L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 312 )

分からない日本語など その2

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Travail(仕事、労働)を表す「よその言葉」として引かれているのが英語ふたつと日本語ふたつ。

まず英語がto cram で、日本語がkaroshi だ。to cram は過労死の前の状態かも。

「働きすぎによる死、日本では法律で認められた言葉」、と解説にあった。
これは確かによく知られていてフランス語として通用している場合もあるくらいだ。

二つ目は英語がTo moonlightで、夜に二つ目の仕事をすること。非合法なものが多い、とある。

日本語はinemuri。

丁寧に解説されている。居眠りはほとんど国民的スポーツで、ケンブリッジの人類学者が電車の吊革につかまったまま寝るサラリーマンの存在を報告していると。
日本はOECDの中で韓国に次いで睡眠時間が少ない、公共の場のセキュリティがしっかりしているのが要因かもしれない、週刊文春は居眠りがマイクロ・シエスタの役割を果たして健康の役に立つと書いている、オムロンは議員が60%以上居眠りしたら自動的にSMSを送って起こすというアプリを開発した、などといろいろ。

Créativité(創造性)の項で引かれている日本語は ogu 。

私には意味が不明。

解説には「使用不能な実用品を発明する業。例えば、パスタを冷ますためにフォークにつける携帯用の扇風機」とある。何? (検索しても出てこない。どなたか教えてください)

さて次はCorruption(腐敗、汚職)。

メキシカンが圧倒的に多い。果たして日本語は引かれているでしょうか? いるとしたらなんだと思いますか?

次が Nouveaux riches(新興富裕層)。ニューリッチ。ここは中国語のオンパレード。「成金」という日本語はまっとうすぎるのか出てきません。

その次は Mots dangereux (危険な言葉)。

引かれているのはペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで日本語一つ。何だと思いますか?

次がparadis(楽園、天国)。

日本語は引かれているでしょうか? いるとしたら何?

(続く)
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by mariastella | 2017-01-12 03:19 | 雑感

分からない日本語など その1

日本でもクーリエ・ジャポンという関連誌があるフランスの『Courrier international』の1363号は12/15-1/4 でいわば年末年始の特別号だった。

「よその言葉」(他者の言葉)というテーマで、フランス語のいくつかのキーワードの外国語を紹介してフランスにはないコンセプトを開設するという比較文化的なものだ。

まあ、面白おかしくできているので、恣意的な選択であるのは当然なのだけれど、日本語が引かれている率がかなり多くて、しかもその中には私の分からない言葉がいくつもあった。

いくらサブカル的選択としてもなんだか抵抗のあるものもある。

最初の言葉がPouvoir(権力)。

これには日本語が紹介されていない。ジャワ語、中国語、ヘブライ語、ハンガリー、ウクライナ語などが挙がる。

次のVoyous(不良)は ロシア俗語、ブラジルのポルトガル語みっつ、ローマ俗語ふたつなど。

次がAmour(アムール、愛)。
ここにはメインページに日本語がふたつも。その後のサブページにはアラビア語が目立つ。たとえばAlkhoullaは愛と友情の混ざったもの、というようにさまざまなニュアンスだ。ここにも日本語がなんと7つも。

私が思いつくとしたら愛、恋、大切、いつくしみ、とかだけれど、ここに引かれているのは、

メインの2つが

nensu
kabédon

壁ドンは私にもわかった。解説には、男の子が女の子を壁に押し付けて右手を壁につけ、目を見つめる、とあり、日本では女の子はこれが大好きだとある。・・・・・・

nensu は胸を高鳴らせて同性の人にやさしく思いをはせる、とある。 ???

サブのリストに出てくる日本語は、
Shinju、
Hanaji (性的興奮。日本では鼻の大きさが男性器の大きさを表す、とある)、
Okama(通常受け身の男娼)、
Keikan(解説を読むまで何のことか分からなかった)、
Nozoki、
Chirarism、
Unaji

の七つ。

話を面白くするためだとしても「愛」で出てくる日本語がこれってあんまりじゃ…。
これを担当したのが日本にいるフランス人ジャーナリストだとしたら、サブカルオタクみたいな人で他の日本語ができるフランス人に対して自分のディープな知識を披露したいのだろうか。

その次がNON-DITS
つまり、言われないこと。(ディスクールの最中の「えー」とか「うー」とかいうためらいは、言葉と同じくらいに理解にとって不可欠なものである、とある)

ここには、ペルシャ語、韓国語が一つずつ、日本語は二つ。

Haragei(内臓的、間接的、非言語的コミュニケーション)
AH-UN(モノの最初と最後。とても親しい友人間の無言のコミュニケーション)

