L'art de croire             竹下節子ブログ

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『Le moment fraternité』(Gallimard) de Régis Debray

 レジス・ドゥブレという名前は、1960代半ばに中学生高校生だった人には、憧れの名前だったと思う(私だけ?)。世の中に目を向け始めた頃に、はっと気がついたら、60年安保が過去のことになっていた、という「バスに乗り遅れた世代」と揶揄されたので、それでも、来るべき60年代末の若者の闘争の雰囲気にわくわくしながら、でもまだ「生徒」の身分でしかない、という中途半端な気分。そこにレジス・ドゥブレがやってきた。

 中学の終わりごろ、サルトルやポール・ニザンはとてもすてきに思えたし、キューバ革命とかゲバラとその死も、今から思えば、自分の日常とかけ離れていたのに、とても近く感じた。英文の参考書に「20歳で左翼でないやつはおかしいし、30歳でまだ左翼でいるやつはもっとおかしい」、という言葉が載っていたのをはっきり覚えている。

 そんな時に、まだ20代で、従って、自分たちと手の届きそうな距離にいながら、そして、サルトルやニザンのようににエコール・ノルマル出身で哲学のアグレガシオンを取得し、けれども第二次大戦中の「レジスタンス」などには「乗り遅れた世代」のレジス・ドゥブレが、南米に渡ってゲバラに従って、ボリビアで逮捕されて書いた『革命の中の革命』は、同時代感があって、かっこよかった。

 今から思うと、彼は1940年生まれだから、日本の「60年安保世代」とほぼ同じなのだが、距離が遠くて現実感がない分、勝手に近く感じたのだろう。あの時代で、日本でなら、たとえ5歳年上でも「対等に付き合ってもらえない」上の世代だという疎外感があったと思う。

 まあ、そんな レジス・ドゥブレだが、私自身も30歳などとうに過ぎて、「革命の時代」なんて世界的にアナクロになった頃、彼は再び、非常に近い人として現れるようになった。

 最近、彼の書くものには、いちいち、うなづける。

 彼の、フランス的な市民精神と、「聖なるもの」の適量の配合は、私の波長にぴったり来ることが多い。

 で、最近出た『フラテルニテの時』である。

 このフラテルニテ( fraternité)という言葉は彼の言うように、本当に薄幸の言葉だ。

 フランス革命の標語として、「自由・平等・博愛」と昔は習ったが、今は「友愛」と訳されることが多い。
 もっと性格にいうと「兄弟愛」である。博愛と言うと広く浅くという感じがするが、血のつながりでなく、隣人愛に近いので、訳としては悪くなかったのだろうが。

 しかし、問題が多すぎた。

 兄弟愛という「きょうだい」は、男だけではないのだが、語源的に男兄弟を指す。これって、フェミニズム的にはちょっと避けたい言葉である。
 また、これは、一神教の神のもとでは人類みな兄弟、というキリスト教的含意がある。

 フラテルニテといえば、中世の西ヨーロッパのカトリック互助組織として席巻した各種「兄弟会=信心会」のことだった。その含意を避けるために、今は、fraternitéよりも solidarité(連帯) という言葉の方が圧倒的に好まれる。

 実際、今時 fraternitéというと、破門解除問題でカトリック界を騒がせている聖ピオ10世会(=Fraternité sacerdotale Saint-Pie-X)を連想するくらい、まあ、誤解され得る言葉でもあるのだ。

 レジス・ドゥブレは、自由や平等が、「表現の自由」とか、「機会の平等」のように限定語をつけて具体的な政策や討論の対象となって、共和国精神の実現への努力と関っているのに対して、「兄弟愛」だけが、お蔵入り状態になっていることを憂える。
 で、この言葉を、あらためて、現代の欧米的強者による「人権至上主義」の行き過ぎや押し付けにブレーキをかける言葉として復権させようとしているのだろう。

 「fraternité」 は、もう一つのキリスト教的徳であるはずの、「 humilité(=謙遜、謙譲)」と共になければならない。

 考えてみれば、同じ親を持つ「きょうだい」といっても、常に「平等」ではないし、「自由」でもない。
 生まれた時代、親の経済状態や健康状態、若さ、家族構成がそれぞれ違うし、それによって、たとえ「きょうだい愛」によって「連帯」しても、それぞれにかかる義務も違えば立場も変わるだろう。

 自由も平等も、「 humilité」をベースにした「fraternité」とセットになってこそ、真価を発揮する。

 そして、この時代、何が難しいかといって、humilité ほど難しいものはない。

 正論はいつも arrogance(尊大、傲慢)とセットになりがちだからだ。

 弱者の自由も平等も踏みにじってかつ傲慢というのは分りやすいが、自由と平等を唱えて戦う人の傲慢というのは、他人にも自分たちにも分りにくいのでもっと始末に悪いことがある。

 私が翻訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)という小説の中で、主人公のジミーが、最初のシンプルな人間だったのを、イエスの生まれ変わりにふさわしくと、さまざまな宗教教育の特訓をされるうちに偉い人間になり、そのことで自分の翼を切られた、と表現するシーンがある。

 そこに出てくる印象的な言葉がある。

 「J'étais humble, ils m'ont rendu modeste.」

 というのだ。

 私はこれを「僕は自然に慎ましかったのに、彼らは僕を中途半端に生ぬるい人間にしてしまった」
 と、すごく説明的に訳した。前後の日本語とバランスをとるにはこれしかなかった。
 私はこの原文のフランス語が好きだったので、原作者のコヴラルトともここのところについて話したのだが、ぴったり来る言葉がなかったのだ。humble というのは humilité につながる形容詞である。福音書的貧しさみたいなものだ。

 この辺も難しい。

 私自身は、臆病さと事なかれ主義から来るどっちかというと modeste なタイプだが、humble であるかは大いに疑問である。 

 最近、「キリスト教と金」というテーマで書くことがあり、書店に行ったら、「神と金」「聖書と金」「キリスト教と経済」というようなテーマの本があふれているのに驚いた。特にグローバル経済とキリスト教についての論考が多い。神学者兼経済学者、カトリックで経済学者などというような人がたくさん書いている。資本主義とキリスト教というと、なんだかピューリタン的勤勉主義の文献のイメージがあったので驚いた。

