L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 369 )

G7サミット、マクロン、トランプ、ローマ法王

トランプ大統領は「無難にこなした」初外遊を終えて、嵐の吹きまくる自国に戻って今頃は大変だろうなあ。

もともとトランプとローマ法王の会談の三つのテーマは、移民難民、イスラム、エコロジーだった。

トランプがメキシコとの「壁」を公約した時にローマ法王は「橋でなく壁を作るのはキリスト者ではない」と言っている。イスラム教国からの入国禁止の処置も基本的に「国教のない」カトリック教会と真っ向からぶつかるものだし、オバマによるパリ会議の批准(守らなくても罰則規定はない)を無視しようという公約も、地球環境保護キャンペーンの先頭に立って回勅を出しているローマ法王と対立する。

でもフランシスコ教皇はエジプトから帰る飛行機の中の記者会見では、「会わないで人をジャッジすることはできない」と言って、トランプをあらかじめ弾劾することはなかった。

パリ条約はいうまでもなくフランスの誇りみたいなイベントだった。大規模テロのあったすぐ後だったけれど世界中の代表者を集めて成功させたという文脈があるし、京都議定書と違って、二酸化炭素の最大の排出国アメリカと中国にも批准させたからだ。

で、フランスはローマ法王がまずトランプにエコロジーのことで「説教」するのを期待していた。その後でマクロンがNATOでのトランプとの会見でプッシュして、G7で合意させる、と。

結局ローマ法王との会見はほぼ意味がなかった。

難民移民問題についてはもともと移民国家であるアメリカの内部で司法や議会が機能してトランプは譲歩せざるを得ない状況だから、ローマ法王がことさら何か言う必要はない。

イスラムへの偏見の問題にしても、ローマに来る前にサウジアラビアで「兵器産業の上客」へのリップサービスで平和を訴えたし、イスラエル・パレスティナでもちゃんと模範的にふるまった。

だから残りはエコロジー問題だけだったのだけれど、結局、「平和を目指す」合意のようなものしか出なかった。トランプに環境問題の回勅をプレゼントしているから、まずこれを読みなさい、ということになったのかもしれない。

(でもサウジでスカーフを被らなかったメラニアさんは、バチカンではちゃんと黒服で黒ヴェールを被っていたし、ミケランジェロの最後の審判の前にも夫婦で立った。メラニアさんは歴史的にはハプスブルク圏カトリック国スロバキアに生まれたのだが、当時の共産主義下で幼児洗礼は受けていなかった。現在はきっちりと日曜ミサに出るカトリックで、今回も聖母像の前に花束を捧げたり、教皇にロザリオを祝福してもらったりしていた。カトリック国の首長夫人は教皇に合う時に白服と決まっている。ヴェールはプロトコルの義務ではなくメルケルはバチカンでもかぶっていない。オバマ夫人はかぶっていた

ついでに言うと聖公会の長であるエリザベス女王は前はプロトコルに従っていたが、自分が教皇より年長になってから?は、「規制緩和」した。最後は薄いパープルのスーツだった。)

でG7に話を戻そう。マクロンのことを、最初は「上級生の運動場に出ていく下級生(高学年の遊んでいるところに混ざる低学年の生徒、または高校生の中庭に出る中学生のようなイメージ)」みたいな表現があった。

