L'art de croire             竹下節子ブログ

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「テロリストは僕だった」と2017年のマクロン

「テロリストは僕だった」というドキュメンタリーを視聴して、

「ベテラン・フォー・ピース」という退役軍人たちの平和活動を知った。



沖縄からベトナムやイラクに出兵した米兵たちの証言と覚醒の意義は大きい。

沖縄の基地増設反対の座り込みなどに、沖縄の人以外のプロ市民がいるとか、在日だとか反日だとか、だから沖縄の多くの人は実は受け入れているのに「活動家」に利用されているのだ、という類の批判がもっともらしくなされることがあるが、このような運動は多様な人が協働してこそ大きな意味を持つということは前にも書いた。

そんな中に元沖縄の米海兵隊にいた兵士もいるのだということをもっと強調してほしいくらいだ。

一撃必殺、と繰り返させる兵士の「洗脳」の様子は、シリアのISの軍事訓練と変わらない。人間を殺すことについて「命令に従う」という以外のオプションしか与えられないという点ではヒットラーのナチスや世界中の死刑執行官も同じだ。

殺される方ももちろんだけれど、殺す側の尊厳もそこにはない。

兵士になれば教育を受けて、家を建てて仕事も見つかる、などという甘言に惹かれる若者たちの存在は、新自由主義経済社会が生む経済格差の結果でもある。

従軍司祭たちと話をしてみたい。

七二年前、原爆を搭載した飛行機を祝福した従軍司祭もいた。

アメリカのような国では従軍司祭の影響は看過できない。

兵士たちは故郷で「祖国のために戦う英雄」として崇められる。

死ぬか生きるかの前線では、「聖なるもの」にすがる気持ちもあるだろう。

フランシスコ教皇のようにはっきりと戦争を糾弾している首長のいるローマ・カトリックの体制に属しているカトリックの従軍司祭は、今、どういう折り合いをつけているのだろう。

沖縄の日本人信徒から慕われている米人カプチン会のウェイン師が新司教になることはどういう意味を持ってくるのだろう。

2017年、フランスのマクロン大統領は世界中からポジティヴな評価を受けた。

第一に、「先進国」を席巻しつつあるかに思われるポピリュズム国家主義者に選挙でストップをかけて勝利したことがある。

第二に、トランプの不支持と悪評が増し、イギリスの首相はブレクジットで苦戦し、ドイツのメルケル首相も過半数を確保できず弱体化している、という他の「欧米諸国」のリーダーの状態に比べて相対的に強く見える。

第三に、冷戦末期以来、他の先進国が新自由主義に拍車をかけてきたのにフランスだけが、伝統の「社会民社主義」の慣性を引きずって「規制緩和」が遅れていたのをマクロンがついに、新自由主義の中での競争力をつけることを優先的にしているので、大企業家や富裕層から大いに歓迎されている。

自分はずっと4時間睡眠で困らないから、ということで、閣僚にも結果主義の激しいノルマを課しているところはブラック企業みたいだ。

でも、これらの高評価を背景にした自信を持って、地球温暖化の問題などについては、フランスを、久しぶりに「アメリカにNOと言える国」にしている。

地球の環境を守ることと、戦争をなくすことと、武器を捨てることは、本当は一体であることだ。

2018年が未来にとってどういう意味を持つ年になるかは、私たち一人一人の覚悟にかかっている。


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by mariastella | 2017-12-31 00:05 | 雑感

トロカデロの「勝利の踊り」

先日、イエナからエッフェル塔の方に向かってトロカデロを横切った時に、ギリシャの女神アテナの彫像(樹脂製)の前を通った。サラブゾルが1925年に制作したがここに置かれたのは1989年とかで、今まで気づかなかった。

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動きがバロックぽくって気を惹かれて銘を見たら、「勝利の踊り」とあった。

「神々が巨人たちを征服するのに貢献したアテナ」、「物質を支配する知性」に捧げたものだという。(パラス・アテナとあるのは、トリトンの娘で宛名と共に育ちやはり戦いの乙女だったパラスがフランスではアテナと合体したりアテナの異名となっているからだ)

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「物質を支配する知性」というのはタロット・カードの大アルカナの「力」の解説でもある。

このカードのたいていの意匠は若い女性が楽々と、荒れ狂う獅子の口を鼻の鎖でおさえたりしているもので、精神が物質を、知性が本能や欲動を、女が男を、天使が獣を、魂が肉体を支配する、という意味だとされる。


