L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フランス語( 25 )

ヴォルテールのせいで転んだ

ヴィオラ奏者のコリンヌが、足首を捻挫して引きずっていた。

私がレッスン室に入った時、ちょうどその話を別の奏者に話しているところらしく、

「猫に気を取られて転んだのよね、ヴォルテールのせいで・・・」

というのを耳にしたので、私は思わず

「あなたの猫ってヴォルテールという名前なの?」

なんて言って驚かれてしまった。

もちろん「ヴォルテールのせいで転んだ」というのは有名な表現で、歌や映画(『ヴォルテールのせい』という邦題もある)にもなっていて、革命以来何でもかんでもルソーとヴォルテールのせいにする、というのは早くからあった。

それが慣用句になるくらいに有名になったのがユゴーの『レ・ミゼラブル』の中でガヴローシュが歌う歌で


« Je suis tombé par terre,
C'est la faute à Voltaire,
Le nez dans le ruisseau,
C'est la faute à Rousseau. »

というのがあり、まあ、転んだ「par terre(パルテール)」とヴォルテールとが脚韻を踏んでいるということだ。

それが有名なので、何でもかんでも誰かの責任にすることで「ヴォルテールのせい」という言い回しになった。コリンヌは実際に「転んだ」ので、ほんとは「猫」のせいなのだけれど「ヴォルテールのせい」という「下の句」が口をついていたわけだ。

私はこの表現を知っていたけれど、ドアの向こうで「猫」、「ヴォルテール」と耳にして、うちの猫スピノザのことを考えて、猫に哲学者の名前付ける人って他にもいるんだ―と思ってしまったのだった。「V」の年に生まれたなのかなあって。スピノザは「S」の年生まれだ(ソクラテスかスピノザかで迷った)。

普段はスピヌー、スピ、ピー、スピンボーイなどと呼ばれているが獣医さんちのカルテにはちゃんとフルネームで記録がある。近頃『エチカ』を読み直してるのでますますそちらに連想が行った。

でも考えてみると、このヴォルテールの表現、知ってはいるけれど、自分では使ったことがないし、周囲の人が言っているのを聞いたのも初めてかもしれない。

今度何かもっと微妙なシーンで、「こんな表現も知らないのか」みたいな事態に陥らないとも限らないなあ、と自戒。
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by mariastella | 2017-03-19 08:24 | フランス語

シルヴプレとプリーズ

東京オリンピックがあるせいか、英語学習のサイトがいろいろ目につく。

英語のplease は「お願い度」が大きいし、丁寧度は低いとあった。
よくわかる。

でも、事実上同じシーンで使われるフランス語のs’il vous plaît(シルヴプレ)の方は、語の構成からいうと「お気に召すなら」というわけで、日本語で言うと「およろしければ」というのに似ている。
「よろしくお願いします」、とか、逆方向で上から目線でも「よきにはからえ」というのがある。

個人の恣意を超えた感じがいい。

plaire も、please もPlaisir とかpleasureが派生語であるように、「喜び」に関係があるのだから、もとは共通している。
それにフランス語だって、丁寧にお願いする時は条件法否定倒置形を使わねばならない。
例えばNe pourriez vous pas (could you not)などだ。

でも、シルヴプレ(s’il vous plaît 最近は山型アクセントはなくても通用)って、お願いがあっても、あくまでも「神のみ心のままに」風な感じが残っている。

シルヴプレと言われたら、「どうぞどうぞ、」という感じの受けごたえに「Je vous en prie」があって、こちらもprier (祈る)という言葉で、You’re welcomeというのとは雰囲気が違う。

張り紙などにも英語の

「please do not disturb」などと違って

「prière de ne pas déranger」と、

「祈り」という言葉が使われるし、フランスが世俗化しているわりにはフランス語ってまだ控えめな感じがあって、日本語風のきめの細やかさが残っているなあと思った。
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by mariastella | 2016-11-06 12:03 | フランス語

komonoの話

先日、朝のラジオで、ナレーターが

「さがしものをしたことがありますか? 人はなんと平均生涯の2ヵ月を探し物に費やしているのです。いらないモノを捨てましょう。日本語にはこういう言葉があります」

という感じで話し始めたので、思わず耳をそばだてた。

さてはあの「断捨離」という言葉がついにフランスに上陸したのかなあ。

私はなかなか「断捨離」ができない人だけれど確かに探し物はよくする。
そのおかげで、探し物は見つからなくてもすっかり忘れていたものを見つけて喜ぶこともよくある。

で、どんな日本語かと言うと、「komono」なのだそうだ。

え、どんな経緯でkomonoが…?

