L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 335 )

カトリック信者の結婚、日本とフランス

年末に、私のサイトの掲示板にカトリックの結婚と離婚についての質問がありました。

分かる範囲でお答えしたのがこちらです


実は、このブログで、いろんな方がコンスタントにアクセスする記事に「カトリック信者の離婚と再婚」というものがあります。

こんなこと気にする日本人なんているのかなあ、と思っていたのですが、単純に「カトリックは離婚は禁止」とか思っている人もいるようなので、読んでみて役に立てば幸いです。

離婚は禁止されているのではなく、結婚は夫婦だけでなく聖霊も一緒の絆なので、人間の都合だけでは離婚できないという意味合いです。


ちょうどひと昔前の日本の離婚が、夫婦だけでなく仲人さんの立場もあるからまず相談しなくては、というのと似ているかも。


[PR]
by mariastella | 2018-01-03 00:05 | 宗教

ボストンのバーナード・ロー大司教とパルトニアのガイヨー司教

1216日、ボストン名誉大司教バーナード・ロー師が86歳で、ローマで亡くなった。

この人のことを思うとすごく複雑だ。

アメリカで第四のカトリック信者数、200万人(大部分はアイルランド系)をかかえるボストン大司教区の大司教にまで上り詰めた人だ。枢機卿でもある。

宗教者として優れた人であったことは間違いないはずだ。

両親のいたメキシコで生まれて、ラテンアメリカ事情に強く、キューバの経済封鎖法に激しく反対するなど、アメリカ帝国主義に敵対した。カストロ議長とも電話で直接話しあった。

ハーバード大学で中世史を専攻したのに、召命に従って司祭となり、貧しいミシシッピーで司祭生活を開始した。エイズ患者に寄り添い、黒人やヒスパニックの貧しい人々を助け、ベトナム人難民センターも作った。公民権運動に奔走した。

そんな人なのに、2002年の1/6のボストン・グローブ紙の朝刊で発覚した聖職者による少年の性虐待スキャンダルのスクープで責任を問われて辞職した。4月に出した辞職願いは拒否され、12月にようやく受理された。それ以来、ローマに住み、晩年は長い闘病の末に亡くなったのだ。

このアメリカの聖職者スキャンダルはピューリッツァ賞を受賞し、映画にもなって、世界中に喧伝されて、あちこちに飛び火した。

ボストン大司教区は60年間で237人の司祭による1000人の被害者を数えるという。

2002年の時点ですでに50億円の示談金が支払われていて、2002年からの400人による訴訟でさらに100億円以上の罰金を課せられて、裕福だった大司教区は破産した。

バーナード・ロー師は、問題が発覚した司祭に対して教区を異動させるだけで放置した。その結果、複数の教区で30年の間に130人の少年を虐待していた司祭もいる。

彼の責任は重い。

けれども、どんなに調査されても、本人そのものはまったく嫌疑がかけられていない。

常に弱者に寄り添ってきた彼にとっては、少年にセクハラをする司祭の心理などまったく想像できなかったのだろう。

もちろん、アイルランドやフランスでもそうだが、閉ざされた教会の体質もあるし、「習慣」もあるし、性的被害は、レイプでもなんでも、公けにしない方が被害者のためにもいい、という、ついこの前までの「世間の常識」もあっただろう。

ことが発覚した後で、ベネディクト16世がこの件に関しては「トレランス・ゼロ」、絶対不寛容、を明言した。

家庭内にしろ、学校や部活など教育の場にしろ、教会の合唱隊やボーイスカウトなどの場にしろ、権威と権力を有する大人が未成年に対して性的な暴力を加えることなど、快楽殺人と同じくらい罪は重い。

それを闇に葬ったばかりか、問題司祭を別の場所に異動させて放置した責任は重大だ。

もちろんバーナード・ロー師もそのことを深く謝罪している。

彼は71歳から86歳までの亡命に近いローマでの生活で、枢機卿のタイトルは取り上げられなかったし名誉職も与えられたけれど、実質的に謹慎生活を送った。

彼の後悔、慚愧の念はいかばかりだっただろう。

この人は、本当は、いつも、弱者を助ける現場にいたかったんだろうと思う。

司教の任務は信徒の世話ではなくて司祭たちの世話だ。

でも、彼が本当にしたかったのは、尊厳を奪われている人々の世話や支援だったのだろうと思う。

フランスのノルマンディにガイヨー司教という人がいた。

彼も司教区の世話をしないで、ホームレス、労働者、ジプシー、兵役拒否者、移民、難民の側にばかりいて戦っていたから、何度も戒告を受けた。

とうとうバチカンに呼ばれて、辞職願を出せと迫られた。そうすれば名誉司教となる。拒否したのでアフリカにあるもう存在しない教区パルトニアの司教に任命された。司教や司祭のタイトルを剥奪することはできない。それは聖霊による秘跡で授けられたものだからだ。


