L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 339 )

V・I  の BMI は 21,63

 このタイトルの意味がすぐ分かる人、いますか?


 V・I は、サラ・パレツキー作のハードボイルドのヒロイン、V・I ウォーショースキーことヴィックのことで、彼女は172センチで体重が64キロ前後ということで、肥満度指数(体重÷身長(m)の二乗)が21,63という意味である。

 最も病気にかかりにくい健康な標準体重のBMIは22ということで、V・I も四捨五入すると22、よかった。
 偶然ではない。他の多くの女性探偵は、痩せすぎで、いくらカラテの達人でも男との体重差は不利になる、とパレツキーは言う。社会で成功をおさめた女性たちはひたすら痩せて、男たちに、自分たちは無害な小さな女の子であるというメッセージを送っているのだ。

 日本で購入したHMM(ハヤカワミステリマガジン)で連載4回目を読んだパレツキー自伝はひたすらおもしろい。アメリカにおけるフェミニズムについてこれほど生き生きした記述を読むのははじめてだ。

 私は、『アメリカにNOといえる国』の中で、アメリカ的=コミュノタリスム的、犠牲者主義的フェミニズムとフランス的=男女平等主義、連帯主義のフェミニズムの違いについて触れたが、パレツキーはその違いをはっきり意識している。その上で、「以前のわたしは男女平等主義の信奉者だったが、一九七一年の冬にフェミニストになった」と明言している。

 中絶の権利ひとつとっても、アメリカの状況は悲惨すぎる。 

 表現の自由は、女性へのサディズム産業を助長したが、アメリカは「先進国の中で唯一、性と生殖を議論するのが、完全に不可能といわないまでも、かなり困難な国である」。政府は年間200万ドルもかけて絶対禁欲性教育を進め、中絶費用の公費負担を禁じたり、中絶医の大部分が手術をやめてしまったという現状まである。薬剤師に、避妊ピルの調剤を拒否する権利を与える州も続々増える勢いらしい。

 フランスや日本では、歴史やメンタリティはずいぶん違うが、この辺の事情の「ヌルさ」はよく似ている。

 パレツキーは博士号も持つ学者だが、フェミニズムのためにブルーカラーの女性探偵を創造し、アメリカのミステリにおけるフェミニズムの「流行が去った」今でも、戦っている。それでも、ミステリ業界で、男性作家の本が書評で取り上げられる回数は、女性作家の7倍(絶対数の比を考慮に入れても)であったり、3倍も早く絶版になったりするそうだ。日本のミステリ界では、とても、そんな印象はない。

 やっぱ、アメリカって、特殊かも。

 今朝のラジオで、フランス人ジャーナリストが、最近アメリカ国籍を取得した人はメキシコ人、インド人、中国人、フィリピン人などが多く、このままいくと2026年には白人はマイノリティになるという話題を取り上げていた。その時に、

 「あ、アメリカでは白人というと、コーカジアン(コーカソイド)ということなんです。アメリカでは、南アメリカ人は白人だとは見なされていないんですよ」

 と注釈があった。

 ヨーロッパ的には、「南アメリカ人」は漠然と白人である。というか、ラテン・アメリカ人は「ラテン系」であるからラテン人=ヨーロッパ人仲間である。ポルトガル語とスペイン語がヨーロッパ文化の継承を象徴する。

 ここでヨーロッパ的、というのは、実は、「大陸的」と言い換えることができる。

 私は、学生時代に中根ちえ先生の人類学の講義で周辺文化と中央文化のメンタリティの違いを習った。中華思想の国の代表が中国とフランスだという認識もあった。日本は島国で、中国の中華主義の周縁で、それを取り込んでカスタマイズするというか独自の文化を作っているが、あまりそれを他者に発信しないという認識も実感もあった。

 フランスに30年以上住んで、この頃、ようやく、大陸的なヨーロッパ中華主義の実感というものがどういうものか分ってきた。驚くべきことだ。

 つまり、大陸的ヨーロッパ(ケルト+ゲルマン+ギリシャ・ラテンの混合)の視線で見ると、イギリスという島国は、どんなに強大な時期を経ても、所詮「周縁文化」の国なのである。
 そして、そこから大西洋を渡ってできたアメリカも、「巨大な島国」「巨大な周縁文化」みたいなものなのである。オーストラリアもしかりである。

 それに対して、スペインやポルトガルが進出した中南米諸国は、たとえ先住民のインディオと大量に混血しても、ヨーロッパ大陸風普遍主義に連なる自分らの仲間、なのである。

 どこにもこうはっきりとは書いてないが、そしてそれは無意識な島国根性と同じような無意識な大陸ヨーロッパ中華思想なのだが、実はこういう感じなのである。

 第二次大戦後の人間が大半になった世界では、アメリカの大国ぶりが「常態」だったので、ヨーロッパの誇りはコンプレックスの裏返しだとか過去の栄光を捨てられないものだとか思いがちだが、「中央」による「周縁」差別の根は結構深いのだ。

 で、そのアメリカだが、こう「非白人化」が進むと、カルチャー的には、ますます脱ヨーロッパ化していくのだが、社会政策的にはだんだんとヨーロッパ風(福祉志向)になるという皮肉な過程に突入している。

 これが果たして、ユニヴァーサリズムの新しい突破口になるのかどうか期待したいところなのだが、パレツキーの話を読むと、まだまだ、アングロサクソン・ピューリタン的メンタリティが根強く、悲観的になる。

 「女性大統領よりは黒人大統領の方がまし」

 だとはっきり意志表示した人種差別団体のように、ピューリタン的偏見に基づく女性憎悪は、今のアメリカでも蔓延している。

 女性といえば、2026年を待たなくても、すでに、アメリカ人の半分なのだ。女性への憎悪や暴力や支配構造に踏み込んできっちり向かいあわない限り、アメリカがユニヴァーサリズムの旗手となる日は来ないだろう。

 
 
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by mariastella | 2009-05-12 19:56 | 雑感

「Our Body展」スキャンダルのその後

  パリでやっていた人体の不思議展が禁止された。
 これまでにこのブログに書いたことをおさらいしておこう。
 まず、昨年9月22日の記事。

 >今朝のラジオで一つ驚いたことがある。

 リヨンでプラスティネーションの展覧会があり、人を集めている、という話だ。

 これはドイツの誰かのテクニックで、人間の体に樹脂を注入して常態で保存した標本で、それを輪切りにしたりして、展示する。

 私は10数年前に、横浜のみなとみらいの中でこの「人体の不思議展」を見た。
 怖いもの見たさ、ののぞき趣味もあったが、何かシュールで、あまり怖くなかった。

 その後数年前に、東京で、中国で製作したという同種の展覧会を見たが、これはアジア人なので何かリアルで、どこかの強制収用所で本人や家族の許可なしに剥製にしたんじゃないかとか思えて気分が悪かった。

