L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 320 )

ウィーンの話 番外 バロック教会

妖しさをあまり感じさせないウィーンのバロック教会。

しいて言えば、パリのバロック教会と似ている。


カールス教会と同時代なら一区のサン・ロック教会あたりだし、四区のサン・ポール・サン・ルイ教会とか、六区のサン・シュルピスあたりもバロックっぽい。

ただ、教会はたとえ宗教戦争がおさまった17世紀前半のバロック期に建設が始まったものでも、完成には時間がかかるし、その上、フランス革命によっていったんカトリック教会が閉鎖されたり略奪されたり、壊されたり、転用されたりした後で、再建されたり改築されたり増築されたりと19世紀末までの複合的なスタイルになったりしている。


フランス・バロックの頂点の時代は絶対王権の頂点でもあった。王たちが一応自分たち一族の繁栄や自分の死後の救いなどは考えて立派な聖遺物容れを作らせたり、立派な聖堂を造ったり、自分たちの冠婚葬祭を立派にするために宗教の演出に予算を惜しまなかったりしたのも、本音でもあり、事実だろう。


ただ、彼らの求めたバロックの過剰さには、意外とシンプルなものがある。金ぴかで精巧で贅を尽くしているというのは確かだけれど、どこかに余裕があって、「切羽詰まったもの」がない。バロック時代、ルイ王朝の敵は周りを囲むハプスブルク家だけだった。ハプスブルクもカトリックだ。

だから、「カトリックかどうか」で張り合う必要はない。

ハプスブルクも神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねていたし(他の選挙候もいるが)、ルイ王朝も王権神授で歴代の王は聖油を注がれ奇跡の治癒までやっていたから、どちらも、ローマ教皇に対して張り合うというよりただ「自分と自分の子孫の救いファースト」で神さまに金をつぎ込んでいた。


つまり、プロテスタントに対抗してのバロックという戦略も虚勢はない。

それに対して、例えばプラハのバロック教会は、プロテスタントのメンタリティが根付いた地域が、無理やりハプスブルク家に組み伏せられたものだから、ハプスブルク家ににらまれないためのアリバイとしてしっかりカトリックの信仰を強調しなければならなかった。


だから、見せバロック。

とにかく豪華絢爛のバロック。


そこに欺瞞とルサンチマンをいっしょくたにしたような、開き直ったような、ただただ微に入り細に入りアートを追求したような、いろいろな職人の意地を塗りこめたような、バロック。

それだけではない。


ウィーンやパリではフリーメイスンやバラ十字団が吸収していたような「秘教趣味」を、サロンや宮廷で堂々と展開できるのか、教会の中に潜めるのかという複雑なニュアンスもある。

モーツアルトはもちろんプラハのフリーメイスンロッジにも出入りしていたけれど、パリやウィーンとは、カトリック教会との関係が微妙に違う。

ババリアのイルミナティとカトリックとの関係もまた違う。


パリやウィーンのバロック教会と、プラハやババリアのバロック教会の空気の違いにはそれが関係しているというのが私の仮説だが、これからいろいろ検証していくつもり。


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by mariastella | 2017-09-01 03:12 | 宗教

フランシスコ教皇と精神分析

ローマ教皇フランシスコが、フランスの社会学者でコミュニケーションやメディア学が専門のドミニク・ヴォルトンに10回以上のインタビューに答えた『政治と社会』という本が出版された。

カトリックのヒエラルキーの頂点にいる人たちのインタビューというのはなぜかいつも無防備で誠実だ。彼らには、地上で失うものはもう何もないのかもしれない。

で、カトリックはじめてのヨーロッパ大陸以外からの出身のこの教皇、普段から率直でユーモアもあるのは知っていたが、意外なことがいくつかあった。

まず、教皇が外国訪問から帰る時の機内の記者会見について。

このブログでも、
こことか
こことか
ここ
などで書いているように、むしろ、機内では自由な本音が聞けるのかという印象を持ってていたが、実際は、機内でジャーナリストに囲まれるときはライオンの檻に投げ込まれたような気がする、のだそうだ。映像を見るといつも通り自然体でリラックスしているように見えるのに。

