L'art de croire             竹下節子ブログ

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Tony Judt のヨーロッパ

 フランスがEUの議長国だった半年もほとんど終わったこの頃、フランスでは急に、

 『Après-guerre. Une histoire de l'Europe depuis 1945』, Paris, Armand Colin,

 が話題になっている。「オバマのアメリカ」を前に、「世界が変わるかも」という気分があるんだろう。いかにもフランス人の好きそうな本だ。

 原作は 『A History of Europe since 』1945, Penguin Press, 2005』で、

 今ネットで検索したら、日本語訳も出てた。

 『ヨーロッパ戦後史 』 トニー・ジャット, 森本醇 みすず書房

 ここでは、21世紀はもうアメリカの時代でないばかりか、アジアの時代でもなくて、ヨーロッパの時代だと書いてある。冷戦は、共産主義と資本主義との戦いとかではなかった。ソ連邦によるヨーロッパの植民地化であり、それに対抗したのは、資本主義でなく、ヨーロッパ再構築のヨーロッパ主義だった。ソ連が瓦解した時アメリカはNATOによるヨーロッパの再分断を画策したが、失敗した。ヨーロッパの牽引力、ユニヴァーサリズムの理念が、アメリカの覇権主義に勝っていたからだ。

 冷戦とともに、NATOの太平洋ヴァージョンとして日米安保条約があったことを考えると、その後の展開には差がありすぎるなあ。

 著者は、1948年生まれ。無神論的自由主義者のユダヤ系リトアニア人を父にもつ英国人で、シオニズムにかられてイスラエルにも渡り、フランスのグランゼコールでも学び、今はNY大学にいる。
 彼のヴィジョンと、来歴は、切り離せられない。

 インタナショナルな人は「デラシネ=根無し草」になるとか、コスモポリタンは無国籍人だとか思うかもしれないが、実は、結構、ミュータントになる。
 私のことでも、フランス在住だから視点がユニークだと言われることもあるが、それはもう、視点や視座や視野が違うのでなく、視覚の解析の方法そのものが確実に変わってしまっているという方が近い。もちろん、出自がたとえばハーフでも精神はモノカルチュラルな人、や俺様キンダムの住民だっていっぱいいるんだけど。

  トニー・ジャットのような人も、単にヨーロッパびいきのアングロサクソン系ハイブリッドな人、というレッテルでは語れない、と思う。イスラエルにおける共同体主義の理想を過激に駆け抜けた後だからこそ、ユニヴァーサリズムのフランス型ヨーロッパ教の洗礼を受けて、新人格に到達したんだろうな。

 世界を変えるには、オプティミスティックな希望に裏打ちされた確信が必要なんだろう。
 
 思えば、今や、先進国の伝統宗教というのは、そういう無邪気な自信を失ったり封印したりしている。

 日本で買った『ジッポウ』(季刊・秋号ダイヤモンド社)という仏教雑誌に、島田裕己さんが、戦後日本の宗教シーンを俯瞰、分析していた。
 なかなか本質をついている。やはり、これも、彼の人生の果実なんだろうなあ。筆先のレトリックではない説得力がある。
 そして、これを見ていて、一体、戦後60年も、日本におけるこのような宗教的貧困の中で、「伝統宗教」は一体何をしていていたんだ、と愕然とする。

 まあ、この雑誌は、遅ればせながら、高齢化社会におけるちょっとエコで手軽な救済マーケットに仏教を注入しようとしているわけだけれど、日本の伝統仏教は、廃仏毀釈や国家神道によるトラウマが大きすぎたんだなあ、とつくづく思い知らされる。

 日本でマイナーなキリスト教は、16世紀末以来の切支丹狩りのトラウマは別として、明治以降は和魂洋才の名のもとに抑圧されたといっても、それなりに、「欧米」のオーラも享受したはずなんだから、戦後なら何とか、体制を立て直して進化するチャンスもあったろうに、何をしてたんだろう。

 法然は、「勝他(論争で他を屈服して得意になる)・利養(信者獲得による利益)・名聞(名声・名誉)」の邪道に陥るなと修行者を戒めたそうだ。その戒めが効を奏し過ぎて、なんだか、大手の伝統宗教はひたすら上品に自己規制して、必要以上におとなしくしてたみたいだ。

 カトリックなんか、戦後60年も経って、進学校やお嬢様学校のミッションスクールの実績作りは別として、ようやくイニシアティヴをとった宗教的自己主張が、4世紀前の殉教者の称揚だよ。
 前回のエントリーでも触れたが、新新宗教によるテロどころか、毎年の自殺が3万人という現在の日本の異常事態を見据えれば、他にやることがあるだろうが、と言いたくなる。

