L'art de croire             竹下節子ブログ

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オバマのハワイ里帰り

 オバマ大統領候補を育ててくれたハワイのおばあさんの具合が悪いというので、彼が48時間、選挙活動を中止してハワイへ帰るという記事があちこちで出ていた。

 この大事な時に、家族のために留守をするというのは、

 もう勝利は確実という自信がある、

 家族を、しかも目上の年寄りを大事にするという人間的な側面をアピール、

 などの理由があるかもしれないが、こちらで見るどの記事にもおばあさんと抱擁する彼の写真などが出ていて、そのおばあさんが典型的な白人だということが嫌でも目に入る。

 確か、アメリカでは70年代だかの知事選挙で、黒人候補にみなが投票したといっていたのに、蓋を開けたら落選したという事件があった。表向きは応援していた白人の中で、いざとなったらどうしても黒人に投票するのに抵抗があったということだろう。

 今は時代が変わったが、それでも、今のオバマ優先の空気の中で、やはり彼の肌の色への差別意識というのが消えたとは思えない。ヒラリー候補だって、女性差別主義者から明らかな嫌がらせを受けた。

 で、今回の選挙戦の最後の駄目押しに、オバマと白人のおばあさんの抱擁シーンをばらまいて、ほら、彼は白人の仲間ですよ、というサブリミナル情報を与えてるのかもしれない。

 そうだとしたらなかなかの戦略だ。

 ネット上のジョーク(?)にこんなのがあった。

 本当に差別がない社会が実現するのは、黒人女性のローマ法王が誕生した時だ


 というものだ。

 アメリカ、どうなるのかなあ。
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by mariastella | 2008-10-22 04:12 | 雑感

DSKのスキャンダル

 NYでIMFの専務理事をやってるDSK(ドミニク・ストロス=カーン)が、金融危機のこの時期に、もと同僚のハンガリー女性との浮気と彼女がやめたことについてスキャンダルを言い立てられている。

 浮気は去年のことで、彼はそれを認めた。

 アメリカでだからこうなったんだそうだ。
 フランスなら浮気の真偽を本人に問いただすという展開にはならない。

 「アメリカでは、公人が公共の場で嘘をつくのはモラル上の大罪だからだ」

 とフランスのメディアは解説している。

 アメリカはピューリタン的で性的パラノの国だから、とも言っている。

 夫人がコメントしなければならなかったのもアメリカならでは、だ。

 サルコジの女性経歴はお笑いだが、DSKはまったく反対のキャラなのに。

 夫人は、「どのカップルにも必ずあり得ることで、私たちにはもう終わったことです」

 みたいな発言をしている。ともに団塊の世代で、ジャーナリストの夫人は再婚だが、DSKは彼女とともに新たに生まれた、というくらい、強い絆だったみたいだが。

 「浮気」はひと晩だけだった、とかいうのも、何かかえって生々しくて嫌な感じだ。

 調査中で、女性の退職について、彼が退職に追い込んだとか退職の条件を有利にしたなどの事実が発覚すれば、DSKは辞任に追い込まれるそうだ。アメリカでIMFのトップで、今の時期に、フランス社会党からの大統領候補(党内選挙でセゴレーヌ・ロワイヤルにやぶれた)だった彼の手腕が期待されていただけに、彼の足を引っ張っているのは一体だれだろう、と詮索したくなる。

 しかし、そもそも、既婚の60年配の男が、要職について大事な仕事してるのに浮気なんかするなよ、とやはり思う。
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by mariastella | 2008-10-22 00:18 | 雑感

アメリカ大統領選の宗教ボキャブラリー

 夕べ、TVで、アメリカ大統領選と宗教についてのドキュメンタリー番組を見た。ベルギー制作でヨーロッパ目線なのだが、1人のイスラエル人がアメリカを旅して取材するロード・ムーヴィー風になっている。

 後で、ドイツ人、フランス人、アメリカ人などをまじえた討論があった。これを見てる平均的フランス人の視線がすごく分かる。アメリカのキリスト教はヨーロッパの16世紀以前のキリスト教じゃないか、とかいっている。驚きは日本人でも同じだろう。

 それは、

 なんだ、アメリカって全然「政教分離」してないじゃないか、


 などというレベルのものではない。

 
 こいつら、ほんとに、本気で、こんなこと信じてるのか?

