると、先日読んだ『プラチナタウン』も別の視点で見えてきた。


あそこで語られた赤字財政、過重負債、過疎化、少子化、人口の老齢化、介護の問題など、実は、「日本の中の一地方都市」の問題ではなく、「世界の中の一地方都市」である日本の縮図だと言えるのではないだろうか。

あの本では、日本の中の「都会」と「田舎」の格差だとか人口の偏りとかが語られているが、地球全体をひとつの国としてみたら、まったく同じようなことが起こっているわけで、日本はまさに、もうすぐ、「公共事業をやり過ぎて立派な施設がいたるところにあるが負債は膨らむばかりで消費は伸びず人口減の進む地方都市」のようなものだ。あの本にあるように世界中の各地へのアクセスは飛躍的によくなっているから、富裕者は、シャッター街になった日本を捨ててもっとリッチな場所に移住していくかもしれない。


そんな「地方都市」日本の再建のカギは『プラチナタウン』にあるような福祉政策かもしれないし、それを地球規模で考えて、地球集合住宅の自治会で積極的に全体の運営対策に参加することかもしれない。


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by mariastella | 2017-09-21 02:30 | 雑感

エドガー・ブレグマンとマクロンの「改革」

フランスではマクロン政権の支持率を一気に下げた労働法改正案が一応のまとまりに達した。今のマクロン新党絶対多数の議会では「強行採決」だって可能だが、そこは、どこかの国と違って、議会にかける前に主権者に徹底的に説明して理解してもらう、と首相が言っている。

確か、9/23にはメランション主導の大規模ストが予定されているはずだ。


フランス人労働者の半数が属しているという中小企業(社員250人以下)の経営者や多国籍企業にとってはより効率的で「やりやすい」方向になっていると歓迎されている。


私はそもそも「経済成長ありき」の考え方そのものに賛成できないので、暗澹としている。


でも、フランスよりずっと「改革」が進んで失業率が低いはずのドイツでも、年金の平均が月1100ユーロだそうで、年金だけでは暮らせない人々が高齢になっても結構ハードな非正規労働に従事している人たちが紹介されている番組を見た。病気になったらどうなるのだろう、と不安を口にしていた。

こういうのを見ていると、大統領選の予備選に勝ったのに本選では惨敗した社会党のブノワ・アモンが唱えていたユニヴァーサルなベーシック・インカムをのことを考えてしまう。彼は非現実的だと右からも左からも叩かれていた。

でも、ブノワ・アモンだけではない。トマス・ペインやミンカム運動や、そして最近では若きルトガー・ブレグマンのこともしきりに頭に浮かぶ。

で、ブレグマンの日本語表記は何だろうと思って今検索してみたら、なんと、『隷属なき道』というタイトルで文藝春秋社から訳本が出ていて、出版記念に日本で講演までしていることが分かった。


彼は「昨日のユートピアが今日の現実」になるという歴史を通して、今ここでユートピアを目指すことの意味を説く。「現実主義」に立脚していては環境破壊や格差の増大など、むしろマイナスの側に滑り落ちるからだ。


この見方は私の見方と一致している。


それにはまず、この世界で、自由度、平等度が高まり、あらゆる人が尊厳を持ってそれぞれの人生を全うできる可能性が増大すること、が、進歩であり善であるという認識が共有されていなくてはならない。


自由主義や民主主義は「西洋から押し付けられた価値」だから「日本本来の伝統価値」に戻ろう、などという言説は今でもある。

それは間違っている。「西洋」だって今の価値観をいろいろな失敗と反省から抽出してきたので、決して「伝統的」などではなかった。伝統的なのは古今東西、父系制維持のエゴイズムだ。

「自由・平等・博愛」など、主流秩序(アメリカの白人だとか、金融業の成功者だとか、軍産業者とか)にいる人たちにとっては十分に不都合な「押し付けられた」価値観である。

その価値観に基づく世界の実現など程遠い。


それでも、その価値観を共有したからこそ、形だけでも奴隷制は廃止したし、形だけでも植民地は手放したし、形だけでも男女同権を実現したし、社会保障を制度化した。ともかく「昨日のユートピアが今日の現実」になっているのだと若いブレグマンが評価してくれるということは、まだまだ希望を捨ててはいけないということだろう。


