L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 316 )

『沈黙』をめぐって その6

『沈黙』のテーマに関しての考察を当分続ける。
 
この映画の中で、日本には「キリスト教が根付かない」とい有名なくだりがある。
植え付けても根枯れする、というのだ。

日本語で文化と訳されるカルチャーという言葉はもともと植物の栽培に関した言葉だ。

で、この映画では、キリスト教、あるいは「普遍協会」の「アカルチュレーション」は不可能だと言っている。aculturation は、栽培で言うと「移植」だ。臓器移植で拒否反応が出て失敗するという言葉も連想する。
で、今のカトリック教会(第二バチカン以降)というのは、もうaculturationはやめて、インカルチュレーション inculturation (栽培で言うと埋め込み)の時代だよね、ということになっている。
つまり、帝国主義の侵略と親和性のあるようなアカルチュレーションはやめて、種だけ持って行って現地のやり方で育てよう、という感じか。

詳しく知りたい人には 2013年のコンゴで出たこの文を読むと感動的によくわかる。

人間の宗教的な「召命」と文化とにはオーガニック(有機的)なリンクがある。「普遍教会」であろうとなかろうと、その宗教的な表現はすべて「文化」に結びついたものだ、とある。
つまり、ローマ教会が「普遍」の教えだと思っていたものは、「普遍」をヨーロッパ文化の文脈で表現した教えだったという当たり前のことだ。

木を移植するのにはそれに適した気候、風土の研究が必要だ。ヨーロッパ産のものがすぐに日本に根付くとは限らない。
ローマ教会は、パレスティナから広がったキリスト者たちが広めた考え方を「体制宗教」としていく中でしっかり自分ちでインカルチュレーションしていた。種が埋め込まれて、風土に適した新種が育ったのだ。そういう形でなければ新しい宗教が習俗や伝統としては根付くことはない。

で、一六、七世紀のフランシスコ会やイエズス会は別として(中国のマテオ・リッチなどかなりインカルチャーした人もいたけれど)、遠藤周作が影響を受けた近代以降のフランスのパリ外国宣教会はアジア専門だったこともあって、よーし、今度こそ失敗しないぞ、とがんばった。
彼らが建てた日本人向けの教会には畳敷きのところが多かったのもその意気込みを表している。
長崎で「隠れキリシタン」を「発見」したのがパリ外宣の神父で、フランスのカトリックは沸きに沸いた。原種に近く戻す必要はあったけれど、「インカルチュレーション」の奇蹟だと思った。
でも、隠れキリシタンではなく、宣教師らの作ったミッションスクールなどを通してキリスト教を「欧風文化」の一環とみなしていた日本人の感覚とはかえってずれていたかもしれない。

要するにこういうことだ。

ローマ教会が、自分たちの「普遍」も文化の一形態であり、それを超えたところに真のルーツである「普遍価値」があり、それを異文化世界で広め認めてもらうことは不可能ではないのだ、とようやく理解するためには、

プロテスタントに離反され、
宗教戦争で血を流し、
近代革命に追放され、
政治の道具にされ、
自分たちの内部でしっかり根腐れを起こしているのも何度も土を入れ替えたり品種改良したり、
そうこうしているうちに人々の心が離反していった、

そういう経験のすべてを必要としたということだ。

こうなるといいかげん、宗教としては「終わりのコンテンツ」となっても不思議ではなかったのだけれど、そうならなかったのにはわけがある。

それは『沈黙』とは別の話なので別のところで。

ともかく、『沈黙』でフェレイラが「この国って絶対無理なんだ」って言っているのは、

アカルチュレーションのやり方で「真理の花」を咲かせるっていう方法論が間違っているんだよ、

と気づいたと言っているのだ。

けれども前の記事でも書いたように、一七世紀前後のヨーロッパのキリスト教世界というのは、一応同じ文化の中だったのに、地質が変わり、栽培法も変わり、「真理」も「花」も、その有用性はおろか存在すら疑われた時代だった。
イエズス会士たちはそれを十分知っている。

「拷問に負けて棄教はしたけれど心の底では信仰を捨てずにずっと神を信じて生きていきましたとさ」というようなお花畑な話とは無縁だった。

「社会の秩序維持のため、キリストへの愛のため司祭職を全うするけれど、心の底では無神論の誘惑にさらされて疑いと迷いの中で生きていきました」というケースの方が縁がある。

通辞と井上様がロドリゴのことを「よし、あいつは傲慢だから絶対転ぶぞ、」という感じで予測した人間観察は正しかった。(続く)
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by mariastella | 2017-02-10 01:13 | 宗教

高山右近の列福式と『沈黙』の関係など

高山右近の列福式のビデオをネットで試聴した。

へー、大阪城ホールってこんなに大きいんだというのが第一印象。
メガ・チャーチみたいだなあ。

長崎での列福式とか列聖式などでは、周り一帯がテーマパーク風になる感じなので不思議ではないけれど、大阪って、南蛮文化館を観に行ったことがあるくらいで、カトリックの教会など見たことがない。

