L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 312 )

シン・ゴジラと国芳

近所の太田記念美術館で「国芳 ヒーローズ 水滸伝豪傑勢揃」という展覧会を見た。

その中の特に、「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」というシリーズを見ていて、シン・ゴジラってこれなんだと分かった気分だ。

いわゆる戦闘シーン、人と人が殺しあうシーンと違って、怪物、怪猫、大鷲、イノシシ、大イモリ、大蛇、大虎、鵺、九尾の狐、らと戦うヒーローは、ますますヒーローらしい。

画面いっぱいに怪物が広がり、ヒーローは文字通り身を呈して、至近距離で、取っ組み合いに近くなる。

日本人のヒーローは、悪と絡み合って 「成敗」する。

ゴジラに空爆するよりも、近づいて化学物質をゴジラを口の中に注ぎ込む方が日本人の好みなんだなって思った。

構図がまたすばらしい。

自分より大きく強そうで得体の知れない「悪」や悪の放つ色々なものと一体になっている。

鬼との戦いには稲光が画面をいくつにも切る。
ゴジラの吐く光線みたいだ。

こういう「ヒーロー」のイメージが日本人の原風景にあるのだろうか。

しかし、強さを愛でるのと勇気を愛でるのを区別するのは容易ではない。

シモーヌ・ヴェイユのいうように「力を拝んではならない」、というのは難しい、とあらためて思う。
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by mariastella | 2016-10-20 10:56 | 雑感

センス オブ ワンダー

リスボンのサン・ジョルジェ城に上った時、あたりの地形との関係で、よくこんなに複雑な設計ができたなあ、と思った。

この石を一つ一つ運んではめ込んだのだなあ、と、その労力(または労力の搾取のシステム)にも、それを可能にする技術にも感心したのだ。

もちろんローマ帝国の土木技術や、中国やエジプトの歴史建造物もあるから、リスボンの城が特に奇跡の建築というわけではない。

でも、近頃、実際に足を運んでどこかの建築物を訪問している時に、その「すごさ」に感動することが多くなった。

「センス・オブ・ワンダー」というけれど、まさにそれだ。

よく子供はなんにでも素直に感動してセンス・オブ・ワンダーがあるが、年を取ると「すれて」きて感動が少なくなるという言い方があるけれど、私の場合はその反対だ。

子供のころは、自然の山だろうが、海だろうが、人工の要塞だろうが大建築だろうが、「そこにある」こと自体には驚かなかった。
当たり前に与えられていたからだ。
食べることも寝ることも排泄することにも驚かなかった。
いちいち驚いていては、生きるための様々なルールを覚える暇がない。

変な話、年を取ると、食べることも寝ることも、排泄することもすごいなあ、なんてすごいんだ、体の仕組み、生命の仕組みは・・・と毎回思っている。(私だけ?)

で、若い人たちが楽しそうに上っていく複雑な地形の城塞の階段も、「すごいなあ、誰がどうやって計算してどうやって造ったんだろう」とほとんどショックを受けながら上がることになる(私だけ?)。

そんな時に、放し飼いのクジャクが数羽出没した。

思わず写真を撮った。

みれば周りの人もみな写真を撮っている。すごい人気だ。

信仰やら権力欲やらいろいろなものに支えられて何世紀もの間そびえている堅固な城塞の中を、多分数年前に生まれて数年後には死ぬような鳥が闊歩する。
それは儚いのだけれど、無機的な石の積み上げの中を動くクジャクの有機的な「いのち」が、その場ではとても魅力的に見えるのだ。

人間は不死やら悠久を求めて、あらゆる意味で自分の身の丈をはるかに超える壮大なものを創ることができる。けれども、自分たちよりも弱々しそうな鳥が生きて動いていることにもさらなる驚異の念を抱くようにも、できているらしい。
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by mariastella | 2016-10-17 20:49 | 雑感

大統領選の言説

政治は、いや、政治における選挙運動というのは「言葉」に左右される。

「何をどう表現するか」がほとんどすべてで、一度権力や地位を得てから「何をどうするか」というのとは別の次元だ。

だからこそ、選挙活動における「言葉」の素材である「言語」の性質が大きくかかわってくる。

日本でこれほど英語を中心にした「外来語」があふれていて、外国のニュースや政治家の言説が逐一翻訳される時代なのに、「言語」の根っこから出てくる差は大きいとつくづく感じる。

先日クリントンとトランプの第一回目の討論を視聴したが、英語が聞き取りやすかったので驚いた。考えてみればこの番組はアメリカの津々浦々に流されるのだから、難しいことは言わないし、わかりやすいのは当然だろう。

