L'art de croire             竹下節子ブログ

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ソリプシストKのための覚書その4

 エリカによれば、ソリプシストKは、ユダヤ教がもっともソリプシストであると言っているそうだ。

 これはおもしろくなりそうだ。

 ユダヤ教はキリスト教がユニヴァーサリスムとして派生する前の母胎の民族宗教なのに。

 Kは、ドイツ人の仲間ばかりと付き合っていた時期と、ユダヤ人とばかり付き合っていた時期があった。

 ソリプシスムとユダイスムの関係の分析は2箇所にわたって存在し、その一つはエリカが今訳出している最中の手稿部分である。もう一つの部分をPCの文書で送ってもらうことにした。
 彼女が今まで、Kについて他の文学者が引用したのを見たのは、あるミステリーで、その中で、Kの哲学を研究している大学院生が登場し、エリカの翻訳が引用されているそうだ。エリカはそのミステリ作家にとってのK が、エリカにとってのKと独立して存在することに満足している。

 しかし、Kは翻訳と註を読むだけで膨大な上に、何というか、すでに、K という山の感触を理解していない人には登攀を試みても何も見えてこない山である。僅かな書評も、ニーチェやショーペンハウエルをひいているものの、K が「他の誰にも似ていない」まったく独自の未踏の山であることに気づいていない。
 ところが私には、Kの麓のどんな小道に咲く花も、空気も、見覚えがあり、香りも知っているものなのだ。
 それは神秘主義と無神論と普遍主義とペルソナとが拮抗する場所に狂い咲く花の香りである。

 今のチェコ人にとっては、Kは充分に「チェコ的」ではない故に、目を曇らされている。
 K の同時代の崇拝者たちは、Kの研究をしてKを論じるほどの力量がなかった。
 しかし、彼らは互いの手紙の中で、Kについて語り合い、それが貴重な証言になっている。エリカは註の中でそれを引用している。

 それにしても、エリカの夫がKの手稿を残して1991年に事故で死んだ後、彼女は使徒のように、たった一人でKの世界にのめりこんでいるわけだ。

 そのKが、私の世界を突然照らしてくれて、すべてのものがくっきりと意味を持って見えてきたのには驚きである。ソリプシスムはどうしてもreducteurであり、世界を堂々巡りに縛るものだと偏見を持っていたが、Kのソリプシズムは閉じていず、境界もない、しかも肉体性を備えたものである。しかも明晰で論理的。
 本格的な研究者が体当たりしても、決壊しない強靭さがある。

 彼に比べたら、高踏派詩人たちなど、ただのナルシスティックな自己チューに見えてくるほどである。
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by mariastella | 2009-03-31 06:53 | 哲学

ラモーのゾロアストル(Zoroastre)を観る

 オペラ・コミック座に、楽しみにしていたラモーのオペラ『ゾロアストル』を見に行く。
この中のバレー曲のいくつかは私たちのレパートリーにも入っている。

 序曲の部分をYoutubeで見ることが可能。

 http://www.youtube.com/watch?v=97tPwHtwgHQ&eurl=http%3A%2F%2Fwww.actualite-de-stars.com%2Fvideo%2Fphilippe%2Fyakk7597tPwHtwgHQ.html&feature=player_embedded

 これだけでも分るだろうけれど、とにかくラモーは演奏が難しいので、オーケストラの苦労がしのばれる。
 でも、色彩豊かでエキゾティックでドラマティック。
 満足度はかなり高い。

 でも、この序曲の場面でも分るように、単純に悪を黒、善を白として、しかも、ペルシャが舞台でイラン人の振付師ということで、オリエント風の衣装で忍者の群れみたいだ。踊りもスーフィーの旋舞風だったり、悪たちがそれぞれ剣を持って復讐の甘さに酔い、エクスタシーの中で自ら体に剣を突き立てるところとか、まるでバリ島のバロンダンスのテイストである。第四幕の悪の盛り上がりは迫力があるのだがこれもバリ島のケチャック・ダンスのノリだ。

 ラモーの曲にはそれを支えるだけのものがあるわけだが、もとのバレー曲(振り付け譜は残っていない)は、振り付けと同時進行で書かれたり踊り方によって演奏が修正されたはずだから、音楽が体に合わしていたわけで(実際、バロック・ダンサーは、完全に自分たちに合わせて奏者が演奏してくれる時以外に、完全な演奏を期待することはできない)、違和感はぬぐえない。