で、82歳になる今もガイヨー司教はパリの「現場」で戦っている。


2015年にはバチカンに呼ばれた。 


「我々を自由にし解放しに来たキリストを教会に閉じ込めてはいけない」、というところで、ローマ司教(ローマ教皇のこと)とパルトニア司教が一致したのだ。

私からの憐みなんか必要としないだろうけれど、なんだか、バーナード・ロー師が気の毒になる。

彼の死に対してフランシスコ教皇は通り一遍の言葉を送り、バチカンではボストンのスキャンダルのことを口にする者は誰もいなかった。


メディアは彼の死を、性的虐待スキャンダルと結びつけて伝えたが、彼がマイノリティの権利のために戦った人だったことに触れる記事はなかった。


フランスでも同様のスキャンダルがあり司教が監督責任を問われたし、バチカンの教皇の側近にも嫌疑がかけられている。

世間的な野心なしに大きな管理責任を課せられるのは、きっと、「試練」のひとつなのだろう。


長きにわたる判断の誤り、は誰の人生の上にも、起こる。


[PR]
by mariastella | 2018-01-02 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その8

歌を歌えなかった12/3のミサでいろんなことを考えた。


「主の祈り」の「父」という呼びかけについて考えていると、

「神はあなたを先に愛している」とか、

「あなたには神が見えていなくても、あなたが神を無視しても、神はあなたを見ているし、決して見捨てない」

とか、

「神はあなたに自由意志を与えた。神に背を向ける自由さえあなたは行使できる」

云々


という決まり文句が、別の実感を持って見えてきた。

それは「親子ってそうだよなあ」という親の立場にたっての実感だ。

ここで親子というが、もちろん、世の中には我が子を虐待する親もいれば、血のつながりのない子供を溺愛する人だっている。そういう個別例ではなくて、社会進化論的に選択されてきたスタンダードな親子関係を想定する。

「親」は自由ではない。

親が自由を行使したのは「子をなす」時だけだ。

いったん「子」の親になれば、親にはその子をいないことにする自由はない。

排除する自由も、無視する自由も、恨む自由もない。

愛することしかできない。

そして親は子供が自由で自立した人間となることを願う。

そのために、養い、育てる。

子供の安全を守り自覚を促すために限定的に子供の自由を制限することもある。

でも、子供がその養いや育てに応えなくとも、最終的には子供の自由を尊重することしか親にはできない。

子供が出ていこうと、親を否定しようと、親は子供を愛し続ける。

というパターン。

「父なる神」も、クリエートする部分、「父なる神」となる部分で自由を行使した。

そして「なかなかよくできた」などと言っている。(創世記で何かを作る度に「神はこれを見て、良しとされた。」とある。

で、人間には「自由意志」を与えたのだが、禁断の実を食べた時点で、神と分かれる自我が生まれたので神のもとにいられなくなった。

でも、「父なる神」の側には、子を愛さない、良くないと断定するような自由はない。

だって、「父だから」。


ずうっと愛しっぱなし。


でも「製造責任」は感じるから、時々、それぞれにみあった「試練」を与えることで、「養い育てる」ことを続けようとはする。

思い切って「子なる神」まで派遣した。

「親」的感性に想像力が働く人なら、「父なる神」の立場はすごくよく分かる。

「父権社会」の「権威的父」ではない方の、例の、ノリッジのジュリアンが「天の母」と呼んだ方の「親」的感性。


「自由にふるまう子供を愛し続ける他に自由がない、選択肢のない」親心。

そうやって愛してきた子供が、とつぜんこちらを振り向いて、「お父さん」と呼んでくれた。

「お父さん、私を助けてください、私が正しい道を歩むように、誘惑に負けないように守ってください」

と言ってくれた。

「主の祈り」のように。

それを耳にするお父さんの喜びはいかばかりだろう、

命を与え、養い、愛し続けた苦労が、この信頼によって報われる。

「愛が報われる」っていいな。

「主の祈り」って「命をくれた父の愛に報いる祈り」なのかもしれない。


(しかも、子供たちがきょうだいそろって口をそろえて「いつも見守ってください」と言ってくれるなんて、想像するだに感激だ。親としては、感謝されなくても、頼られなくても、愛は変わらないのだけれど。「父なる神」をたまには労わろう。)


[PR]
by mariastella | 2017-12-13 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その7

(これはこの前からの記事の続きです)


