L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 300 )

神に呼ばれる時

 超越についてのその2で「文化の真の基礎」と書いてしまったが、今日、教皇の講演を読み返すと、「真の文化の基礎」だった。
 訂正ついでに、その部分を載せておく。理性についてのB16の見方がよく分かる。

« Chercher Dieu et se laisser trouver par lui : cela n’est pas moins nécessaire aujourd’hui que par le passé. Une culture purement positiviste, qui renverrait dans le domaine subjectif – comme non scientifique – la question concernant Dieu, serait la capitulation de la raison, le renoncement à ses possibilités les plus élevées et donc un échec de l’humanisme, dont les conséquences ne pourraient être que graves. Ce qui a fondé la culture de l’Europe, la recherche de Dieu et la disponibilité à l’écouter, demeure aujourd’hui encore le fondement de toute culture véritable. 》

 で、よく見てみたら、Chercher Dieu や、la recherche de Dieu は、
 se laisser trouver par lui と、la disponibilité à l’écouter とセットになっているのだ。

 神を探すことは、神に見出され、神の声に耳を傾けること、とセットになってる。

 実際、たとえば、

 「私がシスターになりたかったわけじゃない、神に呼ばれたんだ」

 というような証言はよく耳にする。

 だとすると、この場合の神は、「絶対」とか「超越」には置き換えられない。
 有神論や理神論の神でも呼んでくれなさそうだ。
 「無」神論の神だけが、「呼んでくれる神」と相補的存在だから、沈黙によって、存在を主張してる。

 ともかく、「超越」は、こちらからの探求はできるけど、超越の方が声をかけてくれたり、こちらを見つけに来てくれるというのは無理だ。
 「呼んでくれる神」というのが、ひょっとしてキリスト教的ペルソナ神のいいところかもしれない。

 神に呼ばれるというのはどんな感じだろうか。
 ついつい、統合失調症の「やらされ体験」症状だとか、いわゆる「電波系」のこととか思い出してしまう。実際、神秘家と呼ばれている人の「お告げ体験」も、現象だけを見ると明らかに病理的なものもある。

 今年になって、大部の『聖母マリア御出現事典』(Fayard)を出したこの道の権威ローランタン師は、2000年には、400から500の事例と言っていたのに、いまや、2450例を挙げている。「御出現」が何らかの(信仰にとってポジティヴな)跡を残した、何かを生んだ、という例を全部数えたらそうなったのだそうだ。御出現はドグマでないから、線の引きようがない。公認されたのはたったの13か14(間接的)だそうだ。公認といっても、容認みたいなもので、司教や教皇も、非公式になら個人的に信じていることを公言してもいい、とされている。

 ともかく、信仰というのはどうやら双方向的なものであるようだ。
 呼びかけに答えたり、召しだしに応じたりすることも探求の一つの形であり、逆に、神はどこにいるんだろうと探しそうとすることがすでに神から見出されていることになるのかもしれない。神とはそうやって双方向的なかたちではじめて存在するのだろうか。


 
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by mariastella | 2008-09-16 08:24 | 宗教

神の存在の仕方

 今日はルルドでの教皇ミサをTVでちょっと見た。

 昨日のアンヴァリッドの野外ミサの方がよかったな。

 国際色豊かなところがルルドっぽいし、水が潤沢にふるまわれるところもルルドっぽいが、各国から枢機卿とか偉い人がたくさんいるのが、ルルドとそぐわない。
 ルルドは弱い人が主役のところだから、偉い人が並ぶと変だ。
 最晩年のJP2がぼろぼろになった体で巡礼したのは似合ってたけど。

 『理性の限界』(講談社現代新書)で、ハイゼンベルクの不確定理論とかについて読み返してたら、聖なるものって、光子とか電子みたいに存在してるのかなあ、と思った。つまり、あるべきところ全体に波のように広がっていて、見神者という観察者が現れると御出現みたいに、粒子的ににキャッチされるという感じ? 御出現は聖なる電子の波の収縮。しかし、聖なるものはどこかでキャッチされても、収束した残りが消えるわけじゃない。比喩はぴったりこないかな。
 もっとも、波とか粒子とかいう概念そのものがニュートン物理学的概念だから、パラダイムを変えれば、電子のありようだって別に奇妙じゃないのかもしれない。神のありようだって、実はすごく自然で、人間の体の原子の中で電子が「奇妙な形」で存在してるように、内的でミクロなところにも充満してるのかも。

 それに、「神は存在する」というのは、実は、真偽性と関係ないのかもしれない。
 つまり、「神は存在する」というのは、命題ではなく、感嘆文なのである!!
 だとしたら、 「神は存在しない」というのは必死の「命令文」かも。

 そして、有神論と無神論は電子の波と粒子みたいに相補的な共存の仕方をしているのかもしれないな。

 こう考える方が、不完全定理による神の非存在論よりもずっとおもしろい。

 道元なんかは、「佛性があるとかないとかいう言い方についての限界や例外が本当にあり得ないのか」を問うたそうである。それは、「佛性があるかないか」という言い方が自壊するほどに問いを強靭にすることらしい(by宮川敬之)。

 これも、存在するとかしないとかを命題にすることの拒否だろう。

 道元って、すごく弁証法的だし、近代的だなあ。空海がスコラ哲学的なのとは大分違う。

 
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by mariastella | 2008-09-15 02:49 | 宗教

B16 の野外ミサ

 朝11時にアンヴァリッドのミサがどうなってるかと思ってTVをつけたら、1チャンネルも2チャンネルも中継をやっていた。25万人とかいう人出だそうだ。

 TVの解説を聞いていると、数年前のJP2の臨終と葬儀の時にTVがヴァチカン放送みたいになってたのを思い出した。

 JP2ほどのカリスマ性も演技性もないB16だが、人は目にみえるシンボルが好きなんだなあ。
 アンヴァリッドに集まった若者の1人がインタビューされて、「人生と愛とSEXについての教皇の大事なメッセージを期待してる」と返事していた。

