L'art de croire             竹下節子ブログ

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「黒人法王」という言葉からの連想でまた考えたこと

その後、次のローマ教皇選出のコンクラーベ開催が早まるという見通しになった。

空位になってから15日-20日以内というのは逝去の場合なので、基本的には空位の期間が短い方が行政的にも不都合が少ないし、3月末の復活祭に向けて新教皇がリードしていける期間をつくれるのは望ましいからだろう。ローマにはもう続々と枢機卿が集まっているそうだ。

こちらのメディアでは、今でも、保守的なカトリック界を揶揄する調子で「じゃあ、次は黒人法王で」などという論調がまだ残っている。

この言葉を聞くと私はcygne noir、つまりブラック・スワンのことを思い出す。

日本語では「白鳥」に対する「黒鳥」だ。

たとえば「馬」なら、色と関係ない「種」の一般概念で、白馬とか黒馬とか言ってはじめて色が分かる。

でも白鳥や黒鳥は「白い鳥」や「黒い鳥」のことではなく、特定の鳥の種類だ。

ヨーロッパ語のスワンだとかシーニュだとかいう単語には最初から白くて首の長い渡り鳥である鳥の種類を指している。

色のある動物でも、突然変異で色素がないアルビノスという白い個体が一定数で生まれることは誰でも知っているから、「白い・・」というのはどんな種の場合でも、例外としてのイメージができている。

でも白い集団に突然黒い個体が生まれるというのは多分あり得ない。

で、「ブラック・スワン」は仮定としても考えられなかった。

だから、オーストラリアでスワンと全く外見が同じで色だけが黒い鳥の集団を実際に「発見」したヨーロッパ人にとっては、「ブラック・スワン」は、「非現実なことが有無をいわさぬ現実になった」ことの代名詞になるほどの衝撃だったのだ。

同じように、「ローマ教皇」という言葉のイメージに中にはもう「白人」というのが属性のように刷り込まれているということで、「黒人法王」という言葉が発せられる度にヨーロッパ白人は信者も非信者にも戦慄が走っているような気がするらしい。

白鳥に白いという形容詞がつかないように、これまでの白人教皇は「白人法王」とは言われない。

近代以降の法王は「白い服」を着用するのが習慣になっているので、赤や黒が基調の枢機卿たちの間で一人「白服に赤い靴」の教皇の「白い」インパクトは大きいが、肌の色とは関係がない。

「人」という言葉にも色がなく、その下位概念に「白人」とか「黒人」とかいう言葉があるわけだけれど、この分け方だって、分類学を始めたヨーロッパ人たちにとっては、自分たちこそが色の形容を必要としない「人間」であって、他の大陸で「発見」した人種を勝手に「黒」とか「黄色」とか呼んで、いちばん色素の薄い自分たちを「白」としただけで、本来ならスワンはスワンのままに残しておきたかったのかもしれない、と勘ぐってしまう。

日本語では黒人とか白人とかいうけれどヨーロッパ語では「黒」とか「白」など色の名そのものだ。

では日本語の方が肌の色の多様性にリスペクトがあるのかと思うが、黒人、白人という言葉は普通に使われても、「黄人」とは言わない。

アジア人とか黄色人種とかになる。

これってやはり、黒人や白人は色だけで形容してもOKだが自分たちは別という意識(または無意識?)かもしれない。

そもそも、日本人にとって、白人は別に白くなかった。

キリシタンなどが西洋からやってきても、白人は「紅毛碧眼」などと髪や目の色で形容され、肌の色で形容する時は「赤鬼」だったりした。

日本では昔も今も、「白塗り」の化粧というのはあるし、高貴な女性は深窓で過ごし日焼けしないで白い肌、というようなイメージがあるし、歌舞伎などでも二枚目や殿さまは白塗りだ。

だから、いわゆる白人を見ても、「赤ら顔」の印象があっても、「白い」ことは彼らの属性ではなかった。金髪碧眼のような違いの方がさぞや珍しかっただろう。

そして白人の深窓の女性などは大航海をして日本に渡ってこないだろうから、白人女性独特の白さなどはあまり目にする機会もない。

それにしても、肌の色の違う人のことを「白」とか「黒」とか呼び捨てにする国にいるといろいろ抵抗のあることも起こってくる。

以前にも書いたのだが、こちらでは音楽学校に至るまで、四分音符のことを黒と呼び、二分音符のことを白と呼ぶ(全音符は「丸」、八分音符は鉤)。

で、黒人の子供がいるクラスなどで、

「ひとつの白は二つの黒に相当する」

という説明をする時に、その言葉は

「一人の白人は黒人ふたりの価値がある」

というのと同じ言いまわしになってしまうのだ。

私は個人授業で黒人の子供を教えていた時に焦ったが、中学の音楽教師をしている友人などもみな居心地が悪くて表現に気を使う、と言っている。

ちなみに、初期のキリスト教やオリエントのキリスト教ではもちろん、教父は中近東系の人物である。初代ローマ司教とされる聖ペトロもパレスチナにいたユダヤ人なのだからいわゆる「白人」ではない。

アラブ人を含めて、彼らの顔の造作は日本人にとっては「白人」に近いのだが、「白人」にとってはやはり「白」ではなく、「マットな肌」と呼ばれる。

マットとは光沢のない、艶消しの、という意味で、布やペンキなどでは「サテン」の反対概念だが、肌の場合、確かに色素の多寡で透明感が変わってくる。

「白人」たちはブラック・スワンの登場で仕方なく自分たちを「白」と形容しているが、本当は、色素が薄いからすぐ欠陥が透けて見えて赤ら顔になったりすることをよく心得ていて、本当は「透明」と「不透明」とに二分しているような気もする。

「肌のくすみをとり透明感のある肌を」というのは日本の化粧品の売り言葉でもあるが、「透明」の価値の含意ってなんだろう、と何十年も「マット肌」の持ち主としてフランスで暮らしながら時折考えてしまう。
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by mariastella | 2013-02-19 23:55 | 雑感

食肉偽装事件

フランスでは食肉偽装事件で大騒ぎになっている。

一昔前に、フランスでもう何年もBSE(狂牛病)のリスクのある牛肉が出回っていたと知った時は大ショックだったけれど、馬肉を牛肉と偽装した冷凍ラザニアがヨーロッパ中に出回っていたという今回のスキャンダルには、今のところは衛生上の問題がないと明言されているからか、あまりショックを受けない。むしろどこか間抜けでほほえましい感じがする。

ひとコマ漫画やジョークが多発して、その多くは、「モー」と鳴く馬の横で「うちの馬は牛肉100%です」と業者が言っている、というタイプのものだからだ。

馬には罪はない。

ヒンズー教徒に牛を食べさせていたとかイスラム教徒に豚を食べさせていたとかいうならもっと深刻な問題になっていただろうが、少なくとも、馬肉屋さんもあって、タルタルステーキなら馬の方が衛生的だという人も多いフランス人にはあまりショックではない。

馬刺しのある日本でもショックは少ないだろう。馬はペット扱いというイギリスで大スキャンダルになったのは分かる。私だって、牛肉だと思って食べていたのが猫の肉だったと聞いたらショックだろう。

いや、なぜだかもう問題にされないが、当初は、アイルランドの食品衛生局が100%ビーフの27種のハンバーガーを検査して、27のうちの10個に馬肉のDNAが見つかって23個に豚肉のDNAが見つかったと一月半ばに発表した。豚肉のことをもう誰も言わないのはやはりイスラム教徒に対する政治的判断なのだろうか。

で、問題はひたすら、牛が馬だった、ということに集約された。

大手冷凍食品のFindusが自主的に検査したらラザニアが100%馬肉だったというので火がついた。

もちろん商品の成分表示を偽ること自体がスキャンダルであるということは理解できる。

このことで意外なことが次々と分かってきた。

冷凍食品の製造会社に至るまでにヨーロッパの数カ国に渡るいくつもの下請け会社が介在していて、これならどこかで伝言ゲームみたいにもとの情報が改変されることもあり得るだろうな、と思わせる。