 という感じである。

 「オバマは神が遣わせてくれた人」

 「神に選ばれた」

 なんて熱狂している。

 実際、候補者の演説もすごく宗教的含意に満ちている。

 フランスでは絶対あり得ない。
 その点では日本と同じだ。

 これまで、何となく考えてたのは、

 アメリカは神の国として建国したので政教分離がもともと無理、

 1960年代や70年代のリベラルの反動で宗教右派が台頭した、

 などというファクターだった。

 でも、昨日の番組を見て、はっきり分かったのは、

 ケネディからニクソンまでは、大統領選のディスクールのパラダイムが今とははっきり別だった。
 アイルランド系でカトリックのケネディは、当選するために、「政教分離」のパラダイムを創始せざるを得なかった。それは1960年から1976年まで機能していた。

 それがウォーターゲイト・スキャンダルで壊された。

 そこに登場したのが、政治の言説にモラルを導入したカーター(民主党!)である。
 「モラル」を担保したのが「信仰」だったのだ。

 後のブッシュ・ジュニアと同じ「ボーン・アゲイン」もそうだが、要するに、「神を信じているから自分は絶対に嘘をつかない」、と言ったわけである。(中絶だの同性愛者の結婚だのは、1976年にはテーマにはなっていない。それは当時マイノリティの意見で政治的でなかった。)

 それから、パラダイムが劇的に変わり、それ以来の候補者はみな多かれ少なかれ聖書の「預言者」として自己演出するようになった。宗教右派の原理主義的テーマは、後になってそれに利用されただけだったのだ。(今はそれが踏み絵のような肥大したファクターになった。)

 オバマの場合はキング牧師のイメージも使っているからすごく預言者的だ。
 黒人のブラック・チャーチは、もともと、教会が彼らの学校で病院で公民館の役割を果たしていたので、政教が切り離せない。オバマは意識してそれを利用している。

 で、実際、彼がどれだけ宗教的言辞を弄しても、中味は、かなりプラグマチックな人だろう。
 でも、大統領選の演説では預言者としてふるまう、これがもうお約束のレトリックになっているわけだ。とはいえ、よくもこれだけ聖書的せりふを振り回せるなあ。
 モスクでの取材もあったが、大統領選の「神」や「預言者」はみなユダヤ=キリスト教の神だから自分たちは居場所がない、と言っていた。

 熱狂してる人たちは、果たして、どの程度「演じて」いるんだろう。
 内心の虚実の具合を知りたい。

 経済恐慌のせいで、神懸り言辞よりももう少しリアリティのある言葉も最近は出てきたが、そもそも権力志向の政治家なんてほんとに神なんて信じているんだろうか。

 
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by mariastella | 2008-10-16 02:59 | 宗教

ネコの自由と安全

 今朝のラジオで猫論議をやっていた。

 猫マンガとか猫事典とか書いてる人たちの座談会だ。猫好きな人ばかりだから、聞くほうも馴れ合いの安心感がある。

 猫がヨーロッパに入ってきたのは、ネズミとともに、なんだそうだ。ネズミとペストが一緒に入ってきて、その解決策として猫が導入されたんだそうだ。

 黒猫が魔女とともに焼かれたのは、そもそも猫が尻尾を掲げて、尻を見せることが、性的だと見なされたので、娼婦や魔女と結びつけられたとか。

 猫を飼う人は自分の生活に「予見不可能性」を引き入れている。
 猫を飼う人は「自由」の価値を主張する人である。

 ふんふん、まあ、この辺は、猫好きのお約束の自己評価である。

 で、室内飼いの猫について。

 猫を室内飼いする人は、猫の安全を求めている、と言う。
 
 で、猫を放し飼いにしないで、家に閉じ込めることは「自由」の謳歌に反しないか。

 すると、

 「自由は安全を含む」

 から当然だという。

 うちには室内飼いの3匹の猫がいる。

 彼らのせいで家も家具もぼろぼろだ。

 しかも、猫は自由、独立のシンボルみたいなイメージがあるから、それを妨げているのではという罪悪感がいつもあった。去勢しただけでうしろめたく、一生の借りを作ったような気もした。

 でも、ずっと彼らとうまくやっていて、彼らが「いい感じ」なのは分かる。

 最初の猫は車に轢かれて即死した。
 次の猫はどこかで毒を撒かれて死んだ。
 喧嘩の傷がもとで死んだのもいる。

 3年以上生きたのはいなかった。

 いろいろあって、ついに、完全室内飼いに踏みきった。

 それ以来、一匹も死なない。
 
 13歳が1匹に、8歳が2匹である。

 家具は傷だらけで私の手や腕や肩や背中も傷だらけだが、彼らには傷一つない。

 毛並みはつやつやのぴかぴかで、肉球も赤ちゃんのようにぷよぷよ。


 だから私の選択が「間違ってない」とは思ってた。

 しかしいつも罪悪感がはりついていた。

 「自由は安全を含む」(La liberte inclut la securite.)

 と言われて、10年来の罪悪感が霧消した。

 彼らの自由をリスペクトするには、安全を提供してやらなければならない。

 危険があると分かっているところに、自由に、勝手に、さあ、どうぞ、と送り出すのは本当の自由のリスペクトではないのだ。

 自由と安全はセット。

 自由のために安全を目指し、安全のために自由を行使できなくてはならない。

 子供の教育とか国の安全保障とかについても、いろいろ考えさせられる。
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by mariastella | 2008-10-16 02:27 |

