L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:アート( 67 )

では、アート批評はどうなるのか

 この前の記事のNicolas Berdiaev は、キリスト教の啓示はすでに聖書にすべてを含んでいるのか、それとも新しい啓示はあり得るのか、ということについて、こう答える。

 聖書の中の啓示は、はっきりと顕れたものと、いまだ包まれたものとがあり、それをあらわにしていくのは人間の創造的精神による自由の行使に他ならない。

 これには終わりというものはないし、人の数だけ表現の多様性もある。
 この辺はいいのだが、いいのだが、しかし、Berdiaev は、その後で、次のように言ってしまう。

 真の宗教的クリエーションとは、キリストによりキリストのうちに精神を強くされる、法(戒律)の真実と贖罪の真実を成就する人間にとってのみ可能なのである。

 このBerdiaev このは、キーエフの貴族で、革命派だったのだが、最初はその社会民主主義的意見ゆえに北に追いやられ、ロシア革命後はパリに亡命した。
 
 いわゆる宗教芸術において、アーティストの信仰が大いに関係するのは分かるし、そのクリエーションを、神の啓示の継続と見るのも、まあ、納得がいく。
 それを「鑑賞する側」も、自分の人生における、あるいは自分の生きる世界における神の業を読み解くために、「鑑賞」によって、啓示に参加するというのも分かるのだが・・・

 宗教芸術においては、王道かもしれないのだが。

 でも、その「宗教」を共有しない異文化圏、異宗教、または無宗教の人による鑑賞はどうなるんだろう。

 私は昔『ユリイカ』(1996年1月号)で、バッハの音楽について、ミスティックな感性の持つシンボリックな力というものは、宗派のコンテキストを超えて普遍的であるというようなことを書いたことがある。
 
 それは、「こっち側」からの視点であった。
 どんな人間でも、生病老死の実存的条件を背負い、超越(=あっちの世界)を思いやる潜在的な動きがあるものだから、それが、育った文化や時代によっていろいろな形をとるとはいえ、共通する聖なるものへの表現になり得るという話だ。

 でも、出発点が、「あっちの世界」であれば?
 超越によるこっちの世界への絶え間ない自己表現と、それを受けたこっちの世界のアーティストがそれを「成就」させようとしているのであれば?

 ルネサンス美術の研究家である若山映子さんの

 『システィーナ礼拝堂天井画―イメージとなった神の慈悲』(東北大学出版会)

 については、また別のところで書かせていただこうと思っているが、この大力作を読み始めて、驚いた。

 普通、芸術批評、特にアカデミックな研究書というものでは、それがいかに「宗教芸術」であろうとも、批評家の信仰告白はまずなされない。もちろん、アーチストがどのような社会的時代的環境にいたかということは研究分析の対象になるし、たとえば図像学な考証というものは、不可欠でもある。

 日本のような国で、ヨーロッパのアートを云々する時は、これが結構盲点にもなっていて、たとえば、ある作家がどの国のどの時代のどういう宗教環境で育ったかということは無視されることが多い。確かに、作家の個人史を抜きにして、顕れている作品の部分だけを観察するというやり方もあるが、それは、背景となる文化や感性がある程度自明だとかいう場合が多く、意図して語らないのと、無知や無視とは別である。思想家や哲学者や、無神論者と自称する作家においてさえ、いや、無神論者であればなおさら、どの時代の宗教観とに摩擦があったはずで、その機微を理解しなければ、すっぽり抜ける部分がある。

 で、ミケランジェロの作品などは、当時のローマ教皇の依頼で書かれたものであるから、完璧な宗教芸術であるわけで、その批評的鑑賞というのには、本来ものすごい宗教的教養を必要とするのは言うまでもない。

 といっても、それを看過するのはまあ問題外としても、普通は、研究者が研究書を出す時は、少なくとも、そこに、その宗教に対する「自分の信仰」とかスタンスを前面に出さないというのが通例ではないだろうか。