テレザ・メイやトランプだってこれが初G7だったけれど、見るからに貫禄がある。

マクロンは「貫禄」がない。若さとエネルギーでは「貫禄」に立ち向かえないのでオーラが必要だ。

で、フランスのメディアからの評価はまずまずだ。

世間では「フランス人もEU離脱を望んでいる」などという報道のされ方もあるが、

フランス人は、EUが嫌いなのではない。

フランス主導のEUは好きなのだ。

第二次大戦後、最初にドイツと和解してEUの元を立ち上げた時から、

ドイツに稼がせて貢がせて、

うちは戦勝国だけど、お宅を対等に扱いますよ、

と「政治主導」のヘゲモニーを持つ、

というEUが好きなのだ。

だから、マクロンがEUの中で存在感を増して、

イギリスは勝手に出ていくから、G7参加のEU3ヵ国のうちで、

ドイツとイタリアって、敗戦した枢軸国だしさあ(うちは占領されていたけれどそれは関係なし)、

ヨーロッパの真の旗手はイエス・キリストやナポレオンと同じ若いボクだよね、

というオーラを振りまいてくれるなら、

EUもフランス人に好感度アップというところか。

実際、メルケル首相が、環境問題の合意を妨げたアメリカの態度に不満を隠さなかったのに、マクロンはなぜかオプティミストだ。

自信満々なので、一週間後だと言われるトランプの方針表明がパリ協定寄りになることを知っているかのようだと希望的に推測する人さえいるくらいだ。

アメリカがパリ協定離脱を表明すれば中国やインドだって続くかもしれないし、批准した途上国への援助も難しくなる。マクロンがなんというのか聞いてみたい。

まあ、今は、G7の様子がネットなどを通してあちこちに配信されるので、全体としてマクロンが例の父性的演出を駆使して堂々とプロとしてふるまったのに比べて、トランプの方は、しぐさも発言も、アマチュア感がぬぐえなかった。

そういえばG7で、マクロンがトルドー首相との雑談で、「子供の話」が出て「私には孫が7人」と答えていた。

日本に昔「七人の孫」っていうテレビドラマがあったのを思い出す。

孫も七人になると、家父長のオーラが出てくるのだ。

トランプは3人の夫人との間に5人の子と8人の孫がいる「部族長」だけれど、「若い妻」がいるというクラシックなオーラでは新鮮味に欠ける。

フランスの総選挙が迫っているが、これまでは、フランス人はロジックだからいったん新大統領が選出されたら大統領の党に過半数の議席を与えて一貫性を求めるというのが通説だった。

はたしてどうなるのだろう。


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by mariastella | 2017-05-29 00:13 | 雑感

「忖度」とグラムシのヘゲモニー論

今年の流行語大賞候補とか言われている「忖度」という言葉。

これを聞くと、グラムシのヘゲモニー論を思い出す。

20世紀イタリア共産党の創始者グラムシの唱えた「ヘゲモニー」とは、法に依る権力や経済権力による「支配」とは別の、

「指導」や「同意」として行使される権力の形態のことだ。文化による権力だともいえる。

これはまさに今話題の文脈における「忖度」の定義のようだ。

ヘゲモニーとは「同意を積極的に調達するもの」ということだが、「忖度」そのものだ。

自発的な同意を行使させる「忖度」だけではない。

日の丸君が代を起立して歌い敬う「指導」がいつしか処罰をともなう強制に変化してきたように、「忖度」を拒否する人を監視し取り締まる「共謀罪」も成立しようとしている。

安倍一強のヘゲモニーは、出生率の向上や女性の就労支援などといった生き方のありようそのものにまで広げられている。これもグラムシの分析した「生き方を含む対抗文化」の戦略を裏返しにしたものだ。

阿部首相は安保法制の議論の中で「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」と言ったそうだけれど、ヘゲモニーを可視化しすぎ。

グラムシは「新しい時代」を切り開くにあたっての知識人の役割を強調した。

政治とは哲学にひとしい。ある文化圏の中に強固な地層を残している哲学は批判の対象になる。

歴史的に形成された文化と知の要素を批判的に洞察する必要がある。そのためには「すべての人は知識人である」必要がある。

ポピュリズムの対極にある考え方だ。

となると、出自を「でじ」、便宜を「びんせん」とか読む文科副大臣がいたり「云々」を「でんでん」と読むリーダーがいたりする政府によって、無批判に「戦前」の思想を持ち上げられてヘゲモニーを形成している国って…。



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by mariastella | 2017-05-28 00:08 | 雑感

マクロンとトランプ

楽しみにしていたマクロンとトランプのはじめての出会い。ベルギーでのNATOの会議だった。トランプはNATO本部の立派さに驚いたと言われる。

アメリカの金でできているんだ、と予定通りの文句を言うより、素直に「大きなものがすごい」と思ってしまうところが無邪気?なのか…

で、マクロンは多分わざと演出したのだろうと思うけれど、他の首脳よりも遅れて到着した。皆がずらりと並んでいるところに一人ゆっくりと近づいて、なぜかラ・マルセイエーズが流れ、というできすぎる登場。

まずメルケルとは親しさを強調してハグをし、何人かとの後、いよいよトランプとの握手。
トランプはいつものようにぐいと自分の方に手を引き寄せる。
そして左手をトランプの腕にかける例のしぐさも忘れない。