「komono には4種類あります。

1.ノスタルジー。思い出のためにとっておくもの。
2.経済的なもの。高かったから捨てられない。
3.社会的なもの。リサイクルしたり寄付したりするためにとってあるもの。
4.備蓄。いつかは役立つに違いないと思ってとっておくもの。」

というのだ。

どうやら、つい捨てられないで堆積するモノのことらしい。

でも、日本語の小物って別にネガティヴな意味はない。

「和の小物」とか「キッチンの小物」とか、小ぶりのかわいいものを想像する。

確かにかわいいとか便利そうだ、場所をとらないと思ってついつい買ってしまう小物が溜まってごちゃごちゃしてしまう、というようなケースはあると思う。

何しろ小物だから小さくて、数が増えると何がどこにあるのかわからなくなって「探し物」を増やすこともありそうだけれど。

「高かったから捨てられない」小物というのは少し変だ。

小物というのは値段が手ごろだからこそ増えるのだから。

小さくても高価な宝石や時計は小物とは言わない。
むしろ「大物」の買い物だ。

もともと日本語の言葉って、アニメや漫画のおかげでちょっとおしゃれという先入観もあるフランス。

そのうち誰かに「komonoで困っているんだよ」なんて言われたら、なんてリアクションをしよう、といらぬ心配を少ししてしまった。
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by mariastella | 2016-08-31 00:40 | フランス語

ユーロ杯とグループ感情、フランス語

しつこく、ユーロ杯について。

なぜかというと、私の一日は朝ベッドの中でラジオを小一時間聴くことで始まるのだけれど、フランスで開催中のユーロ杯の決勝が明日に控えているので、ラジオはそのニュースばかりやっているからだ。

今日も、選手の一人一人が今回は監督のデシャンと同じく、一貫してチームの一体感と謙遜と落ち着きを反映していることについてのコメントだった。

フランスと言えば、南アフリカのワールドカップで選手たちがバスから降りずに練習拒否のストを起こしたくらいチームワークに向いていない国民性の国だ。
柔道、水泳、スキー、フェンシング、などの個人競技の方が基本的に向いている。

でも、今回のチームは息があっていて個人よりチームを尊重し、感謝の心を忘れず、と、誰にインタビューしても同じ感じの答えが返ってくる。

よほどデシャンの教育、影響が功を奏しているのか、というより、デシャンは、自分に似ているメンタリティの選手のみを残したのだと言われている。

その結果、ベンゼマらの有力選手が消え、結果、ある意味、不思議なことになった。
いわゆるマグレバン系の選手はモロッコとの二重国籍を持つ選手が一人だけ(この人も怪我で抜けた選手の補充で入った)で、あとは、ざっと見て、白人系とブラック・アフリカ系ということになったので、見た目のコントラストが大きい。

98年に優勝した時は、Blanc, Black, Beur(アラブ人arabeのこと)の3Bのフランス共和国主義のシンボルのように言われたのだが、今回は、そういうことは言われずに、ただ、チームワークと謙遜のメンタリティだけが残る。

前半の「ヒーロー」だったパイエットは 「union 」ユニオン、合一という言葉を使い、

中盤のヒーローは「le sentiment du groupe」(正確にはsentiment d'appartenance à un groupe ) グループの感情、という言葉を使った。 結束ではなく感情、というのがおもしろい。

ドイツ戦のヒーローのグリエズマンは、インタビューに答えた時、主語に、「Je(私)」と言わず「Nous(私たち)」と使った。

なるほど。

そしてデシャンは常に、問題を先取りして対策を立て、問題が起こればきっちりとネゴシエイトする。
マネージメントの天才であるらしい。

こういうのを聞いていると、もう、個人の才能とかテクニックとかとを超えた次元の話で、逆に、身近なことに参考になる。私の小さなアンサンブルだとか、家族との関係だとか。