 ところが若山さんのこの本は、まさに、Berdiaev のいうような意味での、「啓示の読み解き」なのである。

 システィーナ礼拝堂天井画のような作品を鑑賞するにはそれ以外のやり方はない、と Berdiaev には言われそうだ。しかも、それが、21世紀に生きる日本人女性による信仰告白なのだから、まさに、啓示の多様性と普遍性を象徴している。

 しかし、この膨大で緻密でそれでいて、信仰のたえまないフィードバッグにはっきりと裏打ちされている研究書について、宗教者の側からの感嘆の声も、研究者の側から反響も、少なかったらしい事実は、何を示しているのだろう。

 宗教者の側では、著者の信仰の密度に圧倒されてそれを受け止められなかったのか、あるいは、単に、美術鑑賞の基本スキルの差が大きすぎたのか。
 研究者の側では、「学問的」な「研究」に、個人の信仰告白をこれほどまじえた批評を前に声を失ったのか。それは「正論」の前での畏れでもあり、焦りもあったのだろうか。

 しかもこの本における、いろいろな解釈は、非常に歴史的、実証的、美術史学的、宗教解釈的な根拠に基づいているのではあるが、底に流れるのは、神の摂理に関する著者の信仰であり、確信である。

 それは、学問的な部分と、信仰の部分というのにとても分けることはできない不可分のものである。

 それを思うと、少なくとも著者やミケランジェロと信仰を共有しない人から見ると、「対等な批評の場が開かれていない」という気持ちを起こさせるものかもしれないし、共有するものにとっても、向かい合うには重すぎるものとなるかもしれない。

 ミケランジェロの時代の宗教と文化の空気の一部が今でもそのまま社会の空気の一部となって共有されているようなローマのような町でなら、この本の登場には違和感がなく、気負いも、警戒心も引き起こさないだろう。

 でも日本のように、私が『レオナルド・ダ・ヴィンチ-伝説の虚実』(中央公論新社)で書いたように、ダヴィンチもダン・ブラウンも各種陰謀説もニューエイジもノストラダムスも宗教ものや終末論もののアニメもゲームもマンガもみんな同じのっぺりとしたヴァーチャルな場所でひとからげに語られたり消費されたりされる場所では、この本は、多分、存在感が、ありすぎる。
 
 現在生きている一人の人間の人生の重みをかけて、宗教を通した現代社会への平和のメッセージもこめて、偉大な預言者としての芸術と芸術作品の読み解きによる「成就」を目指すという試みを、まともに受け取れる人がいるのだろうか。

 それは、日本語で何かを書くときの私自身のやり方とも全く反対方向である。
 つまり、あるアートがどんなに私個人の深いところに達して存在の根を揺さぶろうとも、それを批評の言葉にするためには、そこから、「個人」性やそれに基づく情動の部分をいかに削っていくかというのが、私が普段やろうとするやり方だ。
 それがうまく行けば、たとえ特定の「信仰の言葉」や「情動の言葉」を注意深く全部切り捨てても、なお、そこに残った「気配」が多様な他者の存在の根に触れるかもしれない。

 触れないかもしれない。

 それでも、触れない故に、ニュートラルなのっぺりした批評空間の片隅に無害な顔をよそおって残ることができるかもしれない。そしたら、そこで多様な他者と触れ合って、別のルートでやってきた別の啓示の「気配」を見つけることができるかもしれない。

 Souzenelle やBerdiaev の感性のことを考えると、若山さんが東方正教の諸美術をどう解読なさるのかに、とても興味がある。
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by mariastella | 2009-02-21 01:42 | アート

クリエーションと超越の関係

 アートとクリエーションとか、インスピレーションとか、超越や聖性との関係とかいうと、何か、見えないあっちの世界に天国的な何かがあって、こちらの世界でそれをキャッチできる霊能者的なアーチストがそれをこっちの世界で形にできるんだ、見たいな感じが伴いがちだ。

