L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 303 )

5つのパンと2匹の魚

マタイによる福音書14章に出てくる有名なエピソードです。5つのパンと2匹の魚だけしかなかったのに、大群衆に分け与え、全ての人が食べて満足します。

このパンと魚をあしらったクロスをいただきました。

ありがとうございます。

なぜだか、はじめてこのエピソードの意味がわかりました。

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by mariastella | 2016-10-31 00:58 | 宗教

フィリピン大統領とカトリック

暴言王として有名で、この人が大統領に選出されたのだからトランプ大統領の誕生もありうる、と思えてくるフィリピン大統領のロドリゴ・ドゥテルテ。

大統領選出馬を表明した昨年11月に、フランシスコ教皇の2015年マニラを訪問時の交通大渋滞で車が身動きできなかったことについて、
「こう言ってやりたかった。『売春婦の息子である法王よ、自分の国に帰れ、二度とこの国に来るな』」
と語った。

フィリピンは人口一億人の8割がカトリックとアジア最大のカトリック国。

けれどもドゥテルテが市長を務めていた南部のミンダナオ島(人口200万人)はスペイ統治より前に伝わったイスラム教が優勢で、しかも過激化していると言ってカトリックは被害者意識を持っている、フィリピンでは珍しい場所だ。そんなところで成功してきたドゥテルテの宗教は何なのかと調べると、一応カトリックだった。

前述の暴言にも一応謝罪の手紙をヴァティカンに送り(宗教は別にしても一国の首長を公然と罵倒したのだから当然だとはいえ)、ヴァティカンからは

「お祈りします」

と答えをもらったという。

今年の5月10日に当選してからは、12日には、ヴァティカンを訪問して教皇に謝罪するのが優先事項だと訪問を申し入れたと言っていたが、返事はもらえなかった。

女性へのセクハラ発言もトランプなどかわいく見えるようなひどいことを言っていて、1989年にミンダナオの暴動で、ダバオの刑務所内で集団レイプされ死んだオーストラリア人の修道女についてのコメントで「自分もやりたかった」などとコメントしたことが問題になった。その時ももちろん「謝罪」している。

5/22には、対立候補者に6百万票の差をつけたことで自分はカトリック教会よりも影響力がある、と堂々と語り、さらに、

「フィリピンの司教たちは恥ずかしくないのか、売春婦の息子よ、私にまでに金をせびった」

などとインターネット・サイトで発言している。

一夫婦につき3人の産児制限法も公約していて、カトリックの避妊禁止のせいで人口が増えすぎた、と公言している。

2006年に廃止された死刑制度の復活も公約していて、これには、リパの大司教ラモン・C・アルグェリェスが、もしも死刑制度が復活するならすべての死刑囚の代わりに私が死ぬ。それこそが、キリストが私たちにしてくれたことではないか? と、アメリカのカトリックサイトCrux(5/19)で語った。

アメリカとは手を切る、中国と日本の間でうまく立ち回る、という感じの今のドゥテルテの雰囲気を見ていると、偽善的なキリスト教にはうんざりで非キリスト教の中国と日本に近づいた、という面もあるのかもしれないとちらと考えたけれど、そうでもないらしい。
彼の票田には、プロテスタント系団体「イグレシア・ニ・クリスト」(INC)が数百万票もの組織票を持ち、過去の大統領選でもキャスティングボードを握った。

1986年2月の「民衆革命」ではカトリック教会ハイメ・シン枢機卿が反マルコス大統領を訴えて、マルコスは亡命、敬虔なカソリックのコラソン・アキノ夫人が大統領になった。2001年にもシン枢機卿がエストラダ大統領の汚職の粛清を訴えて退陣につなげたけれど、2005年に亡くなった。

このようなことを考えながら、フィリピン人のメイドさんの到着を待って質問した。

彼女とは以前にももう何度も話し合っていて、フィリピンの「敬虔なカトリック」の平均的なプロフィールと信仰心を持つ人だと分かっている。

私はフランスでミンダナオ島出身の家政婦さんに振り回されて罪悪感を目いっぱい利用された経験があるのだけれど、日本人と結婚していて日本で働くメイドさんはやはり雰囲気が違うのかなあとも思っていた。