 衣装も、もとは、黒と白、という善悪の単純なものでなく、「青と銀」対、「緑と金」みたいな超華やかなものだった。時代考証なんか徹底的に無視しているから、「オリエント風」というのもフリーメイスン的アリバイに過ぎない。

 私は別にバンジャマン・ラザールの演出風に、初演の衣装や装置の博物館的再現がいいと思っているわけではない。ただ、ラモーのオペラは、台本家のCahusac が明言したように、総合芸術を目指したのだから、衣装や装置や振り付けは曲のエスプリと切り離しては考えられない。

 同じような時代から「途切れることなく」上演され続けてきた歌舞伎などとの決定的な差はそのへんにある。

 最初の2幕が、なんだか深みに欠けたので、一緒の桟敷で観てた人が、バロック音楽演奏も「La nouvelle convention」と化したなあ、と不満を述べていた。
 確かに、60年代、70代の冒険と情熱をまだ持っている人は少なく、今やアカデミックなセクトと化して自己満足の「お約束演奏」に終わってるケースが多い。

 慣習化から抜け出すには、やはり、バロックバレーにおける体の使い方、肉体の意識の仕方へと常に遡及していくことが必要である。

 それでも3幕4幕となると、ドラマティックに盛り上がるので、最初に不満を述べていた人(知らない人である。60年配の男性二人)たちも、面白くなってきた、と満足し始めた。

 でも、それって、イタリア・オペラを観るテイストが入ってるんじゃ?

 つまり、今回上演された1756年版というのは、『ブッフォンの戦い』と言われる有名なイタリア音楽対フランス音楽の優劣論議が熱心になされた後で全面的に手を入れられたもので、ラモーは、フランス・オペラだって、スター歌手の名人芸を聴かせることもできるし、整然とした器楽曲の構成も作れるんだ、というところを見せたからだ。
 その上に、スターが興行して回るイタリアと違って、フランスではロイヤル・アカデミーで、常駐の合唱隊やバレー団や大掛かりなからくりを駆使することができるのだから、バレー、レシタチーボヴォ、アリアを自由に組み合わせて展開していくラモーの神業はその頂点を極める。

 今の世間では高齢化社会で「生涯現役」が芸になって「老害」などと陰口を叩かれる人も少なくないが、1756年のラモーは、73歳だ。この後も、数学者として音楽家としての確信と直感に基づいたきらきら輝く新鮮な名曲をどんどん世に出した。

 「陰謀」はフラットのある短調で歌い、「勝利」はシャープのある長調で歌い、言葉と音とパッションが計算尽くされたぴったりさで繰り広げられる。言葉と曲のこの抜き差しならない感じは、全く違ったアプローチにも関わらず、バッハのカンタータを思い出させる。

 バッハの方は天へ向かい、ラモーの方は天から降ってくる、と、方向性も違うのだが。

 明日は同じ今回のゾロアストル・シリーズで、Roussetの指揮で、ゾロアストル役をやったAnders J. Dahlinによる、ラモーの他のオペラのダイジェスト・コンサートを聴きに行く。これも楽しみだ。
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by mariastella | 2009-03-30 21:57 | 音楽

フランス人と仏舎利

 2008年11月19日付けで、宗教における贋物と本物の話を書いた。

 http://spinou.exblog.jp/10166766/

 フランス人なら仏舎利から釈迦のDNAを採りたがるかもしれない、などと思っていたが、5月、タイから、釈迦の「真骨」がフランスの仏教コミュニティに贈与されることになった。

 発掘されて1100年というから、1898年にイギリス人が発掘したやつだろう。名古屋の覚王山日泰寺に奉安されている明治33年にシャム国皇帝から贈られた遺骨と同じだ。

 贈与のセレモニーは5月15日。私の義妹がこの一連の行事の事務局長なので、招待してもらえる。
 10時が遺骨のお迎え、14時が各宗派によるセレモニー、15時から遺骨の公開(わくわく)。これはパリ郊外の仏教センター。
 翌16日はパリ市役所のタペストリーの間にて、遺骨を中心にして仏教文化の展示会。9時30から18時までは一般公開もされる。18時からは招待制で、パリ市長などまじえて仏教の歌や踊りもあるパーティ、これにも出席予定。

 よく17日にはヴァンセンヌのパゴダまでヴァンセンヌの森を遺骨を掲げた僧侶たちによる行列がある。

 ま、釈迦だのイエスだの聖人だのの物質的記念品が崇められるのは、いかにそれがシンボリックであり、その奥にある精神や真実や智恵を崇敬するのであるといわれても、偶像崇拝やフェティシズムの香りがぷんぷんするのは否めない。