確かに、機内では、絶対に逃げられない、これで終わりにします、といって奥に下がることもできない。

ローマ教皇になったことについても、まさか自分がバチカンという檻の中で一生を終えることになるなどと思ってもいなかった。でも、内的には自由のままでいる、と言う。

飛行機も檻、バチカンも檻。

気の毒だ。

気の毒と言えば、42歳で精神分析にかかったことがあるという話も出てきた。
自分の中ではっきりさせたいことがあったからだと。

教皇が42歳と言えば、1979年あたり。

1973年に36歳の若さでイエズス会のアルゼンチン管区長に任命されたことの重圧の他に、1976年から1983年の軍事独裁政権があった。イエズス会士にもコミュニストとと共闘する者が現れ、「解放の神学」がローマから批判された時代だ。
この時代の中南米におけるカトリック教会と解放の神学とコミュニズムの関係の変遷については、今執筆中の「神、金、革命」(仮題)にくわしく書いた。

この時代に、後にブエノスアイレスの大司教となり教皇にまでなるベルゴリオ神父は、独裁政権に迎合したと言われたり、いや、レジスタンスの立場にいたと言われたり、解放の神学に対しての姿勢の曖昧さを問われたりと、なかなか微妙なスタンスにいた。時の教皇に絶対服従のイエズス会士の立場を貫くのか、軍事独裁政権によって抑圧されている弱者の側につくべきなのか、さぞや迷いがあっただろうと思われる。

ちょうどその時期に、精神分析を受けたというのだ。

自分の中ではっきりさせたいことがあった、からだと。


神は答えをくれなかったのだろうか。


いや、神がどのように何を通して答えをくれるのかなんて、人間の想像力を超えているのだろう。


現役のローマ教皇が、宗教や救いというテーマでなく、ずばり政治と社会をテーマに語る。

全部読んでからまたコメントすることになるだろう。




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by mariastella | 2017-08-31 05:44 | 宗教

ウィーンの話 その11 聖アンナ教会

ウィーンのバロック教会、次は聖アンナ教会。

そのすぐ近くにマルタ騎士団教会もある。
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こういうの。マルタ十字架が印象的だ。19世紀初頭のもの。私の滞在したホテル(アンバサダー)の向かいにある。

で、そのすぐ先に聖アンナ(聖母マリアのおかあさん。教育熱心でマリアに読み書きを教えたのでマリアは本好きの女の子になり、天使に受胎告知された時も本を読んでいて、幼子イエスを寝かしつけている時も本を読んでいて、抱っこしている時も本を読んでいる、という図柄がたくさんある)教会。

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バロック時代(1629-1634)に後期ゴシックから改装したというから、確かにバロックの意匠なのだけれど、カールス教会と同じように、形はあるけど濃密さが今一つ伝わらない。
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聖アンナ教会だから、聖アンナが聖母マリアと幼子イエスの両方を抱いている像もある。

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これはイコン風。聖アンナが幼いマリアを抱いている。マリアはちゃんと本(祈祷書?)を持っている。のちに被昇天して「戴冠」したのでもう冠を被っている。

クラリス会、イエズス会、聖アンナ信心会、芸術アカデミーと転々として、今はある修道会が運営してちゃんと毎日ミサがあるそうだ。
何度も修復されている。

なんというか、濃い巡礼地の聖堂などと違って、訪れる人のサイコエネルギーがたまる暇がないのか、「妖気」っぽいものが感じられない。コンサートはいろいろある。(続く)



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by mariastella | 2017-08-27 02:03 | 宗教

ウィーンの話 その10 カールス教会

楽友協会から丸屋根が見えていたカールス教会はバロック時代の教会だ。
ドームに見事なフレスコ画があって、エレベーターでかなり上まで昇り、さらに階段で天井のすぐ近くまで行ける。外の塔に上るというのはよくあるけれど教会の真ん中の空間を上っていくのは…天にも昇る気持ち?

