L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:アート( 72 )

Cima da Conegliano

行ってきた。

リュクサンブール美術館でやっている今週末で終わりのチーマ・ダ・コネリアーノ展だ。

その帰りにはRue Ferouを抜けてサン・シュルピス広場に出る。

この狭い通りの左側、昔は修道会で今は財務省の役所になっている建物の壁が延々と続くのだが、ここに6月14日から、のランボーの『酔いどれ船』の詩がぎっしりとペイントされている。

1871年、17歳のランボーはサン・シュルピス広場のカフェで初めてこの詩を読み上げたのだという。
その時には、この通りへと風が吹いていたに違いない、と、壁に書いてあった。
なかなかしゃれた試みだ。

私は5月の末にもこの広場にきて、1833年4月に若きフレデリック・オザナムが友人らとSociété de St Vincent de Paulを立ち上げた場所を訪れた。

この広場は若者に聖霊が降るところなんだろうか。

そういえば、そのランボーの17歳の有名な写真の表情は、チーマ・ダ・コネリアーノの有名な聖セバスチャンの絵の表情と似ている。


実は、このセバスチャンの視線に代表されるチーマの描く聖なる人物たちの「目つき」は、私をずっと離
れないものだ。

もとはといえば、チーマより少し前のメロッツォ・ダ・フォルリの有名な奏楽の天使というフレスコ画の中でリュートを弾く一人の天使の目つきが、ながいこと私から離れなかった。



この天使のポスターを20年くらいうちの音楽室に貼ってあったのだが、猫に破られて捨ててしまった。それからボヘミアバロックの天使の像のポスター(これは額でプロテクトした)に替えてからもうずいぶんになるのだが、メロッツォの天使の目はずっと私を見ていた。

正確にいえば、メロッツォの天使もチーマのセバスチャンも、多分「あっちの世界」を見ているので、私と目が合うのではないのだけれど、私には彼らの視線の向こうのものが射るように突きささっててくるような感じがするのだ。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと目を合わせてもそんな感じはしない。

チーマの絵では、裸の赤ん坊のイエスの目つきですら私を共振させる。

とくにこれ

 
なんでだろう。

チーマの聖母子像はたくさんあって、中には薄青のシャツの上から腹巻をした幼子イエスもあってかわいい。マリアのヴェールの下、頭に直接触れている布は、刺繍のしてあるものとか透けているものなどいろいろなヴァリアントがあって、透けているものはイエスの聖骸布を暗示しているという説もある。

そんな母子を、成人した洗礼者ヨハネだの天使だの、使徒や殉教者や後の司教など、いろんな人が取り囲む構図の「聖なる会話」といわれるテーマは、キリスト教世界における聖人のコミュニオンというものがいかに時代も場所も時系列もみなシャッフルしていつも「そこに生きている」ものだったというのがよく分かる。

しかもその中心人物であるイエスが赤ちゃんの姿でもOKというのが楽しい。

近くで見ると、とにかく絵が上手な人だ。

でも、チーマの絵は、繰り返されるその視線のせいで、いつも窓の外を見せられている気になるから、オブジェとしての絵のディティールとはまったく別のものと出会える。音楽と似ているかもしれない。風通しがいい。

サン・シュルピス広場の角で久しぶりにProcure書店にいった。

ここは誘惑が多いのでずっと避けていて、近頃は読みたい本は近所の本屋に取り寄せてもらったり通販で買っていたのだが、ここのキリスト教関係のコーナーに行くと、あらためて幸せな気分になった。面白い本が多すぎて、どれだけ読めるだろうという気持ちと、どれだけ紹介できるだろうという気持ちがわく。

人ごみの中にいても、私はあまり他の人の情報をキャッチしない。無意識にバリアをはりめぐらせているからだろう。でも、墓地に行くと、生きて死んで埋葬されている人々の渦巻く思いみたいなのがぎっしりみっちり濃密に感じられる。Procureの宗教書のコーナーに行くと、それに似た感じがする。聖人や神秘家の著作も多いせいか、やはり並々ならぬ思い入れがびっしりと重なってはりついているのだ。

興味深い本を8冊ほど買った。一応夏休みなので心ゆくまで読める。

追記) リンク先が開かないという指摘をいただいたので、教えていただいたものに変えます。私は基本的にフランス語の検索サイトで画像としてピックアップするんですが、コピペするとうまくいかないようです。すみません。画像のはりつけもいつもうまくいかないので、みなさん適当に検索してください。

