L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 303 )

マックス・ジャコブの回心 その13

(これは前回の続きです)

MJがパリを2度目に去ったのは、霊的な理由だけではなく、パリの生活を維持する収入が減ってきたということがある。

といっても、1930年代のはじめには音楽家に囲まれ、フランシス・プーランクの曲に詞を書いたし、1933年には教育相からレジオン・ドヌールの騎士章まで授与されている。

若い芸術家たちのよき友であり指導者であり、教育者であると認知されるなど、確かな地位を築いてはいたのだ。

宗教的にも偽善的に生きていたわけではなく、宣教的態度を隠さなかった。知識人の間で無神論または不可知主義が主流であった時代と場所で、MJは同性愛という重荷を背負いながらイエス・キリストによる救いを説いて回った。

彼を本当に打ちのめしたのは1932年に出会ったルネ・デュルスーとの恋の破綻だった。

ルネ・デュルスーはサンクレールという名で文芸評論を執筆していた青年で当時23歳、MJより30 歳以上若く、両親のもとに住んでいた。MJ は若い文人の先輩としてデュルスーの両親のうちに招かれたこともあるが、2人の関係は少なくともすぐには悟られなかった。

MJは若い友人たちすべてに恋心を抱いたわけではない。

欲望の処理は恋とは関係がなかったし、多くの友人は真の友人だった。

そのMJ がデュルスーに一目ぼれした。

デュルスーはそれに応え、愛の喜びと罪の意識が拷問のようにMJを苦しめた。

1933年の5月22日、MJ はリアーヌ・ド・プジー(この女性はMJより年上のもとキャバレーのダンサーで、同性愛者でもあり、40代で若い貴族と結婚して、夫の死後さらにドミニコ会の在俗修道女となるというこれまたユニークな人だ)に当てた手紙で、その情熱と愛の苦しさを訴え、それについての司祭から免償を3度拒絶され(すなわち改悛と従順の念を表せなかった)、それは破門(聖体拝領ができない)であって、死を考えたが自殺は許されないので死ぬこともできない、と書いている。

デュルスーとの愛は、『夜の訪問のバラード』の美しい詩に反映された。

MJのケースは、もし半世紀後であれば、全くとらえ方が変わったかもしれない。

アメリカの聖公会で同性のパートナーと暮らしながら司教にまでなったジーン・ロビンソンや、2016年3月にやはり聖公会のグランサム司教で同性のパートーナーと暮らしていることを公表したニコラス・チェンバレンなどの生き方や受け入れられ方を見ていると、問題は「同性愛」ではなく、一人のパートナーへの貞節な愛を貫けるかどうかということのようだ。

といっても、デュルスーは1992年まで生きて、ゲイ文学に関わっているから、MJの純粋な愛に忠実に応えることのできるタイプではなかったかもしれない。(それが破綻の原因だったのかも。)

でも、もし、MJが、もう欲望を不特定多数にむけることなく、本当に愛する相手と神との三人で安定した関係を築くことができていたなら、彼の苦しみ方は大きく変わっていたかもしれない。

本当に愛し合い助け合う関係を持続させるのは「2人の人間」だけでは難しく、いつも神の助けがいる。

現代のフランスでも、本当に愛する人とめぐりあって司祭をやめ、福祉の仕事について、相手と16年間暮らして先立たれた同性愛者の元司祭の証言がある。
それは、司祭の独身制を維持するカトリック教会においては、異性愛でも同じことで、女性と結婚して聖職を離れることを余儀なくされる司祭がいるが、そういうカップルはたいてい2人とも「神に仕える」気が満々のままであり、神を離れたわけではない。

司祭にまでなったような人が、地上の愛のために「神」を離れることなどめったにない。愛はいつも神の業であるからだ。聖職を離れ、教会を離れるのはまた別の次元のことである。

人はいろいろな「召し出しされ方」をするものだ。

MJとデュルスーの関係を見ていると、オスカー・ワイルドとアルフレッド・ダグラスのことを思い出してしまう。

(続く)
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by mariastella | 2016-10-06 22:50 | 宗教

カトリック教会の修復能力

この夏、7月にフランスでテロが二つあった。

革命記念日の夜のニースで起こったトラック・テロと、7/26のノルマンディでの教会テロだ。

9/24に、ニースのテロの犠牲者、負傷者、家族ら180人が市長とともに飛行機2 機とバスを乗り継いでヴァティカンに向かった。一人300ユーロの経費は市が負担した。