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この鉄骨の骨組みがエレベーター。フレスコ画修復のための足場をそのまま残しているのだろうか。

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こんな迫力で見えてくる。

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おお、ついに天国に到着。

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バロック教会独特の演劇的祭壇。


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一番上には聖霊の白鳩が舞う。

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この聖母子像はなかなかいい。

うーん、でも、ウィーンのバロック教会って、なんだか、違う。

ラテンアメリカのバロック教会はもちろん、地理的に近いババリアのバロックやプラハのバロックとも雰囲気が違う。

さらに別のところへ行ってみよう。(続く)






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by mariastella | 2017-08-26 02:20 | 宗教

バルセロナのテロとサグラダファミリア

バルセロナの中心街に軽トラックが突っ込んだ時は、またニースのような間に合わせのテロかと思ったが、計画的にパリの同時多発テロと同じ種類の弾薬を多量に周到に用意していたらしいことが分かってきた。それが誤って爆発して死者まで出して、絶望したテロリストが車で突っ込んだのだという。

まだバカンス中で、多くのフランス人がバルセロナにいて、実際30ヵ国以上の国籍の死者や怪我人の四分の一はフランス人ということで「世界にこれまでバルセロナに行ったことがないという人なんているでしょうか」などと口走ったレポーターもいたが、それほどショックを受けたということらしい。

そしてサグラダファミリア聖堂が、シンボルとして何度も出てきた。

今回のテロで何度もカタルーニャ警察が、カタルーニャ政府が、と発表されて、スペイン警察とかスペイン政府がとか言われなかったので、あらためて、バルセロナ人にとってバルセロナはまずカタルーニャなのだということを思い出した。

私が最後にサグラダファミリアに行ったのは2003年の秋だ。もう10年以上も前になる。その時もじっくり見て回ったのはバルセロナのカテドラルの方だった。見どころがたくさんあるすばらしい聖堂だ。

で、サグラダファミリアでは、その近くにいた数人の地元の人にインタビューしてみたら、彼らは全員、サグラダファミリアこそがカタルーニャのシンボルだ、というのだった。「あの立派なカテドラルは?」とたずねると、「あれはローマのものだから」と答える。

驚いた。

パリのノートルダム大聖堂を「ローマのものだ」という人なんてみたことがない。


確かに、サグラダファミリアは、ある信心会(特に聖母の夫である聖ヨセフへの崇敬がもととなっている)のイニシアティヴで建設が決まって、そこにガウディがからんで、バチカンから一銭の援助もなく、個人の寄付と毎年400万人と言われる見学者の入場料だけで建設が続けられているという。

サグラダファミリアが、バチカンから、ベネディクト16世によってバジリカ聖堂という称号を得て祝別されたのは、私が最後に訪ねた後の2010年のことだ。(当時このブログにも記事を載せている。ガウディ列福の可能性のことも。ガウディは復活祭の四旬節の断食で死にかけたこともあり、晩年は隠修士のように暮らした熱烈な信仰者だったらしい。)

バルセロナのカテドラルとサグラダファミリアの関係は、一見、パリのノートルダムとサクレクールの関係に似ている。

ノートルダムは司教座聖堂のカテドラルで中世からの由緒あるゴシック教会だ。


サクレクールは、1870年の普仏戦争に負けたフランスで、その敗北は政治のせいでなくてフランス人の霊性が失われたからだという人たちが出てきて、贖罪のためにイエスの聖心に捧げる大聖堂の建設を計画してできた。1872年にパリの大司教がそれを許可し、翌年、ローマ教皇も合意して少し資金を送り、後に国民議会で公共の有用性があると認められてゴーサインが出た。代々の大司教がサクレクールの法律上の所有者とみなされることも決定された。