で、画像の「目つき」を見ても情感が伝わらない、分からん、というご意見もあったのですが、私は、これに関しては、別に美術批評を言ってるのではなくて、なんだか分からないけれど、この目つきが私に何かを見せるような気になる体質というか、前世の因縁(!)というか、があるようです。はっきりいって、私はチーマの絵がすごく好きだとか、お気に入りの画家だとかいうのですらないんです。ただ、彼らの見ている何かに吸い込まれそうになるのです。

この展覧会では茨の冠をかぶったイエスの顔もあり、そのイエスもすごい視線なんですが、そして目がストレスで充血して血の涙まで流している壮絶なものなのですけれど、その目つきの方には私は反応しないんです。絵としてはすごいなあと思うんですが。このイエスが見てるのは多分、人間なんでしょう。

ああ、この画像もリンクしておきたい。


どうでしょうか。
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by mariastella | 2012-07-10 01:53 | アート

Troels Wörsel

Troels Wörselというデンマークのアーティストがいる。カタカナでなんと書くんだろう。

ポンピドーセンターにこの人の大きな馬の絵があって、すごく迫力がある。

http://www.cbx41.com/article-26338775.html

実はこの作品もいろいろな連作、習作になっていて、Troels Wörselの画像で検索したら写実的なものや、さまざまなトーンのものを見ることができる。

左向きの一頭の馬を真ん中で分けて背景によって味付けを変えたものだ。

「味付け」というのはこの画家が意識して使っている「料理する」という言葉にぴったりだ。

この馬のヴァリエーションは、調味料や盛り付けや付け合わせや食器をいろいろ変えてみたものだというのがよく分かる。

マチスにおけるアフォーダンスが「視覚」優先だったのに対して、Wörselは味覚に引き寄せているわけだが、右側の後半身がモノクロの「食材」状態で、左側に侵入した前半身が芳醇な味覚の至福に変身しているという感じが、オリジナルの前に立つとすごくよく伝わってきて、いつまでも眺めていたくなる。

おもしろい。
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by mariastella | 2012-06-13 01:23 | アート

Matisse : Paires et séries マチス展

ポンピドーセンターのマチス展が終わりに近づいたのであわてて行ってきた。この間から、忙しさにまぎれてたくさんの展覧会を見逃していたのだけれど、このマチス展と、リュクサンブールでやっているチーマ・ダ・コネリアーノ展だけは絶対に見たかったのだ。

Paires et séries、つまり、「ペアと連作もの」、マチスに特有の、同じテーマで同じ大きさの絵を何度も描き直す、というか、ヴァリエーションを研究したものを合わせて展示するという面白い趣向だ。

ラフな軽いものがじっくり描き込まれるものに変化するというのは分かるのだが、じっくり描いたものが、単純化していく作業の緻密さの方がおもしろい。

今回彼の室内画を並べてみて、フランス・バロック音楽との共通点を発見した。それは、mise en scène 演出、へのこだわりということだ。何をどう並べて再構成するか、「単純さ」さえ、実は考え尽くされたものなのだ。

こんなやり方を見ていたら、この人がもし、絵をデジタル処理できる時代に生きていたらそっちに走ったのかも…とまで思ってしまった。クリック一つで、色を変えたり、いろんな試行錯誤ができる。

実は同じ階でゲルハルト・リヒターの回顧展をやっていて、この人がまた、写真に特殊効果を与えて描くというデジタル処理の先駆みたいな人で、最近は実際にレーザープリントを使った作品をコンピューターで創っているのだ。

もっとも、マチスの「連作」も、リヒターの作品も、デジタルどころかずっしりとこだわりの手触りがアナログに伝わり、画家の気配というのが濃縮なので、たとえばウォーホールの連作だとか、他の画家のパロディ風の連作などとは全く違う。

また、下の階の近代美術館の常設展の方に、マチスの彫刻の裸の背中の連作が展示されているので、それも絶対に合わせて見るべきだ。何年も間をおいてレリーフが単純化していくのを見ると、色がなく、形とうねりだけが手触りと共に伝わってくるだけに、彼が絵に求めていたものがもっとはっきりと分かってくる。