 「真骨」だというからには物質性に対するこだわりがある。水晶製の舎利や、無酵母パンが「化体」したキリストの体、とはひと味違う呪術的心性を。セレモニーがどう囲っていくのか、フランス人仏教徒の反応や、フランス人の無神論者の反応や、フランス人カトリックの反応を観察するのが楽しみだ。
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by mariastella | 2009-03-27 20:15 | 宗教

Gran Torino

 クリント・イーストウッドが名演だという『Gran Torino』を観にいった。

 もうできることなら、暴力、戦争、残酷、ホラーなどという映像は見たくないので避けているのだが、しっかりヴァイオレントな映画だった。

 私はなんだか勘違いしていたのだ。老いた人種差別男がアジア人の少年と交流するうちにいつの間にか人間味が生まれて、というしみじみ感動のヒューマン・ストーリーかと思っていて、夕べは何となくそういうものを見たい気分だったのだ。

 イーストウッドの名演がなんたらいうよりも、最初の感想は、あのアジア人たち、アメリカでなくてフランスに移住すればよかったのに、ということである。
 フランスのユニヴァーサリスム、「腐っても鯛」というか、移民の子弟には、ずっとチャンスがある。いわゆる「アメリカンドリーム」という一攫千金の上昇は難しいが、普通の教育を受けて普通の市民になるチャンスは多い。

 銃社会についてのマイケル・ムーアの告発も思い出す。

 少なくとも、フランスでは、田舎の男やもめがいつも銃器で武装していなくてはならないような状況はない。

 日本でももちろんそうだが、日本でアメリカ映画を見ると、あまりにもかけ離れているので、比べる気が起こらないのだが、フランスで若い移民に囲まれて暮らしていると、しみじみ思う。

 「何々系」による棲み分けとグループ間の対立なども、今のアメリカでもこうなんだなあ、と驚く。
 たとえばこの映画では主人公はポーランド系で、アジアの少年に職を世話してやるのだが、その友人はケネディなんたらというアイルランド人である。ここで、カトリック・プア・ホワイト系の白人コミュニティの感じがよく分かる。

 ウエストサイド・ストーリーの頃の、不良グループと変わらない。

 去年、日本の京都劇場で『ウエストサイド物語』のミュージカルを観た後で次のような記事を雑誌に書いた。
 
 少し長いがコピーしよう。


 「 ミュージカルを観る

  五月に日本に帰った時、京都劇場で、劇団「四季」によるミュージカル『ウエストサイド物語』を観た。
 なつかしい。私にとって、ウエストサイド物語といえば、一九六〇年代の初めの日本を席巻したミュージカル映画であり、赤シャツのジョージ・チャキリスが脚を高く上げて踊る姿、激しい『アメリカ』の賛歌や、ロマンティックな『トゥナイト』のメロディと共に、回りの中学生たちがみな指を鳴らしてニューヨークの不良グループを真似ていたのも思い浮かぶ。

 私の記憶の中では、この話は、ニューヨークで敵対する二つの不良グループの、一方のリーダーであるベルナルドの妹マリアともう一方のリーダーのもとの仲間で親友のトニーとの間に恋が芽生えるという、現代版ロメオとジュリエットの悲劇だった。イタリアが舞台のシェイクスピアのクラシックな純愛劇のイメージと、一九六〇年代の日本の日常から想像出来ないようなニューヨークの大都会の無法地帯のイメージのずれが新鮮で、青春エネルギーの水位が信じられないくらいに高くて圧倒された。

 今回、四〇年以上も後に、同じミュージカルの日本語版を生で観たわけだが、昔とは全然違うものが見えてきて驚いた。もちろん世代的なものもある。昔見た時はこちらはまだ少女であり、不良グループも悲恋も何も、すべて絵空事だったし、今は、完全に大人の秩序の中にあぐらをかいでいる状態だからだ。

 では、何が見えて来たかというと、アメリカという移民社会で共同体主義の社会における「宗教と社会」の関の問題の根の深さである。まず、不良グループの構成だ。映画でジョージ・チャキリスが演じていたベルナルドの率いるシャーク団がプエルトリコ系だということは知っていたけれど、その意味は昔はよく分かっていなかった。