だって。

腹芸には「腹にいちもつある」みたいな言葉とリンクしている感がもっと強い気がする。
阿吽はいいとしても、どうせなら仏教的な意味も書いてほしい。

次の「怒り」には米語三つと英語一つ。

このチョイスを見ているとまあ、時事問題を解説したいという気持ちは分かる。

Redneck,  white trash,  hillbilly,  underdog

日本語はない。日本語のネット語の「死ね!」とかは出てこないようだ。

次はTravail(仕事、労働)。

ここには、ドイツ語、メキシカン、セネガル語とともに英語ふたつと日本語ふたつ。

何だと思いますか?  (続く)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
次はCréativité(創造性)。英語、アラブ語、ドイツ語、メキシカン、ヒンディ語、ボーランド語、エスペラント語とにぎやかで、日本語も一つ入っています。何でしょう ? ちなみに私はこの日本語も解説もよく分からなかった。

(続く)
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by mariastella | 2017-01-11 00:38 | 雑感

「シャルリー・エブド」事件から2年経って思うこと

日本が全体主義独裁国家になりつつあるのではないかという不安の言葉がサイトのForumに寄せられました

この記事はそれに対する答えに代えるものです。

今、これを書いているのはフランスの1/7で、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件からちょうど2周年、シャルリー・エブドの2周年記念号はなかなか読みごたえがあった。

1周年の去年は、前年11月にパリで同時多発テロがあって、人数で言うと記録的な犠牲者が出たこともあって、テロリズムの深刻化、国籍剥奪や緊急体制などの様々な処置も議論されていたので、シャルリー・エブド事件そのものとの距離の取り方が混沌としていた。
その上、去年も、ヨーロッパレベルで、ベルギー、フランスではニース、年末のベルリンと無差別テロが続いたので、様相は、ますます、

「自由に楽しみたいヨーロッパ人が委縮しないで済むようにセキュリティを強化しなくては」

という感じにシフトしていった感がある。

けれども、シャルリー・エブドのテロは、他のテロとは違う。

他の無差別テロは、恐ろしいけれど、いわゆるISやISシンパのテロリストでなくとも、彼らのインスパイアされた人々、社会的、個人的な様々な病理を抱えた人々による暴挙、蛮行と近い。

アメリカでの銃乱射や日本でも繁華街での車の暴走などどこでいつ何が起こるかは分からない。

シリアの内戦にどういう立場をとっているかというような直接の外交問題とは関係のないものがほとんどだ。
それが口実に使われてマインドコントロールされている場合はもちろんあるとしても。

それに対して、シャルリー・エブド編集会議の襲撃は、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というタイプのものであった。

こういうと、やはりISが悪い、テロリストが悪いなどと思うかもしれないが、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というのは、まさに全体主義独裁の行動パターンである。

ロシアの反政府的ジャーナリストたちも、中国の反政府的ジャーナリストたちも、拉致されたり、白昼何者かによって暗殺されたり、毒殺されたりしている。
それなのにいつの間にかうやむやになっている。

全体主義独裁の行動パターンに合致する。

権力者を批判する表現の自由は否定されるのだ。

そして、こういう言い方をすると誤解を招くのであまり言いたくないけれど、
「欧米民主主義・自由主義」を絶対善とする「先進国」が、それに反するものを、宗教政権であろうと軍事政権であろうと「敵」と認定して殺しに行くのも実は同じパターンだ。

みんな同じパターンで動いている。
ある意味で、日本もそれを踏襲しているにすぎない。

外交上の影響力の大きい世界の主権国の首長の中で、その抹殺パターンを否定して、ひたすら話し合いと弱者支援を通しての平和を訴えているのはローマ教皇くらいだ。

そのローマ教皇でさえ、

「『じぶんちキリスト教』の正義に外れる者は抹殺しても当然」

と主張する少なからぬカトリック信徒たちから執拗に批判されている。
そのうち教皇も抹殺されるかもしれない。

日本の憲法九条は「抹殺パターン」を明確に否定した珍しいものだったけれど、それが例外だったので、行動指針とならぬうちに、早くから「その他大勢」のパターン、昔なじみのパターンに従って変質していった。

それは「原罪」なのだろうか。私たちは、「自分と違うもの、自分を否定するものは消えればいい」とほんとうに思っているのだろうか。

「自分と異なるものによって生かされている、人は関係性のネットワークを途切れずに紡いでいくことで生きている」

ことも私たちは知っているはずだ、とは言えないのだろうか。

怒りや絶望は人の判断を狂わせる。

キリスト教が正しいかどうかなどは知らないが、力によって紛争を解決してはならないという今の教皇の言っていることは正しいと思える。
その「力」が破壊兵器に守られる抑止力であっても同様だ。

