L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:アート( 67 )

フラ・アンジェリコ

ジャクマール・アンドレ美術館のフラ・アンジェリコ展に行ってきた。

ここのところ展覧会を先延ばしにしていると見損なってしまったという例が続いたので。

有名な金箔の使い方は完全に工芸的な線刻やレリーフで、その細部の素晴らしさは、写真と実物との差がこれほど大きいのがめったにないくらいだ。金というのは、すごいマチエールである。

1月までやっているのでパリにいる人は必見。

彼がドミニコ会に入ったことに関して、当時の画家は、修道士でなければ同業者組合に所属しなくてはならないし、それはそれで徒弟制度などの人脈が複雑なので、修道士になるというのはアーティストとしての自由を確保するひとつの解決法だったのだということを知った。

修道士が絵を描くというより、絵描きが修道士のステイタスを獲得するのだ。

それでもフラ・アンジェリコは叙階までされたんだから、修道士になって宗教画ばかり描いてるうちに本当に「回心」体験があったのだろう。

子供の時から修道院で育ったようなフィリッポ・リッピのような人の放縦ぶりとは逆だ。(そのリッピの絵もあったが、彼の描く人物像のまろやかさは見方を変えるとマンガ風でもあり親しみやすさがある。性格も反映しているのかもしれない)

何しろ福者だし。

キリストの上半身のまわりに受難道具をちりばめた絵がひとつあって、上の方にはユダの接吻がある。その絵を私の後ろでながめていた老婦人2人が、左下の誰かの首を切っている人を見て「これはなんだろう」としきりに言っていたので、思わず「サン・ジュリアンですよ」と言ってしまった。確認していないけれど多分そうだろう。

キリストの受難には直接関係ないが、ジュリアーノ・メディチの守護聖人だからだろう。メディチ家が注文した絵には、一族全部の守護聖人がずらずらと出てくる。聖コジモと聖ダミアーノが殉教して首を切られている絵もある。

この二人は外科医でもあったので、医者の守護聖人で、メディチ家はその名の通り医薬関係の家柄が起源だから、「名」だけではなく「姓」の守護聖人にも気を配っているわけだ。

首を切られた殉教聖人たちの頭にも聖なる光輪がちゃんとついている。

逆に、光輪をつけた聖人が、こともあろうに他の人の首を切っているなんていかがなものか・・・ということで、老婦人たちは悩んだのだろう。

でも、聖ジュリアーノは、妻が密通しているのだと勘違いして、実の両親の首を掻き切ったのだから、殉教者を処刑したそこいらの役人よりも恐ろしい。そういう強烈な、ギリシャ悲劇みたいなキャラが、その改悛のすさまじさで人気聖人になったのだ。

フラ・アンジェリコは他にも聖ジュリアーノの絵を描いている。

もちろん、数々の聖母子像、聖母戴冠像もすばらしい。

聖母戴冠(と言っても聖母の冠にイエスが宝石を一つくっつけようとしている不思議な図柄のやつ)は、楽器を奏でる天使が珍しく後ろ姿だったり、背景がとにかく金色の後光ずくめなのに天使や聖人たちの群像の配置がすばらしく、ほんとうに天国を見ているようだ。

フラ・アンジェリコといえば独特の光が、光が、と強調されるが、デッサンも構図も天才の仕事だ。

メディチ家のような裕福な商人だの権力者たちが魂の安泰のためにこぞって美の製作に金をかけたというのは、非現実的なくらいに贅沢だ。
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by mariastella | 2011-10-08 01:13 | アート

横浜トリエンナーレ

9月の上旬、横浜のトリエンナーレに行った。 

3年前の秋、新港ピアでのインスタレーションなどがわりとおもしろかった。

http://spinou.exblog.jp/10264922/ 

そこで 「直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。」となどと書いたが、少なくとも、エネルギーやテンションはあった。 

今回は、そのエネルギーも減っていた。

メインが新港ピアのかわりに横浜美術館。

なぜかというと、民主党政府の予算の「仕分け」で、国際交流基金から横浜トリエンナーレへの支出がカットされたからだそうだ、それでもトリエンナーレを救うために横浜市ががんばって美術館を提供したわけだ。

前回のタイム・クレヴァスに続くテーマは

Our Magic Hour

ということで、タイトルのセンスは相変わらずいい。

でも、どこか、ちょっと残念でしたね、と言いたくなるようなコンセプチュアル・アートがほとんどだ。

ハインのスモーキングベンチなんて、アトラクションパークにおいたら誰にも見向きもされないんじゃないか。

映像作品でじっくり見たのはシガリット・ランダウの「死視」で、死海に五百個のスイカと全裸のアーティストがぐるぐる巻きになっているのがほどけていく。
スイカのいくつかは割られていて、真っ赤な実が見えているのが鮮烈だ。数珠繋ぎの渦巻きがゆっくりとほどけていく具合を上から遠くながめていると、一種倒錯的な魅力にとらえられる。