最初の輸出元がルーマニアの屠殺場であり、ルーマニアといえばジプシーなどの社会問題や犯罪に悩まされている西ヨーロッパの諸国から見ると、すぐに、彼らがあやしい、という雰囲気が生まれたことも日頃の偏見を明らかにした。

実際は、ルーマニアでは最近馬車の通行が禁止されたので馬車用の馬が大量に廃棄=食肉化されたので安価な馬肉が出回り、それはちゃんと「馬肉」として処理されて通関しているので、フランス内でそれを牛肉として処理して冷凍食品会社に下ろしていた会社が偽装していた可能性が大きいらしい。

しかし、なぜ、製品を食べただけでは誰も見抜けなかった肉の種類を特定するために突然冷凍食品会社がDNA検査をしてその結果を発表したのだろうか。

先行するハンバーガーの豚肉問題がイスラム教ロビーで問題になることを避けるために、「豚」より「馬」にスポットを当てたいという政治的判断がFindusの決定に影響したのだろうか。

ともかく、そのせいで、今後は、加工食品会社は肉のDNA検査を、加工前にシステマティックに行うことになるらしい。

DNA検査などできなかった時代や、今でもその技術を備えていない地域ではなんでもありかもしれないということもあらためて思う。

衛生上の問題のないそれらの製品が廃棄されることのないよう、困窮している人々に食品を提供するNPOが喜んで引き取ると言っていることももっともだ。

フランスのような国でも今や食が二極化している。

今や地産地消やバイオ食品は富める人の特権であって、余裕のない人はどこの国からどのように来たか分からないなにかの加工食品を日々消費しているのが現実だ。

実際、大手のマーケット・ブランドの食品でも、ディスカウントと銘打った加工商品がいろいろあって、肉に炭水化物を加えていたりするのは成分表示で分かるのだが、トレーサビリティは今一つ曖昧だ。

EUがあるから、ルーマニアでもどこでも、フランスとかなり状況の違う国のものでも「ヨーロッパ」で片付けられていることもある。

ただ、食品を買うというシーンでは、今でも、普通の人が選ぼうとしたら、ある程度は、見た目で鮮度を確めて買うことも日常的にできる。たまに加工食品を食べたとしても、同じブランドの同じものを食べずにいろいろ試す幅もあるし自由もある。

それに比べると、これもいろいろとスキャンダルが続いて市場から姿を消してゆく「薬品」の薬害の方は、もっと深刻だ。

薬品に頼ろうとする人は何らかの健康上の問題をすでに抱えているわけだし、巨大な医薬産業のメカニズムの影に隠れているものを分析したり、薬の量や質の是非を判断したりする力はない。

多くの検査とそれに続く投薬が続々と展開されるマーケットの中で、そもそもある薬がある人にとってほんとうに必要なのかどうかも、誰にも分からない。

薬害問題の方が、自衛がずっと困難だと思うので、馬が「モー」と鳴いているような話が相対的に牧歌的に見えてくるのは、そのせいだろうか。
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by mariastella | 2013-02-17 21:25 | 雑感

マリ、アルジェリア、「貸し借り」の話

2月2日のフランス大統領のマリ入りのニュースを観て、歌ったり踊ったりしているマリ人の喜びはほんとうだろうなと思った。原理主義のワハビズムは公共の場での音楽や踊りも禁止しているからだ。

リビアの時は「サルコジ万歳」もなんだかやらせじゃないかと思ったけれど、今回はテロリストたちがあっさり撤退して人質を連れて砂漠に潜伏したので市街戦の被害もほとんどなかったし、素直に喜んでいるのだという印象だ。

それだけではなく、「うーん」と思わされたのは、オランド大統領は、この時の演説で、第二次大戦に言及して

「(今回の)フランスの介入で、マリとアフリカが第二次大戦の時にフランス側で戦ってくれたことへの借りを返すことができた」、フランスが支援を求めている時に来てくれたのはアフリカでありマリだった、「ありがとう、マリ」

と言ったことだ。

マリだけでなく「アフリカ」と言ったのは、マリとは独立後の行政区分で、植民地時代はフランス領スーダンだったし、アフリカの他の植民地もフランス軍として戦っているからだ。

「借りは返した」と言いきって、過去の協力に対する「感謝」もした。

いわゆる「謝罪」をしたわけではない。

そして、今回は、フランス植民地からの独立の戦いではなく、

「あなた方の国は、今回は、もはや植民地システムに対する勝利ではなく、テロリズムと不寛容と狂信に対する勝利となるだろう新しい独立を勝ち取るだろう」

と言った。

こんなふうに過去の帝国主義的支配の歴史を単に「借り」だとして、それを「返した」と言いきって、今度こそがほんとの独立だよ、と上から目線(マリ政府軍の行動には国連からも批判があって、オランドは、戦犯を罰するにも基本的人権をリスペクトするように、とわざわざつけ加えた)でぶちあげて、その上で歓呼してもらえるなんて、ラッキーだなあ。

フランスは第二次大戦でドイツに占領されて親独政権もつくったが、イギリスに逃れたド・ゴールの自由フランスがうまく政治能力を発揮して、終戦時にはしっかり連合国の仲間になっていた。

もし敗戦国扱いで「負けていたら」植民地との関係も泥沼になっていたところだ。

日本のように植民地の人間を日本側で戦わせて、民間人も含めて多くの犠牲者を出しながら、その結果、敗戦してしまったケースを見るとよく分かる。

日本の敗戦で植民地は解放されて独立国となったが、戦後の混乱はどこも共通であり日本に残っている旧植民地国出身の人々の立場は複雑になった。

朝鮮の場合は朝鮮戦争と国境分断、中国も共産主義革命、と20世紀後半に続く冷戦とイデオロギー闘争がそれをさらに深刻にした。

日本が旧植民地国に求められているのはひたすら謝罪や賠償であったし、「その節は日本を助けてくれてありがとう、」とか「これで貸し借りなしね」などという展開にはなりようがない。

もちろんフランスだって、すべての植民地と平和裏に別れたわけではなく、アルジェリア独立戦争は遺恨を残しまくっている。

アルジェリアの場合はフランスの「本国」扱いで「県」扱いになっていたから、フランス「本国」からずっと住みついていた人もたくさんいた。

独立戦争でも、「フランス側」についたアルジェリア人は戦後、フランスに渡ってもアルジェリアに残っても、両方から差別される始末だった。

アルキ(Harki)と呼ばれる彼らは、月決めの非正規兵士だったが、独立派からはコラボ、裏切り者のレッテルを貼られた。

アルキは、フランスでは、独立後5年間は申請すれば無条件にフランス国籍を与えられたものの、貧困層を形成して犯罪率が高いなど、「アラブ人」差別の偏見の温床にもなった。

(フランスは原則として、「旧植民地時代」にフランス国籍を与えられて生まれた人ならベトナム人でもアルジェリア人でも、申請すれば国籍を与えている。二重国籍容認の国でもある)

ともかく、アルジェリア独立戦争での「敗者」はフランスだったから、敗者側について犠牲になった人々は、だれからもメルシーとも言われず、借りを返すとか返さないとも言われないのだった。

アルジェリアから「引き揚げ」を余儀なくされた白人のフランス人たちのルサンチマンも半端なものではない。

アルジェリアを故郷とするフランス人たちにとっては、フランス対アルジェリアという対立項そのものが受け入れられないからだ。

そのいい例が、ノーベル賞作家で日本でも人気のあるアルベール・カミュのケースだ。

2009年にサルコジ大統領がカミュの遺体をパリのパンテオンに移していわば国家聖人の列に加えようとした時に、遺族である息子がその政治的利用に反対して拒絶した。

今朝、カミュの娘がラジオで話しているのを聞いたが、アルジェリア出身のフランス人たちには、あの時にパンテオン入りを許諾していれば彼らの微妙な立場への理解が深まるいい機会だったのに、と残念がる人が少なくなかったそうだ。

