L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:音楽( 79 )

ウィーンの話 その9 楽友協会と中国人観光客


アウグスティーナ教会での中国人に向けた「声を出すな、拍手もするな」というコメントに人種差別を感じて不快だったことを前の記事に書いた


ところが、その後で、楽友協会のコンサートに行った時のことだ。


楽友協会のゴールド・ホールといえば、ウィーンフィルの本拠地で、毎年のニューイヤーコンサートのヨハン・シュトラウス演奏で、超メジャーな「巡礼地」だ。

ウィーンフィルはバカンスだが、観光客のためにいろいろなコンサートがあり、私は18世紀のコスチュームで演奏するモーツアルト・オーケストラの公演に行った。古楽器ではない。

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バリトンとソプラノの歌手も一人ずついて、オペラの衣装を着て、「パパゲーノ」などを披露してくれる。

いわば「軒を貸している」だけだから、楽友協会のグッズが買えなくて、モーツアルト・オーケストラのグッズしか買えない。

それでもわくわくする。

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ところが…ここの中国人客の多さに驚いた。

明らかに団体ツアーと思われる人がたくさんいる。

左右のバルコン席には、小さい子供たちも鈴なりになっているのだ。


そして、席に着いたらすぐに、周りの中国人たちの撮影会の嬌声、

だけならまだいいが、私のすぐ後ろの数人の中国人がすごい大声で何かをまくしたてている。


連れが「彼らはきっと自分の畑のニンジンの収穫量を競っているのに違いない」とつぶやいた。


私は、野菜を栽培している人に偏見などないし(むしろ尊敬)、収穫量を競おうと別にかまわない。でも、その時に、その比喩が、あまりにもぴったりしていたのには笑えた。

どう考えても、ウィーンの話やモーツアルトの話や楽友協会の話をしていない。音楽の話もしていない。


撮影会をしている人たちからは「わあ、ここってやっぱりすてきねー」という雰囲気の言葉が聞えてくるし、華やいだ感じだ。


でも、私の後ろの男性たちは、周りも見ていないし、完全に自分たちの世界であたりかまわず大声で何かを張り合っているのだ。

それがトーンダウンせずに延々と続く。完全に騒音公害レベルだ。ショックだった。振り返ってその姿を見ると、派手なドラゴン模様のTシャツだった。

もちろん、ニューイヤーコンサートの着飾った紳士淑女たちというのは期待していないし別に望んでもいない。観光客レベルでいいのだ。私も観光客だから。

でも、これはひどすぎる。

結局、この人たちの大声の会話は、演奏開始ぎりぎりまで続き、演奏中にも声を発したのでそれはさすがに周囲から「シーッ」ととがめられて黙った。そして演奏が終わるとすぐに話の続きが始まる。

幕間もずっと同じ調子で、私は耐えられなくて席を外した。


オーケストラの方は、指揮者も歌手も含めて、サービス精神に富み、自分たちのやっていることが楽しくてしょうがないという感じのプロで、完全に満足できたので、この中国語の洪水というより爆撃のような状態には辟易して、ふと、アウグスティーナ教会の指揮者のコメントを思い出した。


彼が一度でもこういう環境で教会コンサートをする羽目になったことがあるなら、トラウマになることは大いに理解できる。(そういえば、パリのメトロの車両でも、中国人の団体が大声でノンストップでまくしたて続けるので降りてしまったという友達の話をきいたことがある。)


バルコンにいる子供たちの方は、演奏中も出たり入ったり、席を変わったりしている。大人たちが注意する様子はない。皆リラックスしている。


私の席からは遠いのでさすがに声や音は聞こえないのだけれど、カルチャーショックでできるだけ見ないようにした。演奏者たちは慣れているのかもしれないけれど、私なら自分が演奏する時に子供に動き回られると耐えられないと思う。


ひとつおもしろかったのは、子供の1人が、音楽に合わせて指揮を真似始めたことだ。7,8歳くらいの少年だが、ただの真似ではなく、音楽の流れをつかんで没頭している。席を立ち、手すりに乗り出して、全身で、振りが大きいので、もし私がそばの席にいたら迷惑で注意したかもしれないが、その子の周りもみな子連れのグループで誰も気にしていない。