 どんな育ち方をしたらこんなことを真面目に言えるんだろう。

 戦争中などの国でレイプされて妊娠したが中絶したくないと思う女性が、教皇の言葉にすがれるのはいいなと思う。中絶はつらくとも、まあ日にち薬というのがある。でも子供を生めば一生だ。中絶できるんならすればよかったのに、と周り中から思われながら子供を育てるのはつら過ぎる。少なくとも、「教皇様」は一生この誕生を祝福してくれる。

 それに中絶する人はそれどころじゃなくて、ヴァチカンの意向なんて最初から気にしてない。いわゆる信者でも、罰則さえなきゃどうってことない。
 第一、中絶禁止を含む「Humanae Vitae」って、51%対49%の多数決で採択されている。 実際、もっとリベラルな決定をしている司教会議〈ベルギーなど〉だってある。
 カトリックより保守的なことも多い正教においても、この種の決定〈中絶など〉は、当事者と司祭とがプライヴェートに相談して合意した決定を教会は批准する、ってなっている。

 いや、素直な若者を揶揄してるわけではない。でも、一応平和な国フランスで、裕福そうな多分ブルジョワの階級の若者が、愛や人生やSEXについてくらい、自分で悩めよ、と思う。最初からアドヴァイスやガイドラインに期待するなよ。

 ま、フランスは伝統的に反教権主義が盛んだったから、教皇が人を集めてることにアレルギー反応を示す人もたくさんいる。
 でも、教皇を生で見て感激してぽーっとしている信者さんの顔を見てると、ついこないだフランスに来ていたダライラマを拝んでた熱心なフランス人仏教徒たちと同じ顔だ。

 宗教儀礼は社会的な連帯体験として優れているという見方もある。

 今はちょうど、共産党の「ユマニテ祭」の時期でもある。

 集団で儀礼や祝祭で盛り上がるには、メガ・アイドルのコンサートというのもあるだろうし、スポーツ観戦もあるだろうし、まあそういうのは栄枯盛衰が激しいと客の方も知ってるから、個人崇拝の次期は短い。
 熱狂的な党大会っていうのは体質的に嫌いだ。独裁者に万歳というのは問題外。

 まあ、息子を大企業のパトロンの娘と結婚させたどこかの大統領の周りで熱狂したり陶酔したりするよりは、80近くで最高位に就いたものの子孫も持たず家庭も持たぬB16や、同じく生涯独身で苦労人のダライラマを見て感涙を流す方がずっとましである。

 B16は芝居気がないから、ミサも地味である。でも、聖餐のために、司祭たちがずらりと列をなして、アレクサンドル3世橋の方までびっしり埋まった信者に聖体を運んで配るのは、壮観だ。お天気良くてよかったねえ、そう、君、教皇からのアドヴァイスを待ってた君の心がけが良かったんだよ、と言いたくなる。
 このイエスの「体」を食べることをもって、キリスト教って、カニヴァリズムで野蛮で好戦的だって言うこちらのインテリがいるが、シエナの聖カタリナでもなければ、ぱりんとした聖体パンを「ああ、血の滴る主の体だなあ」と陶酔して食べる人はいないだろう。

 むしろこのシーンは、イエスが、パンや魚を奇跡的に増やして4千人とか5千人の群集に分けて食べさせた文字通りの「分かち合い」、のイメージだろうな。聖体拝領してアドレナリンが出て聖戦に出発って思う人はいないだろう。お釈迦さまにさし上げるものが何もないからって、自分の身を火に投げたウサギの話なんかの方が迫力があるくらいかもしれない。

 で、ミサはほとんどフランス語だが、「主の祈り」はラテン語だった。TVの画面を見てると、言えてない若者も多そうだった。唇の動きから、明らかに勝手にフランス語で唱えてるなあ、という人もいそうだった。ま、解説によると、B16は懐古趣味でなく、多様性を取り戻したいと思っているんだそうで、ミサは美しさや沈黙の部分を大切にして、聖なるものの喚起を目指してるんだそうだ。

 私は個人的には静かなのが好きだ。熱狂は困る。

 こういう「荘厳」な儀礼を見るのはいやじゃない。

 昭和が終わった時には日本にいなかったので、いろんな儀礼の荘厳さとかが実感できなかった。日本のTVの記憶で、荘厳っぽいのは、大晦日の「ゆく年来る年」くらいである。除夜の鐘はもちろん、あれで、毎年、はい、長崎の天主堂の大晦日のミサの風景です、みたいなのがキリスト教風景としてインプットされた。儀礼とは、「超越の探求」の装置なんだろうなあ。

 病者や障害者がヴォランティアに先導されて前の優先席に陣取ったり、教皇から直接聖体拝受する人が、セレブじゃなくて「貧しい人(といっても厳選されてるんだろうけど)」優先っていうのもお約束とはいえなかなかいい。

 アベ・ピエールの後でエマウス共同体のトップになっていたマルタン・ヒルシュが、サルコジの左派取り込み路線で閣僚になっているが、この夏、ついに、悲願のRSA法案を大統領に承認させた。20年前社会党政権が実現したRMIという最低保障支給の進化形だ。日本でも、生活保護を受けてる人が少しでも働き出すと打ち切られてしまうという問題があるように、RMIも、パートでも働くともらえなくなって、生活が成り立たないので働かない方がまし、というケースが多かったのだ。
 今回の連帯アクティヴ保障は、収入に応じて、足らない分を補給してくれる。その財源は庶民からでなく資本からとりたてる。簡単そうで難しい改革である。