 要するにこういうことらしい。

 いわゆる「冷戦時代」は、カトリックは、経済のことを論議するのを控えていた。
 自由主義対共産主義という構図があったからだ。

 キリスト教はもとは、キリスト教的分かち合いの共同体という理想の伝統がある。
 その意味では共産主義や社会主義の方が親和性がある。しかし、階級闘争や武力革命や労働者という一階級による支配というような概念はないし、ましてや、冷戦下の「共産主義」というのはこれも伝統的に「無神論」の体制であった。その意味では宗教の敵である。だから、共産主義経済を擁護するわけにもいかないし、だからといって、自由主義経済を擁護するのも控えていた。共産圏出身の前教皇JP2は、自由主義陣営と組んで冷戦終結に貢献したが、自由主義経済の市場経済や消費主義を批判していた。

 で、冷戦が終わって、たがが外れたように、ネオ・リベラリズム経済が席巻して、弱肉強食が顕わになり、人々は、「(モノや金を)獲得する欲望」と「失う恐怖」との間で右往左往することになった。

 同時に、キリスト教側の、経済論の規制も解禁された形になって、ネオ・リベラリズムの批判や、警告や、正当化や、行くべき道を説くいろんな言説が巷にあふれていたのである。

 キリスト教と社会学とか社会政策、福祉政策についての論考が多くあるのは知っていたが、経済論議がこんなにあるとは思わなかった。で、今は、金融危機だというので、ここ20年近くのキリスト教陣営のさまざまな経済論議の是非が顕わになりつつあるのだ。

 レジス・ドゥブレが、ネオ・リベラルの「新・自由」でなく、いよいよ、埃をかぶっていた「fraternité」を棚卸して、「 humilité」で補強して提出して見せたのは、彼の「聖なるもの」の感性と切り離しては考えられない。

 「modestie」は他者との関係で生まれる謙遜だが、「humilité」は「聖なるもの」との関係で生まれる謙遜だということなのだろう。

 



 
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by mariastella | 2009-02-27 23:14 |

A l'origine

Un cinema Francais comme je l' aime!!

ここのところ『プチ・ニコラ』とか『メアリとマックス』とか、自分が選ばずに、何となく消化不良の映画ばかり行ってた後で口直しに Xavier Giannoli  の 『A l'origine』を観にいった。今年のカンヌに出ていたのにすごく地味に終わってしまった。 François Cluzet と Gérard Depardieuが出てる。

 フランソワ・クリュゼはヴァンサン・ランドンやなんかと同じでアンチヒーローっぽい、いかにも普通のフランス人だ。しかしこの映画はよくできている。私の好きなタイプの映画だ。

 詐欺師が失業にあえぐ地域の人々に持ち上げられて高速道路を建設してしまうという話で、住民運動の中心にでもなるのかと思ったら、地域の人を雇って希望を持たせて、本当に道路を造り、しかも実話だそうだ。
 贖罪というより、成り行きで、運命というより使命に捉えられてしまったという感じだ。
 しかし、あり得ない、あり得ないだろ、と思うので、展開が気になる。
 社会派の話で、労働者と失業者とチンピラと詐欺師が出てきて、舞台は工事現場ばかりで、それなのに、ハラハラの連続のスリラー仕立て。ハードボイルド風ですらある。
 何か日本ではあり得ない話のような気がするが。フランスでもノール地方というのでようやくリアルな感じだ。

 この道路建設が中止されたのはカブトムシのコロニーを救うための自然保護運動だったというのも、いろいろ考えさせられる。この工事の現場の機械類の圧倒的な存在感(ノール地方の機械レンタル会社のパトロンが全面的に協力してくれたそうだ)は、わくわくする。戦車よりもすごいし、破壊じゃなく、建設のために使われる。

 たくさんの人が協力して作ったものが私の周りにたくさんあって、その恩恵を日々受けている。なかにはもうこの世にいない人や引退した人もいるだろうけど、モノは残っている。巨大なインフラを見てると、いつも感動する。家にも、ビルにも。人工とか、人が手を加えるってことは、まさに「人間的」なことで、驚異的だ。
 カブトムシも巨木も自然の景観でも、感動したり、神の業、みたいな玄妙さに感心したり、あるいは雄大な気持ちになれるのだろうが、神ならぬ人間が、一人では絶対できないことをやってしまった結果のモノを前にしたときの方が、別の意味で圧倒される(私は、動物園の動物を見るだけで、牙も爪も毛皮もない人間がよく猛獣とか飼ってるなあ、とそのことばかり感動するタイプなのだ)。
 エコロジー原理主義の人が、自然を破壊したり管理したりする人間を批判したりするけれど、私は、先人の積み重ねて来てくれた「文明」に乗っかっていないとこの歳まで絶対にサヴァイヴァルできてないと思うので、感謝の心の方が強い。

 この映画を批判する評には、「嘘つきは人を孤独にして不幸にするが、連帯や協力は幸せ」というモラルが安易というのがあったが、フランソワ・クリュゼの演技がとても抑制的でかつ繊細なので、そういう単純な図式は決して透けてこない。

 日本で公開されないかなあと思って、今、日本のネットで検索したらなんと、カンヌの紹介で、

 「ある詐欺師の男は高速道路の建設現場の責任者のふりをして、金をだまし取ろうと企んでいた。しかし、この道路の通る街の女性市長と出会った詐欺師は、愛に目覚め、激しく動揺する。」

「 “フランスのダスティン・ホフマン”ことフランソワ・クリュゼと、アルノー・デプレシャン作品の常連女優、エマニュエル・ドゥヴォスを迎え、映画『情痴 アヴァンチュール』のグザヴィエ・ジャノリ監督が挑む大人の恋愛ドラマ。」

 と書いてあった。

 ええーっ!! 005.gif

 「フランス映画=大人の恋愛ドラマ」ってバイアスがかかってるのか?