で、完全に曲に入りきっている。リズムも先取りしている。

指揮者の大野和士さんが、3歳の時にテレビで指揮者の姿を見て指揮者になると決めた、とおっしゃっていたけれど、この子も未来の大指揮者かも。しかも、ウィーンの楽友協会でモーツアルトの音楽で指揮に目覚めるって、贅沢だ。

このコンサート、私の後ろの席の中国人や動き回る子供たちは別として、もちろんみなが、「雰囲気」を楽しみに来ている。

で、サービス精神あふれるこのオーケストラは、アンコールで、なんと、18世紀のコスチュームのまま、「美しき青きドナウ」を弾き始めた。観客席が嬉しい驚きで一気に盛り上がる空気が感じ取られ、一人一人の演奏者も幸せそうな笑顔になっている。

すごい拍手。

で、アンコール二曲目。

これもまた、ニューイヤーコンサートのラストでお約束のラデツキー行進曲だった。その日の午前中に王宮でラデツキー将軍の肖像画を見てきたところだったので、ますますウィーンっぽい。

で、これもお約束の手拍子。指揮者が時々振り向いて、上手に観客を誘導。最高に盛り上がる。すごい音。

私はわりと複雑な気分だった。


ニューイヤーコンサートの楽友協会ホールでシュトラウスを聴けたのだから、「観光客」としては最高だけれど、モーツアルトとシュトラウスではまったく違う。


そして私はもちろんモーツアルト派だ。


しかも、手拍子というポピュリズムに時として耐えられない。


去年パリのフィルハーモニーで2000人近い聴衆の前でこれも200人もの人数で軽快な曲を弾いたとき、指揮のジル・アパップがリハーサルで私たちに言ったのは、絶対に手拍子の音を聴いてはならないということだった。ホールの反響のせいで、手拍子は演奏者にとってわずかにずれて聞こえるからだ。つまり、聴衆は演奏家と一体になったつもりで手を叩いているけれど、演奏者は大音量になる手拍子には耳をかさずに、指揮者だけを見て弾かなければならない。

それだけではない。この雰囲気で、ウィーンは、やはり「シュトラウスのウィンナワルツの町」なのだと思い知らされた。モーツアルト・オーケストラの人たちも実はシュトラウスを弾いている時にこそ生き生きしているようではないか、日本人の演歌みたいなものではないか、と思った。

モーツアルトは確かにウィーン観光の目玉商品だから、みな演出にいろいろ工夫してはいるけれど、モーツアルトの生きた後期バロックのエスプリなぞ、本当は誰も分かっていないで、19世紀ロマン派音楽で上書きされてしまっているのではないだろうか。

ウィーンの人々にとって、モーツアルトは商売道具でシュトラウスが本音なのではないのか、と思ってしまった。


外に出たら、きれいな月が出ていた。



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向こうに見えるのは聖カルル(シャルル・ボロメ、カルロ・ボロメオ)教会(カールス教会)の丸屋根。これは18世紀前半の、バロック後期の美しい教会だ。私のレパートリーのフランス・バロック曲と時代がかぶる。
シュトラウスとは程遠い。

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楽友協会は1870年、シュトラウス時代ばりばりの建物だ。


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by mariastella | 2017-08-24 02:11 | 音楽

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』をオペラ・コミックに観に行った。



指揮、音楽監督は、マラン・マレの音楽やヴィオラ・ダ・ガンバが日本にまで知られるきっかけになった『めぐり逢う朝』(アラン・コルノー監督)でガンバ曲の吹き替えをやったジョルディ・サバールだ。

ド・ラ・モットの台本、1706年、ロイヤル・アカデミーのために作られた典型的なフランス・バロック・オペラ。

風の神エオールの娘アルシーヌとの結婚式を迎えようとする王セイクスを3人が妨害する。アルシーヌを恋するぺレ(セクス王の親友)、セイクスが先祖の王座を奪ったと恨む魔術師フォルバス、魔女のイスメールだ。
宮殿は破壊され、地獄の光景が現れ、嵐、遭難、魔の力、バロック・オペラの要素満載だ。

