L'art de croire             竹下節子ブログ

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ジャン=リュック・イエネールの『地獄』Jean-luc Jeener

ジャン=リュック・イエネールの『地獄』

完全にマイ劇場と化したThéâtre du Nord Ouestのこれも完全にマイ戯曲家(今回は出演もしている)と化したジャン=リュック・イエネールが「宗教とライシテ(政教分離)」のシリーズで問う新作『地獄』を観に行った。


重病のもたらす痛みに耐えられずに自殺願望を口にする重篤の夫を前にして悲嘆にくれる女性のところに、夫の友人である一人の司祭と一人の女性歴史学者が呼ばれる。同時に夫から呼ばれていたのは黒い長い司祭服を着てやってきた保守的な教区の司祭だった。彼は死にゆく男の最後の告解を聞いて赦しを与えてから終油の秘跡を与えて魂を天国に送るというのだ。

男は幼児洗礼は受けているが、教会から離れた無神論者だったはずだった。

妻も友人たちも驚く。

男は人格者であり、友人である司祭にとっては、無神論者であろうとなかろうと、男はその愛のわざによって救われている。告解をきいてやるなど考えたこともなかったし、男がそれを望んでいるのも知らなかった。

男の妻は、男が自殺するのをとめたい。


告解して秘跡を受けたその後で自殺しても天国に行けるのですか?

と司祭にたずねると、それはダメ、地獄に堕ちる、と保守派の司祭は断言する。


それを聞いている進歩主義の司祭は苦笑い。

彼にとっては、神はイエス・キリストを送って人の心につながることでアダム以来の罪を救ったのであって、何をどうしたらどこに行くとか行かないとかの理論はもはや本質的ではないからだ。

けれども、死の瀬戸際にある人間にとって、は元気な頃の思想信条がどうあれ、救われるのか救われないのか、などという言葉のディティールが思いがけない重みを持ってくる。


宗教史の女性学者マリーは、アリウス派についての研究書を出していて、保守派の司祭もそれを読んでいた。

何が異端で何が正統になってきたのかという歴史を研究していたら、その産物のひとつである一教派の教えを絶対化する教条主義など無知蒙昧の証しであると見えてくる。

「あなたのように、カトリック教会が人を脅かすための古臭いメソードである地獄をいまだに振り回している人を見たら、カトリックを捨てた自分の判断が正しかったとあらためて思うわ」、とマリーは保守派司祭をあざ笑う。

 

果たして、死の床にある男が3人にあてた手紙が開かれ、その中には、若い頃に誤って犯した殺人についての告白が記されていた。

死が近づくにあたって、その罪の重さは彼を苛み、社会的には時効が成立しているが、司祭による神の「赦し」を必要とする心境になったということであるらしい。

衝撃が走る。


自分たちの第一の務めは「魂を救う」ことだ、と「やる気満々」の保守派司祭。


死の前の弱い状態だからと言って、友人がそんな蒙昧の世界に舞い戻ることは許せない、正気ではない、と思う歴史学者。


そして、今そこにいる「友人を愛し、寄り添う気持ち」の方が、所詮神の業でしかない「魂の救い」に優先するという実感の中にいる進歩派の司祭。

その彼も、友人が、「魂の救い」について司祭である自分に頼ってくれなかったこと、別の司祭を呼んだことに対しては苦い思いを禁じ得ない。

そういうそれぞれの思惑が、ただただ絶望し嘆きわめく、男の妻のつくり出す絶望と怒りの空気の中で微妙にからみあってくる。


「死ぬ時まで神を信じ続けられるのか」「死ぬ時にこそ神を信じられるのか」、などのいろいろな人間的な疑問が2人の司祭と反カトリックの学者との間で互いにエスカレートしたり壁に突き当たったりする。

うーん。すごくフランス的だ。

結局、一見かなり「普通のフランス人家庭」であったこの「夫婦」であろうと、司祭になった男たちであろうと、どういう立場であれ、もとは「普通に幼児洗礼を受けた人たち」であるわけだ。それが、長じて無神論的イデオロギーに出会ったり、あるいは普通の意味で、子供が親の影響から逃れ出て自立する過程の一部として、「カトリック的なもの」と決別したりする。

その中で敢えて、「イエス・キリスト」と出会った者、「呼ばれた」者は、司祭の道を選ぶが、その間には「信仰の夜」を経験するなどいろいろな試練がある。それらを経て、なお司祭としてとどまった者は、「信仰」を内的なものとして人々との愛の中に生きようとするか、人々との「魂の救い」のためにがんばるか、という道に分かれる。

日本なら、神社でお宮参りをしたとか七五三を祝ったとかいう「家庭の行事」について大人になってからその宗教的意味を自問する人などまずないだろう。クリスマス・ツリーのそばにあるサンタクロースからのプレゼントをもらった思い出について宗教的なアイデンティティに悩む人もいないに違いない。

キリスト教の歴史についていろいろな角度から調べているという点では、この芝居の中に出てくるマリーと私は似たような立場だ。異端の歴史を始めとして歴史的展開を見ていると、いわゆる教義のようなものがどんどん相対化されていくのもよく分かる。

でも私の場合は、それによってキリスト教の呪縛から解放されていくというのはない。最初から縛りがないからだ。

神が存在するとかしないとかを考えることなしに初詣で手を合わせて賽銭を投げることに抵抗がない多くの日本人と同じく、現実のキリスト教の組織が官僚化していようが偶像崇拝があろうが、それに対する拒否感から神を信じられなくなる、というような深刻な悩みなしにキリスト教シンパとして研究もすることができる。

神との関係も多分、良好。神が困っていたらなんとか助けてあげたい。

たとえ神と出会えなくとも、神を探している人たちと出会うのは大好きだ。

日本でなら、こんなふうに言ったところで、「無神論者」から馬鹿にされたり攻撃されたりすることもない。

でも、フランスで、こういうテーマを正面から取り上げるのは、21世紀の今でもやはり勇気がいるだろう。無神論者を攻撃するイスラム過激派との確執が深くなっている今ではさらに微妙なテーマだ。