メラニア夫人に握手した時も左手を添えて彼女の手を包む形。

アメリカ大使館でのトランプとツーショットの両者が座っての握手はもっと愉快で、マクロンの力が強くてトランプの手首が白くなった、トランプが手を離そうとしたのに握って離さなかった、というので、 ネットメディアがすぐに書き立てた。

そんな時に並べられているのが安倍首相との握手だというのはなんだかなあ。
私も前に書いたけれど、トルドー首相が一歩も引かなかった映像もまた登場。
メルケルには逆に、握手を拒否したり全く力を入れなかったりしていたのも。

あすのG7サミットではどうなるのかまた組み合わせが楽しみだ。

トランプとマクロンの会談が予定の1h15を30分オーバーしたとかで、プラグマティックなものだったと珍しくマクロンがすぐにtweet。
(昨日のフランシスコ教皇とトランプとの会談は予定の30分より5分前に切りあがった)

トランプはルペンを応援していたと言われるのを否定するように、マクロンのことを「You are my guy」と言ったそうだ。





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by mariastella | 2017-05-26 04:49 | 雑感

イギリスのテロ、トランプ、韓国、パレスティナ…

これを書いているのはフランス時間で5/23。

国際情勢の動きから目が離せない。


マンチェスターのテロはバタクランのテロを思い出させるが、マンチェスターのアリーナの規模は桁違いに大きい。

この事件で、フランスの劇場やコンサート会場などの警備に緊急の通達があった。折しもカンヌ映画祭の開催中である。

何が特に注目されているかというと、「コンサートが終わった後」だ。ホールへの入場には念入りに所持品のあらためや身体検査がされるが、終わった後の「解散」の時には警備が手薄になる。慣習がどっと出てくるところを狙われるというのはセキュリティの盲点だった。

犯人はリビア系でマンチェスター生まれの22歳のイギリス人。シリアやイラクのISの元で「訓練」した経歴があるかどうかはまだ判明していないが、ともかく、国境を閉鎖したところで、EUを離脱したところで、「自国内」の若者がネットなどでISに鼓舞されてテロに走るとしたら防ぎようがないというのが再確認された。


イギリス型の共同体主義社会は、様々な「文化圏」がモザイク状に「共存」している。

それらが互いにリスペクトしあって共存しているならいいが、そのうちのどれかが自分たちの優越性を掲げ、他のコミュニティを「不信心者」として攻撃するなどに走れば、フランス型の「統合」志向の国での逸脱よりもさらにやっかいなことになる。

私がフランス型のユニヴァーサリズムを支援するのは、たとえ多様な共同体が互いをリスペクトして共存していたとしても、どんな共同体に生まれつくかは誰にも「選択」できないし、共同体内部での差別や支配関係は自体は改善されにくいからだ。

その共同体から出ていく自由がより高位の権威によって保証されているべきであるし、共同体の伝統やコードよりも、すべての人間が自由と平等と安全と幸福を追求する権利と尊厳が優先されるべきだと考えているからだ。

生まれついた共同体のマジョリティで戦争や飢饉のない時代を過ごしてきた人にはなかなかぴんとこないかもしれないけれど。


ここ数日は、トランプのはじめての「外遊」も注目を集めている。

ツイッター発信を禁止された?とかで、ここまではシナリオ通りに動いているようだ。

でも国際情勢はシナリオ通りにはいかない。

イランを共通の敵にしてイスラエルとアラブを結束させてパレスティナの平和協定を実現させるという構想自体は悪くないし、関係者たちはすでにアメリカに来て話し合っていた。けれども、イランではアメリカとの関係改善をスタートさせたロハニ大統領が再選された。イランに投資つつあるマルチナショナル企業はほっとしているだろう。

こんどはイランとサウジアラビアと、どっちが長い目で見てより良いビジネスのパートナーになるのか、などという基準で外交が進むのだろうか。

イスラエルの嘆きの壁に手をあてるトランプの姿は世界中に配信され、「壁」ジョークに大いにネタを提供した。トランプと言えば「メキシコ国境に壁」が有名だから、「嘆きの壁」の前で「これはメキシコが支払ったのかな」とつぶやくようなカリカチュアがたくさん出た。

今日はパレスティナのアッバス議長と会っていたし、5/24がローマ法王との会見だということで、「聖水をたっぷりふりかける必要がある」となどとからかわれている。(悪魔祓いという含意?)