 後に、アメリカにおける人種差別に関する本の中で、プエルトリコ人が黒人よりもさらに差別を受ける最底辺であることを知った。プエルトリコはアメリカの自治領ということになっていて、今はアメリカのパスポートを持てるようだが、ウエストサイド物語の時代には、明らかに外国人の移民として「アメリカ人」ではないと差別されている。人種的には明らかにラテンアメリカと近く、スペイン語が基本のようだ。

 物語の中で、「スペインの混血野郎」と罵倒されているところから見ても、インディオなど先住民と征服者スペイン人との混血というイメージなのだろう。

   「マリア」はなぜ美しいのか

日本のミュージカルでは、出演者全員が日本人なので、むしろ分かりやすい。プエルトリコのシャーク団は肌の色も濃くメイクされていて髪も黒い。一方の「アメリカ人」とされるジェット団の方は、大体金髪で色白という設定で明快だ。ヒロインのマリアも色黒である。 しかし、60年代のハリウッド映画の方は、マリアは当時すでにスターであったナタリー・ウッドだった。黒髪ではあったけれど、ロシア系移民の娘である。ベルナルド役のジョージ・チャキリスはギリシャ系。地中海系で当時のハリウッド・スターにしては小柄で浅黒い感じはあったが、日本人から見ると、単に「アメリカ人のスター」に見えた。ベルナルドの恋人アニタ役を好演したリタ・モレノだけが、実際のプエルトリコ人だったのだ。

 トニーが一目ぼれしたマリアに名を聞いて、分かれた後で彼女を思って歌う有名なラブソングがある。その中で、マリアという名がはじめて耳にした美しい響きだと歌うのだが、これも、今思うと、単に恋した者の思い込みではないようだ。マリアなんてむしろ平凡な名をどうしてそんなに美しいとか初めて耳にするとか言うのだろうと思ったが、それは彼女がプエルトリコ人なのでスペイン語の名前を持っているかららしい。

 それまで「アメリカ人」としかつきあっていないトニーにとっては、聖母由来の名は「メアリー」であるから、「マリア」はほんとうにエキゾティックだったのだろう。 しかし、プエルトリコ人をさげすむ「アメリカ人」であるはずのジェット団の若者達も、実は、大都会の不良グループだけあって、社会の底辺にいるプア・ホワイトの子弟である。シャーク団の若者が浴びせる罵倒が「ポーランドの豚」とか「アイルランドの屑」の類いのものであることから察するに、親たちがポーランド移民やアイルランド移民であり、アメリカで生まれた二世であるらしい。アメリカの先発植民者で「建国」者としてのエスタブリッシュメントであるアングロサクソンではない。

 しかし、だからこそ、移民して苦労した親の世代は、母国語を捨てて、名をアメリカ風に変えたり、子供にもアングロサクソン風の名をつけたと思われる。だから子供たちは、プア・ホワイトの子弟として軽蔑されながらも、「生まれながらのアメリカ人」としての意識を植え込まれているから「スペインの混血」のプエルトリコ人を差別するのだ。

   カトリックのインサイド・ストーリー

 では、このジェット団とシャーク団の共通点は何かというと、両者とも、カトリック共同体であることだ。アメリカの東海岸エスタブリッシュメントはWASPと呼ばれるアングロサクソンのプロテスタントであるのに対して、ポーランド、アイルランド、イタリアなどカトリック系の移民は、長い間プア・ホワイトを形成してきた。だからこそイタリア系マフィアなど共同体内の結束は堅かったわけだ。一九六〇年代にアイルランド系カトリックとして初めて大統領になったケネディが、選挙運動中、まさにカトリックであることを種に執拗な追求を受けたことは周知の事実だ。スペイン系プエルトリコは、もちろんカトリックであろう。

 『ウエストサイド物語』が書かれた一九五〇年のアメリカ社会は異種の共同体がまじりあわない社会だった。カトリックのプア・ホワイトの子弟の不良がプロテスタントの中流家庭の子弟と睨み合うことはない。シャーク団とジェット団が宿敵同士だったのは、まさに、底辺同士で、カトリック同士だったからなのだ。

このミュージカルの産みの親であるレナード・バーンステインとジェローム・ロビンスは、共にユダヤ系アメリカ人である。彼らの最初のアイディアは、この悲恋の物語を、ユダヤ人コミュニティとキリスト教コミュニティの間の話にしようと考えていたそうだ。