それなのにこの大盛況って、やっぱり、元大名っていうインパクトだろうか。小説やドラマで戦国ものは日本人の好きなテーマだし、去年の大河ドラマもキリシタン弾圧とか細川ガラシャとか、右近と同時代のものだったようだから、タイムリーだったのかもしれない。

以前の殉教者セレモニーの時にも書いたけれど、時の主権者の政令に背いた犯罪者を称えることに躊躇する中国なんかと違って、判官びいきというか、つらい最期を遂げた人に共感を持つ日本って悪くない。

忠臣蔵だって、言ってみれば、殿中で刃傷沙汰を起こして罰せられた主君の仇という名目で、たった一人の相手を討つのに武装した47人が攻め込むなんて、しかも、ただ警備の任務に就いているだけの武士たちを殺したのだろうから、なんだかひどい話にも思えるが、日本人好みのストーリーだ。

高山右近の方は、殺されたわけでもないし、拷問も受けなかった。

その後のキリシタン迫害では、ひどい拷問のために宣教師さえ棄教したということは、映画『沈黙』で描かれているとおりだ。

右近はマニラに追放されてすぐに客死して、殉教と認められたわけだが、彼がこういう撤退の仕方をしてくれたことの意味は実は大きい。

その後のひどい迫害の後でも、そのことがカトリック教会に知られていたにもかかわらず、いわゆる「十字軍」的な日本への侵攻が試みられなかったからだ。戦国大名という立場の右近が「叛旗を翻す」ような行動をとらなかったことはすばらしいメッセージだ。

当時の迫害には三種類ある。

最初は長崎の26殉教聖人のように、天を称えて十字架に架けられた人々。
これは、迫害する側にとってはまずい結果だった。
まさに、「殉教聖者」を誕生させたわけだから。

十字架上で殉教するなど、同じように磔刑死したイエス・キリストをいただくキリシタンにとっては「光栄」でしかない。信仰の強さが信仰の正しさを証明するようになっては藪蛇である。

次に追放。

追放するなら、特に、キリシタン大名の追放なら、領地や財産を没収できるからまだ実利がある。

しかしそれではもうやっていけなかった。

で、拷問をエスカレートさせる。
コストパフォーマンスの関係からいうと、拷問して棄教させるのが一番有効である。
特に「指導者」たちを。

それが『沈黙』の世界だ。

で、それでも、なんというか、この世界は一応全体としては「野蛮」から「文明」の方に向かっている。

今のISのような「野蛮な宗教過激派」が中東のキリスト教コミュニティ(中東は世界で一番古いキリスト教コミュニティのある場所だ)を支配した時も、キリスト者に選択肢を与えた。

まずキリスト教を捨てさせてイスラムに改宗を迫る。

改宗しない者にはいくつか選択がある。

金を払う(だからといって自由に信心行がで切るわけではない)。
家財産を捨てて出ていく。
逃げ遅れた者、金を払わない者、は首を切られて殺される。

多くの人がイラクやシリアから出て行った。
それが今のヨーロッパの難民問題の始まりだ。

そして、中東のキリスト教徒を迫害するISはけしからん、ということで、同盟軍が、空爆という名の「十字軍」侵攻を始めた。

もちろんいろいろ状況も時代も違うけれど、基本的にはこういうシナリオがある。

そう、高山右近と彼と共にマニラに追放された300人の日本キリシタンは、「宗教難民」なのだ。

『沈黙』のタイプの拷問と棄教は、もう古いタイプの迫害である。

高山右近型の「難民」をどう受け入れてどう評価し、迫害者をどう扱ってどう評価するかが、今問われている。

このことについては別の場所でも書くことにしているけれど、そういう意味で右近が2017年の今列福されるということは意義深い。

列福式では右近が追放されたにかかわらず、神に従い光へと向かう喜びと希望の中にいたというようなことがコメントされていたので、スコセッシの言葉を思い出した。

スコセッシも、悲惨で残酷に見える『沈黙』の一番のテーマは、実は、ミゼリコルド(神の慈しみ)とそれに対する「喜び」なのだ、と言う。

痛めつけられて殺されるので自衛のために脳からドーパミンが放出されて歓びになるんじゃないのか、というわけではないようだ。(その喜びの正体は今なんとなく分かるが、別の機会に書く)

でもとりあえず生き延びようと逃れるシリアの難民たちは、ヨーロッパの国々が「与えてくれる」ミゼリコルドにはたして希望を持っているのだろうか。

難民を宗旨に関係なく受け入れよという今のローマ教皇の呼びかけは、「慈しみ」の特別聖年を設けた人だけあって、筋が通っている。

一応キリスト教のトランプ大統領は、南米出身のフランシスコ教皇が選出された背景にはオバマ大統領とヒラリー国務長官の陰謀があった、として、調査を命じたそうだ。
笑える。