 実は、一神教におけるクリエーションとはその逆で、この世界のクリエーションという形でしか神は自分を表現できないというか、美とは完全にクリエートされた世界での現象である。

 ヴァレリーだったかが「もっとも美しいものとは永遠の中には姿を見せない」というのはそういうことだ。
 美しいものとは何一つ生命と切り離すことができないし、生命とは有限=死ぬもののことである。
 多くの人が美についてい抱く、何かある「不滅」の概念というのは、死との対称性によってのみ支えられる。

 Annick de Souzennelle が、Nicolas Berdinaev について書いてるのを読んで、啓示というのは、Extraordinaire(超常) に現れる出来事でなくて、 ordinaire(常) に現れるからこそ啓示なんだなあ、と思ったのとつながる。Berdinaev は、人間の創造的作品は、聖書によって啓示されるのではなく、人によって自由に顕されるのだ、と言う。

 偶像というと、人間の創ったものだからよくないよ、と一神教は思いがちだが、偶像を「神だ」と言い立てて、私利私欲に使う輩が出てくるからよくないので、偶像は、立派なクリエーションでもあり得るし、美でもあり得る。

 キリスト教は受肉だとか、三位一体とかで、この辺の一方通行をなくしたんで、Annick de Souzennelle なんかは、神が人になったのは、人が神的なものであるためだ、とすら言っている。

 神が天地創造しなければ、神は無限なので、自分の姿や自己というものがなく、自分を知りたい、見てみたい、という欲求に駆られてクリエーションしてしまったのだ、という言い方もある。

 こういう感じだと、地上のクリエーターは、別に、この有限の世界に捕らわれた囚人が永遠の世界に憧れて、そこからインスピレーションを受けて神的なものを創る、なんて思わなくても、ここにクリエートされた自分や世界そのものが、聖なるものの唯一の存在表現なんだなあ、と地に足をつけて、安心してクリエーションを続けていけばいいことになる。
 
 超越についてなんて、頭を悩まさなくてもいい。超常の地平に啓示を求めなくてもいい。

 こういう感性は結構、東方正教会的だなあ。

 昨日買ったPhillippe Sers の 『Verite en Art』 を読むのが楽しみ。

 
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by mariastella | 2009-02-20 23:54 | アート

Van Dyck の不思議

 最終日近く、ジャクマール=アンドレ美術館にようやくヴァン・ダイク展を見に行った。この美術館はニッシム・ド・カモンドと共に、なぜか、とっても落ちついて、前世で住んでたんじゃないかなあ、と思える場所なんだけれど、この寒いのにえらく込んでいて、道にまで列ができていたので驚いた。

 で、ヴァン・ダイクだが、今回は肖像画だけで、ドラマチックな宗教画はないのだが、かえってぞくぞくした。

 ヴァン・ダイクの描いたマグダラのマリアは、17世紀のバロック時代における一連のマグダラのマリアの絵画表現の出発となったものだと思う。
 彼なしには、たとえば、Nicolas Regnier や Claude Mellan の マグダラのマリアの表現は生まれなかった。マグダラのマリアのイメージといえば、それまでは、罪の女時代の肉感的なものと、苦行をした後の壮絶な姿に引き裂かれていたのが、Van Dyck は 一種 atemporel 非時間的なものを持ち込んだ。

 彼の描く貴族たちの肖像を見ていて、圧倒的な上手さにも感心するが、何にもっとも驚かされるかというと、elegance と arrogance の共存だ。
 
 エレガンスというのは、バロック時代のフレンチ・エレガンスの意味で、「もてるものを全部見せない、出さない、マキシマムを強要しない」という感じで、後のロマン派が垂れ流すような情熱や不安などは、抑制されて、人工的頭脳的に再構成されて提供される。