そういえば、「柔よく剛を制す」、という言葉もあったなあ、と思ってネットを検索するとその由来は

>>古代中国の 兵法書「三略」に記載されている。 「柔能剛を制し、弱能く強を制す」とある。 「軍しん」 という、戦についての予言書から引用された句で、「三略」はそれに続けて、 「柔は徳で、 剛は賊である。弱は人が助け、強は人が攻撃するものである」と説いている。<<

だとあった。


「柔は徳」というのがなかなか奥が深い。


古今東西、せっかくこういう考えがあるのに、今の世界を見ていると、弱肉強食がまかり通っているのはいったいどうしたことだろう。


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by mariastella | 2017-12-29 00:05 | 雑感

ノートルダム・デ・ランドと宮古島

フランスの西、ロワール・アトランティック県(県庁所在地はナント)にノートルダム・デ・ランドという地区がある。農業と畜産が主要産業ののどかな場所だったのだが、そこに新たな飛行場を作る計画が1960年代から画策され、1970年代に具体的になり、石油危機でいったん凍結し、21世紀に入って、本格的に飛行場建設計画が始まった。

地元民をはじめ、多くの反対者が声を上げた。現在あるナントの飛行場だけで十分であるとも言われる。反対者が予定地を占拠して、もう何年も計画が進まず、住民投票(と言っても、地域全体のもので「経済効果」を期待する人たちの賛成票が上回った)で、政府は反対者の実力排除を決定、反対する人々はゲリラ化して…と、「三里塚闘争」を思い出させる。

 

沖縄の方からカトリック新聞(2017/7/9)に掲載された沖縄の伊志嶺節子さんという方の投書を送っていただいた。

そこには、基幹産業がさとうきびで、美しい海と空の輝く宮古島に、2014年に、500人規模の自衛隊配備が計画され、翌年には700~800人へと規模が拡大したこと、警備、地対空ミサイル、地対艦ミサイルの三部隊を配備するという候補地(実弾射撃場、着上陸訓練場も含む)まであげられたと書いてあった。宮古島は飲料水を始めとして多くを地下水に頼っていて、その水源がその配備計画周辺地区なので汚染も予想されるのに、美しい島を『基地の島』にして、いったい国は軍備で何を守り、どこへ刃を向けようとしているのか、と伊志嶺さんは書く。

同じ紙面に、「パプアニューギニアとソロモン諸島の森林を守る会」の報告の記事も載っていた。1970年以来の日本やマレーシアの企業による不法伐採で川は汚れ、製材の防虫処理に使われるヒ素が地下水を汚染して農業や漁業にも悪影響を与えているという。

何だか、愕然とする。

今は、民間空港だろうが、道路だろうが、建設のために自然を破壊することの重大性が理解されてきている時代だ。森林の大規模伐採が、環境汚染だけでなく地球の温暖化を促進することも知られてきた。

民間空港や道路の建設に反対するために何年も抵抗している人が世界中にいる。

それなのに、沖縄の美しい島で、米軍基地ならぬ自衛隊の基地建設のために環境を破壊するのは粛々と進められるのだろうか。

米軍基地ではないから、日本政府が日本の領地に日本を自衛する部隊のための施設を作るのだから、文句はないだろう、ということなのだろうか。アメリカから買い入れる防衛装備を配備する場所も必要だから?

ほとんど時代錯誤的な気がする。

日米何とかの問題とか、沖縄差別の問題とか、自主防衛の問題とかの以前に、環境破壊「だけ」でも今は「アウト」な時代であるはずだ。

普天間移設のための辺野古の埋め立て、などと言われると、「米軍基地」という枠で語られるから、安全保障問題ばかりがクローズアップされるけれど、そもそも、軍産企業の利益のために環境破壊をすること自体が既に問題なのでは?

思えば、フランシスコ教皇は回勅『ラウダトシー』で環境破壊を激しく糾弾した。

軍産複合体の功利追及はもちろんだが、どこの国がどういう兵器を持っているからどういうリスクがあってどう対応するか、という「戦略」上の問題ですら、人間が自分の住んでいる惑星を汚染し破壊していくという「いのちの冒涜」の重大さと同じレベルで語れるものではない。

米軍基地であろうと自衛隊施設であろうと、世界中で増幅するばかりの無用な空港や道路であろうと、環境をむしばみ、自然災害を助長し、将来に生きる世代の命をおびやかすものにはきっちりと「否」を表明することが今の恩恵を受けて生きている私たちの義務なんだろう。

沖縄でも、基地建設も、リゾート施設やゴルフ場などの「開発」も、「うちでは困る」というような抗議の段階をもはや超えている気がする。


基地の場所を提供して補償金をもらえるだとか原発誘致で地方が潤うだとか、リゾート施設の観光客誘致で経済が活性化するだとかの論理は、考えてみるとみな「金」の論理だ。時代を見据えた命の質、生活の質は視野に入っていない。