 確かに市長との絡みはあるが、愛に目覚めたから動揺するんじゃなくて、仕事に目覚めたから、人を愛することも思い出したんで、逆だ。彼の考えてることは、多分本人にも何だか分らない、ただ、高速道路を造りたい、現場や機械に魅せられた、他人に認められ、感謝され愛されているうちに人格が変わった、などが渾然一体になっている。そのへんが面白いのだ。スリリングだし、映像の迫力もあるし。

 やれやれ・・・025.gif
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by mariastella | 2009-02-24 05:55

Amusia の不思議

 これは2月17日の「音楽脳の不思議」の続きである。

 オリバー・サックスの本を読み続けていたら、ようやくチェ・ゲバラの部分に来た。その後で、これもずっと私の気になっていた「音楽嫌いの大知性」フロイトの部分もあった。ダーウィンは初耳だった。
 
 フロイトなんて、ロマン・ロランとの大洋感情についてのやり取りを読んでいると(私はこれについて『大人のためのスピリチュアル「超」入門』という本で触れたことがある)、そもそも彼は、神秘感情とか、情動の嵐とかを絶対体験しないし、想像もつかない人に属する気がする。
 音楽を聴いても、何の感興も覚えないという人たちも実際にいるので、それは、まあ、神経障害の症状の一種でもあるらしい。そんな人たちが、分析的統合的な大知性を持っていることは当然あるので、彼らの思想と、その情動障害がどのようにつながっているのかは興味のあるところである。

 ゲバラは、マンボとタンゴの区別がつかなかったし、音の高低の区別もつかなかったそうだ。
 でも、踊っていたそうだ。歌えなかったから踊っていたのかな。リズムは認識できないが、聞えてはいたのだろう。
 リズム障害を持つ私の生徒でも、メトロノームを聴きながらなら曲を弾ける人がいる。ただ、自分の内部では、基準になる音の長さをまったく記憶できないのだ。ゲバラはそれっぽい。

 音楽障害には、ざっと、次のようなものがある。このうちのいくつかが組合わさっていることもある。

 音の高低の区別がつかない。

 音色の区別がつかない。(すべてが鍋を落としたような金属音に聞えたりする。声色の区別はつくことがある)

 リズムを認識できない。

 メロディーを認識できない。(簡単な曲も区別がつかない。つまり聴覚情報の脳内構成ができない。)

 ハーモニーを認識できない。(たとえば、四重奏を聴いたら、レーザー光線が4つの別々の方向に放射されるように聴こえて、相互の関係や全体は聴き取れない)

 そして、音楽が認識されるのに、情動反応がない。(ととえばバッハのフーガの構造には感心できても、感動はない)


 おお、なんと、豊かな世界なのだ。逆説的ではあるが。

 そしてすべての障害はグラデーションだから、私たちが「あの人は音楽の才能がある」といっても、いろいろな部分のいろいろな発展が複雑に組み合わさっているのだろう。

 そしてサックス教授のいつもの話のように、これらの障害は、脳外傷や卒中などによって、一部の機能を失ってしまった人による証言によって仕組みがどんどん明らかになる。

 こうなると、音楽が普遍的なメタ言語であるというような言説は、幻想だなあ。

 脳障害によって、音楽の統合力を失う人の中には、耳から聞いても理解できないが、前に聴いて知っている音楽を脳の中で再現することはできる人がいるらしい。つまり「イマジネール」は壊れていないのだ。新しい聴覚情報の処理だけができない。
 ところが、イマジネールを失う人もいる。すると音楽の記憶というのはすべてなくなる。

 これは視覚でもそうらしく、普通の人は目を閉じても、いろいろな視覚記憶を思い浮かべることができる。
 しかし、脳神経障害で途中で視覚を失った人の中には、視覚記憶も失う人があるそうだ。

 そういう人はたとえば、「数字の3」と言っても、その形を思い出せない。指で空に形をなぞることはできて、形の運動記憶としては残っている。視覚記憶を運動記憶と入れ替えながら思い出していかなくてはならない。

 完全な音楽障害に陥ったけれども、情動だけは残るという人もいるそうだ。そういう人は、情動の記憶は持っている。ある人にアルビノー二のアダージオを題を伏せて聞かせたところ、その人は、その曲ははじめて聴くと言った。しかも、どういう曲かを認識できないにもかかわらず、「何か哀しい気を起こさせる。それは昔、私がアルビノーニのアダージオを聴いて感じた気分を思い出させる」と答えたそうだ。

 この本を読んでいると、演奏についても、音楽教育についても、鑑賞についても、批評についても、いろいろと考えさせられるのだが、では、絵画ではどうなんだろうと思う。

 普通、ある曲を聴いたりある絵を見たりしても、好き嫌いはそれぞれだから、という部分は当然出てくる。だから一億総評論家にもなれるし、主観や思い込みと言うものが科学の分野でのように馬鹿にされるわけでもない。

 でも、ある絵画を前にしても、その情報の処理の仕方は、きっと千差万別なのだろう。

 色は見分けられるが形は見分けられない人、
 個々の部分は見えるが、統合した全体が見えない人、
 決して情動に結びつかない人、

 つまり、さまざまなレベルの美術障害、の人もいるんだろうなあ、途中でそうなる人も。

 音楽障害も、実態が分るようになってきたのは最近で、それまでは単に自分は音痴だからと思って音楽の授業や付き合いでの音楽会にずっと耐えてきた、という人たちが、次々にカミングアウトしたらしい。

 読書障害、というのも確実にあり、これは、子供の学習障害の一種として認識もされてきた。文字面は読めるのだが、情報の蓄積も統合もできない。

 何らかの音楽障害を持つ人は人口の5%であるとも書いてあった。
 情動障害は、Anhedonia って、一種の幸福障害でもあるそうだ。

 これらって、治療可能なのか? 
 また、このような「障害」は、相対的なものであって、呼吸障害とか意識障害とか代謝障害と違うから、本当に「病気」といえるのか? 
 別の実存的な意味を持つものなのだろうか。それらの「障害」と偉大な知性や思想や哲学との関係は? 
 このような障害によって、自分ではどんなに想像しても「分らない」分野を持つ人の孤独とは?

 器官的な聴覚障害は、音楽障害とは言わない。重い聴覚障害のある人が「音楽」の「イマジネール」を「健常人」と共有できないというのは、双方共に想像がつく。
 しかし、聞えるのに聞えていない、見えるのに見えず、読めるのに読めない。そのような断絶には、どのようにより添えるのだろうか。それが自分自身の「自覚されていない障害」である時は?