舞台の演出によってだけではなく、オーケストレーションでそれを表現しようとした。ラモーで頂点に達する18世紀オペラの先駆と言える。嵐を描写した曲は特に18世紀好みで、宮廷の舞踏会でも何度も演奏されたという。


嵐の音楽。まったく古くないことが分かると思う。

でもオペラそのものは他のフランスバロック・オペラ同様、1771年以来上演されなくなった。ジョルディ・サバルは、このアルシオーヌのダンス曲を集めたCDをリリースしている。
どのダンス曲も、「受肉」していて、サバルがまずこのダンス曲のダィジェストに挑戦したのは正しい選択だったと思う。

「三一致の法則」などに則って地に足をつけた「戯曲」と違って観客を別世界に誘うエンタテインメントとして超自然の世界がデフォルトで表現されるバロック・オペラだが、ここではダンスや衣装やさまざまなからくり装置ではなく「サーカス」を使った肉体性と演技によって展開されている。

バロック・オペラとダンスの関係についてこれまでにもいろいろ書いてきた。

この記事を読むとその前のものもリンクされてくる。(長いので、興味のない人はスルーしてください)

で、簡単に言うと、Les arts Florissantsの演奏したダンス曲は「受肉したダンス曲」だったが、踊られるのではない「濃すぎる」ビジュアルが邪魔だった。

エルヴェ・ニッケの時は、ダンス曲がまるで「つなぎ」のようにさっさと平板に飛ばされていた。
今回は、ある意味でバランスは悪くない。

ダンス曲はラモーの先駆として肉体性を備えている。

ジョルディ・サバルの指揮はそれをよく生かしている。
楽器のバランスもすばらしい。

で、今やほとんどすべてのバロック・オペラで見られるように、登場人物のコスチュームはミニマムで現代的。

舞台装置はミニマムだが効果的で、紐、綱、ケーブル、ピアノ線などを駆使していろいろな効果を表すほか、裏のからくりの背景も見せる。

歌手も吊り上げられて空中で歌ったり大変だが、何よりもサーカスのアクロバットの4人が上へ下へ、あるいは大きく回転したり、体を自在に捻じ曲げたり逆さになったりするので、重力が感じられず、その意味で、音楽を損なわない。

後は、合唱のメンバーがものすごく巧い動きをしている。地獄のシーンの地を這い蠢く様子など、振付がすばらしいに尽きる。あの迫力ある演技をしながら歌うのだから大したものだ。

フランスのバロック・オペラの最初は、オペラ歌手とは「歌える役者」のことだった。
アルシオーヌとセイクス、ペレを歌うレア・ドゥサンドル、シリル・オヴィティ、マルク・モイヨンの演技も半端ではない。
その上に、台本がドラマティックだ。愛し合うカップルの姿がリアルで「ラ・ラ・ランドですか?」というくらいの近い距離感がある
同時に、ギリシャ悲劇やシェイクスピア劇のような生と死の実存的な問いまであって、客席が息をのんで静まり返る場面もある。
それとは対照的に、そこだけが室内楽に編曲されて王から何度も所望されたという嵐の曲や、誰からも愛される「水夫の行進」などは純粋に楽しませてくれる。

それでも、ジーグ、サラバンド、メヌエット、いろいろなダンス曲が出てくるたびに、せっかくダンサーもいるのにバロック・バレーが全くないのは物足りなかった。特に最後のシャコンヌ。ほんの少しだけダンスっぽい振付がある。バロック・バレーのアドヴァイスはカロリーヌ・デュクレだとプログラムにあった。懐かしい名前だ。

彼女とはパリでのコンサートで観客を誘って踊った時に、いっしょに見本を見せて踊ったことがある。
彼女はコンテンポラリーから来たダンサーで、最初に七区のコンセルヴァトワールでバロック・バレーを習いに来た時に私が上級クラスにいたのを知っている。そのせいか、もうバロック・バレーのプロとして踊るようになっていたのに私をほとんど先輩のように扱ってくれた。
そんなカロリーヌの存在を感じたのがシャコンヌの一部分の振付だけだった。その部分を見たせいでかえってシャコンヌは全部ダンスで見たかったとフラストレーションを感じた。