芝居が終わってからイエネールと話した。

今回はThéâtre du Nord Ouestの小さいほうのホールが使われた。

観客は15人か20人くらいだった。席が全部埋まっても30人くらいしか入らない。

この芝居については、今回こちらのホールを使いたかった、ここでは、観客の重力が伝わる、感じられるとイエネールはいう。500席の劇場では絶対にない感覚だという。

観客としての私は逆だ。前の席に座っていると、登場人物と1メートルしか離れていなかったりするので、そんな登場人物たちが同じ場面にいる私たちに気づいていないかのようにお話が展開するのを見ていると、まるで自分が透明人間になったような気がするのだ。

私は芝居の登場人物らを見ているのに、彼らは、私を見ていない。私は見えていない、という感覚だ。でも、役者たちは、私たちの重力をずっしり感じているというのが意外だった。いや、透明人間だからこそ、重力だけがひしひしと伝わるのかもしれない。


そこに、保守司祭の役を演じたジャン・トムが加わって、イエネールは自分とは正反対の進歩派の司祭を演じて大変だったよね、みたいなことを言った。イエネールは、いや、愛し合うという福音が一番重要だというのはぼくの意見でもある、と答えた。

イエネールはがちがちの保守派と見られているとでもいうのだろうか?

カトリック作家であると自動的にそう思われるのだろうか。

私は彼の著作をキリスト教についてのものも含めてかなり読んでいるので、彼のリベラルなアーティストの感性と、信仰の真摯さというもののバランスをかなり良く理解できる気がしている。神学者でもあり、「受肉の演劇」「キリスト教戯曲」の意味を追求し続けるイエネールの文字通りすぐ近くでたまに時間を過ごせることは本当に贅沢だと感謝する。もっと続きますように。


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by mariastella | 2017-11-20 00:05 | 演劇

モリエール賞とサボテンの花

先日、いつもは見ないのだけれど、珍しくモリエール賞の授賞式をTVでみた。

すべてのスケッチのシナリオを用意したニコラ・ブドスの才気と逸脱に関心があったからだ。
この人は父親も有名コメディアンのギイ・ブドスで、フランスの左翼BoBo(つまりブルジョワのボヘミアン)の典型みたいな人で、スマートな好青年風(今37歳)なのに、毒舌が多すぎて、これまで何度も罰金刑の対象になったり、脅迫されたりしている。

「シャルリー・エブド」みたいな人だ。ある意味、すごくフランス的な人である。

授賞式では、目を閉じたマクロンの画像を出したり、マクロンが高校生で演劇の主役(ジャン・タルデューの短編戯曲で案山子のコスチューム)を演じた有名な画像ももちろん使われた。

うーん、こういう演出、シナリオを見ていると、ほんとうに、例えば今の日本のテレビに出るような「お笑い芸人」には絶対期待できない過激な政治性、表現の自由、全規制撤廃オンパレードだ。文化大臣も出席しているのだけれど、「忖度」などという現象はかけらもない。

そういえば、シャルリー・エブド襲撃事件のすぐ後で、やはり挑発や冒瀆全開の催しが大々的に行われてコメディアンが活躍したのを思い出す。

このモリエール賞は別にコメディだけではなくすべての芝居が対象だけれど、その祝祭はやはり、政治的公正やブルジョワ的上品さなどを過激に壊すことを通して、「自由」を表現するのがフランスの伝統なのだ。

それでも彼らの過激さとエネルギーと演劇への情熱とに酔いそうだった。

で、その授賞式の前に昨年のモリエール賞の主演女優賞を受賞したカトリーヌ・フロの『サボテンの花』が放映されていたので観た。

映画『偉大なるマルグリット』で、音痴の歌姫がカトリーヌ・フロで、金ほしさに彼女に個人レッスンをする奇怪な歌手がミッシェル・フォーで、この個性的な2人が『サボテンの花』の主役の歯科医と助手を演じる。

私は芝居でも映画でもいわゆるラブ・コメディというのはあまり関心がない。

けれどもこの『サボテンの花』というのは、フランスとアメリカの比較文化を考えるにあたって興味深い作品だ。

元の戯曲は1964年が初演で、大ヒットして翻訳されブロードウェイでも上演された。

話はブルジョワの客を持つ中年の歯科医師ジュリアンと、若い恋人のアントニアと、歯科の受付ですべてを仕切る有能な中年の女性助手ステファヌ、アントニアの若い隣人イゴールらの込み入った関係だ。

ジュリアンは、独身で、結婚を迫られないように妻と三人の子供がいると嘘をついていた。アントニアはそれをジュリアンの正直さだと好意的にとっていた。

ある時、ジュリアンはアントニアを真剣に愛し始めて結婚を決意する。

おくさんははどうするの、と聞かれて、妻とはもう離婚の合意があるとか、妻も実は浮気しているとか、嘘に嘘を重ねていき、妻と会いたいというアントニアのためにステファヌが妻の役を演じることになる。

ステファヌは母親と愛犬と暮らしている。妹の子供たちが時々やってくる。

まあ、いろいろあって、ボードヴィルというかドタバタ喜劇でもあるのだが、ステファヌは妻役を演じているうちに意識下でジュリアンを愛していたことに気づくし、妻の役を演じているうちに「女」として目覚め、若いイゴールにまで迫られ、すべての登場人物が「嫉妬」の感情によって愛に気づくという微妙な心理劇だ。

アメリカでステファンを演じたのがローラン・バコールだった。

大人の「職業婦人」が「職場の上司」との関係、老いた母との関係、客(歯科の患者)との関係の中での「顔」から、「妻」のふり、「愛人」のふり、若い女性や若い男性との個人的な関係の発生を通して、感受性の窓が次々と開いていく、女優としていろいろな魅力を見せることのできる役がステファヌだ。

