L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 303 )

聖フランチェスコと奇跡と裸

たった今、St.Jose Manyanet y vives に関係する問い合わせに答えたところだ。問い合わせと直接関係ないので書かなかったが、この聖人の聖痕のことを思い出してしまった。このスペイン人(1833-1901)は、確か、16年間も、脇腹に聖痕を受けてどんどん弱って死んだような記憶がある(違ってたら失礼)。記憶に残っているのは、聖痕というのは、傷なので「痛い」ということはあるが、一応超常現象の一種だから、それが死因になるというのは変じゃないかと思ったからだ。20世紀の聖痕のチャンピオンであるパードレ・ピオなんか、開いた傷口から出血し続けたのに貧血にもならず、長生きしたし、亡くなった後に全ての傷が消滅したと言う。

しかし、カトリック世界の奇跡の「聖痕」者の嚆矢となったアッシジのフランチェスコだって、聖痕を受けてからどんどん体が弱ったという話だし、生存中は包帯などで隠していたが、仲間の修道士ルフィーノが、脇の傷から血が出ているのを見てわざと指を突っ込んだのでフランチェスコが痛みに飛び上がった。

じゃあ、聖ホセ・Manyanetの方が、由緒正しいフランチェスコ型聖痕なのか。

フランチェスコの聖痕は死んだ後も消えず、彼を慕う人たちの接吻の嵐、みたいになった。足の傷にはご丁寧に釘状のものが見えていたともいう。
これは骨のキストじゃないかと思うし、脇の傷も、触れられて痛く、出血で衰弱するなら、なんかの病名がつきそうだけどなあ。指を突っ込まれたのはもちろん、イエスの復活を疑った聖トマスに、疑うなら脇の傷に指を入れてもいいよ、みたいな展開になったことからの連想だ。

フランチェスコは、その兄弟たちからイエスの再来のように思われていた。それで、彼の言行録ができた時に、そういうエピソードが入ったのだろうか。それを読んだ人々が、そこからインスピレーションを受けて、実際の聖痕の系譜が生まれたのだろうか。

フランチェスコが聖痕を隠していたというのは謙遜の心からだというのだが、「聖痕者」第一号なのだから、それを見せるべきか、隠すべきか、手当てするべきか、逡巡はなかったんだろうか。

あ、別に、フランチェスコを茶化しているわけではない。理解できないだけ。
復活のイエスの脇腹の傷口が開いていた、ってことですら、私には理解できない。
トリノの聖骸布やオヴィエドの聖外布に滲みた夥しい血を見ていると、これだけの血が失われて、しかも満身創痍の人が、傷口あけたまま復活したというのが、すごく怖いシーンだと思わずにいられないからだ。

フランチェスコは、福音書の言葉に従って世を捨てようとして、着ている服も全部脱いでしまった、というシーンも有名だ。「小さな花」のエピソードには裸のエピソードがこの他にもある。

フランチェスコがある宿で、美しい女性から言い寄られた。彼は、「その提案、OK」と答え、彼女は、「じゃあ、床を用意しましょう」と言う。するとフランチェスコは「来なさい、最も美しい床を見せてあげましょう」と言って、大きな暖炉に行き、そこで裸になって熱した火床に横になるのだ。まるで花の上に横たわるように。もちろん火傷なんかしない。女性は恐れおののき、改心して回心する。

フランチェスコの脇腹の聖痕に指を入れた修道士ルフィーノも裸つながりだ。

ルフィーノは、敬虔だが、話すのが苦手で、ある日、フランチェスコからアッシジに行って説教しろと命じられるのに、私にはとてもできません、と辞退する。
するとフランチェスコは、ルフィーノがすぐに従わないのに気を悪くして、それなら裸になって(下穿きはつけててもいい)アッシジに行き、教会の中で裸で説教しろ、と命じるのだ。

これって、たちの悪い罰ゲーム?的な、パワーハラスメントじゃないかと思ってしまうが、実際、ルフィノが裸で出発した後、フランチェスコも反省して、自分も裸になって後を追い、聖堂で裸で説教し始めているルフィーノに合流して、裸で、清貧についてのすばらしい説教をしたという。

まあ、裸というのは清貧のたとえというかシンボルなんだろうが、服とか装飾品がなくなったら、付き合いはもっと、濃密になる気もするし、こういう経緯だから、フランチェスコが聖痕を隠すのを、ルフィーノは「みずくさい」と思って、指を入れたのかもしれない。

フランチェスコの奇跡譚をどう読むかはいろいろな立場があるだろう。
でも、精神性と肉体性が微妙にからみあって、後にカトリック特有の「聖痕」者の伝統が本当に出現したんだから、そのフィジカルなインパクトは大きい。
 
私の好みの空中浮揚もフランチェスコはどんどん高く上ったみたいで、足を掻き抱いて接吻した修道士もいる。これもその後の神秘家たちの超常現象に影響を与えたろう。

『小さな花』Fioretti があまりにも有名なんで、元が一体どうなっているのか知りたいと思った人もいた。
聖フランチェスコこそキリスト教改革派の先駆者だと考えたフランスのプロテスタントのポール・サバチエ牧師が20世紀初めに、Fioretti の種本であるラテン語の「フランチェスコとその仲間たちの行電」の写本を発見した。Fioretti は、このテキストのダイジェストのイタリア語訳だったらしい。

フランチェスコは1226年に死んだが、その後まもなく、フランチェスコ会は、財産も持ち始めた体制派と清貧の急進派とに分裂した。時の教皇が何度か調停に入り、結局、1317年に、ヨハネ22世が、急進派が上長の命令に従わないのは傲慢の罪であるとして切り捨てる。
彼らは追われて、山に籠り、ますます禁欲的に、ますます急進的になり、イエスと使徒になぞらえて、『行伝=言行録』を書き記したのである。

