L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 300 )

ファティマから戻って

ポルトガルから戻ってきた。

スペイン語は大学でも習ったことがあるからわりと分かるのでポルトガル語も何とかなると思って準備していかなかったら、分からない言葉がたくさんあった。

スペイン語のバイリンガルの生徒と話したら、やはりポルトガル語は分からないと言われた。
そうなると、中南米でも、ブラジルと他のスペイン語圏の国ではコミュニケーションが結構大変なのかもしれない。

いくつかのホテル(四つ星)のバスルームに全部、内側からかける鍵がなかった。他の公共機関のトイレでも鍵がないのが一ヶ所あって不思議だった。

テラスで食べることが多いからかもしれないが、ナイフとフォークとナプキンをまとめて紙袋に入れてテーブルに置くレストランが多いのもはじめて見た。
ホテル内ではさすがにそうではなかったが。フランスならテラスで食べてもこういう置き方はしない。

カトリック的には、イタリアの影響の方がスペインの影響よりも大きそうだ。

ファティマもヴァティカンとの特権的なつながりを自覚している感じだし。

ファティマのオーガナイズを見ていると、ついルルドと比べて、ルルドってやっぱりすごいなあ、と思っていたら、なかよしになった地元の女性(フランス語ができた)から、ファティマはいつも黒字でルルドに寄付をしているのだと言われた。
フランスは、革命に政教分離に無神論があって教会離れしているけれど、ポルトガル人はファティマに来て献金する、子孫のない人はみな財産をファティマに寄付するのでファティマはお金に困っていないそうだ。

なるほど、1917年のご出現が認定されるまでは、みなスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに行ったり、ピレネーを超えてルルドに行ったり、さらにアルプスまで超えてイタリア詣でをしていたものが、ついにファティマが「国民的聖地」になったという感じなのかもしれない。

外国からの巡礼グループももちろんいて、ご出現の聖堂でのロザリオは、ポルトガル語、英語、フランス語、そして韓国語で唱えられていた。スペイン人はわざわざ西の端に来ないのかもしれない。歴史的なライバル関係も複雑なのだろう。

聖堂の周りを膝で歩く人たちももちろんいた。膝あてみたいなのをつけている人もいれば、わざわざズボンをたくし上げてむき出しの膝と脛で進む若い女性のグループもいた。

ポルトガルでは子供たちの初聖体には伝統的に五色のロザリオをプレゼントするのだそうだ。
五色はオリンピックと同じ五大陸で、最初から世界中の人のために祈る習慣を与えるためだという。

最初に自分のことや自分の国に視野を限ると大人になってもなかなか世界に目を向けられないから、と。

なるほど、ヨーロッパの西の端から外に出て新世界を「発見」した人たちの自負かもしれない。
日本の天正遣欧少年使節が最初にヨーロッパについたのもリスボンだ。

美術館で南蛮屏風などを見た。「Namban」とあちこちに書いてある。「蛮」って言われているのを知っているのかなあ。ここでは「ナンバン=日本」みたいな雰囲気だ。それを説明したビデオに出てくるポルトガル人が、みな南蛮屏風に描かれているとおりにとんがり鼻でシラノ・ド・ベルジュラックみたいなのはご愛敬だ。

なかよしになった同じ歳の女性は、自分はファティマに住んでいるけれど、ポルトガル中から、いや世界中から多くの人が一生懸命お金を貯めてここまで一生一回の巡礼にやってくる、それを毎日見ていると自分の信仰のちっぽけさを痛感する、と何度も言った。実感がこもっていた。

ルルドでも地元の人と話したけれど、みなもっとさばさばしていて、せいぜい巡礼の人の役に立ててうれしい、と言うだけで、シーズンオフには皆スキーに出かけるという感じだった。

1917年、ファティマにはいったい何が起こったのだろう。

お告げを聞いた一人は21世紀まで生きていたし、いっしょに「太陽のダンス」や「花びらの雨」を目撃した人が何しろ五万人もいたのだから、彼らが全財産をファティマに寄付することを始めたのかもしれないし、その話を聞き伝える次の世代はまだたくさんいるだろうから、これからもまだファティマの「現役感」は続くのかもしれない。

しかしその異様なパワースポットの雰囲気は私には感じられなかった。

ルルドは、山、丘、川、洞窟、病院、泉(ファティマにも泉はあるし容器に入ったものが売られてもいる)、圧倒的な病者の数と奇跡の期待の濃密さが混然一体になって別世界ができている。

でも、ファティマでは「ポルトガルの聖地」に寄らせていただきました、という感じがする。
ここは「当事者」が祈るよりも他者のために祈る場所なんだなあという感じもする。

来年が100周年、すっかり準備が整った感じだ。10月の大祭にも巡礼者がいっぱいになるのだろう。
「聖母ご出現」によって生まれた聖地、でもファティマの「秘密」は世界中で噂され、ヨハネ=パウロ二世の命も救われた。彼が列聖されたことでなおさらファティマの輝きは増している。

これらすべてがどう関係しているのかわからない。歴史的出来事の距離感と同時代性の生々しさとが微妙な感じで共存していて、残るのは「自分の信仰のちっぽけさ」の自覚だけなのかもしれない。
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by mariastella | 2016-10-03 02:06 | 宗教

ファティマのバイカーといまいちなキリスト像

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ファティマにはオートバイのライダーがいっぱいいました。その日はオートバイに祝福が与えられるカトリックの行事がある日で、ポルトガル中からバイクに乗った人が集まり、回り持ちで今年はファティマだったそうです。こんなにたくさんのバイクやライダーを1度に見たのはル・マンの24時間バイクレースを観た時以来でした。ファティマの聖母と黒装束のバイカーのミスマッチが面白いでした。