Les amants magnifiques

 いきつけの小劇場 Theatre du Nord-Ouest に、モリエールの『Les Amants magnifiques』を観にいった。

 今から年末くらいまでにパリにいる人、是非観にいって欲しい。

 あんまり観客が少ないんで気の毒だからだ。こんな良心的な上演がペイしないと、文化が貧困になってしまう。
 私は昔、6人から12人くらいまでのアンサンブルでいろんなところで弾いていた。中には、すごく客の少ないコンサートもあった。その時に言われたのは、「客の数が出演者の数よりも少なければ、出演者は上演を取りやめる権利がある」、ということだ。実際はそんなことは一度もなかったが、こっちが12人だと、思わず客の数を数えることもあったし、私がコンサートをオーガナイズする側になっても、サロン・コンサートなんかでお天気が悪くて7人しか集まらないことがあった。出演者は2人だった。まあ、そういう時に来てくれる人はモチヴェーションが高いし、密度も高いので、帰って充実して喜んでもらえることが多かったが、そんなわけで、小劇場で出演者の数と客の数を比べるのは癖になっている。

 で、今日の午後は客が私を含めて8人、出演者は13人である。だからすごく居心地が悪かった。しかもそれだけでも眼福って感じの「コスチュームもの」だ。私の他には年配の男性4人、中年の男性1人、中年の女性2人、みな単独客だ。なにしろ空いているのでバラバラに座っているからよく分かる。カップルで芝居を見物に来るのが普通のフランスではめずらしい。私は割引券を持っているので、13ユーロしか払わず、演出や照明や衣装など無視して単純計算しても、役者1人に1ユーロしか払ってない計算である。

 今シーズンはモリエールの芝居34作品の上演だ。この作品のように珍しいものが観られる。
 私にとってこの作品が絶対に見逃せなかったのは、リュリーの音楽にバロックバレーの振り付けがついていると思ったからだ。実際は、音楽は録音だったし、サラバンドなどの振り付けもたいしてバロック的ではない。というか、俳優たちは明らかにダンスの素養がない。
 
 でも、それはそれで悪くなかった。衣装が美しいこともあるし、劇中劇の設定がおもしろいからだ。それに、基本的に、16世紀以来のダンスの基本は poser しながら「歩くこと」である。かかとから、一踏みごとに体重をのせて、時間と空間をその度にたっぷり満たす。プリエやドゥミ・ポアントはそのヴァリエーションに過ぎない。ピョンピョンはねるのが民衆的なダンスから来てるとしたら、poser して、体の占める時空を移動させていくのが、領主や法官や聖職者の歩き方で、その発展形としての宮廷ダンスだった。
 女性の方は、poser というよりも、上半身のプレザンス presence が問題になる。足と腰にどうやって胸郭を乗せていくか、である。

 だから、poser と presence さえ成功すれば、音楽にあわせて歩くだけで、宮廷バレーは基本的に成功する。後は、文脈の問題だから、踊りのテクニックがなくても、それだけでは台無しになることはない。

 しかし、この作品が必見なのは、歴史的興味からである。

 これは、モリエールからリュリーに寵愛を移し、マドモワゼル・ラ・ヴァリエールからモンテスパン夫人に寵愛を移したルイ14世が、自分が愛人たちと踊るためにモリエールに書かせた舞踊劇なのである。ルイ14世、王妃、二人の愛人、王の弟、そしてモリエール自身も出てくる。モリエールがラシーヌだのコルネイユだのと決定的に違うのは、自分自身が役者で舞台監督だったことだ。この作品では、王や王妃たちが自分たちの役で出てくると同時に、劇中劇で踊ったり牧歌的な愛のコメディを演じたりする。
 散文劇のせいか、すごくリアルである。あの頃の、「恋愛作法」のややこしさと倒錯も実にリアルに伝わってくる。しかも言葉の力が強烈なので、大した話でもない恋愛シーンですら、それなりに迫ってくる。キャスティングもなかなかいい。衣装もいい。
 
 私は『バロックの聖女』(工作舎)の中で、ヴァリエール嬢とルイ14世の恋について書いた。この芝居が演じられた頃にはサンジェルマンの城で、ヴァリエール嬢はモンテスパン夫人と続きの部屋をあてがわれて、ほとんどいじめにあっていた。まもなく、修道院に入ってしまう。
 
 ルイ14世は、そういう時代にこういう劇を書かせて、その中で二人を出演させて、自分は劇中劇でモンテスパン夫人とキスするシーンもあるのだ。
 この劇の中心となる恋愛は、若い貴族の娘が二人の求婚者のどちらを選ぶか、それとも彼女にひそかに思いを寄せる将軍と結ばれるか、という話だ。それはそれで、この頃の恋愛の建前と本音がおもしろいのだが、どうしても、ルイ14世と二人の愛人とモリエールに目がいく。ルイ14世紀の時代に興味のある人にとっては、新鮮な光を投げかけてくれる作品だと思う。
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by mariastella | 2008-10-12 05:40 | 演劇

ピカソの展覧会に行く前に

  今、グランパレなどで大々的なピカソ展をやりはじめたので、ラジオでいろんな話をしていた。ピカソの子孫もいる。

 芸術上の天才には生前不遇な人も多いのに、ピカソは「天才」だと認知されながら長生きした。

 天才だと自称あるいは自覚している人の99%は天才じゃない、しかし、すべての天才は自分の天才を自覚しているんだそうだ。天才の自覚は天才の必要条件(充分条件ではない)らしい。