一行のうち三分の一がムスリムで、無神論者もいる(フランスで無神論者、と自称するのは反教権主義=反ローマ教会)。

ニースが市の予算をこれに使うことを政教分離主義違反だと批判する人権団体もいた。でもニース市長は、テロのすぐ後にメッセージを送ったフランシスコ教皇から宗教と関係のない励ましと慰めを得たとしてこの出会いを企画した。

一人一人がフランシスコ教皇に慰められた。
犠牲となった子供の形見のぬいぐるみを渡してそれを教皇が抱きしめてくれるのを見て涙する人もいた。
ムスリムの女性も感激していた。
メディアからも政府からも忘れられていくような不安を抱えていた人たちにとって、教皇との出会いと励ましが次のステップに向かう貴重なひとこまになったのだ。

10月最初の日曜は、テロ以来閉鎖されていたサン・エチエンヌ・デュヴレ教会が再開された。

聖堂の中で司祭が喉を掻き切られるという蛮行は聖堂を冒涜するものだった。

で、ルーアンの大司教が来て、教会のあちこちに「聖水」をふりかけて浄化、清めた。

テロリストに倒されたり触れられた大蝋燭なども取り替えられ聖水をふりかけられた。

ムスリムの代表も最前列に招かれ、教会前の広場にはスクリーンが設置されて、皆が、

「教会が清められた」

ことを確認できる。

カトリック・テレビは全部中継したし、全国ニュースでももちろん流れた。

普通は、「聖水」なんて言っても、そんなもの、信者でなければただの水だろうと思われる。

それでも、こういうシーンでは、そのシンボリックな力は大きい。

悪魔払いでも、吸血鬼にも、聖水をかけて撃退するというシーンは、文化の中に根づいている。

水で清めるというのは普遍的で、日本でも神社に詣でる前に手や口を漱ぐし、水垢離もある。
効力があるかないかとか信じているのかいないのかというよりも、地鎮祭だとか、各種のお祓いのように、けじめとしての機能を持つものもたくさんある。

普通の建物でも、殺人の舞台になったり、孤独死や自死のあったところに住み続けたり貸したりするのは容易ではない。

去年の11月のパリの同時テロでバタクラン劇場で多くの犠牲者が出て、人々が毎日花を供えたり、追悼のカードを捧げたりしたけれど、それは「清め」にはならない。

バタクランの犠牲者や負傷者に最近政府が「勲章」を授与したことが問題になった。
たまたまそこにいて不運な目にあったというだけで勲章なんてもらうのは違和感がある、という当事者もいたし、その勲章の「格」が、そのような犯罪や災害に立ち向かう消防員や警察に与えられるものよりも「上」だということを批判する人もいた。

個人的な追悼や、政治的な配慮は「清め」に代わるものとはならない。

ニースの犠牲者たちも、ヴァティカンというロケーションに出かけて行って、ローマ教皇というシンボリックな存在に「触れて」もらうことではじめて「清め」られて、再出発の後押しをされたのだ。

カトリック教会の聖堂内のテロというとなおさらで、「清め」のシステムが総動員される。

テロがトラウマになっていた町の人全員(市長はフランス共産党)にとって、教会が清められて再開されることは大きな励みになった。

それだけではない。

大司教が、ローマ教皇がアメル神父の列福審査をすぐに開始することを許可したと発表した。
人々がどよめいた。

普通は列福審査(福者の列に加えられる。聖人の前段階)を開始する前に死後5年が経過しないといけないことになっている。何か不都合なことがあれば5年のうちに明るみに出るだろうし、様々な直接の利害関係も緩和できるからだ。
でも、マザー・テレサやヨハネ=パウロ二世には特別にその5年の待機が外された。「実績」がものをいったからだ。

アメル神父も、教会でミサを上げている時に殺されたわけで文句なく「殉教者」認定だろうから、「奇跡」の認定がなくても順調に福者となって、多くの人の祈りを取り次ぐことになるだろう。