よくよく分かっていても、特定の身近な人間と何かをする時に、相手を批判する言葉が出たり、自分を正当化する言葉が出たりする。あるいはそれを抑えてフラストレーションになったりストレスがたまる。

シンプルと謙遜、これが一番大切というのは、修道院やら、シスターの口から一番よく耳にしたことばだ。

全面的に同意するけれど、適用するのは難しい。いや、自分の態度のデフォルトとしてシンプルと謙遜というのは簡単なのだけれど、身近な人と一対一になって意見が食い違う時、相手の態度が気に入らない時など、なかなかそうはいかない。

もう一つ、思ったのは、これだけ監督のコミュニケーション術が成功の一番の鍵になるのだとしたら、やはり日本のスポーツチームで、通訳を必要とする外国人監督を起用するのは限界があるんじゃないかということだ。テクニックに関するコーチなどは別として。

監督と言葉を共有するということはチームワークにとってとても重要なのではないだろうか。

さらにもう一つ、ラジオを聞いていて、ラジオのサッカー中継(私の聞いたのはもちろん再生だけれど)は、画面がないから、レポーターがのべつまくなくしゃべる。
そうやってすべてを言語化しているうちに、思い入れが一体になって、ゴールが決まった時などの叫び方や声の上ずり方が尋常ではない。
テレビなら、視聴者も目で参加しているから、言葉のシェアは限られている。

でもラジオでは、レポーターの「言葉」だけが頼りだ。聞いている方も言葉と一体化している。

コメントの言葉の使い方やフレージングももうあちらの世界に行ってしまっているので、それも興味深い。

「ラジオのサッカー中継から見たフランス語」という本が書けそうだ。

多くの人が言っているけれど、1984年のフランスのユーロ杯でフランスが優勝した時にはこのような社会現象はなかった。

社会現象になり始めたのが90年代で、グローバリゼーションや経済格差とも連動する。

そしてジダンのような最初の「移民の子孫」の活躍から、ベンゼマのような問題児に至り、グリエズマンのような新世代まで、フランスの社会事情の鏡のような部分がある。

日曜の結果は、さて、どうなるだろう。
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by mariastella | 2016-07-09 18:14 | フランス語

ヒーローという言葉(続き)

フランス語のヒーローhéroについて昨日の記事(日本時間では同日)書かなかったことがある。

フランス語に関係のない人には意味がないと思ったからだ。

すると今朝のラジオで、最近聞かれる「英雄」の言葉の使い方に私のように注目した言語学者がいろいろ解説していた。

フランス語のヒーローhéro(エロ)はシーザーがガリアを征服した時に持ってきた言葉でHを発音しなかった。
フランス語にはこの他にゲルマン語から来たHで始まる単語があって、これは発音された。

実際は今のフランス人はどちらも発音しないので、ちがいは定冠詞がついた時に単数ならダッシュがつくか、複数なら読むときにリエゾンするかしないかによって区別する。

héroはラテン系の言葉だから当然l’ héro (ㇾロ)とかles héros(レ・ゼロ)となるはずで、

実際ヒロインの方はl’héroïne(レロイヌ)とかles héroïnes(レ・エロイヌ)と読むのだけれど、男の英雄の場合はリエゾンさせるとles zéros(レ・ゼロ)と同じ音になるので混同を避けるためにゲルマン由来のHと同じ扱いでle héro(ル・エロ)とかles héros(レ・エロ)と読むことになった。

というのは私が何十年も前にソルボンヌのフランス語講座で習ったことだった。

今朝のラジオの解説も同じだったのだけれど、その理由が単に「混同するから」ではなくて、政治的な意味があるからだと言っていた。

なるほど単に混同なら同音異義語なんていろいろある。

けれども、ヒーローはもともとはギリシャ神話の半神半人のヘラクレスなど「英雄」が活躍する時代からくる言葉だ。

だから、歴史上の偉大な戦士つまり征服者を「半神半人」に例えて賛美する言葉になったので、

「oo王とxx王は英雄だった」という時に「oo王とxx王はゼロだった」となると英雄どころか普通以下、ゼロなのだから支配者にとって非常に都合が悪かったわけだ。で、無理やり文法を変えた。

これなら分かる。

では、テロを防いで先週から賛美されている「謙虚」との関係は ?