その後、第一次大戦のせいもあって、サクレクールがバジリカ聖堂として教皇代理から祝別されたのは1919年のことだ。(ここでバジリカというのは、教区を持たない教会で、聖地、巡礼地として認められるということだ。ちなみに、祝別時に納められた聖遺物はもちろん昇天したイエスの心臓ではなく、殉教者ピウス、デメトリウス、パシフィクスらの遺骨がローマからもたらされたようだ。)

バルセロナの事情は正確には分からないが、パリからの類推だと、では、2010年まサグラダファミリアは、巡礼地ではなく、プライヴェートな聖堂で「観光地」だったのだろうか。でも、2010年にわざわざローマから教皇が来て祝別したということは、あの、「これこそがカタルーニャの教会」、と誇らしげに言っていた人たちにとって、なんだか、「ローマに組み込まれた」ような印象を与えなかったのだろうか。

その辺の事情をもっと調べてみたい。(ローマ教皇から祝別された時の「聖遺物」は何だったのだろう。)

で、今回のテロのすぐ後で、まず、金曜日にバルセロナのカテドラルで大司教による犠牲者追悼のミサがあった。こういう時はやはりカテドラルなんだなあと思って聞いていたら、日曜にはサグラダファミリアで追悼ミサがあり、そこには国王夫妻や政治家、外交官も列席した。ミサを司式したのは、カテドラルの主である大司教だ。

このテロが2010年より前に起こったものだったなら、あるいはサグラダファミリアが今まだバジリカ教会だと認められていなかったのならどうなっていたのだろう。


また、国王夫妻が来ることで、この悲劇がカタルーニャの悲劇でなくスペインの悲劇という感じになることをカタルーニャの人はどう思ったのだろう。


バルセロナとマドリードのライバル関係も半端ではないし。


いや、観光産業が大切なこの町で多くの国の観光客が犠牲になったのだから、カタルーニャというより「国際社会」向けのメッセージが大切で、そのためにはローマ・カトリック色の強いカテドラルよりもモダニズムのシンボルであるサグラダファミリアがぴったりだとみな納得したのだろうか。


同じ日曜日の夕方、パリではカテドラルであるノートルダム大聖堂で犠牲者追悼のミサがあげられた。フランスでは、1905年の政教分離法以降、ノートルダム大聖堂の所有者はカトリック教会ではなくフランス共和国である。

今回のテロリストたちには、実は、サグラダファミリアを爆破しようという計画があったと言われている。スペイン有数の観光地を狙うという意味と宗教施設を狙うという意味で相乗効果を期待していたのかもしれない。

肥大を重ね、完成が2026年とかで、いろいろな問題も取りざたされているサグラダファミリアだけれど、今回、「テロの現場」とはならずに「追悼の場所」となり得たことで、ガウディの思いや「聖家族」のご加護に思いを馳せた人たちも、カタルーニャにはきっといるにちがいない。


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by mariastella | 2017-08-21 06:28 | 宗教

ウィーンの話 その6 シュテファン大聖堂の地下墳墓

シュテファン大聖堂の地下墓地は、ガイド(英語とドイツ語)付きの有料スペースだ。

司教霊廟は代々のウィーンの大司教と枢機卿が埋葬されている。
次にハプスブルク家の初期の大公霊廟。その後に、ずらりと並ぶ銅の壺はのハプスブルク家の人々の内臓が納められている。心臓は銀の壺の中で王宮のそばのアウグスティーナ教会の地下に安置され、遺体は棺に入れられてカプチーナ教会の皇帝霊廟に安置された。

私の関心はもちろんナポレオン二世だ。ハプスブルク家的には、「ライヒシュタット公爵」だが、棺にだけは、ローマ王として生まれ、三歳で半月間フランス皇帝ナポレオン二世になったことが記されていた。その棺はハプスブルク家を嫌うヒトラーによってフランスに移されたが、心臓と内臓はウィーンに残っている(『ナポレオンと神』(青土社)にいろいろ書いています)。

