L'art de croire             竹下節子ブログ

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VESPRO DELLA BEATA VERGINE

シャトレー劇場に、モンテヴェルディの『聖母の晩祷』( les Vêpres de la Vierge de Monteverdi)を観にいってきた。聴きにいったというより観にいったというのがぴったり。

 指揮がJean-Christophe Spinosi で、ソリストも充実、この曲は、大曲で難曲だが、来るべきフランス・バロック音楽で花開く劇場性を新鮮かつダイナミックに構築したすばらしいもので、前に教会で聴いたたことがあるが、まさに感動ものだったし、今回も楽しみにできるはずだったが・・・・

 いろいろ考えさせられた。 ちょっとショックだった。

 何がショックかというと、自分の反応についてである。

 今回の売り物は、ウクライナの前衛芸術家の Oleg Kulik  が舞台監督していることだ。
 クリクといえば、ニューヨークで裸で犬の真似をして警官に噛みついたり、つい昨年も、パリで、裸で動物と交わってる風の写真を発表して没収されたり、スキャンダラスで挑発的なパフォーマンスをやる人で、そんな人が、今度は裸も動物も離れて、空間典礼というシリーズで「聖なるもの」に挑んで、宗教音楽の金字塔に挑戦というので話題になっていた。

 私は、猥雑やら冒涜やら血みどろ系のパフォーマンスが嫌いだ。そういうのはなんだか1960年アメリカン・テイスト、って感じがする。禁忌が顕在している場所や時代でないと意味や力を持てないので、まあ、だから、旧ソ連系や中国なんかのアーティストがそこに向かうのは何となく分かるが、彼らのニューエイジ臭には辟易する。

 何にしろクリクはこの演出にすごく自信を持ち、特徴ある髭をふりたてて真っ先に舞台に出てきて「さあ、携帯電話も経済危機も忘れて、沈黙を!! 拍手もなしで!」と宣言した。

 彼は、フランス人の多くは抗鬱剤を飲んでいて大いなる愛から孤絶している、その上に金融危機で、アルコールとドラッグに溺れるだろう、しかし、私のこのVesproを聴いた人は、世界を別のように見ることができる、と豪語していた。

 客席の真ん中に吊るされた回る巨大透明スクリーン、劇場は入口からもう薄暗く光の演出がなされていて、すみずみまで音と光とミストと香りが駆使され、指揮者は時として観客に向かって指揮するし、ソリストたちやダンサーが客席に出没する。

 彼がねらったのは、典礼とは本来、共同体験であり、聴衆が客席で不動の受身であるのはもうやめよう、みんなが能動的に参加するのだ、ということだそうだ。

 これらの意図自体は、共感できるものだ。

 というか、まさに私が日頃標榜しているもので、私がコンサートを企画する時も、客に踊ってもらったこともあるし、席で体を揺すってくれるようにお願いしたりもする。一緒に何かを創りたい、互いにインスパイアし合いたい、というのがある。

 そして、観客としても、実際、ある種の展覧会を観た後や、バレーを観ただけで、その後の世界が一変するような体験もしたことがあるので、クリクの試みに期待していた。

 私はフランス・バロックの心身音楽的側面の魅力にはまっているから、クリクの目指す五感を動員した「全体芸術」というコンセプトもそれ自体は気に入る。

 なんといっても中心となる音が、モンテヴェルディの晩祷であるから、その質は確かで、そこにさらに眼福が加わり、香りまで・・・ かなり期待していた。

 つまり、私は決して、「モンテヴェルディの宗教曲をテーマパークみたいに飾り立てるなんて邪道だ、冒涜だ、奇をてらってるだけだ」、という先入観を持って臨んだわけではない。

 ただ、最初の評を読んで、舞台写真を見て、なんだか、その派手派手しさは、北京オリンピックの開会式(ビデオで少し見ただけだが)みたいなテイストじゃないかな、とがっかりした。

 考えると、これまで舞台芸術における新規な試みとか、意外な組み合わせなどで、新しい地平を見たようにはっとさせられたのは、「ほんのちょっとした違い」が効を奏している場合だった。力ずくでねじ伏せられて感心させられたことはない。

 バンジャマン・ラザールのバロック・オペラの贅沢な再現だって博物館的な重さを感じたし、逆に、スクリーンを使ってミニマムにヴァーチャルなサポートが効果的なバロック・オペラを見ると、これなら自分たちにも上演できる可能性があると楽しくなる。
 要は、物量ではなくて、強度なのだ。

 で、このVESPROの評で、ヴィジュアルな演出が濃すぎて音楽が単調に聴こえた、というのを読んで、「大丈夫かなあ」と思った。

 実際、客席の聴衆が古典的なコンサートと全く違う反応をするということ自体は、すぐに実現した。あちこちに映像が飛び交い、歌い手もあちこちに出現するので、みながきょろきょろするのだ。確かに、コンサートに来ているというよりもサーカスに来ている感じ。しかも、サーカスなら、一応目を凝らしてみるポイントがありサスペンスがあるが、ここでは、なるほど個々の観客は自分なりの見方をしてしまうが、みんなが一緒に盛り上がるという一体感はなく、要するに「落ち着きのない」感じになる。

 落ち着かない、集中できない。

 疲れる。

 教会の音響に近づけるための音響の工夫がされていて、そのせいで、VESPROの演奏とその切れ目に挿入される鳥の声だの雨の音だの、救急車の音だの、という効果音?が、一続きになって聞えてくる。