「主の祈り」が特殊なのはやはり、神を「父」とよぶところだろう。


イエスは神のことをabba(パパのような親称)と呼んだ。

人はつらいこと苦しいことに遭うと、辛さゆえにそれを父なる神に責任転嫁する倒錯が起こる。


つらい時に「父なる神」に不平を言ってしまうという誘惑に打ち勝って、子なる神イエスに目を向けなくてはならない、というローマ教皇フランシスコは、「キリスト教のすべての祈りの神秘はこのabbaという言葉に要約できる。この言葉で呼ぶ勇気を持つことでイエスは神は良き父であり、おそれることはない、と啓示したのだ」(2017/6/17)と語る。

ちなみに、1966年より前に一般的だった主の祈りのこの部分は


Ne nous laisse pas succomber à la tentation


だった。


つまり、「私たちがに誘惑に負けないように引き留めてください」というニュアンスだ。

その後の、「私たちを誘惑に引き込まないでください」というニュアンスになってしまいがちなのを避けて、

今回の「私たちが誘惑に入っていくのをとどまらせてください」的なニュアンスになったわけだ。

「負ける」にしろ、「従属させる」にしろ、「力関係」を連想させる言葉がようやく避けられたという印象である。

やはり、そもそも「誘惑」という言葉が曲者だ。

「誘惑」と「試み」と「試練」が混同して使われるからだ。

多分、ひとことでいえば、

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。

(ヤコブの手紙 1 13節)

というのがきっと正しい。


でも、すでにヤコブの頃からこういうことがわざわざ言われているということ自体が、人はいつも、

自分の弱さも

判断の誤りも

困難な状況も

すべてまとめて「誰かのせい」にしたがるという、変わらぬ人間性を物語るのかもしれない。


確かに、「誘惑」と「試練」は別物だけれど、「試練」に出会った時に、それを避けたい誘惑、それを誰かのせいにしたい誘惑、見て見ぬふりをする誘惑などが自分の中に生まれる。

このことについていろいろ考えたがそれはまた別のところで。(続く)



[PR]
by mariastella | 2017-12-12 00:05 | 宗教

新司教の季節

127日、パリの大司教ヴァントトロワ枢機卿が75歳で出す引退願いが即刻受理されて、ナンテール司教のオプティ司教が新大司教に任命された。着座式は16日の公現祭。


オプティ司教は、ヴェルサイユ生まれで、すでにパリ大司教区の補佐司教を経て、パリ郊外ナンテールの司教だったのだから、常に「首都圏」にいた人だ。

パリ大司教区というのは、100以上の小教区と1200人もの司祭を抱えるスーパー教区た゜が、ただのカトリック教区ではない。歴史的にはもちろん、政治的に大きなインパクトがある。ヴァントトロワ枢機卿の健康状態はずっと良くなくてすでに補佐司教たちが代行していたので、もうずいぶん前から後任の人選が話題になっていた。だから、「定年」の日を待ってすぐ引退願いが受理されたのだ。


ヴァントトロワ大司教を最後に見かけたのは、2年前の19区の教会の献堂式で、その時も疲れが目立った。疲労困憊の大司教が、聖堂周りの12の十字架を聖別するのにいちいち移動式の梯子に上って聖水を振りかけなくてはならない。堕ちたら大変だとひやひやしたし気の毒だと思ったが、列席のもっと若い司祭たちは祭壇の上から遠慮なくスマホ写真をパチパチやっていた。それを見て当然列席者もパチパチ。ますます気の毒になったのを思い出す。

c0175451_17564714.png

で、新大司教のミッシェル・オプティ師。私とまったく同世代だからすごく若いわけではなく、後10年くらいの現役となるだろう。けれども、実は、例外的な「スピード出世」街道を来た人だ。


なかなかユニークな経歴で、母親だけが日曜に教会に通う国鉄職員の家庭の三人きょうだい。

パリの病院(ビシャやネッケール)で研修後、総合医として医学博士になりパリ郊外の公立病院で11年間勤務医だった。結婚を考えたこともあるという。

で、司祭になる決意をして神学校に入ったのが39歳、司祭に叙階されたのが1995年ですでに44歳だった。神学校で学ぶ間に、神学バカロレアはもちろん、パリ大学で医学倫理の博士号も獲得した。総合医としてあらゆる階層のあらゆる状況の患者を診てきた経験が召命と深くかかわっているのは想像に難くない。