 そう、「社会的弱者に仕えよ」というのがイエスのメイン・メッセージであって、その意味で、キリスト教は本来とても「ソシアル」なのだ。

 Patrice de Plunkett が「convertiは必然的にソシアルに向かう」というようなことを書いていた。converti とは回心者のことで、この文脈では「真に神に目覚めた者は」、というような意味だろう。  
 してみると、B16風に言って神の探求は文化とか美に向かい、神の目覚めは弱者救済に向かうのか? 多分同根なんだろう。そうでない神なんて存在論より存在理由論の対象になりそうだ。
 
 
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by mariastella | 2008-09-14 00:12 | 宗教

超越について その2 

 昨日、B16が一般向けに言ったことの中で、文化の真の基礎は神の探求にある、みたいなのがあった。「真の=veritable(B16はフランス語が達者なんでフランス語の講演だ)」というのは、「相対主義」と戦う彼の文脈の中では「絶対」に近いかな。

 この「神の探求(recherche de Dieu)」について、「価値の探求と同義ですね」と解説した人がいた。「絶対の探求ですね」という人も。

 フランスのインテリが、教皇の言葉を非宗教的に言い換えるこだわりはおもしろい。
 日本人が天皇制について、客観的にものを言いにくかったり、すぐに誤解されてしまうのを恐れるのと同じだ。

 その分裂ぶりを正直に語って好感が持てたのは、ジャーナリストのジャック・ジュリアールである。彼は自分のことを

 「心理的には無神論者、

  文化的には反教権主義者、

  霊的にはキリスト者」


 だと言っている。

 朝起きると、無神論者だし、考え方も無神論者。
 家庭、教育など成育環境からは反教権主義者。つまり、カトリック教会や教皇の権威に批判的。
 しかし、スピリチュアルには、キリスト教的教養があり、イエスのメッセージを核においている、んだそうだ。ヨーロッパ世界の平和主義とかユニヴァーサリスムとか、神の前の平等主義はたいていイエスのメッセージから来てるんだから無理もない。

 平均的な戦後日本人の私は、一神教的な無神論の感覚はない。
 困った時に「神さま、ほとけ様」、と言う時点で神も無神論もない。有神論のないところでは無神論もないのだ。無神論は有神論や理神論のヴァリアントであり進化形であり、神を担保するものだ。
 カトリックは超マイノリティだから、日本には反教権主義なんてものもない。フランスに反ダライラマがないみたいなもんだ。
 日本では同じマイノリティであるある種のカルトやプロテスタントなんかが反カトリックを唱えるかもしれないが、一般の人はその区別なんてつかないだろう。

 で、ジュリアールが、霊的(=spirituellement)にはキリスト者(=chretien)、って言っちゃえるところもフランス的だなあ。日本人が「霊的にはご先祖様信仰」という程度の自然さと根深さがありそうだ。

 そして、こういう正直なインテリたちが、教皇に、彼らのアイデンティティの分裂ぶりを破壊しないような言辞を期待する様子はおかしい。教皇はカトリックの長なんだから、いくらヨーロッパ的インテリであっても、無神論や反教権主義にはなり得ないんだから、「神」を口にして何ぼである。
 
 で、「文化の真の基礎(拠り所、土台=fondement)が神の探求にある」ってところだが、分裂気味キリスト者のインテリたちは、これを「絶対価値の探求」とか、「超越の探求」とか置き換えて、霊的な共感を示したりするのである。

 しかし、「神の探求」が「価値の探求」とか、「超越の探求」とかに置き換えられるとしたら、文化の拠り所として重要なのはひょっとして「探求」の部分ではないだろうか。

 彼らの言ってるのは、「探求が文化の源泉である」ということで、人が神や価値や絶対や超越を押し付けられたら、そこには真の文化が成立しないってことかもしれない。

 そう考えたら、超越って言葉のよさも分かる。

 神だの価値だの絶対だのは、

 「ほうら、これこれであるぞ、ありがたく拝め」

 という風に「おしつけられ」がちである。

 いや、歴史においてはたいてい、権力者による支配ツールになってきた。

 しかし「超越」と言ってしまえば、せいぜい、その方向を漠然と指すだけで、何しろ超越なんだから、押し付けにくい。
 超越という概念は、神や何々主義や価値の押し付けの安全弁になり得る。

 本当に大切なものは目には見えないんですよ、

 というやつだ。

 本当に大切なものを見ようとする視線だけが残る。
 探求が残る。

 文化とか芸術が生まれてくる。

 という仕組みかもしれない。

 そしなら、

 「ひょっとしたら、神も仏もいないのかも」

 って疑いだした人が、「超越」まで放り捨てて、

 物質主義の中で固定されたり、
 現実を失ってヴァーチャルなコンフォルミズムの波にすくわれたり、
 金やブランドや権力の偶像をひたすら拝んだり

 という自体を防げるかもしれない。

 だとしたら、超越が必要なのは、永遠の探求を可能にしてくれるからだ。

 探求の自由を含まない自由なんて、自由じゃない。


 
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by mariastella | 2008-09-13 22:44 | 宗教

超越について

 公営TVをつけてみたら、教皇のパリ到着の特別番組をやっている。
 
 ヨーロッパ人は3人に一人は「信者」と答え、フランス人は2人に1人しか信じてると言わない。無神論者が一番多いのもフランス。
 でも、JP2がなくなった前後は、全チャンネルがヴァチカンに釘付けだったし、今回もいざ教皇が来るというと、明日のアンヴァリッドのミサのためにフランス中から集まる若者が今夜から広場で集まるのだそうだ。今日の午後は多分ライシテに関してのスピーチ、夜はノートルダム、日曜はルルドのミサ、これもTVで放映されると言っていた。
 こういう時は、フランスはカトリックの国なんだなあと思う。ミシェル・オンフレイのような昔タイプの無神論者が健在なのもそのせいだろう。 
 サルコジ夫妻は教皇を空港に迎えた。これも信者というより、ブッシュ夫妻の猿真似だろうな。調子に乗ってライシテ・ポジティヴで「神、神」って言うなよ。