 これが非常に疲れる。

 組み合わせが意外でおもしろいとか、文脈を壊すことによってそれらの音が聖なる次元に取り込まれるとか、あるいは時間や空間や聖や俗の垣根が取り払われて新しい体験ができるとか、多分クリクがねらっていたような方向には向かえない。

 私のすぐ後ろの夫婦は、第一部の終わりごろになると

 「なんてひどい」
 「ばかげてる」

 という言葉を低く発し続けていた。

 クラシックの演奏会、しかも宗教曲なんていう場所で、演奏中に聴衆が不満の声を発するなんて、確かに前代未聞であり、その意味ではクリクのショック療法というか「聴衆を変革する」パフォーマンスは成功してるのかもしれない。

 確かに咳する人も多かった。鼻をかむ人もいた。

 サーカスだからね。

 モンテヴェルディ、かわいそう。

 幕間の後、その夫婦は戻ってこなかった。
 本当に腹を立てたのだろう。

 で、その幕間だ。

 VESPROが終わって奏者が姿を消す間、チベット音楽がすごい音量で鳴り続けている。
 あまりうるさいんで外へ出たら、外でもそれが大音量で続いているのだ。

 チベットの長笛とか祈りか唸りかが延々と続く。
 照明は暗く、赤っぽい。チベットで流された血を象徴しているそうだ。
 
 スーフィーの音楽も流れる。

 シャーマニズムとか神秘主義をブレンドして政治的メッセージもこめたシンクレティックな趣向らしい。何かやはり安易なニューエイジと時代への迎合感がある。チベット音楽も、仏教以前のボン教の音楽とか、さらに奇をてらったエゾテリックな趣向だ。

 「私はほんとの幕間がほしい」

 と、疲れきった老婦人がバーの長椅子に座ってため息をついていた。

 ヴィジュアルはちょっと休めるし、目を閉じることもできるが、音の侵略は暴力的である。

 だからこそ、関係性や、世界を変えることができる、って、クリクは考えているのだろう。

 それでも、第2部はマニフィカートなので、少し期待した。

 音楽のレヴェルはすごく高い。ミュージシャンたちはよく頑張っている。
 モンテヴェルディのこの楽譜では、集中せざるを得ないし、他のことを考えてる余裕はないだろう。もったいない。

 ヴィジュアルなものがなかった方が、ずっと世界が広がって感動的だったろう。
 クリクはイマジネールの力というものを無視してる。
 あるのは彼自身のイマジネーションなんだろう。

 終わりに一応拍手があったが、最初に「拍手お断り」と言ってたように、無視された。

 で、非常に疲れて、帰る途中で考えた。

 私は、べつに、チベットの音楽とかセレモニーが苦手とかいうわけではない。
 いわゆるチベット問題にも、事情があってかなり関わっている。

 組み合わせの問題なのだ。

 何がいけないかというと、「沈黙(静寂、silence 、サイレンス)」が抹殺されていることだ。

 クリクは、音の絶え間ない侵襲によって、催眠術的なトランス効果とかを目指したのかもしれない。

 しかし、音と、音楽は違う。

 こういうことを考えた。

 チベット音楽やスーフィーの音楽のようなものは、ジョン・ダンのいう天の国の流れているものの先取りである。ジョン・ダンによると、現世の人間が渇望するその場所では、音もなく静寂もなく、ただ一様な音楽だけが満ちている、不安も希望もなく、一様な充足があり、友も敵もいず一様なコミュニオンがあり、はじめも終わりもなく、ただ一様の永遠がある。

 そのような、音と静寂の違いが消滅した場所にびっしりと満たされた音楽、

 切れ目のない祈りとか、延々と続く読経とか、永劫回帰の円環の音楽とか、終わらぬ呻吟に似た呪文とか、は、その「あの世」の音の世界の先取り、または、招来するために唱えられるのだろう。

 クリクの演出において、モンテヴェルディも嵐の音も車の音もチベット音楽も延々と一様に切れ目なくつなげてしまうのは、本来は、多分そういうのを目指したんだと思う。

 しかし、残念ながら、モンテヴェルディの曲は、そのような「天上を満たす」種類の音楽ではない。
 「天上を築き、描く」音楽なのである。

 ジョン・ダンの言葉をもう一度借りよう。

 (天国では、)音もなく静寂もなく、ただ一様な音楽(チベット音楽風の)だけが満ちている

 ところが、「この世」では、「音」とも「静寂」とも別のものとしての「楽音」があるのだ。

 その楽音とは、静寂の反対物である「音」とは全く別のものである。

 楽音とは、「静寂=silence」のファミリーなのである。

 静寂が満ちたときに生まれるのが楽音である。

 一滴ずつたまってついにあふれた水が竹の筒を傾ける時、
 水滴がはじける時、
 手や足が空を切った後、

 静寂と静寂が楽音を囲む。

 静寂がないと音楽は成立しない。

 音楽は文化的言語であるが、それを生み、受けとめる静寂は、ユニヴァーサルである。

 静寂さえあれば、古池に飛び込む蛙の水音でさえ、芸術世界を構築する。

 先行する静寂に育まれた楽音が、連なり、その途中でもさらに多くの静寂(休止)を度々呼吸して新たに生まれ続けるのが音楽である。そしてそれは、やがて、もとの大いなる静寂の中に帰っていく。大洋に生まれた生命が旅を終えてまた大洋に戻っていくように。