 どうしてそうならなかったのだろう。ニューヨークに生きるユダヤ人だった彼らには、異宗教間の恋にリアリティがないことが分かっていたからかもしれない。

 マリアは言う。「あなたのことをパパに話すわ。パパは聞くわ。ちゃんと教会に行っている男かねって。」そして二人は、二人だけで、教会での結婚式の誓いを述べ合うのだ。

 つまり、運命のいたずらである「一目ぼれ」とはいえ、若い二人は、自分たちが「結婚可能」な同じ宗教共同体にいることを知っていた。いや、そうでなければ、そもそも、出会うことだってなかったのだろう。

 考えたら、ロメオとジュリエットの悲恋だって、敵同士の家族とはいえカトリック同士の話ではある。日本にいたら見逃してしまう宗教問題の機微を、あらためて考えさせられた『ウエストサイド物語』との再会だった。」


 以上だ。

 そして、今のこの映画でも、主人公はポーランド野郎、みたいに呼ばれるし、アジア人コミュニティへの侮蔑感(主人公が朝鮮戦争に従事したというトラウマは別にしても)もあらわである。
 アジア人の不良グループは、メキシコ人不良グループとやりあうし、黒人の不良たちも出てくる。人種別につるんでいるし、アジア人の娘が白人のボーイフレンドと歩いていると黒人グループにからまれるのだ。

 今のフランスの移民の子弟の「暴動」に女の子が加わらないのもアメリカ化してるイメージだ。
 この映画で、アジア人の娘が、「女の子は大学へ、男の子は監獄へ行くのよ」というシーンがある。
 女の子が暴動に「加われない」状況は、女の子にとってはチャンスであり、男の子にとってはますます悪い状況である。

 この映画では、ポーランド人コミュニティにとってのカトリック教会の意味もよく分かる。
 この主人公のように、冠婚葬祭にしか教会に行かない人も多いのだろう。アメリカにおいては、そういう人は、宗教を信じていないというより、多分人間を信じていないんだろう。
 
 それでも、ごく若い神父になりたての青年が、主人公にまつわりつく。最後には、主人公は孫ほどの年の男を「ファーザー」と呼んで告解し、最初は「自分のことはミスタ・コワルスキと呼べ」と神父に言っていたのに「ウォルトと呼んでくれ」となる。

 この東南アジア人コミュニティが、アメリカ軍の去った後のベトナム人に追われてやってきた、というくだりも、なんだかかなしい。最後の悲劇が、結局、違う民族同士の不良青年の戦いではなくて、警察に訴えでないであろう同族の「まともな家庭」に向けられた暴力であることもやりきれない。

 この青年たちは、日本人の好きな言葉を使うなら、「農耕系」の穏やかアジア人である。1960年代のプア・ホワイトの子弟同士の争いとは違って、21世紀のアメリカ中西部にこういう実態があるのだとしたら、それはエコロジーやなにかより、はるかに深刻な問題だ。
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by mariastella | 2009-03-26 19:40 | 映画

人体標本展その後

 前に書いた( http://spinou.exblog.jp/9765172/ ) 人体標本展がリヨンに続いてパリで開催されている。

 「アート」ではやはり無理だったらしくパリの科学技術館や人類博物館に売り込んだらしいが、いずれも、倫理的な理由で断ったらしい。それでも私的なスポンサーはついて宣伝はしているが、その後どうなったのかと思ったら、やはりその「人体」が中国人のものであるということで、毎年6000人から7000人と言われている死刑囚の者ではないかと疑問を呈する人が出てきた。

 私も日本で見た時、最初のドイツ由来の展覧会と違って、アジア人の標本には、嫌な感じがして、チベット人じゃないのか、と思った。

 フランスでの議論に、中国人は先祖を敬う伝統が根強いから、医学の献体も少ないので、このような標本(「万全の信頼を寄せての献体」ということになっているらしい)の出所はあやしい、というのがあった。

 ドイツのプラスティネーションは今でも健在で、人体サーカスとして演出を加えている。それもグロテスクではあるが、一応「アート」とか「表現」の線を貫いているのだ。最近、自分の身体を永遠に残したいと遺言して、名前を公表してプラスティネーションの処置をしてもらったドイツ人の写真記事を見た。だから、ばらばらにされるのではなく、本人の肖像みたいなのが同定可能になっている。
 まあ、埋葬が主流の文化において、自分の身体が腐るのがいやだ、という気持ちはあっても不思議はないので、無料できれいに処理してもらえれば、と思う人も出てくるのかもしれない。

 キリスト教といえば、プラトン風の「肉体は魂の牢獄」、という身体蔑視を思い浮かべる人もいるだろうが、そして中世ヨーロッパなどでは実際そういう部分もあったのだが、実際は、その根幹が「肉体」と結びついている。神が人に受肉したというのと、死の後にキリストは肉体ごと復活したという根幹である。