 私は猫という異種と暮らしているので、彼らの認識体系やイマジネールが実は私達と全然違うと思いつつ、それでも、互いに妥協して満足に寄り添えあうという体験を日々している。それが僅かだが救いの光を投げかけてくれるように思うのは、気のせいだろうか。
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by mariastella | 2009-02-22 22:17 | 音楽

アートと宗教

 「アートと宗教」というタイトルをつけたが別に大論文ではなく、昨日の続きである。

 若山さんの力作において、そのいわゆる学問的考証の幅と深さは読んでいてわくわくする。でもそれをすごく無邪気に楽しめるのは、たとえば天井画における寓意肖像画の解釈などの場所であり、つまり、解釈の根拠が歴史的な背景のみで説明されているような部分である。

 そうではなくて、解釈が神学的であったり、しかも、「当時の神学のトレンド」というものではなく、無時間的、非時間的な恩寵とか神の摂理とか信仰とかに裏付けられている部分は、つい、完結した「信仰告白」として読めてしまうので、その後で口を挟める雰囲気を拒む。

 私はこのシスティナの天井画の『ノアの泥酔』のエピソードについて、その選択も、構図も、年とった父親と3人の息子の裸とその美醜と禁忌の扱いも、前からすごく気になって仕方がなかった。
 若山さんに貴重な御著書をいただく前にすでに、メールで質問をした。
 
 私の関心の持ち方が浅薄であることは指摘されても仕方がない(そうはっきり言われたわけではないが)。

 天井画全体の構成とバランスとの中でしか論じられないものであり、その場面だけとってマニアックなディディールに卑しい想像をめぐらせるのは、美術鑑賞としても、学術的姿勢としても、もちろん宗教的アプローチとしても間違っているので、ただの野次馬的好奇心であるのは自覚している。

 で、ミケランジェロにおける、人間の、もっと言うと男の肉体へのフェティッシュな感じというのは、もちろんルネサンスという時代と切り離せないわけだが、この天井画はやはりその表現の場だったという気がする。

 もちろん当時のイタリアには、宗教としては、ほぼローマン・カトリックしかなかったのだから、そして、アーティストに作品を注文してくれるパトロンというのもほぼ、宗教的文脈と切り離せないのだから、聖書だの神の摂理だのが無関係だということはあり得ない。でも、彼らには、宗教的宇宙観について「選択の余地」はほとんどなかった。そして、「選択の余地のないフィールド」とは、、アーティストの枠組みであり場であり、規制ではあっても、彼らにそれを「成就」するというような意識は生まれるのであろうか? 

 ミケランジェロの話の後で、自分の卑小な体験談を持ってくるのは気が引けるが、私のトリオは2003年に、日本でコンサートをした。大学や施設やサロン・コンサートもしたが、4箇所のカトリックの聖堂でも弾いた。そのうち3つはチャリティーコンサートで、2つは、神戸と東京の教区の教会である。

 その東京のコンサートが終わった後で、主催してくれた方から、「教会で異教の音楽のコンサートをするのはどうかという声が最初はあったので心配した」といわれたのには非常に驚いた。

 「異教の音楽」?

 確かに、17-18世紀のフランスのバロック・オペラは、まさに、当時の権力や宗教から口を挟まれないようにということもあって、舞台を神話世界や異国に設定するものが多かった。

 私たちの演奏するオペラ組曲も、歴史の実話に題材をとったエジプトの悲劇の女王を巡る話である。だから、精霊を召喚する場面だとか、ナイルの神殿に奉納する祭りのシーンとかが出てくる。だからエキゾチックな部分もあるが、そういうのはルネサンスを経て、すでに当時のヨーロッパのハイブリッド文化の常識の部分であり、ピューリタンの世界ででもない限り、特に異教的とかいうものではない。ファンタスティックな娯楽というだけである。
 それでも当時は確かに、復活祭前の四旬節とかのいわば「忌み」の期間には、世俗の娯楽の上演が禁止されていたんで、サロンや劇場ではもっぱらモテットやミサ曲などの宗教音楽が上演された。。
 でも、その時のそういうモテットやミサ曲や聖歌などきくと、オペラ曲と同じ構造を持っているのが分かる。
 聖書を題材にしてとてもドラマティックなバロック音楽になっていたり、オルガン曲がまるで舞踊組曲のような構成やフレージングを持っていたりする。
 作曲者も、演奏者も、聴衆も、たとえば四旬節の間だけ「敬虔な宗教音楽」を聴いて、それがあけたら「世俗の音楽」が解禁になってそっちに行った、という感じではない。
 シーズンによって、タイトルが違うだけで感性や実態は同じなのだ。
 
 当時からそんなものだったし、もちろん、私たちは今も、フランスの各種教会でコンサートをすることが少なくない。

 音響が悪くない場所が多い。
 場所と常連がすでに「ある」のだから、オーガナイズしやすい。
 安い。メンテナンスや集客の問題も少ない。向こうに負担がかからない。
 チャリティーコンサートにしたり、寄付を申し出たりすると無償で借りられることも多い。
 数が多い。
 そこの司祭さんか市長さん(教会の建物自体はたいてい市町村の所有物)と個人的な知り合いであれば(あるいは単に自分の住んでいる地区の文化担当や、教会に連絡すれば)、簡単に便宜を図ってもらえる。

 ま、フランスの教会は、演奏場所を探している室内楽系のミュージシャンにとっては、建物がしっかりした昔からある公民館みたいな感じである。

 まあ、よほど、過激で挑発的なコンサートとかなら、ひょっとして断られることもあるのかもしれないが、外国の民俗音楽であろうと、現代の映画音楽であろうと、チェックされない。
 特に私たちのように、基本的には18世紀の音楽、なんて、もうそれだけで、アンシャンレジーム下の音楽なんだから、無害であることは自明だ。

 そして、私たちは、音楽の中にある、スピリチュアルなメッセージというものには非常にひきつけられるのだが、たとえば、「神学的公正」みたいなことは、頭をちらりとよぎりもしない。メンバーの一人は無神論者だし。それも、家庭的に無神論文化で育っただけで、闘争的無神論者ではない。私たちは、日本で、関西での1週間ほどを修道院でお世話になったのだが、宗教がどうの、信仰がどうのなどということは全く問題にされなかった。

 だから、東京の教会で、「異教の音楽はいかがなものか」みたいなことを耳にして驚きでぶっとんだわけである。彼らには、「(本家の)フランスでもしょっちゅう教会で弾いてます」ということで安心してもらったわけだが、実際、私たちは、どこで弾くかということに対して、「信仰の問題」とかましてや「教義の問題」などを絡めて考えることはない。
 もちろん、グレゴリオ聖歌の本場の修道院で聖歌を聴くとか、レクイエムを聴くのはやっぱり教会だよね、とか、パイプオルガン曲はあの聖堂で、とか、歴史と伝統と音響効果とアートと精神性がぴったり一致して感動させられるシーンというものはある。比叡山の声明は国立劇場より比叡山で聴きたい。ギリシャ悲劇は野外の円形劇場で観たい。でも、それは、鑑賞者にとって別に信仰を共有してるとかの問題ではない。
 もちろん信仰によって、鑑賞のディメンションが変わってくるということはあるだろうが、それは、アート批評の言葉にはならないだろう。

