L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 298 )

フッガーライの話 その3

ヤコブ・フッガーが免罪符を販売した利益の一部を自分の取り分にしていたこと、いや、免罪符そのものを金で買えるものにしたことなどは、ルターでなくとも、「宗教的公正」にもとるように見える。
けれども本当にそうなのだろうか。

「富は、天に積みなさい(マタイによる福音書 6-20)」という有名なイエスの言葉は当時誰でも知っていただろう。

この世での自分の欲望の充足のためなどに富を蓄え消費することが「神の目」にとって望ましくないことは誰でも知っていて罪悪感を持っていた。

だからこそ、神との仲介をしてくれる教会に金を払ったのだ。

「免罪符」を買うといっても免罪符は地獄堕ちから守ってくれる「護符」などではない。

教会は「効き目のない呪符」を騙して売っていたのではなく、教皇庁にとっても信徒にとっても正当だと思われていた免償システムを「商品」として販売したのだ。

需要があり、信者たちがそれを「購入」したのは、彼らにとっては「天に富を積む」ことに相当した。

この世での利益を祈願してのことではない。

教会もまた、得た金で「神の家」である聖堂を造ろうとしていた。
「天に富を積む」つもりだったのだ。

もともと裕福なメディチ家から出たレオ10世がそんな金で「私腹を肥やす」意識があったとは思えない。
フッガーだって、その後500年も続く福祉住宅フッガーライを建てたのは、免罪符の販売から得た富の少なくとも一部を「天に積む」ことで死後の魂の行方を気にかけていたのだろう。

社会的な弱者の中にキリストの姿を重ねて仕えよ、というイエスのメイン・メッセージのひとつも共有されていた。
それだけではなく、「天に富を積む」ことによって期待できる「救い」はとりなしの祈りを経由するという認識も共有されている。

ヨブの昔から聖人による神への「とりなし」の祈りなら、助けてもらえるという伝統が形成されていた。
聖人だけではない。
貧しい人、子供は天国に近い存在で、弱者=小さい者にイエスの姿を重ねるのだから、彼らを支援したり寄り添うことで、彼らからも「とりなしの祈り」を捧げてもらえればより効果的だと考えられても不思議ではない。

裕福な多くの人や権力者たちが葬儀の際に貧しい人々に祈ってもらえるよう施しとセットにして遺言を残してもらったのもそういう意識があったからだ。
観想修道会に寄進することにも、自分の魂のために祈ってもらえるというギブ・アンド・テイクがあった。

その意味でヤコブ・フッガーは、教会に寄進することで「天に富を積」み、貧者を救済することで貧者からみかえりに「とりなしの祈り」を得るという二重の「保険」をかけていたことになる。

実際フッガーライが続いてきた理由には、住民が寄進者のために祈るという条件が、多くの人の寄進の動機づけになったからだろう。

寄進は財産や金だけではない。

変わり種としては、71歳になるゲルハルト・シュリッヒさんがいる。
歴史好きの彫金師である彼は20年前にフッガーライに奉仕しようと決意して、16世紀のコスチュームをつけてフッガーライの通りを歩くことにした。
金属製の角笛型の容器に観光客から寄付金を集め、その額はこの20年で50 万ユーロに上るそうだ。
年間18万人の観光客の数からしたらそれでも少ないと彼は言う。

その金がフッガーライの管理費にあてられ、市は彼を表彰した。
そのおかげで、彼の名は、住民が神への祈りをその人の魂のために捧げる「寄進者」のリストに載せられた唯一の生存者となった。
シュリッヒさんは鍵を忘れた住民などにも頼られる存在だ。

入居の条件が守られているなら150人の住民が毎日3つの祈りを唱えるのだから、450の祈りが彼のためにも唱えられていることになると思うと、毎晩床に入るときにとても安らかな気持ちになるという。
彼のことを「アウスブルグで最も聖なる人」と呼ぶ人もいるそうだ。

フッガーライ、
現在の入居者の平均年齢は63歳、最年長者は、40年暮らしている94歳。
午後10 時の「門限」を守らないものには1ユーロ課金されることもあって若者は少ないから、今は単身者のホスピス機能も果たしている。

信仰とか信心の形が500年も続いて社会的にも精神的にも実際にポジティヴな役割を果たし、広く認められている不思議な場所が今のヨーロッパの真ん中にあるということから、いろいろなことを考えさせられた。
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by mariastella | 2016-10-24 11:27 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その17

(これは前回の続きです)