 今執筆中の本のために無神論を研究することは、思想史や精神史をすべて無神論のフィルターにかけなおすことだった。
 私は平均的日本人なんで、神がいるとかいないとかの論議にはあまり揺さぶられないだろうと思っていた。

 意外だったのは、「超越」は存在しないという論議だった。

 神とか「聖なるもの」は、文化や歴史の産物なので、いろいろなヴァリエーションがあると思っていたが、漠然と、「超越存在」はあると信じていたらしい。

 ある意味で、超越はまさに超越なんだから、「どのようにあるか」は意味論的には認識できないんだが、人間が、生まれる前とか、死んだ後とかの観念を持つ以上、この世の時空以外の「超越」観念をかかえているのは自明だと思っていたのだ。
 音楽のような非物質的な美を鑑賞したりできることも、「超越」を受け入れられやすくしていたかもしれない。
 
 でも、無神論にまつわる物質主義というのは、一貫して「超越」の否定だったのだ。
 
 ボードリヤールが継承したので日本でも知られているギイ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』のことを考える。

 資本主義のプロパガンダ、中央集権的なマルキシズムのプロパガンダ、嘘、虚構に基づいている点で実は一つのものであるとドゥボールは看破し、いまや、その統合形が北京オリンピックとなった。現代世界は市場経済原理が自律的に牛耳るので政府の力や責任は幻想に近い。
 で、現実と虚構が相互貫入し、一種のニヒリズムが生まれ、それも、アクティヴなニヒリズムというか、破壊、脱構築の世界である。
 今は、相互貫入どころか、ウェブの発達でヴァーチャル世界が現実の外装フィルムみたいになっている。人はそのフィルムの上で生きている。あるいはフィルムと現実の隙間で。

 そして、超越が消滅する。

 つまり、世界は、現実を失った時に、「神」も一緒に失うのだ。

 ということは、実は、「神は現実の側にいる(いた)」らしい!

 神や超越が現実を担保していたのだ。
 少なくとも、現実構築の一要素だった。

 虚構の世界には、政府が要らないように、神も要らない。

 神や聖なるものなんて「嘘だ、迷信だ」と、無神論者が長い間声を上げてきたが、何のことはない、世界中が虚構になれば、神も消えるのだ。

 仏教が、現実の苦悩からの救済理論として、超越を否定した無神論だというのも、こう考えるとロジックである。
 苦悩に満ちた「この世」は幻に過ぎない。
 つらい現実と見えるものは、存在のモード、命のモードの一つに過ぎず、不定のものである。
 現世は夢まぼろし。苦悩はもうないし、神や超越も必要ない。

 大日如来なんかテイズムの神に似てるしな。テイズムやデイズムは無神論のヴァリエーションだった。

 西洋における「汎神論=パンテイズム」という言葉も、無神論を指す造語だったことを思うと、感慨深い。

 じゃあ、ネオリベのアメリカ人がしきりに神、神、って言ってるのは一体なんだ。
 アリバイか?
 神を口にすることでよりよく虚構世界を管理するつもりなんだろうか。

 私はヴァーチャルな人間ではないらしく、また、この世は幻と見る悟りにも程遠く、超越とセットになった現実を実感してるようだ。

 考えてみると、フランス・バロック音楽理論とその実践における人工性というものは、広い意味では現代と同じ「虚構」や「スペクタクル」でも、実は脱構築やニヒリズムとは正反対で、「超越と現実をセットで再構成する」という意思と方向性を持っている。

 だから、楽しい。
 果たして強者の遊びなんだろうか。
 「生の歓び」っていうのは私にとって自然な一つのテーマなんだけど。
 人は、神が死に、現実を失った世界でも、楽しく生きられるのか?

 (余談だが、ドゥボールに触れようとして、「状況主義」という言葉を日本語で検索してみたら、状況によって行動が変わるというパーソナリティ理論とか、日本は状況主義国家で状況に流されるだけ〈日和見に近い意味らしい〉、なんていうのが最初に出てきた。芸術運動としても、68年当時の過激左派としても、「状況主義」は消滅した感がある。)
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by mariastella | 2008-09-12 19:48 | 宗教

B16 がフランスに来ることでいろいろ。

 ベネディクト16世がフランスに来るんで、それなりに盛り上がってる。ライシテ・ポジティヴとかいってサルコジが馬鹿なことをしたり言ったりしませんようにと、フランスのカトは冷や冷やしている。フランスのカト側は、もう、ライシテとカトリックの対立は過去のことで、教皇が来たからといって、カトは、特にプロパガンダを展開しようというわけではない。サルコジの変に宗教っぽい挑発的言動によって政治的な厄介ごとが起きないように願っている。
 サルコの宗教趣味は、ハンガリー貴族というその出自のせいではなくて、WASP的アメリカの政治的セレブが宗教帰属を表に出して宗教ロビーを大事にしてることの猿真似であろう。

 私個人は、B16個人が相変わらず、どちらかというと好きだ。いつも見た目が可愛いと思うんで、彼が悪人顔とかいう人の気持ちが全然分からない。
 若い時の写真なんてほんとうにハンサムで可愛くて上品だ。ちょっとワイルドなお兄さんと対照的。

 確かに、教理省の長官だったり、ドイツ人だったり、悪名高いDominus Iesus を発表したり、こわもての保守主義者ってイメージはあるが、何しろここ3世紀の最高齢で教皇位に就いただけあって、もうすっかりJP2晩年と重なるような枯れぶり。

 『ナザレのイエス』って著書を出したが、序文で、教皇でなく一神学者として書いたと断る腰の低さで、教皇庁プレスのイエズス会士は、わざわざこういう区別をしたことに不満だったらしい。