「労働法の改正」と言っても、私の同世代の人たちは多くが定年後の年金生活者なので、資産のある人たちは世界中を旅行して楽しんでいる。

ベーシック・インカムがあれば人は自分のやりたくない仕事を斥けることができて、自分に向いた仕事に挑戦できるのだも言われる。

「労働」とは「生産」なのか、「生活の糧を得るための営み」なのかとあらためて考えてしまう。

年金で暮らしていける人々には「労働から解放された」と「自由を謳歌」するスタイルをとる人が多いからだ。

そんな人たちを身近に見ていると、毎日「仕事」している私は複雑な気持ちになる。

「好きな仕事をしている」と言われるかもしれないが、「仕事」と名がつけば必ず負荷があり、自己管理も必要だし、楽しくてしょうがないという気分でやれるわけでもない。私の周りの人が「悠々自適」というのをやっているのになぜ私だけそれこそ貧乏くさく禁欲的な作業をやっているのかなあ、とふと思うこともある。


新約聖書にぶどう園で日雇いされる労働者が、夜明けから働いた人も午前九時から働いた人も最後の一時間だけ加わった人も夕方には同じ額の支払いを受けたので、労働時間が長かった人が文句を言った、という有名なたとえ話がある。(マタイ20, 1-16)

支払う側は、最初に合意した条件を守ったのだから文句を言われる筋はない、と言う。

この、ブドウ園の給料がベーシック・インカムなのかもしれない。

そしてベーシック・インカムを想像しただけで不当感を持ったり、搾取されていると感じたり、嫉妬したりする人が必ずいることもこのたとえ話と同じだ。


キリスト教や福音書は「欧米」のお話ではない。

二千年前のパレスティナの話だけれど、いつも革命的で、いつもシビアだ。


仕事って、何だろう。




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by mariastella | 2017-09-02 05:07 | 雑感

バルセロナのデモ行進

8/26のバルセロナでのアンチ・テロリズム行進をテレビで見てやはり、ここはすごくカタルーニャだなあと思った。
カタルーニャの旗の色(白、赤、黄色)の花を配っているし、プラカードや横断幕の「私たちは怖くない」というのもカタルーニャ語で書かれている。

スペイン王も行進に加わったのだが、カタルーニャ自治州の分離独立派から野次をとばされていた。

バリで2015年の1月にアンチテロの行進があったときは、フランス全土で同時に行進があったし、大統領が率先して各国の首脳に呼びかけて集めたし、メイン・テーマが「表現の自由」(シャルリー・エブドの襲撃の後だったので)だったし、フランスってやっぱり中央集権国家で、大統領国王制の国なんだなあとあらためて思う。

まあバルセロナの場合は、現場が観光地の中心でバカンス中で、国際色豊かで、26日は8月最後の週末で天気もいいし、観光客もまだたくさんいるし、この行進が盛り上がるのも分かる。

2015/1のフランスの場合はシャンゼリゼが狙われたわけではなく、風刺週刊新聞の編集部というコアな所とユダヤ食品店の立てこもりや警官殺害などで、その10ヶ月後にカフェやコンサート会場の無差別テロが起こるとはまだ予想していなかったし。

ベルギーやオランダでも続いてテロやテロ未遂があり、本当に物騒だ。

でも、なんといっても2024年オリンピック開催のパリだから、もう今後テロはないかのようなふりをしている。実際、今年は観光客も戻ってきているらしい。

そういえばフランスはリヨン・オリンピックとかボルドー・オリンピックとか、マルセイユ・オリンピックとかはない。パリ一強の中央集権ぶりがここにも表れる。
スペインのオリンピックもバルセロナだった。公用語もスペイン語とカタルーニャ語だった。マドリードは2020年に立候補して東京に敗れている。

テロリストたちはヨーロッパの国によって「戦略」を変えているのだろうか。

ともかく、国によってアンチ・テロリズムへの反応が微妙に違うのを観察するのは興味深い。

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by mariastella | 2017-08-28 01:43 | 雑感