 キリスト教新宗教といえば、罪悪感や終末観をあおったり、若者をコミュノタリズムに閉じ込めたり、ペシミスティック、アナクロニックで後ろ向きなものばかり目立つ。

 確かに、今のカトリックは「福音宣教」は捨てていなくても、「信者獲得」は全然めざしていない。伝統仏教が多角経営や「ご縁のあった人に法を説く」だけで、積極的布教や折伏と縁がないのと同様だ。
 コミュニティ内の冠婚葬祭だけに専念するなよ。「普遍」宗教だろ。

 『ジッポウ』を見て、一部仏教が頑張ってるとはいっても、LOHASとか、エコとか、スローライフとか、中高年の心の健康とか、「体力が落ちた人のナルシシズムの要求に応える」っぽい仕様になってるのは、「?」だ。

 病や事故や老いや貧困などでナルシシズムやエゴイズムの維持に挫折した人には、「お手軽修業体験」だの、「仏教を楽しむ」だのは、もはや意味をなさない。老舗宗教の宗教者は、次の年の3万人の自死予備軍を1人でも救うことに心を砕いて欲しい。

 もし、「生きてる意味がない」とか、「苦しさに耐えられない」とか、「死んでしまいたい」とか思ってる人が偶然この文を読んだら、私のサイトに連絡してください。必ず、必ず、話をききます。
 
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by mariastella | 2008-12-12 22:44 | 雑感

世界人権宣言デー

 12月10日は世界人権宣言の60周年記念日で、パリのトロカデロでは、60年前にこの宣言文を作った共同執筆者の「生き残り」である 91歳の Stephane Hessel が姿を見せた。

 アベ・ピエールが亡くなり、シスター・エマニュエルも亡くなり、ベルナール・クシュネールが「?」な言動を見せる今のフランスにおいて、ステファン・エッセルがいてくれるだけで、「理念の力」を信じられるし、彼のように、絶対に希望を捨てることなく戦うことでこの世を少しでも確実によくしてきた人と同時代にいることを喜べる。

 この人は、もとドイツ人で、トリュフォーの『ジュールとジム』(今検索してみたら、邦題は『突然炎のごとく』だった。なんて懐かしい)のジュールのモデルとなった作家の息子だった。20歳でパリのエコール・ノルマル・シュペリユールに入って、フランス国籍を取得、その後、ナチスの政策を攻撃し、フランスのレジスタンスにも参加したし、チャーチルもスターリンも手をつけなかった「世界人権宣言」を世に出し、移民労働者の人権のために戦い、人権を侵犯されている世界中の人のために奔走し続けた。こういう人がいるから、あらゆる誘惑に負けてとても人間的な展開をしてしまったフランス革命の価値ですら信じてもいい、と思えるのだ。

 そして非力ながら、私もユニヴァーサリズムの擁護に役に立ちたいと思う。

 昨日はフランスのライシテの危機についてアルテがドキュメンタリーと議論の番組をやっていたが、ドイツのムスリム女性のフェミニスト弁護士とフランス側はエリザベト・バダンテールが、そのたどった道は違うものの、異口同音に、文化の多様性の名の下に弱者を切り捨ててはならないことを強調した。なんと、国連は、たとえばアフガニスタンの女性のブルカ着用への「先進国」による批判などを「人種・文化差別」だとしているのだそうだ。考えたら、伝統を相対化して普遍理念に向かうような余裕のある「先進国」なんて、数からいうと世界のマイノリティだしな。

 フランスでも100年経って戦闘性をなくしたライシテは、本来の意味を失いつつある。「人間的に適用すべきだ」と言ってリールで公営プールに女性専用枠を設けたマルティーヌ・オーブリーのように、「マイノリティのリスペクト」がコミュノタリズムの侵食をゆるす口実にされつつあるのだ。
 人権とライシテはセットになっている。理念であるから、決して譲れない一線がないと意味をなさないのだが。
 マイノリティのコミュニティが政治ロビーとなって票田となるところに罠があるのだ。

 ドイツはババリア地方では今も公立学校の教室に十字架があるし、幼稚園からスカーフを被ってくるムスリムの女の子もいて、小中学校でも、ラマダンの時には子供たちがふらふらだから試験もできないそうだ。

 と、ここまで書いたが、その私の大好きなエリザベト・バダンテールの夫で、これもいつ聞き返してもほれぼれする死刑廃止演説

 (日本語訳がここで読める  http://kihachin.net/tips/badinter.html  )