で、この人たちは、禁欲的だから絶滅した。でも、やがて、本体の会の方にも改革派が生まれて、今はそっちの方がマジョリティだから、言行録も、Fioretti として陽の目を見たわけである。

そこには、宗教的理想が社会的な力関係によって変質してくのかという問題もあるし、いや、そもそも、人は若き日の理想をどのように保持して伝えられるのか、それを飼いならすのか、偶像化して牙を抜くのか、という問題もあるだろう。
言行録のラテン語からのフランス語新訳がもうすぐ出るというニュースをカトリック雑誌で読んだところなので、感慨を覚えた。

どんな「啓示」宗教でも、たいていは、神も啓示も、人間にいいように作り変えられたり偶像に取り替えられたりする。時々、それらを吹き飛ばして、偶像をなぎたおして、最初の啓示の意味を問おうとする改革者が現れる。その改革者の放つ強烈なオーラは人々を回心に招くが、また、それが偶像化して・・・そんな繰り返しである。

しかし、人間の歴史と欲望の文脈はどんどん変わるので、今や、偶像化ばかりではなく「改革者」のオーラの読み取り方にも気をつけなくてはならない。それには、精神の「自由」とは何か、をいつも問う必要がある、と、つくづく思う。
 


 
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by mariastella | 2008-09-26 01:43 | 宗教

無神論いろいろ

 無神論者ほど神にとり憑かれてる人はないというのは本当かもしれない。

 無神論について調べてるだけでも、すっかり「神」と縁が深くなった。

 19世紀から20世紀にかけての西洋人文科学系の無神論は、マルキシズム型、精神分析型とかいろいろあるが、

 「神って、実は人間の発明したものだったんだ」

 というタイプが多い。

 神が創造主だと思っていたら、実は人間が神を創造してたんだ、というわけである。

 それまでにすでに、何世紀にもわたって、とても精緻な懐疑主義やエレガントな偽善があったわけだが、「人間が神を創った」って説を思いついた時は、逆に、革命的だと思ってよほど嬉しかったのか、その後の無神論が単純になった感じがする。
 
 でもその手の無神論って、それほど、神の否定になっているだろうか。

 鶏が先か卵が先か、の議論みたいだとまでは言わないが、主語と目的語が変わっても、あまり意味が変わらない気もしてきた。

 たとえば、親が子を「創った」といえば言えるが、親もまた、子によって日々親になっていくのもまた事実で、そういう関係性の中でしか対象は生まれない。

 一神教系の神は、明らかに人を「救済」したがっている。

 信仰とは無神論の海で無神論の波を掻き分けて神に向かって泳ぐようなものだと言う人もいる。無神論と信仰がセットになっているなら、神と人もセットになっているのかもしれない。

 私のサイトの宗教質問箱の中で、

 「欧米で反宗教、反キリストを掲げる人って実のところキリスト教にくわしかったり、人一倍影響を受けている場合が多いような・・。」

 という感想を述べていた方がいるが、まさにその通りだ。

 ところが、その、キリスト教的教養の高い無神論者って、1968年世代で終わってるみたいな部分もある。それ以降の無神論者は、キリスト教についてただの無知というのがたくさんいる。

 だから、今回教皇がパリで講演した時に、結構感心して、

 「キリスト教のことをもっと知りたくなりましたよ」

 みたいなことをいう精神科医だの心理学者だの政治学者だのがいたりする。

 そのほうがびっくりだ。

 未知の世界だ、と恥ずかしげもなく言う。

 こんなだから、若いエリートが、ちょっと挫折してカルト宗教にはまったりするのかもしれない。

 まあ今回、フランスでは若い人にB16ファンがけっこういたみたいだから、カルト教祖に夢中になるのりだとしても、害は少ないからいい。

 今回の教皇のフランス滞在は共産党恒例のユマニテ祭りと重なった。

 パリ・マッチ誌のマンガで、68年世代のおじいさんがチェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツを着て、ユマニテ祭りに行ってきたよ、と言うと、孫娘が、「I LOVE JESUS」とプリントされたTシャツで、私はB16のミサに行ってきたわ、と言うのがあって、でも今の世の中はもう希望がないから、「愛すること」を信じることが一番いいよね、って感じで二人が合意する。

 多分、この2人にはさまれた世代は、ゲバラにもイエスにも興味がなかったり、どちらの知識もなかったりするんだろう。

 私のトリオの仲間でユダヤ系無神論者の友人はユマニテ祭りで買ったというフリースを練習の時にわざわざ着てきた。もう1人は、終末論的原理主義的なプロテスタント家庭で育ってそこから抜け出した人だが、神なしには生きられない。30代と40代で、政治的には2人ともインテリ左翼である。違った形ではあるが、ゲバラとイエスとに少しずつ引き裂かれてるのかもしれない。


 
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by mariastella | 2008-09-21 07:55 | 宗教

カトとソシアル

 夕べはリーマン・ブラザーズの倒産のニュースのせいで、大騒ぎだった。大手保険会社(AIGではない)重役の親戚がちょうどうちに泊ってたからだ。彼らの1人息子(私の甥)の親友がロンドンのリーマン・ブラザーズで働き始めたところで、彼らの姪の1人もドバイのAIGで働いているからだ。

 といっても、みんな独身だし、もともと実家に金がある上に本人たちも国際的に高学歴の連中だから、別に困らないんじゃない? と私が言ったので「危機感を共有しないやつ」って感じで見られた。

 少なくともイスラム系の金融機関にはサブプライム危機はないと読んだことがある。金が金を生んではいけないというコーランの原則が生きていて、現物経済にしか投資しないし、無理なローンを組むというメンタリティもないのだそうだ。
 カトリックも元はそれが生きてたときいている。だから、ユダヤやプロテスタント資本に太刀打ちできなかったとかいう文脈だった。(テンプル会はどうなんだ?)
 どちらにしても、サブプライムが高度資本主義の病気であることは確かなのだろう。