バルセロナのテロ その後

カタルーニャのテロの実行犯がバルセロナからそう遠くないところで射殺された。


前日まで、フランスでは、フランスに逃げたのではないか、EUのシェンゲン条約で国境がないのが悪い、国境審査を再開しろ、などと、また、「国別」の感覚で騒ぐ人たちがいた。フランス国籍を持つ移民の子孫のテロリストがいくらでもいることを誰でも知っているのに。


スペインは「イスラム国」への爆撃ではあまり存在感がないのに、モロッコとはすごく近いからやはり危険なのかなあ、と漠然と思っていたけれど、カタルーニャの地方都市アルカナルで120発もの爆弾を調達していたテロリストグループが「過激化」したのは、その爆弾の誤爆で家ごと命を落としたイマム(ベルギーから来た?)に故郷の村で効果的に洗脳されたからだそうだ。


彼らの生まれ育ったのはピレネー山麓のリポイという小さな町で、ベネディクト会修道院の遺跡が中心にあるところだ。そこには500人くらいのモロッコ人コミュニティがあるそうで、ごく普通に暮らしていたようだ。そこにやってきた過激派のイマムが青年たちを洗脳してしまった。イマムはベルギーに本拠地があったフランスのテロの起こった2015年にフランスやベルギーに滞在していて、今回も同じ爆薬を準備していた。


どうして短期間に普通の青年がイスラム過激派に洗脳されるかというと、シリアの子供たちが爆撃で死んでいくなどの映像を見せて感情に訴えるという定番ほかに、スペインがもとはイスラムの地で、カトリックに征服された、という理屈も使われるそうだ。

なるほど。

レコンキスタというやつで、まあ「再征服」で、もともとイスラムの方が後発宗教であるわけだが、ピレネーに住む若者たちには衝撃的な分かりやすい「聖戦」へのモチヴェーションなのかもしれない。


日本のメディアには、今回も、相変わらず、日本も安全ではない、同じリスクがある、というタイプの見出しがあったけれど、少なくとも日本にいるムスリムのコミュニティでは、今回のレコンキスタ・タイプの煽動は不可能だろう。

やはり歴史的な確執があって距離も近い中韓北朝鮮との問題の方がずっと深刻そうだ。


テレビではEUFBIを作る必要があると言っていた。

2015年のパリのテロも、ベルギー、アテネと渡り歩いていたテロリストが、どこでも国境を越えたら監視から外れていたので、もし相互の情報交換がなされていたらパリのテロは防げたといいきる専門家がいた(カルト監視役として私のお気に入りのGeorges Fenech)。

いや、情報を水平方向に交換するのではだめで、やはりすべてをセンターにまとめて、各国がそこから情報を引き出せるようにすべきだと。

実際は、フランス国内ですら、監視網がパリとパリ以外に別れていて、危険人物がパリを出たら、そこで監視が終わってそれが別の監視網に申し送りされないという驚きの実情なのだそうだ。

根本的にメンタリティを変えないと、各国間の連帯などできない。


5eyes体制でアングロサクソンの連携情報網に強いイギリスが、Brexitの条件の交渉で、イギリスのメリットを残してくれないならテロリストの情報の協力をしない、などとセキュリティを交換条件に持ち出したことに対してEUもイギリス内部でも批判が起こったことは記憶に新しい。

でもロンドンだって続けてテロに見舞われたし、その共同体主義が結果的にテロリストを守る盾になっていることもよく知られている。

また、どの国でも、「普通の人」が自宅でインターネットを見て洗脳されて一匹狼で車や刃物を使ったテロに走るとしたら、これも防ぎようがない。


「イスラム過激派のテロ」でなくとも、精神的に異常をきたして銃を乱射したり車で突っ込んだり、ひどい場合は自分の操縦する飛行機を墜落させたりする人だっている。威嚇的な軍事演習をしたりミサイル実験を繰り返したりする権力者もいる。


『猿の惑星』のように、せめて「人は人を殺さない」という基本ラインが普通にリスペクトされる世の中が来るといいのに。


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by mariastella | 2017-08-23 00:58 | 雑感