どうやってこの確信を日常の生き方のレベルに反映できるのだろうか。

それなしには世界は変わらない。
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by mariastella | 2017-01-08 00:42 | 雑感

多難な年明け

元日の夜のTV総合ニュースでは、大警戒のもとで賑やかに過ぎたシャンゼリゼのニューイヤー・イベントのことをやっていた。そういえば、前の年は11月のテロの影響で花火が中止されたのだった。
私は日本にいたからその雰囲気は分からなかった。

で、去年テロがあったニース、ベルギーのブリュクセルやドイツのベルリンなどでもいずれも、無事に年が越せた、ニューヨークもタイムズスクエアに人が集まった、とニュースのアナウンサーがにっこり笑って言っていたのを見て驚いた。

1日深夜のイスタンブールのナイトクラブの無差別射撃、31日と1日と、自爆テロなどで続けてたくさんの犠牲者を出したイラクのバクダッドはまるで数に入っていないかのようだ。
フランスからの距離で言うとNYより近いのに。

やっぱり「欧米」「キリスト教文化圏」視線なのかなあ、と思う。

オランドは1日にイラクに行って現場のフランス軍兵士たちを「慰労」した。
「そんなことをしてISを刺激するなよ」、と思ってしまう。
テロに「宣戦布告」している彼にとってはそれ以外にない選択なのだとは分かるけれど。
武器や戦闘機などを売りまくっている時点で私にとってはアウトだけれど。

今年はエピファニーが教会的には8日だけれど、ガレットはもう出回っている。
スペインでは昔通りに1/6がエピファニーの休日で、三博士がイエスに贈り物をしたことにちなんで子供たちにはプレゼントをもらえるのだそうだ。クリスマス・プレゼントから二週間も経たないのに。

スカンジナビアやアイルランドでは、クリスマス以来毎日灯していたクリスマス大蝋燭を灯す最後の日になる。

私がフランスに住むようになった40年前のクリスマスには、フランスでも、1/6のエピファニーで降誕祭が終わってツリーを片付ける、というのが習慣だった。でも今は、エピファニーも移動祭日で1月いっぱい飾りが出しっぱなしという家や店もある。

フランスでは毎年大統領にガレットが贈られるのだそうだが、フェーブは入っていないそうだ。
ガレット・デ・ロワは王様のガレットで、本来はイエスを礼拝に来た三憲王にちなんで、パイの中のフェーブに当たった人が王冠をかぶって「王様」になるのだけれど、「大統領は王になれない」からだそうだ。

なるほど「王殺し」のフランス革命を継承するシンボルの共和国大統領が戴冠してしまったら洒落にはならない。革命後にも「フランス王」でなく「フランス人の王」だの「フランス人の皇帝」だのという名目で戴冠してきた人たちもいるけれど、第三共和制以降は「王様」はアウトとなっている。

今では日本でもガレット・デ・ロワが登場しているようだ。
昔はガレットと言えば、『シェルブールの雨傘』でのドヌーヴの冠しか知らなかったっけ。

私が一時帰国して当時飯田橋にあったリセ・フランセで教えていた1980年の1月には、6日(フランスのカレンダーで新学期が始まっていた)の給食のデザートがガレットだったらしくて、午後の授業には金髪に金色の紙の冠をつけたままのかわいい女の子がクラスに出席していたのを覚えている。

あの頃にもすでに、中東ではテロがあった。
誰もそんなことを話さなかった。
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by mariastella | 2017-01-03 02:13 | 雑感

年末のニュース、オランドとプーチン

以前の記事でも触れたジャクリーヌ・ソヴァージュさんが28日に大統領による全恩赦を受けて娘たちのところに戻った。

オランドが来期に出馬しないと表明してから、多分、この不発に終わった部分恩赦を全恩赦に変えるだろうと予想していたのだが、それが当たった。
ジャーナリストへの暴露インタビューで、司法への不信を口にして謝罪に追い込まれていたくらいだから。

でも、この王政の名残である「恩赦」の制度を使うのは、社会党マインドのオランド自身が原則的に躊躇していたらしい。

でも今年の初めにJS(ソヴァージュ)さんの娘たちをエリゼ宮に招いてかなり心を動かされたというから、司法に裏切られた末、やはり強権発動に踏み切ったというべきか。

司法の側は怒っている。何度も法律にのっとって様々な制約をクリアして釈放拒否の判決を出しているのに、自由な大権であっさり覆されるのなら、これからみんなが司法を通さずに大統領府の門を叩くことになる、と。