観客が言葉を並び替えて参加できるノイエンシュワンダーの作品は、日本語のバージョンもあって、「シゴトガホシイ」などという文が残っていたりするのは「はっ」とさせられる。駅の掲示板みたいだ。ゴルゴ13への依頼が紛れているかもしれないな。

GPSをつけた人がホーチミン・シティや横浜などをひたすらランニングする軌跡をドローイングと映像作品にしたものもあった。こういうのは私には苦手。

日本では、他にももっと伝統的な絵画展もいくつか見に行った。工芸すれすれの油絵もあった。3・11以後にスランプになった後、猛然と製作再開したという人も少なくない。

一点一点では気にいったものもあったが、こんなことなら3年前のトリエンナーレのノスタルジー(母と行くつもりでいたのがその数日前に倒れて、私は結局葬儀の前に一人で訪れたのだった)にとらわれずに、練馬区立美術館の礒江毅展のリアリズムの洗礼をうけておくべきだった、と少し後悔する。

フランスの大統領選に向けた社会党内予備選挙では、オーブリー女史が文化予算を大幅に増やすと言い、この赤字財政の中でそんなことをいうのは無責任だとオランドが批判していた。文化の擁護とプロモートはフランスという国のアイデンティティに関わるものだから財政が苦しい時にこそ切り捨てないでほしい。
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by mariastella | 2011-09-29 01:38 | アート

クリプトビオシス(cryptobiosis)

金沢美大OBによる銀座での彫刻展の最終日に行って、終了後に作品が梱包されるのを見ていた。

私は絵画や写真の個展には関わるので取り外しのシーンも見るが、かなり存在感のある彫刻作品群が次々に台座から取り外されてしまわれて梱包されるのを見ていると、ショックだった。ついさっきまで、特別な空間を形成していたのに、ひとつずつ片付けられると火が消えていく感じになる。

そこで思い出したのが、

クリプトビオシス(cryptobiosis)という言葉。

有名なのはクマムシ。 

乾燥状態になると生命活動を停止して無代謝状態になるが、何年経っても、水分が補給されると復活して動き出す。

で、クリプトビオシスは「潜伏生命」。

梱包された作品群も、占めるべき空間を断たれ、見る人の視線を遮断され、いわば無代謝状態。

芸術作品が鑑賞されなければ、「作品」は残るが「芸術」は消える。

モノとしての芸術作品は、まさに潜伏生命だ。

あの梱包された作品(モノ)はまた開かれて誰かの視線に触れれば、復活し、愛でられれば芸術の命を発散し始めるのだろう。
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by mariastella | 2011-09-10 23:42 | アート

美とプロポーション Lucian Freud が死んだ

Lucian Freud が死んだ。

こういう絵で有名。

http://www.google.fr/search?q=lucian+freud&hl=fr&sa=X&biw=1280&bih=862&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=p9xYTvOKG6OimQWk3KSsDA&ved=0CCwQsAQ

Lucian Freudが数日前に亡くなったので、現存する画家で作品が最も高価に売れる人のランクが繰り上がることになる。

Lucian Freudと言えばエリザベス女王の肖像画、Lucian Freudと言えばジグムント・フロイトの孫息子。

すごく絵はうまい人だと思う。

でも絶対に言及されることを嫌っていた彼の祖父の名が、それこそサブリミナル情報のように、彼の全ての絵を性的な無意識界の表象のように見せてしまう。

それを言うのはタブーなのだ。

彼のモデルは全部彼の中で咀嚼され同化して、彼の無意識のフィルターを通して、くちゃくちゃとグロテスクなマチエールになって吐き出される。

でも、人間だけ、特に、裸の肉体だけが、贓物の再構成されたみたいないかがわしさを見せるのに対して、枯れた植物なんかは、昇華されたように美しい。たとえばこれ。

http://www.anglonautes.com/ill_paint/ill_paint_freud.htm

人間の裸は昇華の間逆だ。

枯れた植物は美しく見えるのに、肉体の解体と再構成には冒涜感が付きまとうのはなぜだろう。

近頃、向川惣一さんの博士論文『レオナルド・ダ・ヴィンチ-絵画理論とその原理に関する研究』を読んだ。

ダ・ヴィンチが、人体比例理論や線遠近法において幾何学的な作図システムを研究していたこと自体は、プラトンやピタゴラス学派と同じくイデアの世界に美を探していたからだと言えるだろう。

しかし、調和比例と黄金比の等比数列を同時に満たす『人体権衡図』の人体各パーツの比例による美というのは、果たして普遍性があるのだろうか。

それはルネサンスの頃のラテン人の基準かもしれない。文化が異なると人間の社会関係における美の評価が違ってくるのはよく知られている。日本の平安時代の引き目鉤鼻も有名だし、マサイ族とピグミー族ではプロポーションは明らかに違う。