リー将軍の銅像をめぐる騒ぎを見て思ったこと

ヴァージニア州のシャーロッツビルにあるリー将軍の銅像の撤去をめぐってアメリカの白人主義が話題になっている。

私にとってリー将軍というのはアメリカではどうなのか知らないけれど、フランスのクロスワードパズルでよく出てくる言葉だ。


すなわち「南北戦争の将軍」というヒントで三文字が「LEE」である。

( 日本語でよく出てくるのは「OBI」「ISE」「ASO」。「ゲイシャが喜ぶ芝居」=NO(能)」というのも定番。ここでゲイシャというのは日本の言い換えに過ぎなく、ただ「日本の演劇」で二文字のものということだ。「英語の否」のNOというヒントよりはひねっているわけだけれど、クロスワードをするフランス人なら「能」がどんなものかを知らなくても簡単に解ける。)

で、私にとって、LEE将軍ってクロスワードパズルの穴埋めだったのが、今回の事件でしっかり顔や所業と結びついた。


彼自身は個人的に奴隷制に反対していたという話も聞く。

でも、フランクリンらもそうだけれど、その時代の主流秩序の中で生まれ育った人たちが、その価値観を覆すような生き方を表明するのは、特に公人の場合難しい。それなりに周囲を説得したり、賛同する仲間を忍耐強く集めたりという準備がいる。

キリスト教は、それが生まれた世界でまったく異端で革命的ですらあった価値観を導入した(だからイエスは処刑された)。その後歴史の長い回り道と試行錯誤の末に、その「自由、平等、博愛」をベースにして、あらゆる人間は肌の色や信教や性別、社会的立場などに関係なく権利において平等であり、同じ尊厳と安全を保証されるべきだという近代の人権主義が生まれた。

私はその世界で育った。だから、それまでは生まれた時代と場所によってさまざまに変わる主流秩序の中で支配構造に組み込まれてきた人類が、どんな弱者でも個としての等しい尊厳を持ち尊重されるべきだという(少なくとも)理念に到達したのは「進歩」だと考えている。


どこでもたいていは弱者の犠牲を想定して成り立っている主流秩序の中で、弱者が強者に反旗を翻すのは難しいし、強者の側にいる人が、人権主義の実践に到達するのも難しい。


でも、近代の人権主義に至る戦いの中で、もともと前近代的な主流秩序の中にいてその主流秩序を守るべきポジションにいた人がその戦いに負けた時に、スケープゴートにされた後て、いつまでも「悪」というレッテルをはりつづけられるのはきびしい。

例えば、アズテカ文明など、神に人身御供を捧げるような文化が主流秩序をなしていたところに、少なくとも神への生贄を廃止していたたキリスト教徒が入っていく。そして、アズテカの主流秩序は野蛮であり許せないと言って、そういう風習を廃止する。そのことによって、次の年に生贄になっていたかもしれない人の命が救われたかもしれない。だから、人権思想の大きな流れの中でそこはポジティヴだ(その後でキリスト教徒が神より経済利益を重視して先住民には魂がないと言って虐殺するのはまた別の話だ)。

で、その時に、侵略者と勇敢に戦って負けた先住民のリーダーがいたとして、その銅像が建ったとしよう。そのリーダーは、歴史の文脈において主流秩序の伝統を担っていただけだ。生贄復活を唱えるためでなく、その「人物」を記念し、歴史を記憶するために銅像があったとしてもおかしくはない。それを無理やり撤去すると別のイデオロギーになる。

ドイツでは絶対に公にヒットラーの銅像が存在することはない。なぜなら、彼は自分の独裁によって都合の良い秩序を唱えただけで、その前からあるキリスト教のもとの教えやら啓蒙の世紀、近代革命から少しずつ「進歩」して合意されてきた「人権尊重」の普遍主義を「意図的に侵害した」からだ。


一方、フランスでは、革命で否定されたブルボン王朝の王侯貴族の銅像も、その後の皇帝ナポレオンの銅像もある。

ブルボン家の王たちは、たまたま王家に生まれて当時の主流秩序にのっとった生き方をしたから、その秩序が後世から否定されても、彼らの人格までは否定されない。

ナポレオンはある意味では独裁者、帝国主義者ともいえるし、他のヨーロッパ諸国から「制裁」された存在でもあるが、フランス革命を「完成した」という政治的評価を受けているので、人権を顧みない絶対王権に舞い戻ったわけではない。