ところがドゥテルテについて質問すると

ドゥテルテは敬虔なカトリック、善きカトリック。

教皇に失礼なことを言ったけれど、その時に多くの人が思っていた本音を言っただけで、信仰の深さとは関係がない。全然問題がない。

麻薬関係者を一掃するのは当然。

誰かが人を殺した時点で死刑にするのも当然。

冤罪は?
  私は司法と判事を信じる。神さまは声を出せないのだから。

教皇の言っていることと大統領の言っていることが矛盾したら?
 国のことは国が決めるのが当然。みんなの考えを代弁するのが大統領だ。

教皇が何か言うのはことば。国の決めるのは法律。法律に従うべき。

でも例えばあなたの息子が冤罪に問われて死刑判決を受けたら?
 冤罪かどうか、絶対的証拠があるのかどうかは判事が決めるから大丈夫。

マルコスの時代は偉大な時代だった。マルコスも善きカトリックだった。

などなど…。

メイドさんはたぶんマルコス時代に生まれたのだと思う。
当時の冷戦の状況、対共産圏国家の政策におけるレーガン大統領やローマ教皇の連携との関係など事情は複雑なのだけれど、メイドさんがなんの屈託もなく、マルコスもドゥテルテも称賛しているのを見ると、軽い衝撃を受ける。

彼女を見る限り、一般のフィリピン人は「独裁者」を嫌がってはいない。
これが一神教の「絶対神」に帰依する伝統から来たのだろうなどという無知で軽率なことは言えない。

でも、神に対する愛や信頼と、大統領や判事に対する信頼は半端ではなくセットになっている。

それにしても、アメリカ人なら多くの人が今回の大統領選の二人の候補について「恥ずかしい」と言うのに、フィリピン人はドゥテルテの暴言を基本的に気にしていないというのもおもしろい。

本音だからといって真実であるとは限らない。
でも、アメリカ人のほうが偽善的でフィリピン人の方が実際的なようにも見える。

もし私に、敬虔なプロテスタントでトランプ支持者のアメリカ人と話す機会があったなら、果たして同じような言葉が返ってくるのだろうか。

普遍主義に根差した自由・平等・博愛という建前の大切さを再認識する。

この建前を喜びとともに生きるのが大切だ。
憎悪や怒りや妬みや侮蔑を生み出すような本音など絶対に封印しなくてはならないと自戒する。

でも、怖いのは、喜びとともに負の本音を生きている人たちもたくさんいるということだ。

メイドさんの言葉をフランシスコ教皇がもし聞いたならやはり

「お祈りします」

という返事が返ってくるのだろうなあ。
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by mariastella | 2016-10-29 00:41 | 宗教

鞍馬の魔王尊

久しぶりに鞍馬に登った。

ここの「魔王」さんというのが岩に降り立った「宇宙人」で、その後、平安京建設に当たって異端とされずにいろいろ習合したのに、宗教的政治的に利用されることが少なく別枠民間信仰の位置をずっと保って来たのは不思議で前にも書いたことがある。

「魔王」というよりソフトな「尊天」も使われているけれど、信ずる人にはやっぱり魔王さんだ。

一神教の超越神に似ていて

「何事も尊天の御はからいに依るとの確(かた)き信念と強き信仰とに生きよ」

と言う。

「尊天」は神や仏を習合させるために「三身一体」と後から言われるようになったのも興味深い。

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奥の院から山を超えて貴船川沿いで食事。川床の流しそうめんを頂いてからもう何十年になるだろうか………

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by mariastella | 2016-10-28 01:04 | 宗教

大阪田辺教会

1931年に大阪で田辺教会を始めたパリ外国宣教会 のピエール・ベック神父の妹さんの子孫に当たり、神父の形見を所有している友人のアランといっしょに、新装の田辺教会を訪れました。

ベック師の写真が「聖母の騎士」10月号に載っていて、アランとなんとなく似ているといわれました。

ベック師を直接知っていた愛徳姉妹会のシスターと私のトリオは2003年にお話ししました。当時96歳でした。「聖家族の家」でのコンサートでした。2014年のコンサートは、ようやくデジタル童話が完成しました。日本語版は配信の形を考え中です。

写真は、旧教会の祭壇のあった場所に置かれた聖像の前でのアランとシスター・ミリアムです。
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by mariastella | 2016-10-26 00:29 | 宗教