6月にはヴェルサイユでも上演されるという。もう一度行きたいくらいだけれどスケジュールの都合で多分無理だろう。



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by mariastella | 2017-05-09 06:41 | 音楽

テレマンの『ブロッケス受難曲』

今年の復活祭は最高だった。

聖週間にパリのフィルハーモニーでテレマンの『ブロッケス受難曲』を聴いたからだ。

フィルハーモニーは去年、ヴィオラでジル・アパップのコンサートに参加したから特別の感じがする。

すばらしかった。

演奏が終わったら聴衆がすべてキリスト教徒になっていた。
美は回心をもたらす。

今、この曲を演奏するのにピグマリオンの古楽器オーケストラは最高だと思う。
ひとつひとつの楽器の音がきれいに聞えてきて音響も独特だ。
オーボエの音色の美しさは際立っている。
フランスでは「キリンのクラヴサン」と呼ばれている縦型のチェンバロ、クラヴィツテリウムも珍しい。

このメンバーの演奏を、フランス語の字幕付きでこのシーズンに聴けるなんて至福だ。
日本で日本語の字幕でこの曲をこのレベルで聴く機会はあるのだろうか。
音楽の好きな日本の友人みんなが聴けるといいのに。

序曲に当たる部分はヴァィオリンやヴィオラも全員が立って演奏していた。
もう気分はオペラ。

バッハの受難曲のように福音書の語句を歌詞にしたものではなくてブロッケスは書き下ろしの台本だ。完全に当時のバロック・オペラの心性である。

バロック・オペラの悲劇にもいろいろと錯綜したストーリーがあるが、考えれば、イエスの受難劇ほど倒錯したものはちょっと考えられない。

この台本では、これでもかこれでもかとイエスの苦悩が語られているのだけれど、それに対して、聞き手は、「私たちの罪のせいでイエスが苦しむ」と罪悪感をかきたてられるとともに、そのイエスの苦しみによって罪が消えるのだから喜びでもあって、満足感が得られるという仕組みになる。
救い主の苦悩がそのまま救い、というわけで、イエスの受難がつらいほど喜びも大きくなる。

彼は苦しみの中で美しい、なんていう言葉も繰り返される。

ほとんどがアリアやレシタティフで楽器だけの曲は少ないのだけれど、たまに、明らかにダンス曲のモティーフがはいっていて甘美さが導入されるのもおもしろい。

曲の変わり目の「沈黙」の部分の静寂はまさに死のような凍り付いた「休止」で怖い。
普通は、音楽における休止は音楽の一部であって真空ではなく、音が満ちてきているか吸い込まれていっているかのどちらかなのだと生徒に教えている。
でも、この受難曲のアリアをつなぐ「沈黙」はほんとうに深淵というか、ぎっしりと無がうずいて肺腑を抉る。
「祈り」だと言いたいところだけれど、そんな能動的なものがはいる隙のない「絶望」なのだ。

この「絶望」はやはり「死」であり、復活祭とはイニシエーションなのだということがよく分かる。「キリストの信仰の中では永遠に生きる」などというが、真の「絶望」に打ちひしがれることでのみ捕らえることのできる光というものがあるのだと、新しい歌が始まる度にすがりたくなる。

「登場人物」が、地の文を語る福音史家、イエス、ペトロ、ユダ、ピラト、イエスを殺そうとする群衆らの他に、「シオンの娘」とか「信じる魂」とかいうソプラノが一人称単数や一人称複数で歌い、それがちょうど聴き手のスタンスと重なる。臨場感というより、登場人物になったような気がするのだ。

もうずいぶん前にバッハのヨハネ受難曲を聴いたとき、演奏の後で指揮者が音をおさえて、手で観客の拍手を制したのを見たことがある。キリストの受難を拍手してはいけない、という意味が伝わった。普通の演奏会ではない。霊的な意味がある。