戦争がおきればもちろん環境も人も破壊されるけれど、さまざまな「便利」の追求も、度が過ぎると環境や人の尊厳を確実に破壊していく。

沖縄の方から「沖縄のことを考えてくださってありがとうございます」というお言葉をいただいたのだけれど、「沖縄を考えること」で見えてくるのは、「沖縄のこと」ではなくて、自分自身の中にあるさまざまな誘惑だとつくづく思う。


とりあえず自分の「今いるところ」が便利で安全で快適であればよし、

という短いスパンのエゴイズムに依拠する「基準」の妥当性と向かい合うことを余儀なくされる。

パリの寒空の街角で物乞いをしている人をじかに見たり、難民の深刻な状況をTVで見たり、貧困の中で孤立する人についての記事を読んだりする度にも、「このままでいいのか」とか「何とかしなくては」という思いとが浮かび上がる。でもまた、それがすぐに薄れることで逆にひそかに溜まってくる罪悪感がある。さらにその罪悪感を自覚することで後ろめたさが多少薄れる、という繰り返しだ。

沖縄の地理も歴史も、「本土」の人からは遠いかもしれないけれど、日本からもっとずっと遠くに暮らしている私には、切り離せない一体だ。


前の記事にも書いたけれど、東京で台風情報を見ている時は、「ああ、まだ沖縄でよかった」などと思うけれど、フランスから見ていると、沖縄の危機は日本の危機、私が安全に豊かに暮らせてきた日本での生活は沖縄の人々の犠牲と一体だったのだと覚醒できる。

パリのメトロの階段でうずくまっている人から目をそらすことよりも、沖縄のことを考えないことの方が難しい。

「沖縄のことを考えさせてくださってありがとうございます」と言いたいのは、私の方だ。


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by mariastella | 2017-12-23 07:07 | 雑感

「普遍」について思うこと

このところ沖縄関係の番組をネットで続けて視聴したせいもあって、沖縄をめぐる他のいろいろな記事もザッピングした。糸数慶子さんという参議院議員の方がいて、かっこいいな、と思った。すると国連の女性差別撤廃委員会で沖縄の民族衣装をつけたこの方をコスプレだと言うなどして、攻撃する人も少なくないのを知った。


彼女を批判する言葉は「サヨク」とか「プロ市民」とかのお決まりのものもあるのだけれど、意外だったのは女性で彼女を批判する人が結構いることだ。女性を批判する女性って、男性から「重宝されている」気がする。

彼女らの中には国連の女性差別撤廃条約反対とか、男女共同参画社会反対とか、カジノ解禁、原発、九条改正、核武装はOKのようなことを表明する人がいる。そう、これらの争点には共通したものがある。力や金の強者の論理の中には当然「男尊女卑」みたいなものが組み込まれるからだ。だから、女性論者がそれをまとめて支持してくれたら、「ほーら、少なくとも、女性も賛成してるだろ」というのでその部分の批判をかわせる「都合のいい」キャラクターになるのだ。

彼女らがかわいいとか美人だとかならもっと便利だ。フェミニストでギャーギャー言うのは「女として男に相手にされない」やつだというステレオタイプを補強できるからだ。


で、沖縄の基地問題にも、そういう人がいて、沖縄防衛情報局とかの主任というGさんという女性が若くてかわいくて、話し方も感じがいい。沖縄タイムスとか琉球新報とかがいかに偏向しているか、一部のサヨクがどんなに沖縄の世論について誤解を与えているかなど、熱心に放送している。ネトウヨのアイドルなんだそうだ。私はこの手のネット放送は視聴しないことにしているのだけれど、このG さんがこんな風に信念を持った感じでがんばっているのがシュールでかなり見てしまった。お父さんの影響だという。彼女は早稲田大学を出ているのだから、そのまま東京で就職する選択もあっただろうけれど故郷に戻って「極右」化していく。


逆に、東京で就職していたのに、故郷に戻って米軍基地への反対運動に積極的に携わる女性もいる。こういう沖縄のコミュニタリアニズムというのも不思議と言えば不思議だ。


いろいろな地方から、いろいろな国から志を同じくする人々がやってきて平和のために連帯するという方が私には自然だと思う。それがアメリカ人だって不思議ではない。那覇新司教に任命されたウェイン師が慕われているのを見ても分かる。


多様であればあるほどいい。


それなのに、高江ヘリパッド増設反対の座り込みで多くの人がよそから来た運動家だとか、本当の沖縄の人は実は賛成している人が多いとか、そういうことが基地支持の根拠にされているのに驚く。