医師としての活動期間と同じ11年間を、パリの中心部の複数の教会の司祭として活動し、2006年に早くもパリの補佐司教に任命されたのだ。

それからさらに11年(その最後の3年半はナンテール司教)後にパリの大司教に任命されたわけだ。


医者として11年、司祭として11年、司教として11年、と11年周期? それで行くと、パリ大司教にも実質11年は留まるかも。


モットーは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネによる福音書10, 10)」

医学倫理の専門家らしく、代理出産などに忌憚なく厳しい見解を述べている。

いろいろな意味で注目していきたい。

日本でも東京大司教区で新大司教が待降節第三日曜の前(12/16)に着座式の予定。教会暦のサイクル初めの日曜とか、パリのように1/6だとかの方がきりがいいのに‥と思ってしまうけれど、リタイアする大司教はヴァントトロワ枢機卿より一歳年上で去年の引退願いがやっと受理されたのだから事情が違う。まだ50代の新大司教は首都圏からではなく広い活動をしてきた人だ。


東京大司教と同年齢でやはり去年「定年」を迎えた沖縄の那覇教区、押川司教の引退願いも受理されて、与那原教会の主任司祭カプチン会のウェイン神父が新司教になるという。何十年ぶりか知らないがまさかの「アメリカ人司教」で驚いた。

それでなくとも米軍基地の脅威にさらされている沖縄で、カトリックもアメリカンで大丈夫なのかなあ、と。

でもすぐに、沖縄のカトリックの方から

「日本語堪能で沖縄の風土、人々のことよくご存じで、柔和でユーモアもあり、信徒からの信頼度一番の神父様です。教区に光がさしてくるようで とても嬉しい」というメールをいただいたのでほっと安心した。

沖縄とカトリックの問題はなかなか難しい。

沖縄に米軍基地の大半を一方的に押し付けることで「本土の平和ボケ」を許してきた現状は誰でも認めることだけれど、それに異議を唱える時に、

1「沖縄だけでなく本土も平等に負担を」と言うのか

2「米軍基地そのものを排除」と言うのか、

3「自衛隊基地も含めて軍備そのものを徹底排除」と言うのか


ではまったく立場が異なる。

カトリック教会の中の「正義と平和委員会」というのは、その理念からいって、「平和憲法」原理主義であっても決しておかしくはないのだけれど、ブルジョワ保守派のカトリックからは、「絶対反米のサヨクにのっとられている」と批判される。

押川司教は、2010年に「カトリック正義と平和委員会に提案と要望」として、


「基地反対を呼び掛け、沖縄に連帯して不正義に基づく沖縄の基地に真剣に取り組む姿勢があるなら、沖縄に来て≪座り込み≫や基地を取り巻く≪人間の鎖≫などに参加するよりも、東京で大集会を開いてください。3万人集会を東京で、政府のおひざ元でやってください。」

と述べたように、どちらかというと1のイメージだ。

一番「現実的」なアプローチをしているのだろうと思っていた。


でも、世界に君臨する軍産共同体の権力機構からどんなに攻撃されても平和の「理想」を掲げてやむことのない現ローマ法王のフランシスコ教皇に任命されたのだからウェイン新司教(着座は来年2月)は別のアプローチをするのかもしれない。


沖縄の司教がアメリカ人というのは、沖縄の米軍兵士の通うカトリック教会やプロテスタント教会との連携も考えられる。

軍隊の規律、武器と力の支配とはまったく別の「権威」が影響を及ぼすかもしれない。


カトリック自体が日本ではマイナーだから想像しにくいが、アメリカではヒスパニック人口が増えているし、兵士たちには従軍司祭や教会は大きな存在だろうから、何かが深いところで変化する可能性があるかもしれない。

カトリック教会は、人間が構成するすべての組織と同じく、理想と現実の間で揺れ動いてきた。

これからどうなるのだろう。

パリ、東京、沖縄の新司教たちをウオッチングしていきたい。

おまけ:
下にパリ新大司教のインタビューを貼ります。フランス語を分かる人はどうぞ。
なかなか好感度大です。
信頼されるお医者さんだったろうなと思わせられます。
司教は司祭の世話をするのが仕事ですが、司祭が司祭職の中で幸せを感じるようにと毎日祈っているそうです。


[PR]
by mariastella | 2017-12-11 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その6

ルヴェリエ師の話を聞けなかった123 日。

これならうちでTVミサを見ていた方がよかったかも。

と、実際、後で、ネットでアランソンのカテドラルのミサを視聴してみた。


この50m29から51m23で、今から新しい主の祈りですが、みなさんの席に教区が配布した紙がありますからそれを見てご一緒に、と言って、同じ聖霊の中で唱えるのが大事、として新しい祈りが唱和されている。その前の説教では何の説明もない。


なるほど、雑誌や出版物が大騒ぎしている一方で、この変化はあっさりと、ミニマムに、さりげなく取り扱おうという合意があるのかもしれない。


実は19区の教会でも、新しい主の祈りのプリントが用意されていたのだけれど、それは入り口に置いてあっただけで、席にはなかったし、「みなさん、プリントを持っていますか ? それを見てご一緒に」なんて言われなかった。