フッガーライの話 その3

ヤコブ・フッガーが免罪符を販売した利益の一部を自分の取り分にしていたこと、いや、免罪符そのものを金で買えるものにしたことなどは、ルターでなくとも、「宗教的公正」にもとるように見える。
けれども本当にそうなのだろうか。

「富は、天に積みなさい(マタイによる福音書 6-20)」という有名なイエスの言葉は当時誰でも知っていただろう。

この世での自分の欲望の充足のためなどに富を蓄え消費することが「神の目」にとって望ましくないことは誰でも知っていて罪悪感を持っていた。

だからこそ、神との仲介をしてくれる教会に金を払ったのだ。

「免罪符」を買うといっても免罪符は地獄堕ちから守ってくれる「護符」などではない。

教会は「効き目のない呪符」を騙して売っていたのではなく、教皇庁にとっても信徒にとっても正当だと思われていた免償システムを「商品」として販売したのだ。

需要があり、信者たちがそれを「購入」したのは、彼らにとっては「天に富を積む」ことに相当した。

この世での利益を祈願してのことではない。

教会もまた、得た金で「神の家」である聖堂を造ろうとしていた。
「天に富を積む」つもりだったのだ。

もともと裕福なメディチ家から出たレオ10世がそんな金で「私腹を肥やす」意識があったとは思えない。
フッガーだって、その後500年も続く福祉住宅フッガーライを建てたのは、免罪符の販売から得た富の少なくとも一部を「天に積む」ことで死後の魂の行方を気にかけていたのだろう。

社会的な弱者の中にキリストの姿を重ねて仕えよ、というイエスのメイン・メッセージのひとつも共有されていた。
それだけではなく、「天に富を積む」ことによって期待できる「救い」はとりなしの祈りを経由するという認識も共有されている。

ヨブの昔から聖人による神への「とりなし」の祈りなら、助けてもらえるという伝統が形成されていた。
聖人だけではない。
貧しい人、子供は天国に近い存在で、弱者=小さい者にイエスの姿を重ねるのだから、彼らを支援したり寄り添うことで、彼らからも「とりなしの祈り」を捧げてもらえればより効果的だと考えられても不思議ではない。

裕福な多くの人や権力者たちが葬儀の際に貧しい人々に祈ってもらえるよう施しとセットにして遺言を残してもらったのもそういう意識があったからだ。
観想修道会に寄進することにも、自分の魂のために祈ってもらえるというギブ・アンド・テイクがあった。

その意味でヤコブ・フッガーは、教会に寄進することで「天に富を積」み、貧者を救済することで貧者からみかえりに「とりなしの祈り」を得るという二重の「保険」をかけていたことになる。

実際フッガーライが続いてきた理由には、住民が寄進者のために祈るという条件が、多くの人の寄進の動機づけになったからだろう。

寄進は財産や金だけではない。

変わり種としては、71歳になるゲルハルト・シュリッヒさんがいる。
歴史好きの彫金師である彼は20年前にフッガーライに奉仕しようと決意して、16世紀のコスチュームをつけてフッガーライの通りを歩くことにした。
金属製の角笛型の容器に観光客から寄付金を集め、その額はこの20年で50 万ユーロに上るそうだ。
年間18万人の観光客の数からしたらそれでも少ないと彼は言う。

その金がフッガーライの管理費にあてられ、市は彼を表彰した。
そのおかげで、彼の名は、住民が神への祈りをその人の魂のために捧げる「寄進者」のリストに載せられた唯一の生存者となった。
シュリッヒさんは鍵を忘れた住民などにも頼られる存在だ。

入居の条件が守られているなら150人の住民が毎日3つの祈りを唱えるのだから、450の祈りが彼のためにも唱えられていることになると思うと、毎晩床に入るときにとても安らかな気持ちになるという。
彼のことを「アウスブルグで最も聖なる人」と呼ぶ人もいるそうだ。

フッガーライ、
現在の入居者の平均年齢は63歳、最年長者は、40年暮らしている94歳。
午後10 時の「門限」を守らないものには1ユーロ課金されることもあって若者は少ないから、今は単身者のホスピス機能も果たしている。