 ヨーロッパのカトリック、特にフランスのカトリックは産業革命以降の大都市で生まれたの工場労働者の悲惨さに対抗して弱者救済の事業を次々と起こした。普遍宗教と名がつく宗教はたいていその発祥において弱者救済の社会事業を興している。
 しかし、たとえば日本史なら、光明皇后が仏教に帰依して悲田院とか施薬院を創設した、みたいに上からの慈善、という感じがするが、伝染病などは社会の秩序維持のために隔離されるのが為政者として「正しい」やり方という認識があったのではないだろうか。16世紀の宣教者たちが日本のあちこちで、「お家芸」ともいえる、不可触賤民(ハンセン氏病患者など)の保護施設を作って親身に世話した時は、そんなソシアルの発想のなかった日本の領主などが驚いた、そして立派だと言ったという記録が残っている。

 Claude Gutman という人の保育所についての本を翻訳している人から、パリの養護施設と愛徳姉妹会の関係について質問されたのでちょっと調べてみたら、フランスの社会福祉事業の大もとは、ほとんどヴァンサン・ド・ポールと彼の姉妹会の関係者が一手に基礎を築いてることが分かってあらためて驚いた。

 「社会的弱者に仕える」というのはもともとすごく福音書的なので、政教分離がぱっとしないアメリカの大統領候補者たちは誰でもみな福音書をわざわざ引きながら弱者救済をうたっている。金権選挙を勝ち抜く彼らの口からでるとしらじらしいというか、ほんとにそう思ってるんだったら世界がもうちょっとどうにかなってるはずなんだが、と思う。

 フランスでは宗教にソシアルを求めるという伝統はそれでも潜在的に根強く、B16が来るというので、多くの人が、彼から「世直し」のインスピレーションを期待していたのが印象的だった。

 資本主義の害悪がはっきりしてきたと思われた1891年、レオ13世が『Recum novarum』を発表した時、フランスの社会主義者ジャン・ジョレスは、「こりゃあ、社会党のプログラムじゃないか」と叫んだという。

 カトリックのソシアルの過激ぶりが目立たなくなったのは、というか、ニュアンスが変わったのは、人間性を奪われて搾取される労働者を同じように救おうとして声を上げながら同時にキリスト教を蛇蝎のように排除しようとした共産主義の台頭のせいだ。

 キリスト教はもともと「人間はシステムよりも価値がある」という姿勢だから、共産党独裁システムにもそぐわなくて、結局、カトは、リベラリズムもマルキシズムも批判して、「システムの構築ではない、現場での草の根的救済策を守った。その結果的な中立路線のあまり、カトリック・ソシアルの帰結だった中南米の「解放の神学」をも切り捨てたくらいだ。
 JP2は、1991年に、共産主義陣営を倒してポーランドを救った勢いからか、『Centesimus annus』の中で、市場主義経済の擁護(警戒の意味もあったはずなのだが)ともとられることを言って、経済というものを分かる初めての教皇だ、などと言われたこともある。

 フランスには、カマンベールと同じくらいの特産と言われる「左派カトリック」(カト左派というより〉というのがあって、社会党のミシェル・ロカールやジャック・ドロールなんかがそうだった。彼らの政策はあまりにも「現実的過ぎる」として、建前や理想主義、理念にはしる社会党から嫌われたくらいだ。
 今でもセゴレーヌ・ロワイヤルが「超越」という言葉を口にするなど、カトの香りはないでもないが、サルコジのカトすりよりと対して変わらぬレトリックの域をでない。68年世代のPascal Lamy とか Jacques Maillot などを別として、いまや、若い世代は、政党よりもNGOの中でのソシアルに向かっているようだ。

 サルコジに至っては、彼の「神すりより言辞」はアメリカの真似プラス、ボナパルティスト的な行動原理ゆえである。
 この男は、フランス的エレガンスというものを持っているふりさえしないという驚くべきキャラで、去年、あるカトリック系雑誌(La croix)のインタビューに答えてこう言ったらしい。

 「ええ、たまに教会に行くのは好きだよ、私にとっては文化的、アイデンティティ的な手続きのひとつだね。いろんな思い出がよみがえるよ」

 だそうだ。昨年12月にはじめてヴァチカンでB16と会見する時30分遅刻したり、B16の説教の間に携帯メールを確認したり、2度の離婚3度の結婚の履歴も含めて、こんな男にこんなことを言われたくないとフランスのカトは思っているだろう。
 
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by mariastella | 2008-09-17 01:54 | 宗教

神に呼ばれる時

 超越についてのその2で「文化の真の基礎」と書いてしまったが、今日、教皇の講演を読み返すと、「真の文化の基礎」だった。
 訂正ついでに、その部分を載せておく。理性についてのB16の見方がよく分かる。

« Chercher Dieu et se laisser trouver par lui : cela n’est pas moins nécessaire aujourd’hui que par le passé. Une culture purement positiviste, qui renverrait dans le domaine subjectif – comme non scientifique – la question concernant Dieu, serait la capitulation de la raison, le renoncement à ses possibilités les plus élevées et donc un échec de l’humanisme, dont les conséquences ne pourraient être que graves. Ce qui a fondé la culture de l’Europe, la recherche de Dieu et la disponibilité à l’écouter, demeure aujourd’hui encore le fondement de toute culture véritable. 》

 で、よく見てみたら、Chercher Dieu や、la recherche de Dieu は、
 se laisser trouver par lui と、la disponibilité à l’écouter とセットになっているのだ。

 神を探すことは、神に見出され、神の声に耳を傾けること、とセットになってる。

 実際、たとえば、

 「私がシスターになりたかったわけじゃない、神に呼ばれたんだ」

 というような証言はよく耳にする。

 だとすると、この場合の神は、「絶対」とか「超越」には置き換えられない。
 有神論や理神論の神でも呼んでくれなさそうだ。
 「無」神論の神だけが、「呼んでくれる神」と相補的存在だから、沈黙によって、存在を主張してる。