私も出る時にやっと気づいた。しかも、アヴェ・マリアの祈りのプリント(これも初めて見たが、別に訳は変わっていない)と並べてさりげなく置いてある。

c0175451_06281803.jpeg

主の祈りの訳の変化の理由にはどういう神学的配慮があるのか、という疑問をミニマムにするためのさりげなさなのかなあ、などと考える。

保守的なエリート新司祭B君の意見も聞いてみなくては。(続く)



[PR]
by mariastella | 2017-12-08 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その4

12/3、待降節第一日曜は、新しい「主の祈り」を唱和させるためにどういう工夫がされるのか、ルヴェリエ師なら何と説明するのか、説教にも反映させるのか、などと、興味津々でビュットショーモンの被昇天ノートルダム教会のミサに行った。


ところがルヴェリエ師は欠席していた。来週は来るという。


代わりにミサを司式したのは若い黒人司祭で、コートジボワールのアビジャンで叙階され、ストラスブールで神学を勉強中のヌアマンさんだった。ルヴェリエ師を見ているからか、がんばって声を張り上げて話すのだが、訛りがよけいに目立ってとても聞きづらい。日本で聞いたことがあるアメリカ人司祭、フィリピン司祭の日本語ミサのことを思い出した。どちらも聞きづらかったし、典礼文での明らかな発音のミスもあった。コートジボワールはフランス語が公用語だけれど、訛りは聞き取りにくい。フランス海外県の人のクレオールでも、訛りというよりはっきり発音が違う場合もある。

フランスにもアフリカ系の司祭は少なくないし、普通なら気にならないけれど、わざわざルヴェリエ師の雄弁を聴きに来たのだからがっかりした。日本でも、説教のうまい雄弁な司祭のところには大勢の人が集まるが、その気持ちがはじめて分かる。

そればかりではない。このミサでは、目当てのルヴェリエ師がいなかっただけでなく、いつもなら用意してある式次第で声を出して歌える歌詞が書いてあるものがなかったのだ。壁にそれが映写されたかと思うとすぐに消えた。

要するに、これからは無駄をなくして経費も節減して、式次第はすべて映写式にするということらしいのだけれど、まだ試みの段階で、それがうまくいかなかったわけだ。で、私のように歌詞を見ないと歌えないような人は斉唱に参加できず、時間が流れるのが長い。

そのせいでいろんなことを考えてしまった。

待降節というのはイエスの誕生を待つ希望の時だけれど、同時に終末の時、イエスの再臨、最後の審判に臨むために準備する期間というのがかぶっている。で、その時はいつくるのか、という質問に、日も時間も分からないし、夜に突然やってくるかもしれないのだから、いつ来てもいいように準備していなさい、みたいな話から始まる。

今までは、ああ、そうですか、としか考えなかったけれど、年齢のせいか、まさに、「死」はいつ来るかもしれないのだからちゃんと「終活」しなさい、と言われている気がした。終末論は陰謀論のヴァリエーションだと書いたことがあるけれど、年齢や体調によっては本当に焦ってしまうことがある。

で、待降節が希望の時と言っても、何をしても絶対に救われるというのなら、別に救世主が生まれるのを待望しなくてすむ、闇があるからこそ、光を求め、光が見え、希望の時になるのだ、と説明される。私たちはバビロンに捕囚されているイスラエルの民と同じ状態なのだ、と。

私は何となく、一四世紀の福者ノリッジのジュリアンこの人のイコンに猫を抱いているものがある。これとかこれ。いつかまた書こう)のことを思い浮かべた。


この人はいわゆる見神者で、イエスのことを天の母と呼び、何度もイエスの姿を見てお告げを聴いて書き留めているので有名なのだが、その中でも特によく知られているフレーズがある。

罪を犯した人は救われないのか、と悩んだ時に、イエスから「すべてはうまくいく」と言われたという「all shall be well」というのは、メダルのアクセサリーにも刻まれている。

実際は、


“In myfolly, before this time I often wondered why, by the great foreseeing wisdom ofGod, the onset of sin was not prevented: for then, I thought, all should havebeen well. This impulse [of thought] was much to be avoided, but nevertheless Imourned and sorrowed because of it, without reason and discretion.

“ButJesus, who in this vision informed me of all that is needed by me, answeredwith these words and said: ‘It was necessary that there should be sin; but allshall be well, and all shall be well, and all manner of thing shall bewell.'