というと、これはフランス語特有の含意でコルネイユから始まったのだそうだ。

つまり「勇気」と「魂の高貴さ」がセットとなったものだ。

そういう含意のない単に「人間離れした強い勝利者」というのがギリシャ神話由来で、
「謙虚な勇者」というのがコルネイユ由来ということになる

日本語の「英雄」にはギリシャ神話由来の方の意味が圧倒的だと思う。

でも昨日書いたように今のカトリック教会が尊者の条件に「英雄的な徳の実践」という時には明らかに「謙虚」が入っているのだから、コルネイユ型の「英雄」の定義は、少なくともカトリック系文化圏では定着しているのだろう。

さらに調べてみたいところだ。

昨日Arteで「アートの王ルイ14世」という番組を見たが、ルイ14世がセルフ・プロデュースをするにあたって、最初は太陽王、アポロン、アレキサンダー大王などのイメージと同一視した画像を連発したけれど、ヴェルサイユの鏡の間を造る時に、今度は「ヘラクレスの偉業の画によって王の偉大さ暗示する」という案を拒否して、自分自身の業績をフランス語(それまではラテン語だった)のタイトル付きで描かせたとあった。

それが他の国にとってあまりにも屈辱的なので1871年の普仏戦争の後では勝ったプロシャが鏡の間の「ライン越え」の前でフランスに署名させた、1919年の第二次大戦後には同じ場所で今度はフランスがドイツに降伏の署名をさせた。
20世紀になってもオランダ女王が鏡の間に入ることを拒否した、などとても政治的な場所だと言っていた。

鏡の間の造成の時期、アポロンはもちろん、アレキサンダー大王とかヘラクレスとか、たんなる勇者の英雄という言葉から変わって、フランス語の「英雄」には「有徳」が含意になっていたので、ルイ14世も、ただ強いだけの半神半人に例えられるのは嫌で、「自分」こそ新しい真の英雄だとしたかったのかもしれない。つまり「徳」があると。

その「どこが謙虚だ」と思うかもしれないが、彼は年をとるにつれてカトリック教会に精神的にすり寄るようになっていたので、コルネイユを使って「英雄とは魂も高貴な人」という新しい定義を打ち出したのかもしれない。

そのあたりでフランス風の「英雄的徳」というのがカトリック教会でも「聖性」の含意になったのかもしれないと想像するが、どうなのだろう。

(今日の日本の国会前デモがどうなったのか気にしながら書いてます)
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by mariastella | 2015-08-30 17:23 | フランス語

volupté という言葉、ヴィクトリア朝絵画、ボードレールなど

Jacquemart-André美術館にヴィクトリア時代のイギリス絵画展L'exposition "Désirs & volupté à l'époque victorienne"というのに行ってきた。

このサイトに出てくる8/10 番目の女性の顔は私の好みのツボにはまっているのでどきどきしてしまう。

4/10の男たちの弦楽四重奏を聴いているか見ているかしている女たちの絵は最もミステリアスだ。浮世絵の影響を受けているというのだが、枝や楽器や弓や組まれた脚の斜めの線、横に並んだ男たち、立っている女たちの後姿、アポロン型髭なし男とポセイドン型髭男の配置、裸体の見せ方など、誰でも何か解釈のコメントをしたくなる要素がいっぱいある。

この手のヴィクトリアンの絵というのは、アートというよりイラストに近く、そしてアートになりきれないイラストだけが持つB級の魅力をたたえている。

ラファエル前派やその周辺の画家たちで、一時はすごい人気だったが、その後評価が落ちて、近頃また再評価され始めた。

でもここで書きたかったのは、展覧会のタイトルになっている「volupté 」という言葉についてだ。

Désirs & voluptéという言葉は欲望と快楽だ。

豊満でもあり誘うような体に端正な少女のような顔つきをした若い女たちの内部にたたえられた欲望と快楽やそれを外から眺める視線の欲望と快楽が重なっているのだけれど、それがアートになりきれないのはいったいなぜなのだろうか。