イスラム過激派のテロリストたちも殉教するつもりで「聖戦」に参加したのだろうけれど、結果的には、カトリック教会の殉教者を作って、村の人々の連帯に寄与してしまった。

それがまた全カトリック教会に波及する。

修復システムとしてのカトリック教会の実力はこういう時に発揮されるんだなあ、と思った。

人が有限な存在である限り、スピリチュアルなシステムは永遠に必要とされるだろう。

アメル神父は死ぬ前に「出て行け、サタン!」と言った。

19歳の少年にではなく、彼を突き動かした悪魔に叫んだのだ。

人質になったシスターたちは今も、少年たちを裁くことはできない、と繰り返している。
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by mariastella | 2016-10-04 05:27 | 宗教

ファティマから戻って

ポルトガルから戻ってきた。

スペイン語は大学でも習ったことがあるからわりと分かるのでポルトガル語も何とかなると思って準備していかなかったら、分からない言葉がたくさんあった。

スペイン語のバイリンガルの生徒と話したら、やはりポルトガル語は分からないと言われた。
そうなると、中南米でも、ブラジルと他のスペイン語圏の国ではコミュニケーションが結構大変なのかもしれない。

いくつかのホテル(四つ星)のバスルームに全部、内側からかける鍵がなかった。他の公共機関のトイレでも鍵がないのが一ヶ所あって不思議だった。

テラスで食べることが多いからかもしれないが、ナイフとフォークとナプキンをまとめて紙袋に入れてテーブルに置くレストランが多いのもはじめて見た。
ホテル内ではさすがにそうではなかったが。フランスならテラスで食べてもこういう置き方はしない。

カトリック的には、イタリアの影響の方がスペインの影響よりも大きそうだ。

ファティマもヴァティカンとの特権的なつながりを自覚している感じだし。

ファティマのオーガナイズを見ていると、ついルルドと比べて、ルルドってやっぱりすごいなあ、と思っていたら、なかよしになった地元の女性(フランス語ができた)から、ファティマはいつも黒字でルルドに寄付をしているのだと言われた。
フランスは、革命に政教分離に無神論があって教会離れしているけれど、ポルトガル人はファティマに来て献金する、子孫のない人はみな財産をファティマに寄付するのでファティマはお金に困っていないそうだ。

なるほど、1917年のご出現が認定されるまでは、みなスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに行ったり、ピレネーを超えてルルドに行ったり、さらにアルプスまで超えてイタリア詣でをしていたものが、ついにファティマが「国民的聖地」になったという感じなのかもしれない。

外国からの巡礼グループももちろんいて、ご出現の聖堂でのロザリオは、ポルトガル語、英語、フランス語、そして韓国語で唱えられていた。スペイン人はわざわざ西の端に来ないのかもしれない。歴史的なライバル関係も複雑なのだろう。

聖堂の周りを膝で歩く人たちももちろんいた。膝あてみたいなのをつけている人もいれば、わざわざズボンをたくし上げてむき出しの膝と脛で進む若い女性のグループもいた。

ポルトガルでは子供たちの初聖体には伝統的に五色のロザリオをプレゼントするのだそうだ。
五色はオリンピックと同じ五大陸で、最初から世界中の人のために祈る習慣を与えるためだという。

最初に自分のことや自分の国に視野を限ると大人になってもなかなか世界に目を向けられないから、と。

なるほど、ヨーロッパの西の端から外に出て新世界を「発見」した人たちの自負かもしれない。
日本の天正遣欧少年使節が最初にヨーロッパについたのもリスボンだ。

美術館で南蛮屏風などを見た。「Namban」とあちこちに書いてある。「蛮」って言われているのを知っているのかなあ。ここでは「ナンバン=日本」みたいな雰囲気だ。それを説明したビデオに出てくるポルトガル人が、みな南蛮屏風に描かれているとおりにとんがり鼻でシラノ・ド・ベルジュラックみたいなのはご愛敬だ。

なかよしになった同じ歳の女性は、自分はファティマに住んでいるけれど、ポルトガル中から、いや世界中から多くの人が一生懸命お金を貯めてここまで一生一回の巡礼にやってくる、それを毎日見ていると自分の信仰のちっぽけさを痛感する、と何度も言った。実感がこもっていた。

ルルドでも地元の人と話したけれど、みなもっとさばさばしていて、せいぜい巡礼の人の役に立ててうれしい、と言うだけで、シーズンオフには皆スキーに出かけるという感じだった。