 後、私がB16を好きな二つの理由。

 彼はヴァチカンの自分の部屋にピアノを入れた。ヴァカンス先でもピアノを弾いて、それを写真に撮らせたりTVに映されても嫌がらない。大体、モーツアルトがレパートリー。で、
 ピアノを弾くとき、たとえ写真に撮られても平気で右手の薬指の聖ペトロの指輪を外す。教皇のシンボルの一つの金の重そうなやつである。だから、ピアノを弾くときには外して、重ねた楽譜の上とかにちょこんと置いておく。

 どうでもいいことかもしれないけれど、楽器を弾くときにできるだけ軽くしようとしてブレスや腕時計や指輪を外す私には親愛感を感じさせる。これって、なんていうか、人間として信頼感と好感をそそる。

 もう一つは、うふっ、彼が猫好きなところ。

 Pentlingの地所にいるお気に入りの猫は私好みのクリーム・ベージュのヨーロピアンのChicoちゃん。なんと、ドイツでは、『ヨーゼフ(B16の名)とChico』っていう子供向きの本まで出ていて、Chicoちゃんの視点でB16の生涯が語られてるそうだ。教皇秘書官の序文つきで。

 まあね、キリスト教の未来を考えるなら、私はベルギーのガブリエル・ラングレ神父と同意見で、はっきり言って、今のローマ教会とかは、もう、肥大と硬化と、地政学的コンテキストのせいで、キリスト教の本質を貫くのは無理、まあ、歴史によって学習した智恵と技術を駆使して、今できる限りの最大の寄与を地球の平和と安全のためにがんばってしてください、と思うだけだ。

 聖アウグスチヌスを通したプラトン主義者であると自他共にいうB16だって、だから、本来は、キリスト教のイデアに忠実でいようと努力しているのだ。宗教と理性が切り離せないという、グレコ=ロマンの伝統にある人で、その思考の方程式は、

 「信仰 + 理性 = 解放する真実」

 というのに尽きる。

 ナチズムの全体主義の中では、聖職を選ぶことが内的自由の確保だった。それはJP2も同様だ。

 その後、そのリベラルな精神を維持していたが、1960年代以降のポストモダン的相対主義に失望した。

 逆説的ではあるが、ポストモダン的な相対主義や脱構築は、ユニヴァーサル理念を瓦解させる結果、ばらばらの個人を「エゴと欲望に忠実であれ」という知的モラル的な画一主義へと向かわせがちなのである。そういう画一主義を利用して個人を消費者として再編成するマーケットの力がそれを助長する。

 だから、B16が、ヴァチカンⅡの重要性よりも、キリスト教を「イエス・キリストとの出会い」に位置づけなおそうとした気持ちも分かる。

 残念なのは、ちょっとKYで、メディアの使い方に疎いし、自分でヴァチカン政治に乗り出さず全てを担当枢機卿に委任したりするので、去年、ワルシャワ新大司教の就任の日に共産党秘密警察との関係が暴露されるとか、この春、宗教間対話担当のトラン枢機卿が知らされぬままに元ムスリムを洗礼してしまうとか、齟齬が生じる。
 エコロジーがらみなどでなかなかいいことも言ってるのに注目されず、保守的な言動ばかり叩かれる。

 プラトン=アウグスチヌス系の世界観が、アリストテレス=トマス系と違ってペシミスティックなのも暗い感じだ。

 しかし、彼は、JP2の対極で、演技とか、演出とかを絶対にしない人で、根回しやらロビーイングにも疎い人、信者に個人崇敬されることを嫌い、カリスマ的でないので、相手を魅惑したり呪縛しないで、自由にさせる人だそうだ。目立たず、無理をせず。

 今回、現役教皇としてルルドに巡礼する二人目で、ポーランドの田舎っぽいイメージのJP2ならいざしらず、知的で理性主義のドイツ人B16までがルルドに来るんだぜ、って感じでフランス人カトはけっこうはしゃいでる。

 でも、マリアの「母なる御加護をみなさんに・・・」なんてメッセージを口にしてるのをTVで見ると、白髪の教皇と聖母崇敬は似合ってるよな、と思う。
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by mariastella | 2008-09-12 01:26 | 宗教

Theopsychologie

 ドイツの哲学者 Peter Sloterdijik が Theopsychologie というのを提唱している。従来の宗教異常心理学とちょっと違って、主に一神教原理主義に現れる死への傾斜、タナトスから人々を解放しようというものだ。

 イスラムのジハードとか、キリスト教が聖餐で犠牲の救世主の血をみなで飲み合うというようなのは本来の戦いのエネルギーよりも死を鼓舞し、ストレスが最大になると彼は言う。

 アメリカの終末論的カルトグループには、堂々と自殺奨励を謳ったもの(安楽死教会、1991よりChrissy Korda)がある。

 「他者を破壊するより、自分を壊せ、動物を破壊するより、自分を壊せ、太陽と森を破壊するより自分で死ね、今夜、今すぐ」

 と勧めている一種のディープ・エコロジーだが、宗教法人として認められていて税金優遇処置を受けている。
 ヨーロッパではいくらなんでもこんなことはない。

 どちらにしても、宗教原理主義と死への傾斜が一神教に特有というのは、ちょっと違うだろう。

 破壊的な宗教原理主義との戦い方には、啓蒙主義以来、アングロサクソン型とフランス型と2種ある。

 ジョン・ロックが、どのような宗派も自分たちを正統だと思っているのだから、共存には寛容の道しかない、狂信主義とは、いつも、権力と権威に抵抗する人間の戦いの徴であるのだから、と言った。

 つまり、権力側が寛容を示して共存を認めれば、狂信はなくなると思ったのだ。確かに、21世紀の宗教原理主義のテロリズムなどは、ネオリベの競争原理に取り残された南北格差や貧困などによって拍車がかかっているかもしれない。でも、ジョン・ロック型の、どんなおかしな言い分の宗教でもみんな寛容の精神で公認してしまうというやり方で、自他の破壊主義が緩和するとは言えない。