そこでvolupté という言葉だ。

それは、五感の快楽、欲望充足の喜び、のような意味なのだけれど、私にとってこの言葉の語感がはじめて意味をもったのは、多分フランス語を学生時代に習った日本人の多くと同じように、ボードレールの「悪の華」の中のあの有名な「旅への誘い」に何度も繰り返されるリフレインの最後の言葉によってだと思う。

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

この「volupté」の語感を決定づけたのは齊藤磯雄訳だ。

彼の使う漢字表記をすべて変換できないので常用漢字で音写すると、

彼処(かしこ)、悉皆(ものみな)は秩序と美、
奢侈(おごり)、静寂(しづけさ)、はた快楽(けらく)。


となる。

このリズムは抜群だ。私は大学生の頃、齊藤磯雄さんと文通していたことがあってその時はがんばって旧漢字、旧仮名を使って書いていた。この訳でも漢字の字面と読み仮名の組み合わせがまた絶妙だったと思う。

その「奢侈(おごり)、静寂(しづけさ)、はた快楽(けらく)」は、沈む陽が全てを覆う金と紫の熱い光の中に浮かび上がるのだ。「秩序と美」と言うわりには、爛熟と死の香りもする。

しかし、désirs と voluptéがセットになっている時には、欲望とその充足としての快楽であって、そこで一応完結していることになる。

ところが、充足するような欲望、完結する欲望などは、アートにはなりきれないのだ。

最近、アルチュール・ルスタローという人の『La Ruche』という小説の書評(Philippe-Jean Catinchi - Le Monde du 12 septembre 2013)を読んで感心したことがある。

この小説は、夫に去られた妻が絶望や自己憐憫を憎悪に変えて、三人の娘たちを巻き込んで、地獄のようなねちねちとした負のスパイラルに陥るという話らしい。

女が不実な男を延々と責めて責めて責めまくって、その自分に興奮して、相手も自分も崩壊させていくようなシーンというのは現実世界にも時々ある。相手への憎悪の歯止めが効かないのでいつの間にか自虐的になって自己の破滅に至るのだ。

その相手の男が前にいないと、子供にそれを振り向けることがあるわけだが、子供たちに男の姿や男との愛の歴史などを重ねてしまうので嘆きはより執拗に倒錯的になる。そこに「子供大切」の記憶もあるから子どもを巻き込むことへの罪悪感も重なって、ますます自虐へと転落していく。夫への復讐のために子供たちを殺した王女メデアなどがその典型だ。

小説の書評には

「神が愛を発明し、悪魔が結婚を発明した」

とある。さらに次のような言葉が続く。

「夫に去られた女の中ですべての堤防が決壊する。

彼女は愛を犠牲に供し、自己愛を破壊する。

すべての思い出が傷跡へと変貌する。

憎悪が生きがいになる。

彼女は沈む船に身をまかせ、沈み、ほとんど快楽と共に溺れていく。」

この最後の部分、

Elle s’abandonne à son naufrage, s’y laisse couler, s’y noie presque avec volupté.