大勢が同時に話すようなシーンでは神経発作のような症状をコントロールするのが難しい様子のクリントンも、一対一の対決では持ち前の「プロ政治家」のスキルのすべてを駆使して完璧にふるまっていた。

対するトランプは、馬鹿なことを言うたびに、政治事情や信条を抜きにした全くの第三者の目から見ると、不思議なことに嫌悪感を催させなかった。この人は、週末にバーベキュー・パーティでも仕切っていたら楽しいおじさんだろうなあと思う瞬間さえある。
しかし、「アメリカの大統領」としては「政治」的でなさすぎる。こわい。

先日フランスの保守陣営(共和党)の大統領候補選び(選挙は来年5月)の公開討議の第一回目があった。

前大統領サルコジを含む7人で、こちらの方は、それぞれ筋の通ったことを言っている。

フランスというのはアンリ4世の昔からの文化と教養の上意下達の伝統があるのだが、このグローバリズムとポピュリズムの21世紀になってもそれがまだ残っているということがこういうシーンで見えてくる。

彼らの「演説」や「所信表明」の構造は、知的でもあり、情動的なものも含めてその表現の仕方がフランス・バロック的な「再構成」になっている。

「難しそうな方がひょっとしてありがたいかも」というフランス風のエリート尊重の残滓が視聴者側の建前に残っているのをうかがわせる。

それにひきかえ、現職のオランド大統領は、今日ニースのテロの三ヶ月後の追悼のディスクールをしなくてはならないというのに、『大統領が言うべきことでないこと』というジャーナリストとのインタビュー本が出たところで、本音をいろいろ語り、特に司法への不信を語ったことで大スキャンダルになっている。

現職の大統領というのは「機能」「職能」を体現しているのだから、本音だとか人柄を垂れ流してはその後の職務に支障が出るのは当然なのに。
同時期に紹介されたオバマ大統領のロング・インタビューがちゃんと「大統領の視座」から語られたものなので、フランス人として恥ずかしい、と言う人もたくさんいる。

まあ、今のアメリカの大統領選を見ていると、どっちもどっちという感じがするけれど。
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by mariastella | 2016-10-15 17:09 | 雑感

テロリストの名前と顔

ここのところMJシリーズを書いていたら、他のいろいろなことの覚書が溜まってしまったので、これ以上溜まらないように少し書いておく。

いろいろあるのだけれど、特に今朝のラジオで聞いた「テロリストの名前と顔」の話が印象に残った。
先日のアメリカのテロのテロリストが逮捕されたニュースで、負傷したテロリストの顔と名前が何度も繰り返してテレビで流れた。指名手配用のいろいろな写真も。

そういうことを受けての話だ。

日本ではどうかわからないけれど、アメリカもフランスもここ一年ほどでテロが相次いでいるから、その度にテロリストの名前と顔が繰り返し繰り返し報道される。

それを受けて、そのようにテロリストに名と顔を与えるのは「非人間的なテロという行為」をしたという意味では非人間的であるテロリストを「人間的に表現することになる」からよくないのだという意見がある。

その理由は、ひとつが、名前と顔がセットになった「人間」として特定して喧伝することで、それが人々の記憶に残り、テロリスト側からすると「英雄」「殉教者」となるので、彼らの目的が果たされたことになるという。「知名度」が勲章となって、次の候補者を鼓舞するリスクもある。

もう一つは、テロの被害者にとって二次被害になるからだという。
「テロにやられた」というだけなら「災害」のような受け止め方も可能になるし、「罪を憎んで人を憎まず」のような立場に立つことも可能だけれど、テロリストを人間化してしまうと、「敵」に対する憎悪や恐怖が生れる、というのだ。

なるほど。

ではそうしないためにはどうすればいいのか。

この反対のことをしているのが、サルコジである。
彼は、テロリストは人間ではない、野蛮人であると言う(野蛮人のフランス語Barbareには「人」という言葉が入っていない。しかも外から侵入してくる異教徒という含意もある)。

だから、犯人に名と顔を与えて住まいや生い立ちなどを報道して「人間化」するのではなく、野蛮人1とか野蛮人2 とか呼べばいいという考え方だ。ナチスの収容所みたいだ。

で、ラジオでは、そのどちらにもしないために、

テロリストには、「名は報道せず、顔だけ報道しろ」というユニークな提案がなされていた。

「名を与えることで」文字通り「有名人」化させないてはいけない。

また名を与えることで「個別化」すると、「あいつは自分と違う」と人々は「悪人認定」して、その反動で「あいつとは別の名を持つ自分は正しい」側に入って自己正当化しまう。