しかし、JSさんには再犯の恐れというのはゼロだし、共に犠牲者だった娘たちが母親を救おうとして引き取るのだから、さすがに、政治家たちはみな賛意を表明している。
娘さんたちが父親から性暴力を受けていたのを守れなかったことでJSさんを責める声もあったというが、彼女は当時それに気づいていなかったという。
いや、自分自身が毎日激しい暴力の犠牲になっている時、人の識別力など曇ってしまうとしても無理はない。

仮にJSさんが、夫が娘に乱暴しているのを現行犯で目撃してその時に猟銃を持ち出して撃ち殺していたとしたらどうなんだろう。いや、そんなことをして娘たちのトラウマをより拡大するよりも、たった一人で謀殺を選んだわけだ。ともかく、すでに4年も投獄されていたのだから、この釈放は誰が聞いてもほっとするニュースだった。

それにしても、こんなことすら「いいニュース」だと感じられるくらいに、世界中から悪いニュースがどんどん届いている。

29日には、いいのか悪いのか分からない奇妙なニュースも入ってきた。

ロシアが「欧米」抜きで、トルコ、シリア、シリア反政府軍、の代表を集めて停戦条約をまとめようとしていることだ。

ISとの戦いは終わっていないので、クルド軍は相変わらず戦っている。

でも、アレッポをあれだけ叩いた後で、どう停戦に持っていくのだろう 。
アレッポでのロシア軍の容赦のない感じは不思議ではなかった。
今時、アメリカだってあれほどの絨毯攻撃はしない。
チェチェン戦争のグロズヌイ攻撃のことを思い出す。

そういうあからさまな殲滅作戦みたいなのを堂々とやって、プーチンは一方で、安倍首相と会ったり、トランプやフィヨンにすり寄ったり、イランや中国やトルコに働きかけたり、「外交」にも勤しんでいる。

その中で、フランスとヨーロッパに向けたレトリックがまたアナクロニックで不思議なものだ。(続く)
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by mariastella | 2016-12-30 07:35 | 雑感

童話における男の子と女の子

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レミとミーファの冒険
のラストシーンです。

このDVDはまだ仲間のフランス人にしか見せていないのですが、そのうち2人が運悪く?フェミニストの活動家(一人はLGBTの活動家でもあります)で、彼女らから、男の子と女の子を主人公にすること自体に疑問を呈されました。

森に入っていくのに女の子だけがスカートだとか、カゴを持っているとか、行き先を指さして先導するのが男の子だとはいかがなものか、と。

私はそうは思いません。

まあ、この2人は日本語が分からないので、イラストだけを見てストーリーを追うのでそういうことが気になるというのは分かります。

でもナレーションでは、最初と最後にレミとミーファと出てきますが、後はずっと「子供たち」であり、男の子と女の子の区別をまったくしていません。

レミとミーファはもちろん音名のドレミファ由来ですが、日本ならレミだって女の子名でもあるし、それ自体は性別が曖昧です。もちろんフランス語ならレミは男の子だし、レとミは一音差だけどミとファは半音で軟弱だと文句をつけられそうです。

でも私の反論はこうです。

まず、大人たちからの余計な刷り込みさえなければ、子供たちは絵本を読むときに、自分の性別による感情移入をしません。
「星の王子さま」に「星の王女さま」が出てこないからと言って疎外感など感じません。アンパンマンがアンパンウーマンでなくとも平気です。三匹の子豚だって、人間でなくとも、また自分が末っ子とかでなくとも、子供というのは、一番気に入ったキャラに自分を投影します。

だから、女の子が、ミーファを見て、ああ、自分はカゴを持ってレミに従わなきゃいけない立場なのだなあなどと卑屈になるなんてことはまずないと思います。
こんなストーリーで、2人が同じ格好をして全く同じことをするという必要はないと思います。

それだけではなく、1人がイニシアティヴをとって前に進み、1人がちょっとおずおずして後ろからついていくように見える図柄があっても私はいいと思うのです。

それは男の子と女の子の役割の刷り込みなどではなく、どんな子供の中にもある二面性の表現だと思うのです。陰陽の原理や太極図と同じで、別にわざわざ全体をグレーにまとめなくても、黒白でひとつを提示するのは悪いことだとは思えないのです。

「先に進む男の子がリーダーで後に付き従う女の子は従属している」

とも言われましたが、私はそれも文化的な刷り込みがあるかもしれない、といい返しました。

戦争などで突撃隊とか、やくざの鉄砲玉とか、危険なところに真っ先にやられる捨て駒がいて、あるいは露払いがいて、リーダーは背後でゆっくり構えてリスクをおかさない、というシーンだっていくらでもあるわけですから。