 しかし、ピカソは、一生、失敗作を恐れていたそうだ。

 天才とは、「人と違う=オリジナリティ」を別に目指すわけではない。しかし、先行する天才の偉大さに追いつこうとする野心がある。

 コンセプチュアル・アートの人は同じコンセプトで連作する。
 「人と違う」コンセプトを発見したらせいぜい使いまわすとも言える。

 でもピカソは、失敗をたえず恐れていた。
 実際多作の中には凡作もある。
 それがまた次のチャレンジにつながった。天才とはそういう道のりらしい。

 「人と違う人」というのは天才でなくても存在するし、当然それを自覚している。その孤独は引き受けるしかないものである。

 キュービズムなんかは遠近法の革命で、コンセプトというよりパラダイムの変換だった。

 バルセロナのピカソ美術館にはベラスケスの模写連作の部屋があり、あれを見ていると、天才のクリエーションへの「迫り方」とは何かが見えてきて実に迫力があるのだが、今回の展覧会は、ゴヤやグレコやマネやアングルやセザンヌやらへの迫り方も系統的に見せているらしい。

 1947年にルーブルでピカソ自身が、ドラクロワの作品とそれをモチーフにした自分の絵を展示するという試みをした。その時、「ドラクロワがあなたの絵を見たらなんというと思いますか」、と聞かれたピカソは、「気に入ってくれると思う、ドラクロワだってルーベンスにインスパイアされたんだから」と答えたそうだ。

 彼が過去の大画家の作品をモチーフにヴァリエーションを連作するのは、たとえていえば、偉大な演奏家が過去の偉大な作曲家の作品を、楽器を変えたりテンポやニュアンスを変えたり、解釈を変えたりしながらいろいろな演奏を試みるのにも似ている。

 ヴラマンクによるゴッホやセザンヌの模倣は全然違った。
 彼は「演奏」していない。
 彼は、自分で「作曲」しようとしたのだ。
 彼は「他の人と違う」自分があり、それを自覚していたので、ゴッホやセザンヌをモデルにして、その「違い」を表現しようとして、ある程度は成功した。
 でも、ヴラマンクは天才じゃなかった。
 ゴッホやセザンヌと比べてしまうと、その格差に愕然とする。

 ピカソは天才だったので、「演奏家」としても優れていて、それを血肉にして自分の作品も創ったのだ。
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by mariastella | 2008-10-10 22:23 | アート

踊り脳

 科学雑誌を読んでいたら、「踊り脳」の分析があった。アメリカとカナダの研究だ。
 実に興味深い。脳の部位の日本語訳を確認していないんでここでは詳しく紹介しない。
 
 普通は、音楽が先にあって、つまり、聴覚刺激があって、それにあわせて体が動くのが踊りだと思いがちだが、多分、体の動きが音楽の起源なんだという。

 すごい発想の転換だなあ。

 まあ、鳥の鳴き声とかは昔からどこでもあって、そのメロディー性はとらえられていたと思うけれど。それよりも歩いたり呼吸したり心臓の拍動とか、体の固有のリズムが先に自覚されていて、「体で拍子をとる」というのはヒトに固有なんだそうだ。脳内メトロノームがある。「リズム=命」である。

 脳のスキャナーに入った人に、タンゴの音楽を聴かせてそれにあわせてある足の動きを思い浮かべて足の筋肉だけ緊張させてもらう、スクリーンの上で足をすべらせてもらう、それを音楽なしで自分でリズムをとったのと、音楽にあわせたのとを比べる。

 などいろいろな実験があるのだが、要するに、筋肉に命令する運動神経系と、自分の空間の位置をフィードバックするシステムと、体内メトロノームと、聴覚が複雑に絡み合っている。音楽が入ったほうが血流が増える。

 また、自分の踊ることのできるダンスを見るときは、あるいは、自分の踊ることができる音楽を聴くときは、運動のイメージが喚起され、視覚や聴覚が身体感覚になる。

 これは、クラシック・バレーのバレリーナに、南米の民俗舞踊を見せた時とクラシック・バレーのヴィデオを見せた時、あるいはそれぞれの音楽だけ聴かせた時、逆に、民俗舞踊の踊り手にクラシックバレーのヴィデオや音楽を聞かせたりして、脳の動きを調べた観察結果である。

 私がフランスバロック音楽がダンスのために捧げられたこと、フランスバロックを聞くときは、体を「動く固まり」として緩やかに動かしながら聴いてほしいこと、などを日頃言っているのともつじつまがあう。

 私は、たとえ下手でも、誰でも楽器や踊りを少しでも習えば、鑑賞のレヴェルが上がり、世界が広がり楽しみが倍増するといつも思っている。自分でも、多少とも自分で弾ける曲とか、踊れる曲とかを見たり聴いたりすると、全然知らないものと違う見方や聞き方になると気づいている。どこかでたまたまフレージングがリスペクトされたバロック音楽が流れていると、耳でそれを意識するより先に、身体感覚としてキャッチしていることもよくある。音が脳の聴覚を処理する部分に行き着く前に、身体感覚の方に情報が回っているのだ。