アラブ人や黒人なら、一目で昔の帝国主義フランスを担った「白人」と違うことが分かる。

だから、社会的差別を人種差別とからめて基本的人権侵害として訴えていける。

しかし、カミュらのようなアルジェリア生まれの二世の白人たちは、自分たちも結果的には「植民者」の立場であったわけだから、故郷であるアルジェリアからも追われ、本土に戻ると引き揚げ時の不公平や微妙な差別に声を大にして戦うことができなかった。

戦後の日本にも朝鮮や満州からの引き揚げ者が大勢いたろうし、日本の帝国主義の犠牲になった植民地の人々もまた同じアジア人だった。

「人種差別」という分かりやすい悪にも落とし込めないし、文化的にも日本のルーツは大陸にあったのだから、ルサンチマンも深く、錯綜している。

逆に、今でも互いの言葉の浸透の割合が少なく、メンタリティもかなり違うけれど同じ白人でキリスト教文化圏であるフランスとドイツのような国が、二度にわたってあれほどの戦争で敵対したわりには、手をとりあってEUの運命共同体を荒廃の中から築き上げたのは、なかなかのものだったと思う。

二国間の関係というのは2人の人間の関係と同じで、個々のケースをいろいろな角度から検討しないと、一般化してどうこういうことはできない。

けれどもやはり歴史に学べるところは学びながら、より弱者を守り、より平和を拡大していく方向に向かわなくてはならない。

互いの「貸し借り」のような概念で「清算」できるような葛藤など、本質的なものでないか、一部の人間を利する一時のごまかしでしかない。

両者が互いの丈を超えた普遍的理想を見据えない限りは、ほんとうの平和を実現することはできない。
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by mariastella | 2013-02-04 07:45 | 雑感

戦争と平和 -- シリアの話とマリの話

シリアの話

数日前、イスラエル軍がシリアに空爆した。

シリアの武器をレバノンに移送するのを妨げるためだと言われている。

バッシャール・アル・アサドの政権が数週間後に倒されるとしたらその後で化学兵器やミサイルなどが大量にヒズボラの手に渡るのではないかと恐れられているのだ。

確かに、マリの北部に進出したテロリストたちもスーダンやリビア経由の高性能の武器を持っていた。

数日前には、シリアの反政府軍(フランスはこちらを認めている)の「大使」がラジオに出ていた。

今は狭いアパルトマンを使っているが、パリ市長が「大使館」に使える場所を提供してくれる予定だという。

「一般市民が殺されているのには反政府軍にも責任の一端があるのでは・・」

というインタビュアーの質問に

「そんなことはない、我々には市民を殺す利益がない」

と答えていた。

つまり、自分たちの利益になるのなら一般市民を殺すのもいとわないということだ。

内戦の情勢についての報告にはバイアスがかかりまくっているのでどこまで信じていいのか分からないが、この答えの方は本音そのままかもしれない。

もとより、味方の利益に反するものを殺すのを是とするのが戦争だ。

軍事先進国が武器を製造するのをいっさいやめれば戦争の被害は少なくなって戦争そのものも起こしえなくなるのだが、地球と人類の存続を脅かす核兵器の廃絶でさえできないのだから、「武器の製造と保持」の欲求とは何か人間の生存戦略のDNAに組み込まれているのだろうか・・・

マリの話

2月2日、トンブクトゥをオランド仏大統領が訪れた。

すごい歓迎ぶりのようだ。

「大本営発表」のバイアスはあるとしても、トンブクトゥにフランス軍が入った日に生まれた息子の名を「フランソワオランド」にしたという父親の談話とか、それまで333聖人の町と言われていたトンブクトゥにオランドを加えて334聖人の町と呼ぶことにしたとかいう話が伝わってくる。

イスラミストがトンブクトゥの聖人廟などを偶像崇拝だとして破壊していたのはアフガニスタンの世界遺産をタリバンが破壊したのと同じで、「イスラム過激派」の「悪」を国際的な合意にする要素でもあった。

独裁者サダム・フセインやカダフィ大佐を「討伐して人民を解放」というタイプの戦争をしたブッシュやサルコジの戦争が長引いたのと違って、不安定なものとはいえいわゆる「政府軍」の方を支援して「侵略者」を追放した形のオランドはかなり得をしている。

サルコジはくやしくて歯ぎしりしているかもしれない。

マリは確かにフランスの植民地ではあったけれど、アルジェリアやチュニジアのようにアラブ系のイスラム国ではない。

海岸もないし、いろいろな部族が昔から争ったり同盟を結んできたりを繰り返したが、13世紀のマリ帝国(マンデ王国)の偉大な神話(私はこれについて『キリスト教の真実(ちくま新書)』で触れている)にこだわるナショナリズムが強固であるので、そのナショナリズムを共有しない部族や地域とは折り合いが悪い。

昨年3月のクーデターまではアフリカの民主主義国の手本だと言われることもあったが、西洋近代の民主主義の概念からするとかなり無理があるものだった。

マリのイスラム教はスンニ―派の中でもマーリク法学派で、どちらかというと普遍主義を標榜して地域ごとのローカルな適応を認めるもの(カトリックのインカルチュレーションみたいなものだ)だったらしい。

そこに1945年以来サウジアラビアからのワハビズム勢力が入って来て西アフリカのイスラム教をアラブのイスラムに「回帰」させるグループが生まれた。アラブのイスラムと西アフリカの関係はその頃からすでにかなり緊張をはらんでいたのだ。

政治的には、1960年の独立以来ソ連に接近し、社会主義的政策をとっていたのに、共産圏崩壊以降はお決まりのように、社会政策の部分を私営化したり、先進国とのパイプのできた一部の資本家だけがブルジョワ化したりするなどの道をたどった。

憲法上は政教分離しているのに実際の社会では結婚、葬礼、相続などほぼイスラム法通りで、当事者の対立が起きない限りは昔からの慣習法が生きている。

男女同権を盛り込んだ民法改正も2009 年に挫折した。

そもそも、民主主義とは言っても、死刑制度、一夫多妻制、失業問題などに関する民衆レベルの議論などはすべて、モスクなど宗教の枠の中でばかり行われているそうだ。

公用語であるフランス語を駆使できる国民はわずか8%しかいないし、文盲率は75%だという(この数字は、この記事の他の情報と共にル・モンド紙2013/1/29の人類学者Gilles Holderの記事から引用したものだ)。

人々は多言語で、それぞれが地域の宗教共同体の中で自分たちの言葉を使って話しているわけである。

このような状況の国だから、日本だのフランスだのといった政教分離が進んでいて文化基盤のある一言語を維持している国などから現在のマリの問題の解決についてあれこれシミュレーションをするのはとても難しい。

で、結局、国を再建するための資金をともかく提供するという話になり、日本がEUよりも多額の援助をするという記事も読んだ。

で、その資金で何を買うかというと、テロリストを牽制するためにマリ政府が軍事強化するための軍資金に当てられるのだ。

それでまた軍事産業が儲かり、世界の武器の総量と破壊力が増えていく。

まったく、何とかならないのだろうか…。
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by mariastella | 2013-02-03 01:40 | 雑感

フランス軍がトンブクトゥーを「解放」した

フランス軍が、マリの北部でジハディストに占拠されていた主要都市のトンブクトゥーを意外に早く「解放」したというニュースが流れた。

もちろん、フランスのメディアは、フランスに泣いて感謝する住民の様子、この10ヶ月の「悪夢」の様子を熱心に報道している。

戸外でタバコを吸っていただけで子供から引き離されてとらえられた母親とか、公開の場所で麻薬を投入された後で手や足を切断される処刑をされた人々のこととか、全身をヴェールで覆わずに外出して鞭うたれた女性の話などだ。