連作で今回のマチスと同じような印象を受けたのは、バルセロナのピカソ美術館で観たベラスケスの模写のシリーズである。

その印象とは、ずばり、「アフォーダンス」だった。

これについてはまた改めて書こう。
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by mariastella | 2012-06-12 08:23 | アート

日本覚書 その1 美術館

日本でいろんなところに行ったので、忘れそうなので、後でまとめるために覚書。

建築的に面白いと思ったので、乃木坂の国立新美術館と水戸の芸術館に行った。

国立新美術館は、素材や形、外側と内側のマルチ空間の明るい構成、どれをとっても魅力的。黒川紀章最後の作品。ミュージアムショップも素敵なものがいっぱい。

15世紀フランドル絵画の博士論文執筆中のスタッフに大エルミタージュ美術館展を案内してもらった。

バロック・トリオのHと一緒だったので、18世紀ニコラ・ランクレの有名な踊るカマルゴ嬢を見つけて、二人でなめるようにゆっくり楽しめた。

日本に来た最初の週にHと彼の彼氏であるスコットランド人のLと一緒に二見浦に泊まって伊勢神宮にお参りしてきた。Lは浮世絵の収集をしていて、最初の1枚が夫婦岩だったので、どうしても見たかったそうだ。思ったより小さくて意外だったようだ。私は去年津波の映像を見すぎて、もう海辺の宿に泊まるのはいやだと思っていたのだが、彼らのおかげで、半世紀ぶりに二見浦に泊まった。

20世紀のマティスの前で皆であれこれ話していたら、フランス語でマティスについての論文を書いたという女性がいろいろ解説してくれた。「少女とチューリップ」は癒し、快復がテーマと言うのだが、私は少女のまなざしに、もう絶対に「回復」はできない失われた何かを見て気になった。それは、病によって失われたと彼女自身が思い込んだ彼女の幻想の「若い日々」かもしれない。

その後彼らと根津美術館に行く。春の陽光の下でのここの庭は初めてだ。

水戸の芸術館は写真ですごく気に入ったのだが、行ってみたら、前の広場に屋台みたいなショップがいっぱい出ていて、仮設舞台でにぎやかな演奏があって町内祭りのようなノリだったので、少しがっかりした。

現代美術ギャラリーでのゲルダ・シュタイナーとヨルク・レンツリンガーによるインスタレーション「力が生まれるところ」は私好みで楽しかった。横たわって鑑賞する「リンパ系」というインスタレーションが楽しいが、なんだか、やはり、こうしているときに地震が起きたら・・という一抹の不安が。水戸納豆も震災の後一時出荷停止になったと初めて聞いた。

付属のフレンチレストランはおいしかった。

ショップで、ここが出しているWalkという雑誌の2001年6月号の特集「『ダンスはすんだ』のか?』を買って読んだ。日本の現代舞踊協会についても言及されている。

今日の夕方は、「ティアラこうとう」に舞踊作家協会の公演を観にいく。70年代にかぶりつきで鑑賞したアキコ・カンダは、昨年亡くなった。今日は、彼女と同じ歳のヨネヤマママコさんも追悼のマイムをなさる。
93年にベルギーで企画して演じてもらった十牛の最後のシーンだ。彼女には、2003年に私たちトリオが公演したとき、プライヴェートコンサートで競演してミオンを踊ってもらった。もう一度一緒に演ってみたい。

芸術館の後、偕楽園にも40年ぶりで行った。地方都市って、流しのタクシーがほとんどなく、芸術館から歩いた。

被災して閉まっていた好文亭が修復されて今年再開したそうでちょうどよかった。昔行ったのは梅の頃だが、今はつつじが咲き始めていた。
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by mariastella | 2012-05-01 12:59 | アート

montreuilのアトリエ公開

パリやパリの近郊では、アーティストのアトリエ公開日を設けているところが少なくない。

私の住んでいる町でも、同じ通りに画家のアトリエがあり、プロの音楽家が住んでいるうちも何件かある。

公開日には、いろいろな場所でいろいろな人と話ができて楽しい。

パリ市内にはいわゆるアパルトマンの集合住宅がほとんどだから、アーティストには不便だ。金をかけて完全防音設備をつくったり、倉庫を全面的に改造したりする人もいるが、金のないアーティストには手が出ない。