 そして、演奏者の端くれとしていうならば、自分のレパートリーを弾く時に、音響効果とか、演出とか、客層(子供もいるとか、プロがきてるとか・・・)には気を使っても、教会(=神の家)で弾くから、神の声に呼応しようとか、そこの教義やら、神の恩寵やらとかを考えることなんかは、あり得ない。

 まあ、教会に頼まれて、天井画を描いたり、壁画を描いたり、彫刻を創ったりする人には、今でももちろんいろいろな神学上の制約もあるだろうし、自分の信仰との折り合いというのもあるんだろうが。

 それでも、アーティストというのは、ありとあらゆる制約をいかにしてかいくぐって、自分のクリエーションを自由に表現するか、ということに常に挑戦する者で、それが、壮大な神の摂理に一致するかとかなど、たとえルネサンスの時代でも、考えていたとは思えないのだ。
 ミケランジェロはあの広大な場所に、裸の肉体をあれこれとりまぜて心ゆくまで描くことがすごく嬉しかったと思う。たとえ、作業がどんなに苦しく、重圧があり、ストレスが大きくても。

 あ、もちろん、「神の方からアーティストに働きかけた」というのは別だ。アーティストが自分でもそれとは知らずに神の道具としてクリエーション(=啓示)に参加するという見方は、それもすでに「信仰の言葉」であるから、これは確かめようがない。

 ルネサンス後期のイタリア、ましてや18世のフランスなどは、すでに、支配体制としてのカトリック教会のあり方について、大いなる疑問が突きつけられていた時代であるから、聖職者も含めてインテリの間では、「神の摂理」というのも、教義の壁をするりと抜けて、有神論だとか理神論に近い、シンボリックな霊性に向かっていた節もある。
 まあ、人生には誰でも霊性についての感受性の波があるものだから、本気で「信心深く」なったり回心に向かう時期もあるとは思うが。

 一般的に、なんだかアーティストというのは、本質的に悪魔、といっては悪いなら、堕天使みたいな部分があるのではないだろうか。

 いや、だからこそ、信仰の枠を確かめて境界領域でせめぎあう人も出てくるのかもしれない。

 どちらにしても、システィナ礼拝堂を見ると、それを我われに残してくれた、ミケランジェロや、ユリウス2世や、ローマ教会や、神に感謝、というしかないけれど。
 やはり、普通の人の想像を超えたアート作品こそが神の恩寵の証明、存在証明、かもしれない。すぐれたアートを残してくれない神なんて、いてもいないのと同じだよ、と思わず言いたくなる。

 
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by mariastella | 2009-02-22 21:12 | アート

では、アート批評はどうなるのか

 この前の記事のNicolas Berdiaev は、キリスト教の啓示はすでに聖書にすべてを含んでいるのか、それとも新しい啓示はあり得るのか、ということについて、こう答える。

 聖書の中の啓示は、はっきりと顕れたものと、いまだ包まれたものとがあり、それをあらわにしていくのは人間の創造的精神による自由の行使に他ならない。

 これには終わりというものはないし、人の数だけ表現の多様性もある。
 この辺はいいのだが、いいのだが、しかし、Berdiaev は、その後で、次のように言ってしまう。

 真の宗教的クリエーションとは、キリストによりキリストのうちに精神を強くされる、法(戒律)の真実と贖罪の真実を成就する人間にとってのみ可能なのである。

 このBerdiaev このは、キーエフの貴族で、革命派だったのだが、最初はその社会民主主義的意見ゆえに北に追いやられ、ロシア革命後はパリに亡命した。
 
 いわゆる宗教芸術において、アーティストの信仰が大いに関係するのは分かるし、そのクリエーションを、神の啓示の継続と見るのも、まあ、納得がいく。
 それを「鑑賞する側」も、自分の人生における、あるいは自分の生きる世界における神の業を読み解くために、「鑑賞」によって、啓示に参加するというのも分かるのだが・・・

 宗教芸術においては、王道かもしれないのだが。

 でも、その「宗教」を共有しない異文化圏、異宗教、または無宗教の人による鑑賞はどうなるんだろう。

 私は昔『ユリイカ』(1996年1月号)で、バッハの音楽について、ミスティックな感性の持つシンボリックな力というものは、宗派のコンテキストを超えて普遍的であるというようなことを書いたことがある。
 
 それは、「こっち側」からの視点であった。
 どんな人間でも、生病老死の実存的条件を背負い、超越(=あっちの世界)を思いやる潜在的な動きがあるものだから、それが、育った文化や時代によっていろいろな形をとるとはいえ、共通する聖なるものへの表現になり得るという話だ。

 でも、出発点が、「あっちの世界」であれば?
 超越によるこっちの世界への絶え間ない自己表現と、それを受けたこっちの世界のアーティストがそれを「成就」させようとしているのであれば?

 ルネサンス美術の研究家である若山映子さんの

 『システィーナ礼拝堂天井画―イメージとなった神の慈悲』(東北大学出版会)

 については、また別のところで書かせていただこうと思っているが、この大力作を読み始めて、驚いた。

 普通、芸術批評、特にアカデミックな研究書というものでは、それがいかに「宗教芸術」であろうとも、批評家の信仰告白はまずなされない。もちろん、アーチストがどのような社会的時代的環境にいたかということは研究分析の対象になるし、たとえば図像学な考証というものは、不可欠でもある。

 日本のような国で、ヨーロッパのアートを云々する時は、これが結構盲点にもなっていて、たとえば、ある作家がどの国のどの時代のどういう宗教環境で育ったかということは無視されることが多い。確かに、作家の個人史を抜きにして、顕れている作品の部分だけを観察するというやり方もあるが、それは、背景となる文化や感性がある程度自明だとかいう場合が多く、意図して語らないのと、無知や無視とは別である。思想家や哲学者や、無神論者と自称する作家においてさえ、いや、無神論者であればなおさら、どの時代の宗教観とに摩擦があったはずで、その機微を理解しなければ、すっぽり抜ける部分がある。

 で、ミケランジェロの作品などは、当時のローマ教皇の依頼で書かれたものであるから、完璧な宗教芸術であるわけで、その批評的鑑賞というのには、本来ものすごい宗教的教養を必要とするのは言うまでもない。

 といっても、それを看過するのはまあ問題外としても、普通は、研究者が研究書を出す時は、少なくとも、そこに、その宗教に対する「自分の信仰」とかスタンスを前面に出さないというのが通例ではないだろうか。

