L'art de croire             竹下節子ブログ

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ウィーンの話 その2 スピノザ賛歌を作ってきた

ウィーンで考えたことをいろいろ書く前に、東京やパリと違うなあと思ったことをもう少し。

私は文房具フェチでミュージアム・ショップのボールペンの類はどこでも買い込んでしまう。

で、ウィーンで最初に買ったボールペン、試そうとしてペン先を出そうとしたら出なかった。
蓋つきでない場合は、たいていは、ペン先の反対側にあるでっぱりを押すノック式か、本体を回すとペンが出てくる。
たまに、ポケットなどに引っ掛けるための取っ手みたいな部分を押し下げると出てくるというのもある。
それを全部試したのに出てこなかった。
ペン先を出すには、ペン先の出てくる円錐部分だけを回す仕組みになっていた。
珍しいなあと思ったが、その後、私の行ったすべてのミュージアム・ショップや土産物店にあったボールペンが、先を回す方式だった。プラハなどでは気づかなかったからやはりこれはウィーン限定なんだろうか。

ピアノ型のオルゴールも買ったけれど、私の持っている他のピアノ型のオルゴールは、グランドピアノの三角型の蓋を開けると音が鳴るものだけれど、ウィーンのものは、鍵盤の蓋を開けると音が鳴るものだった。これでは鍵盤の蓋を開けて飾っておけない。

なんだか、ペン先といい、鍵盤の蓋といい、小手先というか、よく言えば繊細だが、なんだかウィーンのどこかにはりついているデカダンスな感じに呼応しているような気分にだんだんなってきた。

もう一つおかしいのは、今夏のバーゲンセールの時期なのだろうが、どこでも英語でsaleと書いてあるのは日本でもそうだから分かるとして、多くの店に「SALE %」とか、時には、大きく、ただ「%」とだけ書いてあるのだ。
もちろん中には「-50%」とか「bis -50%」と書いてあるものもある。それは50%引きなんだろうなとか、最高50%までの値引きなんだろうなと分かるけれど、ただ「%」って…。
初めは数字が抜けたエラーかと思っていたけれど、「SALE %」とか「%」だけの店がたくさんあったので、要するに「%」というのが「バーゲンセール」とイコールなんだと分かる。

日本のお店にも英語やフランス語でへんなものは時々あるけれど(そういえば、フランス語ではsaleというのは汚いという形容詞なので、英語圏や日本でsale, sale,とあちこちに貼り紙がしてあると慣れないフランス人は妙な気分になる)、それにしても、ただの「%」だけで、いいのか、オーストリア人、と思ってしまった。

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体験型で人気の「音楽ハウス」では、自分でウインナワルツを「作曲」したり、自分の名のオリジナル曲を作ってもらったりできる。
と言っても、前者は、右と左のサイコロを振って、弱起付きのヴァイオリンパートとチェロのバートを交互に6種類の中から組み合わせて、最終小節はちゃんとまとまるようにプログラムされているもので、それを楽譜にしたものをもらうこともできる。
後者は、自分の名前をアルファベット打ち込むと手書き風の楽譜が現れて、音を聴くことができて、さらにそれをハーモニゼーションしたもの、楽器演奏したものを試聴でき、プリントアウトされた楽譜をもらうことができる。

アルファベットに対応して何にでも使いまわされるようなモティーフがプログラムされているのかもしれないが、私はもちろん、先月帰天したスピヌー(スピノザ)の「賛歌」を記念に作った。

私たちのトリオの共通の友人にルイ・ロートレックがいる。
トゥールーズ=ロートレックの本家にあたる家系のギタリストだ。
彼のために私たちで彼の名を使った曲を作って演奏したことがある。

ロートレックというのはフランス語でLAUTRECと書く。
これは LA - UT - RE -C と分解できる。
LAはラ、UTはドの古い読み方(フランスではつい最近までよく使われていた)、REはレ、Cはドの音名、

で、「ラ、ド、レ、ド」をモティーフにして組み合わせた小曲を彼に捧げて弾いたのだ。

そんなことを思い出してしまった。

このウィーン風スピヌー賛歌、スピヌーの動きが目に浮かぶようで気に入っている。

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by mariastella | 2017-08-06 06:20 | 雑感

ウィーンで考えたこと  その1

ウィーンを歩いていると、東京やパリとちょっと違うなあ、というほほえましいものに出会う。

信号機の図柄もその一つ。

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青信号は女性が男性の手をひいて歩いているような感じで二人の間にハートが。

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赤信号も二人並んで待っている。

全部の信号ではないけれど中心部には多かった。

ジェンダー的な配慮??