こういう文脈なのだけれど、そして全員が救われると言っても、別に幸せに暮らせるというのではなく死後に永遠の命をもらえるということなのだが、この「すべてうまくいく」という楽観的な言葉が独り歩きしている。

(日本語で何かないかと検索したら、大学の紀要に出てきた。このp60から。)


「万事はしかるべくいくものなり。そして汝は自分自身の目で、すべて の物事がしかるべくいくことを目にするものなり」(p69)がこれにあたるのだろう。

まあ、今の時代の普通の人には、いくら「万人救済説(これについては『ユダ(中央公論新社)』でも書いている)」で、何をしてもゆるされて最終的には天国に行けるとか言われても、それだけで今ここでの苦しみや後悔や罪悪感などが解消するとも思えないけれど、

but all shall be well,and all shall be well, and all manner of thing shall be well.」とたたみかけてもらえること自体が確かに救いにならないでもない。(続く)


[PR]
by mariastella | 2017-12-06 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その3

「主の祈り」の解釈の変わり種ひとつ。


一応今の日本のスタンダードな訳をもう一度コピー。


「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。」


父への呼びかけの後に七つの願いがある。


悪からお救いください。

これを後ろから読むという提案。(『救いの梯子』Alain Noëlよりイエズス会のPeter-Hans Kolvenbach神父の解釈)

後ろから梯子を上っていく。

まず、エジプトから逃れ、荒野で様々な誘惑に遭う、

次に、赦しのステージへ。

次にエジプトを脱出したユダヤの民に天から与えられて40年間の主食となったマンナを求める。

最後にようやく、神のみ旨により約束の地、神の国に到達して、

神の名の秘跡と交わる。それが「私たちの父」という呼びかけ。


というものだ。


神を「私たちの父」と呼ぶことの特殊性が分かる。


たいていの神々は支配者であり、超越した存在であり、人間とは異種の優越者だが、その神を「父」とみなす。つまり家族だ。

日本の国家神道が国民をすべて「天皇の赤子」としたのは一神教にヒントを得たものだと言われているが、確かにユニークで効果的な形容だ。


なるほど。(続く)


[PR]
by mariastella | 2017-12-05 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その2

これは前の記事の続きです。


12/3からフランス中の教会で訳文が変わってしまう「主の祈り」についてのいろいろな意見の出現が最高潮に達している。

非常におもしろい。

実はベルギーでは今年64日の聖霊降臨祭からもう新約が採用されている。(国語としてライバル関係にあるネーデルランド語の新訳がすでにスタートしていたからだそうだ)

フランスは、ヴァティカンの祈祷書のフランス語新版が出るのを待つと言っていたのだけれど、いっこうに出ないので司教協議会が12/3をスタートと決めた。子供たちに要理を教えるカテキストたちは、フランスの新学期である91日からにしてほしい、と言っていた。(確かに、3ヶ月で文面が変わるのはまずいが、78歳向けの要理クラスの1年目の最初の学期は、まだ主の祈りを暗記させるなどという段階ではない。)

12/3から始まる待降節からの「変化」の予告は各教区でいろいろ準備しているし、プリントも配られるそうだし、フランスの司教会議による説明のパンフレットもある。カトリック系雑誌はいっせいに「主の祈り」の特集をしている。

不可知論家庭に生まれながら神を信じたけれどカトリックの洗礼は受けなかった哲学者シモーヌ・ヴェイユの「主の祈り」への没頭は有名だ。

もともと、カトリックの祈祷書の中では朝の祈り、夕の祈り、11度のミサ、とフルコースなら13度も唱えられるのだからうっかりすると、ただぶつぶつと形だけになってしまうこともありそうだが、シモーユ・ヴェイユは、朝に一度、全身全霊で、一語一語の意味をかみしめながら祈るので、その間に一瞬でも気が散ると、最初からやり直す、と言っている。

こういうタイプの人なら、どんな宗教のどんな祈りでも、その没頭そのものの瞑想効果というか、ミスティックな位相が共通しているもので、言葉の意味などは、どんなにかみしめても、ひょっとして、もう別の世界とジョイントしているのかもしれない。

とはいえ、普通の人には意味の分からない神道の祝詞だの仏教のお経だの、それぞれの聖職者によって「上げられる」タイプのものと違って、「主の祈り」って、パーソナルでも集団でも唱えられる祈りで、言葉の意味もまあ分かりやすいので、繰り返しているうちに刷り込まれるサブリミナル効果というのもあるかもしれないから、確かに「訳文」のニュアンスは大切だ。

今回の「変更」について、一番普通に言われるのは、「神が人に誘惑の罠をかけているかのように取られてはならない。悪に誘うのは神ではなくてサタンであり、それに負けないように助けてください、という意味に近い方がいい」というものだ。