その理屈で言うと、リー将軍は、独立宣言の後の時代だとはいえ、彼の時代の主流秩序の中で与えられた役割を果たしただけで、「率先して旧弊に戻った」わけではない。

「自由・平等・博愛」をベースに殺し合わずに尊重し合って共生するという価値観は、社会進化論的に無理があるのかないのかは難しいところだ。

でも、大量の死者を出した近代戦争の惨禍や核兵器の危機を認識した今の国際社会では人類サバイバルのための一応の合意となっている。

それが一応の合意となるまでの長い道のりの中で、それに反する主流秩序の中で生きたリーダーたちは、確信犯の独裁者とは違う。


ほおっておけば複雑系の事象を善悪二元論で切って捨てがちな私たちにとって、「情状酌量」というのは、、ひとつの「智慧」だと思う。


今生きている私たちは誰でも、延々と生命を伝えてくれた先祖たちの子孫だ。その先祖たちには、生存戦略として、他者、弱者の命や尊厳を奪って生きのびた人などたくさんいると思う。

そのことの「悪」(すべての人が尊厳を持ってその生をまっとうできること、を、意図的に阻害することをここでは悪と呼ぶ)について思いをはせたり反省したりするのは必要だろう。でも、本人の意思に関係なく運よく主流秩序のマジョリティに生まれたからそれを利用して生きたり生きのびたりしてきた「人」そのものを裁いたり否定したりする権利は誰にもない。

もっともこのブログにもプーチンと聖ウラジミール銅像のエピソードを書いたことがあるように、権力者が突然自分に都合のいいイコンを銅像にして持ち出すことは珍しくない。

ナポレオンの像やジャンヌ・ダルクの像の使われ方についてもこれまで述べてきた(『ナポレオンと神(青土社)』『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活(白水社)』。


罪を憎んで人を憎まずというのは実際はなかなか難しい基本だ。

「人」を銅像化して偶像崇拝することで「罪をなかったことにする」方がずっと簡単かもしれない。だとすれば、人間が進歩した証としての自由・平等と人権思想の普遍主義をプラグマティズムの名のもとに看過することなく、そこから退行しないように常に意識していなくてはならない。

本当に弱い人は常に淘汰されてきた。今ここに生きている私たちは、歴史のどこかで強者に与して弱者を踏みにじって生きのびてきた人たちの子孫なのだろう。

その意味で私たちはみな差別者、強者、または強者への追従者を先祖に持つ。

その先祖の銅像を拝むことも辱めることもしたくないが、そうして命を受け継いできた者として、みなが、自分の代で少しでも他者を排除しない共生の道へと舵を切る努力をすることが「先祖」の供養ともなるのではないか。


アメリカ南部の話だけなどでは、ない。


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by mariastella | 2017-08-20 06:12 | 雑感

ウィーンの話 その8   神の家のコンサート

ウィーンではほぼ毎晩、コンサートに行った。

パリでは、パリジャンたちがみなバカンスで留守の夏の間、地方のバカンス地でいろいろな音楽フェスティバルがあるのに、「観光客」を意識したコンサートなどが毎日教会であるというようなことはない。

教会のコンサートはやはり復活祭とかクリスマスとか教会の行事と結びついている。

考えてみたら、ある意味では「パリ観光」に売り物の音楽というのはパリにはない。
イメージとしてはムーラン・ルージュでフレンチカンカンというくらいだろう。

観光客が団体でドビュッシーとかラヴェルとかサティとかの音楽を聴きに来るというイメージはない。

フランス人作曲のフランス語オペラの『カルメン』だってスペインが舞台だし、逆にせっかくパリが舞台の『ラ・ボエーム』や『椿姫』はバリバリのイタリア・オペラだし。

ウィーンはベニスやプラハと同じで、もうとにかく毎日どこでも観光客ご用達のコンサートをやっている。
もちろん、モーツアルトにヨハン・シュトラウスという「目玉商品」がある。

でも、驚いたのは、そういう観光客ご用達のコンサート(私ももちろんそれに行ったわけだが)の観客の多くが中国人だということだ。

はじめ、アウグスティーナ教会のオルガンと管弦楽と歌のコンサート(ファティマの聖母に捧げる曲がメイン)に行った時に驚いた。

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こういう高みで演奏されるので、聴衆は演奏者に背を向けることになる。ちょっとフラストレーション。