 アロガンスというのは、一種投げやりな横柄さ、尊大さ、傲慢さであり、一見すると、エレガンスと対極にあるんじゃないかと思うかもしれない。

 ところが、ヴァン・ダイクにおいては、この二つが自然にハーモニーをなしているから意外で味わい深いのだ。

 それが独特の elegance nonchalante を醸し出している。つまり、天然のゆったりした無頓着な感じを伴うエレガンスであり、末梢神経をくすぐるような緻密さは表に出てこない。

 このアロガンスがどこから来るのかといえば、画家にとってはその圧倒的な技量、技術、天才から来る。つまり、そのやすやすとした感じ、facilite から来る。
 そして彼のモデルとなる王侯貴族たちにおいても、その、貴族ゆえに浮世離れした生来のnonchalance が、自然な尊大さにつながるのである。

 チャールズ一世の表情にあふれるメランコリーはまるでこの人が清教徒革命でやがて処刑される運命を暗示しているかのように見えてしまう。しかし、その心もとない、胸を締めつけられるような哀しみの発露にかかわらず、王権神授を唱えた絶対君主の息子として生まれて専制を続けた「生まれながらの権力者」だけが持ち得るような、どこか投げやりで、人生を外側から見ているような冷たく尊大な非現実感がある。

 絵のスタイルのエレガンスと、画家の才能とその確信からくるアロガンス、そこに、モデルの王侯貴族の出自から来る独特の投げやりさをまとったアロガンスが加わって、ヴァン・ダイクの肖像画には、エレガンスとアロガンスが並び立つ。

 風味があって、冷たさまでが、いとおしい。
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by mariastella | 2009-01-25 04:00 | アート

横浜トリエンナーレ

 先月下旬、終幕近くに横浜トリエンナーレに行った。

 『タイム・クレヴァス』というテーマが刺激的だったのでわくわくしてたのだが、大きな物語はなく、単に「非日常」みたいな意味だったらしい。

 日本では「国際展」は、世界の一流アーティストを一堂に見られる、みたいな、オリンピックのような感じで「成功」したと見なされるのかもしれない。

 キュレーターとはオーガナイザーなのか、メタ・アーティストなのかという議論もあるが、参加アーティストに、もっとつっこんでテーマ性を要求したらおもしろかったのに。

 60年代からのハプニングとかフルクサスとかの回顧みたいな部分が多く、これじゃタイム・トラベルだなあと思った。60年代の前衛シーンはよく覚えているので、懐古気分にはひたれたけど。

 趣向が凝っているのが多くあって、たとえば、ロドニー・グラハムの作品なんかは、2006年の作を1969年作に見立てている。ジャガイモを銅鑼に向かって投げるパフォーマンスの映像も、わざわざ1960年代の服装で黒白映像を撮り、まさにタイム・スリップなのだ。本気で、1960年代の作品だと思って見てる人もいた。

 クロード・ワンプラーの「彫刻」は、白い台だけで、壁にかすかにシルエットみたいなのが見えるのだが、しかも、「時の彫刻」とか「無題」とか、「自分を食らうヴァンパイア」とか、会期中にタイトル進化してるみたいで、素材も詳しく書いてあり、後から確かめたのだが、音声ガイドでももっともらしく「彫刻」が解説されている。

 そして、その傍では、見えない彫刻をスケッチしていたり、コメントしあっている人がいる。
 私もはじめは、ある角度でないと見えないレーザー光線とかホログラムの映像なのかと思って眺めたのだが見えないので、じっと見ている女性に

 「私、見えないんですけど、どこにあるんですか」

 と間抜けな質問をした。すると、

 「いや、ここにあります」

 と真面目に答えられた。

 で、さすがに、これはジョン・ケージ作品みたいなパフォーマンスで、客の反応が作品になっているんだと気づいて、

 「あ、そういう風に答えろって、言われているんですか」

 とまた馬鹿な質問をしたら

 「いいえ」

 と冷たく言われた。

 芸大生だかのバイトなんだろうと思って、その後で通りかかった時もちらちら見たが、時々メンバーが変わって、いろいろな人が、見えない彫刻に手を触れるふりとかしていた。若者グループにもっともらしく解説する大人までいて、ヴァリエーションがある。一般客は遠巻きにして不思議そうに眺めるのだが、私のように「見えないんですけど」なんていう野暮な人はいないようだった。