 ともかく、「超越」は、こちらからの探求はできるけど、超越の方が声をかけてくれたり、こちらを見つけに来てくれるというのは無理だ。
 「呼んでくれる神」というのが、ひょっとしてキリスト教的ペルソナ神のいいところかもしれない。

 神に呼ばれるというのはどんな感じだろうか。
 ついつい、統合失調症の「やらされ体験」症状だとか、いわゆる「電波系」のこととか思い出してしまう。実際、神秘家と呼ばれている人の「お告げ体験」も、現象だけを見ると明らかに病理的なものもある。

 今年になって、大部の『聖母マリア御出現事典』(Fayard)を出したこの道の権威ローランタン師は、2000年には、400から500の事例と言っていたのに、いまや、2450例を挙げている。「御出現」が何らかの(信仰にとってポジティヴな)跡を残した、何かを生んだ、という例を全部数えたらそうなったのだそうだ。御出現はドグマでないから、線の引きようがない。公認されたのはたったの13か14(間接的)だそうだ。公認といっても、容認みたいなもので、司教や教皇も、非公式になら個人的に信じていることを公言してもいい、とされている。

 ともかく、信仰というのはどうやら双方向的なものであるようだ。
 呼びかけに答えたり、召しだしに応じたりすることも探求の一つの形であり、逆に、神はどこにいるんだろうと探しそうとすることがすでに神から見出されていることになるのかもしれない。神とはそうやって双方向的なかたちではじめて存在するのだろうか。


 
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by mariastella | 2008-09-16 08:24 | 宗教

神の存在の仕方

 今日はルルドでの教皇ミサをTVでちょっと見た。

 昨日のアンヴァリッドの野外ミサの方がよかったな。

 国際色豊かなところがルルドっぽいし、水が潤沢にふるまわれるところもルルドっぽいが、各国から枢機卿とか偉い人がたくさんいるのが、ルルドとそぐわない。
 ルルドは弱い人が主役のところだから、偉い人が並ぶと変だ。
 最晩年のJP2がぼろぼろになった体で巡礼したのは似合ってたけど。

 『理性の限界』(講談社現代新書)で、ハイゼンベルクの不確定理論とかについて読み返してたら、聖なるものって、光子とか電子みたいに存在してるのかなあ、と思った。つまり、あるべきところ全体に波のように広がっていて、見神者という観察者が現れると御出現みたいに、粒子的ににキャッチされるという感じ? 御出現は聖なる電子の波の収縮。しかし、聖なるものはどこかでキャッチされても、収束した残りが消えるわけじゃない。比喩はぴったりこないかな。
 もっとも、波とか粒子とかいう概念そのものがニュートン物理学的概念だから、パラダイムを変えれば、電子のありようだって別に奇妙じゃないのかもしれない。神のありようだって、実はすごく自然で、人間の体の原子の中で電子が「奇妙な形」で存在してるように、内的でミクロなところにも充満してるのかも。

 それに、「神は存在する」というのは、実は、真偽性と関係ないのかもしれない。
 つまり、「神は存在する」というのは、命題ではなく、感嘆文なのである!!
 だとしたら、 「神は存在しない」というのは必死の「命令文」かも。

 そして、有神論と無神論は電子の波と粒子みたいに相補的な共存の仕方をしているのかもしれないな。

 こう考える方が、不完全定理による神の非存在論よりもずっとおもしろい。

 道元なんかは、「佛性があるとかないとかいう言い方についての限界や例外が本当にあり得ないのか」を問うたそうである。それは、「佛性があるかないか」という言い方が自壊するほどに問いを強靭にすることらしい(by宮川敬之)。

 これも、存在するとかしないとかを命題にすることの拒否だろう。

 道元って、すごく弁証法的だし、近代的だなあ。空海がスコラ哲学的なのとは大分違う。

 
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by mariastella | 2008-09-15 02:49 | 宗教

B16 の野外ミサ

 朝11時にアンヴァリッドのミサがどうなってるかと思ってTVをつけたら、1チャンネルも2チャンネルも中継をやっていた。25万人とかいう人出だそうだ。

 TVの解説を聞いていると、数年前のJP2の臨終と葬儀の時にTVがヴァチカン放送みたいになってたのを思い出した。

 JP2ほどのカリスマ性も演技性もないB16だが、人は目にみえるシンボルが好きなんだなあ。
 アンヴァリッドに集まった若者の1人がインタビューされて、「人生と愛とSEXについての教皇の大事なメッセージを期待してる」と返事していた。

 どんな育ち方をしたらこんなことを真面目に言えるんだろう。

 戦争中などの国でレイプされて妊娠したが中絶したくないと思う女性が、教皇の言葉にすがれるのはいいなと思う。中絶はつらくとも、まあ日にち薬というのがある。でも子供を生めば一生だ。中絶できるんならすればよかったのに、と周り中から思われながら子供を育てるのはつら過ぎる。少なくとも、「教皇様」は一生この誕生を祝福してくれる。

 それに中絶する人はそれどころじゃなくて、ヴァチカンの意向なんて最初から気にしてない。いわゆる信者でも、罰則さえなきゃどうってことない。
 第一、中絶禁止を含む「Humanae Vitae」って、51%対49%の多数決で採択されている。 実際、もっとリベラルな決定をしている司教会議〈ベルギーなど〉だってある。
 カトリックより保守的なことも多い正教においても、この種の決定〈中絶など〉は、当事者と司祭とがプライヴェートに相談して合意した決定を教会は批准する、ってなっている。

 いや、素直な若者を揶揄してるわけではない。でも、一応平和な国フランスで、裕福そうな多分ブルジョワの階級の若者が、愛や人生やSEXについてくらい、自分で悩めよ、と思う。最初からアドヴァイスやガイドラインに期待するなよ。