モンパルナスやモンマルトルといったアーティストの町も、元はといえば、パリの外れであって家賃が安かったのでアーティストが集まった新興地域だった。

モントルィユは、パリに接しているが、移民も多くいわゆる治安の悪い町という印象だったのだが、なんと、パリを囲むイール・ド・フランス県で最もアーティスト人口が多く、前市民の8-10%を占めているという。

この週末には、600人のアーティストが参加して、公の会場やグループ展意外に174の個人のアトリエが公開された。市の配布する地図を片手にいろいろな所をめぐることができる。

http://www.montreuil.fr/culture/ateliers/

5月の末に私が海軍省で主催した東日本大震災チャリティコンサートに出席してくれた日仏カップルがいて、彼らから案内をもらって出かけた。

http://www.kojimoroi.com/

師井さんは私とほぼ同世代の人で、ほぼ同じ頃フランスに来た人で、時の流れを共有している感じがした。

シルクスクリーンの作品をいくつか購入。

一番気に行ったのは海の上を飛ぶ一匹の蝶々。

去年東京で見た山種美術館で

前田青邨86歳のときの小品『鶺鴒』で、「たらしこみ」の手法の青い海を背景に一羽飛ぶ白い鶺鴒の鮮烈さが脳裏に焼きついていたのだが、それが戻ってきた。

私のアソシエーションで、私たちの演奏のテーマと合わせた作品を新たに何か創ったり構成したりして、いっしょに何かしましょうという話になった。

アートの無償性みたいなものがはっきり見えている場所で新しいことを企画するのは本当に心躍るぜいたくだ。

ミオンの『精霊の踊り』で喚起される四代元素をテーマに何か構成してみたい。
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by mariastella | 2011-10-16 23:51 | アート

フラ・アンジェリコ

ジャクマール・アンドレ美術館のフラ・アンジェリコ展に行ってきた。

ここのところ展覧会を先延ばしにしていると見損なってしまったという例が続いたので。

有名な金箔の使い方は完全に工芸的な線刻やレリーフで、その細部の素晴らしさは、写真と実物との差がこれほど大きいのがめったにないくらいだ。金というのは、すごいマチエールである。

1月までやっているのでパリにいる人は必見。

彼がドミニコ会に入ったことに関して、当時の画家は、修道士でなければ同業者組合に所属しなくてはならないし、それはそれで徒弟制度などの人脈が複雑なので、修道士になるというのはアーティストとしての自由を確保するひとつの解決法だったのだということを知った。

修道士が絵を描くというより、絵描きが修道士のステイタスを獲得するのだ。

それでもフラ・アンジェリコは叙階までされたんだから、修道士になって宗教画ばかり描いてるうちに本当に「回心」体験があったのだろう。

子供の時から修道院で育ったようなフィリッポ・リッピのような人の放縦ぶりとは逆だ。(そのリッピの絵もあったが、彼の描く人物像のまろやかさは見方を変えるとマンガ風でもあり親しみやすさがある。性格も反映しているのかもしれない)

何しろ福者だし。

キリストの上半身のまわりに受難道具をちりばめた絵がひとつあって、上の方にはユダの接吻がある。その絵を私の後ろでながめていた老婦人2人が、左下の誰かの首を切っている人を見て「これはなんだろう」としきりに言っていたので、思わず「サン・ジュリアンですよ」と言ってしまった。確認していないけれど多分そうだろう。

キリストの受難には直接関係ないが、ジュリアーノ・メディチの守護聖人だからだろう。メディチ家が注文した絵には、一族全部の守護聖人がずらずらと出てくる。聖コジモと聖ダミアーノが殉教して首を切られている絵もある。

この二人は外科医でもあったので、医者の守護聖人で、メディチ家はその名の通り医薬関係の家柄が起源だから、「名」だけではなく「姓」の守護聖人にも気を配っているわけだ。

首を切られた殉教聖人たちの頭にも聖なる光輪がちゃんとついている。

逆に、光輪をつけた聖人が、こともあろうに他の人の首を切っているなんていかがなものか・・・ということで、老婦人たちは悩んだのだろう。

でも、聖ジュリアーノは、妻が密通しているのだと勘違いして、実の両親の首を掻き切ったのだから、殉教者を処刑したそこいらの役人よりも恐ろしい。そういう強烈な、ギリシャ悲劇みたいなキャラが、その改悛のすさまじさで人気聖人になったのだ。