 何も、すごく上手な踊り手や弾き手になれなくてもいい。いや、一時期熱心に習ったという記憶だけでもいい。ミラーニューロンが刺激されて、体が「知っている」という感覚を呼び起こされて、動きや空間で、踊りや音楽をつかむようになる。

 フルート吹きは、オーケストラのフル演奏を聴いても、フルートのパートだけがはっきり別に聴こえてきたりするし、いわゆる絶対音感のないギタリストでも、ギターに関しては、あるいは自分の楽器に関しては絶対音感を持っている。

 私たちは「リンゴ」と言われると、リンゴの聴覚映像が浮かぶ。紅いか黄色いか、甘いかすっぱいか、大きいか小粒か、いろいろあるだろうし、リンゴの肌触りとか味とか、リンゴにまつわる思い出とか、いわゆるクオリアという質感もあるだろう。気候や文化によっても違うだろう。

 同様に、たとえば、私たちが「モーツァルト」と言われる時に喚起されるのは何だろう。いや、モーツァルトの何々という曲、と限定してもいい。
 楽譜だろうか。音符だろうか。出だしの音だろうか。ある音楽会の光景だろうか。発表会の思い出だろうか。

 モーツァルトの「オリジナル」というのはどこにもない。楽譜は楽譜に過ぎないし、あらゆる演奏は interpretation に過ぎない。

 この点で、たとえば、絵画作品なんかとは違う。絵画作品なら「オリジナル」があるし、「ダヴィンチのモナリザ」と言えば、思い浮かべるモデルもある。抽象的なリンゴよりも共通点がありそうだ。そして、モナリザを鑑賞するのに、模写した経験はなくても関係ない。模写したことがあれば、見方や見る角度が変わってくるだろうが、鑑賞において身体感覚とかミラーニューロンとはつながらない。古典小説を読む時も、別に、原稿用紙にペンをカリカリ動かしてとか巻紙に筆で書いて、とかいう真似事をしても、小説の内容とは特につながらない。

 ところが、能のような古典芸能の鑑賞となると、仕舞や謡曲を少しでも習ったことのあるのとないのではすごく違う。

 見るだけではだめみたいだ。

 これも、クラシックバレーの男と女のバレリーナで実験したそうだ。一緒に踊るので互いに互いの動きを熟知している。にもかかわらず、音楽やヴィデオを見せたり聞かせたりして脳を観察すると、プロプリオセプションとして体が反応するのは自分の踊るパートだけなんだそうだ。

 まあ、個々の動きでなくとも、息の継ぎ方とか、動きのタイミングとか、バランスのとり方、体重のかけ方とかだけでも反応するんで、とにかく初心者用のレパートリーの一部を入門程度でも、一度でもかじったことがあれば、音楽や踊りを「体の場」に取り込むのは可能だ。

 慣れもあるので、ある楽器の奏者やある踊りのダンサーは、異種の楽器やダンスに遭遇しても、楽にバリアを取り払える人も多い。可塑性を大きくするコツみたいなのもある。

 精神も同じだけれどね。

 そういえば、パーキンソン病は、踊りの実践によって、症状を軽減したり進行を遅らせたりできると、この記事に書いてあった。やはり、踊りと音楽に関する脳の血流の関係らしい。

 マンガ家のごとう和さんが、結構激しい民謡をやることでパーキンソン病が軽くなったという体験マンガを書いてたのを読んだことがある。彼女は、踊ることで高揚してドーパミンが出て気持ちが上向きになるからかもと言っていたが、もっと具体的な根拠があるみたいだ。覚えとこう。

 しかし、機械論的な体の研究と、それについて「考える」心の研究との間の乖離は、デカルト、マルブランシュ、ロック、バークレー、リード以来、あまり解消してない。聴覚や視覚など体と心を繋ぐ橋としての知覚現象も、体と心のアイデンティティに未だうまくつながっていない。
 
 「音楽を生んだのは体=踊り」ってのはいいヒントである。

 
 
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by mariastella | 2008-10-10 01:16 | 踊り

ラモー

 私のトリオはCh=L.Mion の発掘、紹介を目的とするものだが、当然ラモーも弾く。モンドンヴィルやデュフリーのチェンバロ曲もやるが、ラモーはミオンと同様、基本的にオペラ曲の管弦楽譜を全部3台のギターに移したものである。フルートやヴァイオリンでは何ということもないパッセージがギターでは超難しいのでテクニックも要求される上、解釈の問題、3台の楽器ののシンクロなど、なかなか大変だ。しかし、中にはものすごくギタリスティックな曲もあり、その音色のピュアさの贅沢さは代えがたい。
 ラモーの曲は難しいし、ひどく頭脳的な脳内楽園である。今のバロック・オーケストラではさすがにひところのようなロマン派風の演奏はないけれど、指揮者と楽器奏者がぴったりあっていることはなかなかないし、踊り手の体の落としどころ、みたいなものも感じられない。まあ、デフォルメせずに無難に弾けばラモーのエクリチュールが際立ってくるんで一定の水準には行くのだが。