翌25日がマクロン大統領との初の会食の予定。

これも、「マクロンの方がトランプよりも英語がうまい」などとからかわれている。

マクロンのフランス語の語彙の豊かさについては前に書いたが、確かに英語の語彙もトランプより豊富なことだろう。


韓国の新大統領も決まった。

「親北反日」だという形容も耳にしたけれど、この「半島危機」の時代に、「反日」だから気に入らないとかいうのは大局的に見ると優先事項ではない。

北と南が穏便な形で平和条約を締結して「朝鮮戦争」を終結させて南北を統一し、米軍が撤退すれば、中国も介入しないですみ日本の「危機」も回避できるというのが理想的なシナリオであることは自明だ。

南北統一が果たされて米軍と中国が矛先を納めさえすれば、核兵器があろうとなかろうと、維持する必要そのものがなくなる。


イスラエル、インド、パキスタンの核兵器の現実の方が危うい。

一番怖いのは自爆型テロリストに核兵器を奪われたり、原発に突っ込まれたりする可能性の方だ。

ドローン攻撃やサイバーテロのことを考えるとほんとうに真剣に対策を立てることは別にあるような気がする。

顔の見える国に対して「制裁、制裁」などと煽っている場合ではない。


生きている間に、イスラエルとパレスティナが互いを認め合い、スンニー派とシーア派が共存し、南北朝鮮が統一されるのを見たい。

いや、それよりも、今現在のベネズエラや南スーダンの内戦状態が気になるし、今週末から始まるラマダンも心配だ。ISはラマダンの期間(特に金曜)にジハードで殉教すれば天国直行とかまた宣伝するだろう。フランスでは昼が一番長くなる時期だからムスリムのつらさも目に見える。

木曜はキリストの被昇天祭だ。せっかく復活したイエスが、後を使徒たちに託して天に昇ったという日。そして翌日の金曜からラマダンが始まる。

(断食は土曜の朝から)


世界中の宗教者にはぜひ平和のために祈ってもらいたい。





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by mariastella | 2017-05-24 05:27 | 雑感

中南米のカップル事情

サイトの掲示板で、ヴェルデFさんという方が、

>>2005年頃、メキシコの日系企業の工場で働いていたとき、メキシコ人工場労働者200名増員する為の採用契約で、Casado(a), Soltero(a)のほかに、Union Libreと申告している人が複数おりました。メキシコ国におけるUnion Libreの法律的意味はそのとき一応調べましたが(…)<<<

と書いていらっしゃったので私もメキシコのUnion Libre(free union)(日本風にいうと事実婚や同棲?)について検索してみたら驚いた。

私のイメージではラテンアメリカはカトリックの影響が強いカトリック文化圏だから法律婚はもちろん教会での結婚が主流だろうと思っていたからだ。事実は、この500年来、ラテン・アメリカは、事実婚や「婚外子」の割合が、西欧由来の文化圏では突出して多い地域だったのだ。

それについて明快に解説する論文も見つけて読んだ。(今世紀のデータはないが。)

中南米でも、メキシコ、ペルー、ボリビアなど先住民インディオの分布が多いところと、人口密度がもともと低かったところとでは、スペイン人の入植者と西アフリカからの黒人奴隷に対する人口の割合が違う。そのバランスによって、結婚事情も違ってきた。

スペイン政府は、もともと、スペイン人とインディオの結婚を推奨していた。スペインの男と資産を持つインディオの娘の結婚の政治的、経済的価値を鑑みたからだ。当時、スペイン人の入植者の男女比は10対1だったので、必要に迫られたともいえる。
ところが、「奴隷」である黒人女性との結婚は禁止されていた。資産価値がない。
黒人奴隷の男女比は2対1だったそうだ。なんとなく労働力になる男の方が多いと思っていたけれど、「家事労働」や男たちを支える女が必要だったのだろうか。だから、黒人の方がインディオよりも女性が「余っていた」わけで、結婚が禁止されていても黒人女性といっしょになるスペイン人が少なくなかった。
また、インディオ女性といっしょになる場合でも、入植者の多くはスペインに妻子を残していたから、そもそも法律的にも宗教的にも結婚はできない。
だから、この時代、中南米の非婚カップルの割合は、スペイン本国の4倍にも上ったという。
そのスペインですら、レコンキスタでカトリックを回復したばかりの当時、英独仏などの国に比べると非婚カップルの数がずっと多かったのだそうだ。