ブロッケスでは、拍手できる。なぜなら、キリストの受難は我々が罪を赦されて天国を約束された喜びであるからだ。

しかもこのブロッケス受難曲、テレマンのものが最も優れていると言われるが、今回聴いたものはそのテレマン自身が、自分の作品だけでなくカイザーやヘンデルやマッテゾンのヴァージョンを自由に継ぎはぎした良いとこどりの「パスティチョ」と言われるものらしい。
世俗のオペラ座のために作曲するものではなく、宗教的文脈の中でだけ演奏されるために作られたものだから、著作権がどうのという感じの問題は起こりようがない。

いくらでも贅沢な作品を構成することができるというわけだ。

テレマンとヘンデルの共作なんて、信じられない。でもそれこそがこの曲の豊饒さの秘密なのだ。

こんな受難曲を聴いた後の復活祭の日曜日は、ローマの青い空と白い雲を背景にしたフランシスコ教皇の挨拶と全免償をテレビで聞く前に、アイルランドのスライゴのカテドラルのミサ中継を観た。
ヘンデルのハレルヤが高らかに歌われる。
先に退場した司教は、出てくる信徒の一人一人に握手している。
司教の手に接吻するシスターもいれば、差し出された手を無視する子供も、いやいや手を握る、明らかに養子らしい黒人の子供もいる。

ヴァティカンでは、グノーの行進曲とイタリア国歌、スイス人の衛兵にアルゼンチン人の教皇と、これもなんだか現実離れした光景が繰り広げられていた。

その後の番組が、今福者申請中のジョセフ・ヴレジンスキー神父だったのにも感銘した。それはまた別の時に書こう。イエスが復活してほんとうによかった。
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by mariastella | 2017-04-19 06:17 | 音楽

音楽とトランスと気持ちよさ

バッハのブランデンブルグ協奏曲第三番の第三楽章を相変わらず五パートで練習しているのだけれど、だんだんとテンポが上がってきて、今はほぼ、演奏会テンポ。前にも書いたが、「切れ目」というのがまったくなくて、トランス状態になりそう。特に隣り合う二弦の間を何度も高速で往復して弓を動かす心地よさは、擦弦楽器をやるまでは想像もつかなかった。

音楽とトランスについて前にバリ島のことを書いたけれど、速いテンポで繰り返しを含む曲を延々と弾いていたら、奏者は地に足をつけていられない。

でも、音符はきっちり追わなくてはいけないし指も腕も正確に動かすのだから、そして他のパートときっちり合わさなくてはならないから、トランスといっても、「あっちの世界に行っちゃっている」状態ではない。

私は結構こういうのが好きだって分かった。

前に、ラモーと「間」について書いたけれどラモーの場合は、言ってみれば絶えず何をどうするのか決断しなくてはいけない。
その「意志」が「間」をびっしり埋める。

ブランデンブルグを弾いていると、「決断」なんてしている暇はない。
曲に引っ張られる心地よさ。

こちらが絶えずクリエイトしなくてはならないラモーと比べて、やはりお手軽なトランスの楽しみがある。

ヴィオラをはじめて20年以上になるけれど、ボウイングの心地よさがくせになるのでやめられない。
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by mariastella | 2017-03-20 05:34 | 音楽

音楽はテロよりも強し、なのに…

音楽によるレジスタンス、人間の尊厳の証のシリーズ です。

第3弾です。前のはここここなど。




ロンドンに亡命しているクルド人のグループNishtiman (故国という意味)だ。

クルド人の故郷はイラン、イラク、トルコ、シリアにまたがる他、レバノンやアルメニアへ流れた人も含めて3千万人近くもいる。
ISと最も勇敢に戦っていることでも知られているが、実はあらゆる国から利用されている感じだ。

オジャランのロジャヴァ革命の女性の自由と平等、信教の自由など、クルドの理念は中東の希望の灯のように思える。

2012年に結成されたグループは、トルコ、イラン、イラクからの亡命者だ。
シリアのクルドはすでにパスポートもなく国を出られない状態だった。

シリアの故郷をテーマにした曲もある。

イスラムとマイノリティのキリスト教だとかいう以前に、二千年以上前からあるゾロアスター教とかミトラ神の信仰も喚起される。
2015年にIS軍の侵入に40日持ちこたえたコバナの町をタイトルにした新曲は、ゾロアスターの火の守護の川の化身である女性の勇気を称えたものだという。