 フランス型はヴォルテール型で、狂信は伝染病のようなものだと言う。野放しにすると広がるばかりなので、予防や撲滅も必要だと言う。

 フランス型は一つ間違うと、アンチ・リベラルの全体主義にも使われそうだ。実際、初期共産主義社会では、宗教そのものが、天然痘みたいに撲滅すべき対象だと考えられた。

 ここに「自由」尊重の問題も関わってくる。自然な内なるモラルを行使することが真の自由であり、神はそのような実践理性に要請されるものだとカントは言った。カントの考えるような内なるモラルや自然とは、タナトスや破壊衝動から免れているのだろう。

 Sloterdijik によるテオ・サイコロジー=神心理学、の提唱も、考えると、皮肉だ。もともと心理学の成立そのものが、無神論の一表現だったからだ。神や神々にリアリティのある社会や文化圏では、心理学など存在せず、発祥もなかった。というか、全ての「人文科学」が、神を心的現象に疎外したのだ。
 少なくとも西洋近代史の中では、科学と宗教が対立するのではなく、人文科学と神学が対立するのだ。無神論の誘惑に最も悩んだのは、自然科学者ではない。
 それを思うと、明治の日本の和魂洋才なんて簡単だった。

 エコロジーとの関連でいくと、Patrice de Plunkett の提唱する「新しい解放の神学」の、消費主義と決別する姿勢は共感が持てる。でもこの人のブログを見てると、明日からフランスにやってくるローマ教皇萌えぶりにちょっと引いてしまう。彼が福音派やオプス・デイと仲よさそうなところも。

 いくらよいテキストを発表しても、著者は当然、コンテキストも読まれてしまう。他のところで言ったり書いたりしたことを完全に囲ってしまうことはできない。肝に銘じなくては。

 
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by mariastella | 2008-09-11 19:42 | 宗教

新共同訳聖書について

 ある読者の方からお手紙が来て、私が『知の教科書キリスト教』で聖書の新共同訳を推奨していることについていかがなものかと言われた。

 プロテスタントの文語体の聖書は荘重流麗で人の心を打つが共同訳の拙劣さは耳をおおわんばかりで、たとえば、

 「真に真に汝らに告ぐ」 

 とあるとありがたいが、

 「はっきり言っておく」

 ではまるでけんか腰でみもふたもない、

 とおっしゃる。

 笑ってしまった。

 私だってそう思う。

 「天にまします我らの父よ」

 なんてフレーズも、7-7で語呂がよく、キリスト教信者でなくても、知ってる言葉だったから、急に

 「天におられるわたしたちの父よ」

 って言われてもね。

 でも、私のあの本は、「キリスト教と特に関係ない大学生、大学院生を対象に」、ということで書かれたもので、新共同訳の親切さはやはりよくできてると今も思う。今はじめて聖書を読んでみたいという若い人に勧めるとしたら、新共同訳が現実的だ。

 コーランは、基本的にアラビア語が神の言葉だったんで、翻訳は厳密には聖典ではない、というか、原語にあたらなくてはならないと言われてきた。

それに比べてキリスト教の聖書は、書かれた言語が変化したり、ヘレニズム世界で展開したり、ラテン世界でラテン語でヨーロッパ化したものがもっとも「近代社会」のヘゲモニーを得たので、どれが「啓示の言葉」なんだと言われても、けっこうハイブリッドになっている。

だから、翻訳された「聖句」はそれぞれの言語のそれぞれの時代の文化を背負ってるし、受け手の感性もそれぞれだろう。

 でも、これも、芸教分離論と同じで、

 確かに美しいことは力であり、美しい言葉で伝えられた「ありがたい」言葉はいっそうありがたいと思うけれど、

 今の私は、何となく、もう、「ありがたさ」を運ぶものは、
 言葉にしろ、建築にしろ、音楽にしろ、絵画や彫刻にしろ、
 美や芸術的価値から分離して考えた方がいいんじゃないかと思っている。

 美や芸術を軽視して言ってるんじゃない。
 
 むしろその反対で、美や芸術の力はすごいから、
 たとえ偏狭や不寛容や、いや、悪や頽廃を隠していたって、
 ありがたく、美しく、目くるめくこともあり、それに仕えたくなるからである。

 翻訳の言葉が拙劣で、それで本質なものを失ってしまうような宗教なら、それはその宗教の器なのかもしれない。

 日本の聖書も、有名な東北弁のケセン語訳とか、大阪弁訳、なんてのもあるそうだ。イエスの語った言葉が、その時その場所でどのような語感を持っていたのかは分からない。結局、一度テキストの形になれば、後はコンテキストと共に読むしかない。流麗な文語で聖書を学んだ世代の方には、古式ミサの美しさやそれを取り巻く次代の雰囲気そのものがそのコンテキストになっているだろう。

 美を分離した宗教なんて耐えられない、って思う方もいるだろうし、美は神を讃えたり祈ったりすることの本質とつながっているんだ、という方もいるだろう。宗教的美と聖なるものへの信仰心こそが美や芸術を生んだのだという考えもあるだろう。

 それでも、私は、美と宗教を分離しない時の危うさはあると思う。

 イスラム教で今も政教がセットになっていたり、宗教と教育が切り離せない社会も多くあるように、美と宗教もフュージョンしていてそれがありがたさのよりどころになってたりするから、その分離は思いもつかず、分離後の世界を想像できないと思いそうだが、それでも、私の中ではそういう時期が来ていそうだ。

 美と分離して「みもふたもなくなって」しまったところで、どこまで宗教が普遍であり得るかを探りたい。その意味では、やっぱり、新共同訳は貴重なとっかかりであると思う。
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by mariastella | 2008-08-26 22:03 | 宗教