信仰とか信心の形が500年も続いて社会的にも精神的にも実際にポジティヴな役割を果たし、広く認められている不思議な場所が今のヨーロッパの真ん中にあるということから、いろいろなことを考えさせられた。
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by mariastella | 2016-10-24 11:27 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その17

(これは前回の続きです)

1940年、6月22日、フランスはドイツとの休戦協定を調印した。翌日ヒトラーがパリにやってきた。
親独ヴィシー政権が誕生した。
反ユダヤ主義政策が施行され、ユダヤ人であるMJは出版する権利、旅行する権利を失った。
これまでの作品の著作権も奪われた。

1942年の6 月から、黄色いダビデの星をつけることが強制された。

一度ゲシュタポに逮捕されたが、洗礼証明書のおかげで仮釈放された。

この時に彼は外国に亡命することもできた。そうしなかったのは、キリスト教に改宗していない家族の身を案じたことと、深い信仰生活によって死を恐れる気持ちが全くなくなっていたからだと言われる。(MJの家族は1825年頃ドイツから移住してきた。MJは7人きょうだいの4番目である)

1942年、義兄のリュシンアン・レヴィはコンピエーニュの収容所で死に、姉のジュリー=デルフィーヌも死んだ。1943年、一歳上の兄ガストンがアウシュヴィッツに送られて死んだ。

1944年2月24 日、サン=ブノワ=シュル=ロワールのバジリカ聖堂の地下聖堂で朝のミサにあずかったばかりのMJは、二度目にゲシュタポに逮捕され、ユダヤ人としてオルレアンの監獄に収容された後でドランシィの収容所に送られた。

列車の中でコンラッド・モニカンに宛てて

「ドランシィに連れていかれる列車の中で書いている。神のみ旨がなされますように。憲兵たちは親切だ。マックス」

と書いた。

翌日にはフルロー神父に充てて

「殉教が始まることを神に感謝します」

と書いた。

サーシャ・ギトリーやジャン・コクトーら友人たちが彼の解放を求めてドイツにかけ合った。

すでにしばしば苦しんでいた気管支炎と肺炎がMJを襲った。
共に囚われていたユダヤ人の医師は、衰弱していくMJが決して泣き言を口にせず「私は神とともにいる」と繰り返していたと証言している。

MJの唯一の望みは「カトリックとして死ぬこと」だった。

ユダヤ人を困らせないようにMJはそのことをこの医師にだけ打ち明けた。その気遣いは他のユダヤ人の心を動かし、みなが彼の願いをかなえようとした。MJのポケットに入っていたロザリオを周りにいたユダヤ人たちが指にかけてやった。彼の臨んだ司祭による「終油の秘跡(今は病者の秘跡)」と免償は与えるすべがなかった。

横たわるMJのそばに医師が座って覗き込んだ時、MJは医師を優しく見つめて、まるで最後の愛の言葉のように「あなたの顔は天使のようだ」と消え入りそうな声で言った。

1944年3月5 日、ドランシィのユダヤ人収容所の看護室でMJ は死んだ。

コクトーらによるMJの解放運動を知っていた御用メディアは、ハイエナのように冷たく「ユダヤ人の同性愛者」の死を伝えた。

最もひどい記事はこういうものだった。

「マックス・ジャコブが死んだ。人種としてユダヤ人で、出身地としてブルターニュ人で、宗教的にはローマ人で、性向はソドム人(同性愛者)であったこの人物は、あの腐って頽廃的なパリについて想像できる限りの最も典型的なパリジャンであった。彼の弟子のうち最も名が知れ渡っているのが、同じようにシンボリックなパリの典型をなすジャン・コクトーである。なぜなら、ああ、無念にも、ジャコブの後にはだれも梯子を引っ張らないからだ。」

「ヤコブ(ジャコブ)の梯子」というのは聖書のエピソードで

「すると、彼(ヤコブ)は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 」(創世記28章 12節)

というものだ。

MJは天への階段をきっと見ていた。

「あなたの顔は天使のようだ」と最後に医師に言ったのだから、天使がMJに手を差し伸べたことは想像に難くない。

占領下のパリで世間から後ろ指をさされたジャン・コクトーは後にこう書いた。

「私はマックス・ジャコブの目よりも美しいものを知らない。顔のまわりに折り込まれたかようなあのような目を通過した後で彼の手から生まれる世界が詩になるのは、ほとんど当たり前のことである。」