フランス軍が来て、それらすべてから解放されて恐怖が去り「自由」が戻ってきた、と人々が喜ぶのは多分本当だろうし、それを見て、フランス軍の兵士が介入した甲斐があった、とにこにこしているのも理解できる。

昔からの交易地であるからイスラム圏といってももともと自由な気風の都市だったろう(サウジアラビアでさえ、港町ジェッダなどでは今でもリヤドなどに比べるとずっと自由であるそうだ)。

ヨーロッパの他の国も、脆弱なマリ政府への軍事訓練や武器提供に向けて動き始めた。

ただし、この光景を見ていると、原理主義ワハビストの拠点であるサウジアラビアのリヤドのことを思わざるを得ない。

リヤドでこの30年間、宗教警察がやっていることは、トンブクトゥーでジハディストがやっていることとまったく同じだからだ。

手足や首を切断する公開処刑があること、女性が外で全身を黒のヴェールで隠さなければならないことも同じだし、飲酒の禁止などはたとえ個人の私宅でも宗教警察が踏み込んでアルコール類の保持をチェックすることができる。

もちろん信教の自由はない。

民主主義国ではなく国土は、宗教の庇護者でもある王家の「私有物」の扱いだ。

けれども、サウジアラビアには石油があり、金がある。

アメリカ軍やフランス軍が武器や技術を売っている。

移民労働者はともかく、都市のサウジアラビア人たちの生活水準は高い。

一夫多妻も認められているから、王族だけでも数万人に達する。

黒いヴェールで全身を覆う女性も、ヴェールの下はパリのオートクチュールの服を着て宝石で着飾っている。
移民のメイドや運転手もついている。ヨーロッパのあちこちに持っている豪華な別荘やアパルトマンに滞在する時は、ヴェールもかぶらないし、ブティックを借り切って買い占めた衣服や靴を何十というヴィトンのスーツケースに入れて移動する。高級ワインだって飲める。

石油と贅沢品と軍事産業のマーケットがちゃんと均衡点を見出している。

これはワハビストの偽善ではないか。

いや、サウジアラビアのワハビストの宗教警察は王家の偽善を苦々しく思っているだろうし、王家はイランのようなイスラム革命の勃発を避けるためにとにかく形だけは厳格な宗教原理主義を実践、擁護している。

金があって、外国や自宅でガス抜きできるなら、外面を整えて秩序を守ることは偽善でなくてとりあえずの「大人のサバイバル」といえるかのようだ。

公開処刑される者は圧倒的に移民労働者が多い。窃盗罪で片手首を切断される。

金持ちは盗まなくてすむ。

で、ワハビストの揺籃となり資金も提供していると言われるサウジアラビアに出向いて人々を「解放してやろう」などという「国際社会」は存在しない。

ワハビストに占拠されたトンブクトゥーの入り口には「これより先シャリア法適用」という看板が立っていた。

貧しい国におけるこのような突然の原理主義者による圧政は住民にとって悲惨なものであったことは想像がつく。

単に、市場原理のせいでサウジアラビアが「欧米」となかよくできているのではなく、金が潤沢にあれば、多くの人々自身が、原理主義ともそれなりに折り合いをつけていけるということなのだ。

平均的サウジアラビア人のリヤドでの生活は、若者たちの欲求不満があるとしても、決して「悲惨」ではない。

(その辺の矛盾を私は『不思議の国サウジアラビア―パラドクス・パラダイス(文春新書2001)』で書いた。9・11の直前で、ワハビズムと王家の直接の批判は検閲されるから絶対に書くなと現地で念をおされた)

金や偽善で妥協したり折り合いをつけたりできるなら、人はなるべくなら争いを避けてサバイバル戦略をとる。

「ユダヤ人はみな殺し」と言われれば、逃げるか抵抗するか殺されるしかない。

でも「踏み絵をふまなければ磔にする」と言われれば、踏み絵を踏んで助かることができる。

「女性は鞭打ち」と言われれば、逃げるか抵抗するか鞭打たれるしかない。

でも「ヴェールをかぶっておとなしくしていればOK」と言われれば、外でヴェールをかぶってうちの中や外国でストレス発散できる。

「人はみないつかは年とって死ぬ」と言われれば…?

これも、金さえあれば、アンチエイジング、高額先進医療、衣食住の贅沢三昧などで、ある程度は延命や生活の質の改善を「買う」ことができるのだろう。

どんな時代にどんな国にどんな共同体に属して生まれるかを人は選ぶことができない。

遺伝子も選ぶことができない。

めくるめくような不平等だ。

いいかえると、時代的に、地政学的に、運が良くて、しかも遺伝子強者に生まれてきたような人には、それは自助努力と関係なく「与えられたもの」なのだから、「自分より運が悪い人たち」対する義務も同時に与えられているとも考えることができる。

しかし、そういう「信念」に基づく利他的な行動さえも、自分の思い込みによっては他者の生活への一方的介入や価値観の押しつけになってしまう。

やはり、歴史に学びながら、自分の生活圏や文化圏を超えた普遍的な人間の尊厳の意味を常に視野に入れることが必要とされるだろう。

それが、少なくとも、軍事力強化や資金や武器の提供の道とは違ったところに向かうと願わざるを得ない。
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by mariastella | 2013-01-29 19:10 | 雑感

2013年初頭のアフリカ情勢で思うこと

新年早々フランスはアフリカのマリで、国の北部を占領しているジハード軍の南下を食い止めるために軍隊を送っり始めた。極右や、野党である保守派、中道派もその決定に合意、ヨーロッパや国連も積極的に動きはしないが合意している。(極左メランションは批判。)

マリ政府による要請があったのも事実だ。

マリと国境を接し、マリと同じくフランスの旧植民地時代を経験したアルジェリアは、はじめは軍事介入絶対反対の立場だったが、1月半ばからは、領空をフランス軍が通過することを容認していて、自分たちの国境の警備も強化している。

2003年の米英軍のイラク侵攻の時に、国連で反対弁論を繰り広げた時の外相ドミニク・ドヴィルパンは、今回は、孤立無援だが、やはり、政治的に解決すべきだ、これまでの軍事介入がすべて何の解決にもならなかったことを忘れたのか、という口調だった。また、ジスカール=デスタンも「帝国主義的」という言葉を敢えて使って批判していた。

シリアやリビアでははやばやと反政府軍を正規暫定政府と認める「欧米諸国」にとっての「基準」が、自分たちの地政学的あるいは経済的な利害関係以外のどこにあるのかという疑問は当然出てくる。

フランスは盛んに、自分たちは友好国であるマリを助けたいのであって経済的などの思惑はまったくないことを強調していた。

大義名分としては、フランスの戦う正式の敵は「武装イスラミスト」ではない。

「Les terroristes criminels」(犯罪的テロリスト)だ。

この辺は9・11後のアメリカの勇ましい「テロリストへの宣戦布告」を思い出させる。

このネーミングについてフランス国内のイスラム評議会は満足の意を表明した。

実際は、マリ北部を制圧したのは三つのイスラミストの運動だ。

AQMI(イスラムマグレブ・アルカイダ)(マグレブはアルジェリア、チュニジア、モロッコ)

MUJAO(西アフリカジハード統一運動)

Ansar Dine(トゥアレグ族のイスラミスト。アルジェリアはこのグループを他と切り離す画策に失敗したので軍事介入を容認したらしい)

 マリの首都バマコには6000人のフランス人が住んでいて、昨年春からの内戦で、フランス人は全体としていつでも人質にされる状態にあること、実際、フランスはイスラミストから名指しで敵と見なされ攻撃目標とされていること、という事情はある。