 で、この展覧会、アメリカのどこかでやったときに、倫理的なクレームがついたそうで、まあ、問題ないとなったらしい。ヨーロッパでもどこの国だかで、開催中止を呼びかける運動があったそうだ。

 私が驚いたのは、それについての解説が、アートはどこまで許されるかとか、アートと倫理というの問題だったからだ。プラスティネーションについても「アーティストは」なんたらとか、作品がなんたらとか言っていた。それで引き合いに出されたのが、先日も書いたが、サザビーズで飛びきり高価な値がついた Damien Hirst の作品だった。確かに、彼のも動物のホルマリン漬けなのだが・・・

 日本で、プラスティネーションの紹介やら解説の記事を読んだ時、それはアートだなんて語られていなかった。科学見世物、というか、科学展示会、で、見本市会場というか、よくても博物館展示という感じで、「美術展」とか、美術館とか、芸術とかの枠では議論されてなかったと思う。

 まあ、人間の臓器だの死体だのを展示して見る、ということ自体が際ものというか、冒涜的な感じなので、それを正当化して罪悪感を消すためか、啓蒙的、科学教育的なテイストと、新しいテクノロジーの価値とか、ことさら散文的なバイアスがかけられていた。アートであるかないかなんて切り口は私は知らなかった。

 これは、ミュージアムという言葉が日本語では美術館と博物館の2種類の訳があることとも関係する。博物館なら「科学的(歴史的も含む)」な価値のあるもの、めずらしいもの、がOKで、美術館には芸術的価値のあるもの、という合意がある気がする。

 ルネサンスのヨーロッパでは、新大陸からの文物はもちろん、キリンでもインディアンでも黒人でも肉体的ないわゆる「奇形」者でも、みんな「珍しいもの=価値あるもの」として、展示されたり、貴族やブルジョワが「Cabinet de curiosites」というコレクションにおさめたりした。

 こういうコレクションは、後の分類学とかの基礎ともなったので、好奇心といってもただの悪趣味ではなく、科学精神もあったわけだが、これが、キリスト教的な秩序や世界観におさまりきれない部分を収容していたのだろう。

 ミュージアムもほとんどは、個人のコレクションの発展したものだ。

 昨年はじめに上野の国立博物館でエジプトのミイラ展を見て、その時も、ミイラをCTスキャンして、中まで見せよう、というので、最新のテクノロジーが強調されていた。まあ、エジプトのミイラは考古学的価値や歴史価値もあって、人類遺産って感じはするから、それでOKだけど、どこの誰か分からない現代の中国人のおじさん、なんかが樹脂を注入されて縦割りされているなんて展示会は、考えてみると、どういう理屈をつけて「見せる」んだろう。

 確かに冒涜的な感じがするこんな途方もないものは、「科学」でなくて、「アート」とした方が、欧米では通りがよいようだ。
 「倫理に反する」というクレームも、ある意味で西洋的であり、それに対抗するには、「いや、科学的展示ですから」というよりは「いや、コンテンポラリー・アートですから」と言った方が通りやすいんだろう。

 では、あれは、アートだったのか?

 この意外な発想の違いはけっこう本質的な何かを秘めている気がする。

 聖人の聖遺骨の展示やコレクションの伝統が、ルネサンス以降も、偉人(学者・アーティスト・哲学者・政治家など)の遺骨だの体の一部の保存に変わって残っているヨーロッパというコンテキストとも切り離せないと思う。


次に今年の3月26日の記事。

 >前に書いた( http://spinou.exblog.jp/9765172/ ) 人体標本展がリヨンに続いてパリで開催されている。

 「アート」ではやはり無理だったらしくパリの科学技術館や人類博物館に売り込んだらしいが、いずれも、倫理的な理由で断ったらしい。それでも私的なスポンサーはついて宣伝はしているが、その後どうなったのかと思ったら、やはりその「人体」が中国人のものであるということで、毎年6000人から7000人と言われている死刑囚の者ではないかと疑問を呈する人が出てきた。

 私も日本で見た時、最初のドイツ由来の展覧会と違って、アジア人の標本には、嫌な感じがして、チベット人じゃないのか、と思った。

 フランスでの議論に、中国人は先祖を敬う伝統が根強いから、医学の献体も少ないので、このような標本(「万全の信頼を寄せての献体」ということになっているらしい)の出所はあやしい、というのがあった。

 ドイツのプラスティネーションは今でも健在で、人体サーカスとして演出を加えている。それもグロテスクではあるが、一応「アート」とか「表現」の線を貫いているのだ。最近、自分の身体を永遠に残したいと遺言して、名前を公表してプラスティネーションの処置をしてもらったドイツ人の写真記事を見た。だから、ばらばらにされるのではなく、本人の肖像みたいなのが同定可能になっている。
 まあ、埋葬が主流の文化において、自分の身体が腐るのがいやだ、という気持ちはあっても不思議はないので、無料できれいに処理してもらえれば、と思う人も出てくるのかもしれない。

 キリスト教といえば、プラトン風の「肉体は魂の牢獄」、という身体蔑視を思い浮かべる人もいるだろうが、そして中世ヨーロッパなどでは実際そういう部分もあったのだが、実際は、その根幹が「肉体」と結びついている。神が人に受肉したというのと、死の後にキリストは肉体ごと復活したという根幹である。

 だからキリスト教では、肉体蔑視と言っても、サクス(肉)とソーマ(体)を分けて、肉の方は、人間の条件である原罪、つまり欲望に屈して神から離れるので律するべきものであり、それに対して体の方は、聖霊の働く場所であり、聖性へ、つまり神との一致へ向かう。そこでは体は魂の牢獄どころか、神を宿す「神殿」ですらある。

 プラトンのギリシャには同時に肉体賛歌の文化もあったわけだし、ヨーロッパでもルネサンス以降の社会におけるキリスト教の非宗教化の過程では、やはり、人間=肉体の称揚=神格化があったわけだ。だから、その名残がある今のフランスでも、「神を冒涜」するようなアート表現はかなり過激でも別に問題にならないのだが、人間の体の展示には倫理的問題を感じるらしい。

 これがいわゆる「聖人の体(腐らないパードレ・ピオの遺体とか)」の公開などであれば、それはまさに神格化しているのだから、崇敬であって冒涜にはならない、という論理が通るのだが、単に「教育的見世物」として人体を公開するのは非常に抵抗があるわけである。
 ヨーロッパでもたとえばムッソリーニのような独裁者を殺してその死体を「さらしもの」にするというような野蛮なシーンはついこの前まであったわけだが、そういうトラウマも含めて、「人体の不思議展」に強い嫌悪を表明する人が後を断たないのである。