をして見せたロベール・バダンテールが、最近、普遍的な人権問題にとって、国際刑事法廷の持つ意義を賞賛しているのを読んで、違和感を感じた。

 独裁者や虐殺者など、国際刑事法廷が執拗に追い詰める「人道に対する罪」っていうのは、時効がない。もちろん、その時々の国際的力関係によって、詰めが甘かったりお目こぼしがあったりするのだが、それでも、だんだんよく機能してきている、進歩している、と、バダンテールは言う。
 でも、たとえば、こういうのを見ると、やはりアメリカは日本に原爆を落としたことで罪に問われるのが嫌で国際刑事法廷の憲章を批准しないのかなあ、とか思ってしまい、犠牲者主義に気持ちが傾く。

 これに対して、哲学者のポール・チボーなんかは、法と政治は本来完全には切り離せないものであり、正義や公正の理念を、加害者を断罪して罰するということに収斂しては、ルサンチマンはネガティヴでアグレッシヴな方向にのみ向かう、と警告を発している。
 政治とは、国やグループの間の線引きをその都度調整していくことでもあり、常に未知の方をむいた試行錯誤である。それに対して法による制裁とは、基本的には、過去の作った基準でその後に起こったことを裁いていく。「人道に対する罪」を罰することには、何か、全能の傲慢さがつきまとう。ポール・チボーのキリスト教的な「復讐するは神にあり」という気持ちが、「人権法廷」を本能的に警戒させているのかもしれない。

 人道に対する罪から被害者や遺族を守ったり、復権させたりして、建設的なことにつなげていくのならいいけれど、人権の名の下に「過去の権力者」をなぎ倒していくのは、死刑と同じ「復讐の論理」ではないんだろうか。
 被支配者に対する生殺与奪の権を持つ権力者は、人の命にやすやすと軽重の差をつける誘惑に駆られる。そして、その芽は、きっと、誰にでもあるような気がする。
 たいていの権力者は彼らなりの「合法」の中で、人道に対する罪を犯しているわけだし。

 時代や文化を超えて広がった「普遍」宗教などには、そういう人間の法を超えたメタ基準としての「内的良心」をたてたものもあった。

 普遍を標榜する人権宣言も、そういう伝統の末裔にあると言えば言える。
 普遍的な理念とは、人間性を広げたり深めたりつなげたりするように働くならいいが、人を加害者と被害者や善と悪に分断して裁きあったり「落とし前をつける」方向に行くのはいかがなものだろうか。理念の敵は、相対主義だけではなく、教条主義でもある。
 
 死刑反対と、国際刑事法廷称揚とは、どこかそぐわないんじゃないだろうか。

 
 
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by mariastella | 2008-12-11 02:49 | 雑感

枯山水

 重森三玲の『枯山水』(中央公論新社)を読んだ。

 ものすごく明快だ。

 それにつけても、禅家の趣向というものの特殊性にあらためて感心する。
 水墨山水画が、従来の仏画に取って代わったと言うのは、考えたらかなり異常な事態である。

 幽玄とか侘びとか言うのも、「とても日本的テイスト」だと漠然と思っていたが、これも、考えたら異様だ。象徴的、高踏的、難解なものが、一世を風靡していいんだろうか。

 竜安寺式の配石について、芸術の造形深い近衛家の人が、

 「私テイノ者ノ見テハ好悪ノ論ハ及ガタシ、一向上ノ事ニヤ」

 と言っているくらい、難解だったのだ。

 貴族階級の  「優美典麗」な「池泉庭園」が、
 武士や禅家の 「枯淡雄勁」な「枯山水」に変わっていく。
 桃山文化にはその二つが共存していた。

 叙景と叙情が入り乱れて幽玄に到達するとそうなるらしい。

 風景画というものがない文化がある。
 ヨーロッパでも長い間、風景画というジャンルが登場しなかった。
 チベット仏教、チベット文化には、今でもない。

 ヒマラヤの雄大な自然があるのに。

 山よりも海や水の方が、叙景をインスパイアするんだろうか。

 重森三玲さんは、自分でも枯山水を作庭した。フランスのアーティストたちが高く評価してくれたと書いてある。
 その感じは分かる気がする。
 デザイン性が極めて高いからだ。
 フランス庭園は、自然主義的でなくデザインだからだ。

 多くのアート作品は、大衆を相手に売らんがために低下する、と重森さんは言う。
 幸いに作庭は、依頼主一人を理解させたらよい、依頼主を向上的に指導すればいいと言う。

 依頼主を指導することのできぬ作庭家の作品はだめだと。

 「庭園は、設計する以前において、依頼主を設計しなければならない」
 「依頼主を完全に設計することができて、始めて庭園の設計ができる」

 すごいなあ。

 このメンタリティも少しフランスっぽい。
 
 でも、フランスの宮廷美術は、優美典麗を追求し続けた。
 枯淡雄勁には転換しなかった。
 でも、高いデザイン性という点で、共通点がある。

 いろいろ考えさせられる論考だ。
 
 
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by mariastella | 2008-12-05 02:36 | 雑感