しかもこの信号、なんだかチクタク、というかカタカタとまるでゼンマイでうごいているようなローテクな音をたてる。

言葉や表示は完全に英独の二択だ。

私は英語に次いで第二外国語がドイツ語で、昔はゲーテやシレジウスもドイツ語で読んでいたので、書かれたものはまあまあ分かるけれど、聞き取りは難しい。カフェでうっかりドイツ語で注文したりするとドイツ語が返ってくるので聞き取れなくて、慌てて英語で言い直すことになる。観光客はみな英語でしゃべっているせいか、

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こういうデザインがあって笑える。

確かに、英語ではAustraliaとAustriaは似ていて混同されるらしいが、日本語のカタカナだと一字違いでもっと問題になっているそうだ。
オーストラリアは南の国、で、ドイツ語の Österreich は 東の国(フランク王国にとって東の辺境だったからだ。それが「西」ローマ帝国を受け継ぐ神聖ローマ帝国のめいしゅになったのだからやこしくもある。

今回初めて、ドイツとのはっきりした違いを感じた。
変な話だけれど、「オーストリア生まれのドイツ人」だったヒットラーがハプスブルク家を嫌ったという理由も分かる気がした。
オーストリアの独特の退廃や倒錯の微妙な機微も。

音楽や美術や宗教を通してもそれがよく分かる。

昔はヨーロッパのどこに行っても、ただ、その地の文化を「拝見」しているだけだったし、日本人として刷り込まれているビジョンを「確認」するようなところがあった。

最近はどこに行っても感慨深い。

もし私が今女子大生だったり、あるいは、私が女子大生だった頃に今のデジタル・テクノロジーがあったなら、そういう「確認」をせっせと撮影してインスタグラムだのfacebookだのtwitterだのにアップする形で「消費」してしまっていたことだろう。

それにしても、今回はハプスブルク家とカトリックの関係をすごく考えてしまった。
フランスはもちろんイタリアやスペインやポルトガルやらのベタなカトリック国(の王様たち)と比べても、ハプスブルク家の「カトリック皇帝」みたいな矜持には独特のものがある。

私は昨年『ナポレオンと神』で、ナポレオン二世の運命とヒットラーとアンヴァリッドのことを書いた。そのせいで、大聖堂やフランシスコ会の墓所では胸が騒いだ。

近代フリーメイスン創立の300年記念ということで国立図書館の展示も興味深かった。
なるほど確かに、300年。私が講談社選書メチエから『フリーメイスン』を出したのは2015年だったが、今年になってネットメディアのインタビューを受けたし、もうすぐ発売の『サイゾー』からも取材を受けたばかりだが、300周年だったからなんだなあと今頃納得する。

私の本にももちろんモーツァルトのこと、ヨーロッパのフリーメイスンとアーティストの話が書いてあるので、その時にもいろいろな資料を読んだが、今年ウィーンで、モーツァルトがらみでフリーメイスンについて珍しい資料を実見することになるとは思わなかった。

いろいろなことを少しずつ書いていこう。


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by mariastella | 2017-08-05 06:27 | 雑感

地球のために何ができる?  その6

承前


肩関節の拘縮という症状は、「見た目」には分からないが、日常生活に深刻な支障をきたすものだった。もともと身体能力が高いとも言えずタフでもない私だが、これまでの人生で、軽い捻挫くらいはしたことがあるものの大したけがも病気もなく、「骨折」さえ経験したことがなかった。

最初はひどい痛みもあったが、その後の「拘縮」の状態は、機能障害であり、私は「頭がクリアに働いていて、体が疲れてもいない、病気でもない」のに、「うまく生きられない」という状態をはじめて体験した。

腕を使わないですむシーンではスルーすることもできたが、たいていは四六時中「不自由」さが頭を離れなかった。何かの機能が決定的に失われたのであればそれなりにあきらめて別の生き方を工夫するということもあったかもしれないけれど、「拘縮」は「いつかは必ず自然に治る」と言われるものだった。

だから、周囲からも特に同情もされず、注意も引かず、「のど元過ぎれば熱さを忘れる体験者」との連帯感も結べず、孤独だった。


その体験が、「たかが、肩」というブログの開設につながった。

そこには、そこまで毎日不自由をしているのに「頭はクリアーで体は疲れてさえいない」という状況の不条理さの観察、心理状態の分析、回復を早める模索、それらすべてが、その時の自分、将来降りかかるかもしれない別の不自由に対する心構え、同じ状況にある他の人、などのために何らかの役に立つかもしれない、という思いがあった。

そのブログでも、互いにかばい合う右腕と左腕の対話が何度も出てきた。

無傷である「脳」は、インターネットで英語、フランス語、日本語の文献や論文や体験談を渉猟し、あれやこれやと考えることに動員された。

もし、左足の小指が痛くても同じことをしていたろう。

ひとつの体である私の中のどの一部に「不都合」が現れても、あるいは、目に見えないし自覚もなかった血糖値でさえ、内分泌機能の不都合を知れば、能力のある部分が全力で情報を収集し、体の各部がかばいあい、励まし合うのだった。

拘縮した肩に不平を言ったり、弱った機能を酷評したりしないし、無視することも切り捨てることもしなかった。

頭は肩になれないし、足も腕の代わりにはなれないが、もし足が動かなかったならどうだったろう、などと想像力は働いたし、弱いところだけではなく、体の各部分に「思いやり」を持つようになった。

どの部分も独自の機能を持っているけれど、全体に関与しているので、どんな小さな部分の不都合にでも、他のすべてが注意を向けるのだった。拘縮した肩は、「どこも痛くない右足にそんなことを言われたくない」、などと言わなかった。機能している部分は、弱い部分をカバーし支えるためにこそ機能しているのだと思えた。