演奏者としてもすぐれている彼らの曲を聴いていると、ああ、今はもう彼らは、絶対にアメリカには入れてもらえないんだなあ、と思いをはせてしまう。

すばらしい音楽の演奏家たちも「アメリカ・ファースト」の壁に遮られるのだ。

剣にも砲弾にも屈しないアートがナショナリズムに屈せられるのだとしたら、深刻さは重大だ。
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by mariastella | 2017-01-31 01:32 | 音楽

アマゾンのバロック音楽

先日パレスティナの女性によるコーラスに感動してリンクをはったので、次に、アマゾンのバロック音楽祭についてもリンクをはろうと思ったのだけれど、ぴったりのものがない。

とりあえずこの画像を見てください

たいしたインフラもないところで、インディオの少年少女、青年たちが教会で毎日数時間も楽器の練習をしている。3歳から参加する子供もいるという。

ボリビアのサンタ・クルス県のアマゾンの近く、すごく奥地みたいなチキスト地方に、17世紀末にスペインから来たイエズス会士たちが、チェンバロ、バイオリン、ビオラ、チェロを持ってきて、修理や制作のノウハウも伝え、ヨーロッパのバロック音楽の楽譜だけではなく、現地でインディオの作品も含めて12000曲を残したという。

このチキスト地方のイエズス会伝道所群というのは1990年に国連の世界遺産に指定され、1996年から2年ごとにルネサンス・バロック音楽祭が開催されている。

中南米のカトリック文化はバロック真っ最中で、建築、彫刻、絵画、装飾もみなすばらしい。プロテスタントの宗教改革があった後のカトリックが、それまで「神に捧げていたアート」を、人々への宣教のために信仰を可視化するアートに転換させたからだ。

イエズス会がやってきて布教というと、

「帝国主義、植民地主義による侵略に便乗、またはその手先」

などと言う人がいるが、例えばこのボリビアのイエズス会士たちは、ひたすら現地の人の福祉のために投資した。

それが植民地主義の搾取とほど遠いことは、このイエズス会士たちが、その後、この地域を自分の勢力下におこうとしたスペイン国王によって追放されたことからも明らかだ。

日本に来た宣教師たちも、音楽、演劇、印刷術などを伝えた。
日本の場合はすでにインフラが発達していて、建築技術も卓越していたから、ボリビアよりも音楽や演劇の割合が高かったかもしれない。
少年のみによる復活祭の野外劇やさまざまなショーの要素を含んだ行列が、「新しい文化」への好奇心を掻き立てた。出雲の阿国がイエズス会劇に遭遇した可能性も大いにある。

ルネサンス音楽やバロック音楽は、後の「西洋近代音楽」と違って、日本の伝統音楽や芸能と相性がいい。産業化以前のアートだからだ。

このことについて、サラバンドとメキシコの関係を前に書いたことがある。サイトのこの部分の 『サラバンドの起源』を見てほしい。

今の時代のイメージでは、素人がバイオリンやチェロでバロック音楽合奏するなんて、スノッブな印象か時代遅れな感じだけれど、バロック音楽はメキシコにもアマゾンにもよく似合うのだ。できればボリビアの子供たちにもバロック・バレーも伝わっていてほしかった。

子供に音楽を禁じるイスラム過激派のひどさをあらためて思う。
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by mariastella | 2017-01-22 00:33 | 音楽

おかあさんたちの音楽 歌は剣よりも強し

2014年のガザ戦争は悲惨なものだった。多くの子供たちを含む2200人の死者が出た。

その時に暴力でなく対話で平和を訴えようというイスラエルとパレスティナ両陣営の「平和のための母たち」という運動が始まった。2016年10月にも彼女らから発した「平和の行進」というのが、死海の北に集まった4000人のユダヤとムスリムの女性たちのヘブライ語とアラブ語の祈りで締めくくられたそうだ。
今汚職疑惑で捜査されているというネタニヤフ首相の住居前でも15000人の女性が紛争解決を訴えたという。