芸教分離

 政教分離の萌芽は、ローマ法が完備していたローマ帝国世界で発展したキリスト教自体の中に潜んでいた。

 しかし、現実は、たとえばローマ教会が領地を得て封建領主化したように、宗教と政治はなかなか切り離せなかった。

 今のヨーロッパ、特にフランスは政教分離が進んでいる。私は日本からフランスに来たからぴんとこないが、社会が宗教離れしている点では日本とフランスは今の世界でも特異な国だろう。
 でもそこに至った経緯は全然違うので、要注意なんだが、それはまた別の話。

 で、政教分離がよくできているのは、教育と宗教が分離してる教教分離の様子でよく分かる。アメリカの公立学校から十字架や祈りがなくなったのなんて1960年代だ。

 私がこの頃思うのは、自分の中の芸術と宗教の分離である。これは見落とされがちだけど、けっこう本質的ななにかを秘めているかも。

 カトリックからラテン語ミサが姿を消していたのが、最近、併用OKになった。それで、ノスタルジーも含めて、古式豊かなのが荘厳でいいというような話をあちこちで耳にするようになった。

 私は、キリスト教の教会美術や教会音楽や建築を過小評価するわけではない。
 カトリックに改宗したユイスマンスがパリのあちこちの教会のミサや典礼を比較して、審美眼を駆使した『En route』なんて何度読んだか分からないし、バロックのモテットも好きだし、レクイエムも好きだし、バッハの教会音楽も好きだし、フランスでもわざわざソレムスにグレゴリアン聖歌を聴きに行ったこともある。

 ただ、それと、いわゆる信仰を結びつけたことはない。

 人が、超越的なものをいかに表現しようとするかとか、霊的なものを求めるとか、それがどうやって美に向かうのかとかいうことにはとても興味がある。

 芸術における精神性や聖性に感動することもある。

 でもそれは、たとえば、比叡山の声明を聴いても、ペルシャの宗教音楽を聴いても、グレゴリアン聖歌を聴いても、変わらない。

 声明に感動したからといって天台宗に帰依したくなるとか、スーフィーの踊りを見てシーア派になるとかならないように、別にすばらしいミサ曲やレクイエムを聴いても、だからキリスト教がすてきだとは思わない。

 実際、いろいろな宗教や宗派の中で、明らかにキッチュでありがたくないような建築物や絵や音楽にも出合う。玉石混交だ。というか、どのようなコンテキストにおいても、ほんとうに深く美しいものは少ない。

 もちろん、宗教の中で、特に宣教とか布教において、芸術の力が効を奏することはあるだろう。美しい女神や聖母像や仏像を見て心を動かされて回心することがあるだろう。貧しいブラックアフリカの真ん中に突如としてこの世の天国のような金色に輝く大聖堂が建てられ、そこではじめて、「この世」とは別の精神性に出会い、洗礼を受けるばかりか修道士や修道女になり、その美の豊かさに支えられて清貧の奉仕活動をしたあげくテロに巻き込まれて殉教した人々も知っている。美によって愛に触れる人だっている。

 でも、宗教が政治や教育とくっつくと、いろいろな取り込まれ方をするように、芸術が宗教に取り込まれると、その美の優越性のゆえに、美を所有している側が優越を主張したり、偏狭になったりする。
 美の祭神なんて言葉があるように、美そのものも宗教化しやすい。美の神とはたいてい不寛容だ。美と原理主義ってその点で親和性があったりする。

 でも、宗教は芸術を担保にしてはいけないし、
 芸術は宗教を担保にしてはいけない。

 芸術が、広義な聖なるものとか超越の感情なしに成り立つものかどうかは難しいところだ。でも、芸術や美は、残念だけど、モラルなしでも成り立つと思う。

 そこのとこも含めて、芸教分離の意味をよく考えてみたい。

 人は火が好きだ。火は超越だの美だの命だの聖なるものを喚起する。

 ルルドの夜のろうそく行列を見るとキリスト教でない日本の学生たちも感動する。でも、外国人が日本の寺の火祭りや薪能を見ても感激するし、人はテーマパークの光のパレードでも、隅田川の花火でも、感動するのだ。
 
 部屋の電気を消し、光ファイバーのクリスマスツリーが繊細に光の漣を繰り出す時、どんな子供でも、目を輝かせて見入る。

 うちの猫たちは、全く興味をしめさない。

 こういう時だけ、やつらが死を恐れない理由が分かるような気がするよ。

 昔は、美や祝祭は、宗教が独占していた。

 今は劇場があり、音楽会があり、美術館もあり、テーマパークがあり、室内プラネタリウムだってある。


 そんな時代に、芸教分離とはどんな可能性を持つのか。
 政教分離、教教分離、の後の、最後の何かになり得るんだろうか。
 
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by mariastella | 2008-08-25 05:05 | 宗教

奇跡とは困ったもんだ

 『聖骸布の男』(講談社)というムックでも縁があった不思議好きの編集者から、ルネサンスのキリスト教絵画の中に散見されるUFOについてのコメントを求められる。

 私のサイトの宗教質問箱では、福音書に出てくる「おかしな記述」をどう信じるかについての質問が来ていた。まだ、答えてない。

 他のブログで、聖母の処女受胎についてのコメントであれこれ過剰反応があったからみたいだ。

 受肉と復活というのは、キリスト教が成り立つには信じざるを得ない部分で、まあ、これを受け入れると、必然的に、聖母の処女性とかなんとか、細かいことにファンタズムも生まれるし、そこにのめりこむ神学もある。

 今年は聖パウロの年というんで、パウロの手紙を読み返してると、彼のとらえたキリスト教というものの骨格がすごく分かって、それに感動したら、聖母にまつわる議論がいかに本質的じゃないかが実感できる。時には「変だよ」とか、「神の子にしてはいまいち・・」と指摘されるイエスの言動だって、受肉と復活のダイナミズムが、ヘレニズム世界の弁証法に合流して、今につながる近代理念だのそれがはらむテクノロジーの肥大だのを生む「歴史」がスタートしたことのすごさに比べたら、瑣末なことに感じられる。