で、1969年にアメリカで『サボテンの花』として映画化され、ステファヌ役はなんと当時54歳のイングリッド・バーグマンで、若いアントニア役がゴールディ・ホーンだった。この時、シチュエーションは少し変えられて、バーグマンは独身ではなくシングルマザーという設定だ。

こういう話はアメリカ好みらしく2011年にもリメイク映画ができている。「ウソツキは結婚の始まり」という邦題で、そこでは独身の外科医が、不幸な結婚をしているという嘘をつくことで女性の同情をひいて愛人にするという設定になっている。時代の差を感じさせる。

この時のステファヌにあたる役がまだ40代初めくらいのジェニファー・アニストンだ。今や40代はじめなどとても若いので、1960年代の「結婚をあきらめた女」の設定とは、見た目も社会的なスタンスも違う。

で、2015年、60歳のカトリーヌ・フロが原作の戯曲を再現。

あらためて、よくできた芝居が「古くならない」こと、男と女の機微をめぐるフランス語の豊かさ、年の差やら身分やらを超えた心理戦などにおける「国民性」はあるのだなあなどと確認できた。

個人的には登場人物の誰にも共感も感情移入もできないにもかからわず、細部の感情の動きや感慨は確かに普遍的でもあり、また、フランスで暮らしている私の周りの具体的な誰それの行動の仕方やシチュエーションと重なるのでリアルでもある。

しかもこのセリフとこのセリフ回し。映画でなく芝居ならではの魅力が満載だ。カトリーヌ・フロとミッシェル・フォーという際立った個性派と、「若者のステレオタイプ」のようなアントニアとイゴール役の対比のバランス(その他に カリカチュラルな患者たちも彩を添える)が絶妙だ。演劇はやはり贅沢だ。


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by mariastella | 2017-05-31 06:22 | 演劇

三月大歌舞伎

先日、歌舞伎座の三月大歌舞伎の夜の部に行った。

絶妙の三作組み合わせだった。

ビジュアル的にも、『引窓』の引窓を使った効果、相撲取りという設定が印象的だし、昔風の家父長的親子関係でなく、義理の息子、別れた息子、遊女だった義理の嫁、など家族関係が錯綜していて、登場人物が少ないのに複雑な感情が書き分けられていて見ごたえがあった。

次が『けいせい浜真砂』で女五右衛門が南禅寺山門の場で「絶景かな」とやる。贅沢の極み。

名優ふたりの掛け合いで短いけれど極端に豪華絢爛な舞台。でも、人間国宝でなくてもいいから、藤十郎よりもっと若い細面の女形だった方が仁左衛門とバランスがとれたのに。

最後が『助六由縁江戸桜』で、これも豪華絢爛の上にあらゆるタイプの登場人物が出てくるので、まるで歌舞伎百科事典みたいだ。

海老蔵は2年ぶりで、前は「うまい」ことに感心したが、これは、「うまい」よりも前に姿のよさが引き立つ。
口上がついていて河東節付きのバージョンを観るのは初めてで、300年来、旦那衆とその夫人らが特訓するという話を聞いて、まるで300年前のフランスのオペラ・バレーみたいだと思った。日本では今でもそんなことを続けることができる層が存在するというのがすごい。

フランスのバロック・オペラは王侯貴族主導だったので、フランス革命でいったん絶滅したけれど、日本の江戸歌舞伎はそういう身分制度の枠外でいわば「悪所」で栄えた文化だから、「近代」の激動を乗り切って続いたのだろうなあと感慨深い。
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by mariastella | 2017-03-25 00:11 | 演劇

Jeenerの新作『Mahomet』その2

昨日は、このMahometについて、今のフランスの状況を分析して続きを書こうと思っていた。
2005年以来のテロ対策の方向性のエラー、アメリカや中近東と違うヨーロッパ向けのテロの方向性と戦略の誕生、イスラム・イデオロギーのフランスを的にしたロビーCCIFとそれがメディアと左派社会学者(エマニュエル・トッドら)に助長されてISのテロを巧妙に使い、問題を混乱させている状況を詳しく書こうと思ったのだ。
でも、それをしていると、一冊の本になってしまうことが分かった。

だから、この問題についてはいったん筆を置こうと思う。
今書いている本の中に組み入れるつもりだ。

で、Jeenerの『マホメット』だが、これは決してイスラムの否定ではないが、Jeenerのキリスト者としての信仰告白になっている。

すごく単純に言って、イスラムがキリスト者に改宗を迫るとき、「唯一の神」なのに三位一体とか言って分裂させるのがそもそもおかしい、多神教だ、偶像崇拝だ、というのがある。

この戯曲でも、マホメットとペトリュスが、一人の女性の運命をめぐって、命がけの神学論争をする。
「コーラン」対「福音書」だ。

コーランは絶対の神の言葉。しかし大天使ガブリエルから伝えられた。
これに対して福音書も聖書も、聖霊にインスパイアされたにしても、人間の書いたものだから「人間の弱さ」を抱え込んでいる。

ところが、キリスト教的の神学的には、神の言葉(=ロゴス)が受肉して送られたのがイエス・キリストなので、もうそれ以後には神の言葉も必要ないし、それを伝える天使やそれを聞く預言者も必要ない。
ガブリエルが最後に現れたのは、マリアに受胎告知した時で、イエスが言葉を話せるようになってからは、イエス自身が「神の言葉」を体現していた。