しかし、今はなかなか難しい時代だなあと思いました。

同時に、今でも、子供時代に「女の子だから」とか「男の子でないから」とか「男の子に負けないように」とか、いろいろ親に言われてきたことで抑圧されてきたという意識を持つ女性がたくさんいることを、フェミニストのブログなどで読むたびに衝撃を受けます。

そのたぐいの言葉は、私自身は、少なくとも家庭内では一度たりとも耳にしたことがなかったので、そんなことをいう親がいることすら信じられませんでした。

危機管理や行政文書は別として、性別がアイデンティティの一部であったことはないのです。

この音楽ストーリー構成は「ピーターと狼」にヒントを得ましたが、ピーターが男の子だからといって「男の子向けの話」ではありません。

男の子と女の子が出てくるこれまでのよくある童話はたいてい批判されます。
難しいところです。

それに反論すると、「あなたは特別だから(分からないのです)」と返されてしまいます。でも、

「女の子も受動的ではなく能動的でなくてはいけない、決断して前に進まねばならない、それをさせないのが文化的刷り込みだ」

と言われても、だれでも、時と場合によっては受動的でいたい場合もあるだろうし、いろいろな能力の多寡によって、前に進めないこともあるだろうし、決断したくないことだってある、と思ってしまうのです。

誰かが前に進みたいし前に進む能力もあるのに社会や他者からの圧力で自由を遮られるような状況は打破されるべきですが、勇気や覇気が他の徳よりも特別上位にあるものだとも思えないのです。

先週の仲間うちでの議論がなんとなく心の中で尾を引いていて、その時は完全には言語化できなかったので、ここに覚書にしてみました。
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by mariastella | 2016-12-29 02:41 | 雑感

ベルリンのテロと「民主主義」

これを書いている時点で、今度は24歳のチュニジア人が先日のテロの容疑者として捜索されているようだ。

メルケル首相は、こんな時でも、「戦争だ」とか言わないで、

「民主主義の根幹はオープンであること」にあるから、移民へのオープンドア政策そのものは見直すつもりがない、

という姿勢を(今のところ)貫いている。

この「民主主義」(彼女の政党もこの言葉を冠している)という言葉は、ドイツにとって大切なお題目なのだなあというのが実感される。

前に、アメリカのお題目の価値観は勇気と忠誠と親切心だと書いた。

この「親切心」が、勇気と結びついて識別を誤ると、よその国に出向いて行って、独裁者に支配されている民衆を救わなければ、などという政策に向かう。「小さな親切、大きなお世話」と言われるように「親切心」は上から目線になることが多く、時と場合によってはろくなことにならない。
でも、敗戦後の日本も、いろいろな部分で、末端のアメリカ人の「親切心」に助けてもらったという事例はたくさんある。

フランスのお題目はもちろん「自由・平等・博愛」で、これが「福音書的」と言われるものなのだが、ちゃんと憲法にも書かれている。

本来この「自由・平等・博愛」を突き進めると、日本国憲法九条と同じで、「絶対平和主義」しか行きつくところはない。

けれどもそれは無理なので、言っていることとやっていることがだいぶ違う。

それでも、どんなに揶揄されてもその「理念」だけは上書きしない。
それはそれで、大切なことだ。

で、ドイツの第一のお題目はどうも「民主主義」らしい。

第二次大戦のナチス全体主義への反省、反動から、「民主主義」絶対になった。

日本でも、国家神道と軍部独裁の敗北によって、「民主主義」が理想のお題目になった。
でもドイツと違って、ただのお題目で、それを支えるいろいろな方法の試行錯誤は見えない。

一方、イギリスやフランスなどでは、「民主主義」は今の時点で最も害のない政治体系に過ぎないと認識されているだけで、自負はあってもモットーにはならない。

フランスでも、ヴィシー政権の時代にモットーが「労働、祖国、家庭」になったように、「祖国」なんていうのを「国」が提唱するのはろくなことにならない。

けれども今のフランスでも軍隊の標語は「名誉、祖国」だ。
戦争をするときに「自由・平等・博愛」などと言っていられない。

逆に、国が主導して「祖国」や「愛国」を唱える時には、自由も平等も博愛も絶対に実現しない。

今のドイツの公式の標語は「統一、権利、自由」(Einigkeit und Recht und Freiheit) だけれど、これは敗戦後の東西の分断と全体主義化した社会主義のトラウマから来たものだろう。