とあり、そこに「volupté」 という言葉が使われているのだ。

エロスの対極にタナトスというのがあるけれど、すべての自虐や自滅にはどんなに倒錯しているにせよ、いや倒錯しているからこそのある種の快楽があるのかもしれない。

だとすれば、この場合のvoluptéという言葉は「陶酔」と言った方が近いかもしれない。

私は昔、夫との関係が破綻した女友達が復讐の自死の一歩手前まで追い込まれた時に、すさまじい恨みや憎悪や絶望の繰り言を聞かされ続けたことがある。

そこには確かに自己陶酔の熱狂と迫力があった。

誤解を恐れず言ってしまえば、今思うと、嫉妬を通り越して自己愛の堤防をも決壊させた時の彼女は、不思議な官能的な魅力を発していた。

彼女の転落のvoluptéが私に伝染したのだろうか。

《芸術は爆発だ》と言ったのは岡本太郎だが、すべての堤防を決壊させないようなvoluptéはアートにはなりきれないのかもしれない。

健全な欲望の充足の枠におさまる快楽は、画集の中だけでも充分楽しめる絵画に結晶してしまえるようだ。

このヴィクトリア時代絵画展にも「メデア」を描いたものがあったのだが、

堤防が全然決壊しない、ヴィクトリア朝上流社会のメンタリティの限界におさまっている。

齊藤磯雄はplaisirを「逸楽」と訳す。

たとえば、ボードレールが猫のしなやかな体をもてあそぶのは「逸楽」なのだ。

Et que ma main s'enivre du plaisir
De palper ton corps électrique,

直訳すると、「私の手がお前の電気の体を触る歓びに酔いしれる・・」で、齊藤訳は


「稲妻を孕める肉軆(からだ)もてあそぶ、その逸楽に、
掌(てのひら)も酔(ゑ)ひ癡るる時、」

となる。

猫を愛撫する時の感覚は、私にとってはそれこそ欲望充足の五感の快楽って感じでvoluptéに近いんだけれど…

齊藤さんに聞いてみたかった。

こう考えてくると、「volupté」をアートにするのには、絵画よりも言葉の方が向いているのかもしれない。
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by mariastella | 2013-11-12 02:41 | フランス語

リタイアを告げるカード

サロン・ド・プロヴァンスのノストラダムス記念館の館長として長く活躍し、1999年の節目もクリアして生き抜いてきたアルマン女史が、6月1日付けで引退した。

リタイアの挨拶のカードには、表にノストラダムスの『予言書』の表紙の写真があり、

開くと、まるで予言書の文句のように、

  明日、2013年6月1日、

  私は引退生活を満喫するために遠くに行くだろう・・・・


という「予言」が書かれている。

次のページにはシュリ=プリュドムの詩『失われた時』の一部が引用してあった。

Le temps perdu

Si peu d'oeuvres pour tant de fatigue et d'ennui !
De stériles soucis notre journée est pleine :
Leur meute sans pitié nous chasse à perdre haleine,
Nous pousse, nous dévore, et l'heure utile a fui...

"Demain ! J'irai demain voir ce pauvre chez lui,
"Demain je reprendrai ce livre ouvert à peine,
"Demain je te dirai, mon âme, où je te mène,
"Demain je serai juste et fort... pas aujourd'hui."

Aujourd'hui, que de soins, de pas et de visites !
Oh ! L'implacable essaim des devoirs parasites
Qui pullulent autour de nos tasses de thé !

Ainsi chôment le coeur, la pensée et le livre,
Et, pendant qu'on se tue à différer de vivre,
Le vrai devoir dans l'ombre attend la volonté.

(Recueil : Les vaines tendresses)

このうちの

"Demain ! J'irai demain voir ce pauvre chez lui,
"Demain je reprendrai ce livre ouvert à peine,
"Demain je te dirai, mon âme, où je te mène,
"Demain je serai juste et fort... pas aujourd'hui."

というところだ。

すなわち、

 明日だ、貧しい人を訪ねるのは明日にしよう。
 明日だ、読み始めた本をもう一度手に取るのは明日だ。
 明日だ、私の魂よ、明日になったら私の行く道を示そう。
 明日になれば正しく強く生きてみせる、今日じゃない。

その下にアルマンさんは、

 今日のところは、ただこれだけ、

 さようなら、そして、ありがとう

と付け加える。

彼女のところには個人的にも取材に行ったし、テレビ番組の撮影では鏡リュウジさんらといっしょに行った。

ソルボンヌの16世紀文学の学会でも何度かいっしょになった。堂々としているがどこかかわいい人だった。

こんなしゃれた引退の挨拶カードを見たのははじめてだ。

おつかれさまでした。
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by mariastella | 2013-06-01 06:48 | フランス語

携帯の電源

行きつけの小劇場に行ったときのこと。

もともと観客は少ないのだが、上演前に係の人が舞台にでてきた。軽く挨拶した後で、

「Surtout, N’oubliez pas…」(くれぐれもお忘れなきよう…)

と言いだしたので、ああこれは携帯電話の電源を切ってくれということだなと思った。

私自身も、サロン・コンサートや発表会の前にいつもこの台詞をいうし、係の人から言ってもらうこともある。

そしたら、それに続く言葉が

「de rebrancher votre téléphone portable en sortant de la salle !」
(この劇場からお帰りの際に携帯電話の電源を入れることを)