黒人初の・・・

 オバマが当選して、繰り返し、「黒人初の・・」という言葉が流れる。

 私はこの言葉がすごくいやだ。

 彼がたとえばケニア国籍でケニア大統領に選ばれたら「白人初の・・・」なんて言われるだろうか。

 「白人の血をひく」とか、「白人の母親を持つ」とかじゃないだろうか。

 過去のアメリカの差別政策においては、何代さかのぼって黒人とか、黒人の血が何分の一かで黒人とかいう基準があったはずだ。プランテーションにおいて、白人の「主人」が黒人女性の奴隷に子供を生ませても、その子供は即黒人=奴隷でしかなかった、という状況を踏まえているからなんだろう。

 アメリカ第3代大統領のジェファーソンは、そうして生まれたハーフの黒人奴隷を妻の死後に伴侶として、そこに生まれたクォーターの子供たちの中には見た目はまるで白人のような子供がいたが、公式には一生奴隷だった。ジェファーソンの遺言で自由の身になったというが。

 つまり、アメリカにおける人種差別の根拠は、ずっと、「純粋白人ではない」というところにあったのだ。「純白」が少しでも「汚された」ら「不純」。

 私は、宗教上の食べ物の禁忌もすごく抵抗がある。

 その多くは、魚なのにうろこがないとか、ひずめが割れてるとか割れてないとか、要するに、カテゴライズできない中間的存在や曖昧な存在を忌避したり排除したりする考えに基づいているからだ。
 マジョリティに似ていないもの、秩序を乱しそうなものを劣等な存在とする排他思想や優生思想にも通じる。

 白人でも黒人でもないあたらしいカテゴリーがあってもいいし、そういうハイブリッドな存在が、社会の支配構造を決めるカテゴリー分類そのものを無化する牽引となってもいい。

 ユニヴァーサリズムを掲げるフランスでは、「人種別統計」は禁じられているので、アメリカのように「30代白人女性」は何パーセントオバマ支持とかいう調査は絶対に出てこない。「何系フランス人」という言い方も、公式には使わない。
 たとえそれが偽善だと言われても、そういう姿勢はフランスを居心地よくするし、カテゴリー外のハイブリッドな人間をどんどん送り出そうとしている私にはかなり重要な部分だ。

 だから、オバマにつく「黒人初の・・」という形容を聞くたび、暗くなる。
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by mariastella | 2008-11-06 00:30 | 雑感

オバマのハワイ里帰り

 オバマ大統領候補を育ててくれたハワイのおばあさんの具合が悪いというので、彼が48時間、選挙活動を中止してハワイへ帰るという記事があちこちで出ていた。

 この大事な時に、家族のために留守をするというのは、

 もう勝利は確実という自信がある、

 家族を、しかも目上の年寄りを大事にするという人間的な側面をアピール、

 などの理由があるかもしれないが、こちらで見るどの記事にもおばあさんと抱擁する彼の写真などが出ていて、そのおばあさんが典型的な白人だということが嫌でも目に入る。

 確か、アメリカでは70年代だかの知事選挙で、黒人候補にみなが投票したといっていたのに、蓋を開けたら落選したという事件があった。表向きは応援していた白人の中で、いざとなったらどうしても黒人に投票するのに抵抗があったということだろう。

 今は時代が変わったが、それでも、今のオバマ優先の空気の中で、やはり彼の肌の色への差別意識というのが消えたとは思えない。ヒラリー候補だって、女性差別主義者から明らかな嫌がらせを受けた。

 で、今回の選挙戦の最後の駄目押しに、オバマと白人のおばあさんの抱擁シーンをばらまいて、ほら、彼は白人の仲間ですよ、というサブリミナル情報を与えてるのかもしれない。

 そうだとしたらなかなかの戦略だ。

 ネット上のジョーク(?)にこんなのがあった。

 本当に差別がない社会が実現するのは、黒人女性のローマ法王が誕生した時だ


 というものだ。

 アメリカ、どうなるのかなあ。
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by mariastella | 2008-10-22 04:12 | 雑感

DSKのスキャンダル

 NYでIMFの専務理事をやってるDSK(ドミニク・ストロス=カーン)が、金融危機のこの時期に、もと同僚のハンガリー女性との浮気と彼女がやめたことについてスキャンダルを言い立てられている。