実際は、反対派の人はグアムの人とも共同声明を出しているとかで、連帯を広げていくのはいいことだと思うのに、「地元の問題だから地元民が本気で騒ぐなら許せるが部外者に利用されるのはよくない」という批判の仕方がある程度通用して、反発の材料になること自体が不思議だ。


それは「本土」でのいろいろな「運動」も同じで、実は純粋な日本人じゃない者が混ざっているとか煽動しているとかいうのが批判の理由として通用しているのも不思議だと思っていた。

多様な人々が連帯できる普遍性を持つ理念にのっとった運動の方が長い目で見て本当の前進が可能になると思うのだけれど。


いわゆる「人種」だって、実は生物学上の種とは関係がないからいくらでも他人種間で子供を作ることができる。他国籍間は言わずもがなだ。もともと移民国家であるアメリカのニューヨークなどの大都市には、本当にいろいろな国の人がいるばかりでなく、何代にもわたっていろいろな国出身の先祖を持つ人や、いろいろな国で暮らしてきた人もたくさんいる。もちろん、パリやロンドンでも同じだ。そんな人たちの多くは、祖先のうち一部の人の出身共同体のために特に帰属意識を持つこともなく、「ルーツ」に戻ることが必要というわけでもない。


むしろ「普遍」という感性を獲得していく。


そして、「普遍」の感性で結ばれた共生でしか本当の共生、「共に生きる」ことはできないと分かってくる。みんなが一つの大きな命の一部分なのだから、どこかで排除し合っていたり攻撃し合っていたりしたら、自己免疫疾患みたいなものだ。


弱い部分の声に耳をすまそう。そして、「共に生きる」ということの意味を語っていこう。


視座が変われば見え方は変わる。

視野を広げれば見えなかったものが見える。

見え方が変わることを経験すれば、見えるものが増えてくれば、見えないものへの感性も養われる。

実用とか、リアルポリティクスとか、目先の損得とか、行き過ぎた「今ここで」主義とかによって、共に生きるいのちの意味を矮小化してはいけない。


何を考え何を選択するにしても、まずそのことを自分で何度も言い聞かせておかなくては、とあらためて思う。
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by mariastella | 2017-12-22 07:19 | 雑感

ロザリオの十字架

私はあちこちの教会などを訪れる時、メダルやロザリオなどの小物を買うのが好き。

たいていは人に差し上げる。
日本人の場合は普通、アクセサリー感覚や旅行のお土産感覚で喜んでくれるけれどフランス人なら、相手の宗教などによって微妙だから結構気を使うので、カトリックだと分かっている人にしか上げられない。

今の季節、毎年、生徒たちにクリスマスソングをアレンジしてあげるけれど、「クリスマスを祝わない」のが信条や方針になっている家庭もあるので要注意。

それでもレッスン室にクリスマスの飾りつけを毎年している。

で、先日、ふとイタリア製のロザリオを手に取ると、十字架のイエスの脚がなにか不自然に開いているのが気になった。
膝がしっかりと開いているのだ。

よく見ると、その奥に見える十字架の木の部分が青い。
青は聖母の色で、ロザリオの祈りも聖母に捧げるのが中心だから、この青い部分にひょっとして聖母の姿でも刻まれている?

いやいや日本じゃあるまいしそんな細かい細工がしてあるわけがない。
日本の数珠などの信心用具に珠の一部が凸レンズになっていて除くと仏さまや観音さまの絵や梵字が見えるものがあるからそれを連想してルーペで見てみた。

分からない。多分、何もないのだろう。
でも、その気になるとなんでも見えてくる。
他のロザリオや十字架をチェックしたら、そんな風に開いているものはなかった。
これまでは十字架上のイエスの視線、顔の向き、上か下か右か左かをチェックしてその歴史や意図、神学的意味をいろいろ調べたのだが、脚は考えたことがなかった。
真っすぐ、足の甲の部分だけ交差、脚も交差、膝が曲がっているけれど平行、イーゼンハイムの祭壇画のようにやや内股、などいろいろあっても、こんな不自然なのはあったっけ…?