だった。

なかなかしゃれているなあと思った。

私も今度からこう言ってみよう。

よく、いつの頃からか、日本で、レストランなどのトイレに

「いつもきれいにご使用くださってありがとうございます」

という張り紙が見られるようになったことを思い出した。

「トイレはきれいにご使用願います」

と書くよりも、先に感謝しておくことで強制感を和らげるのだとか、「褒めて伸ばす」のと、心理学でいう「前提挿入」の手法とで効果を高めているのだとかの説も読んだことがある。

実際は、英語圏やフランス語圏でよくある

「Thank you for ...ing」とか

「Merci de ....」とかいう表現を日本語に訳しただけだという話もある。

これらは普通に「...願います」というのと同じ語感で、特に先走って感謝しているというより、「よろしく」という感じである。

でも、日本語では「ありがとうございます」という言葉を、何についての感謝なのかという内容の前に配することはない。それで、「いつも…してくださって」などという言葉から文をはじめるので、違和感があるのだ。

まあその違和感が注意をひくからこそ効果がある、というわけなのだろうけれど。

でも、たとえばコンサートの前に、

「コンサートが終わりましたら携帯の電源を入れ直すことをお忘れなきようお願いします」

などと言ったりしたら、意外性とユーモアもあって楽しいかもしれない、と思った。

この時観た芝居の内容についてはこの次に。
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by mariastella | 2013-03-03 03:31 | フランス語

天にまします

半年ぶりに東京に行ったら、メトロの行き先に「スカイツリー方面」などという表示があって、東京スカイツリーが新名所になっているのを実感した。

工事中にあんな大地震があったりして、そんな不自然に高いところにわざわざ登る人がいるんだろうかと思っていたのだが、そうでもないらしい。むしろ地震にも耐えたというので安全性に確信がもてたのか、津波の画像を見過ぎて、高いところに避難したら命が助かった、という漠然とした刷りこみができたんだろうか。

新名所スカイツリーをめぐるやたらに楽観的な日本のいろいろな記事をフランスで読んで、違和感がありまくりだったのだけれど、ずっと東京に住む知り合いにも「あんな高いところには怖くて昇れない。途中でエレベーターが泊まったら、と思うと…」と言う人もいたので、やはり人それぞれなのだろう。

しかも、この東京スカイツリーというネーミングが私にはすごくチープに聞こえる。20世紀末テイストというか…。公募によって募った名前から候補を挙げて投票で選んだという話だが、カタカナ語がむしろ中途半端な気がするのだ。

思えば、エッフェル塔をモデルにした東京タワーにしても、エッフェル塔はTour Eiffel と設計者の名前が堂々と冠された名前で呼ばれているが、パリ・タワーでもないし、エッフェル・トゥールでもない。東京タワーは東京塔ではない。

英語のtower も tree も、
カタカナ語のタワーやツリーにすると語感がかなり変わってしまう単語だ。

もっとも、ネットで検索してみると、東京タワーの名前の公募も1位は「昭和塔」で、東京塔」が9位、「東京タワー」が13位だったとある。決定は投票でなく、名称審査会で徳川夢声の強い推薦で「東京タワー」に決定したそうだ(東京スカイツリーの名称案で最も多かったのは「大江戸タワー」だったという)。

フランスが1998年のサッカー・ワールドカップのために建設したスタジアムの名前を公募した時、いろいろな案があったが結局「stade de France」(フランス・スタジアム)という平凡なものになった時の気分も思い出される。ワールドカップはナショナリズムを煽るからさもありなんだけれど。

タワーの名称で「日本語」としてもっとかっこいいものはないかなあと思うが、それなら、大阪の「通天閣」は壮大で格調があってすばらしい名前だ。

フランス語では高層ビルのことを「gratte ciel」というのだが、これは空を引っ掻くもの、みたいなニュアンスでなんだかかえって卑小だ。「通天」というのは素敵だ。儒学者による命名らしい。