ナチスの犠牲者の記念碑には

「平和と自由と民主主義のために。二度とファシズムを許さない」

と刻まれる。

テロに襲われた時、

フランスの大統領がそれをフランスの自由に対する宣戦布告だ、戦争だ、

というのと、

メルケル首相が、民主主義の価値観(オープンドアを含む)は揺るがない、

というのではニュアンスも違うし、拠って立つところも微妙に違う。。

そういえばメルケル首相は、トランプ次期大統領にも、

ほら、私たちは民主主義の価値観を共有している国同士ですよね、

という感じで牽制していた。

トランプは暴言にはオープンだけれど、オープンドア政策とは対極だ。

ベルリンのテロで、メルケルの民主主義を支える「開放」の精神は、否定されるのだろうか。

それともまだ、多くのドイツ人が「オープンドアの民主主義」をメルケルと共有しているのだろうか。

選挙は10ヶ月後である。
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by mariastella | 2016-12-22 02:29 | 雑感

アレッポの司教の証言の続きとベルリンのテロ

(これは前の記事の続きです)

アレッポの司教の言葉

「2011年に内戦が始まったときもアレッポの住民は自分たちには関係がないと思っていました。それが1年後に波及してきても、まだ政府軍が止めてくれると思っていました。

工場やアトリエの大部分が閉鎖され、失業が増え、給料もダウンしました。一日数時間しか電気が使えず、発電機につなぐのは大金がかかり、占領されてからは70日間も断水しました。

マロン典礼教会のカテドラルと教区教会の二つは中央地区の戦場にあって損傷が激しいのでミサは司教館のチャペルで行っています。2012年以来、信徒の三分の二が逃げていきました。その多くはもう帰ってくることがないでしょう。

私たちが逃げないのは、カトリック教会にはオリエントとオクシデントという両肺が必要だからです。
10人でも残れば教会全部を鼓動させることができます。

2015年にこのアレッポの司教に叙任された時、どうして私がこの十字架を、と思いました。
でもそれはこの町の信徒たちへのメッセージだと思って引き受けました。
内戦開始以来なかった祭礼をスカウトたちといっしょに行い、ムスリムの友人たちも祝福して
くれました。
信徒たちに食事を配り、手当てをし、家賃も助け、彼らが留まるようにできることは何でもしています。
でも、彼らから自分たちの息子は爆死しないかと聞かれると、自分の無力さを痛感します。

私は離れません。羊飼いは羊を見捨てません。もう金もないし、5分後に生きているかどうかも分かりません。私にとっては天に近づける機会です。殉教者は地を見ず、天を見上げています。」

うーん…。

ブッシュのイラク侵攻の時に処刑前のサダム・フセインを尋問したCIAのジョン・ニクソンの本の中で、

アメリカのイラク情報は何から何まで間違っていた、

9・11はサウジアラビア、エジプトなどが関係していてフセインはアルカイダとも関係がなかった、

サダム・フセインは問題はあったがあれほどの人物であったからこそ、部族が林立するあの国を安定して統治できていたのだ、

アメリカはサダム・フセイン軍の兵士たちを登用するべきだった(追われた彼らがISの中核になった)

などとあるのを見ると、あらためて、これまで中東で起こったことの意味を考えさせられる。

19日にはベルリンのクリスマス・マーケットでテロがあった。

テロリストは、なぜか、難民排斥、差別主義、イスラム嫌いの極右政治家などをターゲットにしない。
普通の市民に無差別攻撃をしている。その中にはムスリムももちろんいる。

9・11の以前から、中東を中心に、毎年多くのテロの犠牲者が出ていた。
今でも、テロの犠牲者の90%はムスリムで、テロ多発国は、パキスタン、アフガニスタン、イラクだ。

ドイツはメルケル首相が、移民100万人OKで統合できるなどと言っていたけれど、領邦国統一の遅かったドイツにはいわゆる「旧植民地国からの移民の統合政策」という実績はない。
100万人OKと言ったときには、サウジアラビアが、ではドイツにモスクを200作る金を出しましょう、などと申し出ていた。フランスには絶対に言わないようなことだ。

ドイツは今年6度目のテロだけれど、そしてCDUも今まだ犯人が捕まっていない時点で移民政策を一から見直せ、とメルケルに迫っているそうだけれど、それでも、なんとなく、フランスほどにはショックを受けていない気もする。ショックの受け方が違うと言った方がいいかもしれない。

それはオランド大統領が「戦争だ」と言ったけれどメルケル首相は一度も「戦争」という言葉を口にしていないことの差だ、と誰かが言っていた。
テレビで、1980年7月のミュンヘンのビール祭りでの爆破テロのことまで持ち出して、テロの後も彼らは祭りを中止せずに続けていた、と言うのだ。