 文化的文脈というのは不思議なもので、好奇心にかられて日本ではプラスティネーションも人体の不思議展も見てしまった私は、パリでは忌避感がある。

 生命活動を失った後の人間の体に向ける視線には、いつも、世界観が現れる。それは「種」としての人間観であり、自己をどう認識しているかということでもあるのだろう。


 次に、4月5日の記事の後半。


  > 同じ「体」つながりで、しつこいようだが、パリでやっている例の「人体の不思議」展は3月20日に、 「人間の遺体は尊重と尊厳と礼儀を持って扱われなければならない」というフランスの法律に違反するということで、死刑反対のNPOなどが中止を申し立てた。
 インタネットの宣伝サイトでは「アーティスティックで教育的なもの」とあり、反対派は、「センセーショナルであり、科学的ではない」と攻撃している。このへんも微妙に歯に衣着せた論点のずれがある。

 主催者側の弁護士は、展示は科学的側面が重要で、目的は人体を désacraliser (=非神聖化)することである、これによって、フランスにおける臓器ドナーが増えるのに寄与できるかもしれない、などと言っている。

 こういう風に言ってしまえるのは、フランス社会が長い間、カトリック教会の影響によって体を管理されてきたことから「解放」されたという「ポジティヴな戦い」についてのコンセンサスがあるからだろう。

 表現の自由は守られなくてはならないし、冒涜罪、冒聖罪は、あってはならない。ということで、「人体」をめぐる「モノ化」への抵抗を、人体の「神聖」化=過去の遺産という図式を使って排除しようという論理だろう。

 判決は4月9日に出るそうだ。

 この展示は、15ユーロとフランスにしては高く、結構人を集めてビジネス的には上手くいってるようだ。

 人体が開かれたり切り刻まれたり、処理されているのを見てみたいとか際物を見てみたいという気持ちは、普通の人の普通の死が家庭などから消えてしまって、若さと健康至上主義である今の世の中においては、ちょっと不思議な衝動でもある。

 他者の「遺体」を「眺める」という行為には、それなりの意味づけが必要だ。
 その意味付けのないところで、ただ、金を払えば好奇心を満たせるというだけでは、居心地の悪さが残るかもしれない。

 カトリックなどでの聖人の遺体信仰では、「神聖化」が隠す方へ向わずに、「神聖化=神聖なモノ化」になっている。それは類推呪術から受け継がれてきた「病の治癒」などという「意味」の流れの中で呈示されている。

 死を生に統合するやり方や、遺体をどう処理するかは、あまりにも人間的で、同時に文化的な指標なので、観察の興味は尽きない。<

以上である。

 というところで、その後、日本に行って、こっちに帰ってきてみたら、展覧会は4月22日の夜に仮処分で閉鎖され、その後4月30日に正式に中止命令が出たそうだ。

 4月21日の判決では「良俗に反する」ような訴えが認められた形だったようだが、30日の判決では、特に、主催者側が、展示されている遺体の身元や本人の生前の同意を証明できないというところが、人権侵害の疑いとなったらしい。本人の同意のない中国の死刑囚の死体だという訴えに反応したようだ。

 フランスで、法律が、一般の展示会を中止するのは、非常に稀なケースである。
 前衛アートへの許容が高いから、アメリカやイタリアやイギリスなどで冒涜的だとされて中止や非展示に追い込まれるような作品でも、ほぼフリーパスである。その辺のことは、以前ポンピドーセンターでの『Traces du sacré』展の記事でも書いた。

 マルセイユやリヨンではすでに公開されたこと、日本で私自身も見ていること、も含めて、けっこう複雑な気分だ。イスラムでは遺体の公開は禁じられているからパリのイスラム・ロビーが影響しているのではないか、とちょっと穿った考えも頭をよぎる。

 これに関するブログを見てみると、案の定、キリスト教の聖人のミイラの公開はどうなんだ、と書いている人がいる。
 人権という点で考えると、聖人に認定されたような人は、すでにそういった聖人の遺体や聖遺物信仰のある環境で生きていて、自分も死んだらみなさんの祈りを神に取次ぎます、と言明したり、聖人になりたい、などという積極的意識を持っているのが基本だから、遺体の公開もOKという同意があったようなものであると思われる。それでなくとも、普通は教会の決定に従順であるという意志を示しているのだから、聖堂内陳列というか、崇敬の対象になっても、まあ、信仰の問題、せいぜいフォークロアの問題だ。

 人体標本展は、教育的科学的と銘打っても、大学医学部の標本室の出来事ではなく、大宣伝をして、高い入場料もとって、関連グッズも販売したりして、完全に商業行為なんだから、人々も別に賽銭を上げたりガンをかけたり拝みに来るわけではない。で、だから、「あやしくない」=教育的というのは、確かにどこかおかしい。

 どんなものでも宗教色を消せば、ただち無味無臭で無害な商品になるのかと言えば、逆に、宗教という口実がないことでかえって突出する実存的な冒涜の香りも立ち上ってくることがある。

 きっと、人間の体というものは、生きている時も、死んでからも、自分ひとりのモノではなく、情動をともなう関係性の中でしか存在しないものなんだろう。

 開かれ、スライスされ、標本にされ展示されているモノとしての体が、いったいどこから来て、何もので、どこへ行くのかという問いを抜きにしては、見ることを共有できないというフランスの感覚は、ひょっとしたらかなりフランスらしく健全なものなのかもしれない。
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by mariastella | 2009-05-07 21:54 | 雑感

インフルエンザの報道について

 日本にいる間にメキシコ発の新型インフルエンザの報道が始まって、胸が悪くなった。
 過剰反応というか、恐怖心をそそるような、カタストロフィ映画のような映像ばかりだし、あの段階で、大臣がが午前1時とかに記者会見するのにも驚倒した。メキシコから来た飛行機に乗り込む検疫の人の様子も。
 フランスではだいぶ違うだろうなあと想像していたが、やはり、メキシコ便の検疫も5月に入ってから始まったばかりらしいし、アフガニスタンの情勢とかのニュースの方が大きい。日本では、飛行機の旅、大丈夫ですか、といろんな人に言われたが、シャルル・ドゴール空港もいつもと同じアバウトな感じだった。

 9・11の時も、日本のニュースは邦人の消息ばかり伝えて、フランスでは、フランス人の消息よりも総合情報が多かった。まるで日本の政府は日本人の安否をすごく気づかってくれているみたいだが、海外に暮らして何十年、日本の海外公館が邦人のサーヴィスに徹しているという実感はまったくない。むしろ冷たい、というのが実感だ。フランスの方が、移民2世のフランス人が9・11に関わってアメリカで裁かれた時も熱心に人権保護をしようとしていたし、紛争地域におけるフランス人の人質救出にも明らかに熱心だ。

 日本のあの熱心さは、いわゆる水際作戦で、悪の元がうちに入り込まないようにしよう、というだけの自己中心な態度だけだ。伝染病が起こるとまたたくまに大惨事になるような開発途上国の構造的や技術的な問題に対してそもそも何か援助できるのか、という発想はない。
 
 それでも、それですら、フランスでは、この新型インフルエンザに対する過剰報道を批判する声をいろいろ聞けた。

 まず、メディア操作の問題だ。

 たとえば、スリランカでタムールのゲリラ殲滅の政府軍の攻撃に巻き込まれて死ぬ人々の様子は撮影禁止だから出てこない。人がいなくなってがらんとしたメキシコの通りの映像を流す方が恐怖心をそそることができる。