そのリスクがどんどん大きくなってきて、イスラミストの軍隊がマリの政府軍の力を上まわっている、という状況もある。こういう事態で、近代的な軍隊を持っている「旧宗主国」が軍事力で阻止しないという選択が政治的にかなり難しいのは理解できる。

第一、イスラミストの軍隊の駆使する兵器はリビアから流れてきたフランス製だというのが皮肉だ。

フランスには10万人のマリ人コミュニティがあって、彼らは軍事介入を望んでいると報道されている。

私が昨年の11月11日に羽田からパリ国際空港に戻ってきた時、同じターミナルに三機のアフリカからの到着便があった。通関などは、背の高い黒人でぎっしりで、同じ飛行機でついたはずの日本人の姿を探すのが難しいほどだった。

ここはいったいどこの国なんだろう、と思った。

人々が持っていたのはマリのパスポートだった。

異様に長い検問の後でスーツケースをとる場所に行くと、そこも背の高いマリ人(ほとんどが成人男性だったのだ)がぎっしりとり囲んでいたので、一瞬場所を間違えたのかと思った。ようやく出口を出ると、出口のフロアはまた黒人であふれていた。迎えの人々らしい。大げさではなく、私が出た時には、黒人以外には日本人も白人もアラブ人も全く目に入らなかった。

内戦を逃れてフランスに逃げてきているのだということはよく分かった。

私はヴィルパンと同じく政治力で何とかするべきだと思うハト派だし、「欧米」勢力が恣意的に犯罪とかテロリストとかいう言葉で、一方の暴力だけを非難してもう一方を正当化することにも大いに疑問がある。でも、現実に、少なからず自国民がいてリセ・フランセもある国で、フランスに宣戦布告している非政府勢力が軍を進めてくるとしたら、フランス大統領の軍事介入の決断を批判することもできない。

ただし、軍事介入の目的が、マリの北部を回復することなのか、マリの現政府も含めて「民主化」したいのか、単に、イスラミストの勢力拡大を看過するとフランスにも飛び火することを食い止めたいのか分からない。

最後の名目が一番フランス国民の合意の基本にあるわけだが、軍事介入によってますますフランス国内へのテロのリスクが高まるなら藪蛇となるわけで、この戦争が長引くと世論がどう転ぶかは分からない。

アメリカはNATOを介入させないと決め、非軍事での協力はするけれど、バマコの政府が不安定な状態なままでは深入りしたくないと言っていた。

不安定とはどういうことか。

アフリカの政権は独裁政権にしろ軍事政権にしろどこもみな政情不安定であり、いつ、クーデターが起こるか予想がつかず、その結果イスラミストが政権を奪取することももちろんあるわけだ。

そして、その反動で、イスラム法に基づいた社会への揺り戻しが考えられる。

エジプトもチュニジアも、「独裁者」が追われた後で、「民主的」選挙によって、それまで独裁者によって抑えられてきたイスラム系グループが政権の場についている。

欧米戦力が強引に「民主化」しようとしたイラクだのアフガニスタンだのは汚職や部族対立が顕在化して政情の安定は見られなかった。

リビアで起こったことやシリアで起こっていることを見ても、欧米「民主主義国」の判断の基準は複雑だし各論による試行錯誤にも出口が見えない。

そうこうしているうちに、同じイスラミストがアルジェリアのガスプラントでアルジェリア人はもちろん日本人やアメリカ人なども含む人質をとった。人質解放の条件の一つにフランスのマリ軍事介入の停止も挙げられているが、このテロリストの襲撃は十分に事前の準備があったと考えられるので、タイミングを決める契機になったとしても、フランスによるマリ戦争が直接の原因で起こったわけではない。

このテロの首謀者はアルジェリア国籍のジハディストであり、ガスプラント内で国籍など関係なく無作為に人質をとっているのだから、明らかに「犯罪的テロリスト」集団である(この集団の方も、アルジェリア人だけではなくモロッコ、マリ、スーダンやフランス、カナダなどの多国籍集団だ)。

だから、その彼らが「フランス軍のマリ撤退」を人質解放条件の一つに加えてくれたおかげで、フランスが国際社会を攻撃する「犯罪的テロリスト」と戦っているのだという「大義名分」が裏付けされた格好になった。たった一国で独断でマリに繰り出して行ったフランスは内心ほっとしたに違いない。

その後アルジェリア政府が、人質の出身国である欧米型先進国政府に事前の通告なしに一方的にテロリストを攻撃して多くの犠牲者を出すえらく血なまぐさい結果になった。

英米や日本はそういうアルジェリア政府の独断を非難したが、フランスだけは、慎重に言を濁した。アルジェリアがテロリストとの長い戦いを生き抜いてきた経緯を考えるとそのやり方について判断を下すことはできない、と言う。

この辺のさじ加減は考え抜いてのことなのだろう。

実際のところ、このジハディストらによるテロは、人質を逮捕されているテロリストと交換する、などという単純な交渉ではなくて、そもそも、このガスプラントの爆破自体が目的だった。それ自体には交渉も何もない大型テロ計画だ。

15年も対テロ戦で鍛えられたアルジェリア当局の判断を簡単に弾劾することはできない。

しかし、西洋風「民主主義」の国が口先でどんなに普遍的な善を唱えても、実際は利権争いやパワーゲームでことが進んでいるわけで、権力の根は腐敗してくるし、弱者の抑圧や排除も進む。

2011年の「アラブの春」では、若い世代が自由や平等や人権などの普遍主義を唱えて立ち上がったものの、いったん独裁者が去ると、新しい秩序を打ち立てるのに十分な組織力を持っているのはそれまで抑圧されていたイスラミストのグループしかいなかった。

彼らは、新しい「法」にイスラム法を反映、強化させようとする。

実際、イスラム法のような「伝統的」規律はある種の秩序の回復には有効だ。

もともと、「近代西洋」が普遍的だとして掲げて万国共通に認めさせようとしているのは、地縁血縁や伝統や共同体に関係なくすべての「個人」に等しく基本的人権があるということである。

それに対して「伝統社会」の秩序や調和というのは、しばしば、個人に共同体の中での役割を強制し、弱者の犠牲の上に成り立っている。

「西洋近代」の元をつくったキリスト教というのは、本来、そのような社会的弱者の尊重を唱えたものであるから、既成秩序にとってはラディカルに不都合なものだった。

社会的弱者の救済を前提とした個人の尊重に基づく社会づくりなどは、少数のユートピア的集団ならいざ知らず、それを一国の基礎にするのは至難の業である(実際初期キリスト教信者たちは原始共産制と似た少数のユートピア的集団だった)。


ヨーロッパのキリスト教が封建領主としてのカトリック教会との葛藤の末に「脱皮」したのが近代普遍主義の理念だが、それも、理想主義的なラディカルさには変わりがない。それをもとに社会を再構築するのは簡単ではない。

マリで「普遍価値を守ろう」と言っているフランスの近代革命後の展開がいい例だ。

高らかに普遍的人権宣言を掲げたその後100 年の間に恐怖政治からナポレオンの帝政、王政復古とくるくると変わり、特に1848 年の2月革命の後に起こったことは、まるで昨今のチュニジアやエジプトそっくりだ。

反政府市民が王を退位に追い込み、王はイギリスに亡命した。それでもオルレアン公妃が摂政になることが議員に承認されたのに、武装市民が乱入して、強引に臨時政府を樹立した。