 そういう音楽は静寂から生まれ、静寂を糧として行き、静寂へと還る生命なのである。

 モンテヴェルディのVESPROはその種の音楽である。

 その命を共有して、私たちの命と共振させ、糧とするには、ユニヴァーサルな静寂を共有しなくてはならない。

 クリクはその静寂を奪った。

 歌手や奏者の息継ぎの中にはそれはあるのだが、曲の始めと終わりにはそれが奪われていた。絶えず聞えてくる「あっちの音」の模倣。

 ヴィジュアルな奇抜さのために落ち着かない、集中できない、ということよりも、本質的な問題は、実は、そこのところだったと思う。

 ユニヴァーサルな静寂の中にインスパイアされつつ「こっち」で完結する音楽と、静寂と音の境を越えてそのまま「あっち」に参画しようとする音楽という異質なものを強引に結びつけたのが クリクの失敗だった。

 でも彼は気付いていないだろうな。

 あの、自信たっぷりの解説ぶり(それ自体は魅力的でそれなりの説得力もあるのだが)を見てると。
 
 このコンサートにがっかりした人たちは、きっと、因習的な宗教音楽の鑑賞態度の枠から逃れられない保守的な人たちだとクリクから思われるんだろう。

 このユニヴァーサルな静寂については、オリバー・サックスがその新著『Musicophilia』が、音楽が記憶障害の人を孤独から救う例としても書いている。サックスの本は人気があるし、フランス語訳はたちまち出たので、日本語訳も出るんだろう。絶対面白いと思う。






 

 
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by mariastella | 2009-01-26 18:04 | 音楽

Van Dyck の不思議

 最終日近く、ジャクマール=アンドレ美術館にようやくヴァン・ダイク展を見に行った。この美術館はニッシム・ド・カモンドと共に、なぜか、とっても落ちついて、前世で住んでたんじゃないかなあ、と思える場所なんだけれど、この寒いのにえらく込んでいて、道にまで列ができていたので驚いた。

 で、ヴァン・ダイクだが、今回は肖像画だけで、ドラマチックな宗教画はないのだが、かえってぞくぞくした。

 ヴァン・ダイクの描いたマグダラのマリアは、17世紀のバロック時代における一連のマグダラのマリアの絵画表現の出発となったものだと思う。
 彼なしには、たとえば、Nicolas Regnier や Claude Mellan の マグダラのマリアの表現は生まれなかった。マグダラのマリアのイメージといえば、それまでは、罪の女時代の肉感的なものと、苦行をした後の壮絶な姿に引き裂かれていたのが、Van Dyck は 一種 atemporel 非時間的なものを持ち込んだ。

 彼の描く貴族たちの肖像を見ていて、圧倒的な上手さにも感心するが、何にもっとも驚かされるかというと、elegance と arrogance の共存だ。
 
 エレガンスというのは、バロック時代のフレンチ・エレガンスの意味で、「もてるものを全部見せない、出さない、マキシマムを強要しない」という感じで、後のロマン派が垂れ流すような情熱や不安などは、抑制されて、人工的頭脳的に再構成されて提供される。

 アロガンスというのは、一種投げやりな横柄さ、尊大さ、傲慢さであり、一見すると、エレガンスと対極にあるんじゃないかと思うかもしれない。

 ところが、ヴァン・ダイクにおいては、この二つが自然にハーモニーをなしているから意外で味わい深いのだ。

 それが独特の elegance nonchalante を醸し出している。つまり、天然のゆったりした無頓着な感じを伴うエレガンスであり、末梢神経をくすぐるような緻密さは表に出てこない。

 このアロガンスがどこから来るのかといえば、画家にとってはその圧倒的な技量、技術、天才から来る。つまり、そのやすやすとした感じ、facilite から来る。
 そして彼のモデルとなる王侯貴族たちにおいても、その、貴族ゆえに浮世離れした生来のnonchalance が、自然な尊大さにつながるのである。

 チャールズ一世の表情にあふれるメランコリーはまるでこの人が清教徒革命でやがて処刑される運命を暗示しているかのように見えてしまう。しかし、その心もとない、胸を締めつけられるような哀しみの発露にかかわらず、王権神授を唱えた絶対君主の息子として生まれて専制を続けた「生まれながらの権力者」だけが持ち得るような、どこか投げやりで、人生を外側から見ているような冷たく尊大な非現実感がある。

 絵のスタイルのエレガンスと、画家の才能とその確信からくるアロガンス、そこに、モデルの王侯貴族の出自から来る独特の投げやりさをまとったアロガンスが加わって、ヴァン・ダイクの肖像画には、エレガンスとアロガンスが並び立つ。

 風味があって、冷たさまでが、いとおしい。
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by mariastella | 2009-01-25 04:00 | アート