 ところが若山さんのこの本は、まさに、Berdiaev のいうような意味での、「啓示の読み解き」なのである。

 システィーナ礼拝堂天井画のような作品を鑑賞するにはそれ以外のやり方はない、と Berdiaev には言われそうだ。しかも、それが、21世紀に生きる日本人女性による信仰告白なのだから、まさに、啓示の多様性と普遍性を象徴している。

 しかし、この膨大で緻密でそれでいて、信仰のたえまないフィードバッグにはっきりと裏打ちされている研究書について、宗教者の側からの感嘆の声も、研究者の側から反響も、少なかったらしい事実は、何を示しているのだろう。

 宗教者の側では、著者の信仰の密度に圧倒されてそれを受け止められなかったのか、あるいは、単に、美術鑑賞の基本スキルの差が大きすぎたのか。
 研究者の側では、「学問的」な「研究」に、個人の信仰告白をこれほどまじえた批評を前に声を失ったのか。それは「正論」の前での畏れでもあり、焦りもあったのだろうか。

 しかもこの本における、いろいろな解釈は、非常に歴史的、実証的、美術史学的、宗教解釈的な根拠に基づいているのではあるが、底に流れるのは、神の摂理に関する著者の信仰であり、確信である。

 それは、学問的な部分と、信仰の部分というのにとても分けることはできない不可分のものである。

 それを思うと、少なくとも著者やミケランジェロと信仰を共有しない人から見ると、「対等な批評の場が開かれていない」という気持ちを起こさせるものかもしれないし、共有するものにとっても、向かい合うには重すぎるものとなるかもしれない。

 ミケランジェロの時代の宗教と文化の空気の一部が今でもそのまま社会の空気の一部となって共有されているようなローマのような町でなら、この本の登場には違和感がなく、気負いも、警戒心も引き起こさないだろう。

 でも日本のように、私が『レオナルド・ダ・ヴィンチ-伝説の虚実』(中央公論新社)で書いたように、ダヴィンチもダン・ブラウンも各種陰謀説もニューエイジもノストラダムスも宗教ものや終末論もののアニメもゲームもマンガもみんな同じのっぺりとしたヴァーチャルな場所でひとからげに語られたり消費されたりされる場所では、この本は、多分、存在感が、ありすぎる。
 
 現在生きている一人の人間の人生の重みをかけて、宗教を通した現代社会への平和のメッセージもこめて、偉大な預言者としての芸術と芸術作品の読み解きによる「成就」を目指すという試みを、まともに受け取れる人がいるのだろうか。

 それは、日本語で何かを書くときの私自身のやり方とも全く反対方向である。
 つまり、あるアートがどんなに私個人の深いところに達して存在の根を揺さぶろうとも、それを批評の言葉にするためには、そこから、「個人」性やそれに基づく情動の部分をいかに削っていくかというのが、私が普段やろうとするやり方だ。
 それがうまく行けば、たとえ特定の「信仰の言葉」や「情動の言葉」を注意深く全部切り捨てても、なお、そこに残った「気配」が多様な他者の存在の根に触れるかもしれない。

 触れないかもしれない。

 それでも、触れない故に、ニュートラルなのっぺりした批評空間の片隅に無害な顔をよそおって残ることができるかもしれない。そしたら、そこで多様な他者と触れ合って、別のルートでやってきた別の啓示の「気配」を見つけることができるかもしれない。

 Souzenelle やBerdiaev の感性のことを考えると、若山さんが東方正教の諸美術をどう解読なさるのかに、とても興味がある。
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by mariastella | 2009-02-21 01:42 | アート

クリエーションと超越の関係

 アートとクリエーションとか、インスピレーションとか、超越や聖性との関係とかいうと、何か、見えないあっちの世界に天国的な何かがあって、こちらの世界でそれをキャッチできる霊能者的なアーチストがそれをこっちの世界で形にできるんだ、見たいな感じが伴いがちだ。

 実は、一神教におけるクリエーションとはその逆で、この世界のクリエーションという形でしか神は自分を表現できないというか、美とは完全にクリエートされた世界での現象である。

 ヴァレリーだったかが「もっとも美しいものとは永遠の中には姿を見せない」というのはそういうことだ。
 美しいものとは何一つ生命と切り離すことができないし、生命とは有限=死ぬもののことである。
 多くの人が美についてい抱く、何かある「不滅」の概念というのは、死との対称性によってのみ支えられる。

 Annick de Souzennelle が、Nicolas Berdinaev について書いてるのを読んで、啓示というのは、Extraordinaire(超常) に現れる出来事でなくて、 ordinaire(常) に現れるからこそ啓示なんだなあ、と思ったのとつながる。Berdinaev は、人間の創造的作品は、聖書によって啓示されるのではなく、人によって自由に顕されるのだ、と言う。

 偶像というと、人間の創ったものだからよくないよ、と一神教は思いがちだが、偶像を「神だ」と言い立てて、私利私欲に使う輩が出てくるからよくないので、偶像は、立派なクリエーションでもあり得るし、美でもあり得る。

 キリスト教は受肉だとか、三位一体とかで、この辺の一方通行をなくしたんで、Annick de Souzennelle なんかは、神が人になったのは、人が神的なものであるためだ、とすら言っている。

 神が天地創造しなければ、神は無限なので、自分の姿や自己というものがなく、自分を知りたい、見てみたい、という欲求に駆られてクリエーションしてしまったのだ、という言い方もある。

 こういう感じだと、地上のクリエーターは、別に、この有限の世界に捕らわれた囚人が永遠の世界に憧れて、そこからインスピレーションを受けて神的なものを創る、なんて思わなくても、ここにクリエートされた自分や世界そのものが、聖なるものの唯一の存在表現なんだなあ、と地に足をつけて、安心してクリエーションを続けていけばいいことになる。
 
 超越についてなんて、頭を悩まさなくてもいい。超常の地平に啓示を求めなくてもいい。

 こういう感性は結構、東方正教会的だなあ。

 昨日買ったPhillippe Sers の 『Verite en Art』 を読むのが楽しみ。

 
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by mariastella | 2009-02-20 23:54 | アート