今年のシャンゼリゼのクリスマス・マーケットは夏のニースの事件があったから、トラックが突っ込まないことをように様々なブロックがなされている。ベルリンにはなかった。

結局、いつも思うけれど、災害対策と通じるところがある。

いつどのように起こるか予測できないこと、
だからと言っていつも戦々兢々として生活するわけにはいかないこと、
でも過去の被害に学んで対策を立てたり予防したりするべきであること、などだ。

災害対策と違うのは、ヨーロッパの国が、一方で、中東内戦の種をまき、武器を提供し、難民を作り出し、人道支援をし、難民救助をしながら、復讐されるリスクも高め、自国の中からもテロリストやテロリスト予備軍が生まれるのを放置するなど、力と金と石油と覇権主義のせいでその場しのぎの失敗を重ね、ことをさらに複雑にしているところだ。

ベルリンのテロが起こったらアレッポの難民などテレビの画面から消えてしまった。
フランスの大統領選も、セキュリティや難民対策に論点がシフトしていくのだろうか。
要観察。
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by mariastella | 2016-12-21 09:00 | 雑感

ある新司祭と話してから考えたこと その5

フランスのエリート新司祭のことから日本の湯浅誠さんのことを連想していた頃、「N女」=「非営利セクター(NPO)で働く女子」という言葉をネットで見かけた。

「有力企業に就職する実力がありながら、雇用条件が厳しいと言われるNPO業界を就職先に選ぶ女性」のことだそうだ。

エリート女性の方が、弱者支援の活動に向かうハードルが男性のそれよりも低い?

夫が生活費を稼いで妻がボランティア活動に熱心になる、というような構図はよくありそうだ。

その他に、高学歴・高職歴を持ちながら、条件の悪い社会福祉型NPO法人に転職する女性もいる。
地位や名誉や金よりも生きがい、やりがい、使命感などを選ぶことは「贅沢」の一種なのだろうか。
男性にかかる「妻子を養わなくてはならない」というプレッシャーがない分「自由」なのだろうか。

日本のカトリックの女子修道会で、観想型ではなく社会活動型の修道会には、教師、看護師や社会福祉士などとして働くシスターがたくさんいる。

姉妹で同じ修道会にいるシスターから、「シスターになりたい」という召命よりまず自然に「福祉の仕事をしたい」という召命があったと聞いたことがある。

クリスチャンの家庭に生まれたわけではない。

いわゆる「天職」であり、そういう時に、社会活動型修道会に所属することを選択すれば、一生自分たちの衣食住には悩まないで済むのだから、心置きなく「天職」を全うするのに最高の環境かもしれない。
子や孫や家族関係にも悩まされなくて済む。

みなさん、高齢になっても生き生きと現役で活躍している。

男性が男子修道会に入って同じことをするのはいろいろな意味でハードルが高い。
男性の場合は平修道士でいるか神父になるか、などの内部のヒエラルキーも複雑だ。

昔の家父長的日本的感覚なら

「いつかはお嫁に行って家から出る娘」を神に捧げるのと、

「嫁をもらって子孫に家督家名を継がせるはずの息子」を神に奪われてしまう、

のでは家族の反応も違うだろう。

だから、フランスの高スペック新司祭のような人が生まれる土壌はないし、党派とも宗派とも関係なく暮らしながらコストパフォーマンスの悪い(というか別のロジックで動く)社会活動にフルに人生をかけるような男性は例外となる。

湯浅誠さんはお子さんはいらっしゃらないが、おうちではどうも2匹の猫に「仕えている」ようで、ほほえましくて親近感を覚える。
上から目線でなく下からお世話させていただく、それが何よりの喜びとなるというのが「可能」だというのは、「猫飼い」が日々実感できることだからだ。
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by mariastella | 2016-12-18 01:18 | 雑感

子供と政治 その2 と、聖霊

8歳の少年と世界情勢を話す

この夏、日本で参政権が18歳に引き下げられた話題を見ていて、まるで子供に政治について説明してやらなくてはいけないという調子のものが少なくなかったのに驚いた。

フランスでは高校生がデモに参加するというのは社会の通過儀礼のひとつのようなものだからだ。

日本でも私が高校生だった頃は、いわゆる大学紛争のあった「政治の季節」で、政治活動に参加したり議論したりする高校生はめずらしくなかった。

フランス人はもともと、ホームパーティでもメトロに乗り合わせた者同士でもバカンス先でも、政治の話をするのが好きであり天気の話と同じくらいにハードルが低い。それでもこの夏に8歳の少年と2人きりで小1時間も世界情勢の話をすることになったのは初めての経験だった。