共和制とファシズム

 佐藤優さんによれば、ファシズムは「共和制の構築的な運動」(『一冊の本』1月号)なんだそうだ。
 
 合法的な手段で選ばれた「われらのリーダー」「領導者」の周りに国民が結束して、国益一筋になる。ファシズムは民主主義の一形態と思えるそうだ。

 それに対して日本は、超越的な祭主である天皇がいるから、本来はそれがファシズムの歯止めになっている、という展開だが、いくらなんでも短絡的じゃないだろうか。

 まあ、私は現在、サルコジという独裁者が暴れているフランスにいるので大きなことは言えないが、そのサルコジだって、投票者の半数近くの49%には忌避されたわけだ。

 国民の直接選挙で選ばれた代表者がファシズムのリーダーになるには、何か別の要因で、選ばれた時にすでに圧倒的多数の支持を得ていた場合だろう。ファシズムの原因は、直接選挙そのものにあるのではなく、すでにその時の国際情勢などが影響しているわけだ。
 国が一応健全な状態にあれば、独裁者を避けるためだけにでも、優勢な側に反対票を投じるものが出るわけで、「われらのリーダー」だから何でもできるという方にはいかない。
 半数に近い「反対者」を常に擁しているといる緊張感が、フランスみたいな国では、「革命もあり」ということで、権力者の暴走の歯止めになっている(と思いたい)。

 第一、「民主的」に選ばれたヒトラーが最悪のファシズムでヨーロッパを壊滅させたというので、それを教訓としたヨーロッパは、「多数決の原則」よりも普遍的な「人権」の理想が優先されるべきといったような危機管理の安全策をいろいろ用意している。

 人種差別的極右を排除するという意識が強いから、オーストリアのハイダーが選挙によって1999年に連立政権入りした時に、EU諸国は猛烈に反発して辞任に追い込んだ。

 2002年のフランスの大統領選でやはり極右のル・ペンが最有力候補だった社会党のジョスパンに勝って決選投票に登場した時は、彼にノンというためにだけ、すでに人気のなかったシラクが前代未聞の82%の得票で再選された。誰もがその意味を知っていた。

 どんな制度も運営上の失敗はつきものだが、EUは一応、彼らの原則に従って学習したわけだ。

 「超越的なもの」を奉じているからファシズムの歯止めになるというなら、国益の枠を超えた「人権」だって、「自由・平等・友愛」の共和国精神だって歯止めになるはずだ。

 実際は、権威と権力はすぐ癒着したり、「超越的なもの」がただの道具や口実や旗印として利用されたりするので、その辺は、共和国でも君民共治国でも、残念ながら変わらない。

 排外主義によってピュアになって生き残ろうという選択と、多様性の中で連帯して共生して生き残ろうという選択は、生命戦略としては、どちらもありなのかもしれない。でも、今の地球の現実の前では、もう、多様性の中の連帯にしか希望はないと思えるのだが。

 後は、佐藤さんもいってるように、福祉国家型社会民主主義、を自覚的に育てていかないと。それが国家としての統合が弱くても、それはそれで、狭い国益観を乗り越えるチャンスにつながればいいんだけれど。

 

 
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by mariastella | 2009-01-21 01:49 | 雑感

仮面のいじめ

 12月12月の記事「壊れものである権利」について、サイトの方に、

 「ポジティヴシンキング」「成功」「自己実現」は無邪気な笑顔で蔓延していますが、それがどれだけ天真爛漫に人を追い詰めている事か。」

 というコメントをいただいた。

 こういうものが蔓延しているのはもちろん、それで金儲けができる人がいるからだろうが、それだけならまあ、それでもいい。

 真に犯罪的だと思うのは、これらの言葉のいたずらな称揚が、実は、「そうでない人」いじめになっているからだ。

 それも、結果的にそうなる、というのではなく、無意識にしろ、そういうものに託して弱者をはっきり差別している。

 今は、さすがに人権意識とかが常識になっているから、大人はだれも、

 「何々さんは、くらーい」

 とか、

 「あの人は年の割りに老けてるし、体も故障だらけよね」

 とか、

 「あそこのお宅はだんなさんがリストラされて坊ちゃんは引きこもりで、お嬢ちゃんはちょっとおつむが弱いんですって」


 なんてあからさまに言わない。

 言えば人格を疑われるだろう。

 でも、「何々さんはいつも明るくポジティヴに生きててすてき」

 とか、

 「あの人は、いつまでも若くて綺麗だし、健康管理も抜群よね」

 とか、

 「あそこのお宅はセレブで、坊ちゃんもイケメンで一流大学だし、お嬢ちゃんは才色兼備でうらやましいわね」

 とかは、一応「人を誉めている」のだから、それこそポジティヴで、こういう言辞をどれだけ垂れ流して、「あの人みたいにならなきゃね」と無理しても、別に非難されない。

 でも、それって、実は、同じことの裏表だ。

 「フランス人の女性政治家はみな美人でおしゃれでスタイルがいい」と、イギリスの雑誌が書く。

 それは、「イギリスの女性政治家はおばさんばかり」という絶対に書けないことの含意だとイギリスのフェミニストが怒っていた。

 フランスの女性政治家は美人ばかりじゃない。

 当然ながら「普通」の人の方が多い。

 「セゴレーヌ・ロワイヤルは美人でスタイルがいい、モデルみたいだ」

 とはどの雑誌も平気で称揚する。

 「マルチーヌ・オーブリーは贅肉のついたオバサンだ」

 とは、誰も絶対に言わない。

 子供を生み、育てキャリアも築き、女としても魅力的な人は「スーパーウーマン」とか言われる。
 スーパー老人もたくさんいる。

 もう、こういう言説、意識してやめてみよう。

 ほんとは足の速いウサギが油断して居眠りしたから遅いカメさんに先を越されたんだよ、なんて教訓はいいとしても、

 持って生まれた容姿とか、能力とか、環境とか、健康状態とか、運とか、人生のアクシデントとか、自分ではどうにもならないようなことの「優劣判断」につながるような賞賛や憧れや目標設定はやめよう。