人が円やら正多角形やらを美しく感じるのはかなり普遍的だし、顔や体のパーツの左右対称性を美しいと感じることもよく知られている。遺伝学的な説明もされている。

しかし、人間の肉体におけるプロポーションと美の関係には普遍的妥当性はないのではないだろうか。

また、たとえば数学者であるラモーが和声進行を数学的に理論化したこと、それをあらかじめ「知る」か知らないかで、音楽の受容=観賞の深度が天と地ほども変わって来ることと、絵画作品においてプロポーションの理論をあらかじめ「知る」ことの関係はどうだろう。

ダ・ヴィンチの絵を美しいと思うかどうかは、比例への感性の普遍性と関係するのだろうか。

では、ルシアン・フロイトは?

彼の描く超肥満の裸婦像の身体プロポーションは、勿論ダ・ヴィンチの「基準」を大きく逸脱する。

では、比例は別のところに適用されているのだろうか。

水墨画家に言わせると、水墨画における美を決める比率は白い部分と墨の部分にある。つまり面積比だそうだ。

明治の画家岡本月村(京都丸山派の流れ)が南画を修行した時の「模写」帖のコピーを彼のお孫さんからいただいたことがある。

人体について、勿論、骨格や筋肉の解剖学的アプローチはない。ではデッサンが不正確かと言うと、すばらしい。その訓練とはたとえばあらゆる姿勢の人体図をそのまま何度も写して描くことだ。うずくまる人間をあらゆる角度から、全体の塊として、膨大なプロトタイプをストックしておく。いつも、全体の塊としてインプットされる。子供の体もしかり。鳥の姿も。花も、木も。博物誌のようにあらゆる形や種類がひたすら模写される。

後は、どんな新しいものに出会っても、自分の中のストックから似たようなものを選び出してそのベースで描いていくので、新たな対象のパーツを「観察」する必要はない。選び出した「型」に対象の固有性のエッセンスだけ注入すればいいのだ。だから、速い。たちどころに読み取る。だから月村は優れた新聞画家でもあった。

その「美」はやはり、切り取られた「塊」をいかに配置するか、という比率にかかっているのだろうか。
色の濃淡を重さに還元してから徹底的に計算して色彩の面積比のバランスをとったクレーのような画家もいた。

視覚芸術と聴覚芸術において、比率や比例の意味するところや受容のされ方は大きく異なるが、それが受容する側にとってどの程度の「生理的快」に結びつくのかもまた変わる。

音楽におけるオクターヴやテトラコードの比率は物理的なもので、あらゆる文化に共通している。和声もある程度は共有できる。しかし、和声を永遠に繰り返される祈りのようなものから「解放」してそれにはじめと終わりを与え、「進行」の自明性を数式化しようとしたのが一神教文化の西洋にいたラモーだった。

一般に日本人も難なく音楽のグローバル化を受け入れるところから見て、そこにはある程度の普遍性がありそうで、現代音楽や前衛音楽が和声を否定し、調性から抜け出し、リズムを破壊したりすることによってなす挑発に対する忌避感もかなり普遍的だ。

それに比べて、絵画のほうはわりと簡単に抽象へ向かう。まず具象のテクニックを身につけて、それをだんだんと崩して、抽象にいたることが、何か一種の進化のように容認される。絵画が鑑賞者を浸蝕する力の方が音楽が鑑賞者を浸蝕する力よりも小さいから抵抗感がないのだろうか。

建築や彫刻のような三次元芸術との関係もある。

美はどこから来て、どこへ去るのだろう。
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by mariastella | 2011-08-29 20:52 | アート

Piss Christ とクラナッハ

先週の日曜は復活祭前の「枝の主日」で、イエスがエルサレムに入城してから逮捕、処刑、埋葬、復活するまでをたどる聖週間が始まった。 

信者が小枝を持ち寄って聖水をかけてもらう特別なミサの後で、アヴィニヨンで展示されていたAndres Serrano の有名な『Piss Christ』が、カトリック教条主義者たちによって損壊された。

十字架のキリスト像の写真を尿の入ったケースに入れたというこの作品を私は2008 年のポンピドーセンターでの『Traces du sacré』展で実見したことがある。
「冒聖」のコーナーにあって、アメリカでも展示禁止になったことがあるというこの作品をこうやって普通に展示できるのはフランス的だなあ、と好感を持ったのだが、今回は、アヴィニヨンの司教が「クズ」だと言ったこともあって、実際に壊した人たちが出たことに驚いた。

作品としては確かに泡立つようなオレンジ色っぽいものの後ろにぼーっと磔刑図が浮かぶもので、タイトルが明言していなかったら、それが尿かどうかなんて分からない。実際はどういう仕組みになっているのかよく分からない。

ケースが壊された写真を見て、

http://www.lepoint.fr/debats/piss-christ-l-art-et-la-provoc-22-04-2011-1322530_34.php