だから、またガブリエルがやってきて神の言葉をマホメットに伝えたというのは受け入れられない。

その内容には関わりなく。

というのが、ペトリュスの立場だから、改宗を迫るマホメットと折り合うはずがない。

しかし、ペトリュスと妻の絆、神の前で結ばれた、という貞節の意志と、コーランで一般に定められたよりも多くの妻を娶る特権を行使するマホメットの女性観は当然対立する。

マホメットが25歳の時に40歳の未亡人と結婚し(3人の息子は夭折、4人の娘が残る)、その妻の死後9人の妻を娶ったことなども言及される。

この上演では、マホメットが若くて魅力的で、自身に満ち溢れ、自分の絶対的優位と正しさを信じ切って落ち着いているのに対して、ペトリュス役は妻もともに、きわめて「人間的」だ。
だから、マホメットの前で、妥協したふりしようとしたり、それが通じないと、怒りをぶちまけたり、支離滅裂な行動もとる。

けれども最終的には、

「あやまちある人を私たちがゆるすように私たちのあやまちをゆるしてください。」

という主の祈りを2人で唱えて去っていき、結局彼らの頑固な人間性を前にして、彼らを解放してしまったマホメットは、たった一人残って、

「神よ、私の弱さをおゆるしください」

と祈って芝居が終わる。

私たちはこの芝居を観て、Jeenerがなぜキリスト者であるのかを理解する。

ペトリュスは改宗を拒否したが殉教者にはならなかった。
妻を殺すと脅されても改宗はしない。

この2人を見ていると、日本のキリシタン迫害で、改宗せずに殉教した人々の気持ちがなんとなく分かる。

今までは、「踏み絵くらい踏めばいいのに。役人にいたずらに人殺しの罪を負わせることもないのに」と少し思っていたのだけれど。

そして、キリスト者としてのJeenerのことがよりよく分かるとともに、いろいろなことがはっきり見えてきた。

この戯曲で描かれているのは宗教の戦いや神学の戦いなどではなく、人間が信仰をどのように人間的に生きるかという話なのだ。

宗教は信仰の社会的表現であるが、信仰はイコール宗教ではない。

これからはこのことを分かりやすく書いていくつもりだ。
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by mariastella | 2017-01-10 07:05 | 演劇

Mahomet

先日、Jean-Luc Jeener の新作戯曲『Mahomet』に行ってきた。

彼の劇場の今年最初のテーマは「宗教とライシテ」で、今とてもデリケートなテーマだ。

その上に新作が『Mahomet』なんて。

切符を買う人のほとんどが「モアメッド」と言っていた。
イスラムの預言者の名は、フランスではモアメッドで、ムスリムの名としてなじみがあるからだ(アラビア語の母音部分は国によっていろいろ変わる)。

これを「マオメ」と書いて読むと、そこいらにいるモアメッド君じゃないよ、最終預言者のマホメット(ムハンマド)だよ、という感じがする。

これが、大劇場だったら、私は怖くていけないだろう。すでにいろいろ話題になって警戒されているだろう。

舞台は前半が預言者とキリスト教徒のペトリュスの対話だ。
ペトルスはキリスト教のコミュニティの指導者的役割を担っている。
戦争に負けて連れ去られた妻を取り戻しに来る。
預言者は、イスラムに改宗するなら二人を生きたまま解放しようという。

真っ暗な舞台(と言っても観客席と同じ床だ)に明かりがつくと、金襴の布がかけられた椅子に預言者が座っている。

ちょっとどきどきする。

確か、預言者の顔を描くのも冒瀆で、演じるのもまずいのではなかったか ?

そう思う自分に驚く。

完全に、ここ10年来のイスラムへの警戒心が刷り込まれている。
舞台のマホメットを演じる俳優は若い。
イエス・キリストと同じ30代に見える。髭の具合もイエスっぽい。目はとても青い。

ペトリュスの方は年配でシーザーみたいな雰囲気だ。

マホメットの語ることばは慎重にコーランから引用されているらしいことが分かる。

それでも緊張を強いられる。

Jean-Luc Jeenerは 2005年くらいに、「宗教と正義」のテーマで、ヴォルテールの『Mahomet』を同じ場所で上演した。

その時と今では、イスラム過激派をめぐる情勢がかなり変わっている。

ヴォルテールの『マオメ、または狂信』と言えば、イスラムの野蛮さをテーマにした悲劇(兄と妹がそうとは知らずに愛し合う)で、コメディ・フランセーズで1742年に初演されたものだ。

ヴォルテールは「狂信者マホメットは残酷で嘘つきで人間の恥で、商人の若造が預言者、立法者、君主になった」などという言葉を手紙の中に残しているからほんとうにイスラム嫌いだったらしいが、この戯曲は実はカトリック教会を攻撃していたのだという説もある。それをごまかすためにヴォルテールはわざわざこの戯曲を当時のローマ教皇ベネディクト14世に贈呈したというのだ。

その後ヴォルテールはだんだんとイスラム好きになって、1770年には、イスラムはヨーロッパの誰よりもましなことを考えていると称賛したらしい。

そういう検証は、フランス語のイスラム系サイトにいくらでも載っている。
啓蒙思想のヒーローであるヴォルテールをイスラムの味方につけるのは大きな意味があるらしい。
その辺がフランスっぽい。

このヴォルテールの戯曲をドイツ語に翻訳したのがゲーテだ。
ゲーテはそのことをナポレオンに出会ったときに話題にした。
ナポレオンは、「私はあの芝居が嫌いだ。カリカチュアだ。」と答えたという。

ゲーテは「彼はそれを意に反して書いたのです。狂信を長々と攻撃したこの悲劇はイスラムではなくキリスト教会を攻撃しているのです」と言い、ナポレオンは「それがあまりにも隠されているのでローマ教皇に贈られて祝福されたのだ」と答えた。

真相はよく分からないけれど、確かなのはこの芝居が興行的に失敗だったこと、そして、ヴォルテールもゲーテも、宗教原理主義、宗教の過激派、人々を解放する代わりに縛り付ける宗教全般を憎んでいたということだろう。

(ナポレオンと宗教についてもっと知りたい方は『ナポレオンと神』をお読みください。)