1940年、6月22日、フランスはドイツとの休戦協定を調印した。翌日ヒトラーがパリにやってきた。
親独ヴィシー政権が誕生した。
反ユダヤ主義政策が施行され、ユダヤ人であるMJは出版する権利、旅行する権利を失った。
これまでの作品の著作権も奪われた。

1942年の6 月から、黄色いダビデの星をつけることが強制された。

一度ゲシュタポに逮捕されたが、洗礼証明書のおかげで仮釈放された。

この時に彼は外国に亡命することもできた。そうしなかったのは、キリスト教に改宗していない家族の身を案じたことと、深い信仰生活によって死を恐れる気持ちが全くなくなっていたからだと言われる。(MJの家族は1825年頃ドイツから移住してきた。MJは7人きょうだいの4番目である)

1942年、義兄のリュシンアン・レヴィはコンピエーニュの収容所で死に、姉のジュリー=デルフィーヌも死んだ。1943年、一歳上の兄ガストンがアウシュヴィッツに送られて死んだ。

1944年2月24 日、サン=ブノワ=シュル=ロワールのバジリカ聖堂の地下聖堂で朝のミサにあずかったばかりのMJは、二度目にゲシュタポに逮捕され、ユダヤ人としてオルレアンの監獄に収容された後でドランシィの収容所に送られた。

列車の中でコンラッド・モニカンに宛てて

「ドランシィに連れていかれる列車の中で書いている。神のみ旨がなされますように。憲兵たちは親切だ。マックス」

と書いた。

翌日にはフルロー神父に充てて

「殉教が始まることを神に感謝します」

と書いた。

サーシャ・ギトリーやジャン・コクトーら友人たちが彼の解放を求めてドイツにかけ合った。

すでにしばしば苦しんでいた気管支炎と肺炎がMJを襲った。
共に囚われていたユダヤ人の医師は、衰弱していくMJが決して泣き言を口にせず「私は神とともにいる」と繰り返していたと証言している。

MJの唯一の望みは「カトリックとして死ぬこと」だった。

ユダヤ人を困らせないようにMJはそのことをこの医師にだけ打ち明けた。その気遣いは他のユダヤ人の心を動かし、みなが彼の願いをかなえようとした。MJのポケットに入っていたロザリオを周りにいたユダヤ人たちが指にかけてやった。彼の臨んだ司祭による「終油の秘跡(今は病者の秘跡)」と免償は与えるすべがなかった。

横たわるMJのそばに医師が座って覗き込んだ時、MJは医師を優しく見つめて、まるで最後の愛の言葉のように「あなたの顔は天使のようだ」と消え入りそうな声で言った。

1944年3月5 日、ドランシィのユダヤ人収容所の看護室でMJ は死んだ。

コクトーらによるMJの解放運動を知っていた御用メディアは、ハイエナのように冷たく「ユダヤ人の同性愛者」の死を伝えた。

最もひどい記事はこういうものだった。

「マックス・ジャコブが死んだ。人種としてユダヤ人で、出身地としてブルターニュ人で、宗教的にはローマ人で、性向はソドム人(同性愛者)であったこの人物は、あの腐って頽廃的なパリについて想像できる限りの最も典型的なパリジャンであった。彼の弟子のうち最も名が知れ渡っているのが、同じようにシンボリックなパリの典型をなすジャン・コクトーである。なぜなら、ああ、無念にも、ジャコブの後にはだれも梯子を引っ張らないからだ。」

「ヤコブ(ジャコブ)の梯子」というのは聖書のエピソードで

「すると、彼(ヤコブ)は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 」(創世記28章 12節)

というものだ。

MJは天への階段をきっと見ていた。

「あなたの顔は天使のようだ」と最後に医師に言ったのだから、天使がMJに手を差し伸べたことは想像に難くない。

占領下のパリで世間から後ろ指をさされたジャン・コクトーは後にこう書いた。

「私はマックス・ジャコブの目よりも美しいものを知らない。顔のまわりに折り込まれたかようなあのような目を通過した後で彼の手から生まれる世界が詩になるのは、ほとんど当たり前のことである。」

ドランシィで死んだすべてのユダヤ人と同様にMJはまずイヴリィに埋葬され、戦後の1949年にサン=ブノワ=シュル=ロワールの墓地に移された。

その折にマックス・ジャコブ友の会のプロジェクトが立ち上がり、1950年1月20日にパリで正式の協会として発足した。最初の会長がジャン・ドゥノエルで名誉会長はMJのゴッド・ファーザーであったパブロ・ピカソだった。