しかも、「空」でなくて「天」。

フランス語の空はcielだが、「天にましますわれらが父よ」という神の住む場所の「天」はその複数形のcieux と言う。地球の周りに複数の天球が重なって動いていると考えられていた頃のイメージだろうか。firmament という詩的な言い方もある。天空という感じか。

フランスの薬局には一回ずつの使い捨て目薬しか売っていないので私は日本でビタミン入りの疲れ目用の目薬を時々買って帰る。

その中に「サンテ ド ウsante de u」というシリーズが昔からあって、目の健康という意味のフランス語だということだった。なるほどsanté de yeux ということらしいが、yeux はリエゾンするのでsanté d’yeux なのか。santé des yeux なら「サンテ・デ・ズー」 に近くなるし、目が単数ならoeil となって発音も違う。

実際は、会社名の参天製薬との語呂合わせなのだろう。と言っても参天製薬の参天はフランス語の 健康santé に由来するわけではない。

「参天」という商号の由来は儒教の経典四書の中庸にある「天地の化育を賛く可ければ、即ち以って天地と参となる可し」(本来聖人は万物の秩序と原理(天)と人間社会(地)の調和を助ける)から来ているそうだ。「天機に参与する」ということで、本来自然に備わっている治癒力を助ける薬を標榜しているらしく、堅実でありかつなかなか壮大なネーミングだ。

フランス語のcielが複数形で「神のまします場所」になるように、英語もheavensとか skies とか複数形にできる。スカイツリーであっさりsky とだけ言ってしまうのも、いまひとつありがたさがない。

まあ、バベルの塔のようにどっしりし過ぎても神の怒りをかって崩れてしまうのだから、軽い感じのスカイツリーの方が耐震性とか免震性があって、神の怒りも耐神とか免神でかわしてしまえるのかもしれない。
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by mariastella | 2012-11-27 07:39 | フランス語

科学のフランス語

私は科学書をめったにフランス語で読まない。

科学の術語のフランス語がすぐに日本語と結びつかないから理解するのに何度も辞書を引かなくてはならない。

以前面白そうな生物学の本があったのでどうしても読みたかったのだが、最初に分からない言葉を調べたら「ショウジョウバエ」だったので、あきらめた。

ライフサイクルが短いショウジョウバエが生物学の実験によく使われるのは知っていたが、ではそれがどんな虫かということをよく知っているわけではない。でも日本語ならハエという言葉が入っているからハエの一種だと分かる。

でもフランス語でdrosophile と書かれたら、普通のハエに使うmoucheという言葉は入っていないから類推もできない。

こんな風にいちいち躓いていたら楽しんで本を読むこともできない。で、科学書はほとんどすべて日本語で読むことにしている。

ところが最近、数学の本をはじめてフランス語で読んだ。

虚数というのがnombres imaginaires 「想像上の数」だと知った。

無理数は nombres irrationnels 非合理な数。

フランス語ではなかなか不思議で魅力的な響きだ。

集合論はLa théorie des ensembles アンサンブルの理論。

群論はLa théorie des groupes グループの理論。

ショウジョウバエのフランス語がギリシャ語由来で難しいのに、数学用語は漢字を組み合わせた日本語よりもずっと日常的な言葉で分かりやすい。

敷居が低い。

実際、分かりやすい。

平方根、ルートや、冪乗(べきじょう)、累乗(るいじょう)などという日本語より、日常語を使って簡単に類推できるフランス語ならば、イメージがずっとクリアになる。

円周率のπ(パイ)が「超越数」というのはnombres transcendants 超越する数で、これはもろ一神教の神の概念と近いところにある。

πは、計算の仕方が分かっているのに、規則性が分からず無限に続くので、その中にはあらゆる数字の組み合わせがあり得るわけだけれど、決して「偶然」ではない。

西洋系の数学が、実用的算盤よりも、いつも、神学的なインスピレーションに向かいがちだったことの理由が分かる。言葉は世界を分節すると同時に創造するものだ。

カトリックだったカントールの無限集合は神の存在の証明と結びつけられたこともあるし、ヒッグス粒子が「神の粒子」だと呼ばれたように、物理も数学も、「超越的な何か」に絶えず促されて発展来たのかもしれない。
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by mariastella | 2012-09-15 17:09 | フランス語



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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