でも、どこの誰かわからない「顔」だけ見ると、よく似た人はどこにでもいるものだし、服装や髪形や写真写りによっては同じ人でも別人のように見えることなど誰でも知っているから、テロリストはテレビを見ているこちら側の誰であってもおかしくない、と思える。
誰でも他人を攻撃する「加害者」になり得るのだ、被害者も加害者も人間なのだ、という視点が生れ、そこから「悪を殲滅」というのではない新たな対応が生れる。

これは思考実験みたいな話だけれど、フランスに住んでいるとすごく大切な話だと思った。

テロがある度に、心のどこかで、顔よりも名前を知りたいという気持ちが起こる。

そしてそれが「アラブ系の名前」であると、なんだかわからないけれど、「ああ、やっぱりイスラム過激派ね」と納得してしまう自分がいるのだ。
「顔」だけなら、毎日すれちがう人と変わらない。ケバブのサンドイッチを売ってくれるおじさんや、朝市でローストチキンを売ってくれる親子とも変わらない。ということは、彼らと共生している私自身とも変わらないのだ。

これは、日本なら、悪質な犯罪の容疑者が逮捕された時に、「顔」は「普通のアジア人」でどこにでもありそうでも、報道された名前が日本人の名前でないとか、帰化した人だとか聞くと「やっぱり悪は『外』にある」と納得だか安心だか分からない思考停止に落ちることがあるのかもしれない。

これを語ったのはRaphaël Enthovenで、彼の話にはいつも教えられる。

ジャン=リュック・マリオンの弟子でもあった哲学者だが、BHLの娘と結婚歴があったり、サルコジ現夫人のカルラ・ブルーニと父の後でカップルになったり、私生活は私の想像を絶するのだけれど、それは、また、別の話だ。
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by mariastella | 2016-09-21 18:54 | 雑感

パラリンピックのディスクール

パラリンピックの報道のされ方にいつもなんとなく違和感を抱いていた。

それを言うならオリンピックの報道にも満載の感動ストーリーやナショナリズムぶりにも違和感があるのだが、そちらについては割と簡単に表明できるのでフラストレーションがない。

「一切関心がない、」と切り捨てても別に非難されない。

でも、パラリンピックに関しては、なんとなくタブーがあって、違和感の正体を自分でも探れない部分があった。

ラジオで、「パラ」というネーミングが悪い、ギリシャ語のパラは、「副」というかサイドというか、本流ではない感じでよくない、という人がいた。思わず聞き耳を立てた。

「障碍者」のパフォーマンスは「本」オリンピックのアスリートよりもすごい、これは「パラ」ではなく、「超人オリンピック」と呼ぶべきだ、というのだった。

私の漠然と思っているのとちょっと違った。

夜のテレビニュースではパラリンピックの発祥地イギリスではパラリンピックのテレビ中継の数がフランスよりもずっと多い、アスリートのスポット映像もたくさんある、手話だけのコマーシャル(字幕が出る)も登場した、それに比べてフランスは意識が低い、みたいな感じでイギリスの映像がいろいろ紹介されていた。

あるアスリートが、競技場のトラックに立って、おもむろに義足を外す。そして片足ですごい勢いでぴょんぴょん跳ねて、高跳びのバーを超えるものがあった。

信じられない。

自分と比べるのも意味がないが、私が両足で走ってももちろんああいうパフォーマンスはできない。

パラリンピックの発祥が、障碍者のリハビリからきていること、他人との競争ではなくて、「自分の限界に挑戦してそれを超える」ところに意義があるのだ、「人間ってすごい」というところがその意義なのだとしたら、確かに超人オリンピックともいえる。

でもそれをやはり国別、選手別に競い合っているわけだから、かなり無理がある。

障碍の「現状」は似ていても、それが生まれつき、幼いころ、事故、病気、もともとのアスリートが事故にあった、など、いろいろなケースがあるだろうから、比べて競い合う方がそもそも無理だ。

新学期でトリオの練習を再開したので、仲間たちの意見を聞くと、もともと感受性が似ているうえ、長年アンサンブルを組んで三つ子のようにつながっているだけあって、みな私と同じような違和感を抱いていた。
でもみな少しずつ違う。

最大の違和感は、パラリンピックが「超人」というか、結局、「努力物語」はオリンピックと同じでも、違いは感動が「障碍者でも健常者を超えるパフォーマンスができるすごさ」とセットになっているところだ。

問題は、(例外的な)障碍者が(普通の)健常者を超えるすごさを認識させることではない。

世間には(普通の)障碍者が、普通の生活をするのにハンディとなるような仕組みがたくさんある。

バリアフリーになっていないことや視覚障害者や盲導犬のためのセキュリティの問題点など、数えればきりがないのに、それを見て見ぬふりをして、特別な能力のある障碍者のパフォーマンスばかりをはやしたてたりすることが我慢できない、と仲間の一人はいった。