1949年以来、MJの誕生日に最も近い日曜日に、マックス・ジャコブ友の会は、サン=ブノワ=シュル=ロワールで追悼のセレモニーを続けている。
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by mariastella | 2016-10-13 01:37 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その16

(これは前回の続きです)

二度目の隠棲生活においてMJは果たして自分の欲望と折り合いをつけられただろうか。
欲望には相変わらず苦しめられたけれど、それに打ち勝つ「方法」を見つけたと思えるエピソードがある。

1938年から39年にかけて何度もMJを訪問したジャン・クラリーの証言であり、そのエピソードは不思議な色合いを持つ。

「彼の寝室には暖炉が一つあり、その暖炉の前の床に赤いタイルが何列か張られていた。彼(MJ)はある日それを指さしてこう言った。」

「肉体の悪魔がぼくを執拗に責め立ててくる時、ぼくは裸足になって、いつも冷え切っているこのタイルの上に立つんだ。すると、急激に、あっという間に、悪魔は逃げ去る。
これで僕はすっかり解放された気分になるが、それも奴の次の攻撃までのことだ。
奴を撃退する方法をぼくが持っていることを知っているはずなのに。
いや、それとも、このタイルのおかげでぼくが簡単に勝利できるからこそ、悪魔がぼくをしょっちゅう苦しめに来ることを神が許しているのかもしれない。」

共同の修道生活という形態が始まる前のキリスト教における「荒野の隠遁修道士」の系譜においては欲望を鎮めるために茨の茂みの上を転がって棘で体を痛めつけるという克服方法があった。
「痛み」の感覚は脳にとっての優先情報となって他をブロックするから有効だったのだろう。かゆみをブロックするためにかゆいところに爪を立てるのと同じ「知恵」だ。
MJにとって足を冷やすことが本当に欲望を鎮める効果を発揮したのかどうかは分からない。
一度でもそれが「効いた」という成功体験がインプットされて一つの「儀式」として組み込まれて、欲望を自制することができたということかもしれない。
彼は自分が信じていたよりもはるかに危機管理の術を身につけていたのかもしれない。
荒野の隠遁修道士たちは別に同性愛の欲望に苦しんでいたわけではない。
MJの欲望が脳内で若い男に向けられていたとしても、それは脳内で若い女性を欲望する修道士の苦しみや克服の工夫と何ら変わることがない。禁酒や禁煙や麻薬を断つことに苦しむ人々とも変わらない。
MJのそれが同性愛であったことの不都合は、それが当時のキリスト教の常識で「罪」であったこと、そして、それが社会的にも「不都合」なことであった故に安定した伴侶を得て暮らすことが不可能に近かったということだ。
もしMJが異性愛者であったなら、同じように信仰深く貞節な女性と恋をして幸せに信仰生活を送ることができたかもしれない。とはいえ、異性愛者であっても、妻との愛がさめたり、裏切られたり、他の女性に誘惑されたり、などいろいろなリスクは避けられなかっただろう。
聖母マリアへの熱烈な信仰から考えても、MJには、異性愛であろうと同性愛であろうと、この世の生身の人間を通しては全うできない高い理想の希求があり、それは彼の創作における「美」の追求によって置き換えられた。アートにおける「美」に殉じたからこそ、MJ は多くのアーティストにとって信頼できる友、敬愛する師であり続けることができたのだ。
だからこそ、シニカルなエリートたちも、MJの「罪悪感に苛まれる姿」と「神を夢中に賛美する姿」の対比を嘲笑する代わりに、いつしか、MJの苦しみの中に自分たちが敢えて忘れようとしている「何か」を感じ取って、畏敬の念を抱くようになっていたのだ。

性的傾向が罪悪感を深めるかどうかは時代と場所と人間関係によって変わるものだ。変わらないのは、超越的な神に向かう意思を抱いた者が、性愛であれ酒や麻薬であれ、肉体的な渇望によってその方向とは真逆だと自覚される方向に引きずりこまれると意識した時の苦しさである。

その葛藤と戦ううちに突き抜けて開かれる境地もある。

MJを支えていたのは二度にわたってパリで彼の前に現れたイエスの姿であり、神が絶対に彼を見捨てることはないという愛の感知と確信だった。

それなのに、時代のもう一つの悲劇が、MJを襲った。(続く)
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by mariastella | 2016-10-12 18:24 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その15

(これは前回の続きです)

1936年、MJは二度目にサン=ブノワ= シュル=ロワールに居を定めた。まずホテル・ロベールに住み、次に未亡人マダム・ペルシヤールの家の一階に下宿した。バジリカ教会のすぐそばのマルトロワ広場のこの家には今もMJの名を刻む銘板がある。フルロー神父や、交流のあった地元の何人かの職人や農民たちとも再会した。