 新型インフルエンザは確かに世界中に被害を及ぼす可能性があるが、普通のインフルエンザでも、高齢者や子供や免疫力の弱っている人の間では死者を出す。でも、先進国では概して栄養状態がいいし、抗ウィルス剤もあるから、大惨事になる可能性は、後進国に比べてずっと少ない。アフリカでのエイズの蔓延を考えても分ることだ。

 日本やフランスのような国では、インフルエンザによる少数の死者が出ても、それはすぐに、餓死者の数よりも多くなる。しかし、地球には10億人の栄養失調者がいて、日に2万人死んでいる。マラリアでは、毎日3000人の子供たちが死んでいる。

 逆に、ヨーロッパのような地域で本当に深刻なのは、政治的構造的伝染病の上陸である。たとえば、セネガルあたりから毎日のように飲料水もなく送り込まれて漂流する膨大な数の不法移民の問題だ。
 どんなに「強制送還」したり、取締りしたとしても、故郷で餓死するかサヴァイヴァルをかけて危険な渡航をするかどちらかだ、という人々を止めることはできない。ウィルスを水際防止する難しさどころではないのだ。地球における根本的な貧困の問題と向き合わない限り解決できない。

 日本でも、アジア諸国からの不法移民者の問題は深刻になっていると思う。しかし、貧困をウィルスのように水際で撃退するだけで解決できる問題ではない。
 そして、構造的な貧困の問題は日本国内にも広がる。

 日本では毎年、自殺者が3万人を超えている。一日100人近くが自ら命を断っている計算だ。

 はっきりいって、インフルエンザどころではない。

 ものものしい検疫や午前一時の記者会見する暇に、人々がなぜ自殺に追い込まれるのか、構造的、政治的、精神的な原因究明や対策に真剣に取り組むべきではないのか。

 新型インフルエンザについての報道を聞いていて胸が悪くなったのはそのためだと思う。
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by mariastella | 2009-05-06 18:09 | 雑感

体への視線

 私が大学生の頃、木村尚三郎さんが、「西洋人の握手」について、「皆さん、知ってますか? 私たちは、西洋人は簡単に手を握り合ったりして、体に触れ合うのが習慣だと思っていますが、彼らは本当は、体に触られるのが日本人よりもずーっと、嫌いなんですよ。不信の固まりで、武器を持っていないことを示すために手を差し出し合うわけですが、本当はすごくそれを嫌悪していて、必死に耐えながらやっているんです」と学生に話した。
 
 その頃はなんだか、すごい裏話を教えてもらったような気がしたものだが、自分がフランスに住むようになってから、彼はお話は面白いが、思いこみは激しいなあ、と思ったのも覚えている。

 「黒人、白人、黄色人種という呼称も、黒と白は本当の色の区別ですが、黄色と言うのは心理的な色なんですよ。白人による警戒を意味しているんです。その証拠に、日本人の肌は白人と同じ色ですよ、(自分の腕を見せながら) ほら、黄色くなくて白いでしょ」

 というようなことも話された。同様のことを後年、総合雑誌のエッセイに書いておられるのを読んだこともある。

 これについては、その話を聞いたその瞬間から、ちょっと違うなあ、と思った。確かなのは、木村さんの肌が確かに非常に白くてきれいで、いわゆる色白の人だったということだ。

 確かにいわゆる「黄疸」などの症状では、どの国でも「黄色」という言葉を使うし、実際、肌が黄色くなる。(黒人が黄疸になったらどのように見えるのだろう?)

 白人でも色素の薄い人は、透けるような肌、というわけで、血の色でピンク色に見えるし、いわゆる赤ら顔の人もいる。アジア人の中には、やはりどうみても黄色っぽい肌の人もいる。実際に遺伝的にメラニン色素の量が違うのだろうからヴァリエーションがあるのは当然だ。

 フランスでは、アラブ人などは有色人種とか肌の色がmat(=艶がない)などと言われるが、日本人にとっての西洋人は、肌の色だけではなく、立体的な顔立ちもセットになっているので、彫りの深いアラブ人などはラテン系西洋人と変わらないと感じる人も多い。特に男性では、「白人」も、肌は白いより日焼けしている方が価値があると思われるから、外見「だけ」では区別がつきにくい。

 入場券を買うために列を作るというような状況の時に、人と人の距離が、「西洋」の方が「日本」のそれよりも広い、ということも日本ではよく聞いた。では「彼ら」は、やはり本質的に体の接触を嫌うのだろうか?

 これも、「西洋人」にもいろいろあって、フランス人は一般に列における他人との距離が狭く、アングロサクソンでは広い、ということはフランスでも言われることがある。

 握手にしても、アングロサクソンの 「Shake hands」 とフランス人の「 serrer la main」は本来全く違う。

 フランス人は毎朝ボンジュールといいながら同僚と機械的に握手するが、短く、早く、握力が強目が基本で、体には触れない。挨拶とセットになっているので別れる時にもする。イギリス人は初対面の時などは握手するが、毎日会う同僚などとは省略される。シェイクハンズは、接触時間が長く、文字通り振ったりする。もう一方の手で肩をたたきあうということもある。

 フランス人がこういうことをする時は、「いやー、おめでとう」のように祝福したりするシーンで、エモーショナルだ。フランス人のただのビジネスの相手に紹介された日本人がアメリカ風の握手をしようとすると、すばやく手を離そうとするフランス人が、手をつかまれて離してもらえないので非常に焦るということもある。

 イギリス人でフランスでビジネスをする人たちは「フランス風」がどんなものか知っている。

 アメリカ人はもともと動作が大仰だと思われている。しかし日本人は、慎み深くて、体を触らず「お辞儀する」という先入観があるくらいだから、アメリカ風に手を握ってくる日本人との出会いはフランス人にとってトラウマになることが一昔前まではあった。

 まあ、今はグローバリゼーションの世代でアメリカ化しているので、ショックも減ったようだが。

 それでも、先日のロンドンでのG 20 における各国首脳の体の「触り方」は、いろいろ興味深かった。

 メルケルは変貌したと言われた。
 
 過去に、シラク大統領に手に接吻された時のメルケル女史は硬ばっていた。
 はじめてサルコジがメルケルを抱くようにして両頬にキスした時もショックを隠せなかった。
 後から外交筋を通じて、適正距離をとれとクレームがついたそうだ。

 そのメルケルは、いまや、自分から手を広げてキスにまわっている。
 サルコジの馴れ馴れしさは伝染するとも言われるゆえんだ。

 今回のG20 では、首脳たちの体のふれあいが多かった。
  
 解説者によると、「肩に手を回す」のは、保護のシンボルだそうで、それはそのまま、支配のシンボルになる。強者が弱者を保護するからだ。

 私の見た写真ではベルルスコーニが両腕をオバマとメドヴェージェフの肩にまわして撮影というのもあったし、麻生さんがブラジルのルーラの両肩に触れているのもあった。
 アメリカとヨーロッパの主導権の争い合いという面もあるから、就任したばかりの若いオバマに、「プロテクト」風のジェスチャーをしようとする人が多かったようだ。
 また、伝統的には、男同士は家族以外は頬にキスしあわないのだが、抱擁しキスしあう首脳同士も多く、これも「兄弟」という親しさのパフォーマンスだった。