1917年、ファティマにはいったい何が起こったのだろう。

お告げを聞いた一人は21世紀まで生きていたし、いっしょに「太陽のダンス」や「花びらの雨」を目撃した人が何しろ五万人もいたのだから、彼らが全財産をファティマに寄付することを始めたのかもしれないし、その話を聞き伝える次の世代はまだたくさんいるだろうから、これからもまだファティマの「現役感」は続くのかもしれない。

しかしその異様なパワースポットの雰囲気は私には感じられなかった。

ルルドは、山、丘、川、洞窟、病院、泉(ファティマにも泉はあるし容器に入ったものが売られてもいる)、圧倒的な病者の数と奇跡の期待の濃密さが混然一体になって別世界ができている。

でも、ファティマでは「ポルトガルの聖地」に寄らせていただきました、という感じがする。
ここは「当事者」が祈るよりも他者のために祈る場所なんだなあという感じもする。

来年が100周年、すっかり準備が整った感じだ。10月の大祭にも巡礼者がいっぱいになるのだろう。
「聖母ご出現」によって生まれた聖地、でもファティマの「秘密」は世界中で噂され、ヨハネ=パウロ二世の命も救われた。彼が列聖されたことでなおさらファティマの輝きは増している。

これらすべてがどう関係しているのかわからない。歴史的出来事の距離感と同時代性の生々しさとが微妙な感じで共存していて、残るのは「自分の信仰のちっぽけさ」の自覚だけなのかもしれない。
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by mariastella | 2016-10-03 02:06 | 宗教

ファティマのバイカーといまいちなキリスト像

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ファティマにはオートバイのライダーがいっぱいいました。その日はオートバイに祝福が与えられるカトリックの行事がある日で、ポルトガル中からバイクに乗った人が集まり、回り持ちで今年はファティマだったそうです。こんなにたくさんのバイクやライダーを1度に見たのはル・マンの24時間バイクレースを観た時以来でした。ファティマの聖母と黒装束のバイカーのミスマッチが面白いでした。

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バジリカ聖堂の反対側にある2007年にできた巨大な聖三位一体教会の磔刑像のキリストの顔は驚くほどに俗っぽい感じで、どうしてこれが………と思いました。仲良しになった地元の女性に聞いたら、99、99%の人があのキリストは嫌いだと言っている、とすぐに答えてくれたので少しほっとしました。
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by mariastella | 2016-10-02 01:50 | 宗教

リスボンのサンタマリア教会の磔刑像

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髪の毛がひとすじ垂れ落ちているのが印象的でした。
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by mariastella | 2016-10-01 05:21 | 宗教

ファティマで見た珍しい磔刑像

14世紀のものです。外れてるんじゃなくてこういう作り。
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はじめて見ました。
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by mariastella | 2016-09-30 07:01 | 宗教

ファティマの聖母を見た子供たちがしあわせそうではない理由

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聖母の御出現に立ち会った人はカトリーヌ・ラブレーやベルナデットなど幸せそうだったり恍惚としていたりですが、ファティマの子供たちはみんなこういう顔でした。のちに、実は地獄の光景を見せられていたことを一人が告白しています。小さい子供にそんなトラウマになりそうなヴィジョンを見せたり、秘密を守らせたり、あまり教育的でないというか、一体何だったんだろうと思うこともいろいろあるファティマです。2人はすぐに死に、残ったルチアだけが98歳まで生きました。来年が御出現100周年でもう色々記念品が売られていました。
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by mariastella | 2016-09-29 06:15 | 宗教

アルコバサ修道院

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どういうわけかこの人の見ようとしているものが痛いようにわかります。
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by mariastella | 2016-09-28 02:54 | 宗教

戦士の墓のキリスト

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膝から下の欠けたキリストが戦死者を見守ります。
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by mariastella | 2016-09-27 20:58 | 宗教

ファティマに来ています。

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ファティマに来ています。みんな並んでロウソクを火に投げ込むのが壮観。同い歳のファティマ生まれの女性と仲良しになり、いろいろ話を聞いて驚くことばかり。ポルトガルのカトリックって…

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自分の治して欲しいところのかたちのロウを選べます。腸とかもあってリアル。
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by mariastella | 2016-09-26 04:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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