すべての人はキリストの体の一部、とか、地球は一つの体、という言葉に現実感が生まれた。

地球の環境悪化は、生活習慣病のようなもので、必要な情報を取得して理性で管理するならば、全体を活性化できるかもしれない。自己免疫不全の病気は、「内戦」のようなものだ。ガン細胞も、全身の不調の一部が「過激化」して暴走したものかもしれない。


体の各部の形や役割が違っていても、どこかが不具合になっても、差別したり切り捨てたりしないで、「全体を生かす」という展望のもとに我慢したり妥協点を探ったりして助け合わなくてはならない。

リビングのソファに座って弱者に思いをはせ、全体の改善のために対策を練ることには意味がある。全身が痛いからと安楽死を望むようになってはいけない。

全体の「命」を見つめる余裕と能力のある「部分」には、弱い「部分」に思いをはせる義務がある。そこに「弱い部分」に対する「罪悪感」を持ち出すのは倒錯である。

私たちは誰でも、自分にできるいろいろな形で、「地球を救う」ことに参加できるし、しなくてはならないのだ。全体の命、つないでいく命を生かす、という視点を見失ってはならない。

私にはこれから、年と共にいろいろな「不都合」「不具合」が現れるかもしれない。

何らかの「事故」で、命がとつぜん絶たれる可能性だってある。

でも、地球の命のごく小さな部分である自分が全体の命に向ける意志がクリアである限り、私はいろいろな形で「救い」に参加し続けることができる。

そんなことがだんだん分かってきた。

罪悪感なんてケチな言い訳をしている場合では、ない。


(このテーマはこれでいったん終わりにします)


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by mariastella | 2017-08-04 04:55 | 雑感

地球のために何ができる? その5

(承前)

今から2千年前のユダヤ社会では、律法遵守の形式主義が司祭階級の特権維持装置となっていたが、その欺瞞を批判して律法の本来の意義を取り戻そうとする「改革派」の運動が起こっていた。洗礼者ヨハネの率いるグループもその一つだったが、ローマ帝国支配下にあるユダヤ教のエスタブリッシュメントの中でも、民族宗教から普遍宗教への志向が生まれていた。

けれどもそれは「内包型」だった。

以下、10月に出る新書の一部を少しだけ引用する。

なぜイエスの説教が普遍宗教に発展したのに、他のユダヤ人改革者がユダヤ教自体を普遍化させるに至らなかったのかという理由についてだ。

 >>>まず、トーラー(律法とその注釈)の中にさえ見られる普遍宗教(地縁血縁を問わない救い)の方向性が「内包的」だったということだ。つまり、普遍性を志向する改革者たちも、「ある日すべての異教徒がエルサレムの神殿にやってきてユダヤの神を崇拝するだろう」という方に目を向けていた。「包括型」普遍宗教と言える。それに対してイエスの説教は、「神はもはや、ある場所、ある国、ある言語に縛り付けられることはなくなるだろう」という「拡大型」の普遍主義だった。<<<

つまり、

「うちの宗教とうちの神さまが唯一で絶対で、いつかは全世界がひれ伏して帰依するもんね」

というものが「包括型」だ。(ユダの国は結局イエスの死後40年ほどで滅びるので、包括型普遍主義の方向は断たれてしまった)

それに対して「うちの神さまは唯一絶対だから、いつかは全世界の人を救うもんね」

というのが「拡大型」。

「全世界の人を救う」から「福音」というわけだ。

「そんなこと頼んでないし」

と異教徒や無神論者が思うかもしれないが、思っていなくても神の愛はすべての人に注がれていて、全被造物は「キリストの体」なのだ。

人間が秩序や形式を与えようとする「共同体メンバー認定」や「よそ者排除」などは、神の業とは別物だ。「宗教」としてのキリスト教がせっせと異端を取り締まり、異教徒を殺してきた歴史は、ユダヤの祭司がイエス・キリストを十字架にかけたことの愚かな繰り返しである。

と、ローマ教会は20世紀も後半になってようやく学習し、謝罪までして、「地球を救う」環境保全にまで乗り出したわけだ。

これはある意味すごい。

たいていの宗教が、とっくに分裂していたり、消滅したり、堂々と私物化されたり、ビジネスとなったり、形骸化しているような時代に、

「うちの神さまを人質(神様だから人質というのもなんだけど)にして今まで好き勝手にやってきましたが、間違っていました。神さまを解放して地球上の至る所に聖霊が降り注ぐ本来の姿に戻します」

と言うのだから。

全世界を「キリストの体」に閉じ込めるのではなく、全世界を「キリストの体」と呼ぶことにしたようなものだ。

「キリストなんてうちの氏神様じゃないですけど…」

と敢えて拒否する必要もない。氏神様もみんな含めて、すべての人間の歴史や文化活動も、大きな体、大きな命、の大切な一部であって、排他的な関係ではなく、全体をなしているのだから。

すべてのものに「仏性が宿る」と言うことと、すべてのものに「神が宿る」と言うことは、同じ「普遍」の表現だ。

と、考えることが、私にとって「地球を救う」とは何かについて一つのヒントになった。もう一つは、五十代半ばから、食後高血糖の問題やら、肩関節周囲炎による腕の可動性拘縮の問題という「体の不都合」を体験することで得た気づきがある。(続く)