もう一つは知的障碍者の存在だ。
パラリンピックでの「限界の挑戦」の感動は、結局、身体障碍者が身体障碍を乗り越えて「身体の強さ」を獲得し、「可能性」を広げる物語であって、知的障碍者の場所はない。
もっとも、ある種の発達障害(アスペルガーなど)の人が身体障碍も持つときは、規則正しい苦しい訓練に耐えるので、すばらしい結果に到達することがある。
「普通の人」なら苦しいといやになり、くじけて、プレッシャーにつぶされたり逃避したりあきらめたり絶望したりするところで、ある種の人は「空気を読まぬ」まま確固として努力を続けるからだ。

同じ才能があるならアスペルガーの人の方が遠いところにまで到達する可能性が大きい。
これは「当事者」と共に話し合ったものである。

私たちはパラリンピックにまつわるディスクールの中にある偽善や倒錯について話した。

もちろん個々のアスリートに対する批判などは一筋もない。驚嘆し尊敬するばかりだし、力ももらえる。

この乖離こそが、これを話題にすることの難しさを形成している。

個人的に言えば、脳梗塞などでいったん半身不随になった学者などが不屈の意思でリハビリして、指一本でキイボードを打ちながらすばらしい仕事を続ける、というようなケースの方が、感動し力づけられる。
頭さえはっきりしているなら、体がかなり弱っても、年をとっても、自分のできるだけのことをしたいと思うし、そういう風に過ごしている先人を見ると心から尊敬する。勇気や希望ももらえる。
多田 富雄さんのケースなどはその最たるものだった。

私にとってはパラリンピックで繰り広げられる超人の技から得られるものよりも強烈だ。

また、そういう「限界を超える」超人にはなれなくて、いったん倒れたらそのまま弱って亡くなった人、両親を含めて、そのような身近な多くの人からも、別の意味でいろいろな気づきをもらえる。
力以外の生き方、この世での生き方以外の生き方、などについてもだ。

人間は自分自身だけをとってみても、一生のいろいろな時点で心身状態が多様だし、周りの人もみんな「違う」のに、その「違い方」のとらえ方の恣意性になかなか気づかない。

私と縁のない「スポーツの祭典」のようなものが、そういうことを、考えさせてくれる。
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by mariastella | 2016-09-10 23:32 | 雑感

改宗と宣教の違い?

フランス語と日本語のニュアンスの差に愕然とすることが最近いくつかあった。

ひとつはカトリックに関する日本語のサイトで、エキュメニズムを批判している記事の中で日本のカトリック教会が他宗派や他宗教を招いて祭壇の前でみな並んで云々というのを批判している人のものだった。

他の宗教の人が祈りを捧げる時に十字架や聖体の前ではまずいだろうからと十字架を外したり聖体櫃の場所を移したり云々とというのはいかがなものかという話もあった。

パリの仏教のパゴダでよく行く諸宗教の平和の祈りなんかの行事では、どでかい金ぴかの仏像の前でイスラムもユダヤもキリスト教も平気でパフォーマンスをしているのを見ても誰も何も思っていなかったけれど…。

で、カトリックは他の宗派をリスペクトするあまり、自分の教会で何かをする時に遠慮しすぎている、とかいう文脈で、何しろ「改宗は教会法で禁じられているから」とあった。
まあ教会法の前後を読めば、禁止されているのは「改宗の強制」「強制的な改宗」だと分かるし、それには、帝国主義の歴史の中で、カトリック教会が行ってきた強制改宗の歴史などを反省してという文脈も分かるのだけれど。

それにしても「改宗が教会法で禁止」って、「宣教しても改宗させるな」ということだと誤解を招くのではという人がいるわけだ。

この話は2009年8月のマニラでのアジア司教協議会総会というところで教皇名代のアリンゼ枢機卿が「福音宣教は即改宗を意味しない」ことを強調した、と日本の司ある司教が報告して「改宗させることは教会法でも禁じられているという。」と書かれたことへのリアクションらしい。

実際に枢機卿が述べたのは、

 Papal delegate Cardinal Francis Arinze opened an assembly of Asian bishops in Manila, stressing the Eucharist's transforming power, and emphasising evangelisation rather than "proselytism, which is forbidden by canon law."
だそうで、

Proselytism, on the other hand "seeks to influence people to embrace a certain
religion by means that exploit their weak position or put some other pressure on
them," he said.