 実際、オバマ夫妻も相手によく「触る」。

 長身のミシェル夫人が、小柄なエリザベス女王の肩に手を回した写真は、結果的に好意的に受け取られたものの、微妙なところだった。

 オバマの最初のフランス入りということでも注目されたストラスブールのNATO会議では、レポーター(カトリーヌ・ネ)によると、

 オバマがサルコジにキスし、
 サルコジはミシェルにキスし、
 ミシェルはカルラ(サルコジ夫人)にキスしたが、
 オバマはカルラにキスしなかったそうだ。

 これをどう読み解くか、難しいところだ。

 とにかくこういう場での親しさの表現は、もちろん非常に政治的なものであるから、単なるそのときの気分などではない。

 体ではないが、ファーストレディのファッション比べなどという言説も相変わらず繰り広げられる。
 ブラウン首相のサラ夫人は古臭い、カルラは洗練されていてミシェルは個性的というように。
 メルケル首相は同列には比べられない。

 こういうコメントを通して、メディアが言いたくても言えないこととか、本音が透けて見える場面もあって、複雑である。

 同じ「体」つながりで、しつこいようだが、パリでやっている例の「人体の不思議」展は3月20日に、 「人間の遺体は尊重と尊厳と礼儀を持って扱われなければならない」というフランスの法律に違反するということで、死刑反対のNPOなどが中止を申し立てた。
 インタネットの宣伝サイトでは「アーティスティックで教育的なもの」とあり、反対派は、「センセーショナルであり、科学的ではない」と攻撃している。このへんも微妙に歯に衣着せた論点のずれがある。

 主催者側の弁護士は、展示は科学的側面が重要で、目的は人体を désacraliser (=非神聖化)することである、これによって、フランスにおける臓器ドナーが増えるのに寄与できるかもしれない、などと言っている。

 こういう風に言ってしまえるのは、フランス社会が長い間、カトリック教会の影響によって体を管理されてきたことから「解放」されたという「ポジティヴな戦い」についてのコンセンサスがあるからだろう。

 表現の自由は守られなくてはならないし、冒涜罪、冒聖罪は、あってはならない。ということで、「人体」をめぐる「モノ化」への抵抗を、人体の「神聖」化=過去の遺産という図式を使って排除しようという論理だろう。

 判決は4月9日に出るそうだ。

 この展示は、15ユーロとフランスにしては高く、結構人を集めてビジネス的には上手くいってるようだ。

 人体が開かれたり切り刻まれたり、処理されているのを見てみたいとか際物を見てみたいという気持ちは、普通の人の普通の死が家庭などから消えてしまって、若さと健康至上主義である今の世の中においては、ちょっと不思議な衝動でもある。

 他者の「遺体」を「眺める」という行為には、それなりの意味づけが必要だ。
 その意味付けのないところで、ただ、金を払えば好奇心を満たせるというだけでは、居心地の悪さが残るかもしれない。

 カトリックなどでの聖人の遺体信仰では、「神聖化」が隠す方へ向わずに、「神聖化=神聖なモノ化」になっている。それは類推呪術から受け継がれてきた「病の治癒」などという「意味」の流れの中で呈示されている。

 死を生に統合するやり方や、遺体をどう処理するかは、あまりにも人間的で、同時に文化的な指標なので、観察の興味は尽きない。
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by mariastella | 2009-04-05 00:23 | 雑感

安易な東西比較言説は何とかならないのか

 「大恐慌」を前にして、時代の変遷や危機感を分析しようとする言説は、フランスでも日本でもたくさんあるけれど、日本であいも変わらず根強く見かけるのが、「明治時代ですか」と思えるくらいの型にはまった東西比較である。
 
 いや、明治時代の方が、欧にも米にも広く人材を派遣して勉強させ、欧でも、日本と同じ島国である英国と大陸国との違いを分析するなど、きめ細かい観察が政府レベルでなされていた。

 ヨーロッパと日本にメンタリティの違いがないなどとは言わない。
 その違いの深いところにキリスト教の影響があるのも認める。
 しかし、それは非常に複合的で逆説的なさまざまな経緯を経たものである。

 でも日本で言われるのは、何かというと、
 
 欧米は肉食文化だから(残酷で野蛮)とか、
 欧米は一神教文化だから(独善的で融通が利かない)とか、

 それに引き換え、日本は、草食文化で穏やかだとか、八百万の神だから原理主義でないとか・・・・

 そんなものが、ネオ・リベラリズムの弱肉強食メンタリティの批判としてすら持ち出されるのだ。

 戦後の日本は思考停止状態で経済の復興を最優先してきたし、冷戦以降のネオ・リベラリズムや拝金主義消費主義には、「欧米」と一緒に、なりふりかまわず突き進んできた。

 それがいったんおかしいということになると、いや、日本は本来はこういう国でなかったのに、「欧米」に汚染されたんだ、とか言い出すのは不毛すぎて、いつも脱力させられる。

 昨日も、『中央公論』4月号の座談会で自民党の有名議員さんが日本の「空気」について語る中で、こうおっしゃっているのを見た。


 「欧州のような狩猟社会は、一人ひとりがうまく野生動物をしとめなくてはならない競争社会です。対する日本は農耕社会ですから、やはりとっぴな言動は慎みます。・・」

 「一神教の世界なら、『それはモーセの教えに反する』とかなんとか議論になるけれど、対する我がほうは、あっちの山にもこっちの山にも神様がいて、場合によっては石にまで神さまがいる。・・・・」

 などなど・・・

 欧州のような「狩猟社会」って・・・・

 縄文人ですか。

 まあ、ヨーロッパの王侯貴族が趣味で狩をするっていうイメージはあるかもしれないけど。

 せめて「牧畜社会」とか言うならましだけど、それなら「野生動物をしとめる競争社会」(=自然に優しくない征服者メンタリティ)というのにうまくつながらない。

 新石器時代のヨーロッパにはすでに農耕があった。というか、農耕という文化を獲得してこそ、どこでも文化が発達したのだ。縄文人だって後期には稲作をしていたことが分っているらしい。

 競争があれば相手を殺しても勝とうとするし、権力や富は分配するより独占しようとする、などのメンタリティは、残念だが文化を超えた「人類」のメンタリティだと思う。それをどう矯めていくか、あるいはどう管理していくかは文化によって表現が違うけれど。

 欧米のユニヴァーサリズムには特徴が二つある。

 キリスト教における、パウロのユニヴァーサリズム(「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」ガラテヤ3-28)がその一つだ。人は、神の子としての兄弟関係によって、尊厳において平等である。