 浮気は去年のことで、彼はそれを認めた。

 アメリカでだからこうなったんだそうだ。
 フランスなら浮気の真偽を本人に問いただすという展開にはならない。

 「アメリカでは、公人が公共の場で嘘をつくのはモラル上の大罪だからだ」

 とフランスのメディアは解説している。

 アメリカはピューリタン的で性的パラノの国だから、とも言っている。

 夫人がコメントしなければならなかったのもアメリカならでは、だ。

 サルコジの女性経歴はお笑いだが、DSKはまったく反対のキャラなのに。

 夫人は、「どのカップルにも必ずあり得ることで、私たちにはもう終わったことです」

 みたいな発言をしている。ともに団塊の世代で、ジャーナリストの夫人は再婚だが、DSKは彼女とともに新たに生まれた、というくらい、強い絆だったみたいだが。

 「浮気」はひと晩だけだった、とかいうのも、何かかえって生々しくて嫌な感じだ。

 調査中で、女性の退職について、彼が退職に追い込んだとか退職の条件を有利にしたなどの事実が発覚すれば、DSKは辞任に追い込まれるそうだ。アメリカでIMFのトップで、今の時期に、フランス社会党からの大統領候補(党内選挙でセゴレーヌ・ロワイヤルにやぶれた)だった彼の手腕が期待されていただけに、彼の足を引っ張っているのは一体だれだろう、と詮索したくなる。

 しかし、そもそも、既婚の60年配の男が、要職について大事な仕事してるのに浮気なんかするなよ、とやはり思う。
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by mariastella | 2008-10-22 00:18 | 雑感

教条的ディスクール

 朝起きたら、自分のサイトの掲示板に投稿があったというメールが来ていた。

 「哲学・宗教質問箱」だ。

 「ラザロ」さんの「愚かな金持ち」という投稿だ。

 キリスト教関係の掲示板化してるので、そういう言葉に反応して送られてくるスパムの一種だろう。質問箱の趣旨に合わないということで、このサイトを管理してくださっているスタッフが消去してくれるだろう、それとも自分で消しとこうと思ったが、一応読んでみた。その後消されるかもしれないので、ここにコピーしとく。



  イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。


 以上だ。

 別に異論はない。

 「イエスの口から出た言葉」だって、文脈を無視して切り取られてぽんと出されたら、かなりへんなものだってあることを思うと、この言葉は、まあ納得できる。

「富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」

 という部分は、まあ、富んでいる人や、満腹してる人、笑っている人から見ると「大きなお世話だ」と思われるだろう。


 でも、この警告だのアドヴァイスは、パウロの『テモテへの手紙1』の6章からの抜き書きみたいなものでなっている。パウロと福音宣教の志を同じくするテモテへの言葉だからこれでいいので、「神の人」という自覚のない人に突然突きつけられても、違和感あり過ぎかもしれない。

 まあ、近頃はサブプライム金融危機とかネオリベ市場主義の崩壊、のようなご時世なので、これを読んで、「なるほど、投機による『欲張り』は行き過ぎると罰が当たるなあ」とか、「おいら、下流でよかったよ」みたいになごむ人もいるかもしれないが。

 あまりにも富み過ぎでいるのがよくないのは分かる。「笑う」のは、上機嫌という意味では絶対にいいと思うけど。「満腹」っていけないのか?

 ここで、最強のあの方の言葉を拝聴。
 ネットで拾っただけだが・・
 
 日野原重明著 「生きるのが楽しくなる15の習慣」 講談社プラスアルファ文庫

 から、


 1  愛することを心の習慣にする
 2  「良くなろう」と思う心を持つ
 3  新しいことにチャレンジする
 4  集中力を鍛える
 5  目標となる人に学ぶ
 6  人の気持ちを感じる
 7  出会いを大切にする
 8  腹八分目より少なく食べる
 9  食事に神経質になりすぎない
 10 なるべく歩く
 11 大勢でスポーツを楽しむ
 12 楽しみを見出す
 13 ストレスを調節する
 14 責任を自分の中に求める
 15 やみくもに習慣にとらわれない


 この8番目、「腹八分目より少なく食べる」ってのがある。

 そうか、満腹はよくない。

 日野原さんみたいに元気で楽しそうでしかも人のためになる生き方をしてる方の言葉を聞くのは、「あやかりたい」という気持ちになる。33歳で十字架につけられたイエスや、やはり投獄されたり処刑されたパウロの言葉もありがたいが、同じ日本人のDNAを持っていて97歳で現役って人は魅力的だ。

 もっとも、50代や60代ですでに体にガタが来ている人や、若くして病気や障害とともに生きている人もいるので、そういう人には日野原さんの元気はまぶしくてうっとおしいかもしれない。

 それでは、と、中島義道さんのことを思い出す。

 これもネットで拾ってみよう。

 『私の嫌いな10の人びと』新潮社

 1 笑顔の絶えない人
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
 3 みんなの喜ぶ顔を見たい人
 4 いつも前向きに生きている人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8 物事をはっきり言わない人
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