その他に、同じく、ユダヤとアラブの女性たちが結成したコーラスグループの「母の祈り」などの音楽活動がある。

こういう活動は地味だけれど、あらゆる人間には必ず「母親」がいるのだから、潜在的受け皿はある。

パレスティナの平和を訴える音楽活動というと、ダニエル・バレンボイムが毎年パレスティナでユダヤ人とアラブ人の音楽家を集めて指揮するウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団のことを連想する。

でもこれらの希望を抱かせてくれる「いい話」も、現地の悲惨な報道やドキュメンタリーほどにはインパクトを与えてくれなかった。

でも、このコーラスグループ「ラナ」のビデオを試聴したら、本当にこれはおかあさんたちの戦いなんだなあと思った。

一度ぜひご覧ください。


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by mariastella | 2017-01-20 00:13 | 音楽

グスターボ・ドゥダメルとニューイヤー・コンサート

元日のウィーンフィルの新年コンサートをTVで聴いて、はじめてグスターボ・ドゥダメルの指揮を見た。

もうウィーンフィルとは何度も共演しているとはいえ、35歳の若いベネズエラ人と、「老舗」ウィーンフィルの面々の取り合わせは不思議な感興を呼び覚ます。

ドゥダメルは、ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の出身者で、ロサンジェルス・フィルの音楽監督となった今も、積極的に故郷の子供たちのために献身しているそうだ。

とても楽しそうで、エル・システマのユース・オーケストラを振るときも、ウィーンフィルを振るときも、同じ自然体というのがいい。
アメリカ型の新自由主義に反旗を翻すベネズエラの音楽政策の勝利というのも気持ちがいい。
ベネズエラの音楽にキューバの医学。
どちらも人間を育て、癒す。

ドゥダメルを愛する人たちはその生き方そのものも愛しているのだ。

エル・システマには「ホワイトハンド」コーラスというのがあって、肉体的・精神的障害を持つ子供たちと白い手袋をした手の動きで歌う聴覚障害・聾唖の子供たちがからなる合唱団だそうだ。

どんなものかと思っていたが、ドゥダメルを見ていると、その意味が分かる。

指揮するドゥダメルが、振付師に似ているからだ。

特に、時々、両手をおろして、まるでタクトを振るのをやめてしまったかのように見えるとき、彼が、オーケストラと一緒に「踊っている」こと、「指揮は振付けなのだ」ということが分かる。

「ジェスチャーによるコーラス」との距離は近い。
というより、内的な振付なしの音楽なんて考えられない。

以前に、聴覚障碍者のために、全身に振動で音楽を伝える活動をしていた方とお話したことがあったけれど、音楽を発する側も全知覚、全人間的なものだと分かる。

音楽とダンスの関係についてあらためてヒントを得ることができた。
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by mariastella | 2017-01-02 00:14 | 音楽

田村洋さんのoriental dance のことなど

2014年の日本のコンサートで初演したバロック音楽童話『レミとミーファの冒険』は当初思ってもみなかった展開をしました。

バロック・オペラ仕立てのコンサート用の曲を、養護施設の子供たちのために作った物語に合わせて配したものですが、これに2人の方からの提案がありました。

調布美術研究所の師井栄治さんがイラストとナレーションをつけたデジタル童話をつくることを提案してくださり、そのために去年私たちもスタジオ録音して、このほどようやく完成しました。
来年に入ったらいろいろな形で配信できるようにします。

もう一人は、山陽小野田市芸術顧問の田村洋さんで、同じものを宇部市のコンサートで小中学生向けのコンサート仕立てにした時に聴きに来てくださいました。

夕方のバロック・オペラ仕立てのものは時間の都合で無理で午後のものにいらしたということでしたが、私たちの正五度ギターのバロック曲の演奏を的確にキャッチしてくださって、楽屋に訪ねてきて、私たちのために曲を作りますとおっしゃっていました。

先週、トリオで今年の練習おさめをしていた時、日本に一時帰国していた友人が楽譜をもってきてくれたので、さっそく弾いてみました。
すごく現代的な曲だったらどうしようかと心配だったのですが、弾いてみた「oriental dance 」の1番(tree of a dreamという副題がついています)と3番は、夢幻的でもあり祭礼的でもあり、別世界へのいざない、という雰囲気がフランス・バロック的で、私たちの新しいレパートリー(ラモー8曲)と全く違和感がありません。