 他の「普遍」宗教も、救済において地縁血縁を問わないという点で民族宗教を超えて、万人に信仰の可能性を開いているという点では同様のユニヴァーサリズムがあるが、キリスト教においては父子関係の力動によって、そのユニヴァーサリズムの自信が一際大きく、宣教主義がある。

 それは、やはり「世界」を視野に入れるという野心のあったローマ帝国の版図に生まれて広がったこともあるが、そのメンタリティのベースとなった、ギリシャの都市国家ですでに、「コスモポリタン=世界市民」という概念があった。

 それが特徴の二つ目につながる。

 世界中にキリスト教の福音を伝えるという使命感が、後に、たとえばフランス革命での人権宣言も「フランス人」用ではなく、人類への「福音」としてとらえられたし、マルクス主義も、疎外された人間の解放という普遍的「福音」としてとらえられた。

 ユニヴァーサリズムは、「尊厳における平等」がすべての人類に適用できるという確信においてユニヴァーサルであるが、「その実現の場はユニヴァーサルの坩堝であるヨーロッパである」とヨーロッパ人は思っていた。

 カント、フィフテ、ヘーゲル、シェリング、フッサールからパトチカまで、みな、ヨーロッパはユニヴァーサリズムをユニヴァーサルにする使命がある、と思っている。

 そういうヨーロッパ中心主義のユニヴァーサリズムがある。

 実際はパウロにおいても、ユニヴァーサリズムは信仰上の約束であり期待であり、「この世」においては、人間の本質的平等を納得してその実現に向けて努力する責任がある、という以上には至らない。

 しかし、ヨーロッパのユニヴァーサリズムが、キリスト教と拮抗して非宗教化しはじめた頃から、それはイデオロギーとなり、政治的プログラムとなった。そのモデルとしての「民主主義」などが、あまねく世界に輸出=押しつけるべき「福音」となったのだ。

 ユニヴァーサリズムの方法論やモデルやツールにおけるヨーロッパ中心主義の見直しと、グローヴァリゼーションの時代における平和共存の鍵としてのユニヴァーサリズムの有効性とは、分けて考えた方がいいと思う。

 ヨーロッパの思想は、キリスト教ユニヴァーサリズムとその非宗教化の歴史の波に洗われ、必然の展開となった無神論とニヒリズムを超克しながら練成されてきた。そこに、科学技術主義と資本主義という現代の世界スタンダードとなった「西洋文明」がセットになって生まれてきて、日本のような国は、サヴァイヴァルのためもあってそれを採用している。洋才は洋魂と分かちがたいのだが、そのラディカルな受容にあたって、あえて「和魂洋才」を唱えたのは、その時点ではすぐれて戦略的だったわけだ。 

 でも、それから100年以上経って、西洋近代もポスト近代へと移り(日本もその時点ではすでに同舟だ)、地球の上では南北格差が広がり、環境危機まで加わり、混迷の時代を迎えている。自己の繁栄のためになりふりかまわなかった先進諸国にその責任の多くがあるとしたら、日本もそれを免れないだろう。

 それなのに、日本は本来は農耕社会で穏やかな協調社会で、地球に優しいアニミズムとか、自給自足の平和な江戸時代とか、それに比べて、「狩猟社会」で「一神教」の欧米は・・・なんて、どの口で言えるんだ、と思ってしまう。
 
 政治家でも、文化人でも、宗教家でも、そういう安易な「東西比較言説」が蔓延しているのだ。

 一方、「西洋思想」をせっせと輸入して説いている日本人学者の多くの言葉は、それはそれで、それらの思想が、西洋思想の長い葛藤的文脈の中でいったいどういう位置にあるのかという洞察を抜きにしたものなので、何のことやらよく分からない。

 困ったものだ。






 
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by mariastella | 2009-03-25 22:24 | 雑感

聴覚障害者の世界

 昨日TV5で、聴覚障害者のドキュメンタリーと議論の特集を見た。

 この問題は関心があったので。

 ちょっとショックだった。

 生まれつきの聴覚障害児に音声言語を最初から教えることを、マイノリティのカルチャーから言語を奪うのと同じだ、聴覚障害者のアイデンティティの否定である、と攻撃していたからだ。

 この問題で、どの国でも長年、音声言語派と手話派が議論を戦わしているのは知っていたが、手話によって、モリエール演劇賞を得た女優などが、非常にアグレッシヴ(と私にはには思えた)に音声言語を否定するのにはめんくらった。彼女はほとんど、手話が言語として音声言語よりも優越しているといわんばかりに称揚していた。

 唯一興味深いと思ったのは、パリの病院で手話で診察を始めた医者の話だ。聴覚障害者は、医療において機会差別をされているということはよく分かる。だからこのフランスに20人ほどしかいないこの医者のようなバイリンガル(音声と手話)の医者は貴重である。
 問題は、医者が患者に使う(または使わない)お決まりの婉曲表現というものが使えないということらしい。
 
 たとえば、音声言語で、「あなたは非常に重い病気ではありますが・・・」と医者が言っても、患者は、すぐにその意味をキャッチしないそうだ。言葉を聞いて、意味を考えて、それを受容するまでにいろいろなごまかしや粉飾や心の準備がある。それが、手話では、意味がきっちりと伝わってしまうので、医者も患者もなまの情動と切り離せないのだそうだ。

 今日の午後、レッスンをした私の生徒は20年来聴覚障害児の教育に携わっている人なので、この番組を見たかどうか聞いてみた。
 見始めたけれど、あまりにも、派閥主義のプロパガンダだったので、耐えられなくて10分で消したそうだ。他の同僚も同じ反応だったそうだ。

 この人は、別に、音声言語至上論者ではない。

 私と彼女は、彼女のクラスの子どもたちに、踊りとリズムで音楽教育ができないかと考えていた。

 その準備に、いろいろな試行錯誤をしているのだ。

 先日書いたような音楽障害というのもあるのだから、純粋の聴覚だけの問題ではない、非常に複合的なものなのだ。

 このテーマについてはまた別の機会にあらためてとりあげよう。
 
 
 
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by mariastella | 2009-03-05 00:05 | 雑感

ヴォルテールの哲学辞典

 ヴォルテールの哲学辞典の宗教の稿で、後のマルクスの「宗教は民衆の阿片」にもつながる話が出てくるのだけれど、いつも身につまされる部分がある。

 音楽愛好家同士が、一緒に musique savante et raffinee (学問的で洗練された音楽)のコンサートをやってるのはいいけれど、野蛮な輩の前でそれをやると楽器を頭に叩きつけられてしまうよ、普通の村を統治するにはやっぱり宗教を与えなきゃ、

 というくだりだ。この学問的で洗練された音楽というのは、明らかにルソーの音楽でなくてラモーの音楽だ。
 ここでは、もちろん、インテリの間でさかんだった非神学的な哲学論議のことを言っている。