 その後、新港ピアの会場に行った後で、またこの日本郵船倉庫会場に戻ったので、今度は遊んでやろうと思った。

 ほんとうは、その「彫刻」の前に行って、

 「なんて、グロテスクなんでしょう、これも、ショッキング指定(いくつかの作品はスプラッターみたいな血みどろ映像のために、不快感を与えるかもしれませんと注意書きがあったのだ。こういう、前衛アートのスプラッターも私は全然好きじゃない)すべきじゃないですか」

 と、デッサンしてるふりをしてるパフォーマーというかサクラに声をかけようと思ったのだが、そこはそれ、日本の上品な鑑賞者たちの前では、さすがに勇気が出ない。

 で、

 「あなたはこの作品のどの部分が好きですか?」

 と声をかけた。

 「え・・・そう、私はやっぱり、この・・お尻の部分ですかね」

 と美大生らしい女性が何もない空間を指して答えた。

 「ふーん、そうですかあ」

 と私は言って、その「お尻」に触れて撫ぜるふりをした。

 そして、耳につけた音声ガイドを指して、

 「いやあ、このガイドって、すごくよくできてますよー、このおかげで、見所がすごくよくわかりますよ」

 と言いながら、「彫刻」の周りをふるっとまわって見せた。

 あの女の子、きっと後から、音声ガイドを確認したに違いない。
 ガイドも決してネタをばらしてないんだけどね。

 新港ピアには大掛かりなインスタレーションがいろいろあったが、その多くは初日のパフォーマンスの残骸であり、こういうパフォーマンスとナルシシズムとの境界線が引きにくいこともあって、アーティストたちのの自己愛で腹いっぱいという気にもなった。

 もちろん、感心させられた作品もあったんだけど。

  1965年のNYの『カット・ピース』と、2003年のパリの『カット・ピース』を並べたオノヨーコはすごい人だ。 彼女の年齢と、立場と、時代と、NYとパリという場の差が興味深い。あれを見てると、NYでなくてパリに住んでることが嬉しくなる。

 5月に直島に行った時、直島で成功している、と思ったもの、つまり、その場でインスピレーションを得て制作するというような試みが、横トリでは、全部、ちょっとずれていた。

 直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。
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by mariastella | 2008-12-05 01:50 | アート

ピカソの展覧会に行く前に

  今、グランパレなどで大々的なピカソ展をやりはじめたので、ラジオでいろんな話をしていた。ピカソの子孫もいる。

 芸術上の天才には生前不遇な人も多いのに、ピカソは「天才」だと認知されながら長生きした。

 天才だと自称あるいは自覚している人の99%は天才じゃない、しかし、すべての天才は自分の天才を自覚しているんだそうだ。天才の自覚は天才の必要条件(充分条件ではない)らしい。

 しかし、ピカソは、一生、失敗作を恐れていたそうだ。

 天才とは、「人と違う=オリジナリティ」を別に目指すわけではない。しかし、先行する天才の偉大さに追いつこうとする野心がある。

 コンセプチュアル・アートの人は同じコンセプトで連作する。
 「人と違う」コンセプトを発見したらせいぜい使いまわすとも言える。

 でもピカソは、失敗をたえず恐れていた。
 実際多作の中には凡作もある。
 それがまた次のチャレンジにつながった。天才とはそういう道のりらしい。

 「人と違う人」というのは天才でなくても存在するし、当然それを自覚している。その孤独は引き受けるしかないものである。

 キュービズムなんかは遠近法の革命で、コンセプトというよりパラダイムの変換だった。

 バルセロナのピカソ美術館にはベラスケスの模写連作の部屋があり、あれを見ていると、天才のクリエーションへの「迫り方」とは何かが見えてきて実に迫力があるのだが、今回の展覧会は、ゴヤやグレコやマネやアングルやセザンヌやらへの迫り方も系統的に見せているらしい。