散歩することがほとんどないインドア生活だったが、修道院を訪れる人たちのための観光案内を執筆し、巡礼者を案内した。サン・ブノワの修道院には1935年から二人の修道士が住むようになっていた。

詩人や画家や収集家らとの膨大な文通も再開された。
パリからMJを訪ねてくる人々もいた。ミシェル・レリス、エドモン・ジャベス(『若き詩人への忠言』は彼のために書かれた)らの他、パリ時代の多くのファンがやってきた。MJ は彼らを愛したけれど、パリでさんざん経験した裏切りのトラウマは残っていた。1937年にはエリュアール、コクトー、ヴラマンク、レジェ、ピカソ、マックス・オルランら同年輩の友人たちも訪ねてきた。

ブルトンに先立つシュールレアリズムの先駆者であるMJは、夢や幻覚や無意識からあらゆるものをあらゆる方法で取り出して構成した。「モノをそれがあるところで見せるのではなく、それがあってほしい場所において見せるのだ」というキュービズムの詩が生まれた。
奇妙で予測のつかない、時にコミックで、不気味なまでに執拗な社会風刺が展開された。美学の方法論も書かれた。

一人でいるときの生活は修道院さながらに簡素だった。
寝室の壁は石灰で白く、鉄のベッド、十字架、本や紙でいっぱいの大きな机に2、3脚の椅子だけがあった。

毎朝5時半に起きて1時間熱心に祈り、教会へ行って祭壇を整え、ミサにあずかった。
典礼の間の彼の動作は大仰だったが、村人たちの目には誠実なものだと受け止められた。

それから帰宅して仕事をし、午後にはもう一度教会に行って「十字架の道」(イエスの受難の14場面を追想して祈る)をした。
彼のくぐもる声が「主よ、お赦しください、私はよき盗賊です」と言っているのが時々聞こえた。
「善き盗賊」とはイエスと共に十字架につけられたが、「あなたのみ国においでになるときは私のことを思い出してください」と言って「今日あなたは私と共に楽園にいる」と言ってもらった「最初の聖人」だ。

訪問客がいないときは一日一食だった。

聖母を崇敬し、「この上なく不思議な玉虫色に輝くおとめよ」などと自分で作った連祷を唱えていた。
施しをし、寝室で煙草を吸わないことを自分に課し、謙虚でいるように努めた。
誰かに対して怒りの言葉が口をついて出てしまうと、突然口をつぐみ、「その気になればいいところもきっと見つけることができるに違いない」などと言い直した。

では、パリで彼をあれほど苦しめた欲望はどうなっていたのだろうかというと・・・。(続く)
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by mariastella | 2016-10-11 19:34 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その14  (オスカー・ワイルドの話)

(これは前回の続きです)

オスカー・ワイルドはMJより20年ほど上だが1900年にパリで死んでいるから学生時代のMJと同時期に少しパリにいたことになる。当時UKに属していたアイルランドのダブリン生まれだがプロテスタントの家庭だった。ダンディでリベルタン、享楽的、頽廃的、倒錯的なイメージがあるが、オスカー・ワイルドも常に神を希求していた。最後はカトリックとして死んだとされている。

アイルランドだから環境的にはカトリックが遍在していた。アングリカン(イギリス国教会)から聖公会)からカトリックに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿と出会い、その深い知性あふれる著作を読むようになった。

父親はそれが気に入らず、アングリカン知識人の牙城ともいえるオクスフォードに息子を送り込んだ。学生寮のワイルドの寝室にはローマ教皇の写真と聖母マリア像が飾られていた。

カトリックの典礼にも魅力を感じていたが、ギリシャ・ローマの異教文化にも強く惹かれていた。ローマではピウス九世に個人的に面会でき、神の国に到達できるような生き方をしなさいとの教皇の言葉に神的な権威を感じた。