 ま、フランスは伝統的に反教権主義が盛んだったから、教皇が人を集めてることにアレルギー反応を示す人もたくさんいる。
 でも、教皇を生で見て感激してぽーっとしている信者さんの顔を見てると、ついこないだフランスに来ていたダライラマを拝んでた熱心なフランス人仏教徒たちと同じ顔だ。

 宗教儀礼は社会的な連帯体験として優れているという見方もある。

 今はちょうど、共産党の「ユマニテ祭」の時期でもある。

 集団で儀礼や祝祭で盛り上がるには、メガ・アイドルのコンサートというのもあるだろうし、スポーツ観戦もあるだろうし、まあそういうのは栄枯盛衰が激しいと客の方も知ってるから、個人崇拝の次期は短い。
 熱狂的な党大会っていうのは体質的に嫌いだ。独裁者に万歳というのは問題外。

 まあ、息子を大企業のパトロンの娘と結婚させたどこかの大統領の周りで熱狂したり陶酔したりするよりは、80近くで最高位に就いたものの子孫も持たず家庭も持たぬB16や、同じく生涯独身で苦労人のダライラマを見て感涙を流す方がずっとましである。

 B16は芝居気がないから、ミサも地味である。でも、聖餐のために、司祭たちがずらりと列をなして、アレクサンドル3世橋の方までびっしり埋まった信者に聖体を運んで配るのは、壮観だ。お天気良くてよかったねえ、そう、君、教皇からのアドヴァイスを待ってた君の心がけが良かったんだよ、と言いたくなる。
 このイエスの「体」を食べることをもって、キリスト教って、カニヴァリズムで野蛮で好戦的だって言うこちらのインテリがいるが、シエナの聖カタリナでもなければ、ぱりんとした聖体パンを「ああ、血の滴る主の体だなあ」と陶酔して食べる人はいないだろう。

 むしろこのシーンは、イエスが、パンや魚を奇跡的に増やして4千人とか5千人の群集に分けて食べさせた文字通りの「分かち合い」、のイメージだろうな。聖体拝領してアドレナリンが出て聖戦に出発って思う人はいないだろう。お釈迦さまにさし上げるものが何もないからって、自分の身を火に投げたウサギの話なんかの方が迫力があるくらいかもしれない。

 で、ミサはほとんどフランス語だが、「主の祈り」はラテン語だった。TVの画面を見てると、言えてない若者も多そうだった。唇の動きから、明らかに勝手にフランス語で唱えてるなあ、という人もいそうだった。ま、解説によると、B16は懐古趣味でなく、多様性を取り戻したいと思っているんだそうで、ミサは美しさや沈黙の部分を大切にして、聖なるものの喚起を目指してるんだそうだ。

 私は個人的には静かなのが好きだ。熱狂は困る。

 こういう「荘厳」な儀礼を見るのはいやじゃない。

 昭和が終わった時には日本にいなかったので、いろんな儀礼の荘厳さとかが実感できなかった。日本のTVの記憶で、荘厳っぽいのは、大晦日の「ゆく年来る年」くらいである。除夜の鐘はもちろん、あれで、毎年、はい、長崎の天主堂の大晦日のミサの風景です、みたいなのがキリスト教風景としてインプットされた。儀礼とは、「超越の探求」の装置なんだろうなあ。

 病者や障害者がヴォランティアに先導されて前の優先席に陣取ったり、教皇から直接聖体拝受する人が、セレブじゃなくて「貧しい人(といっても厳選されてるんだろうけど)」優先っていうのもお約束とはいえなかなかいい。

 アベ・ピエールの後でエマウス共同体のトップになっていたマルタン・ヒルシュが、サルコジの左派取り込み路線で閣僚になっているが、この夏、ついに、悲願のRSA法案を大統領に承認させた。20年前社会党政権が実現したRMIという最低保障支給の進化形だ。日本でも、生活保護を受けてる人が少しでも働き出すと打ち切られてしまうという問題があるように、RMIも、パートでも働くともらえなくなって、生活が成り立たないので働かない方がまし、というケースが多かったのだ。
 今回の連帯アクティヴ保障は、収入に応じて、足らない分を補給してくれる。その財源は庶民からでなく資本からとりたてる。簡単そうで難しい改革である。

 そう、「社会的弱者に仕えよ」というのがイエスのメイン・メッセージであって、その意味で、キリスト教は本来とても「ソシアル」なのだ。

 Patrice de Plunkett が「convertiは必然的にソシアルに向かう」というようなことを書いていた。converti とは回心者のことで、この文脈では「真に神に目覚めた者は」、というような意味だろう。  
 してみると、B16風に言って神の探求は文化とか美に向かい、神の目覚めは弱者救済に向かうのか? 多分同根なんだろう。そうでない神なんて存在論より存在理由論の対象になりそうだ。
 
 
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by mariastella | 2008-09-14 00:12 | 宗教

超越について その2 

 昨日、B16が一般向けに言ったことの中で、文化の真の基礎は神の探求にある、みたいなのがあった。「真の=veritable(B16はフランス語が達者なんでフランス語の講演だ)」というのは、「相対主義」と戦う彼の文脈の中では「絶対」に近いかな。

 この「神の探求(recherche de Dieu)」について、「価値の探求と同義ですね」と解説した人がいた。「絶対の探求ですね」という人も。

 フランスのインテリが、教皇の言葉を非宗教的に言い換えるこだわりはおもしろい。
 日本人が天皇制について、客観的にものを言いにくかったり、すぐに誤解されてしまうのを恐れるのと同じだ。

 その分裂ぶりを正直に語って好感が持てたのは、ジャーナリストのジャック・ジュリアールである。彼は自分のことを

 「心理的には無神論者、

  文化的には反教権主義者、

  霊的にはキリスト者」


 だと言っている。

 朝起きると、無神論者だし、考え方も無神論者。
 家庭、教育など成育環境からは反教権主義者。つまり、カトリック教会や教皇の権威に批判的。
 しかし、スピリチュアルには、キリスト教的教養があり、イエスのメッセージを核においている、んだそうだ。ヨーロッパ世界の平和主義とかユニヴァーサリスムとか、神の前の平等主義はたいていイエスのメッセージから来てるんだから無理もない。