フラ・アンジェリコは他にも聖ジュリアーノの絵を描いている。

もちろん、数々の聖母子像、聖母戴冠像もすばらしい。

聖母戴冠(と言っても聖母の冠にイエスが宝石を一つくっつけようとしている不思議な図柄のやつ)は、楽器を奏でる天使が珍しく後ろ姿だったり、背景がとにかく金色の後光ずくめなのに天使や聖人たちの群像の配置がすばらしく、ほんとうに天国を見ているようだ。

フラ・アンジェリコといえば独特の光が、光が、と強調されるが、デッサンも構図も天才の仕事だ。

メディチ家のような裕福な商人だの権力者たちが魂の安泰のためにこぞって美の製作に金をかけたというのは、非現実的なくらいに贅沢だ。
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by mariastella | 2011-10-08 01:13 | アート

横浜トリエンナーレ

9月の上旬、横浜のトリエンナーレに行った。 

3年前の秋、新港ピアでのインスタレーションなどがわりとおもしろかった。

http://spinou.exblog.jp/10264922/ 

そこで 「直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。」となどと書いたが、少なくとも、エネルギーやテンションはあった。 

今回は、そのエネルギーも減っていた。

メインが新港ピアのかわりに横浜美術館。

なぜかというと、民主党政府の予算の「仕分け」で、国際交流基金から横浜トリエンナーレへの支出がカットされたからだそうだ、それでもトリエンナーレを救うために横浜市ががんばって美術館を提供したわけだ。

前回のタイム・クレヴァスに続くテーマは

Our Magic Hour

ということで、タイトルのセンスは相変わらずいい。

でも、どこか、ちょっと残念でしたね、と言いたくなるようなコンセプチュアル・アートがほとんどだ。

ハインのスモーキングベンチなんて、アトラクションパークにおいたら誰にも見向きもされないんじゃないか。

映像作品でじっくり見たのはシガリット・ランダウの「死視」で、死海に五百個のスイカと全裸のアーティストがぐるぐる巻きになっているのがほどけていく。
スイカのいくつかは割られていて、真っ赤な実が見えているのが鮮烈だ。数珠繋ぎの渦巻きがゆっくりとほどけていく具合を上から遠くながめていると、一種倒錯的な魅力にとらえられる。

観客が言葉を並び替えて参加できるノイエンシュワンダーの作品は、日本語のバージョンもあって、「シゴトガホシイ」などという文が残っていたりするのは「はっ」とさせられる。駅の掲示板みたいだ。ゴルゴ13への依頼が紛れているかもしれないな。

GPSをつけた人がホーチミン・シティや横浜などをひたすらランニングする軌跡をドローイングと映像作品にしたものもあった。こういうのは私には苦手。

日本では、他にももっと伝統的な絵画展もいくつか見に行った。工芸すれすれの油絵もあった。3・11以後にスランプになった後、猛然と製作再開したという人も少なくない。

一点一点では気にいったものもあったが、こんなことなら3年前のトリエンナーレのノスタルジー(母と行くつもりでいたのがその数日前に倒れて、私は結局葬儀の前に一人で訪れたのだった)にとらわれずに、練馬区立美術館の礒江毅展のリアリズムの洗礼をうけておくべきだった、と少し後悔する。

フランスの大統領選に向けた社会党内予備選挙では、オーブリー女史が文化予算を大幅に増やすと言い、この赤字財政の中でそんなことをいうのは無責任だとオランドが批判していた。文化の擁護とプロモートはフランスという国のアイデンティティに関わるものだから財政が苦しい時にこそ切り捨てないでほしい。
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by mariastella | 2011-09-29 01:38 | アート

クリプトビオシス(cryptobiosis)

金沢美大OBによる銀座での彫刻展の最終日に行って、終了後に作品が梱包されるのを見ていた。

私は絵画や写真の個展には関わるので取り外しのシーンも見るが、かなり存在感のある彫刻作品群が次々に台座から取り外されてしまわれて梱包されるのを見ていると、ショックだった。ついさっきまで、特別な空間を形成していたのに、ひとつずつ片付けられると火が消えていく感じになる。