ついでにネットでも検索した。何となく仮説が浮かばないでもないが、もっと調べてみよう。(この十字架を作ったメーカーも分かっているので検索したのだけれど何も載っていなかった。)
下が拡大写真。実物は開いた脚の後ろの部分がもっとはっきりと青い。何だかイエスの視線も、まっすぐ下を向いていて膝の後ろをのぞき込んでいるように見えたりして。

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by mariastella | 2017-12-20 03:33 | 雑感

『沖縄と核』

『沖縄と核』

9月に放映された分の『沖縄と核』をYoutubeで視聴した。


ネットにある賛否両論の感想も読んだ。


普通の「本土」の人にとって、沖縄は、地理的、歴史的にもそうだけれど、心理的にもいかに「遠い」のか、と思い知らされる。

この秋に日本に行った時に、一週間おきに二度も台風に遭遇して困った。楽器を持っての移動のことなど気になって、何度も天気予報をチェックした。

そのたびに、「今、那覇は暴風圏に入って…」などと南国風の街路樹が強風に揺れる映像が出てきた。

そしてそのたびに、私は、「ああ、まだ沖縄か、まあ、東京に来る頃には勢力が落ちているだろうな」などと希望的観測をしていた。

その奥には、「東京直撃だったらいやだけれど、まず他のところに上陸して被害を巻き散らして勢力が弱まればいい」というような気持が無意識にあったような気がする。


東京から見る沖縄の「遠さ」はロンドンにとってのスコットランドやアイルランド、マドリッドにとってのカタルーニャどころではない。


この「遠さ」があるからこそ、平気で「核の傘」とか「抑止力」とかの「本土防衛」が成立したのだろう、と今さら考えさせられる。


第二次大戦の証言者はどんどん少なくなっているけれど、キューバ危機の頃の証言者はまだ見つかって、それでもみな高齢だからか、恐れることなく証言しているのは貴重だ。「沖縄の人は知る権利があると思う」と言っているのが印象的だった。

日本に米軍基地がなければ、北朝鮮や中国が日本を攻撃する必然性はないに等しい、という考えは確かにそうだと思う。

北朝鮮の今の核開発は対アメリカのもので、日本を敵視するだけならのすでにノドンだのテポドンがある。

「核保有国の中で核兵器を使って他国を恫喝、攻撃する国は米国だけだ」という北朝鮮の反論も実情に合っているのかもしれない。


すでに、ソ連、中国という「隣国」との核戦争の危機を切り抜けたのに、今のロシアも中国も核兵器を廃棄はしていない。

軍産複合体の利益を考えずに純粋に日本の「平和」を考えるなら、少なくとも、

東北アジア非核地帯条約のようなものが実現すればよかったのに。


いや、過去形で書いてはいけない。

そして、たとえ「東北アジア」が非核地帯になったとしても、世界のどこで核兵器が使われてもそれは環境破壊と人類絶滅につながるのだから、やはり地球全体を「非核地帯」にするという視野を失ってはならない。

「暫定的」であるべき核の抑止力、核の均衡などを「偶像化」してはならない。

どんなリアルポリティクスも、最も小さい命をもリスペクトするという「あるべき姿」を見失ってはならない、とつくづく思う。


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by mariastella | 2017-12-19 00:05 | 雑感

『ペリーの告白』

NHK放送の元米国防長官『ペリーの告白』


というのを紹介してもらって視聴した。


このペリーさんは、定年制のないアメリカの大学で、90歳でも教鞭をとっているそうだ。

黒船来航のペリー提督の五代後の縁戚に当たるという。

94年から97年まで国防長官で、2002年には日本の安全保障に寄与したとして勲一等を授与されているそうだ。


日本のTVがペリーさんのサンフランシスコの自宅に迎えられる最初のシーンに、96年に日本の国務大臣(防衛庁長官)臼井日出夫と署名のある「守正不撓」という書が額装されて飾ってあるのが目についた。

そういえば東京都前知事の舛添さんも、自分の書を外国人に寄贈することがあるので中国で書の道具だとか書を書きやすい服だとかを「公費」で買っているなどと追及されていたのを思い出した。

日本の政治家って、こういう「揮毫」が教養のひとつなんだろうか。

でも書いている言葉は中国由来のものがほとんどで、仮名文字のような日本的な感じはしない。

毛沢東も揮毫しているようだけれど、今の中国は簡体字を使っているが、共産党の高官などは今でも「揮毫」を政治的、外交的に使っているのだろうか。


で、例によって臼井氏の書についてネットで検索すると、「衆議院議員 臼井日出夫」の名で、「種谷扇舟氏、書の源と創造」という記事がヒットした。


>>
会場に入ると、多くの大作の中で、圧倒的な迫力で迫ってくるのが、会場中央に掲げてある「謝々中国」「感激人民」の書である。
 扇舟氏は極めて繊細な筆致の作品をたくさん仕上げておられるので、良い作品はそうしたものの中に多いように思う。しかしこの作品のあの肉太の力量感あふれる筆致は、扇舟氏が生涯をかけて愛した中国の書に打ち込んだ作品としての圧倒的な迫力がみなぎっており、大好きな書である。
 私は高校2年生の時に、書道を選択することによって、扇舟氏にご指導いただく機会を得た。当時、剣道部に所属していたバンカラの私の字は、「三悪筆」といわれるくらいひどかったのだが、振り返ってみて、そのワーストスリーから脱出できたのは、扇舟氏の「臼井君、君は自分の字が下手だと心配することはないよ。広い中国には、君の『字』の手本になる『名筆』がちゃんといるからね」の一言だった。
 「うまくなりたい」と力んでいた私の肩から力がスーっと抜けていった。楽しく学んだ1年間、それから書道が大好きになった。<<