そして、

いつか列福される可能性もなく、立派なミサを捧げてもらえることもなく、ただ、家も故郷も捨てて、命がけで徒歩や危険な船で「政教分離の文明国?」にやってきて鉄条網に阻まれる人々のことを考える。

「政教分離の文明国」に生まれ育ちながら、その底辺で、住むところも持たず、寒空で飢えたり凍えたり、孤独に苦しんだりする人々のことを考える。
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by mariastella | 2017-02-08 01:24 | 宗教

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その4)

スコセッシはニューヨークのリトル・イタリーという地区で育った。
一方にギャングや不良グループがいてもう一方にカトリックの司祭たちがいる、という環境だ。

彼に外の世界への目を開いてくれたのは11歳から17歳まで指導された司祭だった。
司祭は、スコセッシにイギリスの小説家グレアム・グリーンの『権力と栄光』(1940)を読むように勧めた。

グレアム・グリーンは、イギリス国教会からカトリックに転向した人だ。
この小説は20世紀前半のメキシコ革命下のカトリック迫害をテーマにしたものだ。ウィスキーを飲んでアル中気味の神父がカトリック摘発の警察当局から逃亡して村に隠れるが、当局は村人を人実にとって神父を誘い出そうとする。同僚には当局の弾圧に負けて結婚した神父もいる。

遠藤周作は『沈黙』を書くのにこの本の影響を受けたと明言している。

司祭に勧められてスコセッシが読んだものではこの本だけはない。
もう一冊は、Dwight MacDonaldの『ある革命家の回想』(1960)で、トロツキストからソ連を憎む平和主義者に転向したNY生まれのジャーナリストの作品だった。

スコセッシはぜん息でアパルトマンに閉じこもる少年時代だったから、司祭との出会いや読書が大きな影響を与えたことは確かだろう。

『最後の誘惑』の後でポール・ムーアから「本気で信仰について語りたいのならぜひこれを」と『沈黙』を渡され、ロドリゴの棄教のシーンにはまった。
キリスト教の基礎となるメッセージ隣人愛や汝の敵を愛せよ、に立ち返って信仰を考えようとした。革命的だと思った。ユートピアかもしれないが、非暴力に価値を与えたことで人類はサバイバルに成功したのだ。

とスコセッシは語る。

なるほど。

1920年代、チェスタートンらと同じ時期にカトリックに転向したグレアム・グリーンは、1930年代には共産党に入党した。どちらも当時の知識人にとって一種のブームだったという。晩年にも、確信を持ったカトリック信者と共産主義者には共感があると言っている。「解放の神学」などの影響も想像できる。

『栄光と権力』の直接の舞台となったのは、メキシコ革命に続くクリステロス戦争という白色テロ、宗教迫害の残滓で、1924年のカリェス大統領による迫害から内戦となり、犠牲者たちのうち22人の司祭と3人の信者が殉教者として2000年に列聖されている。カトリックの反乱軍はグアダルーペの聖母の旗を掲げて、司令官の名もイエズス何某だ。

殉教の司祭クリストバルは信徒の武力蜂起を戒めていた。
逮捕されてもすぐに敵を赦し、自分の流す血がメキシコの平和の礎となるようにとの言葉を残して処刑されたという。

内戦はおさまったが、そ1940年にカトリックの大統領が就任するまではカトリックの司祭への追求は続いたという。

『権力と栄光』はジョン・フォードの『逃亡者』として映画化され、ヘンリー・フォンダが追われる神父役だった。
検索するとネタバレ付きのストーリーが日本語でも出てくる。

何かが決定的に『沈黙』と違っている。
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by mariastella | 2017-02-07 03:12 | 宗教

高山右近の列福、映画『沈黙』のキリシタン迫害で殉教について考える

大阪城での高山右近の列福式が近づき、スコセッシの『沈黙』が公開され、日本ではキリシタン殉教についての関心が高まっている。(フランスでは来週上映開始)

高山右近は迫害によって殺されたわけではないが、一国の城主だったのに権力や財産をすべて捨てて追放されることを受け入れ、国外で客死した。
それを「殉教」がとして認められたので、「右近の執り成しによる奇蹟」の認定がなくても福者に列せられることになったのだ。

殉教について私はサイトで見られる記事とかブログのこの記事などで何度か日本のキリシタンの殉教のことについて書いてきた。

基本にある違和感は変わらないのだけれど、周辺部ではいろいろ感じ方が変わってきた。

まず、キアラ神父(映画のロドリゴ)などは、やはり、宣教師だったのだから、きっちり殺されるべきだったと今は思う。
他のすべての人についてはそれぞれの状況や性格や情緒に従っていろいろな選択があって当然だと思う。
迷いや恐れや保身自体は、キリスト教の上の「罪」ではないし、近代法風に言っても、迫害されているのだから、「信仰を(いったん)失うこと」「棄教したと形式的に宣言すること(踏み絵を踏むことも含む)」「隠れること」などは明らかに「緊急避難」や「正当防衛」に該当して、「罪」とは思えない。