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by mariastella | 2017-08-03 05:28 | 雑感

地球のために何ができる? その4

私がうちに引きこもってぬくぬくと「情報収集」と分析だけして、巷の慈善事業に大した寄付もしなければ、通りのマニフェストにも参加しない「頭」だけの危機感と使命感を持っていることに対する後ろめたさを払拭してくれたのは、伝統的なキリスト教の考え方だった。
前から知っていたが、見方が変わった。

それは、「私たちはみなキリストの体の一部である」というパウロの言葉だ。

もともとパウロは「キリストの体」というのを「教会」という意味で使っている。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙1,23) とあり、その上で、「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」 などと言う文脈では、教会の共同体はみな一心同体で、奉仕に励みなさいね、みたいにも聞こえる。

実際、この表現はそういう「キリスト者の共同体」の一体感を強調し、教会の聖性を語るときによく引用される。でもこれとは別に、次のような言葉もある。これも有名なものだが、少し長いけれど引用しよう。(コリントの信徒への手紙一/ 12,12-27)

>>>体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 <<<

この後に、有名な「愛」のパッセージが来る。

で、この部分も、確かに、洗礼を受けたものならみな多様でも一つの体と言っているので「キリスト教徒」限定のようにも聞こえるかもしれないのだけれど、比喩としてはよくできている。

>>体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 <<

>>すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」<<

と言われれば、なるほどなあと思うのだ。

そして、キリスト教、特にローマ・カトリックは、1960年代の第二ヴァティカン公会議以来、「救い」について、「教会」や「イエス・キリスト」の外に救いなし、という伝統的な姿勢に新たなニュアンスを加えた。
宗教としての教義や典礼の伝えられていない時代や場所においても、聖霊が働いて義となる生き方をして天国に行ける可能性を否定しなくなったのだ。

別の見方をすれば、キリスト教やカトリック教会以外でも、「義人」は聖霊の働きを受けているのであり、「キリスト者」なのだと取り込んでいるわけだ。

これは、例えば、どんな宗教を信じている戦死者でも靖国神社が「英霊」として祀ってしまうのと一見似ているかもしれないけれど、実は、キリスト教がユダヤ選民思想の世界で生まれたのに「普遍宗教」として発展した背景の根本にある考え方だった。
(続く)

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by mariastella | 2017-08-02 05:59 | 雑感

北朝鮮と日米仏とシビリアン・コントロール

天木直人さんのブログで軍事のシビリアンコントロールについて考えさせられた。

 >>>たったいまNHKの正午のニュースが、岸田防衛大臣兼防衛大臣が記者団に対し、北朝鮮による今回の弾道ミサイルの発射を踏まえ、きょう30日午前、九州西方から朝鮮半島沖にかけての空域で、航空自衛隊とアメリカ空軍による共同訓練を実施したことを明らかにしたと報じた。(・・・)

  このタイミングで米軍と共同訓練することの危険性はあまりにも大きい。

 北朝鮮が繰り返し言い続けて来た事は、北朝鮮の目と鼻の先で米韓共同訓練をやめろということだ。

 挑発行為を繰り返すから、北朝鮮はミサイル実験を繰り返し、断固戦うという瀬戸際政策を取らざるを得ないのだ。

 米韓と北朝鮮は、あくまでも休戦状態でしかなく、依然として朝鮮戦争を戦っているのだから、米韓が共同軍事演習を重ねる事はまだ理解できる。

 しかし、憲法9条を持った日本が、米韓と北朝鮮の戦いに参加してどうする。

 この日米共同軍事演習は、日本が率先して北朝鮮との戦争に加わるようなものなのだ。

 その違憲性と危険性をいくら強調しても強調し過ぎる事はない。

 しかし、私が衝撃を受けたのはそれだけではない。

 この日米共同軍事演習が大臣不在で決定されたことだ。

 いうまでもなく岸田防衛大臣は防衛大臣になったばかりだ。

 日米共同軍事演習の決定が急に下されたなどという事はあり得ない。

 岸田外相が防衛大臣を兼任する前に決まっていたはずだ。

 防衛大臣を兼任したばなりの岸田大臣は、それを追認して発表したに過ぎない。

 そして2日前までは防衛大臣は稲田大臣だ。

 稲田大臣が防衛省の制服組から相手にされていなかった事は日報疑惑問題の迷走で明らかだ。 
  これを要するに、北朝鮮との戦争につながりかねない日米共同軍事演習の決定が、防衛大臣不在のまま米軍の命令で航空自衛隊との間で進められ、決定されていたと言う事である。

 これ以上ないシビリアンコントロールの逸脱だ。(・・・)

  日本は国民がコントロールできないところで戦争できる国になりつつある。

 はたして野党は8月初めにも行われる日報疑惑に関する国会閉会中審議で、この日米共同軍事演習に関するシビリアンコントロールの逸脱について追及するのだろうか。

 おそらく辞めた後の稲田前防衛相のウソ答弁の追及ばかりに終始するのではないか。

 もしそうだとしたら、この国の政治は国民を守る事は出来ないということだ。

 たとえ間違って野党が政権を取ったとしても、米軍の日本支配は何も変わらない、変えることは出来ない<<<<


というものだ。

これを読んで、まず、先日からのフランスでの大統領と参謀総長との確執、その中で、大統領が首相を通して任命した女性軍事大臣がほとんど一言も発しなかったこと、などの経緯とのあまりの違いに愕然とする。