だそうだ。


神道政治連盟国会議員懇談会メンバーという臼井氏の経歴から見て、この時の「謝々中国」「感激人民」という書の言葉は皮肉な感じがしないでもないが、ともかく書に自信がおありの方のようだ。

で、本編で、沖縄県知事だった同年配の大田昌秀氏と個人的に交流のあったペリーさんは、普天間基地を移設すべきだが、沖縄の人々の負担は軽くしたい、沖縄以外の場所でも十分機能は果たせる、と当時日本政府に言ったのに結局沖縄のままとなった、と遺憾の念を口にしている。

その「日本側」の防衛庁長官が寄贈した書が「守正不撓」だって。

たわむことなく正義を守るという意味だろう。

似たような言葉に「守正不阿」というのがある。

おもねることなく正義を守るということだ。加計問題の前川喜平さんのことが思い浮かぶ。


こんな書を日本の防衛庁長官がアメリカの国防長官に揮毫していたんだなあ…。


ちょうど、矢部宏治さんが田原総一朗さんとの対談(講談社『本』2017/11)で、富士の演習場の例を挙げて、自衛隊に返還されてからも密約で米軍が優先的に使える、管理経費がかからないし米軍基地でないから周辺住民の反対運動も少ないのではるかに都合がよかった、沖縄でも、辺野古ができた後で普天間を日本に返しても米軍が優先的に使うということだってあり得るかもしれない、と話しているのを読んだところでもある。

『ペリーの告白』、この人の立場でこの人の世代であれば「抑止力」の刷り込みは深く、「米軍基地こそがリスクはあっても戦争勃発を抑止する唯一の手段」という限界があるのはしょうがないと言えばしょうがない。

でも、この人でさえ、今の情勢の方が過去よりも深刻であること、でも、まだ遅すぎるということはない、と言っている。

米軍兵士の一人一人、殺し殺されることも想定した命令に従わなければならない人たち、日本がアメリカの捨て石に、沖縄が日本の捨て石にされているように、名のない一人一人の米軍兵士たちも、歴史の壮大な過ちの犠牲者だ。


11月に「核の抑止力」を否定したフランシスコ教皇とつながるカトリックの那覇教区の新司教に任命されたのがカプチン会の米人司祭だと前の記事で書いた。


沖縄の問題は、単に基地の移転の問題や、犠牲の押し付けなどの問題ではない。米軍機が低空飛行する危険にさらされた住民だけの問題でもない。もっともっと根本的な、「いのち」への視線の問題だ。戦争の多くの犠牲者のいのちを思うことは、「力」によって脅かされているすべての人のいのちを思うことだ。


闇の中にいるからこそ一筋の光が見える、という言葉の意味を改めて考える。


( BSで『沖縄の核』というのが放映されたようです。ペリーさんの国防長官の頃は冷戦後ですがさて、「沖縄の核」については何も言ってないなあ、とあらためて思いました。)


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by mariastella | 2017-12-18 00:05 | 雑感

『キリスト教は「宗教」ではない』と核兵器禁止条約

10月に出した新書の短評が東京新聞に出たのを送っていただいた。
ほんとうに短いものだけれど、書いた方はこの本をちゃんと読んでくれたんだなあ、と思う。

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あまり「生き方マニュアル」とばかり強調されると、まるでイエスが宗教者ではなかったように誤解されるのではないかと心配だったが、確かに、イエスは少なくとも「キリスト教の教義」は説いていない。

イエスはユダヤ教のコミュニティに生まれ、養父も母のマリアもユダヤ教の教義を守り、息子をその伝統の中で育て、イエスはラビとして尊敬されていた。

けれどもイエスは、当時のユダヤ教が「聖なるもの」を神殿とその祭司に占有させて、遵法第一主義であったことを批判した。

この時代のこのシチュエーション(ユダヤの国がローマ帝国の属国になっていた)で、共同体を超えた自由、平等、博愛、弱者への寄り添い、報復の否定などを唱える人が出てきたなんてまるで奇跡のようだ。(キリスト教的には奇跡というより子なる神の受肉だけど)