全く面識のない同士が、宇部市の「ヒストリア宇部」でたった小一時間を共有しただけで、生の音による「出会い」があり、それが新しいものを生み出していくというのは驚きで、不思議で、わくわくします。

人生にはサプライズがいっぱいだなあと実感します。

来年の秋にはそれをまたいろいろな人と分け合いたいと楽しみにしています。
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by mariastella | 2016-12-27 06:46 | 音楽

バッハとラモー

クリスマス休暇で授業やレッスンがなくなったメンバーと、来年のコンサートに向けた新しいラモーの8曲を3日ほど集中練習した。

もちろんギタリスティックなものばかりを選んでいるのだけれど、ほんとうに、ギターの音で別世界が広がる。

それにしても、私たちはラモーのどんな小曲(すべてオペラの間奏曲とダンス曲)でも、研究し尽くし、議論し尽くし、試行錯誤を続けるのだけれど、その度に発見、驚き、感動がある。

時間に裂け目ができ、空間があらゆる方向に押し広げられる感じがする。

同時に、どうして世間の多くの人が、ラモーの曲を敬遠したり軽く見たりするのかという理由が分かってくる。
ずばり、ラモーのオペラを上演するオーケストラは、時間をかけないからだ。
リハーサル一回にかかるコストの問題だ。
ほとんどのオーケストラが、すごく少ないリハーサルで本番にかかる。

ラモーの世界は強靭で複雑な精神世界なので、弾く側も一定以上の「知性」を駆使しなくてはならない。
ラモーの秘密の一定線を越えなければ、時間の裂け目や空間の変化を感知できない。

前にも一度、ラモーにあってバッハにないものは「間」だと書いた。

バッハの曲を例えばチェンバロで弾くとすると、速いパッセージがたくさんあるし、構成も複雑で、何しろあらゆるところにびっしり音符がつまっていて、密度が異常に高いので、かなりの練習が必要だ。
けれどもいったん、指のメカニズムが動き出すと、後は楽譜がものを言ってくれる。
饒舌だ。
例えていえばフィレンツェの大聖堂のそばにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井を埋めるモザイク画だとか、「スペイン人礼拝堂」の、壁も天井も柱もびっしり埋め尽くしたフレスコ画を連想する。

そう、バッハの音楽は、「祈り」なのだ。神の造った宇宙をくまなく讃えようとする信仰の情念が沸き立ってすべてを埋め尽くす、という感じ。バッハは信仰者だった。それは間違いない。

それに対して、ラモーの音楽は、「頭脳」でできている。
無神論者の音楽だという人もいる。
無神論者というよりソリプシストかもしれない。
(ソリプシストについては前に延々と書いたことがある。)

ラモーの音楽には「間」がある。

その「間」が、「間」ではない部分に意味を持たせる。

ラモーの膨大なハーモニー諭や数学体系の中には無限の要素があって、彼は神のように、好きなようにそこからいろいろ取り出しながら、組み合わせ、クリエーションを行う。

予測はできない。無からの恣意的な創造だから。

しかもそのベースには上機嫌がある。

『創世記』の神が天や地や鳥や獣や魚など創造するたびに、その後で

「神はこれを見て、良しとされた。」

と書かれているように、ラモーも、

「うんうん、さすがにぼくのクリエーションってなかなかいいよね」

と満足しているような、そんな感じだ。

粘土でいろいろなものを作っていく子供のように無邪気で明るい。

けれど、そのベースには、絶対の自信とノウハウと全能感がある。

「祈り」とは言えない。

ラモーを弾くには、そのクリエーションに参加しなくてはならない。
「協働」というやつだ。だから、彼の創造の秘密を徹底的に探らなければならない。

ラモーの「間」を理解して迫ると、クリエーションが理解できる。
ラモーを弾くのは祈りというより、恵みだ。

ラモー研究者といっしょに何十年も弾きながら、いつも、褪せることのない驚嘆を分かち合える私は本当に恵まれている。
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by mariastella | 2016-12-23 03:52 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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