日本の首相が防衛大学校の卒業式で自分が自衛隊のトップだと強調する姿とマクロンが「ぼくが一番」と肩をいからせる姿は少し似ているけれど、マクロンは少なくとも国民の直接選挙で選ばれている。

それでさえ、ド・ヴィリエ将軍は、文官による軍のコントロールは大統領の独断ではなく議会における討論を経るべきだと言っていた。

生きるか死ぬか、殺すか殺されるかのような「軍事」に関する決定は、まさに人の「命」にかかわるものだから、慎重すぎるほど慎重にしても、ある意味で「瀆聖」である、という直感は、遠くから手を汚さずに司令する人にではなく現場にいる人にこそ働くものだろう。

それに対して、いくら自衛隊は軍隊でないとか戦闘には関わらないとか言っても、アフリカに派遣されたり軍事演習に参加したりする時点で、「自衛隊のトップ」の文官である首相が、ここまで「不在感を隠さない」というのは、例の「日本は主権国ではない」説を裏付けるものなのだろうか。

ネットで読んでいる週刊誌の記事にはこういうものがあった。

週刊新潮8/3号の宮家邦彦さんの『国際問題--鳥の目 虫の目 魚の目』というコラムだ。

彼は、自衛隊派遣現場の日誌など、もともと非公開の性格の情報を公開しないものは必ずしも「隠蔽」ではない、としたうえで、

「文民たる政治家が軍隊を統制することであり、軍事に対する政治の優先を意味する」

という「シビリアンコントロール」の定義に注釈をつける。

>>>真の文民統制とは、防衛省内局を含む文民が自衛隊の一挙手一投足を管理することではなく、自衛官(軍人)に政治責任を負わせてはならないということ。<<<

というのだ。

フランスの場合は、フランス政府の政治的判断による広域派兵に対して圧倒的に予算が足りていない現状に対して参謀総長が異議を唱えたことで大統領と衝突した。

日本とはいろいろな意味でまったく事情は違うけれど、共通しているのは、どの国の政府も、基本は、シビリアンコントロールによって「軍を管理」するのでなく「危機の管理」を優先させるべきだということだろう。

グローバルな時代のリスク・マネージメントは複合的だ。

核兵器を開発して人類を全滅させる潜在力が生まれたり、核エネルギーで地球全体の環境を破壊したり、と、リスクは、昔は考えられなかったような超複雑系になっている。

もはや、「一国の主権が隣国に脅かされる」、などといったナショナルな視座に立ってだけで判断できるようなものではない。

どんなに頭のいいエリートのリーダーがいても、すべてをカバーできない。

歴史学、地政学、経済学、自然科学、社会学を超えたグローバルな集合知が必要とされる。

一人ひとり、あるいは一国、一地域のエゴのレベルの危機管理はもはや意味がないのだ。

でも、今の時代だからこそ、IT技術を介した「正しい(つまりすべての人の尊厳を個々の共同体の利権より優先する)集合知」を築いていける可能性もないではない。

早い話、私がもしも、わずか100年とか150年前に日本の女性として生まれていたら、自分の家族とかご近所とか世間さま以上のものに目を向けていただろうか?

いや、50年前でも、ヨーロッパの情報など「教科書」程度しか知らなかったし、フランスに来たら来たで、日本の情報にうとくなったので、全体の相関性がうまくつかめなかった。だから、むしろ歴史や文献をさかのぼって、「特殊の中の普遍」をさかのぼるような形で比較文化史や宗教史を研究してきたのだ。

でも今は、国立図書館の膨大な資料も、主要大学の博士論文や学術雑誌の論文も、その解説も、毎日の各国ニュースや雑誌記事や市井の人々の反応まで自宅のパソコンの中で読める。

毎日毎日、入ってくるさまざまな情報を「グローバルな危機管理」に向けた有機的な集合知の形成というベクトルをもって篩にかけることも可能だ。

「正しい集合知」の形成がどこれからの世界のような展開を見せるのか、知的な興奮をかきたてられる。

そのためには長生きしたいが、地球にも、長生きしてほしい。


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by mariastella | 2017-07-31 00:44 | 雑感

「疑問票」の不思議

(今、取り込み中と移動中なので、「続きモノ」は後日再開します)

奈良市長選で、「疑問票」の取り扱いを巡って論議になっているという記事を読んだ。「疑問票」とは誤字脱字などを理由に、精査してから数え直す票だそうで、「今回の選挙では「仲」の字をにんべんのない「中」と書き間違えるなど仲川市長の疑問票が多くあり、これが勝敗の行方に大きく関わったというのです。有効・無効の基準を示したマニュアルには、ひらがな表記などについては明記されていますが、漢字の間違いについては記載がありません。」という。

前にも、同じような疑問票についての記事を読んだことがあり、その度に驚く。

フランスの選挙では、字を書かせるということがないからだ。

事前に登録済みの有権者の自宅に、候補者の紹介(マニフェストなど)と、投票紙(すでに名前や所属が印刷されてある)が届く。当日はその中の一枚を持って行ってもいいし、手ぶらで行っても、すべての候補者の用紙が投票所に積んであるので、みんな、誰に投票するか分からないように全部なり、何枚かなりを取り上げて、カーテンに仕切られた場所で選んだ候補者の名がある紙を封筒に入れてから、投票する。余った紙をその場でくず箱に捨てる人もいるし持ち帰る人もいる。