でも、仮にも、聖霊の恵みと使命を受けたはずの神父で、その中でも危険を承知で別世界の「宣教」に志願したような「宣教師」は、当然想定されるような「迫害」を前にして「緊急避難」や「正当防衛」の余地はない。

内心がどんなに動揺していても、パードレと信頼してくれる信徒たちのの信頼を裏切らない、という責任がある。

つまり、心では決して信仰を捨てていず、人々への拷問をやめさせるというプラグマティックな判断で、

「ここはひとまず人助けのために踏み絵を踏んでおこうか、イエスさまがこんなことで罰を下すと思えないしな。ここは長い目で、この国で地道に信仰の種をまく方が有益かも」

なんて思うのは、合理的には正しいが、やっぱり

「宣教師がそれをやっちゃダメでしょ、たとえ他のすべての人が転んでも、宣教師だけは死を恐れないところを見せるべきでしょ」

と思う。

イエスの一番弟子だったペトロは確かに鶏が鳴くまでにイエスとの関係を3度も否認した。

でも、それは、イエスがまだ殺されていず、したがって復活もしていなかったからだ。
忠実な「弟子」ペトロはイエスを逮捕に来たローマ兵の耳に切りつけたくらいに「師イエスお大切」の情熱はあった。でも当のイエスからそれを戒められて、情熱はしぼみ、後は逃げに回り、自己嫌悪に陥った。

でも、その後にイエスの復活によって「忠実な弟子」が「信仰者」になり、「使徒」となった。
イエスの復活によってキリスト者が「誕生」したのだ。
それからの彼らには怖いものがなくなった。
特に「死」はもう「怖いもの」ではなくなった。「死」は「復活」の信仰の証しだからだ。

キリスト教はそういう宗教だ。
だから、「宣教師」は、宣教師だけは、「イエスに何と言われても、踏み絵を踏むべきではない」。

もちろんイエスは彼らの弱さを赦してくれるだろう。
でも、彼らは、彼らの「証し」を聞いて信仰に入った信徒たちを裏切るべきではない。

私が宣教師だったとしても、もう諦める。殺される以外の道はない。
イエスのためではない。
私の話を聞いてくれた人のためだ。

もっとも私は絶対宣教師にはならない。
石橋を叩いても、下に急流が見える限りは渡りたくないヘタレだからだ。

などと思いながら、最近久しぶりにある本を読み返したら、日本での殉教者の心情が突然理解できた。

いや、理解を超えるものだと理解できたのだ。
こうなったら違和感もへったくれもなく、ただ、感嘆の思いしかない。

それはいったい何かというと…  (続く)
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by mariastella | 2017-02-03 00:12 | 宗教

ポスト・トゥルースと宗教

ブレクジットとトランプ、英語圏のこの事件で急に脚光を浴びたのが「post-truth」という言葉だ。

ポスト真実とか訳されていて、要するに、一部の人や団体が自分への利益誘導するために都合のいい「真実」をでっちあげる、ような意味で使われている。

言い換えると、今はもう、あることが「真実」であるかどうかよりも、「真実」に見せかけることが重要であり、かつそれがメディア・バイアスやSNSのおかげで可能になる時代だということらしい。

思えばポスト・モダンだって、「モダン」、つまり近代において真実とされていた理念を相対化してたった一つの真実などないのだ、と言った面ではポスト・トゥルースだった。
そして、その後、ポスト・ポストモダンに振り戻ったのではなかっただろうか。
いや、振り戻ったというより、願わくば、螺旋状に回って回帰した?

人は「真実」を必要とする動物だから、相対化が進むと、「真実もどき」の産業によって分断されて食い尽くされる。

それよりはまだ、「老舗宗教」で宗教性を満足させておく方がリスクは少ないし、事実、戦後の日本人の多くは、「無宗教という名の宗教」で、「なんちゃって真実」を上手に使いまわしてきたともいえる。

でも、このポスト・トゥルースのトゥルースは、真実というより「事実」とか「現実」に近い。

宗教の文脈におけるトゥルースは、真実というより真理だろう。

イエスが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32)

という時の真理は、まさに、ポスト・トゥルースなどで加工されるような現実や事実ではなくて、人間の手の届かないところにあるものだ。

私はこれまで、「何かが真実であるためには現実である必要はない」ということをいろいろなところで書いてきた。
その場合の真実とは、「真理に至る道」みたいなもので、それはたとえば、「事実」ではないとみなが認識しているフィクションを通しても表現できるものだ。

よくできた「映画」や「小説」を「体験」することで垣間見える「真実」があるのはみな知っている。

逆に、フィクションでなくてリアルであっても、簡単な手品の前でさえ「わー、すごい」と感心する自分の知覚など何の役にも立たない。

見かけの「不都合な事実」に対する人の態度にはいろいろある。

誰かが挙げていた次の四つの例。

車に乗って急いでいる時に運悪く赤信号に変わった場合。

 1. しょうがないから停止。
 2. ひょっとして青信号じゃないか?
3. 急いでいるんだから命がけでそのまま進む。
 4. 赤信号は他人への停止信号で私には進めという信号だ。