 平均的な戦後日本人の私は、一神教的な無神論の感覚はない。
 困った時に「神さま、ほとけ様」、と言う時点で神も無神論もない。有神論のないところでは無神論もないのだ。無神論は有神論や理神論のヴァリアントであり進化形であり、神を担保するものだ。
 カトリックは超マイノリティだから、日本には反教権主義なんてものもない。フランスに反ダライラマがないみたいなもんだ。
 日本では同じマイノリティであるある種のカルトやプロテスタントなんかが反カトリックを唱えるかもしれないが、一般の人はその区別なんてつかないだろう。

 で、ジュリアールが、霊的(=spirituellement)にはキリスト者(=chretien)、って言っちゃえるところもフランス的だなあ。日本人が「霊的にはご先祖様信仰」という程度の自然さと根深さがありそうだ。

 そして、こういう正直なインテリたちが、教皇に、彼らのアイデンティティの分裂ぶりを破壊しないような言辞を期待する様子はおかしい。教皇はカトリックの長なんだから、いくらヨーロッパ的インテリであっても、無神論や反教権主義にはなり得ないんだから、「神」を口にして何ぼである。
 
 で、「文化の真の基礎(拠り所、土台=fondement)が神の探求にある」ってところだが、分裂気味キリスト者のインテリたちは、これを「絶対価値の探求」とか、「超越の探求」とか置き換えて、霊的な共感を示したりするのである。

 しかし、「神の探求」が「価値の探求」とか、「超越の探求」とかに置き換えられるとしたら、文化の拠り所として重要なのはひょっとして「探求」の部分ではないだろうか。

 彼らの言ってるのは、「探求が文化の源泉である」ということで、人が神や価値や絶対や超越を押し付けられたら、そこには真の文化が成立しないってことかもしれない。

 そう考えたら、超越って言葉のよさも分かる。

 神だの価値だの絶対だのは、

 「ほうら、これこれであるぞ、ありがたく拝め」

 という風に「おしつけられ」がちである。

 いや、歴史においてはたいてい、権力者による支配ツールになってきた。

 しかし「超越」と言ってしまえば、せいぜい、その方向を漠然と指すだけで、何しろ超越なんだから、押し付けにくい。
 超越という概念は、神や何々主義や価値の押し付けの安全弁になり得る。

 本当に大切なものは目には見えないんですよ、

 というやつだ。

 本当に大切なものを見ようとする視線だけが残る。
 探求が残る。

 文化とか芸術が生まれてくる。

 という仕組みかもしれない。

 そしなら、

 「ひょっとしたら、神も仏もいないのかも」

 って疑いだした人が、「超越」まで放り捨てて、

 物質主義の中で固定されたり、
 現実を失ってヴァーチャルなコンフォルミズムの波にすくわれたり、
 金やブランドや権力の偶像をひたすら拝んだり

 という自体を防げるかもしれない。

 だとしたら、超越が必要なのは、永遠の探求を可能にしてくれるからだ。

 探求の自由を含まない自由なんて、自由じゃない。


 
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by mariastella | 2008-09-13 22:44 | 宗教

超越について

 公営TVをつけてみたら、教皇のパリ到着の特別番組をやっている。
 
 ヨーロッパ人は3人に一人は「信者」と答え、フランス人は2人に1人しか信じてると言わない。無神論者が一番多いのもフランス。
 でも、JP2がなくなった前後は、全チャンネルがヴァチカンに釘付けだったし、今回もいざ教皇が来るというと、明日のアンヴァリッドのミサのためにフランス中から集まる若者が今夜から広場で集まるのだそうだ。今日の午後は多分ライシテに関してのスピーチ、夜はノートルダム、日曜はルルドのミサ、これもTVで放映されると言っていた。
 こういう時は、フランスはカトリックの国なんだなあと思う。ミシェル・オンフレイのような昔タイプの無神論者が健在なのもそのせいだろう。 
 サルコジ夫妻は教皇を空港に迎えた。これも信者というより、ブッシュ夫妻の猿真似だろうな。調子に乗ってライシテ・ポジティヴで「神、神」って言うなよ。

 今執筆中の本のために無神論を研究することは、思想史や精神史をすべて無神論のフィルターにかけなおすことだった。
 私は平均的日本人なんで、神がいるとかいないとかの論議にはあまり揺さぶられないだろうと思っていた。

 意外だったのは、「超越」は存在しないという論議だった。

 神とか「聖なるもの」は、文化や歴史の産物なので、いろいろなヴァリエーションがあると思っていたが、漠然と、「超越存在」はあると信じていたらしい。

 ある意味で、超越はまさに超越なんだから、「どのようにあるか」は意味論的には認識できないんだが、人間が、生まれる前とか、死んだ後とかの観念を持つ以上、この世の時空以外の「超越」観念をかかえているのは自明だと思っていたのだ。
 音楽のような非物質的な美を鑑賞したりできることも、「超越」を受け入れられやすくしていたかもしれない。
 
 でも、無神論にまつわる物質主義というのは、一貫して「超越」の否定だったのだ。
 
 ボードリヤールが継承したので日本でも知られているギイ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』のことを考える。

 資本主義のプロパガンダ、中央集権的なマルキシズムのプロパガンダ、嘘、虚構に基づいている点で実は一つのものであるとドゥボールは看破し、いまや、その統合形が北京オリンピックとなった。現代世界は市場経済原理が自律的に牛耳るので政府の力や責任は幻想に近い。
 で、現実と虚構が相互貫入し、一種のニヒリズムが生まれ、それも、アクティヴなニヒリズムというか、破壊、脱構築の世界である。
 今は、相互貫入どころか、ウェブの発達でヴァーチャル世界が現実の外装フィルムみたいになっている。人はそのフィルムの上で生きている。あるいはフィルムと現実の隙間で。

 そして、超越が消滅する。

 つまり、世界は、現実を失った時に、「神」も一緒に失うのだ。

 ということは、実は、「神は現実の側にいる(いた)」らしい!