それがもろにキリストの顔を傷つけているのも皮肉だし、「中身」が出なかったのかと気になったりした。

これに対してフランス司教会議はすぐに「行き過ぎ」の行為を批判した。

他の意見としては、イスラムにまつわる「冒瀆」には戦々恐々としている社会がカトリックにだけは何でもありでリスペクトを欠いているのは公平ではない、とか、現代アートだの「表現の自由」そのものを聖なるものに祀り上げて、それを少しでも傷つけるのはアートや表現の自由に対する冒瀆だとして騒ぐのは矛盾しているとかいうのもある。

十字架像に汚物を注ぐというテーマは現代の人間がキリストに対してしていることを象徴しているのだと言う人もいる。

作者であるSerrano自身は、自分はキリスト教アーティストだと言い、冒涜や挑発の意図は一切ないと言っている。修道女であり美術評論家である人もこの作品が冒聖だとは思わないと言っている。

私はどうかと言うと、アートであろうとなかろうと、個人的に、糞尿とか血とかを見せつけられるのが嫌いなので(そう言えば虫の死骸をびっしりべったり貼り付けた作品などもあったっけ)、この作品がこのタイトルとセットになっている時点で好きではない。

でも、テーマとしては、罪なき救世主がよってたかって傷めつけられて十字架に釘打たれるという残酷刑を受けている時点で、もう十分衝撃的だと思うので、そこに糞尿が加わろうが、大したことはないと思う。

陰惨な磔刑図が普通に聖なるものとして受容されていること自体が驚きだ。

私がフランスに来て一番にみたいと思った絵の一つは、アルザスのクラマールにあるイーゼンハイムの祭壇画の磔刑図だった。ユイスマンスの影響もあるが、当時のペストの流行と言う背景を考えても、一体どうしたら、こんなにおどろおどろしい磔刑図が描けるのか、実際に見て考えたかったのだ。

その後、もっと古い中世のいろいろな磔刑図も見てきて、その素朴とも言えるあからさまな残酷さに驚かされ続けた。

復活のキリスト、栄光のキリストを図像に掲げる宗派の方が理解できるし、彼らから見たら、磔刑像そのものが冒聖ではなかろうかと思うほどだ。まあ、だからこそほとんどの使徒が、その場から逃げだしたわけで、「なかったこと」にしたかったのである。

そんなことを考えながらリュクサンブール宮にクラナッハ展を見に行って、また衝撃を受けた。彼は16世紀だが、その頃も、血まみれのイエス像への信心が盛んで、とにかく顔も体も血だらけのものが多い。

クラナッハと言えば、これも、グリューネヴァルトと同じコルマールでかなり見たわけだが、イメージとしては、真っ白で胸が小さく猫背で下腹が出ているような小児体型でどこか倒錯的で不健康そうな裸婦像が印象に残っていた。藤田嗣治の裸婦像と重なる部分もある。
クラナッハについては表現主義的な印象を持っていなかったので、女性像のプロポーションの悪さは何となく、古い人だからデッサンが「下手」なのかと思っていた。

実際は、すでに解剖学や遠近法などが浸透したルネサンスの人なのだから、「下手」は選択の結果だった。

今回のクラナッハ展を見ると、彼が肖像画の天才だったことが分かるし、「下手」なんてものではなく、相当な技術を持っていたのに、そもそもプロポーションやら写実を目標としていなかったということが、よく分かる。現代のコミック作家が自由なプロポーションでキャラを創るようなものである。

ルターと組んでプロテスタントのブロパガンダとしての宗教画シリーズもどんどん描いたし、同じテーマをカトリック相手には聖母と天使を付け加えて描いたりもしている。工房でのチーム製作とは言え、はっきりと個性のある作品の残存がなんと1000 点以上あるそうで、70点しかないデューラーなどとは異質のものだと言ってもいい。

彼はよく言われているようにデューラーのようになりたくてなれなかったというよりは、まったく違うロジックで製作していたのだろう。

独特の裸婦だって、当時の宮廷やブルジョワにはそれがエレガントだとして気にいられていたから量産したわけで、彼のデフォルメは、彼のスタイルとして認知されていたのだ。

その証拠に、極写実的なプロポーションの画もあるし、ゴルゴダの丘の三つの十字架につけられた三人の描き分けもはっきりしている。

イエスを罵った犯罪人が小太りで醜く、イエスに天国へ行くだろうと言われた犯罪人の方は痩せている。こういう風に描き分ける約束があったのだ。イエスはもちろん一番痩せている。

昔、「痩せたソクラテスになりなさい」と言った東大総長がいたことになっていた(実際は原稿段階のことで訓示からは削除されていたらしい)が、ソクラテスは痩せていたというよりがっちりしていたイメージだ(だからあわてて削除したのかもしれない)。