共和主義者と社会主義者が「自由、平等、友愛」の原理のもとに新政治を再開しようとしたのだ。

しかし、その二つのグループの仲は険悪で、せっかく行った「普通選挙」で共和派が大勝利すると社会主義者たちがバスティーユ広場に集まった。

政府軍が数千人の労働者を殺し、生き残った者も裁判なしで流刑、社会党もその機関誌も廃絶された。ムバラクやカダフィやバッシャール・アル=アサド顔負けだ。

この時の政府軍のリーダーが中心になって大統領制を導入して国民投票が施行された。

ところが、その結果、戦いに疲弊した国民が選んだのは、ナポレオンの甥というネーム・ヴァリューだけがあったルイ・ナポレオンだったのだ。

その結果、共和派も退陣し、守旧派、王党派が優勢になった。

守旧派は集会と出版の自由を奪って、労働者たちの選挙権も剥奪した。さらに、ルイ・ナポレオンが軍隊を使って議会を占領し、皇帝になってナポレオン三世と名乗ったのだ。

1852年のことである。

それによってフランスには秩序と平和が戻り近代化の繁栄の時代がやってきたのは皮肉と言えば皮肉だ。

そのナポレオン三世は、普仏戦争で捕虜になり、解放されてからイギリスに亡命して死んだ。

戦争や外圧によってフランスは帝政からまた(第三)共和国に立ち戻ったので、この第三共和制の時代にはじめて、フランス革命の普遍主義がフランスの理念なのだという合意(あるいは神話)の形成ができた。

フランス革命と同時代に独立戦争を果たして近代理念を盛り込んだ独立宣言を出したアメリカでは19世紀後半まで奴隷制が続きそれからさらに100年も公然と人種差別が続いていた。

地縁、血縁、宗教などの共同体、年齢、性別などに関係のない、人類の一員としての「個人単位」の固有の尊厳と権利を保証するという近代普遍主義の理念が実際に適用されてそれが根付くことがいかに時間がかかり、多くの犠牲が出るかというのがよく分かる。

だから、「アラブの春」で独裁者が後にイスラム共同体の秩序回復の動きが支配するなどということは決して不思議なことではない。

でも、どんなに、特定の階層による特権維持や権力志向による揺り戻しが来ても、普遍理念が一度でも掲げられた「革命」の体験は、その社会をいつか変えていく根本的な何かをもたらすものだ。

「揺り戻し」は単なるリセットではない。「個人単位」に立脚する普遍理念は、「伝統」や「宗教」や「文化」や利益共同体を超えて波及し得うるし、大きな連帯もあり得るから、いつかは弱者の尊厳も守られる世界が築き上げられると信ずる人がたくさんいる。

と言っても、たとえば日本のような国で、明治時代に「自由民権思想」が掲げられたり、5カ条の御誓文でいきなり「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。」と言いきったりしているのに、実は全然社会的な通念は変わっていないという国もある。

「旧来の陋習」はそれまでの鎖国攘夷で「天地の公道」は国際法だという解釈もあるが、ともかく、「うちの伝統」でなくて「普遍主義」を目指そう、という建前はあったのが分かる。

それなのに、何度も戦争を繰り返し、「滅私奉公」が公然と求めらた。

あげくは戦後にアメリカ的民主主義の優等生になって経済復興を遂げたものの足もとがあやしくなってきたら、今は戦後「民主主義」のシンボルであった憲法改正案が出ていて、その改憲草案の前文はいきなり「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であるという文だそうだ。

「長い歴史」って、いつからのことで、「 固有の文化」とは何を指しているのだろう。どの文化も他文化からの影響を受けて長い間に有機的に形成されてきたものであるはずだが。

エジプトなどでイスラム法を再び基礎に置く新憲法をつくるという現状と似ている。

イスラム成立から始まった「長い歴史と固有の文化」の尊重といっても、その前にも文化はあったはずなのに、特定の宗教をアイデンティティとして押しつけようとしている感はいなめない。。

そして日本の改憲草案でもあっさりと、現憲法10章97条の

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

というのがあっさりと削除されている。

「過去幾多の試錬に堪えた人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」などという普遍的視野は消えた。

「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」はなおさら、もともと空疎な言葉だけだったのだろうか。

社会がそうだから、家庭や会社でもほんとは一度も人単位の普遍的人権なんて意識化されたことなどなかったのかもしれない。

この憲法草案起草委員の一人が、12月にツイッターで

「国民が権利は天から賦与される、義務は果たさなくいいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」

とケネディの就任演説みたいなことを言っているそうだ。

「侵すことのできない永遠の権利」の次元はまったく無視して、一国の利害関係だけを問題にしている。

会社のために、家族のために、という共同体優先の論理はずっと続いているのだ。

きっと、「戦後民主憲法」によって日本人は個としての尊厳に目覚めたのではなくて、「共同体を無視して自己中心に生きる」という楽なスタイルだけ採用してしまったので、それをあらためて昔の共同体主義に戻そうというだけなのだろう。

いや、それでも、西洋近代革命で掲げられた「普遍主義」理念は、100年も200年もかけて欧米帝国主義や白人至上主義の国家のエゴイズムを少しずつでも矯めてきた。

だから、その理念が、伝統の異なるアラブ諸国でも日本でも、長いスパンで考えれば、共同体主義の中では犠牲に供されてきた社会的弱者を、尊厳を保証された自由な個人である主体として解放してくれる日がくるかもしれない。

国際社会において「非キリスト教国」だとか「非白人国」だとか「敗戦国」だとか、「旧帝国主義国」だとかいう微妙な立ち位置にある国で、長い間、共同体内のアイデンティティを強制されてきた女性というカテゴリーに属して生まれた自分であるからこそ、これからも普遍主義にこだわっていきたい。
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by mariastella | 2013-01-23 02:38 | 雑感

「どこでもドア」とカルヴァンの「ダンボール箱」

『カルビンとホッブス(Calvin and Hobbes)』は、ビル・ワターソン(Bill Watterson)のコミックだ。

ネーミングからしてただものではない。

Calvin は宗教改革のあのカルヴァンでHobbesはリヴァイアサンのあのホッブスである。カタカナのタイトルではあまりピンと来ないかもしれないが、アメリカやフランスでこのコミックを手に取る人には明らかにその含意が伝わってくる。

主人公のCalvinは6歳の少年で小学校の1年生という感じ。

ホッブスは彼がいつも抱いているトラのぬいぐるみだが、彼と2人だけの時には大きい2足歩行のしゃべるトラになる。

その掛け合いも面白いのだが、もっとおもしろい小道具は旧式の大型TVが入っていたと思われるダンボール箱だ。6歳の子どもがすっぽり入るくらいの大きなダンボール箱。

子供が「これちょうだい」と言って、自分の部屋で秘密基地にするような大きさだ。

で、この箱が、最初はこの中に入れば恐竜にも昆虫にもなれるような変身ボックスとして使われる。

次は向きを変えて自分の分身(コピー)を製造(5回で機能しなくなる)するマシーンになる。

分身がCalvinの代わりに学校に行ったりするのだ。分身ナンバー4が帰ってきて、「校長室に呼びだされて叱られた」と報告する。分身ナンバー2もナンバー5もすでに校長室行きになっている。
Calvinは「ぼくの評判はどうなるんだ、どうしてくれる」とナンバー4に文句を言うのだが、「文句言うなら自分で学校に行けばいいじゃないか」と反論されて「まあ、なんとかなるだろう」とひっこんだりする。

この箱は最後はタイムマシンとして使われる。

もう宿題が終わっていそうな2時間後に行くとかわりあい細かい実用的なことにも使われるのだが、2時間後も宿題はまだできていないのだ。

このコミックにおける現実と空想の境界の味は、よく読むとちょっと怖い。
脳内世界の現実を見ている感じだ。

たとえばドラえもんの「どこでもドア」を見て、いろんな人がいろんなことを空想するのとは決定的に違う何かがある。

夢の既視感とでも言おうか。

Calvinのダンボール箱を「パンドラの箱」と評した人がいたが、いいところをついている。

ダンボール箱はあまりにもありふれた外観を持つ。そして、日常の中で使い古し、ある時はわくわくしながら中身を取り出したり、ばらして捨てたり、不用品を収納したり、本や書類を死蔵したり、中が詰まったり、空にされたりの繰り返しの中で、それ自体は「なにものでもないもの」でしかない。