ということだ。

で、問題となる「教会法748」というのは

「すべての人は、神及びその教会に関する事柄の真理を探究する義務を有する。かつ、認識した真理を受け入れ、保持する神法上の義務及び権利を有する。なんびとも、他者の良心に反して、カトリック信仰を強制することは許されない。」

というもので、要するに「信教の自由」という基本的人権思想にのっとったものだ。
キリスト教が最初は迫害されてきて、後にローマ帝国の国教となるなど政治と結びついた時点から迫害する方に回ってきて、などという歴史の末に、たどりついたものだ。
そういう歴史を背負っていない宗教がメインの文化圏では、近代理念としての「信教の自由」を言われても受け止められ方の実際はわからない。

で、この「改宗」のproselytismはフランス語では「prosélytisme」。

Prosélyteはギリシャ語では新参者という意味だったけれどラテン語のproselytusになると改宗者ということになる。

(マタイによる福音書/ 23, 15
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 )など。

これも文脈から見ると、強引に教義を押しつけるという感じである。

20世紀末からは完全に「カルトの勧誘」に使われて、ネガティヴな意味になった。

だから私などはフランス語でプロゼリティスムと聞くと、「カルト宗教の勧誘」くらいしか連想しない。

「正しい宗教」「老舗の宗教」は勧誘しないし、してはいけない、みたいな感じだ。

アメリカの教会が米軍を通じてアフガニスタンで大量に聖書を配ったり、リビアのカダフィがイタリアで聖書を配って「イスラムは全ヨーロッパの宗教にならなくてはいけない〉と言ったりしたのはプロゼリティスムだと言われる。
「強制的」というより「しつこい勧誘」というイメージだ。

でもフランスのカルト規制法などで言われるカルトの勧誘のプロゼリティスムは、基本的に弱者への勧誘を指す。キリスト教だろうが何だろうが、学校、病院、高齢者施設の中や近隣での勧誘は禁じられている。未成年や心身が弱っている人には「入信」への自由意思を行使できる能力が十全ではないとみなされるからだ。

大地震などの被災地に援助とともに布教する団体もたくさんあるし、日本でも新興宗教や新宗教と呼ばれるものが、共同体から疎外された人や社会的な不全感をもって悩んでいる人などにターゲットを絞って、(中には保育所という枠を使ってまで)「布教」「勧誘」がされることが多かった。
マーケッティング戦略としては当然かもしれない。

老舗宗教は代々の信者がいるのでそういう必要がないともいえる。

カトリックはヨーロッパの老舗宗教だが、民族宗教ではなく普遍宗教で、地縁血縁も関係なくすべての人を救う、ということになっている。
もともとヨーロッパに広まったのも、先住のギリシャ・ラテン人やケルト人のいたところに「移動」してきた「異教徒」のゲルマン人が勢力拡大戦争を通して「統合」のために採用したものだから、その後の覇権主義とも相性がよかった。
内部で分裂して大規模移民や内戦を繰り返してきたので、まあそれらの「経験資産」が豊かで、それを本当の意味で「普遍的な救い」に結びつけるように進化するだけの知性もあったということなのだろう。

だから教会法の言葉はその智慧の結集だとも見える。

まあ「信教の自由」にまつわる「良心」に反してとか「良心に従って」とかいう「良心」という言葉自体がまた大問題で、キリスト教的な特殊な含意なしには考えられないのだけれど。
 
ともかくそんな「プロゼリティスム」がただ「改宗」と訳されると、確かに変だ。

改宗という日本語をフランス語にしたらむしろconversion(回心)だ。それは「人からの勧誘」というより「神からの呼びかけ」とか「聖霊の働き」によって改宗するというイメージだろう。

日本語でも、「布教」という言葉はやめて「宣教」になったそうだが、布教だと無理やり広めるニュアンス、「宣教」だと福音を勝手に宣言するだけだから矯正するわけではないですよ、という感じなのかもしれない。

それでなくとも日本のカトリックは、信徒の世話をするという感じで積極的に外に出ていかない、ということで、宣教師だったネラン神父が新宿にバーを開いてマジョリティの日本人である「サラリーマン」のそばに行くと決心したエピソードは有名だ。別にバーで「プロゼリティスム」をするわけではなく、福音を生きる生き方を見せることで分かち合おうという形だった。

ともかく、ここ30年くらいのフランス語の「プロゼリティスム」は完全にネガティヴな言葉だ。何でもかんでも自分の主張を押し付ける人に対しても普通に使われる。

特に、21世紀に入ってからは、またここ最近は「イスラム国」がウェブを通して若者を煽って「改宗」させたり「回心」させるし、実際に勧誘したりすることと結びついてしまったので、「プロゼリティスム」の「悪」はすっかり広まってしまった。

だから、今や、帝国主義の歴史云々の前に、「カトリックはプロゼリティスムはしない」というのは、「カトリックはカルト宗教ではありませんよ」というほとんどアイデンティティにかかわるニュアンスをもっている。

こういうフランスをはじめとするキリスト教文化圏では共有されている含意が、日本語に訳されるとかなり微妙になるんだなあと思うと、宗教に関する言葉の難しさを改めて考えさせられる。