そこで思い出したのが、

クリプトビオシス(cryptobiosis)という言葉。

有名なのはクマムシ。 

乾燥状態になると生命活動を停止して無代謝状態になるが、何年経っても、水分が補給されると復活して動き出す。

で、クリプトビオシスは「潜伏生命」。

梱包された作品群も、占めるべき空間を断たれ、見る人の視線を遮断され、いわば無代謝状態。

芸術作品が鑑賞されなければ、「作品」は残るが「芸術」は消える。

モノとしての芸術作品は、まさに潜伏生命だ。

あの梱包された作品(モノ)はまた開かれて誰かの視線に触れれば、復活し、愛でられれば芸術の命を発散し始めるのだろう。
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by mariastella | 2011-09-10 23:42 | アート

美とプロポーション Lucian Freud が死んだ

Lucian Freud が死んだ。

こういう絵で有名。

Lucian Freudが数日前に亡くなったので、現存する画家で作品が最も高価に売れる人のランクが繰り上がることになる。

Lucian Freudと言えばエリザベス女王の肖像画、Lucian Freudと言えばジグムント・フロイトの孫息子。

すごく絵はうまい人だと思う。

でも絶対に言及されることを嫌っていた彼の祖父の名が、それこそサブリミナル情報のように、彼の全ての絵を性的な無意識界の表象のように見せてしまう。

それを言うのはタブーなのだ。

彼のモデルは全部彼の中で咀嚼され同化して、彼の無意識のフィルターを通して、くちゃくちゃとグロテスクなマチエールになって吐き出される。

でも、人間だけ、特に、裸の肉体だけが、贓物の再構成されたみたいないかがわしさを見せるのに対して、枯れた植物なんかは、昇華されたように美しい。

たとえばこれ。

人間の裸は昇華の対極だ。

枯れた植物は美しく見えるのに、肉体の解体と再構成には冒涜感が付きまとうのはなぜだろう。

近頃、向川惣一さんの博士論文『レオナルド・ダ・ヴィンチ-絵画理論とその原理に関する研究』を読んだ。

ダ・ヴィンチが、人体比例理論や線遠近法において幾何学的な作図システムを研究していたこと自体は、プラトンやピタゴラス学派と同じくイデアの世界に美を探していたからだと言えるだろう。

しかし、調和比例と黄金比の等比数列を同時に満たす『人体権衡図』の人体各パーツの比例による美というのは、果たして普遍性があるのだろうか。

それはルネサンスの頃のラテン人の基準かもしれない。文化が異なると人間の社会関係における美の評価が違ってくるのはよく知られている。日本の平安時代の引き目鉤鼻も有名だし、マサイ族とピグミー族ではプロポーションは明らかに違う。

人が円やら正多角形やらを美しく感じるのはかなり普遍的だし、顔や体のパーツの左右対称性を美しいと感じることもよく知られている。遺伝学的な説明もされている。

しかし、人間の肉体におけるプロポーションと美の関係には普遍的妥当性はないのではないだろうか。

また、たとえば数学者であるラモーが和声進行を数学的に理論化したこと、それをあらかじめ「知る」か知らないかで、音楽の受容=観賞の深度が天と地ほども変わって来ることと、絵画作品においてプロポーションの理論をあらかじめ「知る」ことの関係はどうだろう。

ダ・ヴィンチの絵を美しいと思うかどうかは、比例への感性の普遍性と関係するのだろうか。

では、ルシアン・フロイトは?

彼の描く超肥満の裸婦像の身体プロポーションは、勿論ダ・ヴィンチの「基準」を大きく逸脱する。

では、比例は別のところに適用されているのだろうか。

水墨画家に言わせると、水墨画における美を決める比率は白い部分と墨の部分にある。つまり面積比だそうだ。

明治の画家岡本月村(京都丸山派の流れ)が南画を修行した時の「模写」帖のコピーを彼のお孫さんからいただいたことがある。

人体について、勿論、骨格や筋肉の解剖学的アプローチはない。ではデッサンが不正確かと言うと、すばらしい。その訓練とはたとえばあらゆる姿勢の人体図をそのまま何度も写して描くことだ。うずくまる人間をあらゆる角度から、全体の塊として、膨大なプロトタイプをストックしておく。いつも、全体の塊としてインプットされる。子供の体もしかり。鳥の姿も。花も、木も。博物誌のようにあらゆる形や種類がひたすら模写される。

後は、どんな新しいものに出会っても、自分の中のストックから似たようなものを選び出してそのベースで描いていくので、新たな対象のパーツを「観察」する必要はない。選び出した「型」に対象の固有性のエッセンスだけ注入すればいいのだ。だから、速い。たちどころに読み取る。だから月村は優れた新聞画家でもあった。