 神の化身というのは繰り返し、神の受肉というのは1回きりである。

 すごい発想だが、これがあるから、「では、イエスが生まれる前の時代に生きた人類は永遠に救われないんですかい」という素朴な問いに対する答えに窮するわけだ。

 こんな苦しいキリスト教がシンクレチックに風化しないで、常に異端を創ることで自らを確立していったのは驚きだ。その道があまりにもアクロバティックだったので、そこから逃れるのはたまに起こるミスティックな狂熱だけだったのだろう。

 それで、原則として、キリスト教にまつわる枝葉の奇跡譚には、結構辟易しているのだが、グアダルーペの聖母だけは、執拗に存在感を押しつけてくる。

 昨年メキシコ人の音楽学者と話した時、メキシコでもインテリは誰も信じてないよ、教会がいろんなデータをでっち上げてるのはみんな知ってるよ、みたいに一笑された。

 メキシコという土地がまた微妙である。

 これがヨーロッパなら、どんな田舎でも、たとえばメジュゴリェの聖母御出現なんかでも、のめりこむ人もいるが、シビアに切って捨てる人もいて、いろんな解析が可能だ。司教の認定とかヴァチカンのお墨付きとかにはまずならない。

 アフリカとかアジアでも、データが乏しい、伝統が乏しい、すごく蒙昧かそれを批判するインテリかに分かれそう、非宗教的オカルトやカルトや超常現象趣味と区別が曖昧になる、などの理由で、ま、お話として聞いときましょう、面白かったらそれでいいんじゃない、という感じになる。

 ヨーロッパで、しかもカトリックの伝統のあるところ、スペインとかフランスとかイタリアに分散するイエスの聖骸布系の奇跡は、中世に山のようにあった「偽物」が全て淘汰されてきた末に生き残ったのだから、その信憑性を云々するのはかなり慎重かつ深刻になる。「最新のテクノロジーを駆使した科学的検証」というのになりがちで、奇跡のイメージと対照的だ。

 で、メキシコ。

 やってることは、「欧米か」って言えるほど、科学的検証っぽい。

 『大人のためのスピリチュアル超入門』でも書いたけど、グアダルーペの聖母がプリントされたファン・ディエゴのポンチョには不思議が多すぎ。

 染料が特定できない、筆の跡がない。(1936年化学者に繊維を分析させた。)

 1791年に塩酸がたれて右上に10センチの穴が開いたが30日後にふさがった。
 同じ繊維の布にコピーが作成されたが、15年で塵となった。

 1921年、アナーキストがダイナマイトを仕掛け爆発したが、ポンチョもガラスも無傷。

 1929年、カメラマンが聖母の右目に人の姿発見。

 1956年、眼科医が聖母の眼底を見ようとしたら瞳孔が閉じたり開いたりした。

 同年、8ヶ月にわたる研究の結果、Purkinge-Samson光学反応を聖母の目に発見。 

 1979年2月、メキシコのIBMの科学センター所長がデジタル処理をしたら聖母の目に12人の姿が。2500倍ではポンチョを見せるディエゴの姿が見えた。

 同年7月、フロリダ大学の生化学教授などNASAのメンバー二人が、絵具の不在と、ポンチョが、原因不明に、36,6から37度の「体温」を維持していることを「発見」。

 1981年、聖母のマントの上の星模様は、1531年12月12日(ディエゴがポンチョを司教に見せた時)の冬至の10時26分のメキシコの空のものだと発見され、天文学者が認める。

 NASAによると、聖母の姿から10センチまで近づくと、色が見えなくなる。横からレーザー光線を当てると、絵が布から0,3mm浮いているように進む。

 聖母は妊娠していて、その腹に聴診器をあてると、115-120の心拍音が聞える。これは胎児の心拍数に相当。

 極めつけ。

 去年、2007年、4月24日、中絶法が通過した後で、聖母の姿が薄くなり、変わりに強烈な白い光が差し、胎児の形に輝いた。
 多くの人が写真を撮り、それを分析した専門家たちは、それが合成でもなくフラッシュの光でもないことを証言。

 この最後のはまだ司教の認定を待ってる最中。

 何かやり過ぎ。

 政治的なのもモラル的なのもうさんくさい。

 じゃあ、実際に見ればといわれても、今は、動く歩道式に参拝するだけだし、テーブルマジックのトリックだって見抜けない私が行って検証したってどうなるものでもない。本を読んだり写真を見たりするだけ。
 結構まともな文書もある。ディエゴの列聖が最近だったので、いろんな研究書が出たからだ。

 イエスの遺骸を包んだ血塗れの布がヨーロッパのあちこちで大事に取っておかれたってことは、まあ、理解できる。でも、16世紀にメキシコで突然出現した聖母の絵に、これだけの「不思議譚」をこれでもかこれでもかって、付け加える意味は何?

 メキシコのインテリたちは「けっ」といって無視するから、「民衆御用達」のままでいいのか?

 ヨーロッパのキリスト教というのは、それが最初からかかえる弁証法の中に無神論を包含していた。脇に無神論の壁を築くことで神学が発達したといっていいぐらいだ。

 だから、奇跡譚にもそれなりの含羞だとか陰影がある。ニュアンスがある。

 メキシコのなりふりかまわなさはなんだ。

 王様は裸って言う人はないのか。

 聖母のマントの星の模様に見える星はそんなに多くない。
 いつの年のいつの空にだって、任意にこの位置の星を取り出せるだろうと思うのは私だけか。

 不思議話は魅力がある。

 どんどん深入りしていくことの魅力。

 5月に直島の南寺で、ジェームス・タレルの光の作品を見た。
 暗闇の中で瞳孔の開くのを待つ。

 奇跡みたいだったよ。

 
 

 

 
 
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by mariastella | 2008-08-23 04:02 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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