封筒に敢えて何も入れないとか、自分で他の名を書いた紙や白紙を入れるという「無効票」や「白紙投票」もやろうと思えばもちろん可能だ。

フランス人は悪筆だということももちろんあるし、候補者には外国起源の名も多いから綴りを間違える可能性も、日本で日本人の候補者の名前を書くよりもずっと多いのだろう。

フランスが何十年もこうやっているのだから、日本がコストや技術の関係で印刷済みの投票用紙を選ぶというシステムができないわけがない。識字率が高いからなのかなあ、と思ってネットで少し検索したら、《国政選挙で「手書き(自書式)」の投票を採用しているのは、 ほぼ日本だけだ》、というのが出てきた。

日本の投票率が低いというのはよく聞くし、選挙権を引き下げて若者に主権者意識を持たせて、とかいうのも聞くし、最近は、「LDP(自民党)新潟政治学校第2期生募集中。政治は オトコの身だしなみ。」なんていう驚きのツイッターも話題になっていた。

「手書き」っていうことが、どこかで無意識のハードルになっているのじゃないかと思ってしまう。

日本って、何かと言うと「外国では」みたいなのに「横に倣え」するのにどうしてだろう。

Wikiでは、記号式投票だとリストに並ぶ順に左右されるデメリットがあるとあったけれど、フランス式ならリストにチェックを入れるのではなくて、各候補者に一枚ずつ用紙があるので、順番は関係がない。

しかも、日本では、「1994公職選挙法改正により一旦は国政選挙における記号式が採用されたが、一度も国政選挙が行われないまま、翌1995に自書式に戻された」とあった。

誰のどういう思惑が働いているのだろう、と思ってしまう。


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by mariastella | 2017-07-29 01:40 | 雑感

地球のために何ができる? 3

承前

さて、『ラ・デクロワッサンス』紙の記事。

見出しは「エリザベト・バダンテール  システムの哲学者」というものだ。

フィガロ紙のジャーナリストのウージェニー・バスティエはカトリック系エコロジー雑誌『リミット』の主幹でもあるが、自著の中でデクロワッサンス(つまり成長の反対の縮小)主義の先駆者でもあるクリストフ・ラッシュを引用して、フェミニズム運動が資本主義に汚染され、広告産業のようにスローガンを選択していると述べている。同書の中でバスティエ女史はバダンテールも称賛しているのだが、そのバダンテールは「女性をモノ化(疎外)しているのは広告ではない、私は広告が好きだ」と『パリジャン』紙で語ったことがあるという。

つまり、バスティエ女史は、成長戦略に異を唱えながら、バダンテールを称揚することでメディアの金権体質の中にある。

『ラ・デクロワッサンス』紙は消費者に無駄な欲望をかきたてる広告業界を徹底的に告発する立場に立つ。だから、広告代理店大手のピュブリシスの資本の10%を所有して10億ドル以上の資産を持つバダンテールは完全に新自由主義経済のシステムの内側の立場だというわけだ。

そして、ほとんどのメディアは広告収入で成り立っているから、バダンテールを批判することは絶対になく、メディアの調査する「フランス人の好きな知識人」の上位にはいつもバダンテール女史が来るというのだ。

「金持ちの味方」という視点でバダンテールを見れば、2011年にDSKNYのホテルで黒人メイドからセクハラ告発された当時のIMFトップ)を擁護したことも、売春や代理出産の合法化支持(女性の体の使い方を国が管理するべきではない)も、「貧しい女性」の側に立つものではなく、フェミニズムは新自由主義経済推進のツールでしかない、という。

バダンテールが女性の育児を効率化するために粉ミルクや使い捨てオムツを推進し、母乳育児の推奨は女性を20世紀初めのように家庭に閉じ込める退行だと主張するのも、エコロジーに真っ向から反している、とする。

うーん。

確かに、昔は、使い捨てといっても布のおむつカバーの中にナプキン型の紙おむつを当てるというのもあったけれど、今のフランスはすべてが前も後ろも可愛いプリント柄のついた完全な紙おむつしか見かけない。

エコロジー系や仏教系フェスティバルでは地球にやさしい布おむつのスタンドが出ているけれど。(カトリックはフランシスコ教皇がエコロジーを重要テーマとしているのだけれど、フランスのブルジョワ・カトリックでは、布おむつ系を推奨する人に会ったことがない)

私は「広告」を見て新しいものにとびつく方ではないけれど、「広告」のランガージュと現代美術の関係などには非常に興味がある。

そして「広告」が金になる社会では多くのすぐれた才能が「広告」業界に向かうので、ますます面白い「作品」が生まれる。同時に、そういうすぐれた才能も往々にして「使い捨てられる」もので、巨大な新自由主義経済の中で押しつぶされるか消費されつくすことがほとんどであることも分かっている。