これを宗教風にアレンジすると、

「太陽は地球の周りをまわっている。見れば分かるだろう」

 1. その反対の可能性もあると思うけれど、実際回っているように見えるのだから、受け入れる。
 2.そんな説は間違っている。回っているのは地球。
 3. その説に反対してたとえ火炙りになっても地球は回る、と自説を曲げない。
 4. お説の通り、地球は太陽の周りをまわっている。(いつの間にかすり替わっている)

「われこそは神だ。帰依せよ」

 1, そう言われるのだから帰依する。
 2.そんな神は偽物に違いないから信じない。
 3. たとえ神罰があたっても「私の神」を信仰し続ける。
 4. 「神は私だって? その通り。」

余命宣告みたいなものを前にしたらどうだろう。

信じない、とか怒って抵抗するとか、の段階を経て最後は受容する、みたいなシェーマがよく紹介されているけれど、うーん、「死を信じない」というのもありそうだ。

「死じゃありません、死後の世界への再生です」「次の生まれ変わりの準備です」とか。

現実としての「死」がトゥルースとしたら、死後の世界ってまさにポスト・トゥルースかもしれない。

実は、キリスト教が宗教として成立した時の核には、この問題への回答があった。

それはよく言われているように、「キリストを信じたら永遠に生きるのです、主のもとに行けるのだから幸せです」みたいな単純なものではない。真理と現実をどう見るかという明確な提案がある。

仏教風の「この世は夢幻、執着を捨てて悟りの世界へ」とか、祖先信仰風の「死んだら先だった親や友達に会える楽しみがある」みたいなものとは違う。この説明を今書いているところだ。

「永遠に生きます」とか「復活します」とか「生まれ変われます」という言説だけではとても「受容」の境地に至れないタイプの私には、感情的にも合理的にも「おお、なかなかいいかも」という考え方だった。

結局、大切なのは死後でなくて、生きている間の「生き方」で、それを支えるのは何かということなのだ。
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by mariastella | 2017-01-27 00:12 | 宗教

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その1)

マーティン・スコセッシの映画『沈黙』が日本で公開されはじめたようだ。

フランスでの公開は2月8日だ。知人が出演していることもあって楽しみ。
見てからまた感想を書くつもりだ。

日本の小説が原作で、アメリカの超大物監督による映画というのは多分めったにないだろうから一つの「事件」でもある。

でも、それに合わせて日本の「カトリック」関係者があらためてカトリックの立場から遠藤周作の原作やら評価やらについていろいろ語り始めたので「へえ、そうなんだ」と思った。

キリスト教の神でなくても、地震、津波、障碍者無差別殺人、テロなどのニュースが続く昨今、「神も仏もあるものか」、という悲痛な思いを抱く人たちは多いから、17世紀に拷問された切支丹たちや宣教師たちが「なぜ神に助けてもらえなかったんだ」、と思う人がいても不思議ではない。

その「迫害」の中で、最後まで信念を捨てずに「殉教」してめでたく神の国に行った(かもしれない)立派な人と、
一時の苦しみに耐えられずに棄教して罪悪感に打ちひしがれる人、
の二極化があるように思えることも不思議ではない。

日本のカトリック界では2月に戦国時代の殉教者と認められたキリシタン大名高山右近の列福式があるのでますます「信念を曲げずに大義のために死を受け入れた」人というのは盛り上がる。

もともと日本には「判官びいき」というか、栄光の時もあったのに悲惨な死を迎えた人に思い入れをする伝統もある。
実際、引き立てられていく切支丹たちの姿を「立派だ」と敬意の念を示した役人もいるという。

そういうベースでは、『沈黙』の宣教師は、他の切支丹(転んだ人も含んで)が苦しむのを見てあえて踏み絵を踏んで助かったのだから、日本的なヒーローにはなりにくい。

それを遠藤周作が宣教師が聞いたキリストの声によって正当化したのだから、微妙だ。

まあ、それによって、「踏むがいい」と言ったキリストこそ、日本的心性から見ても「真の自己犠牲のヒーロー」だと納得してもらえるようにできているとしたら、遠藤は立派なカトリック作家だ。

でも、

キリスト教は弱さを煽ったわけではない、とか、

正義や真理の理想を宣言して生命を投げ出した人こそ「神の子」である、とかいう人がいる。

棄教した信者や宣教師の弱さに注目して批判しているわけだ。

キリストなら自分自身が踏まれることを選んだろう、という遠藤の視点はスルーされている。

まあ、鞭うたれて十字架に釘付けにされてという屈辱的で悲惨な「受難」を受け入れたキリストだから、何が描かれていようと「踏み絵を踏む」程度のことで「正義や真理」をうんぬんするとは思えない、と遠藤が考えるのは、別に、日本的な甘えのキリスト教などと批判されるほどのことではないと思うけれど。