 つくづく思う。

 人はみなつながっている。

 運がいい時は運が悪い人を助けよう。

 あなたの幸運はそのために与えられている。

 
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by mariastella | 2009-01-14 10:14 | 雑感

メジュゴリェの聖母出現とバリ島のダンス

 1月13日のクーリエ・アンテルナショナルCourrier internationalの記事(ネットでも読める。courrierinternational.com)に、ボスニア-ヘルツゴヴィナのあの有名な聖母御出現を大いに怪しむブラジルの『Veja』誌の記事が紹介されていた。

 ヴァチカンに属する教皇庁国際マリア・アカデミーの調査団が3年前から現地でやっている真偽調査が2009年の終わりには終了すること、

 あの聖母好きの前教皇JP2ですら、ボスニアに2度行ったのについにメジュゴリェには行かなかったほどメジュゴリェについてはあやしいことが元々あること、

 昨年、現教皇B16が、メジュゴリェの御出現を演出して子供たちのマインドコントロールをしたとも言われているフランシスコ会の福音派系神父をイタリアの修道院に監禁を命じたこと、

 その神父は1970年に叙階され、1976年にある修道女を妊娠させたといわれ、1981年に最初の御出現の3ヵ月後にメジュゴリェに来てから、子供たちが聖母を見ながら口をもごもごさせるなど、演劇的パフォーマンスが増えたこと、

 1984年にはこの神父は、当時の教理省長官だった現教皇によって、76年の妊娠事件を口実にすでに一度イタリアで謹慎させられたこと(その機会に、メジュゴリェの教区などがその「おいしい巡礼産業」を利用したとも言われる)、

 メジュゴリェの聖母は現れすぎで、しゃべりすぎで、言ってることが必ずしも教会の伝統に合致しないことなど、

 などである。

 クーリエは、2004年にも記者にメジュゴリェをルポさせて、『メジュゴリェについて教皇の知らない3つのこと』という記事を出している。

 要するに、メジュゴリェはいかに地域興しになっているかという経済効果のことで、当地の神父たちがいくら稼いでいるか、教皇は分かるまい、という話だ。

 1981年6月に聖母を見た6人の子供たちは今や40年配で、そのうち3人は、今も定期的に出現する聖母とコミュニケートしていて、そのメッセージが毎日各国語に訳されてネットで配信されたり、世界各国をパフォーマンスして回る者もいる。こうなると「聖地」は問題でなく、聖母は「人」に憑くわけで、まあ霊媒の実演みたいなものである。

 この「聖母のメッセージ」を教会関係者が配信してはならないと司教が禁止している。
 しかし、プライヴェートな巡礼はもちろん、聖職者と共にやってくる巡礼グループも禁止されているわけではない。普通、御出現だの奇蹟だのが真性かどうかは、当該司教が宣言する権限があるのだが、メジュゴリェではそれが剥奪されている。

 そもそも、その手の出来事の「真性」審査は、それが終わってから、というのが基本である。
 福者や聖人の認定が、当人の死後にしか審査が始まらないのと同じだ。

 ところがこのメジュゴリェでは、御出現は30年近く、現在進行形である。

 6人の「見神者」は同じ通りにそろって家を構えている。全員結婚して子供もいる。
 そのうちの2人はたいてい留守である。
 1人は元ミス・マサチューセッツと結婚してボストンに住み、もう1人はイタリアに住んでいるからだ。みな講演活動でひっぱりだこでリッチらしい。

 この時の記事については、フランスのモンペリエ大学の医学部の消化器外科のアンリ・ジョワィユー教授が反論している。彼のブログでも読める。

 彼は、医学関係の調査団として1984年以来17回もメジュゴリェを訪れたが、子供たちのトランス状態はほんもので、演技ではなく、また、精神的にも精神的にも生理的にも器質的にも何の異常もないことは明らかだと太鼓判を押す。元々は彼も懐疑的だったのにかかわらず、である。
 
 そして、メジュゴリェには深い祈りと瞑想と平安があり、多くの人がほんとうに癒されているという。特に、重症の麻薬中毒患者が劇的に治るらしい。それは、そこで働く人々が、深い信仰に支えられているからこそだ。

 多分、ほんとだろう。

 この手の巡礼地がここまで熟成すると、もう御出現の真偽や演出がどうこうという次元を離れてしまうからだ。
 それほどまでに、信仰を求める人々の気持ちは切実だし、それが集まると、大きなサイコ・エネルギーが集まる。
 経済効果は大きいだろうが、功利的な思惑の何千倍もの善意とか無償性とか精神性がみなぎり溢れてくるので、全体としては、立派な「聖地」「巡礼地」の機能を果たすのだろう。

 では、何十年も毎日のようにエクスタシーやトランス状態になって聖母と交信するという、部外者から見るといかにもあやしい見神者たちは、本当は、何者なんだろう。

 1度や2度とか、1年くらいの話なら、まあ、いろんな意味でのアクシデントというか、そんなこともあるかもね、とも思えるし、その人がその後で早逝するとか、聖職につくとかいう展開になると、すべては、宗教的狂熱の表現なんだなあ、とも思えるかもしれないが、メジュゴリェのみなさん、あまりにも、「俗」の側にいるような気がして、いまひとつありがたみがないのでは・・・・