宗教改革の時代でもあり、1563年にカトリック教会がトリエンテの公会議で、カトリックの婚姻制度を厳正化した。
けれども、中南米ははるかに遠い。
前述したような状況もあって、中南米の非婚カップル事情は「お目こぼし」となったのだ。「結婚しないで家庭をつくる」ということが、そもそものはじめから広がり受け入れられたわけである。

もちろん結婚した人たちもいる。先住民はもともと生活に宗教の「典礼」が浸透していたから、それがカトリックにとって換わるのも抵抗がなかった。

ところが、1980年代までアルゼンチンやブラジルでは「離婚」が法制化されていなかったように、一度結婚して別れた場合、二度目の結婚は当然ながら「事実婚」でしかない。ますます非婚カップルが増える。

統計の数値などが出てきたのは1950年頃からだが、今の「非婚カップル」のプロフィールは、若く、低学歴、低収入というというものらしい。別れる率も多く、逆に生活が安定して年齢が上がってから「結婚」を選ぶこともある。

カトリック教会も、昔はともかく、いまでも離婚自体は難しくても、カップルのどちらにも結婚歴がなければ非婚自体にはクレームがつかない。当然、別れて何度別の人とカップルを形成しても、「離婚」ということにはならない。子供の洗礼や教育にも支障がない。
今や、「お目こぼし」はカトリック教会の本場だったヨーロッパにも広がっている。
今の教皇がアルゼンチンの出身であるという意味もあらたに考えさせられる。

しかし、メキシコと同じくインディオの数が多かったグアテマラなど、1950年の時点でカップルの70%が非婚だったなどというのを見ると驚きを禁じ得ない。(20世紀末では40%に減っている。内戦もあったから事情はさらに複合的だけれど。)

いろいろなことを考えさせてもらった。

(ユニオン・リーブルというのは日本語で何というのかと思ってグーグル翻訳を検索したら「出来合い」と出てきた…)


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by mariastella | 2017-05-18 06:49 | 雑感

ショック・ドクトリン

ネットで日本の週刊誌のコラムを読んでいたら、このところ、北朝鮮からの核攻撃のことが気になってしょうがなかった、というものがいくつもあったので驚いた。

1999年の7月、例の「ノストラダムスの大予言」の終末論で、7月の終りにテポドンが東京都心に落とされるという飛語が飛び交っていた。今思うと、当時の北朝鮮の技術ではそんなことはあり得なかったと分かるけれど、とても嫌だった。

というのはちょうどその7月に私はアサヒカルチャーセンターで何日かの講座を任されていたからだ。

普段フランスに住んでいる自分が何を好んでわざわざ1999年の7月に東京都心にいなくてはならないのだろう。

ノストラダムスの「予言」にまつわるいいかげんな終末論の横行については、私は当時すでに、ノストラダムスをルネサンスのフランス知識人として解説しなおしていた。

けれども私がいくらまともなことを言っても、

「世界の終わりだ!」

と大声で叫ぶ人には勝てない。

世間は「ネガティヴなことを大声で叫ぶ人」に耳を傾ける。

そして、そんなことを全く信じていないばかりか批判をしている自分でさえ、「わざわざそんな日に東京に行くのは嫌だなあ」と思ったのだ。カルチャーセンターの仕事がなければ、日本でも神奈川県の実家にこもっていれば被害は少ない?かもしれないのに、と。

もちろん、ちゃんと講座は務めたし、何事も起こらなかった。

でも、今は、より「現実的」になった北朝鮮のミサイル攻撃からの身の守り方みたいなものをまるで「地震対策」のように流して恐怖を煽る何かの思惑が働いていて、それが、コラムニストなどの意識にある程度功を奏しているわけだ。

近頃は、日本に帰ると「フランスはやっぱりテロで怖いですか」などと聞かれることがある。
日本にいる時に「地震が来たら嫌だなあ、」とか、飛行機に乗る度に「落ちたら嫌だなあ」と思う程度には怖い。