ドランシィで死んだすべてのユダヤ人と同様にMJはまずイヴリィに埋葬され、戦後の1949年にサン=ブノワ=シュル=ロワールの墓地に移された。

その折にマックス・ジャコブ友の会のプロジェクトが立ち上がり、1950年1月20日にパリで正式の協会として発足した。最初の会長がジャン・ドゥノエルで名誉会長はMJのゴッド・ファーザーであったパブロ・ピカソだった。

1949年以来、MJの誕生日に最も近い日曜日に、マックス・ジャコブ友の会は、サン=ブノワ=シュル=ロワールで追悼のセレモニーを続けている。
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by mariastella | 2016-10-13 01:37 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その16

(これは前回の続きです)

二度目の隠棲生活においてMJは果たして自分の欲望と折り合いをつけられただろうか。
欲望には相変わらず苦しめられたけれど、それに打ち勝つ「方法」を見つけたと思えるエピソードがある。

1938年から39年にかけて何度もMJを訪問したジャン・クラリーの証言であり、そのエピソードは不思議な色合いを持つ。

「彼の寝室には暖炉が一つあり、その暖炉の前の床に赤いタイルが何列か張られていた。彼(MJ)はある日それを指さしてこう言った。」

「肉体の悪魔がぼくを執拗に責め立ててくる時、ぼくは裸足になって、いつも冷え切っているこのタイルの上に立つんだ。すると、急激に、あっという間に、悪魔は逃げ去る。
これで僕はすっかり解放された気分になるが、それも奴の次の攻撃までのことだ。
奴を撃退する方法をぼくが持っていることを知っているはずなのに。
いや、それとも、このタイルのおかげでぼくが簡単に勝利できるからこそ、悪魔がぼくをしょっちゅう苦しめに来ることを神が許しているのかもしれない。」

共同の修道生活という形態が始まる前のキリスト教における「荒野の隠遁修道士」の系譜においては欲望を鎮めるために茨の茂みの上を転がって棘で体を痛めつけるという克服方法があった。
「痛み」の感覚は脳にとっての優先情報となって他をブロックするから有効だったのだろう。かゆみをブロックするためにかゆいところに爪を立てるのと同じ「知恵」だ。
MJにとって足を冷やすことが本当に欲望を鎮める効果を発揮したのかどうかは分からない。
一度でもそれが「効いた」という成功体験がインプットされて一つの「儀式」として組み込まれて、欲望を自制することができたということかもしれない。
彼は自分が信じていたよりもはるかに危機管理の術を身につけていたのかもしれない。
荒野の隠遁修道士たちは別に同性愛の欲望に苦しんでいたわけではない。
MJの欲望が脳内で若い男に向けられていたとしても、それは脳内で若い女性を欲望する修道士の苦しみや克服の工夫と何ら変わることがない。禁酒や禁煙や麻薬を断つことに苦しむ人々とも変わらない。
MJのそれが同性愛であったことの不都合は、それが当時のキリスト教の常識で「罪」であったこと、そして、それが社会的にも「不都合」なことであった故に安定した伴侶を得て暮らすことが不可能に近かったということだ。
もしMJが異性愛者であったなら、同じように信仰深く貞節な女性と恋をして幸せに信仰生活を送ることができたかもしれない。とはいえ、異性愛者であっても、妻との愛がさめたり、裏切られたり、他の女性に誘惑されたり、などいろいろなリスクは避けられなかっただろう。
聖母マリアへの熱烈な信仰から考えても、MJには、異性愛であろうと同性愛であろうと、この世の生身の人間を通しては全うできない高い理想の希求があり、それは彼の創作における「美」の追求によって置き換えられた。アートにおける「美」に殉じたからこそ、MJ は多くのアーティストにとって信頼できる友、敬愛する師であり続けることができたのだ。
だからこそ、シニカルなエリートたちも、MJの「罪悪感に苛まれる姿」と「神を夢中に賛美する姿」の対比を嘲笑する代わりに、いつしか、MJの苦しみの中に自分たちが敢えて忘れようとしている「何か」を感じ取って、畏敬の念を抱くようになっていたのだ。