 18世紀のインテリの多くにとってはすでに、「教会主導」のキリスト教などは女子供と民衆のものであって、啓蒙の「蒙」にあたるものだった。まあ、ヴォルテールは19世紀的な無神論者ではなかったので、ユニヴァーサルな神(=至高存在)と超越の価値は信じていたのだが、こうはっきりいうのを読むとどきっとする。
 
 それはもちろん、私が、musique savante et raffinee の愛好家であって、仲間うちで、せっせとコンサートを企画したり、他の人も「啓蒙」しようとしているからだ。

 ヴォルテールがこの場でこういう比喩を出したのは、それなりに、奥深いというか、私にとっても本質的な何かを示しているような気がする。
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by mariastella | 2009-02-19 00:07 | 雑感

鉄道飛び込み自殺対策の哀しみ

 昨日の新聞は、パリの郊外線(基本的に国鉄のみ。パリ内部は地下鉄が基本)がこれまでのタブーを破って、線路へのとび込み自殺の対策に本格的に取り組むことを報じていた。

 2日に1人の割合で死ぬのだそうだ。実際よく遅れが生じる。

 しかし、これまでは「人身事故」とか単に「事故」のためとアナウンスされるだけだった。
 それでなければ「電気系統の故障」とか、けっこう具体的なのだが・・・

 一人とび込むごとに引き起こされる平均2時間の遅れによる損害も大きいが、よけ切れなかった運転士や後始末をする職員のトラウマも大きい。

 それで、タブーを破って、本格的な「対策」に乗り出した。

 それにあたって、他の国の対策例を現地にも出むいて調べたそうだ。

 カナダでは減少に成功した。

 ホームでそれらしい人の様子を見抜いて声をかけるために特別の訓練を受けた職員を配置する。

 とび込む人は、列車が入ってくる前の闇に引き寄せられることが多いので、列車が入る直前に強烈な照明が当たるようにして「闇」を排除する。

 とび込んでも必ず死ねるとは限らない、失敗率もあり、そうなるともっと悲惨なことになる、ということを宣伝する。

 などだそうだ。でも、調査に来たフランス人に対して、カナダ側は、自殺という言葉をやはり使わなかったのだそうだ。「救急車の要請を必要とする事件」と呼ぶらしい。

 国鉄のこの対策に対して、2008年度はむしろ自殺者が減少したとされるパリの地下鉄側は、ノーコメントで通しているそうだ。「タブー」は健在なのだ。

 私が胸をつかれたのは、東京の「人身事故」が有意に減ったと聞いてその対策を調べた話だ。真偽は知らないが、それは、

 「とび込み自殺による損害の賠償を遺族に請求する」

 という決まりの成果だという。

 このような「Un code de l'honneur (名誉の観念に基づく決まり)」はフランスには適用不可能だ、と書かれていた。

 これが皮肉なのかどうかよく分からないけれど、日本ならこういうこともあるかもしれないなあ、と思った。

 リストラなどで失業したり破産したりした中高年の自殺がよくあるというのは聞いていた。自分が死んで残された家族や従業員の活路を開こうと思った人もいるかもしれない。ただ疲れて絶望した人かもしれない。
 そんな時に、自分がとび込んで、家族に損害賠償が請求されるのでは意味がない。残された者に迷惑がかかる、と言われるのは、とび込みのせいでダイヤが乱れると言われることと比較にならない抑止力になるだろう。

 なんだか、確かに日本だから通用しそうで、日本だから考えつきそうな対策である。

 分かるような気がするだけに、哀しくて、心が凍る。

 
 
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by mariastella | 2009-02-11 23:32 | 雑感

Slavoj Zizek の記事を読んで思ったこと

 Slavoj Zizek がオバマ大統領について、ブッシュの野蛮な覇権主義からちょっとソフトでヒューマンなものに変わっただけで、アメリカの帝国主義的態度は同じじゃないか、みたいなことを書いていたのをLe mondeの翻訳で読んだ。

http://www.lemonde.fr/archives/article/2009/01/31/apres-sa-version-barbare-voici-l-empire-americain-a-visage-humain-par-slavoj-zizek-philosophe-slovene-professeur-a-l-universite-de-ljubljana_1149055_0.html

 オバマの就任演説を聞いて、私も全く同じことを考えて、オバマ・ファンのフランスの友人たちに話したら、

 「それは、彼に投票した人たちへの当然のリップ・サーヴィスだ。民主党はアメリカ一極支配はもう不可能なことをよくよく知っているので、根本的に変わった。ヒラリー・クリントンははっきりとそれを認めている。現実的だよ」

 と、弁護された。

 もともと、私は、1人の人間が熱狂的に崇められたり夢や期待を一心を集めるという状況自体が好きではない。はっきりと、特定の国の「国益」を代表すると分かっている人の場合はなおさらだ。

 大体、政治家のメンタリティそのものが私とはあまりにもかけ離れているせいもある。

 もちろん、夢と信念と使命感を持って邁進する人が世の中には必要で、そういう人が少しずつ世界をよくしていくのだろうとは思うのだが、あんなにも世界中から注目されているシーンで、あんなにも大風呂敷を広げて、熱狂されて、この人、就任式の前は眠れないんじゃないか、と、馬鹿な心配をしてしまう。 ま、こういう人は、興奮して眠れなくても、不安で眠れないなんてことはないんだろうけど。

 Zizekは、イタリアのSilvio Berlusconi がオバマを賞賛した言葉も引いている。

 「若くてハンサムでよく日焼けしている」

 みたいな言い方で、これを、Zizik は、リベラル白人が、肌の色を相対化して、自分たちの仲間にとりこんだだけではないかとも取れるというのだ。
 まあ、ブロンゼ というので、厳密には「日焼け」といってないが、両義的な言葉である。

 私も、すでに、白人とのハーフであるオバマを黒人初、黒人初と言い立てることへの違和感を書いたが、逆に、「日焼けした白人」みたいなとりこみ方も、確かに嫌だ。

 概して、アメリカの白人には、肌が白くない男(非コーカソイド)に対する性的コンプレックスの神話があって、実際、自分たちも、アウトドアで日焼けしたり浅黒い、という方がスポーツマンで力強い、男らしい、という路線を追っている。

 その逆が、19世紀あたりに、女性を家に閉じ込めて、肌が白ければ白いほど、労働から解放された(つまり夫の庇護にある)上等な女性というイメージでもある。
 その後で、「女性解放」運動と共に、白人女性も、アウトドアで日焼けしているのが流行になったりするのだが、それも、「力ある男=浅黒い」に追いつくため、という部分もあって、色が黒い方が身体能力が高い、という刷り込みはなかなか根が深い。

 初期アメリカの黒人奴隷が身体能力が高かったのは事実である。

 労働力として取引されたので、もともと、骨格などを基準に選ばれている。
 過酷な条件の航海で、さらに強靭な者が生き残る。
 過酷な労働でも、弱者は淘汰されていったろう。