家庭で大人たちといっしょにテレビニュースを見て大人たちのコメントを聞いていろいろ考えていたらしい。でも最も意外だったのは、少年と話していると、普段仲間と議論している時とは全く別の言葉が私の口から出てきたことだ。

まず少年は、フランスの極右政党の党首を批判して、

「フランスから外国人を追い出すと言うのはよくない、外国人のいないフランスはフランスではない」

と言いだし、その党首が人種差別主義者だとかなり激しく弾劾した。
これが大人と話しているのなら私も同意したかもしれないけれど、不思議なことに私はその党首を弁護し始めた。

「でも彼女(党首ル・ペンのこと)のような人が自分の意見を言えるということが表現の自由だし、彼女のような人がそういうことを言ってくれるおかげで、『それは良くない』と人々が批判したり差別の存在を意識化したりできるから大切なことよ。差別感情は必ずあるもので、もし誰もそれを外に出さないままでいたら、偽善がまかり通ったり排外感情が蓄積したりなどもっと深刻なことになるよ。」

と言ったのだ。

「彼女のような人の発言のおかげで私たちは自分の感情も含めて何が正しくないことかについて考えることができるでしょう」と。

次に少年はイランの情勢について語り、イランは大統領がいる共和国で民主主義だと言ったが、私は

「問題は、そういう政治システムとの上に宗教のリーダーがいて、宗教のリーダーが最終的な権威を持っていることだ」

と言った。

「イスラム共和国はイランを利用したけれど、イランにはゾロアスターの伝統も生きていたし、日本に仏教が伝来しても民間信仰と習合したように、一宗教のリーダーが上から社会を縛り異質なものを排除するのは民主主義とは言えない」。

こう話しながら、ああ、政教分離というのは人間が獲得した本当に大切な知恵だなあ、と私は初めて実感した。

話はさらにフランスから遠ざかり、少年が、今度は「絶対悪」として北朝鮮を引き合いに出して来た。

それにも驚いたけれど、私はまたもや弁護し始めた。
朝鮮が分裂したのは当時の政治イデオロギーの対立のせいでむしろ犠牲者であること、その後冷戦が終わって北朝鮮はソ連から見捨てられ、市場経済政策によって欧米と接近した中国からも裏切られて孤立せざるを得なくなったこと、などを説明したのだ。

切って捨てられるような「絶対の悪はない」と。
実際に人の自由や安全を脅かす個々のケースを批判して対応しなくてはならない。

同時に、政治や社会を論じる時には、「恐怖」と「怒り」に基づいてはいけないと話した。
「恐怖」にとらわれている時には正しい判断、識別ができないからだ。

また「怒り」に駆られた時は、必ず自分が絶対正しいと思ってしまうからだ。ところが「絶対正しい」などということはあり得ないのだから、怒りにまかせた判断は必ず間違っている。いったん怒りを鎮めた後で状況を検討し判断しなくてはいけない。
これはセネカの『怒りについて』の受け売りで私が自分に課しているものだけれど、少年はすべてについて納得したようだった。

共和国理念よりも上にあるもの

「外国人とは何か」についても話し合った。私は日本人だし、フランス生まれの少年も祖父母やその前まで遡ればフランス以外のいろいろな国のルーツを持っている。
少年が「ぼくはフランス人というより外国人かもしれない」とむしろ自慢げに言った。
私はこれに対しても、普段とは違う反応をした。

「いや、きみはフランス人だよ。フランス人というのは国籍や血統でなくてフランス語とフランスの理念を共有しているかどうかだから。その意味では私もフランス人だと思う。」

そして「共和国理念」とは自由・平等・きょうだい愛(フラテルニテ)だと付け加えた。

「きょうだい」とは、人種や言葉と関係ない普遍的な人類のことだから、人種差別や外国人排斥とは相容れない。
たとえこの理念が現実には反映されていなかったり捻じ曲げられたりしているとしても、これを掲げるかどうかは譲れないところだ。

話がこの段階に入った時、少年はいたずらっぽく笑って、「いや、その理念よりももっと大切で上位に来るものがある」と言い出した。

「なんだか、分かる?」

「分かるよ」

私は腕を広げた。

さっきまで真剣な表情で「天下国家」を論じていた少年は天使のように幸せな表情で私の腕の中に体を投げかけてきた。

「アムール(愛)!」

二人は同時に言った。

私と彼が話しているあいだに「聖霊」が二人のそばにずっといたことを感じた。

夏休みに入り、旅行に行く前にうちに寄っていた少年とのひと時である。
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by mariastella | 2016-11-30 01:20 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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