 一昨日の練習でゾロアストルのパスピエをさらった。
 ラモーの天才は際立つ。クリエートというのはこういうことだ。
 全然怖がっていない。
 何にインスパイアされているのか。
 一定の約束事や秩序に従って部分を並べていくということは全然していない。
 編集という手続きが一切ない。
 ただし、彼のインスピレーションに乗れないと、ちょっと外すだけで、雲から転落する。

 Hが、4月に私のアソシエーションでやった展覧会でのミニコンサートで弾いたラモーをYoutubeに載せていた。

 Les Indes galantes から、Entree de la suite d’Hebe である。
 クリックするとその前後にもラモーがひしめいているので楽しい。
 これは3拍子である。何たる3拍子。

 若さへの賛歌でもある。再構成された若さはピュアで脆弱で生で薄っぺらい。でも、その薄っぺらさは薄氷であり、支える堅固な冷たさに支えられている。一皮むけばそれ自体が消える薄っぺらさではなく、そこから転落すれば永遠に届かなくなる薄っぺらさだ。

 下にアドレスをコピーしておこう。

http://www.youtube.com/watch?v=6R0rnMVR11Y
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by mariastella | 2008-10-09 22:57 | 音楽

教条的ディスクール

 朝起きたら、自分のサイトの掲示板に投稿があったというメールが来ていた。

 「哲学・宗教質問箱」だ。

 「ラザロ」さんの「愚かな金持ち」という投稿だ。

 キリスト教関係の掲示板化してるので、そういう言葉に反応して送られてくるスパムの一種だろう。質問箱の趣旨に合わないということで、このサイトを管理してくださっているスタッフが消去してくれるだろう、それとも自分で消しとこうと思ったが、一応読んでみた。その後消されるかもしれないので、ここにコピーしとく。



  イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。


 以上だ。

 別に異論はない。

 「イエスの口から出た言葉」だって、文脈を無視して切り取られてぽんと出されたら、かなりへんなものだってあることを思うと、この言葉は、まあ納得できる。

「富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」

 という部分は、まあ、富んでいる人や、満腹してる人、笑っている人から見ると「大きなお世話だ」と思われるだろう。


 でも、この警告だのアドヴァイスは、パウロの『テモテへの手紙1』の6章からの抜き書きみたいなものでなっている。パウロと福音宣教の志を同じくするテモテへの言葉だからこれでいいので、「神の人」という自覚のない人に突然突きつけられても、違和感あり過ぎかもしれない。

 まあ、近頃はサブプライム金融危機とかネオリベ市場主義の崩壊、のようなご時世なので、これを読んで、「なるほど、投機による『欲張り』は行き過ぎると罰が当たるなあ」とか、「おいら、下流でよかったよ」みたいになごむ人もいるかもしれないが。

 あまりにも富み過ぎでいるのがよくないのは分かる。「笑う」のは、上機嫌という意味では絶対にいいと思うけど。「満腹」っていけないのか?

 ここで、最強のあの方の言葉を拝聴。
 ネットで拾っただけだが・・
 
 日野原重明著 「生きるのが楽しくなる15の習慣」 講談社プラスアルファ文庫

 から、


 1  愛することを心の習慣にする
 2  「良くなろう」と思う心を持つ
 3  新しいことにチャレンジする
 4  集中力を鍛える
 5  目標となる人に学ぶ
 6  人の気持ちを感じる
 7  出会いを大切にする
 8  腹八分目より少なく食べる
 9  食事に神経質になりすぎない
 10 なるべく歩く
 11 大勢でスポーツを楽しむ
 12 楽しみを見出す
 13 ストレスを調節する
 14 責任を自分の中に求める
 15 やみくもに習慣にとらわれない


 この8番目、「腹八分目より少なく食べる」ってのがある。

 そうか、満腹はよくない。

 日野原さんみたいに元気で楽しそうでしかも人のためになる生き方をしてる方の言葉を聞くのは、「あやかりたい」という気持ちになる。33歳で十字架につけられたイエスや、やはり投獄されたり処刑されたパウロの言葉もありがたいが、同じ日本人のDNAを持っていて97歳で現役って人は魅力的だ。

 もっとも、50代や60代ですでに体にガタが来ている人や、若くして病気や障害とともに生きている人もいるので、そういう人には日野原さんの元気はまぶしくてうっとおしいかもしれない。

 それでは、と、中島義道さんのことを思い出す。

 これもネットで拾ってみよう。

 『私の嫌いな10の人びと』新潮社

 1 笑顔の絶えない人
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
 3 みんなの喜ぶ顔を見たい人
 4 いつも前向きに生きている人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8 物事をはっきり言わない人
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