Jean-Luc Jeener が2005年にこれを上演したのも、別にイスラムの批判ではなく、この芝居に出てくる狂信的言辞、全体主義的言辞に対する告発だった。

けれども、それを2017年に上演することは不可能だ。
で、自ら、同じタイトルで新作を書き下ろした。

先日は彼とゆっくり話すことができなかった。しかし彼の言いたかったことは分かる。
でもどうして敢えてマホメットなのか、それは、シャルリー・エブドの記念号を読めば分かってくる。
シャルリー・エブド襲撃事件なしにこの新作は存在しなかった、と、私は思う。(続く)
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by mariastella | 2017-01-09 00:49 | 演劇

笈田ヨシさんの『東京物語』をパリで観る

パリのヴィレット劇場で『東京物語』(Voyage à Tokyo)の芝居を観る。
この写真
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にもあるように、父親役の笈田ヨシさんはまさにはまり役で、今日本でリメイク映画を撮ったとしても彼しか考えられないようなくらいのたたずまいだ。あとは全員フランス語圏の役者で、奥さん役の着物の着こなしがあまりにもバスローブで、いくらなんでも着付けアドバイザーみたいなのがいてもよかったのにと思っていた。

実際は、その「着物」のフェティッシュそのものが「母親」を表していて、女優がそれを脱げば末娘役になったり、長く床に敷かれた「着物」が、寝込んで意識不明になり亡くなる母親になったりする。
着物は衣装でなくコードなのだから、着こなしなど関係がないのだった。

そもそも小津の映画、特に『東京物語』は、フランスで伝説的な人気がある古典中の古典だ。

演出家はドリアン・ロッセルDorian Rosselというまだ41歳のスイス人である。

今回の芝居の評には、

「ロッセルは(映画の)エッセンスを保持している。シンプルで明るい。多くの優しさともの哀しいユーモアとともに。」

「一座のトップに眩いばかりの笈田ヨシを据えて、ドリアン・ロッセルは小津映画の傑作のひとつを舞台にのせるという挑戦をした。」

「ロッセルは持ち前のエネルギー、様式、繊細さで東京物語を劇化した。」

などとある。

『東京物語』は1953年の作だからロッセルと時代的な接点はない。

50年代の日本と今のコントラストをどうするかとか、時代の流れの速さとどう付き合うか、進化する現実とどう向き合うかということなども注目されるが、その他に老いの問題、世代間のすれ違いや距離の問題などの普遍的なテーマがある。

地方が高齢化して都市に若者が集中する今となってはますます深刻なテーマだ。

「分かり合えるのは簡単ではないことを小津は日常生活のシーンの儚さにおいて表現する。都会ではぐれたら一生道に迷い続けなくてはいけない(広い東京を見て母親が語るセリフ)、というのではなく、私は、それを出会いとの中で自分自身を求めることに置き換えたい」

とロッセルは語る。

「笈田ヨシは生きている宝物だ。自分の芸術に情熱を傾けるマエストロだ。彼の参加は贈り物であり名誉である。驚いたことに、仕事の仕方では全く波長が合った。20年前に彼の研修に参加したことに深く影響された。同じ芸術のファミリーに属していることは素晴らしい。彼が望むならまた仕事したい!」とも。

全てのセリフが行間に意味がこめられていて、語られないことにこそメッセージがあるという小津作品(というより日本の表現習慣)をフランス語に移すのだから、フランス語演劇(伝統的にはギリシャ演劇由来の韻をふむ朗詠)におけるセリフとセリフ回しに革命をもたらすかもしれないというコメントもあった。

で、実際、観劇しての感想としては…

まず、言葉の問題はない。
どのセリフもすぐに非言語領域にすっと入って、日本語との違和感が全くなかった。

次の日に、好奇心に駆られて、何十年ぶりかで『東京物語』をインターネットで全編観なおしてしまった。
便利な時代だ。

映画を見て気づくのは、唯一、日本語にあってフランス語にない決定的な言葉が、家族間のヒエラルキーを表す言葉だということだ。

原節子の演じる紀子(戦死した次男の未亡人)は、長男の嫁や長女のシゲを「おねえさん」と呼ぶ。

母親のことを実の子たちが「おかあさん」と呼ぶが、嫁は「おかあさま」と呼ぶ。
長男の嫁は孫目線で「おばあさん」と呼ぶ。

母親が孫息子たちを呼ぶとき、上の中学生の子は「みのるさん」、下の小学生は「いさむちゃん」と呼ぶ。
そういう呼称の微妙な使い分けが人間関係の陰影をつくっていて、誰がどういう立場にいるのかをいつも察して立ち位置を決める日本的な風土が提示される。

当然ながらフランス語ではそれがない。(英語と違って敬称と親称があるからまだましだけれど。)

しかし、今回あらためて映画を観なおして、さらに情報を検索すると驚いた。

いくら「老け役」の名優とはいえ、笠智衆は当時たった49歳、東山千栄子が64歳、長男の山村聡が44歳、長女の杉村春子が48歳、原節子33歳だという。

映画の中の設定では母親が68歳というから、まあ東山千栄子は実年齢に近い。長男や次男の嫁もまあまあだ。
49歳の笠智衆の演ずる父親は70がらみといった設定だろう。違和感がないのは驚く。

昔最初にこの映画を見たときは、この親子たちの世代のどこにも位置しない学生時代だったと思う。

だから、映画の中の誰かの立場に自分を当てはめるということももちろんなかった。
別の世界の出来事がオブジェのように差し出されたという感じだ。

しかし、今は、完全に、ここの老親夫婦の立場と自分が切り離せないし、今は亡くなった両親のことなども思い出される。

一緒に芝居をみたフランス人女性も、「妻、母、祖母」の立場の人だけれど、観劇の後すぐに話し合った時は、自分の家族ヒストリー語りになった。
「家族関係」という、人それぞれに違うが普遍性のある共同体、そこに参加した時は選択の余地のなかった家族共同体での生き方やあり方や、喜びや後悔や恨みなどがどっと喚起される。
芝居に感動というよりノスタルジーに溺れそうだ。