(他の言葉についてはまたそのうち書きます。)
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by mariastella | 2016-09-02 17:27 | 雑感

ポケモンGO とカトリックの話

今朝のラジオで、誰が書いたのか聞き逃したけれど、おもしろい記事のことが紹介されていた。

フランスでも人気のスマホアプリ「ポケモンGO」に関してだ。
このアプリはスマホ画面を通して見る現実の場所の中にポケモンが登場するのをキャッチするというもので、公園などいろいろなところに人々がスマホを眺めながらおしかけるということで問題にもなっている。

リアルの世界にアニメのキャラクターが登場するといういわゆる「拡張現実」(Augmented Realit)というやつだ。

で、この現象を評した誰かが

「神、人はそれを信じる。

ポケモン、人はそれを見る。

幻想(イリュージョン)は信仰よりも強し」

と言ったのだ。

キリスト教は、名もなく姿も見えない一神教の神に、受肉した「子なる神イエス・キリスト」という姿を通して可視化したけれど、そのイエスも二千年前に昇天したので今は見えない。

それで、人々はせっせと、イエスの生まれた時から十字架で死んで復活して昇天するまでの姿を描いたり彫ったりしてきて拝んでいる。
見えるものそのものを拝むのは偶像崇拝だから、図像は信仰の手助けにするためにあるはずだけれど、
「リアルに見えないもの」を信じるというのはそれでも難しかったらしく、昔から、幻視者、見神者、神秘家というのがいて、リアルのイエスや聖人や聖母マリアの「ご出現」をたりお告げを聞いたりする話はことかかない。

考えてみたら、「ご出現」ってまさに拡張現実だよなあ。

深夜のチャペルに呼び出されると椅子に座っている聖母に出会うカタリナ・ラブレー、誰にも何も見えないルルドの洞窟に聖母マリアが現れるのを見て感激するベルナデット、彼女らは神秘のアプリをダウンロードしていたのだろうか。

スイスの国境から遠くないフランスのベルガルドの教区司祭は、多くの教会の前庭がポケモン探しのポイントになっている(ベルガルドの場合がまさにそう)ことを『ラ・クロワ(カトリックの日刊紙)』の記事で読んだ後で、このチャンスを逃す手はないと決心して 教会の扉に貼り紙をした。

「教会の前にようこそ ! ポケモンをさがしに来たんだね。
でも、知ってるかい ? この教会の中には、
君のことをさがして君を待ってるどなたかがいるんだよ。」

というものだ。拡散OK と言っている。

「君を待っている」のが「まさかピカチュウじゃないでしょうね?」とジョークで返した教区の信徒もいたが、これからの巡礼地はもう「スタンプラリー」なんかじゃなくて、要所要所に聖母や聖人や天使なんかが拡張現実で出現するアプリなど開発される日が遠くないかもしれない。

私はスマホさえ持っていないしオンラインゲームとも無縁だけれど、先日、うちのダイニングルームで一緒に席についていた若者が、テーブルの上にポケモンを発見してキャッチしてそのやり方を見せてくれた。

えっ、うちの食卓の上にもポケモンって出てくるのか、と驚いた

それならきっと目に見えないありがたいものだってすぐそばに漂っている気がしないでもないけれど、「心の目」のアプリがないと見えないのだろう。

拡張現実の地平を通して信仰を養える人って、うらやましい。
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by mariastella | 2016-08-27 00:07 | 雑感

オリンピックと日本とフランス

リオのオリンピックが終わった。

スポーツ観戦はしていないけれど、日仏の毎日のニュースをネットでチェックしているので、この期間はいやでもオリンピックに関するものが目に入っていた。

日本の記事とフランスの記事で、時には、これが同じ大会の同じ日のことなのかと思うくらいの差がある。

いわゆる「メダル争い」で日本とフランスはいつも近いところで前後していたけれど、得意種目が全然違う。

日本とフランスが重なるのは柔道と水泳くらいで、体操、レスリングはフランスのニュースにはほとんどならないし、フランスのメダルは射撃、フェンシング、馬術、ボクシング、カヌーとフランス国内ですらマイナーなものが多い。

この「重ならない」様子を見ていると、やはり「国民性」ってあるのかなあと思う。

フランスの「強い」系スポーツは柔道もボクシングも、前にも書いたけれどやはり「海外県」にルーツを持つ黒人選手が目立つ。

アメリカ大陸の黒人選手は、労働力として売買された出発点でそもそも大きくて強くて丈夫な人が選抜され、それに加えて、過酷な船旅や過酷な労働を生き抜いた人たちの子孫だとしたら、もう最初から、遺伝的強者であることは間違いない。
彼らを抜きにしたら、アメリカのメダルやフランスのメダリストは半減するのではないだろうか。