なんとなく、「穴」みたいな存在だ。

忘れられた記憶の穴。

ドラえもんが「未来から来たネコ型ロボット」で、のびたくんの友人であるとともにメンターとしての「使命」とか「意味」を持っているのに対して、ホッブスは、Calvinの自我の投影なのか逸脱なのかよく分からないが、ともかくその本質は「ナンセンス」であり、「不条理」を抱えている。

誤解を恐れず言ってしまうと、Calvinとホッブスとダンボール箱が生む奇妙な世界は、ある種の「霊能者」と自称する人たちが日常見ている(らしい)世界に似ている。

Calvinとホッブスの世界に親和性のある人、違和感を覚えない人たちが確実にいて、その人たちの「リアル」とはこういうリアルなのだ。

これを「子供の世界」と言いかえると、無難なのだけれど、少し違う。

なぜなら、それは、そのリアルをキャッチできない人にとって、

「ほほえましい世界」

などではなくて、

「見て見ぬふりをしなくてはならない世界」

であるからだ。
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by mariastella | 2012-08-19 22:28 | 雑感

トロムラン島の謎

TV のニュースでトロムラン島の発掘について「ポンペイのような考古学の宝庫だ」と学者が興奮して言っていたのを見て複雑な気がした。

インド洋、マダガスカルの東450kmにある周囲が3,7kmしかないサンゴ礁に囲まれたこの無人島は、絶えず強風にさらされて林すらない平らな砂ばかりの標高7mの島だ。

1722年にフランス人が発見したこの島は現在モーリシャスとフランスの間で領土問題となっている政治的な場所でもあるが、一応フランス領とされていて、1953年に設置された気象観測所の点検のために2カ月に一度フランスの空軍機が訪れるそうだ。

当初「砂の島」と名付けられたこの島が「トロムラン島」になったのは、1776年にこの島で漂流者とその子孫を救った船長の名を冠されたからだ。

1761年に置き去りにされた60人のマダガスカルの奴隷は、15年後に救助された時には、8か月の赤ん坊とその母と祖母と5人の女性だけだったという。

その組み合わせがいかにもミステリアスだったので、調べてみると、1774年に救助を試みた船が、結局島に近づけずにボートと船員一人だけを残して去り、泳いで島にたどりついたその船員が、翌年に男と女数名を連れて筏で脱出したが行方不明になってしまったということだ。

その時に去った船員だか男だかが赤ん坊の父親で、1776年の救助よりも17カ月前(9か月の妊娠期間を足して)の時点では少なくとも男がいたということになる。しかし、もし最初の遭難で残された男女がみなカップルだったとしたら、もっと他に子供や赤ん坊がいても不思議ではないから、ひょっとして島に残っていたのは女性ばかりだったのだろうか。

ことの起こりはこうだ。

1761年、フランス東インド会社が、マダガスカルで男女子供の奴隷160人を密買して当時フランス島と呼ばれていたモリシャス島に売るために向かった。

ところが「砂の島」の近くで遭難し、鍵のかかった船底に閉じ込められていた100人の奴隷と、フランス人20人が命を失った。

この時に閉じ込められていたのがそもそも屈強な男の奴隷で、助かった60人はもとより女子供だったということも想像してしまう。あるいは全員閉じ込められていたのだが、遭難した時に女子供だけかろうじて解放されたのかもしれない。

ともかくフランス人122人とマダガスカル人60人が「砂の島」に漂着、船からはSOSを知らせるための大砲(錆びついたまま今も浜に残っている)や食料や道具類を持ちだし、船の残骸をかき集めた。

島には何もなく、木の実も果物もない環境だ。

船長は正気を失っていたので、リーダーが代わった。

とりあえず、奴隷用とフランス人用の二つのテントを作り、井戸を掘り、鋳造炉まで作って、船を造り、2ヶ月後にフランス人122人が脱出した。

残された60人には少量の食料を置き、すぐに救助に来るからと言い残した。

彼らは4日後にマダガスカルに着き、さらに「フランス島」で総督に救助を要請したが断られた。

「フランス島」の総督は奴隷売買を禁じていたからだ。

奴隷売買を禁じるような人道的な総督がなぜ救助を出さないのかと思うが、奴隷を入れたくなかったのは、奴隷を養いたくなかったからであった。

おりしも英仏の植民地7年戦争の時代で、総督はイギリス軍に島を封鎖されることを恐れていたのだ。

奴隷を買って食い扶持を増やしている場合ではないし、ましてや、総督命令に背いて密売されようとしていた奴隷をわざわざ救いに行っている場合でもない。

乗組員はパリに戻り、ことを知った啓蒙の世紀のパリの貴族やインテリたちは、この置き去りを非人道的なスキャンダルだと見なして騒いだが、おりしも7年戦争が激しくなりフランスが敗れたので、「砂の島」のことはすっかり忘れられてしまった。

最初の救助がこころみられたのは7年戦争が終わって10年も経ってからだったが、試みは挫折した。「砂の島」はそれほどにアクセスの困難な「絶海の孤島」だったのだ。

奴隷取引では、男は骨格で、女は腰の大きさで、子供は歯で選ばれたと言われる。

砂の島に残された60人が何歳くらいでどういう性別だったのかという構成は分からない。

2006年と2008 年に考古学者が「発掘調査」を始めると、珊瑚のブロックでできた数棟の建物が発掘された。

食料になっていたと思われる海鳥や亀の骨も出てきた。火打石や手づくりの各種食器も出てきた。

で、絶海の荒野のような孤島でいったいどうやって15年もサヴァイヴァルが可能だったのかについて、学者たちは調査しながらその貴重な発見の連続に興奮しているわけである。

無人島に主人と奴隷が漂着するというシチュエーションはへーゲルの『精神現象学』の主人と奴隷の弁証法を思い出してしまう。

このケースでは、遭難した場合の危機管理のノウハウがあった船員たちのスキル(船から何を取り出すべきかという判断も含めて)が全滅を救ったとも言えるが、船員がすべて屈強な男たちで、屈強な奴隷の男は船倉に閉じ込められて溺死、残ったのは奴隷の女子供と、船員たちとの間にできた子供、という組み合わせだったのではないのかと、どうしても考えてしまう。

もし奴隷の男女と子供の割合がバランスよく残されたのだとしたら、生き残った数のアンバランスも謎になる。

この島は砂の荒地だから、毒性のある動物や危険な獣もいなかったはずだから、リスクを冒す男が命を落としやすいということもないだろう。

奴隷貿易を弾劾すべきなのは当然だが、長い航海のうちにばたばた死んでいったり、植民地のマニファクチャーなどの過酷な労働条件で死んだり殺されたりした無数の奴隷たちの運命の不当さや苛烈さとはまた別に、何もない空っぽの涙型の孤島で15年も生き抜いて、救出された後は「解放された」という以上の記録を残していない7人の女と赤ん坊のそれからの運命を思うと、万感の思いがこみあげる。

女たちと赤ん坊を救助して「砂の島」を「トロムラン島」にした騎士トロムランは、この時31歳だった。

7年戦争で敗れたイギリスに一矢報いるためにアメリカ独立戦争でも戦った。

聖ルイ騎士章を授与され、フランス革命下でも海軍副総督に出世した。

ナポレオンが失脚してイギリス領のセントヘレナ島に置き去りにされた年の翌年、1816年に、81歳で生まれ故郷のブルターニュで死んでいる。

トロムラン島で生まれたあの赤ん坊は、フランス革命をどんなふうに生きたのだろうか。
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by mariastella | 2012-08-17 07:59 | 雑感