命をかけるほどの「正義」だの「真理」だのなんて、異教徒でなくとも、普通の人間の理解を到底超えているだろうし。

それだけではない。後世の歴史によって実は「誤り」だった、と裁かれた「正義」や「真理」や「絶対」などたくさんある。
その「誤り」を守るために人を殺したり、「誤り」に殉じて自分の命を差し出したりした人たちも当然たくさんいるわけだ。

国の大義や、神や主君への忠誠のために、あるいは保身のために、戦場に出向いて人を殺したり殺されたりした人のすべてが、「殉教者」や「英霊」とリスペクトしてもらえるわけではない。
拷問したり虐殺したりする側だって、ただの保身故だったかもしれないし、イデオロギーにとらわれると、人は人間性を失って自分も敵も「モノ化」してしまう。

(続く)
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by mariastella | 2017-01-23 01:04 | 宗教

新年のごあいさつ。 パスカルとクリスマス

これを書いているのは大晦日の午後です。
でもアップする頃には日本ではもう2017年に暦が変わっているでしょう。

だから、まず、このブログを読んでくださっている読者の方々に、2017年が平和で穏やかな年になりますようにご挨拶します。

私にとって2016年は大きな変化のあった年でした。

ひとつは、眼鏡もコンタクトレンズもいらなくなって活動時間が長く有効になったこと。
その一つの結果が、もう半年以上もブログを毎日更新していることに表れています。

前は、気づいたこと、思いついたことは、とりあえずストックして寝かしておいたのですが、その8割くらいは、全体の思考回路に加えてもらえないまま忘れられたという状況がありました。

今はかなりのことをブログに載せることでフロー化しているので、回転率がよくなった気がします。

読者を想定していない覚書なのでコメントも閉鎖しているわけですが、思いがけないところで私のブログを紹介してくださる人がいることを教えていただいたりして、少しはお役に立っていることもあるのかとうれしいです。
想定読者もテーマもないのですが、誠実に書くことを心がけているので、「あの人に読まれたらやばい」というようなものはないと思います。

変化と言えば、今年は、ブーレーズ・パスカルを見る目とクリスマスを見る目が劇的に変わりました。
何か決定的なことが起こったわけではなく、長年の積み重ねがある一線を越えて質的に変化したという感じです。

年末はとても忙しかったのですが、たった一日自分の時間が持てた時に、国立図書館のパスカル展(パスカル、心と理性)に駆けつけました。

パスカルが完全に分かったので、それを確認するためでした。

何がどう分かったのかというと長くなるので書けませんが、言えることは、今パスカルが私の前にいてEntretien avec M. de Saci. 1655. のように彼と対話ができたら、彼を、アウグスティヌスの呪縛から解き放つことができるような気がしていることです。

大げさだと思われるかもしれませんが、パスカルと同じ土俵で、同じ言葉と同じ感性を使って彼を助けることができる気がします。もっともそうしたら、『パンセ』の半分は残らなかったかもしれませんが…。

キリスト教におけるノイズとの付き合い方が自分の中ではっきり分かった年でした。

ノイズだから重要でないとか意味がないとかいうことではありません。

時代や場所が規定する文化や伝統の形としての典礼や神学、人間性と社会心理学的考察などからきれいに距離を置くコツがわかったということです。

クリスマスもそういう形で現れました。

キリスト教の降誕祭としてのキリスト教は、昔は、「救世主の誕生」、星が羊飼いを導くとか、三博士の礼拝とか馬小屋とか、ハレルヤとか「聖夜」とか、要するにまあ「おめでたい」出来事だと把握していました。

ところがある時から、あまりおめでたく思えなくなってきていました。

飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃん、この子が33年後にああいう無残な殺され方をすると知っているのに、どうしてみんな喜べるのだろう、と思ったのです。
もちろんその後で「復活」して神の子だとか永遠の命だとかいうことになって全人類を救うのかもしれませんが、まあ、私が親だったら、そんな立派なモノになってくれなくてもいいから、親の目の前で仲間に裏切られ鞭打たれ釘打たれて磔にされて息絶えるのだけは見たくない、と思ったからです(まあ、だから私の子は救世主にはなれないでしょうが)。

しかも、わずか3、4ヶ月後の復活祭の前には嫌になるほど受難の姿を見せつけられ、その後に復活昇天したとはいえ、どの教会にも十字架上の最悪のシーンが飾られているのに、クリスマスの時だけ、「わーい、救世主が生まれた」などと喜ぶ気がしなかったのです。

で、いろいろありまして、信仰の社会的表現である宗教のレトリックと「福音」とを自然にきれいに分けて考えることができるようになり、その後でクリスマスが来てみると…

残ったのは、

赤ん坊が1人、

でした。

神は自分の言葉(ロゴス)を人の形で世に送ったのに、言葉も話せない人間の赤ちゃんにそれを託しました。
アダムとイヴなんて神の似姿で「大人」だったのだから、天使とか預言者とかスーパーヒーローの姿でもよかったのに。