性的傾向が罪悪感を深めるかどうかは時代と場所と人間関係によって変わるものだ。変わらないのは、超越的な神に向かう意思を抱いた者が、性愛であれ酒や麻薬であれ、肉体的な渇望によってその方向とは真逆だと自覚される方向に引きずりこまれると意識した時の苦しさである。

その葛藤と戦ううちに突き抜けて開かれる境地もある。

MJを支えていたのは二度にわたってパリで彼の前に現れたイエスの姿であり、神が絶対に彼を見捨てることはないという愛の感知と確信だった。

それなのに、時代のもう一つの悲劇が、MJを襲った。(続く)
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by mariastella | 2016-10-12 18:24 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その15

(これは前回の続きです)

1936年、MJは二度目にサン=ブノワ= シュル=ロワールに居を定めた。まずホテル・ロベールに住み、次に未亡人マダム・ペルシヤールの家の一階に下宿した。バジリカ教会のすぐそばのマルトロワ広場のこの家には今もMJの名を刻む銘板がある。フルロー神父や、交流のあった地元の何人かの職人や農民たちとも再会した。

散歩することがほとんどないインドア生活だったが、修道院を訪れる人たちのための観光案内を執筆し、巡礼者を案内した。サン・ブノワの修道院には1935年から二人の修道士が住むようになっていた。

詩人や画家や収集家らとの膨大な文通も再開された。
パリからMJを訪ねてくる人々もいた。ミシェル・レリス、エドモン・ジャベス(『若き詩人への忠言』は彼のために書かれた)らの他、パリ時代の多くのファンがやってきた。MJ は彼らを愛したけれど、パリでさんざん経験した裏切りのトラウマは残っていた。1937年にはエリュアール、コクトー、ヴラマンク、レジェ、ピカソ、マックス・オルランら同年輩の友人たちも訪ねてきた。

ブルトンに先立つシュールレアリズムの先駆者であるMJは、夢や幻覚や無意識からあらゆるものをあらゆる方法で取り出して構成した。「モノをそれがあるところで見せるのではなく、それがあってほしい場所において見せるのだ」というキュービズムの詩が生まれた。
奇妙で予測のつかない、時にコミックで、不気味なまでに執拗な社会風刺が展開された。美学の方法論も書かれた。

一人でいるときの生活は修道院さながらに簡素だった。
寝室の壁は石灰で白く、鉄のベッド、十字架、本や紙でいっぱいの大きな机に2、3脚の椅子だけがあった。

毎朝5時半に起きて1時間熱心に祈り、教会へ行って祭壇を整え、ミサにあずかった。
典礼の間の彼の動作は大仰だったが、村人たちの目には誠実なものだと受け止められた。

それから帰宅して仕事をし、午後にはもう一度教会に行って「十字架の道」(イエスの受難の14場面を追想して祈る)をした。
彼のくぐもる声が「主よ、お赦しください、私はよき盗賊です」と言っているのが時々聞こえた。
「善き盗賊」とはイエスと共に十字架につけられたが、「あなたのみ国においでになるときは私のことを思い出してください」と言って「今日あなたは私と共に楽園にいる」と言ってもらった「最初の聖人」だ。

訪問客がいないときは一日一食だった。

聖母を崇敬し、「この上なく不思議な玉虫色に輝くおとめよ」などと自分で作った連祷を唱えていた。
施しをし、寝室で煙草を吸わないことを自分に課し、謙虚でいるように努めた。
誰かに対して怒りの言葉が口をついて出てしまうと、突然口をつぐみ、「その気になればいいところもきっと見つけることができるに違いない」などと言い直した。

では、パリで彼をあれほど苦しめた欲望はどうなっていたのだろうかというと・・・。(続く)
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by mariastella | 2016-10-11 19:34 | 宗教

マックス・ジャコブの回心 その14  (オスカー・ワイルドの話)

(これは前回の続きです)

オスカー・ワイルドはMJより20年ほど上だが1900年にパリで死んでいるから学生時代のMJと同時期に少しパリにいたことになる。当時UKに属していたアイルランドのダブリン生まれだがプロテスタントの家庭だった。ダンディでリベルタン、享楽的、頽廃的、倒錯的なイメージがあるが、オスカー・ワイルドも常に神を希求していた。最後はカトリックとして死んだとされている。