 神や超越が現実を担保していたのだ。
 少なくとも、現実構築の一要素だった。

 虚構の世界には、政府が要らないように、神も要らない。

 神や聖なるものなんて「嘘だ、迷信だ」と、無神論者が長い間声を上げてきたが、何のことはない、世界中が虚構になれば、神も消えるのだ。

 仏教が、現実の苦悩からの救済理論として、超越を否定した無神論だというのも、こう考えるとロジックである。
 苦悩に満ちた「この世」は幻に過ぎない。
 つらい現実と見えるものは、存在のモード、命のモードの一つに過ぎず、不定のものである。
 現世は夢まぼろし。苦悩はもうないし、神や超越も必要ない。

 大日如来なんかテイズムの神に似てるしな。テイズムやデイズムは無神論のヴァリエーションだった。

 西洋における「汎神論=パンテイズム」という言葉も、無神論を指す造語だったことを思うと、感慨深い。

 じゃあ、ネオリベのアメリカ人がしきりに神、神、って言ってるのは一体なんだ。
 アリバイか?
 神を口にすることでよりよく虚構世界を管理するつもりなんだろうか。

 私はヴァーチャルな人間ではないらしく、また、この世は幻と見る悟りにも程遠く、超越とセットになった現実を実感してるようだ。

 考えてみると、フランス・バロック音楽理論とその実践における人工性というものは、広い意味では現代と同じ「虚構」や「スペクタクル」でも、実は脱構築やニヒリズムとは正反対で、「超越と現実をセットで再構成する」という意思と方向性を持っている。

 だから、楽しい。
 果たして強者の遊びなんだろうか。
 「生の歓び」っていうのは私にとって自然な一つのテーマなんだけど。
 人は、神が死に、現実を失った世界でも、楽しく生きられるのか?

 (余談だが、ドゥボールに触れようとして、「状況主義」という言葉を日本語で検索してみたら、状況によって行動が変わるというパーソナリティ理論とか、日本は状況主義国家で状況に流されるだけ〈日和見に近い意味らしい〉、なんていうのが最初に出てきた。芸術運動としても、68年当時の過激左派としても、「状況主義」は消滅した感がある。)
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by mariastella | 2008-09-12 19:48 | 宗教

B16 がフランスに来ることでいろいろ。

 ベネディクト16世がフランスに来るんで、それなりに盛り上がってる。ライシテ・ポジティヴとかいってサルコジが馬鹿なことをしたり言ったりしませんようにと、フランスのカトは冷や冷やしている。フランスのカト側は、もう、ライシテとカトリックの対立は過去のことで、教皇が来たからといって、カトは、特にプロパガンダを展開しようというわけではない。サルコジの変に宗教っぽい挑発的言動によって政治的な厄介ごとが起きないように願っている。
 サルコの宗教趣味は、ハンガリー貴族というその出自のせいではなくて、WASP的アメリカの政治的セレブが宗教帰属を表に出して宗教ロビーを大事にしてることの猿真似であろう。

 私個人は、B16個人が相変わらず、どちらかというと好きだ。いつも見た目が可愛いと思うんで、彼が悪人顔とかいう人の気持ちが全然分からない。
 若い時の写真なんてほんとうにハンサムで可愛くて上品だ。ちょっとワイルドなお兄さんと対照的。

 確かに、教理省の長官だったり、ドイツ人だったり、悪名高いDominus Iesus を発表したり、こわもての保守主義者ってイメージはあるが、何しろここ3世紀の最高齢で教皇位に就いただけあって、もうすっかりJP2晩年と重なるような枯れぶり。

 『ナザレのイエス』って著書を出したが、序文で、教皇でなく一神学者として書いたと断る腰の低さで、教皇庁プレスのイエズス会士は、わざわざこういう区別をしたことに不満だったらしい。

 後、私がB16を好きな二つの理由。

 彼はヴァチカンの自分の部屋にピアノを入れた。ヴァカンス先でもピアノを弾いて、それを写真に撮らせたりTVに映されても嫌がらない。大体、モーツアルトがレパートリー。で、
 ピアノを弾くとき、たとえ写真に撮られても平気で右手の薬指の聖ペトロの指輪を外す。教皇のシンボルの一つの金の重そうなやつである。だから、ピアノを弾くときには外して、重ねた楽譜の上とかにちょこんと置いておく。

 どうでもいいことかもしれないけれど、楽器を弾くときにできるだけ軽くしようとしてブレスや腕時計や指輪を外す私には親愛感を感じさせる。これって、なんていうか、人間として信頼感と好感をそそる。

 もう一つは、うふっ、彼が猫好きなところ。

 Pentlingの地所にいるお気に入りの猫は私好みのクリーム・ベージュのヨーロピアンのChicoちゃん。なんと、ドイツでは、『ヨーゼフ(B16の名)とChico』っていう子供向きの本まで出ていて、Chicoちゃんの視点でB16の生涯が語られてるそうだ。教皇秘書官の序文つきで。

 まあね、キリスト教の未来を考えるなら、私はベルギーのガブリエル・ラングレ神父と同意見で、はっきり言って、今のローマ教会とかは、もう、肥大と硬化と、地政学的コンテキストのせいで、キリスト教の本質を貫くのは無理、まあ、歴史によって学習した智恵と技術を駆使して、今できる限りの最大の寄与を地球の平和と安全のためにがんばってしてください、と思うだけだ。

 聖アウグスチヌスを通したプラトン主義者であると自他共にいうB16だって、だから、本来は、キリスト教のイデアに忠実でいようと努力しているのだ。宗教と理性が切り離せないという、グレコ=ロマンの伝統にある人で、その思考の方程式は、