実は「soumettre」という動詞がイスラムを連想するから変えたかった、という説は前回紹介した。イスラムは神への絶対服従、ユダヤ=キリスト教では服従は人間の自由意思に基づくもの、キリスト教ではそれがさらに、神の方が人間の中へスライドしてくれる。現在イスラム過激派が掲げる全体主義、教条主義に対抗して、より人間の「自由」な意思による神との「協働」を強調したいというのは分からないでもない。

司祭たちのコメント。

「けれども、復讐する神から、悪の前で無力な神に代わる、というわけではありません。誘惑の存在を合意していても神が敢えて人を誘惑にさらすわけではありません」、

「訳が変わるのは、別にキリスト教が変化したわけではありません。神と人間の関係のどの部分に焦点を当てるかというのは時代によって変わってきました。

過去は『人間の救済に心を砕く神』であり、ここ数十年は『社会の公正に配慮する神』となり、それが今は『ミゼリコルド、いつくしみの神』へと移ってきました。でも、実際は神は最初から慈しみの神でもあったのです。」

やっかいなのは、洗礼を受けて要理も受けているから「主の祈り」は暗唱しているけれど毎週教会に来ることはない多くのフランス人カトリック信者が集まる葬儀、洗礼、結婚式などの特別なミサだ。

そこで唱えられる主の祈りの訳が変わっていることなど皆は知らない。

だから、これからは、そのような冠婚葬祭ミサのために、新訳を必ず手渡すよう、注意を喚起するようにと配慮が求められている。

うーん、外野からみたら、前日までは何十年も「A」という文句だったのにある日突然「B」が正しく「A」は間違いということになる「典礼」自体の「融通のなさ」はナンセンスにも見えかねない。でもまあ「宗教」システムだけでなく、「新常識」がいつの間にかできていたり、「新条例」「新法制」がある日施行されたりするのは広く社会システムにもあることなので、その変化が何を反映して何をねらっているのか、人をより自由に平等に安全に導くものなのか、などをきっちり見極める必要がある。

だから今回の「変更」についていろいろ語られる「主の祈り」の解説も、示唆に富んでいる。

主の祈りの「読み方」について、前回は、7つの願いがシンメトリーになっていて、真ん中の「お父さんにパンを頼む」父としての神が中心で、前半は王(崇拝対象、権威)としての神、後半はモラルの審判者としての神であるというのを紹介した。日本のイエズス会の『神学ダイジェスト』でも読んだことがある。

同じシンメトリーでも違う読み方があるし、もっとアクロバティックな読み方もある。(続く)


[PR]
by mariastella | 2017-12-04 00:05 | 宗教

主の祈りと「服従」

キリスト教で一番大切な祈りとされているものにイエス・キリストが伝えた「主の祈り」というものがある(マタイによる福音書6-13など)。

その、今の日本の共同訳聖書で


「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」


という部分は、2000年の、日本のカトリックと聖公会の共通口語訳による「主の祈り」では


「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」


となっているようだ。


確かに「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と言うと、なんとなく「悪い友達」に引きこまれないように、サタンだとか蛇に出会いませんように」というイメージもあるが、「主の祈り」の「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」ならもっと、自分の内面の誘惑や悪を連想するかもしれない。

毎日曜のミサで唱えるものだから、こっちの方がより効果があるのかも。

プロテスタントでは「我らをこころみにあわせず」だったり、正教会では「我等を誘いに導かず」というものなどと、ネットには出てきた。


参考に全文は

「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。


で、非キリスト教者にも懐かしい文語訳では


「天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨〔みむね〕の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日〔こんにち〕われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。」


ヘブライ語の修辞法では最も大事なものが中心にあって、前と後ろに挟まれることになっているという考え方からは、最初の「御名、御国、御旨」というのは「王としての属性」、最後の「罪、赦し、悪」というのが「神としての属性」、一番大切なのが真ん中の、「今日の糧をください」という「父と子の関係」だという説がある。父としての神が一番重要なのだ、という解釈になるほどと思ったことを覚えている。

で、その「神としての神」の部分に、「悪へのいざない」というか、「試み」が出てくるわけだ。


1988年版の英語訳では

Save us from the time of trial


らしくて、「遭わせないでください」というのは試み、誘惑そのものというよりそのtimeということで、よりタイミングのイメージがある。「遭う」という漢字がその意味なのか。

And lead us not into temptation, というのもあった。


そもそも誘惑があり得る環境に人を置いたのは神で、その誘惑に負ける自由意志を与えたのも神だし、いろいろな試練を与えて「試みる」のも神だ。神の子イエス・キリストですら様々な誘惑や試練を与えられた。