しかし、精神性と「痩せ」をセットにする傾向は古今東西あったのだろう。苦行としての断食が意志の強さや自己犠牲を連想させるからだろうし、浄化というイメージがあるのかもしれない(クラナッハの描くルターの肖像はソクラテス型のがっちり小太りの感じだが)。

それでも、クラナッハの時代に、女性像が豊満よりも貧弱な感じがエレガンスと見られたことはマニエリズム的でもある。

グリューネヴァルトとデューラーとクラナッハはよく並べられるが、表現者としてまったく違う意識を持っていたのだとあらためて知らされる。

それにしても、磔刑図や殉教図などの血まみれの宗教画を見た後では、Serranoの「冒聖」など、タイトル以外にはインパクトのない上品きわまるものに見えてくる。

なお、このPiss Christは破壊されたままの形で展示を再開されているそうだ。

破壊によってキリストの受難はますます真に迫ってきたのかもしれない。
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by mariastella | 2011-04-24 03:30 | アート

トリック・アート

 損保ジャパン東郷青児美術館の『トリック・アート』展。

 いつか本物を見たいと思っていた上田薫さんの食べ物シリーズを3作見た。
 写真をスライドにしてキャンヴァスに映して描いていくという手法の独特の触感は、それをまた写真で見ると、情念が失われる。実際に見てみると、その精緻さや触感より、寸法の大きさに驚く。実際の写真でこれほどの解像度を得られるということはないだろう。

 情念が失われる、と書いたが、この画家は感情的な要素や情念を排除して、いわばフェティッシュなものに徹底して不思議なパワーを狙っているのだろうが、画家が作品の上で排除したはずの情念は、作品の向こうにはっきり透けて見えるので、見ているものにその動きが伝わる仕組みになっている。複製だけではその「向こう側」は見えない。でも、一度本物を見た後で、その「向こう側」の印象を自分にインプットしておけば、複製を見ても表象記憶として湧き上がってくる。

 桑山タダスキーさんの「円」のように、これも、「純粋に機械的な絵画、完全に人間の情感を拭い去った画面を書きたい」という意図らしいが、やはり、逆説的に、そういう「意図」が拭い去ろうとした「情念」が、作品を前にすると、脈打って伝わってくる。

 最初に図版だけを見ると、意図は達成されている。

 制作は、ろくろに似た回転台の上でカンヴァスを回し、その上から絵筆を静止させ息を凝らすという機械的な方法で同心円の連なりを描いたということだが、作品という「境界面」を実際に前にすると、「息を凝らした」念が全部にじみ出てるのだ。こっちの「見る」視線によって顕在化してくるのかもしれない。

 「息を凝ら」さなくても描けるCGなんかでは、情感は多分、排除できるんだろう。少なくともランダム画像なら・・・

 同じ機械的な緻密な幾何学図形の連続技でも、桑原盛行さんの『群の光景』などでは、作者が自分でも驚いたというくらい有機的な感じがする。逆にこれは、複製写真でも有機的な感じがする。錯視画像と同じで、見ている側の有機性があらわに出て来るのかも知れない。

 しかし、これらの作家における、この「情感を排したい」という誘惑や志向はどこからくるのだろう。作品をニュートラルに、透明にしたい、それによって、作品のこちら側(制作)と向こう側(鑑賞)の間の垣根を取っ払って純粋な出会いだけを出現させたいのだろうか。

 福田美樹さんが、名画の中の一人物の視点から名画を描きなおすというシリーズもおもしろかった。単に二次元世界を三次元世界にしてその中に侵入するという楽しさだけではない。
 たとえば、ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』の聖アンナは、実は13頭身くらいでとてもデフォルメされているのだけれど、二次元ではバランスよく見えているというのだ。ミケランジェロの天井画なんかでも、上を見上げた角度とか天井の丸みによってデフォルメされる分を計算して、見た目にバランスよく描かれているが、実測すると非現実的だというのと同様だ。そういう、原画の二次元でのみ保たれているバランスを、三次元に入ることでどう処理するかというおもしろさがある。これをコンピュータが二次元画像をそれこそ機械的に取り込んで三次元に変換、処理して、幼児キリストからアンナを見上げさせるならば、かなり恐ろしいことになるのだろう。

 二次元の名画を三次元のオブジェ化して個人テイストで処理する森村康昌さんの世界はなじみだったが、やはり楽しかった。
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by mariastella | 2010-08-14 15:15 | アート

美術展覚書

 明日帰仏するので、日本滞在中のことを忘れないように少しメモっておくことにする。

 うちから比較的アクセスのいい美術館ふたつ。

 根津美術館。

 新創されてからはじめて行く。暑さにかかわらず、庭園も散歩した。それまで街中ばかりにいたので気づかなかった蝉の声が耳を刺す。新しいNEZUCAFEやミュージアムショップも楽しみ。