午後に同じ教会に入った時、蝶ネクタイの男性が座って熱心に祈りを捧げていた。
それがその夜の指揮者で作曲家でピアニストのペーター・リッツェンだった。
夜の切符を買ったが、教会はがらがらだった。

その後、コンサートの30分ほど前に来ていると、中国人の団体らが押しかけていた。しかも、先ほど祈っていた指揮者が、すぐに入場させないように、と言っているので入り口で塊になっていたのだ。
教会なんだから、入るのを拒否するなんて変だ。しかもみなもうチケットを買っているのに。

で、その後ようやく入らせてもらえたが、確かに中国人が3割くらいいるような印象だ。
私の横の中国人のふたりの少年は熱いのに白シャツに揃いの紺の上着をきっちり身に着けていた。

全体にそこにいた中国人は身なりがいい感じだった。暑さもあって、ヨーロッパ人はTシャツにバミューダにサンダルいうのが多い。別にミサに出るわけでないから注意もされない。

その後、祭壇のマイクで、主催者らしい人が出てきてドイツ語であいさつし、その夜の管弦楽団と指揮者と曲目の紹介をした。ところが、その後だ。

蝶ネクタイの指揮者がそこに来て、今度はいきなり英語で話し始めた。

「中国人のみなさんのために英語で話します」というのだ。

その後、何を言ったかというと、

「ここは神の家 house of Godです」と何度も何度も繰り返し、

「だから大声を出さないように、拍手もしないように」

というのだ。厳しい顔をして。

驚いた。

その後に申し訳程度にドイツ語で一言、「ではお楽しみください」的なことを言ってから、後ろのオーケストラのいる場所に行った。

その時、これはあまり失礼ではないか、差別主義者ではないか、と気分が悪かった。
コンサート自体は悪くなかったけれど、ホテルに帰ってからリッツェンを検索したら、フランドルの人で61歳、中国で何度も公演していて、上海フィルと共演してチャイニーズレクイエムという録音もしている。

では、ただなんとなくアジア人に偏見、差別を持っている人ではなく、むしろ、中国人は「お得意様」ではないか。

それなのになぜあんな失礼なことを?

午後ずっと祈っていた姿からすると本人はすごく敬虔なカトリックで、彼にとって演奏も神の家で神に捧げるという宗教行為なのかもしれない。

それにしてもなあ、と思った。
この中国人たちの中にもカトリックの人がいるかもしれないし、宗教の場所を自然にリスペクトする人がほとんどではないだろうか。中国は、ローマとつながる隠れカトリック信徒の数だけでも日本よりはるかに多い(人口の絶対数が多いこともあるが)。

その謎はその後なんとなく解けてきた。(続く)



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by mariastella | 2017-08-19 03:12 | 雑感

原爆と東京裁判

8/8の夜、Arteでヒロシマのドキュメンタリー番組と東京裁判のドキュメンタリー番組をやっていた。

私は東京裁判の実写フィルムを見たのははじめてだったので印象深かった。

1983年に『東京裁判』という映画が日本でできていたのも知らなかったが、Youtubeでもいろいろ見ることができるのが分かった。(その後、延々と見ている)

今回のテレビでは、大川周明がパジャマを脱ぎかけてとめられたり、東条英機の頭を後ろから叩いたり、それを見た判事たちが困惑している様子などが映っているのを見て驚いた。東条らが処刑された後で大川周明が元気で病院から出てきた写真も紹介されていた。

東条英機が疲労のせいか、天皇の言葉には誰もさからえない、とうっかり言ってしまったので衝撃が走り、天皇の戦争責任についての風向きがかわりそうになり、判事たちみながあせって、次の公判で前言を撤回するチャンスを与えたシーンも興味深かった。

傍聴席の東条の妻子の姿も映されていた。

結論部分は、当時の日本人は生きのびるのに精いっぱいで誰も実は天皇の運命にたいして関心を持っていず、天皇の存続を望む人は16%くらいしかいなかった、でも、結局天皇に責任がないということになったのだから、天皇の赤子であり天皇の臣民であった一般国民にも、軍部がした残虐行為などの責任はないから謝罪する必要もない、なかったことにしていいとなったのではないか、となっていた。