今のローマ教皇フランシスコは、11月にヴァティカンで行われたシンポジウムで、ついに、核兵器廃絶を口にした。

1960年代の第二ヴァティカン公会議の時代は、冷戦のまっただ中だった。

だから、「大量破壊兵器の使用は、たとえ正当防衛の場合でも」「神に対する犯罪、人類に対する犯罪」だとしてはいたが、いわゆる「抑止力」としての核兵器所有まで否定するところまでは踏み込めなかった。

いろいろな意見が戦わされたけれど、結局、「Gaudium et spes の中に、科学兵器の所有はそれを使用することだけを目的にするのではなく、国家間の一定の平和を保つ最も有効な手段だと考える者が多い、と記された。

アメリカの司教たちが、「抑止兵器を非道徳的だと教会が断言しても、それに影響されるのは西洋キリスト教圏の国だけだ」と唱えたので、「抑止力としての核兵器の所有」は、是認もされず弾劾もされず、「暫定的に容認」されることになったのだ。(共産国ソ連は無神論の国だった)

つまり、敵対する国が互いを破壊しつくせるという「脅威」が逆説的に平和を保つということを認めはしても、そのような均衡は安定的な平和も、真の平和ももたらさない、として、「脅威による均衡」は人間のより尊厳あるやり方によって紛争解決の手段を見つけるまでの猶予期間であるとしていたのだ。

15年後にユーロミサイルの設置について、ヨハネ=パウロ二世も、それを真の段階的武装解除に向かうまでのひとつの段階としてはまだ道徳的に受け入れられる、とした。けれども、最終的に到達すべき目的は世界を核の脅威から解放することだというのは忘れなかった。

1981年の広島で、教皇は「軍縮とすべての核兵器廃絶のため、たゆむことなく努力することを人類の同胞すべてに約束しましょう」と語った。

けれども198311月、フランス司教団は、マルクス=レーニン主義の攻撃的な脅威の前では核抑止力は暫定的に正当化される、とあらためて発表している。「使用は禁止、所有は容認」の立場が続いたのだ。

しかしソ連の核を念頭に置いた脅威は冷戦の終わりによってなくなった。ロシアではキリスト教のロシア正教が復活した。

1993年の国連で、ヴァティカン代表のマルティの枢機卿は、 

核兵器を21世紀まで持ち続けることはもはや平和の維持ではなくて平和を危うくする、

地球全体の安全という新しい時代に到達するための根本的な障害となる、

と訴えた。

現在、

ひと握りの国の国益を人類の共通善に優先させることは道徳的に許されない、

というフランシスコ教皇は、第二ヴァティカン公会議で設けられた「猶予期間」は終わったとする。

核の均衡は「恐れという論理」の上に成り立っているが、それは紛争中の二国間の脅威ではなく今や全地球の人類の脅威であり、しかも、他のあらゆる「技術」と同じように、事故の可能性はついてまわる。

核兵器の使用だけではなく所有も許してはならない。

フランシスコ教皇は、「死刑」についても、これまでの教皇が死刑存続国にある程度配慮していたのと違って、絶対廃止の立場を明確にしている。

いろいろな国にとってこれほど「不都合なこと」をいう教皇が出て、しかもそのメッセージが今の情報社会ではすぐに世界中に広がる。

おおいに嫌われても不思議ではないし、実際に批判もされている。

でも、キリスト教文化圏の国の指導者が福音書のイエス・キリストの言葉をまともに読めば、

教皇の言っていることも「キリスト教の教義」などではなくて、福音書のダイレクト・メッセージであることは明白だ。

今年、核兵器禁止条約の活動がノーベル平和賞を受賞した。

日本語では広島ブログ(これとかこれ)を読んだ。

フランス語では、この記事の参考にしたカトリック雑誌(La Vie 3772)の同じ号に、国際政治学者の道下徳成さんという人への長いインタビューがあって、金正恩は日本と友達になりたがっている、と書いてあった。詳しいことはここに書かないが、この人はキリスト教徒なのかなあと興味を持って検索してみたが、ネットの世界では、両親ともに北朝鮮人だとか北朝鮮のスパイだなどの中傷がでてきた。

こんなことばが横行するレベルでは核廃絶や平和の道などはるか彼方なのだろうと愕然とする。





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by mariastella | 2017-12-17 00:05 | 雑感

エルサレムの「内なるアメリカ」

アメリカがエルサレムをイスラエルの首都と一方的に宣言したことで、汚職問題で危機にあるネタニヤフ首相は上機嫌で、パレスティナの人々はショックを隠せない。

トランプの中東外遊で何が密約されたのかは知らないけれど、サウジアラビアとイスラエルが対イランで連帯する合意があり、もうエルサレムを追われて何十年にもなるパレスティナ自治区の将来のことは関心が薄れたのかもしれない。アラブ諸国訪問中だったマクロンはトランプを糾弾して見せたが、戦闘機をカタールに売りつけて嬉々としていた。