 だからキリスト教では、肉体蔑視と言っても、サクス(肉)とソーマ(体)を分けて、肉の方は、人間の条件である原罪、つまり欲望に屈して神から離れるので律するべきものであり、それに対して体の方は、聖霊の働く場所であり、聖性へ、つまり神との一致へ向かう。そこでは体は魂の牢獄どころか、神を宿す「神殿」ですらある。

 プラトンのギリシャには同時に肉体賛歌の文化もあったわけだし、ヨーロッパでもルネサンス以降の社会におけるキリスト教の非宗教化の過程では、やはり、人間=肉体の称揚=神格化があったわけだ。だから、その名残がある今のフランスでも、「神を冒涜」するようなアート表現はかなり過激でも別に問題にならないのだが、人間の体の展示には倫理的問題を感じるらしい。

 これがいわゆる「聖人の体(腐らないパードレ・ピオの遺体とか)」の公開などであれば、それはまさに神格化しているのだから、崇敬であって冒涜にはならない、という論理が通るのだが、単に「教育的見世物」として人体を公開するのは非常に抵抗があるわけである。
 ヨーロッパでもたとえばムッソリーニのような独裁者を殺してその死体を「さらしもの」にするというような野蛮なシーンはついこの前まであったわけだが、そういうトラウマも含めて、「人体の不思議展」に強い嫌悪を表明する人が後を断たないのである。

 文化的文脈というのは不思議なもので、好奇心にかられて日本ではプラスティネーションも人体の不思議展も見てしまった私は、パリでは忌避感がある。

 生命活動を失った後の人間の体に向ける視線には、いつも、世界観が現れる。それは「種」としての人間観であり、自己をどう認識しているかということでもあるのだろう。

 
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by mariastella | 2009-03-26 18:42 | 宗教

安易な東西比較言説は何とかならないのか

 「大恐慌」を前にして、時代の変遷や危機感を分析しようとする言説は、フランスでも日本でもたくさんあるけれど、日本であいも変わらず根強く見かけるのが、「明治時代ですか」と思えるくらいの型にはまった東西比較である。
 
 いや、明治時代の方が、欧にも米にも広く人材を派遣して勉強させ、欧でも、日本と同じ島国である英国と大陸国との違いを分析するなど、きめ細かい観察が政府レベルでなされていた。

 ヨーロッパと日本にメンタリティの違いがないなどとは言わない。
 その違いの深いところにキリスト教の影響があるのも認める。
 しかし、それは非常に複合的で逆説的なさまざまな経緯を経たものである。

 でも日本で言われるのは、何かというと、
 
 欧米は肉食文化だから(残酷で野蛮)とか、
 欧米は一神教文化だから(独善的で融通が利かない)とか、

 それに引き換え、日本は、草食文化で穏やかだとか、八百万の神だから原理主義でないとか・・・・

 そんなものが、ネオ・リベラリズムの弱肉強食メンタリティの批判としてすら持ち出されるのだ。

 戦後の日本は思考停止状態で経済の復興を最優先してきたし、冷戦以降のネオ・リベラリズムや拝金主義消費主義には、「欧米」と一緒に、なりふりかまわず突き進んできた。

 それがいったんおかしいということになると、いや、日本は本来はこういう国でなかったのに、「欧米」に汚染されたんだ、とか言い出すのは不毛すぎて、いつも脱力させられる。

 昨日も、『中央公論』4月号の座談会で自民党の有名議員さんが日本の「空気」について語る中で、こうおっしゃっているのを見た。


 「欧州のような狩猟社会は、一人ひとりがうまく野生動物をしとめなくてはならない競争社会です。対する日本は農耕社会ですから、やはりとっぴな言動は慎みます。・・」

 「一神教の世界なら、『それはモーセの教えに反する』とかなんとか議論になるけれど、対する我がほうは、あっちの山にもこっちの山にも神様がいて、場合によっては石にまで神さまがいる。・・・・」

 などなど・・・

 欧州のような「狩猟社会」って・・・・

 縄文人ですか。

 まあ、ヨーロッパの王侯貴族が趣味で狩をするっていうイメージはあるかもしれないけど。

 せめて「牧畜社会」とか言うならましだけど、それなら「野生動物をしとめる競争社会」(=自然に優しくない征服者メンタリティ)というのにうまくつながらない。

 新石器時代のヨーロッパにはすでに農耕があった。というか、農耕という文化を獲得してこそ、どこでも文化が発達したのだ。縄文人だって後期には稲作をしていたことが分っているらしい。