 で、ここからが、私の解釈。

 私は年末年始とバリ島へ行って来た。

 目的の一つはバリの伝統舞踊のトランスを見ること。

 最近、石井達郎さんの『身体の臨界点』青弓社という本で、バリ舞踊のトランスについて読んだからである。

 バリ島といえば、ここ数十年、文化人のお手軽フィールドワーク地だったから、すっかり商業的になっていると思うだろうが、意外に、中途半端に素朴である。

 観光客相手に、まるで京都の祇園コーナーにいる錯覚を起こすような場所でバロンダンスとか毎日やっているんだが、若手の稽古の場という感じではないし、すれっからしの芸人が仕事をこなしている、という風でもない。
 バリでは、今も、村中が、子供のときからお祭用の踊りを練習しているから、住民全員アーチストであって、いろんな村の人が交代で出演してるという感じで、専任のプロがいるというより、みんなアマチュア、玉石混交なのだ。しかもバリの暦は1年が210日だから、毎年の各種の祭りの周期も短い。男も女も、男の踊りも女の踊りも楽器も、みなひととおりできてしまう。

 もちろん寺院の祭礼でやる本番と違って観光客相手の踊りはそれこそアルバイトだから、精神の高揚も緊張もない。だから、トランスにも入らない。

 バリの人、正直。

 「踊りの最後でトランスに入るんですってね」とわくわくする私に、バリのガイドさんは、「寺ではそうだけど、観光客相手のはただの振り付けです」とにべもなく答えた。
 
 その振り付けとは、たとえば、戦士たちが魔女の魔力にやられて、脱魂、忘我の境地で自分の胸に剣を突き立てる、などというやつだ。

 まあ、楽器奏者の方は、楽器のテンポが上がったりするので、それに引かれて、それなりに「行っちゃってる状態」になってる人もいるが、踊り手のほうは、舞台の上で、本気で自分に剣を突き立てるモチヴェーションはわかないだろう。

 楽器なしのケチャックという上半身裸の男たちが何十人も「クン、クン、ケック、ケッケッ、クク」と声を発しながら体を揺らす踊りも、最後はトランス状態になって「超能力を得て全員火渡りに突入」というふれこみだった。

 これも、実際は、まあ、気分は村の盆踊りの練習で、お年よりもいればほんの子供もいて、それなりに真剣にやる人やいかにもうまいリーダーもいるが、よそ見したりしてる若い子もいる。
 だから最後にも、火渡りほどのものもなくて、派手に松明を散らして炎を広げて、火を見ると観客も興奮するから、それなりに盛大に・・・という程度だ。

 でも、野外でのこの公演は絶対に雨が降らない、それは、踊る前に、雨が降らないようにみんなでお祈りするからだ、と聞いた。

 公演は大事な観光収入だから、踊りはともかく、お祈りの方は「本気」なんだろう。

 そこのところでは、神や自然とちゃんと交信しているみたいで、なんだか、聖と俗とかアマとプロとか本気と手抜きの区別が曖昧だ。

 で、踊りのトランスだが、では、それがそもそも、それほど「途方もない」ことかというと、実はそうでもないような気がする。

 私も多少踊るので想像がつくのだが、そもそも、身体技法を伴ったアートというのは、アートとして成立するには、多少のトランスを必要とする。

 どんなにテクニックを磨いて完璧に準備しても、その形を完全に見せるだけでは試験に臨む優等生のようなものだ。

 いざ観客を前にしたり舞台に出たら、そこは入魂というか、場の雰囲気と融合しインスパイアされなければクリエートとは言えない。

 楽器演奏でも同じことだ。

 充分練習すれば、後は、我を忘れて天命を待つ、みたいな瞬間がないと、いい演奏などできない。

 岡本太郎が、「芸術は爆発だ」と言ったが、踊りが芸術になるにはこの「爆発(それが内的なものであれ)」の部分が必要で、逆に言うと、プロのアーチストであれば、誰でも、そういうプチ・トランス状態に入る術を知っているはずである。本格的にシャーマニックで鬼気迫る人ももちろんいる。

 ここぞという時に、人前でトランスに入れるかどうか。

 体質、気質にもよるし、コツもあれば、慣れもある。

 絶対無理な人もいる。

 そういう人は、永遠に、テクニックの教師か自己満足のアマチュアでしかない。

 で、バリ島のような文化環境だと、伝統とか、集団の力で、たいていの人は、祭りの奉納舞踊となると、みんなわりと楽にトランス状態になるんだろう。

 そして、祭りの奉納舞踊で次々とトランス状態になってしまうであろうバリの人たち、

 この人たちを、もし、西洋の医師団が来て検査しても、

 そのトランスは演技でもやらせでもなく、彼らの精神も肉体も健康で病的なところはなく、「ほんもののトランス」って言うことになる。

 文脈が変われば、別に不思議でもなんでもない。

 祭祀があり奉納がある伝統社会では、よくあった話だろう。
 それがソロでやるか集団でやるかは文化の差があるだろうが。

 それを思うと・・・
 
 メジュゴリェの聖母出現パフォーマンスも、一般人の勝手なトランスが嫌いな高度の管理体系でもあるカトリック教会とか、身体技法を忘れてしまったヨーロッパの人々とかから見ると、その真偽を問いたくなったり、回心体験を誘発したり、感涙を流したり、糾弾したくなる特殊なものだったりするかもしれないが・・・