アイルランドだから環境的にはカトリックが遍在していた。アングリカン(イギリス国教会)から聖公会)からカトリックに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿と出会い、その深い知性あふれる著作を読むようになった。

父親はそれが気に入らず、アングリカン知識人の牙城ともいえるオクスフォードに息子を送り込んだ。学生寮のワイルドの寝室にはローマ教皇の写真と聖母マリア像が飾られていた。

カトリックの典礼にも魅力を感じていたが、ギリシャ・ローマの異教文化にも強く惹かれていた。ローマではピウス九世に個人的に面会でき、神の国に到達できるような生き方をしなさいとの教皇の言葉に神的な権威を感じた。

後にワイルドは「私はカトリックではなく熱烈な教皇崇敬者であるだけだ」と語っている。

「聖なるもの」を感知できるのは生身の人間との関係の中においてだけだった。

「カトリシズムを必要とするのは「聖人たち」と「罪びと」だけだ。普通の立派な人はアングリカにズムで充分だ」

とも言った。

そのワイルドが、若きアルフレッド・ダグラスに恋をして、父親のダグラス卿に訴えられた。

長男を自殺で亡くしていた侯爵にとっては、次男のアルフレッドは絶対に結婚して子孫を残してくれなくてはならない。

最初にワイルドがダグラス卿による名誉棄損を訴えたのに逆に被告となったのだ。アイルランド人であったことも差別の対象になった。

1895年5月25日、ワイルドは懲役2年の実刑を課せられて、全て(妻と二人の息子は名字も変えて去った)を失った。
こうして自分が「罪びと」となった時、彼の才能を認めるある議員の采配により、多くの宗教書を差し入れられた。聖アウグスティヌスの『告白』、パスカルの『パンセ』、ダンテの『神曲』、アッシジのフランチェスコの伝記などだった。

刑期が終わって出獄してすぐにカトリックの修道院に六か月黙想することを願い出たが断られた。

「アルフレッドと会うことは、解放されたと思った地獄に再び堕ちることだ」と書いていたのに、ナポリで落ち合い、「自分の人生を台無しにした男を愛さないではおられようか」と書き残した。

しかし一文無しの二人は別れ、いつも自分は精神的にフランス人だと言っていたワイルドは、パリにわたって貧困と病のうちに1900年の11月30日に46歳で死んだ。
最後にローマを訪れた時は群衆に交じってレオ一三世の「祝福」を受けた。
死の前日、最初の恋人で最後まで友人であったロスがカトリックの司祭を見つけて、死の前の洗礼と終油の秘跡を授けてもらった。

ワイルドの魂は「赦し」を受けて神の国に発てたことになる。

ペール・ラシェーズのワイルドの墓は今でもファンが訪れる。

2016年、パリのプチ・パレ美術館では回顧展が開かれ、たった一人の孫息子も企画に関わった。

フランスはワイルドの個人主義と似たメンタリティがあり、21世紀になってフランスのカトリック系出版社はワイルドの童話絵本を3-8歳の子供のために出版した。『わがままな大男』である。

日本でもよく知られる『幸福の王子』と同じ時に書かれたこの童話は、自分の庭を子供たちに荒らされるのを嫌がっていた巨人が、最後には子供たちが庭で楽しく遊ぶことに安らぎを見出す話だが、ラストで年老いた巨人が庭で手と足に釘跡の聖痕を持つ男の子に出会い、安らかに死んでいくというものだ。
アングロ・サクソンの国ではこの最後の部分をカットされたこともある。

同性愛者として風俗紊乱で実刑に服した妻帯者、アイルランドのプロテスタントでローマ教皇に入れあげる、など矛盾した多くの要素を一身に背負っていたこのアーティストがもしフランスに生まれていたのなら事情は大きく変わっていただろう。

カトリックに改宗したユダヤ人のMJに開かれた扉はワイルドには開かれなかった。
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by mariastella | 2016-10-10 04:51 | 宗教

観音像のような聖母


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リスボンの聖母像です。
自宅のネットが繋がりなくなりました。

記事はPCに入れているので回復してから更新します。
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by mariastella | 2016-10-08 22:03 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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