でも、バダンテール女史が言っていることやこれまで言ってきたことは、そういう搾取者側に立つに自分に利益誘導するようなものではない。すでにすべてを持っている人だからこそ、正論を口にすることもできる。

彼女が紙おむつを勧める時、紙おむつの広告収入のことなど考えていないのは明らかだ。紙おむつが使い捨てられる「環境汚染」だって、そうでない場合のいろいろなメリットとデメリットを全部検討したら、総合的に最悪の選択ではないかもしれない。

でも、強者の個人情報が簡単に拡散されてしまう今の世の中、社会的強者(被害者、犠牲者ではない人)の正論は、いろいろなバイアスによって歪められてしまう。

「エリート」に対する単純で根拠のない偏見ほど自然で正しくに感じられるほどだ。

そのことを痛感しているので、私はあまり大きな声で正論を言いたくない。

「そういうお前はどうなんだ」

とつっこまれたくないからだ。

最近、例のオジャランのフェミニズムについて私が知るきっかけとなった藤永茂さんのブログでこういう記事を読んだ。


>>>ヤズディ教徒のクルド人に伝染したように、オジャバ革命の理念がイラク北部のクルド自治地域のクルド人たちの間にも広がって、現在のトルコ、シリア、イラク、イランの国境線がそのままに保たれたまま、三千万人を数える世界最大の少数民族クルド人が多数派住民である平和共存の広大な地域が中東に出現して、そのついでに、世界核戦争の危険性も次第に消えてゆく、これが私の大きな夢です。
**********
 確かに、これは大きな夢です。この夢の前に立ちはだかる高い障壁の数々が、ISの首都ラッカの陥落の後に、具体的な形をとって、我々の前にその姿を現すでしょう。とりわけ、ロジャバのクルド人たち、トルコのクルド人たちの苦難は深刻さを増すばかりでしょう。リビングルームのソファに座ったままでロジャバ革命に声援を送っている私のような人間はどうすればよいのか?<<<

藤永さんのような方が「リビングルームのソファに座ったままでロジャバ革命に声援を送っている私のような人間」とおっしゃっているのだ!

90歳の藤永先生が、ぶれることなく被抑圧者の側に立って情報を発信していてくださるから、それに反応して動く人だってきっといる。

夢を伝える、意識を変える、教育する、という使命を持っている方がいてこそだ。

では、私も「地球のために何かする」ために「リビングルーム革命」を目指せばいいのだろうか?

罪悪感を払拭してくれる答えは別のところから来た。(続く)


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by mariastella | 2017-07-28 00:13 | 雑感

地球のために何ができる? 1

La Décroissance という月刊新聞を私は時々購入することで応援している。


デクロワサンスというのは成長の反対で、衰退とか退行と解釈されがちだけれど、別に「昔に戻れ」と言っているわけではなく、「成長路線」を唯一善とするような世の中を批判して、別の道を歩もうというエコロジー新聞だ。

すべての「広告」に反対するというのがポリシー(主幹は元広告業界のアートディレクターだった人だがラディカルに反広告エコロジストになった)だから、全く広告収入がないので割高だけれど、存在し続けてほしい媒体なので時々買っている。


7-8月合併号の記事はとても参考になった。

私はどちらかと言うと、ディープ・エコロジストが苦手だ。

絶対菜食主義も、絶対殺生禁止も、「絶対」とつくものは警戒してしまう。

けれども、環境問題は科学とテクノロジーによって、言い換えれば「経済成長」によって必ず解決策を生み出せる、というタイプのエコロジーはうさん臭いとは思う。


原子力発電はCO2を排出しないクリアなエネルギーだという宣伝と同じで、巨大企業の利権や政治があまりにも透けて見えるからだ。

今回の記事は、環境問題に対して「成長による解決(要するに金による解決)」という積極的発言をする人たちの論点を一望にできるようにまとめてくれているのでなかなか役に立つ。

今の大統領や環境相も、極右ルペンも極左メランションも、「パリ協定」は今や」「国是」みたいなものだから、「エコロジー」「地球を救う」ということ自体は全員が口をそろえて言っている。

けれども、科学の力で、走れば走るほど空気をきれいにする自動車を開発するといった類のビジョンは、ロボットが進化すれば人間は苦しい労働から解放される、というたぐいのものと同じで、そもそも、なぜ、今のような環境危機を招く事態になるような方向で科学技術に予算が与えられてきたのかという根本的な問いがすっぽり抜けている。


技術の発展と環境保護は両立できるんですよ、という幻想には明らかにごまかしがある。


とはいえ、私など、

すでにいろいろなレベルで「洗脳」されてしまっている上に、

日常生活のレベルで自分も十分テクノロジーの恩恵を受けているからなあ、

テクノロジーがいまさら後戻りしてもらっては不便で困る、

私は自然の中でサバイバルなどと縁の遠い人間だし…

などという「共犯意識」が働くので、多分正論であろうこの新聞の過激な記事には、なるほどと思っても腰が引けてシニカルにながめることの方が多かった。

時々自分の罪悪感を確認することで、良心の呵責を弱めていただけなのかもしれない。

でも、今回の号で、そうそうたる論客たちが堂々と「テクノロジー」による「成長」によって環境汚染や温暖化などを克服できるという楽観主義をそろって開陳しているのを読むと、それがあまりにも説得力があるので、かえって、欺瞞点が見えてくる。