でも、内臓はヒエラルキーが低すぎるのか、壺も地味で、どれがナポレオン二世のものか私には分からなかった。

その後、墓石や彫像の展示場所を経て、聖堂参事員たち(聖職者)の埋葬場所を過ぎると、18世紀に付け加えられた公共墓地につながっている。部屋が冠でいっぱいになると壁でふさがれ、40年間で1000人が埋められたが、圧巻はペスト墓地で、ペスト流行の時に穴に投げ込まれた遺体の骨が折り重なって積まれている。1783年に閉鎖された後うっちゃられているのがそのままのぞけるので、何だか、まだ、伝染病がうつるんじゃないかと思うくらいにリアルだ。

パリのカタコンブよりも即物的な感じだ。

こんなに多くの「死」の形骸を見せられると、自分が霊能者などでなくてよかったとほっとする。
同時に、そうか、「生」の形見は骨か、骨なのか、と思えてきた。
骨という形になれば、古代のパレスチナの使徒の骨でも、真偽の分からない「聖人」の骨でも、18世紀にペストで斃れて無造作に投げられた庶民の骨でも、みな時空を超えた「あちらの世界」を共有している魂によって平等な形見になるようなのだ。

そういう写真は載せても陰気なので、ここでは宝物庫から見た大オルガンの裏側や奏楽の天使像を載せておこう。

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by mariastella | 2017-08-17 02:58 | 宗教

宗教共同体の変化や被昇天のことなど

聖母被昇天祭、2年ぶりに、パリ19区のビュット・ショーモン近くにある被昇天のノートルダムのビュット・ショーモン教会に行って軽いショックを受けた。


今年は遠出が不可能だったので、パリの中にある被昇天のノートルダム教会の別のところに行ってみようと思った。
教会の建物や歴史として圧倒的に興味深いのはリボリ通りの近くにある教会だけれど、ここはポーランド語教区教会となっていて、ミサも全部ポーランド語だし、いかにも熱心なポーランド人が集まりそうなので、こういう特別の祝日にいくのはなんだか敷居が高い。
16区にも被昇天のノートルダム教会があって、ドーム屋根をもったまあまあ感じのいい19世紀末風の教会だけれど、こういう日は16区のブルジョワ・カトリックのメンタリティが芬々としていたりして…と思って、パス。
結局、お話が圧倒的にうまいルヴェリエール師のいる19区なら、少なくとも興味深い説教が聞けるだろうし、と考えて、19区にしたのだ。

教会の名前が被昇天のノートルダムなのに、この日に取り立てて何もないのは分かっていた。

その後、聖遺物の「拝観」やら、
元気印のルヴェリエール師とは何度も個人的に話もして好感度は高かった。

ところが、去年は行っていないのでいつからこうなったのかは知らないが、今回行ってみると、
「被昇天のノートルダム」の名にふさわしいというか、もう被昇天一色で、運河から船に乗ってのノートルダム大聖堂への巡礼まで付いていたのだ。

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こんな感じの聖母子像の神輿みたいなのも飾られていて、これを4人で担いで行く後を外の広場まで「行列」したり、その他にも被昇天のタペストリーも飾られ、教会内のあちこちにイエスの聖心の絵がかかって蝋燭に火がともっている場所だとか、いろいろできている。驚いた。

2年前は、被昇天祭だから被昇天の名のついた教会に行ってみようと思ったので、もしこんな感じだったら満足したと思う。けれども、2年前には聖母のアイン・カレムの訪問の話しかしていなかったのに…。

今回はしっかりと被昇天の教義の由来やら、神学的解説を延々として、あまりにも真剣なので、ルヴェリエール師ではない別人かと思ったくらいだ。あの陽気さ、楽しさ、喜びに満ちた感じが消えて、すぐに祈りの中に沈潜する黙禱が何度もあった。

アペリティフの時に私を見つけてにっこり笑って再会を喜んでくれたのでやっぱり彼だったと分かったのだけれど、たった2年で、同じ祝日の演出や雰囲気がこんなに変わるなんて。

ひょっとしてアイン・カレム信心会の人たちが中心になっていた?