 この人って、偽善や欺瞞を憎むっていう点では、まさにイエスかパウロって感じである。隠れキリシタンみたいな人だ。

 日野原さんは、さすがに年の功というか、最後の

 15 やみくもに習慣にとらわれない

 っていうところで、ちゃんとガス抜きを用意してくれている。

 さて、漠然と、日常の中で「生きにくい」と思っている人たちは、どちらを読むといいんだろうか。

 どちらにも罠がある。

 どちらの本を読んでも、多くの読者は、「自分と引き比べて」考えてしまうからだ。

 「あ、私って、これかも」

 「一体どうしたらこういう風になれるんだろう」

 「おいらにはとても無理無理」

 「この人たち所詮、(おいらに比べると)勝ち組じゃん」

 「ええい、だからどうしろっていうんだよ、これじゃダブル・バインドだよ」

 エトセトラ・・・

 多分、問題なのは、「自分」を基準にして読むことだ。「自分」を主役にして生きることだ。「自分」のパフォーマンスを追求したり、「自分」の好悪に忠実だったり、「自分らしさ」や「自己実現」や「自分の幸せ」をさがすことだ。

 私たちそれぞれの「自分」が、私たちを窒息させる。私たちを閉じ込める。

 パウロが、神にのみ望みを置くように、というのは、別に「自分と神」が特別親密になろうといってるわけではない。むしろ自分を消していく、ぎりぎりの孤独があって、そこでは自分というものは、点でしかない。点とは、数学上の定義どおり、位置だけあって、面積がないものである。神と出会うというのは、自分が点になるということで、多くの宗教の「悟り」の言葉は、そういう境地を表している。「絶対無」とか「空」とかいうのも、虚無ではなくて、点に近い。その「点」を失えば、「悟り」は「虚」になる。

 そして、自分が「点」になれば、その神との出会いの「無」において、「他者」との出会いやつながりが広がるのだろう。

 「神と富とに仕えることはできない」というのが本当だとしたら、

 「神と他者」には仕えることができる。

 その「他者」とは、私たちが譲歩したり、優先権を差し出すことのできる他者である。つまり、「相対的に弱くて小さい者」だ。

 自分より弱い他者とつながり支えることができないような「智恵」は、教条主義から免れるのは難しい。

 信号の色がなんであろうと、

 大型トラックは乗用車に気を配り、
 乗用車は自転車に気をつけ、
 自転車は歩行者に譲り、
 歩行者は杖を突いて歩く人に譲り、
 支配者は被支配者に譲る。

 たとえ楽しく生きられなくても、生きるのにはマナーが必要だ。
 


 
 
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by mariastella | 2008-10-07 19:07 | 雑感

イギリス王室とカトリック

 Patrice de Plunkett のブログによると、イギリスのゴードン・ブラウンは、近く、カトリック信者がイギリスの王座につくことの禁令を解くつもりらしい。

 これは、1688年の名誉革命以来の変革だそうだ。

 名誉革命でカトリック王が禁止されたのは、カトリックであったスチュアート家の王位奪還を阻止するためだった。今はスチュアート家は絶滅したそうだから、当初の目的はもう意味をなさない。日本人の目から見ると、17世紀の法律が今も生きているということ自体が驚きで、宗教〈というよりキリスト教党派争い?)の確執の根深さに今さら感心する。19世紀までは、カトリックは公職にもつけなかった。
  
 ブラウンはスコットランドの長老派の牧師の息子だし、今のイギリス王室にはカトリックがだれもいないから、この突然の変革は、王室の誰かの「隠れカトリック」をかばってるのかもしれない。ブレア元首相が、首相を辞めたらさっさと、奥さんの宗旨であるカトリックに改宗したことは記憶に新しい。禁令が解けたらだれがカミングアウトするのか楽しみだ。

 この名誉革命でカトリック国フランスに亡命したのがジェームズ2世である。そして、その前のチャールズ2世は、カトリック・シンパだったが、新教徒に屈して、アイルランドのオリヴァー・プランケット大司教の逮捕を許してしまった。彼は、証拠なしの陰謀でっちあげによって吊るされ、解体され焼かれたそうだ。今は殉教聖人になっている。

 ん? プランケット大司教? 