ドイツ人とヒットラーやナチスとの関係とはだいぶ違う。

そういえばイタリアではムッソリーニの生地で墓もある町が、巡礼地のようになっていて、グッズを売る店も繁盛していて、ファシズムを擁護するような活動を規制する法律がもうすぐできるので、店の主人が困ると言っている記事を最近読んだ。


ドイツのような徹底した規制は今までなかったわけだ。


ヒロシマのドキュメンタリー番組ではアメリカでの報道の変化などが興味深かった。

闇市を暴力団、やくざが仕切るようになったこと、孤児たちが食べ物を得るために簡単に暴力をふるい、モラルなどはなかった、少女たちは暴力団から保護されていたが、やがて200人ほどが姿を消したので売られたのだろう、などという証言もあった。政策にNHKの名もあったから日本でも放映されたものなのだろうか。


その後もYoutubeで日本の原爆に関するドキュメンタリー番組を視聴した。

私は「文字情報」偏重の人間だけど、やはり「生身の人」の声による証言のインパクトは大きいし貴重なものだとあらためて思う。


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by mariastella | 2017-08-11 02:22 | 雑感

広島忌、自衛権、自然法

きょう(日本時間ではもう昨日だが)は「広島忌」だったので、ブログ「広島の心を世界に」を読んだ。被爆72周年原水爆禁止世界大会の報告には胸が詰まる。

その少し前の記事に、憲法学者の石河健治教授の講演の要旨があり、興味深く読んだ。

四部からなる。

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-85b4.htm

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-2c15.html

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/9-4-b38a.html

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4d59.html

この中で「財政によるコントロール」という視点に最も注意を喚起された。

今はイデオロギーも政治も平和も「金」に裏打ちされている世界であるからだ。

執筆中の「神・金・革命」の中でも考えているところだった。


しかし、この講演の論旨の中で足りないところも大いにあると思った。

ヨーロッパ大陸での戦争の歴史と、冷戦によって歪んできた「国際法」の実情だ。


で、この前、ドイツには個別自衛権がないと書いたが、そのことについて詳しく調べてみようと思ってネットをサーフすると、非常に面白い二つの論文に行き当たった。ひとつはフランスのもので、

グルノーブル第二大学のティエリー・メニシエ「自衛権の歴史-- 国際法の《現実的残基》 ?」

というもので、もう一つは少し古いのだけれど、1970年代の西ベルリン大学国際法学、比較法学研究所教授で所長のWilhelm WENGLER という人による「戦力行使禁止の問題と傾向」というものだ。


私は日本における個別自衛権の問題と集団的自衛権の問題の議論で分からないことがいろいろあった。日本では集団的自衛権の行使、即、アメリカの戦争に自衛隊を派遣する、かのようなイメージだったからだ。それと比べると、同じ「敗戦国」ドイツが集団的自衛権しかないというのは、NATOEUや国連の枠内でしか軍を出せないことなのか、確かに、ドイツが隣接するヨーロッパ諸国から軍事攻撃をされるという可能性はゼロということだからなあ、などと思っていた。ドイツに個別自衛権を与えたら、また全体主義的領土拡大に向かうかもしれないと牽制されているのだろうか、と。

それに比べたら、日本は島国なんだから、個別自衛権だけで外に出ていきさえしなければ鎖国時代の平和が証明しているように平和なんでは? いや、すでに「鎖国」がたちいかなくなったように、今の時代はどこからミサイルが飛んでくるか分からないんだからそんなことは言っていられないんだし…。などとも。


で、歴史を紐解けば解くほど、


知的な考察は大昔からレベルが高く、

実態は、大昔から、フランス語で「校庭の喧嘩」と呼ばれるレベルの力比べと支配を拡大するエゴイスティックな欲望の繰り返しだ。


今のフランスだって、ジャン・ボダンが言ったように「ひとつの共和国の絶対で恒久的な力」を主権としているのだ。

絶対、とか恒久的、とかいう言葉が出てくる時点でもうそれはある時代のある共同体のエゴの表現でしかない。


1945/6/26の国連憲章51条の軍事力行使の原則禁止なんて、すぐにアメリカによるレバノン、ベトナム、ニカラグアへの派兵、ソ連による1969年のプラハ侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻、などの口実となっただけで、必ずしも国連の承認など得ていない。