変な話だけれど、よくパリの郊外のモスクで、原理主義のイマムが着任してあっという間に「過激化」してしまう、というのを連想してしまった。radicalisation、ラディカルになる、イスラムなら過激化と言われるが、カトリックなら「急進化」とでもいうニュアンスになるかもしれない。
別に他の宗教や宗派の批判をするわけでもないし、社会や政治の批判をするわけでもないし、ただ、熱心な信心会の雰囲気、というそれだけのことだ。

私が驚いたのは、2年前とのあまりにもの違いだった。
それを見て、とまどって、
なるほど、同じ宗教共同体の同じ場所の同じ行事でも、いくらでも変わるのだなあ、
と感心したのだ。
イスラム教の普通のモスクで普通の礼拝をしていた人たちがいつの間にか聖戦の煽動に洗脳されてしまうことだってあるだろうなとリアルに想像してしまった。

早い話が、2年前の9月の献堂式、大司教が梯子を昇って12の十字架をよろよろとひとつずつ祝別していた時、列席していた壇上の司祭たちがいっせいにスマホを向けて撮影していた。だから、他の会衆もみんなあれこれと撮影した。

ところが、今回の聖母像や行列も、何だか気軽にカメラを向けることなど絶対にできない雰囲気だった。
広場に出てようやく、という感じだ。

ルヴェリエール師が目を閉じている間が長く、目を開くと天を見上げる動作が多く、2年前の「マーフィの法則って知ってますか?」というあのノリは影も形もない。

いったい何が起こったのだろう。

もともとインスピレーションに満ちたカリスマ風だったのは確かだ。
でも前はそれが喜び、親しみ、若々しさ、親愛の道を通して個性的に熱く語りかけてくる感じだったのが、
普通に保守的、伝統的になっている。そういう意味では急進化という言葉は当たっていない。

今回初めてここに来たのなら、何も感じなかった。
リーダーが変われば社風や校風が変わるということはあるだろう。
同じ共同体だと思っていても、人間の集まりって、時と場合や特定の人の恣意や歴史の大きな流れによっていくらでも変わるのだなあという、当たり前のことを考えさせられた聖母被昇天祭だった。

と長々と書いたが、一番の収穫はやはりルヴェリエール師の説教で、被昇天のAssomptionという言葉の語源がassumerというのと同じだということを意識したことだ。
これまでは「ad sumere」で「上に運ばれる」というのでキリストのように自力で? 昇天するのでなく、聖母は天使によって上げられる「被昇天」だという理解ばかりだったけれど、キケロの時代のラテン語でassumptioというのはまさに、決意して、あるいは納得して引き受ける、という assumer だったという。

神が人となることや、聖母が神の子の母となることに、合意した、決意した、引き受けた、ということと、被昇天とは関係しているのだと思うと奥が深い。





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by mariastella | 2017-08-16 02:43 | 宗教

ウィーンの話 番外

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シュテファン大聖堂の聖母子像です。長い間、貧しい人々の崇敬を集めていました。
庶民には、金ピカに飾りたてられた聖遺物よりもこの聖母のまなざしが頼りになったのでしょう。幼子イエスは聖母の心臓を祝福しているとされます。名作です。
王侯貴族邸内の聖堂と違って大聖堂はすべての人々が集えるところだったことを教えてくれます。

今日は聖母被昇天祭。
被昇天のノートルダム教会に今から出かけます。

幼子を抱く母親が誰一人として戦争のある世界を望んでいないのは確かでしょう。

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by mariastella | 2017-08-15 15:26 | 宗教

ウィーンの話 その6


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これが、宝物庫の最終部分にある聖ステファノの聖遺物。(多分)
部屋の前にはそう書いてあるが、棺の前には説明書きが見当たらない。
宝物庫そのものは昔地下にあって、大戦の火災を免れて、戦後大聖堂を再建した際に大オルガンの上の部分にまとめられた部分なので、内陣のは墓所のように薄暗くも迫力ある趣があるわけではなく、歴史美術の博物館的な空気。