 では、パトリス・ド・プランケットも、ひょっとしてアイルランドから亡命したカトリックのプランケット家の子孫なんだろうか。だとしたら、彼が若い頃に左翼王党派だったり、今もローマ教皇ファンであることも納得がいく。

 ヨーロッパの宗教や歴史は込み入っている。宗派は姻戚の指針であり、権力の継承とセットになっている。アングロ・サクソン国ではアメリカも含めていまだにそれがはっきり見えている。いや、はっきり見せないといけない。だから、隠すことも必要になる。
 今のデンマーク女王と結婚したフランス貴族は、王室がルター派と決まっているので結婚前に改宗した。外交官だった。アンリという名はヘンリクとなり、国も名も宗教も仕事も変えたのは一大決心だったと語っている。(この夫婦は、でも今でもすごく仲がいい)

 フランスは共和国の原則上、関心も薄いし何の障害もないが、サルコジもカルラもカトリック系だから、離婚してようが不倫してようが、ローマ教皇が来てもなあなあで大丈夫である。建前は別として、教義とかの問題じゃないのだな。でも「隠れ」信仰者というのは逆に、教義にもこだわっていそうだ。奥が深い。

 
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by mariastella | 2008-09-26 20:41 | 雑感

ユニヴァーサリズムのマクロバランス

 昨夜、一神教と宇宙人についてのエッセイを書いた。
 ついこの前、キリスト教とUFOの親和性についてのコメントを求められて書いたものの補完と言ってもいい。

 超越というものと、地球外というものの関係がその中心にある。

 これは、キリスト教の非宗教化として抽出された西洋近代型ユニヴァーサリズムの話でもあるのだがそれには触れなかった。

 共同体の外、階級の外、国の外、などに仮想敵を外化して、内部の秩序を維持するとか、結束を固めるとか、あるいは支配者への依存状態を作るとかいうのはまあ古典的な手法だが、ユニヴァーサリズムを敷衍していくと、仮想敵の場所がなくなる。
 西洋近代型ユニヴァーサリズムは平等思想と人権思想も生んだから、内部に異端を作って罪をかぶせてしまうという形の共同体結束も難しくなる。

 冷戦の頃のアメリカ映画には、「ソ連のスパイ」だの「核戦争」だののテーマが多かった。「ソ連」が消滅してからは、それが「火星人襲来」とか「巨大隕石の衝突」とか「異常気象によるカタストロフィ」とかにシフトした。その後、21世紀には、「テロリスト」という敵へまたシフトした。

 異常気象ものには、アメリカだけが寒冷化したり大洪水で住めなくなり、途上国に移民をさせてもらって「どうもありがとうございました」、とこれまでの傲慢を反省するというタイプのものもたまにあるけれど、宇宙人襲来ものは、地球人が結束して地球を守るという効用があった。

 人類の危機の前では地球人同士の肌の色とか文化の違いなんて、どうってことないよ、という形での、ユニヴァーサリズムの成就だ。

 そういうことでも起こらなければ、人類みな兄弟という感覚は「自然に」生まれるものではない。人権宣言だって最初はカトリックとプロテスタントの男の納税者が喧嘩せずに仲良くやろう、ぐらいの実質しかなかったし、まあ、それでも革命的だったわけだが、普遍選挙と言っても、女性が「普遍」に含まれたのは、歴史上のほんの最近の話に過ぎない。

 で、ユニヴァーサリズムを標榜する人のなかには、宇宙人やら地球外生物やらが我々の視界に入ってくることを、ユニヴァーサリズム成就の最後のチャンスと見る人がある。
 人間が殺し合いをやめるには、地球外生物との戦争が一番効果的だという発想だ。

 しかし、一方で、現代のカトリックなどは、1992年のガリレオの復権以来、科学的パラダイムの変換を公式に認めたので、人類と同じ、「被造物」仲間の地球外生物の存在を、「科学的」に検証しようとしている。

 「神の存在証明」について、その超越性や無限性ゆえに不可能だとしても、ルネサンス以来の科学主義のおかげで、教会はいろいろあがいてきたが、その科学主義もポストモダンに突入した。神学者たちも夢から醒めたように、神の存在証明に興味を失った。
 そこに、テクニックさえあれば「科学」的に可能なはずの「宇宙人の存在証明」がツボにはまったのかもしれない。

 宇宙人が原罪を免れてるという可能性は大いにある、と語る天文学者の神父さんもいる。

 よく、古代文明は地球外から来たとか、イエス・キリストは宇宙人だったとか、宗教のルーツ=宇宙人説とかがあるが、ユニヴァーサリズムの擁護者はそういう話を当然嫌う。

 ユニヴァーサリズムは文字通り、その概念の中に「ユニヴァース=宇宙」を持っているので、人類と宇宙人を差別しないし、互いを仮想的と見なす共同体主義も避けようとするのが筋だ。
 だとしたら、安易な「宇宙人襲来」によって、たかが地球規模の平和と団結の成就だけを望むわけにもいかないのだ。