同時に、『東京物語』で病死する母親が68歳という設定は、この老夫婦が、ついこの前アメリカ大統領選を熾烈に戦ったドナルド・トランプとヒラリー・クリントンと全く同世代だということに愕然とする。

まるでパラレルワールドを見ているようだ。

私は両親と日本とフランスという距離を隔てて暮らしていたけれど、昔の「尾道から東京」よりも離れてはいなかった感じだ。
私がフランスに来た40年前からももちろん、時代は劇的に変わった。
今ならメールやラインやスカイプやfacebookなどで世界中に散らばる家族が話し合ったり情報を共有したり、その日何を食べたかの写真を載せたりさえできる。
今の子供たちが大きくなった時には、もう、『東京物語』を観て喚起されるものはまったく別物になっているに違いない。

で、今回の芝居。

主演の父親役だけが日本人だ。
母親役は大柄な若い女性で、東山千栄子と正反対。
年配の女性を使うことも考えたそうだけれど、この芝居は子供の役がプラカードの絵で表現されたり、長男の嫁と長女の夫が同じ俳優だったり、リアリズムを排したさまざまな工夫がされているので、あえて原作の母親の雰囲気に似せはしなかった。

映画の中の日本家屋の格子の引き戸の感じや、その桟の縦の線と、縁側を並べたような床の横の線のコントラストも面白く、すべてが「見立て」になっている。
役者も「見立て」の一部なのだ。
楽器奏者が部隊の奥に透けて見えるのも歌舞伎のな長唄囃子みたいで楽しい。

そういう細かいモザイクのような演出の工夫が興味深いので、クライマックスがないから退屈されるのではないかという監督の心配は無用だった。

原節子の紀子役は、よく雰囲気が出ていた。

映画のように、和室でうずくまるイメージで雰囲気がじっくり醸成されていくのではなく、一つのタブローが出来上がっていく印象だ。

「見立て」の演出の中で、ひとりだけ「ザ・本物」という感じで全編を担っているのが日本人の笈田ヨシさんだ。

訥々とした話しぶり、表情、体の使い方、矜持と諦念と悟りが混ざったような飄々とした、しかしどこかにしなやかな強靭さを秘めている佇まいなど、この芝居の全部が凝縮しているような存在感だ。

妻に先立たれた生活について、最後に「そのうち慣れるじゃろう」という感じで繰り返して幕切れとなるのが映画とは違うのだけれど、ぴったりだった。

映画の笠智衆が49歳だったのに対して笈田さんは83歳。これにも驚く。

後でお食事をご一緒した時に「若さの秘訣は?」と思わず尋ねると、「幸運です」と答えられた。

日本でも活動しているし、オペラの演出など守備範囲も広い。フランスで出版した演劇論の3部作は演劇青年のバイブルのようになっている。

一緒に観に行った女性は、ピーター・ブルックの『マハーバーラタ』の上演でも笈田さんを観たそうだ。

彼女も私も笈田さんも、日本とフランスを何十年も往復している。

出会いも別れも、たくさんあった。

私たちはみな、「東京物語」を生きている。
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by mariastella | 2016-11-15 07:26 | 演劇

八代目中村芝翫の襲名披露

歌舞伎座に、中村芝翫と三人の息子の襲名披露の11月公演の初日に行った。

口上を聞くのは久しぶりだ。なんだかすごく懐かしい。

毎年2回くらいは歌舞伎を見るようになってもう半世紀以上経つ。

その間数年日本に帰っていない時もあったけれど、歌舞伎と宝塚は私の中でセットになっている。

先代の芝翫は若いころにしょっちゅう見ていて、なんだか役者絵みたいな顔で、お姫様役なんて全然似合わないなあといつも思っていた。
でも女形のイメージが強すぎて、立役の橋之助が八代目芝翫というのは意外だった。

この公演には藤十郎や扇雀や鴈治郎も出ていたが、藤十郎を見ると昔の扇雀に見えるし、鴈治郎というと昔の扇雀の父の鴈治郎を思い出す。
昔の鴈治郎と芝翫が心中などの世話物をしていた時は、なんだかビジュアルが不自然すぎて感情移入できなかったのを思い出す。

半世紀も見ていたら、本当に代替わりがあるんだなあ、と懐かしく、知り合いのような気がしてくるからおかしい。

それにしても新芝翫の息子三人がそろうというのはこういう男の世界ではお家安泰という感じでおめでたいし、なんだかその家父長制の世界にくらくらする。

盛綱陣屋なんて、考えてみると、子供を戦闘に駆り立てたり、首を切って運んだりなど、今の感覚からいうとISのテロ集団ですか、と言いたくなるすごい世界で、こんなのを子供に演じさせたり子供に見せたりするのって教育的じゃないなあとも思う。

けれども小四郎を演じる松緑の息子(ああ、これも昔の松緑のことを思い出す)の10歳の左近というのが天才的にうまい。
前の席の人はずっと泣いていたし、この演目の間中、三味線の音の後で沈黙が数秒続いて劇場中が水を打ったようにしーんと静まりかえり、息をのむような緊張がみなぎる数秒が何度もあった。

襲名披露という祝祭気分の中なのに歌舞伎でこんなに濃密で劇的な雰囲気が立ち上がるとは衝撃的なくらいだった。

『元禄忠臣蔵』の御浜御殿の綱豊卿の三幕もまた素晴らしくて、仁左衛門の綱豊はもちろん、助右衛門の染五郎がとにかくうまい。

二人の本音の探り合い、能舞台の背面の場面など、緊迫感あふれるやり取りや心理戦の迫力だけでなく、為政者と儒者の関係、御家再興の嘆願とかたき討ちの関係なども興味深い。