 プランテーションでは一人の白人農場主に対して、黒人労働者の数が圧倒的に多かったので、基本的に白人の「主人」は身の危険を感じて武装する。

 今も「非白人」についての性的幻想はあるみたいだ。

 オバマ大統領は、いわゆる解放奴隷の子孫ではなく父親がケニア移民ということで、そのような、政治的に微妙な言説からは少し自由な立場だから、「若くてハンサムで浅黒くて」と言われても、普通に賞賛に聞えるかもしれない。

 でも、これは確かに、女性大統領ならば、「若くて(あるいは若々しくて)美人で雄々しくて」と言われているのとちょっと近いかもしれない。「男勝り」とか、「(女だけど)勇敢で決断力があってタフでダイナミックで」などと誉めたりされることは、「勇敢で決断力があってタフでダイナミックで」などが伝統的に男の美点、長所とされていることと切り離せない。
 もしこれが黒人女性だったりすると、「若くて美人で浅黒くて」というのは、ストレートな賞賛にはならない。いくら白人女性が「ヴァカンス焼け」を目指す時代になっても、やはり「浅黒い」のは「逞しい男」の含意とセットになっているからだろう。

 ヒラリー・クリントンの金髪を見ても、文化的含意のニュアンスを感じる。
 もともとラテンの混血が多いフランスには純粋のブロンドは少ない。
 しかし、女優などは簡単にブロンドに染めるが、女性政治家がブロンドに染めるのはそれなりの勇気がいる。「ブロンド=頭が弱い、とか男に媚びる」というような偏見があるからだ。
 逆に女性政治家でブロンドで勝負しているのは青い目とセットになっていて「ほんもののブロンド」というアピールができる。
 
 こういう微妙な「外見」やそれにまつわる言説を見ていると、日本の政治家なんかは少なくとも色黒とか色白とかがコメントの対象にならない点では、シンプルかもしれない。

 しかし、女性政治家の外見が男性のそれよりも、たとえ賞賛という形をとっても取りざたされることが多いのは、やはり、差別と賞賛が裏表の関係にあることを思わせる。

 同じZizekの記事には、「食糧は他の商品のような商品ではない」とビル・クリントンが強調したことが引かれている。Zizekはそれに続いて、水、エネルギー、環境、文化、教育なども同じで、市場経済にまかせるべきではない、と書いている。これに健康や安全も入るだろう。

 私はそれこそ、クリントンの「外見」を最初に見た時、なんだか南部の人種差別主義者っぽい感じだなあ、などという謂れのない偏見を一瞬抱いたのを覚えている。
 ブッシュ大統領がイラク派兵のことで熱くなっていたときには彼の顔をTVで見るだけで気分が悪くなった。
 それに対して、アル・ゴアなんて、何となく、エコロジーの闘志が似合いそうだ。意外性はあまりなかった。

 だから、ビル・クリントンのこの発言(2008年10月国連)が、「先進国」主導の世界の食糧供給システムの非人間性をきっぱり説くことが、意外でもあり、好感が持てた。 
 引退したキッシンジャーの核廃絶コメントの意外さと気持ちよさと似ている。

 国と国益を背負っている時の政治家は、当然なかなかこういうことは言えない。
 でも、彼らが現役を去った後で、真に地球的視野に立つまっとうなことをどんどん言ってくれると、見直すし、なんだか希望が持てる。

 その意味で、フランスがその特徴である「文化ソシアル」と「教育ソシアル」を手放して、大学の独立法人化なんていう方向に行きつつあるのは、大問題だ。

 文化ソシアルの方は、フランスのブランド・イメージもあるのでサルコジも昨今は変に強調しているものの、本来は小手先の話で済ませるものではなく、アメリカとヨーロッパが築いてきた現代の世界の構造そのものの変革の中でしかとらえられない本質的なものであるべきだろう。

 

 


 




 
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by mariastella | 2009-02-07 00:12 | 雑感

共和制とファシズム

 佐藤優さんによれば、ファシズムは「共和制の構築的な運動」(『一冊の本』1月号)なんだそうだ。
 
 合法的な手段で選ばれた「われらのリーダー」「領導者」の周りに国民が結束して、国益一筋になる。ファシズムは民主主義の一形態と思えるそうだ。

 それに対して日本は、超越的な祭主である天皇がいるから、本来はそれがファシズムの歯止めになっている、という展開だが、いくらなんでも短絡的じゃないだろうか。

 まあ、私は現在、サルコジという独裁者が暴れているフランスにいるので大きなことは言えないが、そのサルコジだって、投票者の半数近くの49%には忌避されたわけだ。

 国民の直接選挙で選ばれた代表者がファシズムのリーダーになるには、何か別の要因で、選ばれた時にすでに圧倒的多数の支持を得ていた場合だろう。ファシズムの原因は、直接選挙そのものにあるのではなく、すでにその時の国際情勢などが影響しているわけだ。
 国が一応健全な状態にあれば、独裁者を避けるためだけにでも、優勢な側に反対票を投じるものが出るわけで、「われらのリーダー」だから何でもできるという方にはいかない。
 半数に近い「反対者」を常に擁しているといる緊張感が、フランスみたいな国では、「革命もあり」ということで、権力者の暴走の歯止めになっている(と思いたい)。

 第一、「民主的」に選ばれたヒトラーが最悪のファシズムでヨーロッパを壊滅させたというので、それを教訓としたヨーロッパは、「多数決の原則」よりも普遍的な「人権」の理想が優先されるべきといったような危機管理の安全策をいろいろ用意している。

 人種差別的極右を排除するという意識が強いから、オーストリアのハイダーが選挙によって1999年に連立政権入りした時に、EU諸国は猛烈に反発して辞任に追い込んだ。

 2002年のフランスの大統領選でやはり極右のル・ペンが最有力候補だった社会党のジョスパンに勝って決選投票に登場した時は、彼にノンというためにだけ、すでに人気のなかったシラクが前代未聞の82%の得票で再選された。誰もがその意味を知っていた。

 どんな制度も運営上の失敗はつきものだが、EUは一応、彼らの原則に従って学習したわけだ。

 「超越的なもの」を奉じているからファシズムの歯止めになるというなら、国益の枠を超えた「人権」だって、「自由・平等・友愛」の共和国精神だって歯止めになるはずだ。

 実際は、権威と権力はすぐ癒着したり、「超越的なもの」がただの道具や口実や旗印として利用されたりするので、その辺は、共和国でも君民共治国でも、残念ながら変わらない。

 排外主義によってピュアになって生き残ろうという選択と、多様性の中で連帯して共生して生き残ろうという選択は、生命戦略としては、どちらもありなのかもしれない。でも、今の地球の現実の前では、もう、多様性の中の連帯にしか希望はないと思えるのだが。

 後は、佐藤さんもいってるように、福祉国家型社会民主主義、を自覚的に育てていかないと。それが国家としての統合が弱くても、それはそれで、狭い国益観を乗り越えるチャンスにつながればいいんだけれど。

 

 
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by mariastella | 2009-01-21 01:49 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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