 バリ島の舞踊などと照らし合わせて考えてみれば、

 彼らのパフォーマンスはリチュアルであり、奉納の一種なんだろう。

 小さい時から毎日やってれば、毎日、ミニ・トランス。

 彼らの生活の中では聖と俗の境界とかも曖昧で、
 多分信仰も篤くて、
 かと言って、無理に出家しちゃうような辻褄合わせの必要もプレッシャーもなく、

 天然のほんもの、になっちゃってるのかもしれない。

 欲だけで何十年も演技続けられるものでもないし、そこまでマインドコントロールできるものでもない。

 バリ島の舞踊では、「演じる」という芸能と「憑く」という呪術が、洗練されることなく、また様式化されないままに野太く入り組んでいる(前掲書より)。

 メジュゴリェの「聖母との交信」も似たようなものなのかもしれない。

 ケチャックを踊る人たちが踊る前に本気で祈って、おかげで雨が決して降らないように、
 メジュゴリェだって、聖なるものとの交信があるのかもしれないし。

 バリ舞踊をはじめて見た西洋の民俗学者なんかが大いに感動したように、メジュゴリェの奉納を見てはじめて聖母に出会う人もいるのだろう。


 奉納としてのトランス。

 奉納としての御出現。

 近い、と思う。

 
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by mariastella | 2009-01-14 09:41 | 雑感

mixedのアイデンティティとは

 1月2日にバリ島のホテルでCNNを見ていたら、オバマが自分の「Mixed-race heritage」についてインタヴューに答えているのに遭遇した。

 私はこのブログで前にも書いたが「オバマ=黒人初」という言説が嫌いだったので、彼自身も、戦略的に黒人になったり白人の家族を強調したりと使い分けてるのかなあと漠然と思っていたのだが、こんなふうにまともに答えていることに好感を持った。

 最近 Alain Maalouf の『Les Identites meutrieres』  Le Livre de Poche

 という本を読んだ。著者は私と同じ30数年前に故国レバノンを離れてフランスに住んでいる。彼のアイデンティティの感覚とそれを巡って他の人が抱く「ずれ」の感覚とは、私の体験するものととても似ている。

 著者は、レバノン人でもあり、フランス人でもあるというアイデンティティを持っているのだが、他の人から、「でも、心の奥ではどっちなんですか?」と問われることがあるという。

 そのように問われること自体、「アイデンティティ」には人を唯一のコミュニティに帰属させようという狭い排他的なコンセプトがついてまわっている証拠だと著者は言う。

 だれでも家庭人、社会人、公民などの複数のアイデンティティを持っているものだが、その継ぎ合わせがその人の総体というわけではなく、新しい出会いの度に、総体は少しずつ進化するものである。

 何か一つのアイデンティティが排他的独善的に働くと、諸悪の根源になる。
 純粋とか純潔とかいう幻想がイデオロギーと結びついたりすると、破壊的になる。

 社会も同じで、歴史を通じてさまざまなルーツに属しながら進化は続いていく。 
 社会の場合は、独善排他の道をとらぬためには、「多様性を認める」というメッセージを公に、積極的に示さなければならない。表面的に平等主義を掲げるだけではなく「多様なあり方」「多様な表現」が正当であることをたえず表明しなくてはならない。

 そうしないと、「伝統」とか「慣習」でさえ、イデオロギーになりかねない。

 人も社会も時代とともに変化、進化していく。生命は多様性に向かう。

 そう、それを、恐れてはならない。それには、

 他者との出会いは常に自分を豊かに変えていくので、決して劣化させるものではない

 ことを信じなければならない。

 異文化との出会いも、新しいテクノロジーとの出会いだって同じだ。

 画家のゴーギャンは、工業化したヨーロッパに絶望して、西洋の手垢のつかないパラダイスを求めてたタヒチに行った。しかしタヒチにもすでに西洋人がいた。帝国主義者と宣教者に「汚染」されていないような場所はついに見つけられなかったのだ。

 結局、絶望して、遺書代わりに『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という大作を描いた後で自殺を図る(未遂に終わったが)。

 彼は「われわれは何者か」というアイデンティティの問題を、「文明に毒されていない」手つかずの過去に求めようとして果たせなかったわけだ。

 我々がどこから来たのかというルーツはあまりにも複合的で遡れば遡るほど豊かである。どこに行くのかという先も。大きな全体から切り離しては、我々は決して充全ではあり得ない。

 過去に抑圧されたマイノリティが権力の座についたところでは、アイデンティティが逆に差別的に働く。今の時点で、ブラック・アフリカの国では、オバマのような mixed の人間は決して仲間と見なされず、彼らを代表することはあり得ないそうだ。

 それを思うと、オバマが大統領になることは、「黒人初」だから意義があるのではなく、彼がまさに mixed であるところに希望があると思う。

 その意味では、今の日本でよく、欧米に汚染される前の日本には世界に誇る精神性があった、それに回帰しろとかいう議論がなされると、本当に、がっかりする。

 大切なのは、豊かな出会いを通して「共にどこへ向かうか」という方向性なのだが。


 