でもこうなるともう、
ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」を思わざるを得ない。

日本国憲法の前文を提案したのだか押し付けたのだかは知らないけれど、その頃のアメリカの指導層は、まだ罪悪感も持っていたし、本気でキリスト教精神の一番いい部分での人類愛とか普遍的な自由の実現を掲げていた。その「自由」がいつの間にか、「神」の愛やみ旨に発するものではなく「金」への愛や欲望に発するものとなってしまった。

進駐軍のエリートでさえ、リンカーンを読み、聖書を読み、「正義が力となるのであって、力が正義になってはいけない」などと多分その時は本気で言っていたというのに。

興国とは「謙」の賜物であって、亡国とは「傲」の結果である、と言ったのは内村鑑三の『興国史談』で、国家を存立するのは武力や経済力や領土ではなく道徳力なのだ、と言っていた。

日本は、明治の開国時のプレッシャーの中でも、敗戦の焦土と窮乏のうちにも、攻撃や恫喝ではない平和構築の優越性を確認してきたはずだ。今、ショック・ドクトリンに沿って防衛ミサイルなどの軍事産業のますます繁栄するのに加担するのを見ていると暗澹とする。



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by mariastella | 2017-05-17 06:36 | 雑感

マクロンと夫人を見ていてなんとなく考えたこと

5/3の夜、マクロンとル・ペンの討議があるのでそれを見てからまた書くことにするが、ここに書くのは大統領選とは直接関係のない与太話です。
政治情勢について知りたい方はスルーしてください。

先週、マクロンが第一次投票をトップで通過しただけなのに妻のブリジットを伴って支援者のもとに現れたことで、これまでの当選者は最終投票の後で、それもパーティの時にはじめて伴侶が並んだのに、と「はしゃぎすぎ」を批判する声があった。

フランスはアメリカのようなファーストレディのステイタスが公式に決まっているわけではないから、マクロンは自分が大統領になったらファーストレディの公的役割を明文化すると言っている。

ともかく、この「お祝い」で、マクロンの実の母親、弟、妻の一男二女がそれぞれの連れ合いと一緒に集まった珍しい写真が出回った。

マクロン自身も三人きょうだいの長男だ。マクロンの生まれる前に姉が幼くして亡くなったことがトラウマになったので、マクロンと弟妹のために母親は医師の仕事をパートタイムにしたという。父も医師だが2010年に離婚して、精神科医と暮らしているという。現役だからあまり姿を見せない。マクロンの弟と妹も医師になった。

マクロンは理系バカロレアを出たのに文科系予備クラスに入った。演劇活動で知り合ったブリジットとの恋に夢中で高等師範の入試を二度、筆記試験の段階で落ちている。
ENAも、最も正統的なコースから入ったわけではなく、今になってあれこれと明らかにされていることによると、やはり「15歳の恋」は、勉学の妨げになったということらしい。
それでも、ENAを経て財政省の役人としてキャリアをスタートし、銀行を経て、大統領側近となり、今度は大統領になろうとしているのだから、すごいキャリアだが、それを後押ししたのはおそらくブリジットさんなのだろう。
「マクロンの恋」を統御し、その才能に見合ったエリートに育てていったのはほかならぬブリジットで、彼のリップサービスではなく、この女性なしに今のマクロンはなかったのだろう。

そう思うと珍しい組み合わせだ。フランスのリセのフランス語教育や哲学教育は、とにかく古典をたくさん読ませる。

それによって、哲学的語彙と概念は一気に豊かになる。

日本語なら、少しレベルの高い思想書にはどうしても「漢語」が入ってくるから、日常のやり取りの口語とは少しずれてくるが、フランス語なら哲学の言葉も宗教の言葉も文学の言葉も、10歳の少年と30歳の大人が十分やり取りしあえる。

私は自分が15歳だったころを別として、大人になってから日本の10歳や15歳の少年とじっくり話したという体験がないので、そういうことが自然に対等にできるのかどうか分からない。日本語では年齢や性別や立場によって話し言葉のニュアンスがいろいろと変わってくるから、なかなか本当に対等な感じで話し合えない気がする。

ところが、フランスでは、自分の子供のような年(今や孫に近いような年)の15歳の少年とでも少女とでも、対等にいろいろなテーマについて真剣に話し合うことができる。

思えば、マクロンが15歳でブリジットと出会ったという頃の今から25年ほど前、ちょうど私も、パリのカトリック系のリセで15歳の少年たちを教えていた。正確には高校1年から3年のクラスで日本語を週3時間ずつ教えていた。私立の中公一貫校だが、私の給料は文化省から払われてる契約公務員待遇だ。