後にワイルドは「私はカトリックではなく熱烈な教皇崇敬者であるだけだ」と語っている。

「聖なるもの」を感知できるのは生身の人間との関係の中においてだけだった。

「カトリシズムを必要とするのは「聖人たち」と「罪びと」だけだ。普通の立派な人はアングリカにズムで充分だ」

とも言った。

そのワイルドが、若きアルフレッド・ダグラスに恋をして、父親のダグラス卿に訴えられた。

長男を自殺で亡くしていた侯爵にとっては、次男のアルフレッドは絶対に結婚して子孫を残してくれなくてはならない。

最初にワイルドがダグラス卿による名誉棄損を訴えたのに逆に被告となったのだ。アイルランド人であったことも差別の対象になった。

1895年5月25日、ワイルドは懲役2年の実刑を課せられて、全て(妻と二人の息子は名字も変えて去った)を失った。
こうして自分が「罪びと」となった時、彼の才能を認めるある議員の采配により、多くの宗教書を差し入れられた。聖アウグスティヌスの『告白』、パスカルの『パンセ』、ダンテの『神曲』、アッシジのフランチェスコの伝記などだった。

刑期が終わって出獄してすぐにカトリックの修道院に六か月黙想することを願い出たが断られた。

「アルフレッドと会うことは、解放されたと思った地獄に再び堕ちることだ」と書いていたのに、ナポリで落ち合い、「自分の人生を台無しにした男を愛さないではおられようか」と書き残した。

しかし一文無しの二人は別れ、いつも自分は精神的にフランス人だと言っていたワイルドは、パリにわたって貧困と病のうちに1900年の11月30日に46歳で死んだ。
最後にローマを訪れた時は群衆に交じってレオ一三世の「祝福」を受けた。
死の前日、最初の恋人で最後まで友人であったロスがカトリックの司祭を見つけて、死の前の洗礼と終油の秘跡を授けてもらった。

ワイルドの魂は「赦し」を受けて神の国に発てたことになる。

ペール・ラシェーズのワイルドの墓は今でもファンが訪れる。

2016年、パリのプチ・パレ美術館では回顧展が開かれ、たった一人の孫息子も企画に関わった。

フランスはワイルドの個人主義と似たメンタリティがあり、21世紀になってフランスのカトリック系出版社はワイルドの童話絵本を3-8歳の子供のために出版した。『わがままな大男』である。

日本でもよく知られる『幸福の王子』と同じ時に書かれたこの童話は、自分の庭を子供たちに荒らされるのを嫌がっていた巨人が、最後には子供たちが庭で楽しく遊ぶことに安らぎを見出す話だが、ラストで年老いた巨人が庭で手と足に釘跡の聖痕を持つ男の子に出会い、安らかに死んでいくというものだ。
アングロ・サクソンの国ではこの最後の部分をカットされたこともある。

同性愛者として風俗紊乱で実刑に服した妻帯者、アイルランドのプロテスタントでローマ教皇に入れあげる、など矛盾した多くの要素を一身に背負っていたこのアーティストがもしフランスに生まれていたのなら事情は大きく変わっていただろう。

カトリックに改宗したユダヤ人のMJに開かれた扉はワイルドには開かれなかった。
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by mariastella | 2016-10-10 04:51 | 宗教

観音像のような聖母


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リスボンの聖母像です。
自宅のネットが繋がりなくなりました。

記事はPCに入れているので回復してから更新します。
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by mariastella | 2016-10-08 22:03 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その13

(これは前回の続きです)

MJがパリを2度目に去ったのは、霊的な理由だけではなく、パリの生活を維持する収入が減ってきたということがある。

といっても、1930年代のはじめには音楽家に囲まれ、フランシス・プーランクの曲に詞を書いたし、1933年には教育相からレジオン・ドヌールの騎士章まで授与されている。

若い芸術家たちのよき友であり指導者であり、教育者であると認知されるなど、確かな地位を築いてはいたのだ。

宗教的にも偽善的に生きていたわけではなく、宣教的態度を隠さなかった。知識人の間で無神論または不可知主義が主流であった時代と場所で、MJは同性愛という重荷を背負いながらイエス・キリストによる救いを説いて回った。

彼を本当に打ちのめしたのは1932年に出会ったルネ・デュルスーとの恋の破綻だった。

ルネ・デュルスーはサンクレールという名で文芸評論を執筆していた青年で当時23歳、MJより30 歳以上若く、両親のもとに住んでいた。MJ は若い文人の先輩としてデュルスーの両親のうちに招かれたこともあるが、2人の関係は少なくともすぐには悟られなかった。

MJは若い友人たちすべてに恋心を抱いたわけではない。

欲望の処理は恋とは関係がなかったし、多くの友人は真の友人だった。

そのMJ がデュルスーに一目ぼれした。

デュルスーはそれに応え、愛の喜びと罪の意識が拷問のようにMJを苦しめた。

1933年の5月22日、MJ はリアーヌ・ド・プジー(この女性はMJより年上のもとキャバレーのダンサーで、同性愛者でもあり、40代で若い貴族と結婚して、夫の死後さらにドミニコ会の在俗修道女となるというこれまたユニークな人だ)に当てた手紙で、その情熱と愛の苦しさを訴え、それについての司祭から免償を3度拒絶され(すなわち改悛と従順の念を表せなかった)、それは破門(聖体拝領ができない)であって、死を考えたが自殺は許されないので死ぬこともできない、と書いている。