1968年のメキシコ・シティー大会の表彰式でアメリカの黒人選手が人種差別に対する抗議行動を行なって問題になったように、人種差別とスポーツの関係は可視化されていないとは言えない。

メダル数にはもちろん人口の多寡も関係するし、スポーツの施設や訓練に関するインフラを充実させることのできる経済力も関係する。
すべてを考慮してもアメリカが一位というのは納得できる。

中国は人口も多く国土が広いからすでに多様な才能が調達できるとしても、黒人選手が見当たらない(たぶんいわゆるハーフの選手も見当たらない)のはすごいと思うが、これは「国策」の一部なのだろうか。

イギリスがこれだけ強いのは、大英帝国由来のダイバーシティの厚みと、サッカー、ラグビー、ゴルフなど多くのスポーツの発祥地であるようにスポーツが「エリート」の条件に組み込まれている伝統と関係があるのだろうか。

ドイツは、なんだか「ゲルマン民族」ってもともと強そうだよなー、と思ってしまう。
遺伝的に恵まれていて、「強くなること」を称揚する伝統があり、しかも規律正しいお国柄、経済力もある。

フランスは「海外県」出身の人の強みを別にすると、全部中途半端。
夜の街にしか出没しないエリートたちとか、享楽的なお国柄とか、誇り高い自虐趣味とか。

日本が「強い」ことに関しては、うまく距離感がとれないのでどうしてなのか分からない。
精神論やら親子代々にわたる悲願エピソードみたいなのは個人的に苦手な上に「根性もの」とは縁がないので。

それでも「必死にがんばった」若者たちが勝って泣いたり敗れて泣いたりするのを見ると所属国と関係なくもらい泣きしてしまえる単純な私は変わらない。

練習における工夫や進歩やチームワークについては、アンサンブルで楽器を弾く身にはいつも参考になることがある。

2012年のオリンピック招致にパリがロンドンに負けた時、パリはあまりにも「パリは世界で一番素敵な街」と言い過ぎた、今度はちゃんとオリンピック施設などに特化してチャレンジする、とパリは2024年のオリンピックに立候補している。順番から言うと選ばれる確率は大きい。

今のオリンピック自体にはいろいろ問題があると思っているのだけれど、もし東京、パリと続くのなら、日仏ウォッチャーとして両方を比べて見てみたい好奇心はある。後8年は長生きしなくては。

(この前の記事で、wordが開けないと書きましたが、午後バカンスから帰ってきたトリオの仲間に電話できいて、文書を別のpcに移すことだけはできました。このpcのwordは返還が遅いのですが、ともかく仕事は再開できそうです。もうひとつのpcは、Windows10へのアップグレードをずっと拒否し続けてきたのに、ある日勝手に、こちらの同意なくアップグレードされたのです。word2013が開けなくなったのはそれと関係しているようですが、プロダクトキーだとかよくわからないので、あさって仲間がうちに来てくれると言っていました。
ピアノの教え子でこういうことが専門の青年にメールしたら、今ギリシャにいるけれど電話で助けられるかもしれない、と返事が来ました。みんな親切です。感謝。)
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by mariastella | 2016-08-23 05:58 | 雑感

リオ五輪の柔道とダヴィッド・ドゥィエ

前にサッカーのユーロ杯のことをいろいろ書いたので、リオ五輪のことも少し書いてみようと思い立つ。
 
柔道のことだ。

フランスの100キロ超級の柔道チャンピオンであるテディ・リネールが無敗記録を延ばしながら五輪2度目の金メダルを獲得した翌朝、同じ階級の五輪でやはり2冠のダヴィッド・ドゥイエがラジオでインタビューを受けているのを聞いて、文化の違いをいろいろ感じた。

オリンピックの柔道の重量級(というか昔は無差別級 ?)と言えば、私は東京五輪の決勝でオランダのヘーシンクが日本選手を破ったショックを体験した世代だ。

このおかげで自由同は国際スポーツとして定着したという説もある。

フランスに住むようになって、オリンピック観戦ではフランスもひいきチームになった。
フランスではやけに柔道が人気で、強いことにも驚いた。

公立の柔道教室もたくさんあって裾野が広い。道具もほとんどいらないからあらゆる階層の子供がやってくる。

オリンピックの柔道で日本選手とフランス選手が決勝を争うことも少なくないけれど、そういう時は、やはり「お家芸」というのが刷り込まれているので日本選手を応援する。

だから、アトランタ五輪でダヴィド・ドゥイエが重量級を制した後のシドニーで、日本の篠原選手に勝ってフランスで英雄視されたことや、その後で誤審が認められたけれどメダルはそのままという話などは微妙に不愉快だった。