その「美」はやはり、切り取られた「塊」をいかに配置するか、という比率にかかっているのだろうか。
色の濃淡を重さに還元してから徹底的に計算して色彩の面積比のバランスをとったクレーのような画家もいた。

視覚芸術と聴覚芸術において、比率や比例の意味するところや受容のされ方は大きく異なるが、それが受容する側にとってどの程度の「生理的快」に結びつくのかもまた変わる。

音楽におけるオクターヴやテトラコードの比率は物理的なもので、あらゆる文化に共通している。和声もある程度は共有できる。しかし、和声を永遠に繰り返される祈りのようなものから「解放」してそれにはじめと終わりを与え、「進行」の自明性を数式化しようとしたのが一神教文化の西洋にいたラモーだった。

一般に日本人も難なく音楽のグローバル化を受け入れるところから見て、そこにはある程度の普遍性がありそうで、現代音楽や前衛音楽が和声を否定し、調性から抜け出し、リズムを破壊したりすることによってなす挑発に対する忌避感もかなり普遍的だ。

それに比べて、絵画のほうはわりと簡単に抽象へ向かう。まず具象のテクニックを身につけて、それをだんだんと崩して、抽象にいたることが、何か一種の進化のように容認される。絵画が鑑賞者を浸蝕する力の方が音楽が鑑賞者を浸蝕する力よりも小さいから抵抗感がないのだろうか。

建築や彫刻のような三次元芸術との関係もある。

美はどこから来て、どこへ去るのだろう。

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by mariastella | 2011-08-29 20:52 | アート

Piss Christ とクラナッハ

先週の日曜は復活祭前の「枝の主日」で、イエスがエルサレムに入城してから逮捕、処刑、埋葬、復活するまでをたどる聖週間が始まった。 

信者が小枝を持ち寄って聖水をかけてもらう特別なミサの後で、アヴィニヨンで展示されていたAndres Serrano の有名な『Piss Christ』が、カトリック教条主義者たちによって損壊された。

十字架のキリスト像の写真を尿の入ったケースに入れたというこの作品を私は2008 年のポンピドーセンターでの『Traces du sacré』展で実見したことがある。
「冒聖」のコーナーにあって、アメリカでも展示禁止になったことがあるというこの作品をこうやって普通に展示できるのはフランス的だなあ、と好感を持ったのだが、今回は、アヴィニヨンの司教が「クズ」だと言ったこともあって、実際に壊した人たちが出たことに驚いた。

作品としては確かに泡立つようなオレンジ色っぽいものの後ろにぼーっと磔刑図が浮かぶもので、タイトルが明言していなかったら、それが尿かどうかなんて分からない。実際はどういう仕組みになっているのかよく分からない。

ケースが壊された写真を見て、

http://www.lepoint.fr/debats/piss-christ-l-art-et-la-provoc-22-04-2011-1322530_34.php

それがもろにキリストの顔を傷つけているのも皮肉だし、「中身」が出なかったのかと気になったりした。

これに対してフランス司教会議はすぐに「行き過ぎ」の行為を批判した。

他の意見としては、イスラムにまつわる「冒瀆」には戦々恐々としている社会がカトリックにだけは何でもありでリスペクトを欠いているのは公平ではない、とか、現代アートだの「表現の自由」そのものを聖なるものに祀り上げて、それを少しでも傷つけるのはアートや表現の自由に対する冒瀆だとして騒ぐのは矛盾しているとかいうのもある。

十字架像に汚物を注ぐというテーマは現代の人間がキリストに対してしていることを象徴しているのだと言う人もいる。

作者であるSerrano自身は、自分はキリスト教アーティストだと言い、冒涜や挑発の意図は一切ないと言っている。修道女であり美術評論家である人もこの作品が冒聖だとは思わないと言っている。

私はどうかと言うと、アートであろうとなかろうと、個人的に、糞尿とか血とかを見せつけられるのが嫌いなので(そう言えば虫の死骸をびっしりべったり貼り付けた作品などもあったっけ)、この作品がこのタイトルとセットになっている時点で好きではない。

でも、テーマとしては、罪なき救世主がよってたかって傷めつけられて十字架に釘打たれるという残酷刑を受けている時点で、もう十分衝撃的だと思うので、そこに糞尿が加わろうが、大したことはないと思う。