 1947年にルーブルでピカソ自身が、ドラクロワの作品とそれをモチーフにした自分の絵を展示するという試みをした。その時、「ドラクロワがあなたの絵を見たらなんというと思いますか」、と聞かれたピカソは、「気に入ってくれると思う、ドラクロワだってルーベンスにインスパイアされたんだから」と答えたそうだ。

 彼が過去の大画家の作品をモチーフにヴァリエーションを連作するのは、たとえていえば、偉大な演奏家が過去の偉大な作曲家の作品を、楽器を変えたりテンポやニュアンスを変えたり、解釈を変えたりしながらいろいろな演奏を試みるのにも似ている。

 ヴラマンクによるゴッホやセザンヌの模倣は全然違った。
 彼は「演奏」していない。
 彼は、自分で「作曲」しようとしたのだ。
 彼は「他の人と違う」自分があり、それを自覚していたので、ゴッホやセザンヌをモデルにして、その「違い」を表現しようとして、ある程度は成功した。
 でも、ヴラマンクは天才じゃなかった。
 ゴッホやセザンヌと比べてしまうと、その格差に愕然とする。

 ピカソは天才だったので、「演奏家」としても優れていて、それを血肉にして自分の作品も創ったのだ。
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by mariastella | 2008-10-10 22:23 | アート

ミュージアム

 今朝のラジオで一つ驚いたことがある。

 リヨンでプラスティネーションの展覧会があり、人を集めている、という話だ。

 これはドイツの誰かのテクニックで、人間の体に樹脂を注入して常態で保存した標本で、それを輪切りにしたりして、展示する。

 私は10数年前に、横浜のみなとみらいの中でこの「人体の不思議展」を見た。
 怖いもの見たさ、ののぞき趣味もあったが、何かシュールで、あまり怖くなかった。

 その後数年前に、東京で、中国で製作したという同種の展覧会を見たが、これはアジア人なので何かリアルで、どこかの強制収用所で本人や家族の許可なしに剥製にしたんじゃないかとか思えて気分が悪かった。

 で、この展覧会、アメリカのどこかでやったときに、倫理的なクレームがついたそうで、まあ、問題ないとなったらしい。ヨーロッパでもどこの国だかで、開催中止を呼びかける運動があったそうだ。

 私が驚いたのは、それについての解説が、アートはどこまで許されるかとか、アートと倫理というの問題だったからだ。プラスティネーションについても「アーティストは」なんたらとか、作品がなんたらとか言っていた。それで引き合いに出されたのが、先日も書いたが、サザビーズで飛びきり高価な値がついたDamien Hirst の作品だった。確かに、彼のも動物のホルマリン漬けなのだが・・・

 日本で、プラスティネーションの紹介やら解説の記事を読んだ時、それはアートだなんて語られていなかった。科学見世物、というか、科学展示会、で、見本市会場というか、よくても博物館展示という感じで、「美術展」とか、美術館とか、芸術とかの枠では議論されてなかったと思う。

 まあ、人間の臓器だの死体だのを展示して見る、ということ自体が際ものというか、冒涜的な感じなので、それを正当化して罪悪感を消すためか、啓蒙的、科学教育的なテイストと、新しいテクノロジーの価値とか、ことさら散文的なバイアスがかけられていた。アートであるかないかなんて切り口は私は知らなかった。

 これは、ミュージアムという言葉が日本語では美術館と博物館の2種類の訳があることとも関係する。博物館なら「科学的(歴史的も含む)」な価値のあるもの、めずらしいもの、がOKで、美術館には芸術的価値のあるもの、という合意がある気がする。