それが新生児。

この子を生かすこと、この子が言葉を覚えて話せるようになれるまで育てること、は神ではなく、人間の大人にしかできません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25-40)」といって、弱者を助ける、弱者に仕えることを、救いいを得る業としましたが、イエス自身が、旅先で生まれた新生児、そのすぐ後で亡命を余儀なくされた赤ん坊であったのだから、納得がいきます。

ルルドで病人のためのボランティアをする人たちが、病者の中にイエスを見る、と言っているのも当然だなあと思います。

クリスマスに、だれの助けも得られず両親にだけ見守られて生まれてしまった赤ん坊、放置されれば生きていけないこの子を守らなくてはいけない、みんなで、あるいは、自分の心の中で。

イエスを救世主とする「福音」を信じたいという人は、言葉もなく寝たきりで一人で生きていけない赤ん坊に寄り添うしかない。

天使が歌わなくても、星が導いてくれなくとも、三博士のプレゼントがなくとも、今ここで、裸の赤ん坊を温めて、抱いて、あやして、飲ませて、守ってやる以外に大切なことはない。

今年のクリスマスには、教会のプレセピオに一本の藁を置き、そこに寝かされた赤ちゃんの人形を見て、難民キャンプで暮らす赤ちゃんたちや、他の人の助けなしでは生存が不可能なすべての人々のことを本当の意味で考えることができました。
秋に釜ヶ崎に連れて行っていただいたこともシンクロします。「あいりん地区」ってそのものずばりでした。

日本では、クリスマスが終わったら、即「お正月」モードに切り替わり、それこそ、前の年を無事に過ごせた人ならそれを感謝し新しい年を祝うところですが、フランスは、クリスマスから、三博士の礼拝(エピファニー)やら生後40日でのエルサレムの「お宮参り」まで、「クリスマス・ストーリー」が続いているので、この話を新年のご挨拶に代えました。

みなさま、よいお年を。
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by mariastella | 2017-01-01 00:05 | 宗教

プーチンとロシア正教

(これは昨日の続きです)

プーチンがヨーロッパにすり寄るには「キリスト教を」使う。前にも何度か書いたけれど、ロシア正教の使い方が、ヨーロッパ的には前近代的だ。

プーチンはよき正教徒であることをを自認していて、ことあるごとに、自分はソビエト政権下で母親自らの手で洗礼を受けたのだ、と証言している。

ソ連が崩壊する過程で、正教がナショナリズムの形成に役立ったのは理解できる。

もともと、ロシアの共産主義自体が、宗教のようなものだった。
スターリンは「ローマ法王は装甲部隊をいくつ持っているのか」と尋ねたと言われるし、
プーチンは、セーヌ河畔のロシア正教カテドラルの建設についてフランスと交渉した時に、
「カテドラル一つ造るのにエアバスを何機買えばいいのか」と聞いたと言われる。(当時の文化相の回想)

シリアの反政府軍への空爆を非難されたせいで10/19のカテドラル落成にプーチンは出席をキャンセルしたが、12/4には1億5千万人のロシア正教徒の頂点に立つキリル大主教が初めてフランスでのカテドラルの献堂式を行った。
パリ市長が出席した。

キリル大主教は、ロシアとヨーロッパの屋根の上でどんなに風が吹きすさんでいても、屋根の下ではみなが仲良くやっている、カテドラルの建設を祝うのは、ロシアとヨーロッパの人民と文化の親愛のシンボルだ、という感じのスピーチをした。

ロシア正教は必ずしもプーチンと同じ政見を持っているわけではないが、互いに互いを必要として一種の紳士協定を結んでいる。
シリアの反政府軍への攻撃も、ロシア正教から正式に支持されていた。
「中東のキリスト教徒を救うための正当防衛」という名目が使われた。

「キリスト教」を切り札にすれば、いろいろなことができる。

実は、今のほとんどのロシア人にとって、正教徒であることは宗教行為とほとんど関係のない愛国主義アイデンティティで、「キリストなしの正教」などと言われている。

で、プーチンのレトリックにおけるキリスト教というのは、なんと「ヨーロッパの白人のキリスト教」であり、だからこそロシアはヨーロッパと共にイスラム教を「征伐」する、という差別的含意が透けて見える。

けれども、ヨーロッパのほとんどの国は、EUの起源にあるキリスト教文化という言葉をあらゆる憲章から周到に消去したように、「世俗性」と「多様性」を建前にしている。

特にフランスのような無神論イデオロギーで近代革命を経た国では、「キリスト教仲間だから友好関係」というレトリックなどタブーに等しい。

だからプーチンが、セーヌ河畔に金ぴかドームのカテドラルを建てて「ロシアとヨーロッパの共通のルーツ」みたいなものを刷り込もうとするのは、どこかアナクロニックに響くのだ。

30日、プーチンはアメリカのロシア外交官35人国外退去処分に対して同じ形での報復処置はしないと表明した。冷静なプーチンの方が、なんだか怖い。

ともあれ、プーチンやメルケルのように長く政権に留まる人たちは、いろいろな意味で奥が深い。
同時代に彼らを観察できるのは興味が尽きない。
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by mariastella | 2016-12-31 05:35 | 宗教

メリークリスマス!