 UFOや宇宙人をめぐる言説の変化を観察するのは、ユニヴァーサリズムがどこまでユニヴァーサルなのかというマクロなバランスを知るための有効な方法の一つである。
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by mariastella | 2008-09-23 22:55 | 雑感

グルジアについて

 グルジアの問題について何か言うのはすごく難しい。
 
 私は物心ついたときから、いわゆる「東西冷戦」真っ只中だったので、世界とはそういうもんだ、という刷り込みが何となくあった。
 だから、KGB出身のプーチンのあの顔見るだけで、悪役っぽいなあとか思うし、佐藤優さんがいかにソ連がすごかったかあちこちで語ったり、かなり反動的なあやしいことも言ってたはずのソルジェニーツィンが亡くなったとたんにまるで自由の聖人のようにいっせいに讃えられたりするのを聞くと、さもありなんとか思ってしまう。

 ほんとは、ひそかに、コーカサスでのアメリカのやり方はあまりにもひどいロシアの挑発だと思うし、なんだか、第2次大戦に突入してしまった日本の哀れさなんかも連想してしまって、冷戦をやめてないのはアメリカだろ、と思うことがある。

 冷戦だの9・11だので、アメリカ=自由の国につくか、それ以外のあやしい国につくか、みたいな二元論に慣れさせられて、そりゃ、どっちかって言うとアメリカだよな、って思うし、状況によってはアメリカ批判は唇寒し、って感じだ。
 フランスにいても、サルコジが親米なんで、アメリカ批判はサルコジ憎しの反動だけだと受けとられかねないしな・・・。

 確かに、プーチンは見るからに怖そうだ。
 相似形でポーランドの大統領と首相を務めるザ・双子のカチンスキーも、見るだけで「信じられなーい」と思う。

 でも、フランスで、パリ地方の一つで最も所得の高い県であるオードセーヌ県議会の与党のプレジデントは、サルコジの21歳の息子だ。

 常識で考えたら、いや、戦略的に見ても、対外的に見ても、普通はあり得ないチョイスだろう。

 21歳だよ。

 日本でもいくら2代目3代目議員がいるといっても、ここまではないだろう。

 しかもメディアにも出まくってるし。国営ラジオがサルコジ夫人の歌のCDの宣伝してるし。

 こわもてのプーチンも、カチンスキー兄弟も、当地では普通なんだろう。

 で、CIAがオレンジ革命だのバラ革命だの資金援助しまくって、他国の国境線定義には介入しないと約款しているヨーロッパを無視してアメリカがコソボの独立宣言を2月に公認したり、3月にウクライナとグルジアのNATO入りを提唱してうまく行かなかったり、なんと言っても、核兵器のあるなしに関わらずに世界の安全の脅威となる国に対しては核攻撃を仕掛けることができるって理論を去年の終わりにNATOに採択させたことなど、ロシアを硬化させた。
 この7月8日、アメリカによるアンチミサイルのレーダー設置にチェコが合意したし、8月14日にはポーランドが2012年の10台のアンチミサイルの砲台設置にサイン。7月にはアメリカ軍人1000人がグルジアで軍事教練を指導していた。アメリカ政府がグルジア軍のオセアチア自治区攻撃準備を知らなかったとは思えないし、ロシア軍がそれに備えて待機していたことも知っていたはずだ。すべては、ロシアの反応の速さとロシア世論の展開をテストするための挑発だったのかもしれない。

 どっちにしても、コーカサスから、ロシア軍を追い出してNATO軍に置き換える、という意図は見え見えで、こんなことされ続けたら、プーチンじゃなくてもキレルかもしれないし、少なくとも、それを逆に利用して、とにかく力には力を、って連鎖は終わりそうもない。

 今日は9・11の7周年ってことで、昨日の夜、TVでそれに関する英国のブレアのドキュメンタリーをやってた。その時に、2003年、国連の承認なしのイラク派兵に反対するシラクが、ブレアに、「戦争は汚いモノ(une seule chose)だから」という理由を第一に挙げていたのを、あらためて、共感を持って見た。

 そんなこともあって、グルジアを巡る情勢を

 「冷戦が終わっても、ロシアは本当には西側民主主義の国にはなれないのよね」

 式の旧共産圏差別やアメリカ・グループ正当化の言辞では矮小化したくない。

 金と権力に対する欲望の増大が、ありとあらゆる機会をねらい、ありとあらゆる理屈をつけて、弱い者を殺しながら、世界を踏み潰していく。

 所有しているモノや消費するモノで人を測る精神の罠から脱して、自分がいかにあるか、他者をいかにリスペクトできるか、を、自分でも自覚しながら、次世代にも伝えていかなくてはならない。
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by mariastella | 2008-09-11 21:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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