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棺の中には、着ぐるみのような体が安置してあるが、どう見ても、立派な衣装で包んだ人型だ。で、顔の部分だけが、薄い布で覆われた髑髏のような感じだ、殉教者を表すオリーブの枝の冠、ステファノの見た日の光にちなんだ日輪などから考えて、やはりこれがステファノだと思われる。

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普通は骨一本でも聖遺骨はこんな感じで立派な容器に入って布や宝石で飾り付けられて安置されている。

ということは、ウィーンには、「ただの骨」ではなくてありがたい頭蓋骨が聖遺骨としてもたらされたからこそシュテファン大聖堂の威光が増したのだろう。普通は頭蓋骨の聖遺骨でも、頭の部分だけ飾られて置かれているから、全身を再現したつくりはなかなか凝ったものだと思われる。

前にも書いたけれど、これが本当に、イエスの使徒のステファノの頭蓋骨なのか、十字軍が偽物をつかまされたのか、当時の人々が本気で信じたのか、いつから信じなくなったのか、それでもそのまま祀っていていいのか、などなどという疑問は私にとって重要ではない。

カルヴァンに批判されるまでもなくキリスト教のメインメッセージと関係ないと思われる類推魔術の心性がどういう形で表現されてきたのか、
人々がなぜこのようなよすがを必要としたのか、
それが何をもたらしたのか、
共同幻想のような力がどのように働くのか、
この聖遺物に託されてきた多くの人の濃密な思いの残滓はまだ残っているのだろうか、

などの問いが次から次からわきおこる。

その答えの一部は、言語的ではない形ですぐに与えられた。

同じシュテファン大聖堂の地下墳墓の中で。(続く)

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by mariastella | 2017-08-15 05:57 | 宗教

ウィーンの話 その5

キリスト教最初の殉教者ステファノの「聖遺物」に捧げられたウィーンのシュテファン大聖堂。

メインのステファノの聖遺物は内陣内にはない。


有料の宝物庫の一番上の部分にある。


そもそも、使徒のうち最初の殉教聖人ということでメ、ジャー中のメジャーの1人であるステファノの聖遺骨の信憑性はどの程度あるのだろう。


よく知られている「お話」の典型的なのは次のようなものだ。


イエス・キリストの受難と復活の数年後の1227日(オリエント教会での祝日)、まだ、キリスト教徒というアイデンティティのないステファノは、イエスの教えを受け継いで、エルサレムの律法学者たちの神殿偏重を大祭司の前で批判したので怒りをかい、石で打たれて殺されて、路傍に放置された。

その遺体をでエルサレムの北20マイルCaphargamalaにある自邸まで運んで、40日の喪の期間を経た後で墓所に埋葬したのがガマリエルという聖パウロの律法の教師と言われる人だった。

彼の甥はイエスにひそかに傾倒してイエスの埋葬の世話をしたニコデモとされる。

ガマリエルとその息子ハビブもイエスの死後に使徒から洗礼を受けている。

ニコデモも、石打ちにあって、傷を負い、ガマリエルの屋敷に逃れた後で死に、ステファノのそばに埋葬された。後に、ガマリエルと、20歳のハビブも死んで同じ場所に埋葬された。その後、ガマリエルの屋敷は崩落した。

で、キリスト教がめでたくローマ帝国の国教となった後の415年になってから、Caphargamalaの敬虔な司祭ルキウスが3度ステファノのお告げを聴いた。ステファノは、その名が赤と金で刺繍されている助祭の祭服を着ていた。

その指示にしたがってガマリエルの屋敷跡を掘るとまず石だけが出てきた。もっと北の方を掘れというお告げに従って修正すると、ステファノらの遺骨が発見され、地は振動し、芳香が立ち上った。

遺骨をエルサレムの聖シオン教会に移したのが415年の1226日で、大雨が降り、それまで続いていた深刻な旱魃が解消された。


ところが、聖シオン教会に納められていた棺をコンスタンティノープルに移そうとしたある未亡人が意匠の似たステファノの棺と夫の棺を取り違えた。棺が運ばれる途中で次々と「奇跡」が起こった。港について、ラバで運ぼうとしたらラバが動かなくなった。82日、その場所に最初の殉教者教会が献堂された。