今回の優勝者のリネールも、ロンドン五輪では決勝が日本人とではなく二度目のリオでは日本人と対戦ということで、なんだかドゥィエのケースを思い出した。

しかしリネールは確かに圧倒的に強い。
宇宙人とか言われている。

で、まあ順調に勝ったわけだけれど、それについてドゥイエが解説していて、その明晰さに驚いた。

ドゥィエはリネールが肉体的に恵まれていてテクニックもスピードもあることに加えて、戦略的に非常に知的であることを指摘したのだが、その論の展開には説得力があった。

ドゥィエは議員になったりスポーツ相になったりと、彼の知名度や国民的人気を利用しようという政党に取り込まれているだけの人かとなんとなく思っていたけれど、頭がよく、それを言語化できる。

考えてみると、対戦相手と実際にやり取りするタイプのスポーツというのは、単に練習して自分の記録を高めるとか力をつけるだけでなんとかなるスポーツではない。

一流である相手と戦って、臨機応変に戦術を変える必要がある。

しかも、今の柔道は、一本をとれば終りだけれど、そうでなければ制限時間を意識して、攻防をどう配分して優勢を維持するかを考えなくてはいけない。相撲とはちがう。

私のあまりにもかけ離れた経験に引きつけて考えても、例えば楽器をたった一人で練習している時はただただ難所を繰り返してミスを減らすことに集中しても、アンサンブルで弾く時は仲間の調子やアクシデントにもそなえなくてはいけないし、聴衆がいる時は聴衆の雰囲気にも合わせていっしょに何かを作っていくという工夫も入り、クリエーションがどんどん複雑になるのと似ている。

「自分との闘い」に近いスポーツではどんなに努力しても、「努力の方向」というのは大体決まってくる。
だからこそ端的に筋力アップするためにドーピングする人も出てくる。

けれども直接の対戦相手がいるタイプのスポーツではドーピングはあまり意味がない。
自転車競技とか水泳とかトラック競技とか、重量上げなどとは根本的に違う。

もちろんどんなスポーツでもいろいろな戦略やメンタルは大事だろうけれど、ドゥィエの話を聞いていると柔道には独特の知性が必要な気がしてくる。

でも日本人を見ていると、文化的に、言語的にも、「大きく強い者は多くを語らず」という感じがある。
朴訥なお相撲さんのイメージというか。優れた知性の持ち主でもそれを言語化して感心されることはめったにない。
「結果を見てください」というのが高潔な姿という伝統を感じさせる。

サッカーの時と同じで、オリンピックも、選手のパフォーマンスだの勝敗をめぐる言説を観察し、その変遷を見ていると興味深い。

ここ何回かのオリンピックは、ウェブ上で日本とフランスの両方のリアクションを同時に知ることができるからなおさらだ。

スポーツ観戦好きだった母のことを思い出す。

2020年が東京で、2024年がパリの五輪になれば、国民性の比較はますますおもしろくなるだろう。
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by mariastella | 2016-08-14 00:12 | 雑感

プラシド・ドミンゴ

オランジュ音楽祭の『椿姫』の中継を聴いているところ。

解説はナタリー・ドゥセで、彼女の多才ぶりに感慨を覚える。

プラシド・ドミンゴがバリトンでジェルモン役を歌うこともあって、ドミンゴのドキュメンタリー・フィルムが先に放映された。

彼が子供の時から両親のスペインオペラの一座で歌っていたように、息子も彼のオペラに子役として出演して歌っていたシーンもあった。

息子もインタビューを受けていたが、75歳になる父親のオーラやエネルギー、覇気は感じられない。

この息子が確か、サイエントロジーに20年間いてから離れハラスメントを受けたという人だ。
このような「偉大な親」は、世界中のファンと共有しなくてはならない。
大変だっただろう。

指揮をするシーンもあり、彼の指揮には発声もメロディも全部ある、自分もまるで彼の声を通して歌っているようだ、と彼の始めたオペラリア(歌手のコンクール)でデビューした歌手が言っていた。

ドミンゴ本人は、指揮をしていると、古代ローマで八頭立ての戦車に乗って両手に4頭ずつの手綱をもって疾走しているようだ、というようなことを言う。

ドキュメンタリーの中でドミンゴのことを「オペラ界のバルザック」と評した人がいたのが印象的だった。

talent dirigé par le maître

volcan de générogité

という形容も。

gratuité(無償性) とgénérogité は一番いい意味で似ている。

でも、どんなにgénéreux(寛大に、気前よく)にgrâceを聴衆と分けあっても、
ベースにあるtalent(才能)があって、それを指揮する腕前がないと劇場アートは成立しない。
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by mariastella | 2016-08-04 06:20 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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