 八十一尊曼荼羅と仏教美術の名品『いのりのかたち』展。

 もっとも興味深かったのは、釈迦多宝ニ仏坐像。銅造鍍金。北魏時代、5世紀のものらしく、法華経見宝塔品にある釈迦と多宝という二つの如来が並んで座っている。

 如来像といえば両脇に脇侍菩薩を従えて中央に君臨しているというイメージだったので、膝を触れんばかりに仲良く座っているのが新鮮。

 多宝如来が、露出が少なくシンメトリックに下で手を組んでいるのに、、向かって右に座る釈迦の方は、左肩を衣で覆い、意味ありげに微笑みながら裸の右腕をⅤ字に曲げて、手のひらをこちらに向け、隣の如来の左肩に触っている。左手には何か持っている。そのしぐさは、「これが兄弟分の多宝如来です、よろしく」と紹介しているようでもあり、多宝如来も、「うんうん、そうなんですよね、よろしく」という表情で、意味ありげ。
 小さいのに物語が詰まっているようなレリーフで、とても気になった。

 山種美術館。

 こちらも最近広尾に引越しした贅沢空間で、オリジナルグッズも充実。

 『江戸絵画への視線』展。

 私は幕末から明治期に日本画が洋画化していく過程に10年以上前から興味を持ち続けてきた。
 パリ時代の山本鼎の調査を頼まれたり、京都円山派の流れの岡本月村の貴重な資料を、お孫さんからいただいたりしたご縁からだ。月村の娘さんは、上村松園の内弟子の岡本松香で、そのエピソードも非常におもしろかった。

 この『江戸絵画への視点』では、江戸時代からすでにさまざまなかたちで洋画の影響が見られていたことがよく分るのでおもしろい。

 展示の最後には、まさに、洋画の影響を受けて確立した明治以降の「日本画」コレクションの一部がある。私は個人的にも一時期日本画を習って、多少描いたこともあるので、好きな画家もたくさんいる。長生きしてくださったおかげで一応「同時代人」として新作に感動して来たヒーローは前田青邨さん安田靫彦さんだが、前田さんの86歳のときの小品『鶺鴒』があって、「たらしこみ」の手法の青い海を背景に一羽飛ぶ白い鶺鴒に見とれた。

 近頃、アート作品と接するとき、作品を通してアーチストの全歴史と環境、私自身の全歴史と環境(見ている瞬間の体性感覚を含む)をオンライン接続して鑑賞するというのを、意識してやっている。この方法は、複製では不可能だ。「生(なま)」だけが可能にしてくれる。その後は、その時にインプットされた印象を私の「全歴史」の部分に組み込んで、後で取り出せる表象記憶にしておくのだ。一度そうやれば、後は複製を前にしてもスイッチが入って、関係性を少しずつ変えることができる。

 今までは現物を見ることと、そのはかなさというか、それが結局「ただの記憶」になることとの落差をどう処理していいか意識しては分っていなかったのだが、この方法を訓練するとすごく楽しい。
 それには作品や作家についての情報が多いほど楽しくなる。その情報の眼鏡で見るのでもなく、自分の貧しい直感にたよって見るのでもなく。オンラインのダイナミックな地図を自分の中にだんだんと形成できるように見るのだ。音楽も同じで、「生(なま)」体験なしにはこの地図はできない。

 
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by mariastella | 2010-08-14 11:38 | アート

にゃんとも猫だらけ

 先日、秋のコンサートの会場の下見をするため京都に行った時、梅雨のさなかですごい雨だった。

 そのほかに、立体曼荼羅を見てどうしても確かめてみたいことがあって東寺に寄ったのだけれども、雨に濡れるとなんだか気が萎えて、立体曼荼羅を前にしてもじっくり観察する意欲が出てこなかった。

 だからその後もあまり動き回らなかったのだが、幸い、京都駅ビルのデパートに隣接した美術館「えき」というところで、私にぴったりの展覧会をやっていた。京都の駅ビルって、ここから一歩も出なくても、ミュージカルに行ったり各種ミュージアムに行ったり、買い物も飲食も宿泊もできるし、大好きだ。

 それは「にゃんとも猫だらけ」展と言って、歌川国芳を中心に浮世絵の猫を集めたものだ。

 すばらしい。

 猫好きには眼福の極みだ。

 国芳の猫は有名で知っていたけれど、こんなにあるとは。猫だけでなく猫をデザインした着物や扇子や小道具もいっぱい描かれている。すごくマニアックだ。

 他に、猫というと、藤田嗣治とか、コクトーとか、ピカソの猫の絵や、ジャコメッティの猫のブロンズも好きだけど、浮世絵の猫、いずれもすごい。

 美人画と組み合わされると、必ず、懐に入る、着物の裾にまつわりつく、裾の中にもぐりこむ、などの姿態が出てきて、なるほど、和服と猫は相性がいいと気づかされる。

 思えば、たとえば今から150年前を比べて、フランスと日本の美人画というか女性の肖像画には、表現に大きな差がある。様式の差もあるし、和服やドレスのような文化の差もあるし、髪型も、体型も、理想とされる美の基準も大いに違っただろう。