この2つのコラージュは、10年くらい前にもらったイタリア製の聖母子カレンダーの画像で、1年が終わった後で、画像を切り取って2つ作ったものです。両方で30分くらいで雑に作ったものですが、並べて飾ってみたらなかなか素敵なので、みんなに褒められます。私が作ったと言ったらなんだかがっかりされるのはどうして....

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by mariastella | 2016-12-25 07:59 | 宗教

アレッポのカトリック司教の証言

アレッポの惨状を見るのはつらい。

反政府軍に300人ばかりのイスラム過激派がいようとも、ためらいなく病院を空爆していくような政府軍(ロシアやイランも加わっている)のやり方は正当化できない。

シリアではこの5年で30万人の戦死者、うち9万人が子供も含む非戦闘員という犠牲者を出し、故郷を捨てた難民は何百万人に上る。

クリスマス気分になれない。

そんな時、アレッポのマロン典礼カトリック教会の司教の証言記事を目にした。 

1971年生まれ、40代なのに髪が真っ白で、それでもにこやかな笑顔が印象的だ。

2015年4月26日、アレッポの聖エリアスカテドラルの屋根が2発の爆弾によって破壊された。

アレップ生まれで25歳に司祭叙階されたヨゼフ・トブジ司教はその年のクリスマスに司教として着座した。

シリア内戦とキリスト教の関係は複雑だ。

これまでもこんな記事、

こんな記事

こんな記事

こんな記事を書いてきた。

イスラムがマジョリティだが「国教」を定めないシリアは、キリスト教コミュニティも守ってきた。
キリスト教会がアサドの共犯者だと言われるのもそのためだ。

実際、今回アレッポが政府軍の手に渡ったことを、「キリスト教徒の解放」などと形容する人すらある。

イラクのサダム・フセインが政教分離でキリスト教徒もリスペクトしていたのが、英米軍の侵攻によって体制が崩壊した途端に、イスラム過激派やISに占領されてキリスト教徒が激減したのと基本的には似ている。

まずはトブジ司教の話を聞いてみよう。(La Vie No.3720より)

----戦争は死です。私たちはこの死を生きています。アレッポの住民は毎日、自分は爆弾に当たるか銃弾に当たるか、死ぬのか生きるのかと不安を抱いています。安全な場所はどこにもなく、家の中にいても、窓から砲弾が飛び込んで家族全員が死ぬこともあるし、建物が崩壊して下敷きになることもあります。

(このインタビューは今回の政府軍侵攻以前のもので、東側が反政府軍やイスラミストの統治下にあり、西側が政府軍で、キリスト教徒の大部分は西側にいた。)

数か月前私の住居の前で砲弾が炸裂し、私は3日間、地下室で寝ました。洗礼式の12倍の数の葬儀を司式します。私の眼前で死んだ人も3人います。

私はアレッポで生まれ、毎日曜日、教会の鐘の音と共に父に起こされ、用意されていた朝食を食べて5人の兄弟姉妹と共に車でミサに向かいました。イエスは友のような存在になりました。
ボーイスカウトに14歳まで、その後キリスト教学生グループに入りました。

19歳の時、助祭だった兄と一緒に教会にいる時に、30秒間、心臓が高鳴り、大きな愛を感じました。
半年間迷いましたが、ある司祭から「跳べ、後は主が答えてくれる」と言われて、跳びました。

当時のアレッポの生活はスペインのリズムでした。
遅く起きて遅く寝る。
シリア第一の産業都市で、世界中に輸出している企業がいくつもありました。
職を求める人々がシリア中からやってきました。-----

うーん、こう聞くと、あらためて、いろいろなことを考えさせられる。

私も「観光都市」だったアレッポを間接的に知っている。有名な「石鹸」にもお世話になった。

この司教の話をここまで聞く限りでは、フランスに住むフランス人の司祭のライフ・ストーリーと変わらない。

「独裁者」が君臨する軍事政権で虐げられていた人、という部分はひとつもない。

けれども、藤永茂さんのブログを読むまでもなく、中東情勢におけるアメリカやトルコの思惑も見え見えだ。

その中で、ロマン典礼のカトリック教会って、どういう立場で何を考えているのだろう。
そして、つい数年前まで、少なくとも司教にとっては「平和に繫栄」していたはずの町が、このように完膚なきまでに崩壊させられてしまうなど、なんという悪夢だろう。

こんなことが実際に起きたのだから、世界の他の地域の「平和で繁栄」している都市が実はどういう地雷を抱えているのか、どういう欺瞞の上に見かけの繁栄がなりたっているのか、などと考えると、おそろしくなる。

2011年に反政府軍の台頭が始まりアサド政権が過酷な弾圧に踏み切ったときも、アレッポの住民には、まだ、それが遠い場所の出来事のように映っていた。(続く)
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by mariastella | 2016-12-19 04:23 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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