 競争があれば相手を殺しても勝とうとするし、権力や富は分配するより独占しようとする、などのメンタリティは、残念だが文化を超えた「人類」のメンタリティだと思う。それをどう矯めていくか、あるいはどう管理していくかは文化によって表現が違うけれど。

 欧米のユニヴァーサリズムには特徴が二つある。

 キリスト教における、パウロのユニヴァーサリズム(「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」ガラテヤ3-28)がその一つだ。人は、神の子としての兄弟関係によって、尊厳において平等である。

 他の「普遍」宗教も、救済において地縁血縁を問わないという点で民族宗教を超えて、万人に信仰の可能性を開いているという点では同様のユニヴァーサリズムがあるが、キリスト教においては父子関係の力動によって、そのユニヴァーサリズムの自信が一際大きく、宣教主義がある。

 それは、やはり「世界」を視野に入れるという野心のあったローマ帝国の版図に生まれて広がったこともあるが、そのメンタリティのベースとなった、ギリシャの都市国家ですでに、「コスモポリタン=世界市民」という概念があった。

 それが特徴の二つ目につながる。

 世界中にキリスト教の福音を伝えるという使命感が、後に、たとえばフランス革命での人権宣言も「フランス人」用ではなく、人類への「福音」としてとらえられたし、マルクス主義も、疎外された人間の解放という普遍的「福音」としてとらえられた。

 ユニヴァーサリズムは、「尊厳における平等」がすべての人類に適用できるという確信においてユニヴァーサルであるが、「その実現の場はユニヴァーサルの坩堝であるヨーロッパである」とヨーロッパ人は思っていた。

 カント、フィフテ、ヘーゲル、シェリング、フッサールからパトチカまで、みな、ヨーロッパはユニヴァーサリズムをユニヴァーサルにする使命がある、と思っている。

 そういうヨーロッパ中心主義のユニヴァーサリズムがある。

 実際はパウロにおいても、ユニヴァーサリズムは信仰上の約束であり期待であり、「この世」においては、人間の本質的平等を納得してその実現に向けて努力する責任がある、という以上には至らない。

 しかし、ヨーロッパのユニヴァーサリズムが、キリスト教と拮抗して非宗教化しはじめた頃から、それはイデオロギーとなり、政治的プログラムとなった。そのモデルとしての「民主主義」などが、あまねく世界に輸出=押しつけるべき「福音」となったのだ。

 ユニヴァーサリズムの方法論やモデルやツールにおけるヨーロッパ中心主義の見直しと、グローヴァリゼーションの時代における平和共存の鍵としてのユニヴァーサリズムの有効性とは、分けて考えた方がいいと思う。

 ヨーロッパの思想は、キリスト教ユニヴァーサリズムとその非宗教化の歴史の波に洗われ、必然の展開となった無神論とニヒリズムを超克しながら練成されてきた。そこに、科学技術主義と資本主義という現代の世界スタンダードとなった「西洋文明」がセットになって生まれてきて、日本のような国は、サヴァイヴァルのためもあってそれを採用している。洋才は洋魂と分かちがたいのだが、そのラディカルな受容にあたって、あえて「和魂洋才」を唱えたのは、その時点ではすぐれて戦略的だったわけだ。 

 でも、それから100年以上経って、西洋近代もポスト近代へと移り(日本もその時点ではすでに同舟だ)、地球の上では南北格差が広がり、環境危機まで加わり、混迷の時代を迎えている。自己の繁栄のためになりふりかまわなかった先進諸国にその責任の多くがあるとしたら、日本もそれを免れないだろう。

 それなのに、日本は本来は農耕社会で穏やかな協調社会で、地球に優しいアニミズムとか、自給自足の平和な江戸時代とか、それに比べて、「狩猟社会」で「一神教」の欧米は・・・なんて、どの口で言えるんだ、と思ってしまう。
 
 政治家でも、文化人でも、宗教家でも、そういう安易な「東西比較言説」が蔓延しているのだ。

 一方、「西洋思想」をせっせと輸入して説いている日本人学者の多くの言葉は、それはそれで、それらの思想が、西洋思想の長い葛藤的文脈の中でいったいどういう位置にあるのかという洞察を抜きにしたものなので、何のことやらよく分からない。

 困ったものだ。






 
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by mariastella | 2009-03-25 22:24 | 雑感