ところが、私の信頼するエリザベト・バダンテールの偽善が身も蓋もなく論じられているのには複雑な気がしてしまった。(続く)


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by mariastella | 2017-07-25 03:45 | 雑感

女性の罵詈雑言

何だか最近の日本で話題になっている女性議員の「罵詈雑言」についての意見を求められた。


私は、今はネットでの日本の雑誌配信サービスを利用できるのでこの話は週刊誌の記事ですでに知っていた。意見を求められたのでネットで録音をちらっと聞いてみた。

感想は…通り一遍に言われていること以上のものはない。

本人も含め関係者全員、お気の毒にと思うばかりだ。

思わないのは、「誰にでもこういうことを思うことはあり得るし時と場合によっては口にだってしかねない」というタイプの反応だ。

前にも舛添さんのことで書いたけれど、私は、他の人のどんなスキャンダルや隠していた「不都合なこと」が露にされてバッシングされても、たいていは身につまされる。

嘘も、裏切りも、使い込みも、身内びいきも、保身も、忖度も、ごますりも、程度の差こそあれ、いかにも自分でもしそうなことだったり、してきたことだったりだからだ。

また、今までにしてはいないしこれからも多分する機会はないにせよ、時代の流れや状況によって、また群集心理や恐怖やパニックにとらわれれば、弱者の虐待やら差別やらホロコーストへの加担や密告や、拷問や死に通ずるボタンを押すなどと恐ろしいことも、自分なら絶対にしないなどという自信はまったくない。

私は多分単独のすごい「ワル」ではないけれど、みんながやっているなら「石打ち刑」にでも参加しそうな危うさがあることを自覚する程度の良心はある。

その私が、「絶対にしない」というか「できない」と思うのが、罵詈雑言を口にするということなのだ。

多分、幼い頃に「禁忌」とされた言葉にはブロックがかかって、よほどの「治療」でも施さない限り音声言語化できないのだと思う。

私に関して言うと、多分戦争体験のトラウマなんだと思うけれど、いつも優しくて何でも好きなことをさせてくれた実家の母から、「死ぬ、死ね。殺す、」などの言葉には耐えられないから絶対に口にするな、とそれは真剣に訴えられた。

多分きょうだいげんかをしていて、それに類した言葉を兄や私が発していたのだろう。母は血相を変えて禁じた。その母の顔を私は今も覚えている。

だから私は、そのたぐいの言葉を、単独で発するということができない

「日本、死ね」とかいうようなネット語も、多分書けないし、誰かに憎しみを抱いたとしても、頭の中でさえその種の言葉を罵詈として形成できない。今回の女性の発したような言葉はどれも、私の口にできる語彙にない。

フランス語の方が若干、「ダメだろ、おい、」みたいな感じの口調はブロックされていないので口に出せるけれど、いわゆる汚言は、誰でも気軽に口にするようなものでも相当な決意がないと口にできないし、頭にも浮かばない。でもこれは幼い時の母の表情や真剣さとはセットになっていないから、無理をすれば出てくる。

けれども、フランスの子供でも、その言葉を小さい頃から禁じられており、家庭では絶対に耳にしない環境で育った場合に、学生になってから仲間といてハンディキャップになるほどに「口にすることが不可能になる」場合がある。それを「言わない」のではなく「言えない」ということが周囲にばれると揶揄されたりハラスメントを受けたりする可能性もあるので細心の注意を払うという。大人になってしまえば、汚言を口にできなくても別に深刻なハンディとはならない。

今度の罵詈雑言事件で、ある女性作家が自分は18歳までずっと母親からそのような暴言を浴びせられ続けてきた、とブログで書いていたのを目にした。よく耐えてきたものだと思う、と言う。

「汚言を口にするな」という母からの禁忌がこれだけ功を奏するのだから、暴言というDVを親から受けてきた人がそこから回復するのは大変な困難だろう、と思う。

今回の女性がどういう経緯でそういう言葉を口にできるのか私には分からない。議会で飛び交うヤジでさえ、私にはハードルが高い。

これは人格の高さとかとかは関係ない。

前述したように、どんな嘘やごまかしや背信だって私には多少の身の覚えがあるし、それに類したことをしないなどという自信は毛頭ないからだ。

ただ、ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群のことを考えた。

長い間「悪魔就き」の典型的な症状のように思われていた時代もあった。「汚言症」というチックの一種で神経障害の難病だ。そうなると、普段口にするはずのない罵詈雑言や本人が知るはずのないような卑猥な言葉などがすごい勢いで発せられる。「悪魔払い」の映画などで少女や修道女などがこれを発するとそれこそ鬼気迫る印象的なシーンができあがる。

アルツハイマー病に罹った高齢女性で、昔は上品だったのに、急に怒りっぽくなって暴言を吐くようになったというケースを見たこともある。

私はいろいろな誘惑になびかないように努力はしているけれど、「暴言」を吐く心配だけはして来ずに済んだ。

願わくば、これまでひょっとして無意識に抑圧してきた罵詈雑言がどっと解放されるようなタイプの神経症や機能障害に縁がないままこの先も穏やかに暮らしていけますように。
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by mariastella | 2017-07-24 04:08 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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