15歳から17歳くらいの少年たちはフレッシュで可愛かった。
もっとずっと昔、東京のリセ・フランセでも、小学校4、5年生(小学校は5年まで)、中学1.2年生、中学3.4年生、高校1.2年生の合同クラスで教えていたことがある。でもフランス人の子弟ばかりでなくインターナショナルで親の職業も滞日年数もばらばらだったし、私自身が20代だったから、「先生」を演じていた部分がある。

パリのリセでは、生徒たちは自分の息子のような年齢だ。
私は自然に「先生」だった。「マダム」から「先生」へと呼び方を変えさせていた。
そこでいろいろな生徒と知り合った。

概して女生徒の方が「大人」で距離を感じた。

授業が終わった後、他の生徒が出て行った後に残って私に話しかけてきたり、授業の前に私と直接話そうとするのは男の子たちの方が圧倒的に多かった。彼らは個人的ないろいろな悩みや将来についてなどを相談してきたり、日本とフランスの比較文明論を持ちかけてくるのだった。
もし今のようにSNSが発達している時代だったら、彼らとその後もずっと連絡を取り合っていたかもしれない。

ピアノの生徒もそうだ。

11歳とか12歳とかで個人レッスンを始める生徒たちに私は最初から対等な立場で音楽論を語る。
私の小さい時にこういう先生とめぐりあっていたかった、と思いながら、私の音楽論は長い間かけて模索し続け、実践しているものだということも伝える。テクニックだけの練習(まあそのおかげでベースができたわけだけれど)では絶対に見えてこない者があることを教える。音楽とは音符と音楽の間にあるということなど、他の楽器や踊りも見せながら説明する。
14、15歳になってくると、「練習する」ということについての哲学的会話も始まる。実存的な会話も始まる。

そういうことができるのは「フランス語」という言語に負うところがすごく大きいと思う。

私のトリオのメンバーであるHも最初に会った時は15歳の終わりだった。H は高名な教育者ルイ・ロートレックのギターの生徒で、私はロートレックの友人という立場だった。ロートレックといっしょにアンサンブルを立ち上げた。Hはそこの最年少のメンバーの一人だった。

Hは最初から普通の少年とは違っていた。 私は彼の母親よりも一つ年上だった。
ロートレックのアンサンブルでスペインに公演に出かけた。Hは18歳だった。その時に加わったのがやはりロートレックの弟子だった28歳のギタリストのMだ。往きのバスが故障して数時間立ち往生するというアクシデントがあった。その時にMが不思議な発言をした。私はそれに一目ぼれした。Hもそうだった。Mの不思議さに魅せられたのはその時居合わせた人々の中で私とH の二人だけだったと思う。私は私とHが同じ種類の人間であることを確信した。

その後、いろいろあったのだが、私はH の才能に感心していた。音楽家として私にないものすべてを彼は持っていた。
ロートレックとのさまざまなアンサンブルで弾いたけれど、それはまあ、時々小遣い稼ぎにはなる程度の、親睦グループみたいなものだった。バロック音楽の感性がないことは明らかで、フランスバロックの道案内をしてくれたのはHだった。グループの編成がいろいろと変わっていく中で、私は、HとMといることが最も知的な刺激に満ちていることが分かっていた。H が一時パリを離れた時期、家族から離反した時期なども通して、私のHへの信頼は一度も裏切られなかった。
Hがオペラ座図書館で見つけたミオンのオペラを持ってきて最初に3人で弾いたときの感激は忘れられない。私たちは私たちの音楽に出会った。それが1994年、Mは21歳でソルボンヌの音楽学科の学生だった。
私たちはそれから、20年以上、たまに他の人と共演することはあっても、ずっと新しい研究やチャレンジを続けながら、実にいろいろな場面で一緒に弾いてきた。Hは音楽のアグレガシオンを取得し、指揮者、チェンバロ奏者としても様々なアンサンブルに加わったり、組織したりしている。Mも国立の音楽院で教えながらバロックギターやテオルブでバロックアンサンブルにいる。