デュルスーとの愛は、『夜の訪問のバラード』の美しい詩に反映された。

MJのケースは、もし半世紀後であれば、全くとらえ方が変わったかもしれない。

アメリカの聖公会で同性のパートナーと暮らしながら司教にまでなったジーン・ロビンソンや、2016年3月にやはり聖公会のグランサム司教で同性のパートーナーと暮らしていることを公表したニコラス・チェンバレンなどの生き方や受け入れられ方を見ていると、問題は「同性愛」ではなく、一人のパートナーへの貞節な愛を貫けるかどうかということのようだ。

といっても、デュルスーは1992年まで生きて、ゲイ文学に関わっているから、MJの純粋な愛に忠実に応えることのできるタイプではなかったかもしれない。(それが破綻の原因だったのかも。)

でも、もし、MJが、もう欲望を不特定多数にむけることなく、本当に愛する相手と神との三人で安定した関係を築くことができていたなら、彼の苦しみ方は大きく変わっていたかもしれない。

本当に愛し合い助け合う関係を持続させるのは「2人の人間」だけでは難しく、いつも神の助けがいる。

現代のフランスでも、本当に愛する人とめぐりあって司祭をやめ、福祉の仕事について、相手と16年間暮らして先立たれた同性愛者の元司祭の証言がある。
それは、司祭の独身制を維持するカトリック教会においては、異性愛でも同じことで、女性と結婚して聖職を離れることを余儀なくされる司祭がいるが、そういうカップルはたいてい2人とも「神に仕える」気が満々のままであり、神を離れたわけではない。

司祭にまでなったような人が、地上の愛のために「神」を離れることなどめったにない。愛はいつも神の業であるからだ。聖職を離れ、教会を離れるのはまた別の次元のことである。

人はいろいろな「召し出しされ方」をするものだ。

MJとデュルスーの関係を見ていると、オスカー・ワイルドとアルフレッド・ダグラスのことを思い出してしまう。

(続く)
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by mariastella | 2016-10-06 22:50 | 宗教

カトリック教会の修復能力

この夏、7月にフランスでテロが二つあった。

革命記念日の夜のニースで起こったトラック・テロと、7/26のノルマンディでの教会テロだ。

9/24に、ニースのテロの犠牲者、負傷者、家族ら180人が市長とともに飛行機2 機とバスを乗り継いでヴァティカンに向かった。一人300ユーロの経費は市が負担した。

一行のうち三分の一がムスリムで、無神論者もいる(フランスで無神論者、と自称するのは反教権主義=反ローマ教会)。

ニースが市の予算をこれに使うことを政教分離主義違反だと批判する人権団体もいた。でもニース市長は、テロのすぐ後にメッセージを送ったフランシスコ教皇から宗教と関係のない励ましと慰めを得たとしてこの出会いを企画した。

一人一人がフランシスコ教皇に慰められた。
犠牲となった子供の形見のぬいぐるみを渡してそれを教皇が抱きしめてくれるのを見て涙する人もいた。
ムスリムの女性も感激していた。
メディアからも政府からも忘れられていくような不安を抱えていた人たちにとって、教皇との出会いと励ましが次のステップに向かう貴重なひとこまになったのだ。

10月最初の日曜は、テロ以来閉鎖されていたサン・エチエンヌ・デュヴレ教会が再開された。

聖堂の中で司祭が喉を掻き切られるという蛮行は聖堂を冒涜するものだった。

で、ルーアンの大司教が来て、教会のあちこちに「聖水」をふりかけて浄化、清めた。

テロリストに倒されたり触れられた大蝋燭なども取り替えられ聖水をふりかけられた。

ムスリムの代表も最前列に招かれ、教会前の広場にはスクリーンが設置されて、皆が、

「教会が清められた」

ことを確認できる。

カトリック・テレビは全部中継したし、全国ニュースでももちろん流れた。

普通は、「聖水」なんて言っても、そんなもの、信者でなければただの水だろうと思われる。

それでも、こういうシーンでは、そのシンボリックな力は大きい。

悪魔払いでも、吸血鬼にも、聖水をかけて撃退するというシーンは、文化の中に根づいている。

水で清めるというのは普遍的で、日本でも神社に詣でる前に手や口を漱ぐし、水垢離もある。
効力があるかないかとか信じているのかいないのかというよりも、地鎮祭だとか、各種のお祓いのように、けじめとしての機能を持つものもたくさんある。