 「信仰 + 理性 = 解放する真実」

 というのに尽きる。

 ナチズムの全体主義の中では、聖職を選ぶことが内的自由の確保だった。それはJP2も同様だ。

 その後、そのリベラルな精神を維持していたが、1960年代以降のポストモダン的相対主義に失望した。

 逆説的ではあるが、ポストモダン的な相対主義や脱構築は、ユニヴァーサル理念を瓦解させる結果、ばらばらの個人を「エゴと欲望に忠実であれ」という知的モラル的な画一主義へと向かわせがちなのである。そういう画一主義を利用して個人を消費者として再編成するマーケットの力がそれを助長する。

 だから、B16が、ヴァチカンⅡの重要性よりも、キリスト教を「イエス・キリストとの出会い」に位置づけなおそうとした気持ちも分かる。

 残念なのは、ちょっとKYで、メディアの使い方に疎いし、自分でヴァチカン政治に乗り出さず全てを担当枢機卿に委任したりするので、去年、ワルシャワ新大司教の就任の日に共産党秘密警察との関係が暴露されるとか、この春、宗教間対話担当のトラン枢機卿が知らされぬままに元ムスリムを洗礼してしまうとか、齟齬が生じる。
 エコロジーがらみなどでなかなかいいことも言ってるのに注目されず、保守的な言動ばかり叩かれる。

 プラトン=アウグスチヌス系の世界観が、アリストテレス=トマス系と違ってペシミスティックなのも暗い感じだ。

 しかし、彼は、JP2の対極で、演技とか、演出とかを絶対にしない人で、根回しやらロビーイングにも疎い人、信者に個人崇敬されることを嫌い、カリスマ的でないので、相手を魅惑したり呪縛しないで、自由にさせる人だそうだ。目立たず、無理をせず。

 今回、現役教皇としてルルドに巡礼する二人目で、ポーランドの田舎っぽいイメージのJP2ならいざしらず、知的で理性主義のドイツ人B16までがルルドに来るんだぜ、って感じでフランス人カトはけっこうはしゃいでる。

 でも、マリアの「母なる御加護をみなさんに・・・」なんてメッセージを口にしてるのをTVで見ると、白髪の教皇と聖母崇敬は似合ってるよな、と思う。
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by mariastella | 2008-09-12 01:26 | 宗教

Theopsychologie

 ドイツの哲学者 Peter Sloterdijik が Theopsychologie というのを提唱している。従来の宗教異常心理学とちょっと違って、主に一神教原理主義に現れる死への傾斜、タナトスから人々を解放しようというものだ。

 イスラムのジハードとか、キリスト教が聖餐で犠牲の救世主の血をみなで飲み合うというようなのは本来の戦いのエネルギーよりも死を鼓舞し、ストレスが最大になると彼は言う。

 アメリカの終末論的カルトグループには、堂々と自殺奨励を謳ったもの(安楽死教会、1991よりChrissy Korda)がある。

 「他者を破壊するより、自分を壊せ、動物を破壊するより、自分を壊せ、太陽と森を破壊するより自分で死ね、今夜、今すぐ」

 と勧めている一種のディープ・エコロジーだが、宗教法人として認められていて税金優遇処置を受けている。
 ヨーロッパではいくらなんでもこんなことはない。

 どちらにしても、宗教原理主義と死への傾斜が一神教に特有というのは、ちょっと違うだろう。

 破壊的な宗教原理主義との戦い方には、啓蒙主義以来、アングロサクソン型とフランス型と2種ある。

 ジョン・ロックが、どのような宗派も自分たちを正統だと思っているのだから、共存には寛容の道しかない、狂信主義とは、いつも、権力と権威に抵抗する人間の戦いの徴であるのだから、と言った。

 つまり、権力側が寛容を示して共存を認めれば、狂信はなくなると思ったのだ。確かに、21世紀の宗教原理主義のテロリズムなどは、ネオリベの競争原理に取り残された南北格差や貧困などによって拍車がかかっているかもしれない。でも、ジョン・ロック型の、どんなおかしな言い分の宗教でもみんな寛容の精神で公認してしまうというやり方で、自他の破壊主義が緩和するとは言えない。

 フランス型はヴォルテール型で、狂信は伝染病のようなものだと言う。野放しにすると広がるばかりなので、予防や撲滅も必要だと言う。

 フランス型は一つ間違うと、アンチ・リベラルの全体主義にも使われそうだ。実際、初期共産主義社会では、宗教そのものが、天然痘みたいに撲滅すべき対象だと考えられた。

 ここに「自由」尊重の問題も関わってくる。自然な内なるモラルを行使することが真の自由であり、神はそのような実践理性に要請されるものだとカントは言った。カントの考えるような内なるモラルや自然とは、タナトスや破壊衝動から免れているのだろう。

 Sloterdijik によるテオ・サイコロジー=神心理学、の提唱も、考えると、皮肉だ。もともと心理学の成立そのものが、無神論の一表現だったからだ。神や神々にリアリティのある社会や文化圏では、心理学など存在せず、発祥もなかった。というか、全ての「人文科学」が、神を心的現象に疎外したのだ。
 少なくとも西洋近代史の中では、科学と宗教が対立するのではなく、人文科学と神学が対立するのだ。無神論の誘惑に最も悩んだのは、自然科学者ではない。
 それを思うと、明治の日本の和魂洋才なんて簡単だった。

 エコロジーとの関連でいくと、Patrice de Plunkett の提唱する「新しい解放の神学」の、消費主義と決別する姿勢は共感が持てる。でもこの人のブログを見てると、明日からフランスにやってくるローマ教皇萌えぶりにちょっと引いてしまう。彼が福音派やオプス・デイと仲よさそうなところも。

 いくらよいテキストを発表しても、著者は当然、コンテキストも読まれてしまう。他のところで言ったり書いたりしたことを完全に囲ってしまうことはできない。肝に銘じなくては。

 
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by mariastella | 2008-09-11 19:42 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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