トリオは、音楽へのパッションは揺るいだことがないが、人間的には平坦な道ではなかった。何度もうこれでやめようと思ったかしれない。けれども、私は、若い彼らと音楽について、人生について、議論することの幸運を自覚していた。
そして、15歳だった彼は、今は40代半ばとなっている。でも私たちの関係は、最初に会った日から変わらない。いやますます、親密に、かけがえのないものになっている。私たちのかわした多くの言葉が、私たちの音楽を変え、人生のビジョンを変えた。

もちろんマクロン夫婦のような種類の関係ではないが、相手が15歳の時に知り合った少年と、何十年にわたって友人であり、時と共に、そして彼が編曲してくれる曲目が増えると共に、いろいろなコンサートのいろいろな場面の記憶と共に、言葉を通しても通さなくても以心伝心ですべて分かってしまう体験と共に、同じ音楽で同じ聖霊を分け合っていくと共に、「人間と人間の関係」が深まっていくことを私は知っている。

マクロン夫妻の本当の関係の機微は分からない。数年後に別れるなんていうこともあり得るかもしれない。
でも、大方の野次馬とは少し違って、彼らの話を見聞きすると、私は、15歳の少年と親子ほど年の離れた女性が、何十年もかけてますます理解しあい、助け合うことの真実を実感を持って想像することができる。
でも、日本で日本語だったら、と思うと…非現実的だ。

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by mariastella | 2017-05-04 02:04 | 雑感

鈴木正文さんと教育勅語

docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。

日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。

素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。

1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。

教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。

「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」

「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」

「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」

「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」

以上だ。

これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。

ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。
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by mariastella | 2017-04-26 00:39 | 雑感

アメリカのシリア攻撃

アメリカのシリアへのミサイル攻撃について、ヴィヴィエンヌ・ウェストウッドが、「もしヒラリー・クリントンが大統領になっていたとしても同じ結果だったろう」とコメントしていた。

これをどう読むかは各自考えて下さい。

私はこれについて、アメリカのプロテスタント倫理神学の大家であるスタンレー・ハウアーワスの言っていたことを想起せずにはいられなかった。

トランプの言辞は、完全にアメリカという国を「教会」と見なしている。
彼の忠誠や正義にまつわるレトリックは 長い間アメリカでシステムとして機能してきたキリスト教のレトリックと全く同じだ。アメリカの脱キリスト教の状況は、フランスの世俗化や日本の宗教離れなどの比ではない、重大な方向に向かっている。あそこまでアメリカ・ファーストとかアメリカに忠誠をとか言い切って通じてしまう背景には、「神のみに拠る」、神以外の権威を立てない、神以外を拝まない、という一神教の出発点にある超越価値という設定がある。

昨日の記事の続きにもなるが、その超越点を可視化したもの(ここではアメリカ)にを拝むようになればこれは「偶像崇拝」と言って、一神教の求心力に比例するくらい最悪のものになるわけだ。

「神の国」を夢みて出発したはずのアメリカが、いつの間にか「神イコール国」になってしまった。
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by mariastella | 2017-04-11 00:11 | 雑感

刺抜き地蔵と六義園

先日、はじめて巣鴨の刺抜き地蔵に行って来た。

原宿に住んでるのにどうしてわざわざ「おばあちゃんの原宿」に?と聞かれたが 、それは…おばあちゃんだから…?

その「おばあちゃん」らしさはなるほどいろいろある。

部分カツラの屋台で試着している女性がいたり、痩せて小柄なお年寄りが多いのになぜか大きめの下着がたくさん売られていて、「ご利益パンツ」とか「長寿パンツ」とか書いてある。

境内にある高島易断の占いコーナーには、原宿なら恋愛運ばかりなのに、「これからの人生と寿命 5000円」などと書いてあった。なるほどなあ。

その後で六義園に行ったのだが、ここも65歳以上150円の入園料で高齢者優遇。
年齢を証明するものを何も携行していなかったのだが、何も問われず顔パス。

高齢者でも敢えて普通料金を使うという矜持のある人もいるそうなので、その辺の自主性尊重なのかユルイのか分からない日本の空気はむしろ好感が持てる。

中では江戸の大神楽というのをやっていて、今までは寄席でよく見た芸のルーツ(もっと遡れば門付け芸だが)を、この季節にこの場所で見ることの楽しさを味わえた。

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六義園の枝垂れ桜
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by mariastella | 2017-04-07 00:33 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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