 しかし、猫は・・・

 今ジャパニーズ・ボブテールと呼ばれる尻尾の短い猫たちが浮世絵には確かにたくさんいるけれど、そして、ペルシャ猫やシャムネコ、シャルトルー、ノルヴェジアン風のはいないけれど、しかし、どの1匹をとっても、今のどの世界でも一発で理解してもらえる普遍的な「ねこ」がそこにいる。完全にインタナショナルだ。

 そのあまりにも優れたデッサンや表現力、ネコとヒトとの関係や愛情をとらえた様子、まったく古びていないどころか斬新そのもの。

 ネコを配してはじめて、その関係性の中で、逆に浮世絵の本質が見えてくる。浮世絵の「美人」たちが本当はどういう風に生きていてそれをどういう風に描かれたのかということが、普遍のネコを軸にして分ってくる。いやあ、おもしろい。猫たちのしなやかさ、柔軟さ、いたずら、ネコを前にした時の人間が「支配関係」「主従関係」の誘惑を逃れて、ひたすら、人間的にユーモラスになっていくところ。

 支配関係がないところでは人は真にユーモアを解する。

 私が行ったのは会期のほぼ終わり頃だった。 

 雨の日の、幸運。
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by mariastella | 2010-07-26 18:51 | アート

Wim Delvoye

 ベルギー人アーティストのWim Delvoye。

 この人の豚の刺青を見てると居心地が悪い。北京郊外の農場の三歳の豚を全身麻酔でレーザー刺青して、自然死を待って剥製にして展示するというのだから、化粧品の開発の実験に使われる豚や、生きたまま殺される食用豚よりも残酷な運命というのではないのだが。

 また、ダミアン・ハーストのように動物の遺体そのものをアートに構成するのと違って、生きながらアートの「場」に仕立て上げるのだから、抵抗は少なくてもいいのだが。

 このWim Delvoye(これで検索したらいろいろな作品が見れる)だが、日本語だとデルヴォワではなくてデルヴォイとなっていた。そして「笑いをとるのがねらいの折衷アート」という解説もあって驚いた。

 豚の刺青って笑えるのか?

 十字架をらせん状につないだDNAとか、ゴシック聖堂を模したトラクターとかは美しいと思う。

 デルヴォワに豚とおそろいの刺青を入れてもらったスイス人の背中の皮を「終身年金」払いで「購入」した若いドイツ人のコレクターがいるらしい。金を払い続け、スイス人が死んだ後で皮を遺贈される。まさか剥製にはしないだろうな。いやプラスティネーションの国だからあり得るかも。背中に傷つくような事故で死ぬとか年とって劣化したらどうするんだろう。写真を見ると、そのスイス人も若そうだ。

 この手のアートにはたいてい倒錯というより挑発という言葉が似合うのだが、デルヴォワの作品には、「聖なるもの」のアバターがあり、複雑な気分にさせられる。
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by mariastella | 2010-04-13 19:29 | アート

C'est toujours les autres qui meurent... (Marcel Duchamp)

  冬休みで練習やレッスンがなかったので、久しぶりに美術展などに行った。
 
  アラブ世界研究所のハリリ・コレクション展、ロダン美術館のマチスとロダンの彫刻(特にダンサー像)の比較展、最後にマイヨール美術館で C'est la vie! Vanités --- de pompéi à Damien Hirst という企画展。

 最後のものは完全に私のツボにはまるテーマだ。

 近頃のネオゴシック・ブームというか、若い女の子なんかが髑髏のアクセサリーをつけてるのにはすごく抵抗があった。不健康、不吉、縁起が悪い、というネガティヴ・イメージがある。若い頃はそういうものを偽悪的、挑発的に身につけても、年取ると死の実感やいろいろな記憶が重なって無意識に忌避したくなるのかもしれない。
 実際、アートにおける髑髏のモチーフは、ナチスのホロコースト発見のショック以来、ヨーロッパでは、かなりわだかまりがあったらしい。現実の残酷さの前でのアートの無力感とか、生き残ったすべての者の罪悪感とかがまざっていたようだ。それをねじ伏せて「死」をテーマにするのはピカソのゲルニカのように、かなりの腕力の持ち主の作品か、ユダヤ系アーティストによる告発の意味とか、政治色も免れなかった。
 その髑髏のモチーフが、アーティストの中で親密で深刻になってきたのは1983年の不治の病エイズが同定されて以来だそうだ。アーティストには同性愛者が少なくなく、エイズの犠牲者も多かった。彼らが死の恐怖と共に髑髏をモチーフとしたいろいろな作品が生まれている。その前にも、アンディ・ウォーホールは、死ぬことでスターは、スターになると言っていた。スカルの作品があるし、有名なマリリン・モンローのポートレートも、不吉といえば不吉なベースがある。