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バジリカ聖堂の反対側にある2007年にできた巨大な聖三位一体教会の磔刑像のキリストの顔は驚くほどに俗っぽい感じで、どうしてこれが………と思いました。仲良しになった地元の女性に聞いたら、99、99%の人があのキリストは嫌いだと言っている、とすぐに答えてくれたので少しほっとしました。
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by mariastella | 2016-10-02 01:50 | 宗教

リスボンのサンタマリア教会の磔刑像

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髪の毛がひとすじ垂れ落ちているのが印象的でした。
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by mariastella | 2016-10-01 05:21 | 宗教

ファティマで見た珍しい磔刑像

14世紀のものです。外れてるんじゃなくてこういう作り。
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はじめて見ました。
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by mariastella | 2016-09-30 07:01 | 宗教

ファティマの聖母を見た子供たちがしあわせそうではない理由

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聖母の御出現に立ち会った人はカトリーヌ・ラブレーやベルナデットなど幸せそうだったり恍惚としていたりですが、ファティマの子供たちはみんなこういう顔でした。のちに、実は地獄の光景を見せられていたことを一人が告白しています。小さい子供にそんなトラウマになりそうなヴィジョンを見せたり、秘密を守らせたり、あまり教育的でないというか、一体何だったんだろうと思うこともいろいろあるファティマです。2人はすぐに死に、残ったルチアだけが98歳まで生きました。来年が御出現100周年でもう色々記念品が売られていました。
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by mariastella | 2016-09-29 06:15 | 宗教

アルコバサ修道院

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どういうわけかこの人の見ようとしているものが痛いようにわかります。
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by mariastella | 2016-09-28 02:54 | 宗教

戦士の墓のキリスト

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膝から下の欠けたキリストが戦死者を見守ります。
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by mariastella | 2016-09-27 20:58 | 宗教

ファティマに来ています。

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ファティマに来ています。みんな並んでロウソクを火に投げ込むのが壮観。同い歳のファティマ生まれの女性と仲良しになり、いろいろ話を聞いて驚くことばかり。ポルトガルのカトリックって…

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自分の治して欲しいところのかたちのロウを選べます。腸とかもあってリアル。
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by mariastella | 2016-09-26 04:05 | 宗教

「インドの聖女」マザー・テレサ その5

(これは昨日の続きです)

Q. マザーがヒンズー教徒をキリスト教に改宗させようとしたと非難する声もあります。マザーの他宗教との関係はどうだったのですか?

A. マザーは他のすべての宗教に対して非常に敬意を示していました。
捨てられた赤ん坊が死ぬ前に、洗礼を施していたとしても。(死の直前の緊急洗礼は司祭でなくても有効)

マザーがすべての神殿やモスクの前を通るときに深く礼をしている様子からもその敬意がわかり、その姿にショックを受けたシスターもいるほどです。

マザーは、ある種のヒンズー教徒が最下位のカーストに向ける視線を変えることに寄与したと私は思います。

付録: ジャン・ヴァニエの証言

「マザー・テレサは愛の宣教者会に入会したいという複数のヒンズー教徒の女性と出会いました。それで、ヒンズー教徒による修道会を創設しようと計画していました。それはヴァティカンからも許可されました。
結局これは実現しませんでしたが、マザー・テレサのパーソナリティの普遍性をよく表していると思います。」

ということだ。

マザーの人気のことを、「白人の修道女が異教の地インドで貧しい人を救う」という植民地の宗主国イメージの満足だとして非難する人もいるが、
「異文化との接触が戦いや排除ではなく愛と奉仕にも結実し得る」、というメッセージは貴重だ。

「人は人を愛することができる」というメッセージは、その「人」と「人」が異質であればあるほど深さを持つ。
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by mariastella | 2016-09-08 01:30 | 宗教

「インドの聖女」マザー・テレサ その4

(これは昨日の続きです)

Q. マザー・テレサは、ヒンズー教徒にショックを与えませんでしたか? 彼らから不可触賤眠とみなされている人たちのそばでずっと過ごしたのですから。

A. それこそ、多くの人が衝撃を受けたパラドクスです。
マザー・テレサは神の顕現であり、同時に日常的に「不浄な人たち」と生きていたのですから。

「死に行く人の家」の門の上にはI thirst(私は渇く)という言葉とともにイエスの磔刑像が掲げられていました。

それは、十字架に「不名誉な死」を見る一定の人々にとってはいつも何かの間違いのようにとられていました。
もしキリストがそんな死に方をしたのなら、彼は前世で悪人であったに違いないからと思えたからです。

そのスキャンダルに加えて、「死に行く人の家」の場所が、カルカッタのカーリー女神の神殿の巡礼者の受付だったところに作られていた事実があります。
マザーは同じ場所に神殿のブラーマンも死に行く賤民も配したわけです。

神殿では供物の山羊が喉を掻き切られ、隣では断末魔の賤民が死んでいく…それなのにこの不可解さが、マザー・テレサへの崇敬を妨げるということはありませんでした。
みんながマザーという生き神を崇めていました。

確かに、復活の栄光のキリスト像ではなくて十字架に釘打たれて苦しむ不吉この上ない磔刑像を掲げるカトリックは輪廻転生の文化圏にとってショッキングだろう。

マザー・テレサは、路上で死にかけている「賤民」よりも、もっと悲惨な姿の「神」を前面に出してみせた。

マタイ伝の有名な箇所(25, 34-40)を想起させる。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マザーにとって、「渇き」死んでいく人たちの世話をするのはキリストの世話をすることだったのだ。

(続く)
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by mariastella | 2016-09-07 00:41 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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