ビザンティンの記録によるとまた別で、ルキウスの仲介でステファノの右手の骨がエルサレムの大司教に届けられ、その後、皇帝による寄進に感謝するために429年にコンスタンティノープルに移譲された。439年にはエルサレムに引退した皇妃が別の部分の骨をコンスタンティノープルに送った。6世紀に別の皇妃ユリア・アニキア?が残りをコンスタンティノープルに移した。

そういう経緯でステファノの聖骨全部がコンスタンティノープルにあったが、十字軍による1204年の侵略によって、ほとんどが西ヨーロッパの各地に持ち去られた。


フランスではブザンソンのカテドラル聖ジャン(ヨハネ)大聖堂にある「ステファノの腕」が長い間巡礼者の崇敬の対象になっていた。5世紀(445)にステファノの腕の骨大小2本がローマ皇帝ホノリウスに贈られた際に、途中で今のブザンソンに当たる古都Vesontiに留まった。小さい方の骨は手の形の容器に納められて巡礼者に祝福の按手をする見立てになっていた。

当時は聖エティエンヌ(ステファノ、シュテファン)カテドラルだった。崇敬物として一時代を画した後、16世紀には、5世紀にテオドシウス帝から大司教に贈られたという触れ込みのイエスの聖骸布が新たな崇敬の対象になった。

1523年に壁が崩れて「発見」されたというのだ。

プロテスタントの宗教改革の反動でカトリックの聖遺物崇敬が高まった時期だ。

今も有名なトリノの聖骸布がリレイからトリノに落ち着くまで1418-5234年間、この地方の神学校に保存されていた間に模写されたものだと言われているが、ともかく1523年以来復活祭と昇天祭に一般公開されて、多くの奇跡が起こり、聖骸布信心会が大きな勢力を持った

その後1669年にあらたな聖ヨハネ大聖堂に移された(ブルゴーニュ公国は正式にフランス王の支配下に入っていた)。フランス革命後の1794年にパリに持ってこられて吟味されて、偽物であるとされて破棄を申し渡されたはずだが、ナポレオンがカトリック教会と和解した後19世紀にはまたブザンソンに現れて崇められたという。この聖骸布をモティーフにした数々の絵も有名だ。

で、そのようないわば、宗教改革だの近代革命だののもたらす流行りすたり、の中で、ステファノの聖遺骨の方は信心の対象としてはすっかり忘れられた形になったらしい。「宝物」としては今も健在だ。

宗教改革でカルヴァンなどからあれほど馬鹿にされて弾劾されたのにしぶとく聖人崇敬を手放さなかったカトリックだから、「お話はお話として」、信心の本質的なシンボルとしての「聖遺物」はどんな形でも、ちゃんと残ったわけだ。


これらの事情を鑑みるに、宗教改革や近代革命による損害がなかったウィーンのシュテファン大聖堂にあるステファノの聖遺物というのは、同じように、13世紀初めにコンスタンティノープルからもたらされたステファノの骨の一部を看板の聖遺物として掲げたものの、後にその聖遺物そのものへの崇敬はすたれたので、「宝物」庫にひっそりと保管されているという感じなのかもしれない。

聖堂の内部では皇帝の棺の方がずっと立派に安置されている。

ゴシック時代のシュテファン大聖堂の前にあったローマン教会も、ステファノを守護聖人としていたらしい。12/26に朝日が主祭壇に射す方向に向けて建てられているという。それは人々に攻撃される前のステファノが空を見上げると神の光が射したことにちなんだものだ。(ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。)(使徒言行録7,55-56

だからどうしてもステファノの聖遺骨を必要としたのかもしれない。

前置きが長くなったので、ステファノの聖遺物との対面は次回に。

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by mariastella | 2017-08-14 06:15 | 宗教



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