 ルネサンスのヨーロッパでは、新大陸からの文物はもちろん、キリンでもインディアンでも黒人でも肉体的ないわゆる「奇形」者でも、みんな「珍しいもの=価値あるもの」として、展示されたり、貴族やブルジョワが「Cabinet de curiosites」というコレクションにおさめたりした。

 こういうコレクションは、後の分類学とかの基礎ともなったので、好奇心といってもただの悪趣味ではなく、科学精神もあったわけだが、これが、キリスト教的な秩序や世界観におさまりきれない部分を収容していたのだろう。

 ミュージアムもほとんどは、個人のコレクションの発展したものだ。

 昨年はじめに上野の国立博物館でエジプトのミイラ展を見て、その時も、ミイラをCTスキャンして、中まで見せよう、というので、最新のテクノロジーが強調されていた。まあ、エジプトのミイラは考古学的価値や歴史価値もあって、人類遺産って感じはするから、それでOKだけど、どこの誰か分からない現代の中国人のおじさん、なんかが樹脂を注入されて縦割りされているなんて展示会は、考えてみると、どういう理屈をつけて「見せる」んだろう。

 確かに冒涜的な感じがするこんな途方もないものは、「科学」でなくて、「アート」とした方が、欧米では通りがよいようだ。
 「倫理に反する」というクレームも、ある意味で西洋的であり、それに対抗するには、「いや、科学的展示ですから」というよりは「いや、コンテンポラリー・アートですから」と言った方が通りやすいんだろう。

 では、あれは、アートだったのか?

 この意外な発想の違いはけっこう本質的な何かを秘めている気がする。

 聖人の聖遺骨の展示やコレクションの伝統が、ルネサンス以降も、偉人(学者・アーティスト・哲学者・政治家など)の遺骨だの体の一部の保存に変わって残っているヨーロッパというコンテキストとも切り離せないと思う。
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by mariastella | 2008-09-22 01:06 | アート

Fondation Cartier

 夏の終り(フランスでは秋分の日までが夏だ)の気持ちのいい日、Fondation Cartier と 先週教皇が講義をしたCollege des Bernardins に行った。両方ともカルチエ・ラタンから遠くなく、カルチエの美術館には中世の修道院をイメージした中庭(Theatrum Botanicum)がついているのもおもしろい。

 Cesarの展覧会だ。

 この美術館は環境展示の一種で、現代のアーチストが内部とぐるりの庭を自由にデザインできるようになっている。 Installation アートにも向いている。

 セザールは10年前に死んでいるので、この美術館の設計者でもある建築家 Jean Nouvel が、作品を選んで展示した。つまり、容れものの作者がセザールの作品で中をデザインした形になっているので、アーティストが場所を見てから考えるというのと逆になる。インスタレーションをするのは、建築家なのだ。

 たとえば、スイスで1996年にセザールが、地元の新聞720トンを6m四方くらいの型にはめて押し込んで五つ並べたインスタレーションを、今回のジャン・ヌーヴェルは、パリの新聞を押し固めたのを三つ並べて庭に置いた。

 それでも、それは、「セザールの作品」である。

 コンセプチュアル・アートとはこんなものかなあ。「仕様書」だけが作品なのか。

 セザールのコンセプトというかアイディアには三つの大きなシリーズがある。

 親指や手や乳房など体の器官を拡大したもの。
 どろっとしたジェル状の液体が垂れて広がるところを固めたもの。(Expansion)
 それから最も有名な compressions シリーズで、自動車なんかを潰したものだ。

 どれも、着色や大きさの変化と素材(親指をクリスタルやブロンズや大理石などでつくる)の変化で無限のヴァリエーションができる。

 親指は、手の彫刻の展覧会に自分の指のかたどりを出そうとしたらそれは彫刻とは認められないと言われて、pantographie を使って拡大したのがきっかけだという。
 コンピューターによる拡大とかできない時代だから、すごいテクニックを要したと思う。