陰惨な磔刑図が普通に聖なるものとして受容されていること自体が驚きだ。

私がフランスに来て一番にみたいと思った絵の一つは、アルザスのクラマールにあるイーゼンハイムの祭壇画の磔刑図だった。ユイスマンスの影響もあるが、当時のペストの流行と言う背景を考えても、一体どうしたら、こんなにおどろおどろしい磔刑図が描けるのか、実際に見て考えたかったのだ。

その後、もっと古い中世のいろいろな磔刑図も見てきて、その素朴とも言えるあからさまな残酷さに驚かされ続けた。

復活のキリスト、栄光のキリストを図像に掲げる宗派の方が理解できるし、彼らから見たら、磔刑像そのものが冒聖ではなかろうかと思うほどだ。まあ、だからこそほとんどの使徒が、その場から逃げだしたわけで、「なかったこと」にしたかったのである。

そんなことを考えながらリュクサンブール宮にクラナッハ展を見に行って、また衝撃を受けた。彼は16世紀だが、その頃も、血まみれのイエス像への信心が盛んで、とにかく顔も体も血だらけのものが多い。

クラナッハと言えば、これも、グリューネヴァルトと同じコルマールでかなり見たわけだが、イメージとしては、真っ白で胸が小さく猫背で下腹が出ているような小児体型でどこか倒錯的で不健康そうな裸婦像が印象に残っていた。藤田嗣治の裸婦像と重なる部分もある。
クラナッハについては表現主義的な印象を持っていなかったので、女性像のプロポーションの悪さは何となく、古い人だからデッサンが「下手」なのかと思っていた。

実際は、すでに解剖学や遠近法などが浸透したルネサンスの人なのだから、「下手」は選択の結果だった。

今回のクラナッハ展を見ると、彼が肖像画の天才だったことが分かるし、「下手」なんてものではなく、相当な技術を持っていたのに、そもそもプロポーションやら写実を目標としていなかったということが、よく分かる。現代のコミック作家が自由なプロポーションでキャラを創るようなものである。

ルターと組んでプロテスタントのブロパガンダとしての宗教画シリーズもどんどん描いたし、同じテーマをカトリック相手には聖母と天使を付け加えて描いたりもしている。工房でのチーム製作とは言え、はっきりと個性のある作品の残存がなんと1000 点以上あるそうで、70点しかないデューラーなどとは異質のものだと言ってもいい。

彼はよく言われているようにデューラーのようになりたくてなれなかったというよりは、まったく違うロジックで製作していたのだろう。

独特の裸婦だって、当時の宮廷やブルジョワにはそれがエレガントだとして気にいられていたから量産したわけで、彼のデフォルメは、彼のスタイルとして認知されていたのだ。

その証拠に、極写実的なプロポーションの画もあるし、ゴルゴダの丘の三つの十字架につけられた三人の描き分けもはっきりしている。

イエスを罵った犯罪人が小太りで醜く、イエスに天国へ行くだろうと言われた犯罪人の方は痩せている。こういう風に描き分ける約束があったのだ。イエスはもちろん一番痩せている。

昔、「痩せたソクラテスになりなさい」と言った東大総長がいたことになっていた(実際は原稿段階のことで訓示からは削除されていたらしい)が、ソクラテスは痩せていたというよりがっちりしていたイメージだ(だからあわてて削除したのかもしれない)。

しかし、精神性と「痩せ」をセットにする傾向は古今東西あったのだろう。苦行としての断食が意志の強さや自己犠牲を連想させるからだろうし、浄化というイメージがあるのかもしれない(クラナッハの描くルターの肖像はソクラテス型のがっちり小太りの感じだが)。

それでも、クラナッハの時代に、女性像が豊満よりも貧弱な感じがエレガンスと見られたことはマニエリズム的でもある。

グリューネヴァルトとデューラーとクラナッハはよく並べられるが、表現者としてまったく違う意識を持っていたのだとあらためて知らされる。

それにしても、磔刑図や殉教図などの血まみれの宗教画を見た後では、Serranoの「冒聖」など、タイトル以外にはインパクトのない上品きわまるものに見えてくる。

なお、このPiss Christは破壊されたままの形で展示を再開されているそうだ。

破壊によってキリストの受難はますます真に迫ってきたのかもしれない。
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by mariastella | 2011-04-24 03:30 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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