ヴォルテールの哲学辞典

 ヴォルテールの哲学辞典の宗教の稿で、後のマルクスの「宗教は民衆の阿片」にもつながる話が出てくるのだけれど、いつも身につまされる部分がある。

 音楽愛好家同士が、一緒に musique savante et raffinee (学問的で洗練された音楽)のコンサートをやってるのはいいけれど、野蛮な輩の前でそれをやると楽器を頭に叩きつけられてしまうよ、普通の村を統治するにはやっぱり宗教を与えなきゃ、

 というくだりだ。この学問的で洗練された音楽というのは、明らかにルソーの音楽でなくてラモーの音楽だ。
 ここでは、もちろん、インテリの間でさかんだった非神学的な哲学論議のことを言っている。

 18世紀のインテリの多くにとってはすでに、「教会主導」のキリスト教などは女子供と民衆のものであって、啓蒙の「蒙」にあたるものだった。まあ、ヴォルテールは19世紀的な無神論者ではなかったので、ユニヴァーサルな神(=至高存在)と超越の価値は信じていたのだが、こうはっきりいうのを読むとどきっとする。
 
 それはもちろん、私が、musique savante et raffinee の愛好家であって、仲間うちで、せっせとコンサートを企画したり、他の人も「啓蒙」しようとしているからだ。

 ヴォルテールがこの場でこういう比喩を出したのは、それなりに、奥深いというか、私にとっても本質的な何かを示しているような気がする。
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by mariastella | 2009-02-19 00:07 | 雑感

フランスの海外県の「造反」

今、グアダループやマルティニックで、ゼネストなどが起こり大変なことになっている。

ヨーロッパの多数の「地域」の中で、もっとも失業率の高い4地域が、すべてこれらの「フランス海外県」だそうで、25歳以下の若者の失業率は70%に近いというから深刻なのだが、この話になると、地政学的にはこれらの海外県や海外領土はヨーロッパじゃないだろう、という議論が必ず出てくる。

フランス「本土」に住んでる日本人なら一度は、えっ、カリブ海の島なんて植民地の存続じゃないの、と思うのだが、そのことをフランス人に言うと、なんだか話がうやむやになる。

確かに、旧仏領インドシナとか北アフリカとかの旧植民地なら、戦争や独立戦争を経て、歴史のコンセンサスとして、帝国主義的支配は過ちだった、民族自決が正しい、みたいな「反省」があるから偽善的でも一応落ち着きがいいのだが、たとえば、海外県のマルチニックなどはちょっと違う。

すでに先住民の文化があったところに、より優勢な(軍事)技術を持った国が乗り出していって、支配し、その後で、謝って出て行く、という構図でなく、植民者の他に、アフリカから奴隷を連れて来て労働力にした。その「奴隷の子孫」は、アフリカに帰るわけにもいかない。

フランス系のハイチなんかは、フランス革命の精神を受けて、世界初の黒人の共和国になって独立したが、「白人」がどっと引き上げると、インフラのメンテナンスがなくなって、世界有数の貧困国になったままうっちゃられた側面がある。民族自決という文脈ではない。

まあ、帝国主義の終焉の後、住民投票とかがあって、海外県や海外領土の人たちは、自主的に、フランスの一部として残ることを選択した、ということになっている。

しかし、フランスがなまじユニヴァーサリズムの看板を上げているので、これらの海外県や海外領土では、歴史によって紡がれた差別や不利に見てみぬふりがなされてきた。そのツケが今頃来ているのは遅すぎるといっても言い。

パリ地方にいると、一昔前では、見かける黒人というのは、食い詰めてアフリカからやってきた移民という風情が多くて、黒人というとアメリカ黒人のスポーツ選手のような体格のいいイメージのある日本人にとっては、驚くほど貧相に見えることもあった。

ところが、海外県からやってくる黒人は、アフロ・アメリカ人と同じく、概して体格がいい。奴隷労働者としての過酷な生存条件に耐え抜いた強者だからだろう。サッカー・クラブがかの島々に有望選手を引き抜きにいくことはよく知られている。

私が直接よく知っていた二人のマルティニックの黒人は、男性の左官屋さんと、女性の飛行機の客室乗務員であり、いずれも、音楽の生徒であった。男性は小山のように大きく、強烈な体臭を放ち、女性は元ミス・カライブで、これも圧倒されるようなグラマラスなボディの持ち主だった。彼女とは一緒に外出もしたが、必ず男たちが振り向き、声をかけてきた。

私が日本人であることもあり、彼らの状況について素朴な疑問をいつも投げかけていたので、マルティニックの状況について、いろいろ話を聞けた。

アメリカの独立戦争のことや、フランス革命、日本の過去の植民地の話、ローマの属領だったイエスの頃のユダヤの抵抗勢力、今のパレスチナの紛争、そういうテーマに思いをめぐらせる度に、フランス海外県をめぐる偽善や光と影が、ある種の実感を与えてくれる。

いつかこの話も書くことになるだろう。今は暇がないので、覚え書きまで。

 
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by mariastella | 2009-02-18 22:40 | フランス

楽器演奏と摩擦と身体感覚

 千葉工業大の平塚健一さんが『トライボロジスト』(第52巻10号)に発表なさった『ギター演奏のためのトライボロジー』という論文を読ませてもらった。
 平塚さんは摩擦触媒とか磨耗機構の専門家で、ギタリストでもあり、楽器演奏と摩擦感覚や身体技法について関心が深い方だ。前にパリにいらっしゃった時に私のトリオのメンバーとギター奏法について話し合ったこともある。もちろん楽器を使って。
 
 私はピアノとギターを弾くが、そこでは自分の指先が楽器の一部である。楽器演奏の可能性というものは、楽器の性能によって左右されるので、演奏者はいつも自分にとって、あるいは、これこれの曲にとって最高の楽器との出会いを夢見るものであるが、自分の指自体の与件は変わらない。この点はいっそ潔い。
 もちろん、音楽性や反射神経はほとんどすべて、指ではなく脳を鍛えるしかないのだが、実体としての筋肉を鍛える、柔軟性を獲得するとかいうのは、身体的であり、「自分の持っているもの」と折り合ってやっていくしかない。手指の長さやそり方や指先の丸さや爪の角度や硬度は、どうしようもない。つけ爪を利用する人も中にはいるし、爪の形の整え方や磨き方というのは、みなが工夫する。それも、自分の指といっても、爪のつき方の角度や、指先の形は、各指によって違うのだから、話は細かくなる。(リストやパガニーニのようにおそらくマルファン症候群であったが故に、超絶技巧を得た人もいる。)
 その上、指の温度や湿度というのもあって、これは体調や室温によっても変わるから、本当に微調整が必要で、実際は、どんなに冷たく湿っている状態でもある一定以上の演奏を保証できるようにテクニックと経験をつむしかない。