 便器をおいて「泉」と題するのは、コンセプチュアル・アートといっても、コンセプトしかない。詩みたいなものである。

 しかし、「親指を拡大したものをいろんな素材で作る」というアイディアは、完璧なテクニックがあってこそ成立する。「下手」では、アイディアの強靭さが失われる。

 で、吉井秀文のボンド・アートと同じで、そのコンセプトそのものにアーチストの署名があるわけで、後は、他人がもっとうまく作成しても、その人は、エピゴーネンであるか、ただの技術者である。コンセプトに署名したものの作品なのだ。

 親指や乳房のコピーだと、セザールの作品であり(親指は彼自身の親指で指紋もはっきりしてるしなあ)、そこから抜け出るには、ロン・ミュエックみたいに全身を拡大しなくてはならない。全身拡大のリアリズムは、ハイパー・リアリズムでもあり、表情や姿勢つきの全身となると、コンセプトだけでなくデザインや演出もあるから、それはオリジナル性を獲得する。でも、他の人が違う全身像を拡大制作しても、それはロン・ミュエックのエピゴーネンになるだろう。

 そして、セザール作のたくさんの親指をどこにどうやって配するかは、ジャン・ヌーヴェルの「作品」である。この出会いは一期一会であって、今パリにいる人には一見の価値がある。

 自動車のスクラップを見ていたら、それが Desacralisation だというのがよく分かる。
 つまり、聖なるものの否定であり冒聖なのだ。
 自動車は普通スクラップになったところを見せない。
 それを見せるから、冒聖になる。
 美女の死体を野ざらしにして腐敗していくのを観察するような倒錯がある。
 美女なら、最初は美女だったという認識があり、腐敗によって美のはかなさが見えてくる。

 しかし、自動車が権力や金や文明や進歩などというさまざまな含意をまとう「偶像」であることは、それがスクラップになった時に、その全容を表すのである。
 冒聖によって、「聖なるもの」の喪失を知る。機能や外観の魅力やいろいろなシンボルごと見る影もなく押しつぶす「冒涜」が、我々が自動車や機械に聖性を付与していたことを痛みとともに悟らせるのである。汚された時にはじめて感知される聖性だ。

 逆に、親指だの、乳房だのという、ヒューマニズム的には「聖なる」ものであり、「自然」としても「聖性」を持っていそうな「体の一部」は、全体から剥離され、拡大されることで、ある意味で同じように冒涜される。官能的である。聖なるものを否定してるはずなのに原始宗教的ですらある。

 それに比べると、どろっとした流れや垂れを固めた作品は、時の封じ込めとか、マチエールの侵犯とか、存在のとらえ方で遊んでいるので、冒聖的な感じはない。

 昨日だったか、ロンドンのサザビーズで、Damien Hirst の作品が1億ユーロを超す売り上げを見せたという。この人は、動物の死体を丸ごと薬液につけてナチュラルヒストリーとかいって作品にしている。さすがに本物ではないが、妊婦や胎児を再現したりしてるのも、「冒聖」の系譜なんだろう。

 これにも技術力が要される。

 私の近頃考えているのは、芸術における「うまいか下手か」の問題であるが、コンセプチュアル・アートを腕力的で圧倒的な技術力で完璧に呈示する、っていうのは、それなりに敬服というか、センス・オブ・ワンダーを刺激される。
 技術力というのは神への挑戦なんだか、神殺しなんだか知らないが、見るほうも腹に力が入って疲れるぞ。きっと「自分の内なる聖なるもの」を守ろうという警戒心が生まれるのかもしれない。
 やっぱり「超越」感覚をいじられるかどうかが、アートを前にしているかどうかの基準なのかもしれないな。

 
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by mariastella | 2008-09-18 06:31 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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