選択か合意か - アベ・ピエールの言葉

先日テレビで久しぶりにアベ・ピエールのことをやっていて、前後は聞いていなかったのだが、その中で、アベ・ピエールが語っているビデオが挿入された。

「人が選択していると思っていることは、ほとんどの場合、同意(合意)しているにすぎないのです」

というワン・フレーズだ。

ちょっとショックを受けた。含蓄がある。

今の世界では、なんでも自己責任とか自助努力とか、表現の自由とか、あるいは、既成の価値やらに惑わされないで自分の頭で考えて自分の生き方を選択しようとか、「自分が主役」という考え方が主流だ。

それが極端に行くと、他を踏みつけるエゴイズムはもちろん、自傷や自死の権利、売春の権利など、にまで及んでしまう。

でも、確かに、私たちが、そうやって複数、または無限の選択肢から「自由」に「選択」していると思っていることのほとんどは、単に誰かから、社会から、システムから、提案または強引に勧められたものに「同意」「合意」しているにすぎない。

「選択の自由」は巧妙に仕組まれた幻想かもしれない。

「2030年までに原発依存率を・・%にするのに賛成か」

「子孫に借金を残すのか今増税や緊縮を受け入れるか」

などという欺瞞的なものから、

「女性がキャリアを優先するか子供を優先するか」など、

とにかく、選択肢の立てられ方、与えられ方そのものが、すでにイデオロギー的だったり、社会や伝統のバイアスがかかっていたりする。

「選択」したつもりでも、そもそも選択肢の与えられ方に反論する余地がなかった場合には、「自分で選んだのだから後は自己責任」だという論は立たない。

幻想の自由を与えるたいていの「選択肢」は、未知の要素、不都合な要素をあらかじめ恣意的に排除し、見ないようにした上で、分かりやすい情報だけを分析し予測した上で準備される。

その恣意的な選択肢を検討した末に最適解を得たかのようなポーズをとり、いざ未知の部分が立ち現われてくると、「想定外」だったと言って、嘆いたり逃げたり諦めたりごまかしたり開き直ったりするスタイルは、今や、特権階級のレベルでも一般人のレベルでもスタンダードになっているほどだ。

ほとんどのケースは、「合理的な最適解」を押しつける「合意」の強制だったのに。

そういえば、レイプ裁判などでも「あれは女性も合意していた」などという弁護も聞かれるが、合意するか殺されるかみたいな強制二択のような状況の「合意」など、「自由な選択」とは真逆のところにある。

登校拒否、引きこもり、二―ト、住所不定などいろいろな社会的にネガティヴな状況も、
社会や環境から一方的に与えられたやり方、生き方に合意せざるを得なかったり、あるいは
どうしても合意することができなかったりする結果であるのかもしれない。
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by mariastella | 2012-08-08 17:58 | 雑感

未成年の自殺報道について

大津いじめ自殺事件についていろんな方から意見を聞かれたのでひとこと。

自殺防止のためには報道を規制すべきだということは、国連のWHOからのガイドライン
でも強調されていることだが、その中で、

「個人的な問題に対処する方法として自殺を描き出さない。」というのがある。

自殺が「問題対処の方法」の選択肢の一つであり得たかのようにまず描いておいて、それからその選択肢を選ばせない方法をあれこれ議論するのはどこか間違っている、と私も思う。

日本語では「自裁」、「自決」という言葉もあり、「自殺」というのも『春秋左氏伝』などに出てくる古い漢語らしい。私はなんとなく、Suicideの翻訳語だと思っていた。

日本の昔の心中だとか切腹とか自害というのは、「選択」というより、社会的に行き詰って他の選択肢がなかったり制度化して強制されるものだったりという印象を持っていたのだ。

キリスト教国では、「狂気の果て」と見なされない正常な判断力のある人間の自死は長いあいだ世俗の法律上でも犯罪で、死骸が罰せられて裁判所の前で引きずりまわされたりあらゆる名誉や記録を剥奪されたりした。

もちろん教会も、自殺者の魂は地獄に堕ちると断言していた。

ところが、実は、自殺という言葉自体は、18世紀までは存在しなかった。

Homicide (殺人)という言葉はあったので、それにラテン語sui(selfという意味のse の属格)
を加えて造語されたものなのた。

suicidium というラテン語はあったのだけれど、英語やフランス語にはなっていなかった。

「意図的に自分で自分を殺す」という用法でsuicideが使われるようになったのは18世紀の前半なのだ。

それは、まさに啓蒙の世紀に現れたことになる。

18世紀には、「自分を殺人する」とか、「心臓を溺れさせる」とか「人生を短くする」などの表現でいろいろな人の自殺がニュースになり、フランス中のサロンで、法廷で、告解室で、人々が真剣に語り始めた。

ありとあらゆる階級の男女が自殺し始めたのだ。

遺書が残され、警察の調書が公開されるようになった。

それによって、「自殺」という言葉が生れ、市民権を得た。

それまで、悪魔の行為とされ、法律でも弾劾され、民衆からも忌み嫌われていたタブーのような犯罪が、

人々からも「理解」される個人的な身の処し方、

もっといえば、「自由」を行使する表現の一つに変わったのだ。

「自殺」が18世紀フランスで「市民権」を持つに至った理由の一つは、同じ頃、「幸福」が市民権を持つようになったことであるという。

死後に天国に行けるという希望ではなく、この世での「世俗的幸福」の追求や実現が初めて人々の視野に入ってきたということなのだろう。

「幸福」の具体的なイメージができてはじめて、人は「絶望」を知ったのだ。

実際、常に生命の危険にさらされているような社会ではサバイバルの本能しか働かないだろう。

18世紀のフランスでは、生活の苦しさだけでなく、政治的絶望、失恋、名誉のために、人々は命を絶った。

そしてそれについて意見がかわされたのだ。

フランス革命が起こった。

で、まるで、人権宣言やカトリック教会の否定と軌を一にするかのように、1791年には自殺が刑法の罪から外された。

後にこの91年法は廃止されるのだが、一度「市民権」を得た自殺は、次の世紀のロマン派の時代に向かってますます大きく成長していく。自殺にはロマンティックな付加価値すら与えられた。

これは、何を意味しているのだろう。

もちろんいつの時代にもどのような文化にも、何らかの理由で自死を決意する少数の人や、鬱病などの心の病から自死に至る人はいただろう。

けれども、それだけでは、近代以降の自殺の増加を説明することはできない。

自殺の増加は、それを「身の処し方」「人生の問題の対処法」として認知した社会の変化に深く関係しているのだ。

私たちの住む社会には、

「個人は自分の命に対する全権を有する唯一の所有者であって、自暴自棄自殺を自由に行使できる」

というイメージが描かれ、提供されてしまっているのだ。

けれども、自殺への促しは決して運命的なものではない。

社会的、人為的なものだということである。

それなら、少なくとも未成年から自殺という選択肢をなくしてしまうような社会の仕組みをつくれないだろうか。

WHOのガイドラインが呼びかけていることは、そのような「近代概念としての自殺」の歴史を見据えた上でついに生まれてきたものなのである。

あらゆるメディアはその辺をもう一度深刻に受け止めるべきではないだろうか。

(18世紀フランスで自殺が「個人の選択」として認知されていく経緯を詳しく分析している下記の本を参考にしました)

≪S'abréger les jours: Le suicide en France au XVIIIe siècle ≫Editeur : Armand Colin
Dominique Godineau est professeure d’histoire moderne à l’Université Rennes 2. Elle a consacré de nombreuses études à l’histoire des femmes et de la Révolution française et a publié Citoyennes Tricoteuses. Les femmes du peuple à Paris pendant la Révolution (1988, Perrin, 2004) et Les femmes dans la société française, XVIe - XVIIIe siècle (Armand Colin, 2003).
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by mariastella | 2012-08-03 06:41 | 雑感



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