1967,1975,1981年にはイスラエルが予防的自衛権を唱えて、アメリカもイラク派兵にそれを使った。こんな風に勝手に使い回される「自衛権= 正当防衛」論には、それ自体の起源に「逸脱」のもとが含まれているのだろうか。

すでに、人は誰でも自分の命や財産を守る権利がある、という「自然権」思想そのものの出発点において対極的なヴァージョンが存在した。


理想主義ヴァージョンと現実主義ヴァージョンだ。


理想主義ヴァージョンは、キケロが明文化したもので、ギリシャ思想の中にすでにあった文書化されていない自然法に基づく。ローマ共和国の終焉から独裁政治のストラクチャーの移行という危機の時代の中で、キケロは、独裁を非合法であり不当なものであると見なす根拠として、目に見えない自然法の道理を持ち出した。

それに対して、現実主義はプラトンの時代からあって、神々の世界であろうと人間の社会であろうと、「強いものが命令する」という自然法がある、としている。それは太古から存在する法で、誰でもそれに従うものだ、と。

これって進化論の弱肉強食の選択淘汰に通ずる直感のようだ。


で、実際は、「自然法」や「自然権」の思想はその両極の間を揺らいできて、現実には、その時々の「力」を蓄えた覇権主義者によっていいように使われてきたわけだ。


国連憲章の平和共存や、戦争禁止の各種条約も、今や、「人類全体のサバイバル」を視野に入れない限り意味がないし、主権国家がそれぞれ、それに沿う具体的な法律や条令をつくったり行使したりしない限り、真の安全や平和に到達することなど不可能だ。


「総論」としての「平和共存」と「戦争の放棄」には何とかたどり着いているのだから、今さらそれをいじくりまわすのも不毛である気がする。


そういえば、(6/10)の『朝日新聞』朝刊「声」欄の投書というのをネットで読んだ。


>>>「教育勅語」切り売りは無意味

無職 花輪 紅一郎(東京都 67

 「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」の四つは、仏教の五戒と旧約聖書の十戒に共通する徳目であり、万古不易の人の道の基本と言っていい。

 近頃、「教育勅語」には時代を超え、世界に通用する道徳があると持ち上げる人たち がいるが、この四つが含まれていないことをご存じだろうか。逆に、勅語の1丁目1番地 である冒頭の「君への忠」をなぜ無視するのだろうか。

 教育勅語は「君への忠」から始まり、「皇運扶翼」まで一貫した徳の体系の中に他の 徳目を組み込む構造になっている。「兄弟仲良く」したり「学を修め」たりするのは何の ためか、究極の目的を抜きに個々の徳を切り売りしても意味はない。勅語の核心は、すべては「ために命をなげうつ忠誠心を持った人になることだ。そこに「殺すな」や「盗むな」は入り込む余地はなかったのだ。

 もし人命尊重や略奪禁止を掲げていたら、侵略戦争や日本兵の残虐行為はなかっただろう。人の道の基本を抜きに、天皇への忠誠心のみを求めた勅語の過ちは戦後反省したはずだ。私は高校で倫理を教えていた。道徳に「殺すな」「うそをつくな」は欠かせない。<<<


というものだ。


しかし、仏教でも旧約聖書でも、そろって「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」と言っているのは、これらがよくよく「人類普遍」の誘惑だということなのだろうなあとおかしくなる。


それでもあまりこれを野放しにすると「類」として滅亡してしまう可能性があるからこそ、社会進化論的にこのような戒律やら「やっちゃいけない」総論の自然法ができてきたんだろう。


そこに忠君とか愛国とか根性だとか、ある時代のある社会でだけ有利な各論の「うちの法律」を立てても、長い目で見るとかならず局地的な破滅につながってきた。

ヨーロッパの歴史、欧米主導の歴史もその繰り返しだった。


それが全地球的な破滅に至らないためには、国連憲章でも今回の核兵器禁止条約でも、「やっちゃいけない」総論の確認を何度でも何度でも繰り返すしかないのかもしれない。


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by mariastella | 2017-08-07 02:38 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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