 この人って、偽善や欺瞞を憎むっていう点では、まさにイエスかパウロって感じである。隠れキリシタンみたいな人だ。

 日野原さんは、さすがに年の功というか、最後の

 15 やみくもに習慣にとらわれない

 っていうところで、ちゃんとガス抜きを用意してくれている。

 さて、漠然と、日常の中で「生きにくい」と思っている人たちは、どちらを読むといいんだろうか。

 どちらにも罠がある。

 どちらの本を読んでも、多くの読者は、「自分と引き比べて」考えてしまうからだ。

 「あ、私って、これかも」

 「一体どうしたらこういう風になれるんだろう」

 「おいらにはとても無理無理」

 「この人たち所詮、(おいらに比べると)勝ち組じゃん」

 「ええい、だからどうしろっていうんだよ、これじゃダブル・バインドだよ」

 エトセトラ・・・

 多分、問題なのは、「自分」を基準にして読むことだ。「自分」を主役にして生きることだ。「自分」のパフォーマンスを追求したり、「自分」の好悪に忠実だったり、「自分らしさ」や「自己実現」や「自分の幸せ」をさがすことだ。

 私たちそれぞれの「自分」が、私たちを窒息させる。私たちを閉じ込める。

 パウロが、神にのみ望みを置くように、というのは、別に「自分と神」が特別親密になろうといってるわけではない。むしろ自分を消していく、ぎりぎりの孤独があって、そこでは自分というものは、点でしかない。点とは、数学上の定義どおり、位置だけあって、面積がないものである。神と出会うというのは、自分が点になるということで、多くの宗教の「悟り」の言葉は、そういう境地を表している。「絶対無」とか「空」とかいうのも、虚無ではなくて、点に近い。その「点」を失えば、「悟り」は「虚」になる。

 そして、自分が「点」になれば、その神との出会いの「無」において、「他者」との出会いやつながりが広がるのだろう。

 「神と富とに仕えることはできない」というのが本当だとしたら、

 「神と他者」には仕えることができる。

 その「他者」とは、私たちが譲歩したり、優先権を差し出すことのできる他者である。つまり、「相対的に弱くて小さい者」だ。

 自分より弱い他者とつながり支えることができないような「智恵」は、教条主義から免れるのは難しい。

 信号の色がなんであろうと、

 大型トラックは乗用車に気を配り、
 乗用車は自転車に気をつけ、
 自転車は歩行者に譲り、
 歩行者は杖を突いて歩く人に譲り、
 支配者は被支配者に譲る。

 たとえ楽しく生きられなくても、生きるのにはマナーが必要だ。
 


 
 
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by mariastella | 2008-10-07 19:07 | 雑感

二元論の避け方

 神学の歴史を眺めていつも思うのは、二元論の克服というのがいつも隠れた主題になっていることだ。 
 それは、超越か非超越かの問題でもある。

 啓示の宗教である一神教では、神の言葉である「聖典」を神に属するもの=超越に属するものと見るかどうかによって解釈、または解釈の自由度が変わってくる。

 ユダヤ教はかなり古くから、ギリシャ哲学を応用した。

 1世紀におけるフィロンによるピタゴラス-プラトン-ネオプラトニズムの適用。
 そして12世紀におけるマイモニデスによるアリストテレスの応用。

 ナポリ時代の聖トマスの師であるアイルランドのペトロは、ユダヤ人たちと一緒にマイモニデスのユダヤ聖典(キリスト教にとっては旧約聖書)を学んだ。その頃までは、少なくとも、ユダヤ=キリスト教間では、旧約の預言者解釈についてのつっこんだ宗教間対話があったわけだ。

 1240年に聖ルイ王がパリでタルムードを焚書し、聖トマスが著作を始めたのはその後だったからマイモニデス(ラビ・モーセ)への言及は限られているが、その影響は大きい。だから、Guggenheimも、「信仰と理性」の統合はユダヤ教とキリスト教、と言っている訳だ。

 詳述はしないが、ポイントになるのは、言語テキストとしての聖典と、それが内包する意味、意義の関係である。この二つは、別物なのかどうか。

 意味は、神から与えられた。だから超越。

 文は預言者の言葉の記録である。だから人間のもの。

 で、意味は文に隠されている。文を削いで、文の奥に到達して真実に迫らなければいけない。

 キリスト教神学者たちは、はじめ、「文=人間の部分」を軽視していた。

 マイモニデスは、言語テキストのうちに「理性」が適用できると考えた。
 文字の裏に真理が隠されてるのでなく、真理は文字によって表出してくるからだ。

 それは肉体と魂の二元論の克服と似ている。

 プラトン風には、肉体は魂の牢獄だ。

 しかし、アリストテレスは hylemorphisme を説いた。

 存在というのはマチエールに支えられている、という認識だ。

 今の科学が、思考だって脳の電気反応だと言うのに似ている。
 エネルギ=物質 だというのにも合致する。

 とにかく、この考えによって、聖トマスにおいては、肉体と魂は、聖アウグスティヌスなんかよりもずっと、統合されている。肉体はそのまま「救済の場所」でもある。(これって、真言における即身仏の概念にもつながるなあ)