カタールにもドバイにもイランにも個人的に親しい人がいる。
イスラエルとパリを行き来している親しいユダヤ人もいる。

こんどのことは、シリアやイラクを追われたISの火に油を注ぐようなものだという見方もあるので心配だ。

面白いと思ったのは、フランスでもエルサレムのことをJERUSALEMと書くので、いろんなニュースで、

JERUSALEM  と表記するのを見ることだ。
内なるアメリカ、というやつだ。
しかも、ちょうど真ん中に来る。

私が学生の頃に読んでいた朝日ジャーナルの最後のページの一コマ漫画か何かで、「内なるアメリカ」というキャプションで当時の首相だった佐藤栄作の名をアルファベット表記したものがあった。

EISAKUSATO

というものだ。

当時の学生運動は産学協同反対、米帝追従反対、というものだったから、首相などは完全にアメリカの方しか見ていない、とみなされていた。あまりよくできているので今もまだ覚えている。

そのせいで、JERUSALEM 表記が無意味になつかしかった。

何だか今の日本では、いつのまにか産学共同がデフォルトになっているようだが、さらに軍・産・学が一体となり、政治家も、もう内なるアメリカというより、一体化しているのだとしたら、なつかしいなどと言っている場合ではないのかもしれない




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by mariastella | 2017-12-10 00:05 | 雑感

ミシェル・ウエルベックの発言、メルケルとシドゥオゥ

『従属』Soumissionという小説で、フランスにイスラム教徒の大統領が生まれる近未来の小説で話題になったミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)、ネオ保守の雑誌のインタビューで、


フランスのイスラム教徒たちが満足するのは、フランスがカトリックを国教に戻してその上でイスラムを寛容にとり扱う時だ、


みたいな発言をしているという。


どの国でもマジョリティとマイノリティ、文化、伝統などが相対的な力で社会を動かしているから、彼の一見反動的な極論にも、なるほど、イスラム教徒にフランスでのマイノリティである立場と意識を自覚させれば感謝して謙虚に暮らすだろう、と納得する人もいるかもしれない。


でも、それをいうなら、エリザベス女王を首長とする「国教会」があって、国民全部がいったんは国教会に属するという形式が続くイギリスで、共同体主義の中でイスラム教条主義が横行していたりテロの標的にもなっていたりすることを説明できない。


フランスだって、いわば「ライシテ(フランス風政教分離)の共和国主義」そのものを「国教」としているような国なのだから、そのライシテの中で信教の自由を擁護されるムスリムが、「感謝」などしないで過激派に取り入れられてゆくことを説明できない。

ドイツでメルケル首相のマジョリティ連立政権の試みが、難民問題と環境問題で暗礁に乗り上げているのも心配だ。


過去に、彼女が難民百万人でもドイツはOKと言った時に、EUの他の国からは、現実を知らない理想主義だと叩かれるよりも、それはドイツの高齢化と労働力不足対策だなどと言われた。

彼女が難民OKというのは、「助けを求めて来るものをすべて受け入れるのはEUの精神に合致しているから」という建前だったので、その「正論」に踏み込むことはできずに、まるでそれがドイツの利己的なご都合主義であるかのように批判されたのだ。

私はメルケルの人道主義は本音だったと思う。

その本音を通せない現実との折り合いがつけられなかった。


前にも書いたことがあるけれど、ドイツのようにマッチョな社会で、メルケルが長期間政権を維持してきたことは不思議だ。もちろん好調な経済の後ろ盾があったにしろ、マクダ・ゲッベルスのような女性の悲劇を生んだ国で、しかも、「共産圏」に組み入れられた東ドイツ出身で、よくここまで来たなあと思う。


けれども、それをいうなら今のポーランドの首相ベアタ・シドゥオゥ(シェドワの表記もあり)の白人カトリック・ポーランドファーストもすごい。

今書いている本の中で、「共産主義はキリスト教最後の異端」という言葉があるのだけれど、

メルケル(ルター派)のキリスト教的信条とEUのキリスト教ルーツ、

ポーランドとカトリック、

この旧共産圏の二つの大国(東ドイツとポーランド)の二人の女性首相の対照的な姿勢と、

それぞれに向けられる国民の視線の違い

に感慨を覚える。


彼女らに比べたら、なんだかんだ言ってもフランスは苦労が足りないお花畑の男たちがのさばっているなあ、などとひそかに思う。


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by mariastella | 2017-11-27 00:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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