 しかし、ゴスロリなんて悪趣味だなあと思うその私は、自分の内部に髑髏を持って生きている。表に出れば「死」の象徴である髑髏は、「生」が中に詰まっていて外を覆っている限り、生の一部なのだ。

 この展示会のタイトルが「セ・ラ・ヴィ(これが人生だ)」というのもまさにそうで、怖いもの見たさで髑髏を眺める人々の目は、それぞれ、あの、髑髏の眼窩の闇におさまっている。
 
 メメント・モーリというのは、中世からルネサンスのお気に入りのテーマで、この展覧会でも、カラヴァジョ(しかしこの聖フランチェスコはあまりにもそこいらのおじさんすぎるなあ)やド・ラ・トゥールを見てると、迫力がある。
 ダミアン・ハーストというのは切断した牛をホルマリン漬けにしたりして「本物の死?」をアートに持ち込んだ人だが、ここでは、ダイヤで作った髑髏と、ハエの死骸で作った髑髏が、両方展示されている。前にTraces du sacré のテーマ展でもハーストの真っ黒なハエを無数に貼り付けた巨大タブローがあって、ムシ嫌いの私には悪夢の世界だった。ダイヤの髑髏(「神への愛のために」)とハエの髑髏(「死の恐怖」)を見ると、ダイヤの方は歯と顎があって笑っているし、ダイヤは富と美と恒久性のシンボルで、ハエの方はまさに死を樹脂で固めた顎なし髑髏で、あるのは暗い眼窩だけ、という感じだ。しかし、どういうわけか、ダイヤのより、ハエの方が、微視的には気味悪いのに、ずっと美しく見える。なぜだろう。

 ここの売店で、カタログといっしょに、Jacques Chessex の 『Le dernier crâne de M.de Sade』を買ってしまった。1814年に死んでシャラントンの墓地に葬られたサドは、1818年に掘り出されて、頭蓋骨がラモン医師の手に渡り、聖遺物のように守られた。そのあたりの話をテーマにした小説だ。面白すぎ。

 ともあれ、こういう展覧会を見てると、「聖なるもの」とアートの関係が無神論からカオスに行くのと似て、両義的であるのがよく分かる。アーティストが時として冒涜的な作品を創るのは、倒錯や侵犯の歓びもあるだろうし、秩序破壊の衝動もあるだろうが、神にとって代わりたい、唯一のクリエーターとして君臨したいという、独我衝動である場合もある。だとしたら、それはキリスト教世界のヴァリエーションだ。人間中心主義の情熱が、神の全知全能を自分に付与することだったりするのと似ている。神という概念がすでに人間の理想を投影したものだったのなら、神を殺してしっかりとフィードバックしたものが無神論や近代だったのかもしれない。
 
 時はすぎる、死ぬことを忘れるな。というメメント・モーリのメッセージは、そのまま、

 fugit hora, memento vivere

 と背中合わせになっている。時は過ぎるから、生きることを忘れるな、というわけで、carpe diem とも即つながる。この記事のタイトルに載せた「死ぬのはいつも自分以外の人」というマルセル・デュシャンの言葉も、そのままエピクロスみたいなものだ。

 今、書いているのは陰謀論と終末論の仕分け方みたいな本なのだが、私の場合、書き始めるころには、脳内ではすでに仕上がっているので、興味の中心は次に移っている。それは音楽の受容における関係性の問題で、特に、日本でのいわゆる「西洋音楽」に対するアカデミズムの謎を解いて、フランス・バロックが実は「西洋アカデミズム」からの突破口だったことを書きたい。西洋クラシック音楽にまつわる言説は、過去には政治の支配、今は金の支配を担保するための権力構造を持っている。「音楽の無神論」では、「偶像崇拝」がいかに権力的であるかに注目して、フランス・バロックやある種の日本の芸能において創る人、聴く人、演奏する人、踊る人が、クロスオーバーしていたことの意味を考えたい。

 で、そのためのシェーマなのだが、これを、美術作品とその受容、鑑賞と批評の世界に置き換えたら、すごーく分りやすいことがわかった。この「セ・ラ・ヴィ」展のようなケースは非常にすっきり分析できる。
 とにかく「西洋アート」と名のつくものは、絵画にしろ音楽にしろ、クリエーターと作品と批評家と受容者の関係が、創造神であるキリスト教の神とその啓示と仲介者である教会と信者との関係の拮抗とセットになって発展、変容してきた。それを踏まえるといろんなことがクリアーになる。
 絵画は分りやすいので、ほんとはまず絵画論で分析してから音楽論に行くべきだが、音楽のエピステーメーについてはすばらしい論考が周りにたくさんあって刺激的なので一度きっちり書いておきたい。

 このシェーマ、すごく単純なのでここにすぐ書きたいくらいのだが、書いてしまうと後止まらないので、また後日。
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by mariastella | 2010-03-04 21:20 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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