普通の建物でも、殺人の舞台になったり、孤独死や自死のあったところに住み続けたり貸したりするのは容易ではない。

去年の11月のパリの同時テロでバタクラン劇場で多くの犠牲者が出て、人々が毎日花を供えたり、追悼のカードを捧げたりしたけれど、それは「清め」にはならない。

バタクランの犠牲者や負傷者に最近政府が「勲章」を授与したことが問題になった。
たまたまそこにいて不運な目にあったというだけで勲章なんてもらうのは違和感がある、という当事者もいたし、その勲章の「格」が、そのような犯罪や災害に立ち向かう消防員や警察に与えられるものよりも「上」だということを批判する人もいた。

個人的な追悼や、政治的な配慮は「清め」に代わるものとはならない。

ニースの犠牲者たちも、ヴァティカンというロケーションに出かけて行って、ローマ教皇というシンボリックな存在に「触れて」もらうことではじめて「清め」られて、再出発の後押しをされたのだ。

カトリック教会の聖堂内のテロというとなおさらで、「清め」のシステムが総動員される。

テロがトラウマになっていた町の人全員(市長はフランス共産党)にとって、教会が清められて再開されることは大きな励みになった。

それだけではない。

大司教が、ローマ教皇がアメル神父の列福審査をすぐに開始することを許可したと発表した。
人々がどよめいた。

普通は列福審査(福者の列に加えられる。聖人の前段階)を開始する前に死後5年が経過しないといけないことになっている。何か不都合なことがあれば5年のうちに明るみに出るだろうし、様々な直接の利害関係も緩和できるからだ。
でも、マザー・テレサやヨハネ=パウロ二世には特別にその5年の待機が外された。「実績」がものをいったからだ。

アメル神父も、教会でミサを上げている時に殺されたわけで文句なく「殉教者」認定だろうから、「奇跡」の認定がなくても順調に福者となって、多くの人の祈りを取り次ぐことになるだろう。

イスラム過激派のテロリストたちも殉教するつもりで「聖戦」に参加したのだろうけれど、結果的には、カトリック教会の殉教者を作って、村の人々の連帯に寄与してしまった。

それがまた全カトリック教会に波及する。

修復システムとしてのカトリック教会の実力はこういう時に発揮されるんだなあ、と思った。

人が有限な存在である限り、スピリチュアルなシステムは永遠に必要とされるだろう。

アメル神父は死ぬ前に「出て行け、サタン!」と言った。

19歳の少年にではなく、彼を突き動かした悪魔に叫んだのだ。

人質になったシスターたちは今も、少年たちを裁くことはできない、と繰り返している。
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by mariastella | 2016-10-04 05:27 | 宗教

ファティマから戻って

ポルトガルから戻ってきた。

スペイン語は大学でも習ったことがあるからわりと分かるのでポルトガル語も何とかなると思って準備していかなかったら、分からない言葉がたくさんあった。

スペイン語のバイリンガルの生徒と話したら、やはりポルトガル語は分からないと言われた。
そうなると、中南米でも、ブラジルと他のスペイン語圏の国ではコミュニケーションが結構大変なのかもしれない。

いくつかのホテル(四つ星)のバスルームに全部、内側からかける鍵がなかった。他の公共機関のトイレでも鍵がないのが一ヶ所あって不思議だった。

テラスで食べることが多いからかもしれないが、ナイフとフォークとナプキンをまとめて紙袋に入れてテーブルに置くレストランが多いのもはじめて見た。
ホテル内ではさすがにそうではなかったが。フランスならテラスで食べてもこういう置き方はしない。

カトリック的には、イタリアの影響の方がスペインの影響よりも大きそうだ。

ファティマもヴァティカンとの特権的なつながりを自覚している感じだし。

ファティマのオーガナイズを見ていると、ついルルドと比べて、ルルドってやっぱりすごいなあ、と思っていたら、なかよしになった地元の女性(フランス語ができた)から、ファティマはいつも黒字でルルドに寄付をしているのだと言われた。
フランスは、革命に政教分離に無神論があって教会離れしているけれど、ポルトガル人はファティマに来て献金する、子孫のない人はみな財産をファティマに寄付するのでファティマはお金に困っていないそうだ。