 そして、肉体と魂が両輪をなすというか、肉体が魂を支え、表現するという考えが、そのまま、テキストとその意味との関係に応用された。

 つまり、ユダヤ教やキリスト教のような契約の聖典においては、そのテキストは、神と人間の共同作業なのである。それが「契約」思想でもある。真実は一つでも、人的部分であるテキストの解釈は多様性があり得る。

 キリスト教は、さらに、神をペルソナ化して、父と子と聖霊とすることで、「超越と内在」を同時に成立させる可能性を秘めている。

 ユダヤの神はペルソナ化していないから、聖典を読み解く神学としては、その点を深化できなかったかもしれないが、その伝統は、スピノザや、フッサールやエディット・シュタインに受け継がれた。

 これに比べると、聖典としてのコーランは性質が違った。

 コーランを「被造物」としたのは、主知主義のムアタジラ派である。アラーの啓示があったとしても、預言者としてのムハンマドは人間だから、それが彼の文化の言語であるアラビア語化した時に、テキストは理性で分析可能な「被造物=非超越」として現れる、とすれば、ギリシャ的アプローチも可能だった。
 しかし、ムアタジラ派は発展しなくて、コーラン=「非-被造物」というのが正統派になったので、コーランの扱いはぐっと難しくなった。預言者ムハンマドですら神格化、と言うと語弊があるが、神聖不可侵となってしまった。

 アヴェロエス的な主知主義は、むしろ、「魂側」に行って、イスラム神秘主義に継承されたのだろう。

 ある意味で、コーランを「非-被造物」と見なすことは、イエスの神格化に似ている。コーランは人間の形でないから「受肉」ではないが、「神がロゴスとなって現れた」という考えのヴァリエーションだとも言える。

 で、何を言いたかったのかと言うと、今の世界では、聖書原理主義とか、一神教国が聖典を字義通り解することが非寛容や戦争やテロを生んでいる、などと外部から安易に評されているが、宗教間対話や、超越智と人間知の関係や、テキストと意味の関係などは、もう大昔からあれこれ議論されているということだ。

 たとえば、現代アメリカ生まれの福音派キリスト教が、天地創造説にこだわって、ダーウィン進化論を批判し、理科の教科書にも天地創造説を載せろと言っているような話。

 そこだけ聞けば、今時のフツーの人は、

 「ええっ、そんなこと、本気で信じているのか? おかしいんじゃないの?
 キリスト教って、変だよー」

 と思うだろうが、そして私もちょっとそう思ってたけど、こうやって、聖典の解釈史を見てきたら、福音派の人が今の時代にそういうことを本気で思うのには、別に彼らが「中世のままの頭」(実は中世はしっかりと複雑だったわけだが)だからでなく、実はそれなりの理由があるのだろう。

 もちろんアメリカのピューリタン的な歴史とか、60年代の反動とか、宗教ロビーの力学とかもあるだろうが、たとえば、来年はダーウィンの『種の起源』の150年記念で、トンでも説もちらほら出てきたので、ことの複雑さが分かる。

 『種の起源』が出た時代が微妙だったこともあって、彼の「進化論」や「適者生存」の自然淘汰などは、二つの大きな「悪」に利用された。鬼子を生んだといってもいい。

 1、弱肉強食の正当化。今のネオリベにまでつながるもので、人を勝手に競争させていれば、生存に適した強いものが残るのだから、政府などが人的に介入してはならない。

 2、優生主義。 劣等なものを淘汰して、優秀なものを残すように、積極的に介入すべきである。これはナチスのホロコーストにまで行きつく。「優生保護」のための中絶や断種もこの流れ。

 キリスト教的考え方は本来これと対極で、最も弱く小さいものに神が宿る。
 これこそ受肉して処刑され犠牲となったキリスト教の神が体現する「超越と内在の弁証法」の帰結でもある。

 そう考えると、福音派によるダーウィニズムの攻撃も、ただ彼らが「聖書を字義通りに解釈して科学的思考を排除する」偏狭な人たちだからだ、と言えるものでもなく、ダーウィニズムから派生した1や2の傾向がこの世界を住みにくくしていることへの抗議というか、生き方の不全感の表明かもしれない。

 思えば、ダーウィニズムだけでなく、キリスト教だって歴史の中で何度も権力者の都合のいいように歪められてきた。

 超越と内在を両立させることで2元論を克服する、のがいつの時代でも、良好感を持って人生を生きるための最も有効な方法かもしれない。

 しかしこういうことを大きな声で言うと、前回書いたように結構地雷原なんで、宗教や神学には触れない方が無難だ。必ず「お前はxx神学を知らない」云々と批判する人が出てくる。

 で、超越と内在の弁証法を、音楽論に応用することにした。音楽のテキスト、音楽のエクリチュール、そして演奏と鑑賞と、その意味や意義の関係について。

 一神教神学の方法論を音楽論に応用する。

 面白くなりそうだ。

 
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by mariastella | 2008-10-02 21:24 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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