だから、「そんなことをしないで下さいよ、おとうさん」と、私たちが言いたくなるのも当然だ。

で、なぜこんなことを書いているかと言うと、123日、つまりクリスマス前の降誕節最初の日曜日のミサから、フランスのカトリック教会で、「主の祈り」のこの部分のフランス語だけがいっせいに変更されることになったからだ。

すでに21世紀の初めから、フランス語圏の司教会議で、典礼に使う聖書の訳の新訳について協議がなされていて、201311月にこの部分の変更が合意されていた。20173月に正式に承認された。

1966年以来これまで、ルター派の改革教会でも正教会でも使われていたフランス語訳は

« ne nous soumets pas à la tentation » だ。

このsoumettreは屈服させる、服従させる、ゆだねる、供するという意味で、いわば、「私たち」を「モノ」のように、有無を言わさず誘惑に遭わせるニュアンスがある。

「お父さん、そんなことしないで」と頼んでいる。

今回の変更(これも2016年にフランスのプロテスタント連盟でも推薦されている)は、

«ne nous laisse pas entrer en tentation »


というものだ。

「私たちが誘惑の中へと引きずられていかないようにしてください」のようなニュアンスだといえるだろうか。


つまり、「私たちが誘惑に弱くそちらに惹かれていく存在であるのはしようがないけれど、何とかそれを引き留めてください」という感じもある。

これでは、まるで「誘惑とはアクシデント」みたいだけれど、実際は、どんな誘惑も試練も、創造の全責任者である神からくるのだから、アクシデントとは言えない。「新訳」の方が、「悪」が別にあるかのような二元論の印象を与えるのではないか。

なぜこれをわざわざ取り上げたのかというと、日曜日に必ず唱えられる「主の祈り」のこの部分だけが変更されたのは実は「イスラム対策」なのだ、という人がいるからだ。


「イスラム」というのはその語源に、「服従」がある。

手っ取り早く日本語のwikipediaをコピーすると、


>>この語は、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つaslama(アスラマ)という動詞名詞形であり、神への絶対服従を表す。ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と奴隷の関係として表現される。<<


別にイスラム教でなくとも、カトリックの中ですら、イエスどころか「マリアの奴隷」を自称するような一派もいたくらいだから、「自主的な服従」というのは人間の社会関係における「選択」のひとつではあるのだろう。

でも、現在、カトリックの力が弱まり、イスラム人口が増え、過激派の言葉が広く響き渡るようなフランスでは、宗教における「神の名のもとの全体主義」への警戒が高まっている。その中で、イスラムの語源として真っ先に「soumission」という訳が出てくるし、イスラム原理主義の中での「従属させられる女性 femme soumise」に対して異議が唱えられている。

そういう含意を持ってしまったsoumission とかsoumettreの動詞活用だから、神と「私たちの関係を表現するものとして「主の祈り」で毎回繰り返すのはよくない、という思惑から、表現が変更されたというのだ。


12/3はぜひルヴェリエ師のミサにでも出て彼がこの変化を何と説明するのか聞いてみたい。この前に彼に会った時の記事で、キリスト教における人と神との関係では絶対的服従でなく「合意した、決意した、引き受けた」と言うのが強調されていたことを書いたが、それもひょっとして今の情勢の中の流れなのだろうか、と今にして思った。


[PR]
by mariastella | 2017-11-22 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
『Les pieds dan..
at 2018-01-21 00:05
『Le prénom』(子供..
at 2018-01-20 00:05
対日関係新思考
at 2018-01-19 00:05
セッション・モーツァルト、天..
at 2018-01-18 03:18
ゲンラのお葬式
at 2018-01-17 03:36
構造的否認と陰謀論
at 2018-01-16 00:05
カルメン、セリーヌ、ドラクロワ
at 2018-01-15 00:05
想像力
at 2018-01-14 00:05
新年の事始め
at 2018-01-13 02:12
チベット高僧の死
at 2018-01-13 00:05
カリマさんの『シャルリー・エ..
at 2018-01-12 00:05
カトリーヌ・ドヌーヴらによる..
at 2018-01-11 00:05
Karima Bennoun..
at 2018-01-10 00:05
フランス・ギャルとシャルル・..
at 2018-01-09 00:05
シャルリー・エブド襲撃事件か..
at 2018-01-08 00:05
絶対平和主義という覚悟
at 2018-01-07 00:05
戌年に捧げる
at 2018-01-06 00:05
2018年のスティーブン・ピ..
at 2018-01-05 00:05
ノストラダムスとヒトラー暗殺
at 2018-01-04 00:05
カトリック信者の結婚、日本と..
at 2018-01-03 00:05
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