 
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by mariastella | 2009-01-13 23:20 | 雑感

フレンチ・テイストってなんだろう『アガト・クレリィ』『すべて彼女のために』

フランスに戻ってからフランス映画を2本見た。

対照的な2本だ。

ひとつは主演女優がすべてを支えるコメディで、
もう一つは主演男優がすべてを支えるスリラー。

どちらも、とてもフランス的だ。

フランス的って、一体なんだろう。

前者は、Etienne Chatiliez の 『Agathe Cléry』 ミュージカル仕立て。

ヴァレリー・ルメルシエ(Valérie Lemercier)がとにかくうまい。

白い肌用のスカンジナヴィアという化粧品売出しを担当しているキャリアウーマンであるヒロインがAddison病にかかって、肌が黒くなる。この病気は実在するらしく、ジョン・F ・ケネディも罹っていたらしい。腎臓系の免疫病。

で、ヒロインのアガトは、もともと黒人もアラブ系も差別しているレイシストだった。
その彼女の肌が真っ黒になり、職も解雇され、新しい職につくのも困難になる。

結局、白人を雇わない逆差別の会社に入り、そこの黒人社長と恋仲になったところで、突然病気が治って、また悩むというどたばたなんだが。

いわゆる社会派コメディなのだが、その差別ネタがすごーく微妙で、人種別ロビーイングの発達してるアメリカなんかではちょっと作られないし、実態もかなり違う。

フランスでは白人ヨーロッパ文化がしっかり基盤にあるところに移民やグローバル化でさまざまな差別などの問題が生まれてきている。にもかかわらず、アメリカ風のプラグマティックなコミュノタリスムを拒否してユニヴァーサリズムでゴリ押ししているという国ならではのギャグが満載なのだ。

普通の日本人が見たらその機微が多分わかんないだろうけど。
 
その居心地の悪さや意地悪視線こそ、この監督の持ち味なんだけれど。

でも、ヴァレリー・ルメルシエが、白人の時も、黒人の時も、輝いてる時も泣いている時も、とにかくかっこよくて、彼女の才能と個性が文脈やストーリーにあるわだかまりを吹き飛ばしてしまう。

また単純に考えても、顔立ちが変わらないのに皮膚の色だけがラディカルに変わるだけで、人はこれほどアイデンティティが揺らぐのかというのはあらためて衝撃的だ。 
しかも服を着てるから、皮膚の色なんて、ほんとに顔と手くらいなんだけど。
だとしたら、シワやしみ一つで女性が大騒ぎするのも無理はないのか。

Bluemanというパフォーマンスがあるが、彼らは頭もスキンヘッドをブルーに塗っている。
でも、顔立ちは白人で、体格もいい。ブルーマンが小柄な黒人やアジア人とか、プエルトリコとかの特徴を持っているって、興行コンセプト的にないような気がする。青いからこそ、白人男性型アンドロイド、みたいな倒錯的差別感を隠してるのかもしれない。

黒髪の日本人にとっては、歳とって総白髪になる変化もラディカルだ。
実際、プラティナ・ブロンド系の人は、白髪まじりになっても目立たない。
しかし、髪の方は、歳にかかわらず、色をころころ染め替える人も多い。
昔の日本人は白髪染めしかなかったけど、ヨーロッパでは昔から髪の色は帽子の色みたいなファッションの一部だったし。

黒髪の日本人がある日、金髪で現れたら、人は、単に、髪を染めたんだなあ、と思う。
でも突然まっ黒い肌で現れたら? すぐにはその人だと認めてもらえないかもしれないのだ。

外にさらしている肌というのは社会的だからだ。
大きい絆創膏をして現れるだけで、場合によっては釈明を要求されたりする。
差別とか個性とか偏見とはなんだろう、と、考えさせられる。

2本目は、

Fred Cavayé  の デビュー作『Pour elle』 (邦題『すべて彼女のために』)

 
タイトルからしてフランス的だ。
 
ヴァンサン・ランドン(Vincent Lindon)が主演。
 
妻子と幸せに暮らしてたリセの国語教師の生活が一変する。
 
妻が冤罪で20年の懲役刑になったからだ。
主人公のジュリアンは、妻を脱走させて、息子と3人で国外逃亡を企てる。

痛快といえば痛快だが、このVincent Lindonという俳優は、アンチ・ヒーローとまではいかないが、すごく普通のフランス人である。つまり、全然アメリカ人やイギリス人やゲルマン人やラテン人に似ていない。堅固とか頑健とか陽気とか峻厳とかマッチョとかではなく、少し軽目でいいかげんな男。

映画の最後にも、警察が驚いて、こいつって、リセの教師だぜ、「Monsieur Tout le Monde 」(どこにでもいる男、只野ひとしさん)なんだ、と慨嘆するシーンがあるが、この「普通のフランス人」ぽさの変身が、ストーリーを支えてる。

スーパーマンが私生活ではちょっとな情けなかったり、という「影のヒーロー」的シチュエーションは結構アメリカ的だと思うけど、Vincent Lindonはちょっと違う。サム・ペキンパーの『わらの犬』なんかでおとなしかったダスティン・ホフマンがきれてしまうようなのとも少し違っている。

その辺もフレンチ・テイストとしか呼びようがないんだが。

 

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by mariastella | 2009-01-11 21:06 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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