どちらの演目も、忠君や親孝行や武士の意地などが一方通行のものでなく複雑に入り組んでいるので、一つ一つをとってみるととんでもなく非近代的で非人間的なひどい話であるのに、登場人物の苦悩が普遍的な共感を呼び起こすのはさすがだ。

新歌舞伎座にもやっと慣れてきた。
後ろの席に二人の男の子連れのご夫婦がいて「なりこまや」の声を何度もかけていた。
平日夜の部に一等席四席で盛装した子供連れとはどんな人なのかなあと想像を巡らせる。

初日だから関係者も多く華やかで芝翫夫人ももちろん挨拶されていた。

すべてが別世界のような気分と、芝翫のお父さんもおじさんも観てきたし、もちろん橋之助時代にもいろいろ観ているという親近感とがふたつ重なって不思議だ。

宝塚だと独身女性が限定だから「家族」を見続けることはなく、こういうタイプの親近感はない。
そういえばここ数年宝塚へは行けていない・・・
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by mariastella | 2016-11-02 01:46 | 演劇

Jean-Luc Jeener の新作『Le tyran juste公正な独裁者』

少し日本に滞在した後でフランスに戻った時、それが本当に実感できるのはフランス語の芝居や映画を観た時だ。フランスとは、フランス語なのだなあと思う。

で、お気に入りのJean-Luc Jeener の脚本監督の新作『Le tyran juste公正な独裁者』を、いつもの劇場(le Théâtre du Nord-Ouest)に観に行く。

いつもながら身につまされる哲学的なテーマで、役者がまた素晴らしい。

それなのにいつもながら観客は少なく、10人の役者に対して観客は8人。
上演キャンセルされても不思議ではない人数だ。

中心人物であるヴァンサン判事のBenoît Dugas、続けて2時間以上を出ずっぱりの大役だが素晴らしい。
「悪の化身」を演じるValentin Terrerの倒錯的な迫力も尋常ではない。
「専制君主」役のPierre Sourdiveの中途半端な人間味も興味深い。

話は政治SFという感じだが、オーウェルの小説のようなカリカチュラルなものではない。
長い間の戦争が終結して荒廃からの再建途上にある国が舞台だ。

戦争の終結に成功し国の統一を果たした「絶対権力者」が、国中の監獄が満杯なことを憂えて、国の再建のために監獄を空にすること、そのためには、法や正義や裁きの概念を変えて、「罪を裁かずに人を裁く」方針を決める。
そのための「判事」を、戦争で多くの人を殺して今は売れない画家になっている元軍人ヴァンサンに一任する。

「どうして自分のように罪深いものを ?」というヴァンサンに、「君は絶対に自分のしたことを自分でゆるせないだろうから、他の人にはミゼリコルド(慈悲)を向けることが可能だと思うからだ」と独裁者は答える。

人を裁くことにおける基準は「良心」である。
「権力は擦り減るが、良心は留まる」と独裁者は言う。

で、それから、検事も弁護士も他の判事も上告の可能性もなし、ヴァンサンの判断ひとつで、「罪を犯した者」たちには、決して収監されることなく、殺されるか釈放されるかの二択の運命が待つことになる。

ヴァンサンは、独裁者の暗殺を企てて次の日に処刑が決まっている若い男を独房に訪ねて共犯者と共に解放する。そのことで彼のエネルギーを国の再建に向かわせることを期待したのだ。

路上で女性のバッグをひったくった男を逮捕した時は、男が「自分はやっていない」と抗弁したことを受けて死刑を決める。バッグを盗んだことではなくてそれを悪いと思っていないこと、認めないことが、「存在に値しない」のだ。

夫をチンピラに殺された妻が、チンピラの処刑を求める。チンピラは自己弁護する。ヴァンサンは、妻にピストルを与え、「それなら自分で撃て」という。一瞬迷った妻が本気で引き金に手を駆けると、ヴァンサンは「それは正義ではなく復讐だ。復讐は悪だ」といって妻の方を処刑する。
呆気にとられ、おののいたチンピラは「それは不条理だ、ひどい」と言うが、釈放される。
「その罪悪感を一生抱いて生きるのがお前の罰であり、お前はもう二度と人を殺さないだろう」というのが釈放の理由だ。

そのような場面が続いた後で、ヴァンサンが監獄は空になったと独裁者に報告する。

独裁者は戦争中に敵の子供を焼いて食った「悪の化身」のような男ピエールの消息が分からないので調査してくれと依頼する。

捕えられた「悪の化身」の独房をヴァンサンが訪ねる。

男は『クレーヴの奥方』を熱心に読んでいる。(これはサルコジ時代に話題になった教養主義の否定を示唆しているのかもしれない)。

この後で、それまで絶対に喜怒哀楽を示さない「専制君主の忠実な道具である官僚」であったヴァンサンが、独裁者の一人娘を育てて監禁しているという事実を知らされて動揺するなど、心理戦が延々と繰り広げられる。

それまで機械のように冷たかったヴァンサンが呻吟し、苛立ち、化粧して性別不明な「悪の化身」ピエールが優位に立つ。

その後、娘の命をめぐりストーリーが釈放されたピエールを執拗に追い回すヴァンサンの姿と共に展開する。

このあたりのまとまり方が少し苦しい。

結論のひとつは、ミゼリコルド(慈悲)によって赦す心と良心だけでは人間の事象は解決できない、ヴァンサンに欠けていたのはcompassion、つまり同情、共に苦しむ心だというものだ。

公共善と公共の秩序との関係も大きなテーマだ。

争いごとを扱う時、もとより不完全な多数決によるよりも、賢者の独断の方がすぐれているのではないかという永遠の問いもある。

閉幕後、Jeenerには会えなかったのだけれど、帰途につくBenoît Dugasに会ったので、このテーマってプラトンの「哲人王」を連想させませんか、と尋ねたら、「哲人王」のことは知らなかったと言われた。