 私がヴィオラを弾くようになって15年近く経つが、40の手習いだったせいか、今でも、弓が完全に自分の腕や手指の延長のように感じられるということは残念ながら、ない。しかし、摩擦の喜び、摩擦感覚というのはたっぷり味わえた。
 ヴィオラにおけるこの自明な摩擦感覚がなければ、平塚さんのいうようなギターにおける摩擦感覚のイメージがつかめたかどうかは分からないくらいだ。

 私は、いつも音楽を聴いていないと落ち着かないというような音楽マニアであったことは一度もない。演奏者で音楽マニアの人ももちろん多いが、音楽マニアで、音楽性においても造詣においても、私なんかは足元に及ばないような人だけれど自分では何の楽器も弾かないという人もいる。演奏と鑑賞の二つは独立してるらしい。

 私は小さい時から、音楽とはバレエのレッスンの時に聴くかピアノのレッスンの時に聴くか、とセットになっていたので、身体感覚と切り離せなく、じっとして耳だけすませるというのはむしろ苦手である。もっと小さい頃でも、何だか、母の背におんぶされて揺すられて聞いた子守唄というイメージで、身体感が強い。

 バロックバレーをはじめてからは、演奏と体の動きの関係を意識して追及しているので、ピアノの演奏にも指を鍵盤に落とすまでの空間の軌跡とその離し方の緩急を舞踊的に表現するようになった。
 特に、はじめてピアノを習う大人の生徒で体が硬直、緊張しているような場合は、その場で足踏みさせて、だれでも歩行の時にはできている自然な体重の移動と地面の重力による反作用の感覚を再発見してもらうことにしている。これまでに、合気道もやっているという大人の生徒が二人いて、私の言うことは、合気道の先生の言うことと全く同じだ、と、二人共に言われた。

 平塚論文でも武道家の甲野善紀さんの井桁崩しの原理などが言及されている。
 楽器演奏は、一見不動で「小手先」の技術に見えるのだが、実際は、武道や舞踊と親戚で、全身の身体感覚の把握と調整なしにはあり得ないということだ。

 で、平塚さんは、それでも、身体各部の連携を徹底的に分析して摩擦感覚を「意識化」して自在に操っても、その上で、その意識をすべて忘れるような境地に至らないと高貴な音とは出会えないと、とってもスピリチュアルな結論に至る。

 演奏における「意識化」とは、「気付き」であるが、「気づいたとは、気づかなかったものを無視して、かつ時間を止めた結果得られたものだ(平塚論文)」からだ。
 認識とは過去の総体であり、演奏とはたえず変化する今を生きることであるから、摩擦感覚も含めた認識の主体である自我を捨てなくてはならない。そうすれば心と音楽が直接呼応して高貴な音が聴こえてくるだろう、と言う。

 時間論や認識論の範疇に行く。哲学的な話だ。

 最後の、「心と音楽が直接呼応して」と言うところでは、「身体」はどこへいったのだろう、と少し心配だが。
 というのは、身体とは感覚の認識にだけ還元できるものではないと思うし、まさに心と音楽が呼応する「場所」でもあるからだ。

 彼の目指す「高貴な音」を、身体イメージとして記憶し、積み重ね、醸成させるということも実感としてあると思う。つまり、演奏中に絶えず変わる一瞬一瞬と言っても、演奏とは、身体の技法のストックの中から紡ぎだされるものであるだけでなく、新たな身体記憶を確実に刻むものであるからだ。

 ま、言うは易し、行なうは難し、というのは常なんだけれど。
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by mariastella | 2009-02-17 23:08 | 音楽

音楽脳の不思議

 先日(1・26)少し触れたオリバー・サックスの新著『Musicophilia』によれば、彼自身がいろいろな音楽系の不思議体験をしてるらしい。

 60年代にアンフェタミンをやったら、一度耳にしたどんなメロディもピアノで再現できた、70年代にショパンの曲だけ金属音で聞こえた、母親が亡くなって落ち込んできたときに偶然シューベルトを聞いてたちどころに立ち直った、など。

 語るのがオリバー・サックスだから、音の不思議体験ってみんな神経系のバグなんだなあ、と思ってしまう。アスペルガー症候群の人の異能異才とかはよく知られているが、一度耳にした音楽をすべて再現できるなんて、普通は「羨ましい音楽の才能」と見なされるものである。

 円周率を何万桁と暗誦できる異能がある人や暗算の天才なんかは、まあ、コンピューターもある世の中だから、そう「羨ましい」とは思わないが、メロディー記憶の「音楽の才能」があるのとないのでは、音楽家の人生は全く変わる。
 しかし、そのような「才能」も、超能力のようなアクシデントの一種なんだろうか。だとしたら、人が普通に生活して生き延びるには、そういう異能をどれだけ「封印」できるかこそが大事なのかもしれないが。

 私のトリオの友人のHなんかも、内的メロディが耳について離れないことがあると言っていた。
 私には幸か不幸かそういう体験がない。
 アンサンブルをやってると、仲間の体調から心理状態まで全部分かるという体験はよくあるが、それも時としてつらいし、なんというか indecent なので、あまり深く見ないで、封印しようとすることもある。こちらが相手の深部に入ると、向こうもそれをキャッチするからで、それが引いてる最中の曲想とかなら問題ないのだが、そうではなくすごくプライヴェートな事項の非言語領域だったりすると、互いに非常にばつが悪い。  

 音楽脳においては、神経のバグは、コミュニケートの領域まで広がるということだろうか。

 チェ・ゲバラに音楽脳障害があったというのは有名な話らしいが私は最近知った。それはいわゆる「真性音痴」みたいなもので、聞いたメロディーを絶対に再現できない。これはこれでとても困る。私の生徒には、内的リズムを刻めない人が2人いた。arythmique と言う。この人たちは、何度も聴くと、それをまねることはできる。しかし、楽譜を見て音符の長さを調整できない。テンポを記憶できないのである。メトロノームと一緒に弾くことはできるのだけれど。

 ゲリラの生活には何となく歌が似合うと思っていたので、ゲバラは気の毒に、仲間とのコミュニケーションに苦労したんじゃないかと考えたりする。まあ音楽を禁止する宗教もあるくらいだから、団結と音楽は必ずしもペアにならないかもしれないけれど。

 
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by mariastella | 2009-02-17 01:25 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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