なるほど、1917年のご出現が認定されるまでは、みなスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに行ったり、ピレネーを超えてルルドに行ったり、さらにアルプスまで超えてイタリア詣でをしていたものが、ついにファティマが「国民的聖地」になったという感じなのかもしれない。

外国からの巡礼グループももちろんいて、ご出現の聖堂でのロザリオは、ポルトガル語、英語、フランス語、そして韓国語で唱えられていた。スペイン人はわざわざ西の端に来ないのかもしれない。歴史的なライバル関係も複雑なのだろう。

聖堂の周りを膝で歩く人たちももちろんいた。膝あてみたいなのをつけている人もいれば、わざわざズボンをたくし上げてむき出しの膝と脛で進む若い女性のグループもいた。

ポルトガルでは子供たちの初聖体には伝統的に五色のロザリオをプレゼントするのだそうだ。
五色はオリンピックと同じ五大陸で、最初から世界中の人のために祈る習慣を与えるためだという。

最初に自分のことや自分の国に視野を限ると大人になってもなかなか世界に目を向けられないから、と。

なるほど、ヨーロッパの西の端から外に出て新世界を「発見」した人たちの自負かもしれない。
日本の天正遣欧少年使節が最初にヨーロッパについたのもリスボンだ。

美術館で南蛮屏風などを見た。「Namban」とあちこちに書いてある。「蛮」って言われているのを知っているのかなあ。ここでは「ナンバン=日本」みたいな雰囲気だ。それを説明したビデオに出てくるポルトガル人が、みな南蛮屏風に描かれているとおりにとんがり鼻でシラノ・ド・ベルジュラックみたいなのはご愛敬だ。

なかよしになった同じ歳の女性は、自分はファティマに住んでいるけれど、ポルトガル中から、いや世界中から多くの人が一生懸命お金を貯めてここまで一生一回の巡礼にやってくる、それを毎日見ていると自分の信仰のちっぽけさを痛感する、と何度も言った。実感がこもっていた。

ルルドでも地元の人と話したけれど、みなもっとさばさばしていて、せいぜい巡礼の人の役に立ててうれしい、と言うだけで、シーズンオフには皆スキーに出かけるという感じだった。

1917年、ファティマにはいったい何が起こったのだろう。

お告げを聞いた一人は21世紀まで生きていたし、いっしょに「太陽のダンス」や「花びらの雨」を目撃した人が何しろ五万人もいたのだから、彼らが全財産をファティマに寄付することを始めたのかもしれないし、その話を聞き伝える次の世代はまだたくさんいるだろうから、これからもまだファティマの「現役感」は続くのかもしれない。

しかしその異様なパワースポットの雰囲気は私には感じられなかった。

ルルドは、山、丘、川、洞窟、病院、泉(ファティマにも泉はあるし容器に入ったものが売られてもいる)、圧倒的な病者の数と奇跡の期待の濃密さが混然一体になって別世界ができている。

でも、ファティマでは「ポルトガルの聖地」に寄らせていただきました、という感じがする。
ここは「当事者」が祈るよりも他者のために祈る場所なんだなあという感じもする。

来年が100周年、すっかり準備が整った感じだ。10月の大祭にも巡礼者がいっぱいになるのだろう。
「聖母ご出現」によって生まれた聖地、でもファティマの「秘密」は世界中で噂され、ヨハネ=パウロ二世の命も救われた。彼が列聖されたことでなおさらファティマの輝きは増している。

これらすべてがどう関係しているのかわからない。歴史的出来事の距離感と同時代性の生々しさとが微妙な感じで共存していて、残るのは「自分の信仰のちっぽけさ」の自覚だけなのかもしれない。
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by mariastella | 2016-10-03 02:06 | 宗教

ファティマのバイカーといまいちなキリスト像

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ファティマにはオートバイのライダーがいっぱいいました。その日はオートバイに祝福が与えられるカトリックの行事がある日で、ポルトガル中からバイクに乗った人が集まり、回り持ちで今年はファティマだったそうです。こんなにたくさんのバイクやライダーを1度に見たのはル・マンの24時間バイクレースを観た時以来でした。ファティマの聖母と黒装束のバイカーのミスマッチが面白いでした。

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バジリカ聖堂の反対側にある2007年にできた巨大な聖三位一体教会の磔刑像のキリストの顔は驚くほどに俗っぽい感じで、どうしてこれが………と思いました。仲良しになった地元の女性に聞いたら、99、99%の人があのキリストは嫌いだと言っている、とすぐに答えてくれたので少しほっとしました。
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by mariastella | 2016-10-02 01:50 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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