賢者の仁政を期待するというのはもともとオリエンタルな心性に属すると思われるが、独裁者(専制権力者)と「公正、正義」とが両立するのかどうかというのは、今の国際社会のタブーの領域となっている。
人間中心主義に拠ることで逆に人間の不完全さ危うさを知り尽くしてしまった西洋近代の諦然や自戒もあるのだろう。

苦しく残酷な戦争を経て「平和を勝ち取る」形となった権力の掌握者が、最初は国の再建のために犠牲を払い、人々にもそれを求めるうちに、何かが変質していくというのは、歴史が繰り返し語っているものだ。

レジス・ドブレがチェ・ゲバラとフィデル・カストロのことを

「夭逝すると聖人になるが長生きすると怪物になる」

と形容したのを思い出す。
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by mariastella | 2016-05-16 00:08 | 演劇

彦山権現誓助剱 と 幻想神空海

14日、歌舞伎座公演の夜の部に行った。

彦山権現誓助剱(ちかいのすけだち)の杉坂墓所と毛谷村

そして幕間なし2時間の幻想神空海。これは新作歌舞伎。

前日のお能ベースのシュメール神話に続いて、この新作歌舞伎では唐が舞台で、楊貴妃伝説、冥界との関係、よみがえり、不老など、共通するテーマがあったので非常に興味深かった。

過去の物語を突然和服の竹本義太夫が劇中劇として語りだすなど、人やモノ、時代、時間、空間すべての区別が曖昧であり、音楽を生かした斬新な演出でそれを操る手際も共通している。

空席がけっこうあったのには驚いた。今回が初演の新作歌舞伎を敬遠した常連がいるのかもしれない。

彦山では、ヒーローの六助役の仁左衛門の表情の豊かさが抜群だった。
眉を下げて温厚そうな顔をするのが誰かに似てると思ったら『マイ・インターン』のロバート・デ・ニーロにものすごく似ている。

彼の表情の豊かさを見ているだけで楽しい。子役が大活躍だが、仁左衛門の温かさ、頼もしさが安心感、信頼感を与えているのだろう。

次の空海ものは歌舞伎という枠を超えている。

最初に若き空海役の染五郎が登場したときは、あまりにも、宝塚の男役を思わせてびっくりした。

その後も最後まで、染五郎はたたずまいも、声もセリフ回しも宝塚そのものだった。これが伝統歌舞伎の台詞だったら気がつかなかっただろうけれど。
もちろんこれはケチをつけているのでなく、今回宝塚に行けなかったので得をした気分だということだ。

実は空海が唐から戻ってきて神護寺に来た1200年記念の時に、最初京劇を上演するという企画があって、唐での空海を主人公にしたシナリオを書かないかという提案をされたことがある。橘逸勢との冒険を考えていたのだけれど、そのころすでにこの夢枕獏さんの作品があったことを知らなかった。

白楽天や楊貴妃まで動員するなんてすごい想像力だ。結局その企画は実現しなかったのだけれど、いろいろ考えたことがあるので感慨深い。

今回の演出は「武具馬具が揃ったところで、巨大な玩具箱をひっくり返す」と演出家が書いている言葉がぴったりだ。回り舞台も駆使し、仕掛けもたくさんあって、「見世物」の楽しさがある。

それに比べると、確かに昨日の安田さんの舞台は「神事」に近かった。
歌舞伎のひと月近い公演と違って1回性の能舞台とのメンタリティの違いがそこで顕著になる。

(といっても、安田さんなら、予算と手段があればよろこんで「巨大な玩具箱をひっくり返」しそうな気もするけれど…)
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by mariastella | 2016-04-15 20:04 | 演劇

『イナンナの冥界下り』

13日、台東区にある真宗の西徳寺で安田登さんの率いる「てんらい」によるシュメール神話『イナンナの冥界下り』の公演を拝見した。

女性浪曲師の巧みなイントロや、人形、ダンサー、子役、コーラス、能管だけでなくいろいろな楽器、プロのオペラ歌手など、これだけ多彩なハイブリッド作品をまとめる創造性と手腕はすばらしいし、演じている人がみな楽しんでいる様子も伝わる。

お寺の本堂という背景も神話の神事、祭事という異世界にぴったりだ。

エンターテインメントというより神事のつもりで演じますということだったが、サービス精神も豊かで飽きさせない。

女神イナンナが女優さんで冥界の女神が人形なのだけれど、女優さんが小柄で無機質な感じも人形とバランスが取れている。

セリフの半分がシュメール語という触れ込みだけれど、日本語の部分は能と違って聞き取りやすいし、シュメール語の部分も、外国語というより呪文のように語られ歌われ聞こえるので違和感がない。

繰り返しが多いのはバロックオペラみたいで、つい唱和したくなる。

最後にイナンナが「わたしは唯一の神」と自賛する。

安田さんによる解説本では祖父なる神が彼女を甘やかして多くの力を与えすぎてしまったのでわがままになったとある。 

「唯一の神、我に比すべき神はいない」

という賛歌が引かれている。

これは旧約の神の登場の仕方とそっくりだ。

旧約の神はモノテイズムのモノ(単一)ではなくソロ(唯一)として登場した。

言ってみれば、恋する女が

「あなたは私の立った一人の男、あなた以外に男はいない」

と男に言うとき、それは別に他の男が地球上に存在しないという意味ではないのと同じだ。

旧約の神と神に選ばれたユダヤ民族の関係はそういうものとして出発した。

後の、いわゆる一神教の方は、単一という意味の唯一神なのだから、嫉妬や離反や裏切りは基本的にあり得ない。
一神教同士が「ぼくたちの神が正しい唯一の神だ」と言って排斥しあうというのはロジックではない。

イナンナがいったん死んで復活した後でパワーアップするという話はキリスト教復活テーマと似ている。

創造をどう見るかということだけでなく、冥界をどう見るかということからローラシア神話を眺めるのが安田さんのテーマであるようだ。
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by mariastella | 2016-04-14 13:39 | 演劇



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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