フランス・ユニヴァーサリスムの危機

 フランスのユニヴァーサリスム政策が、移民のゲットー化に現実などに上手く対応できていないからと言って、まるでその解決策の決定版のようにアメリカン・コミュノタリスムが浸透していくさまを見るのは我慢ができない。

 その決定版は、県別に、住民の人種の統計をとって、そのパーセンテージがその県の企業の労働者のパーセンテージに反映しているかどうかをチェックしようという試みである。これはアメリカ風アファーマティヴ・アクション以外の何ものでもない。

 フランスでは、住民は、誰でも個人の単位のシトワイヤン(共和国市民)だと見なされる。それが各種コミュニティより優位だと見なされる。だから、原則的には、あるコミュニティの中で(それがたとえ家族であっても)、伝統や文化や慣習やローカル・ルールによって「基本的人権」が侵されているという時は、その個人が国に訴えれば、国の介入を求めることが可能である。
 
 だから、「人種別の統計」も禁止されている。

 しかし、現実に、アフリカ系、アラブ系の名を持つ者には就職が不利だったりするという差別がある。

 昔私がサントノレにあったある日系プレタポルテのブティックの雇われ社長をしていた時、ドアに「フランス人女性販売員募集」という張り紙を日本人の出向社員が出した。次の日に、「社長」の私はj警察に呼び出された。
 この求人は2重に違法である。「フランス人」と国籍を限定したこと、「女性」と性別を限定したことである。
 「フランス語を話す人」というならば業務に必要なスキルであるからOKだ。

 実際には、黒人の男が面接にやってきても、「あなたは私たちの求めているイメージと合いません」と言って採用を断るのは自由なのだから、この法規制は、意味がないともいえる。
 それでも、「25歳から35歳までのスタイルのいいブロンド女性募集」なんていう張り紙を絶対に許さないフランスの建前を私は好ましいと思った。偽善的とかザル法といわれても、この方向性にしか私の求めるユニヴァーサリスムはないからだ。

 ところが、近く、現場での実質差別を解消するために、「白人か黒人かアラブ人の数の統計をとる」と言いだした。
 ここで、「白人」については、イタリア系かポーランド系か、ポルトガル系かと言われないのは、これらの「白人移民の子孫」は実質的に「権利の上で同化」していて差別を受けないからである。「アジア系」が話題にならないのは、アジア系はすでに強力なコミュニティーを作っていて自分たちで雇用を作っているケースが多くて社会問題になりにくいからである。私の中国人の友人はアジア食の工場や多くのレストランを経営しているが、求人がすべて「中国語コミュニティ紙上に中国語で募集」しているので、事実上フランスの警察にひっかからない。

 だからこのプランは、実質、「黒人」と「アラブ人」に、「救済」と称して、レッテルを貼る試みである。

 もっとグロテスクなことがある。

 このような「統計」の試みは、アメリカかぶれのサルコジ政権になってからあからさまになってきたが、すでに、2007年11月に、「違憲」であると、公に斥けられている。

 で、今回は、「あなたは白人ですか、黒人ですか、アラブ人ですか」というアンケートをとるのではなく、「何に属していると感じていますか?」とアイデンティティのsentiment(感情)について調査するのだそうだ。

 確かアメリカの国勢調査では、何系というのを記入する欄があって、しかし、それは強制的ではなかったと記憶している。

 「アイデンティティの感情」

 これは、ますますひどい。

 この国に住んでいる以上、私は市民として「権利と義務の同化」を享受している。
 そして、私の周りの友人たちも、「何系」であろうとその点でまったく波長が合っている。

 ハイブリッドな人たちも多い。彼らは国際人であり、それが力となる。

 フランスのユニヴァーサリスムのシンボルである「人種別統計の拒否」を守らなくてはならない。

 アメリカでは、今のところ、オバマ大統領を揶揄、諷刺することが非常に難しいそうだ。
 白人のサティリストは、人種差別者と言われることを恐れるし、黒人のサティリストも今のところ、オバマは隙を見せず「完璧」だから静観しているのだそうだ。つい最近 Jay Leno がようやく『The Tonight Show』取り上げたらしいが、どんな風だったのだろう。「ブッシュ大統領の頃が懐かしいよ」と彼は言ってたそうだ。

 ともかく、差別をなくすという立派な名目であろうとも、そのために、自由な個人を、利害が対立するグループのアイデンティティに閉じ込めたり、振り分けたり、差異性を強調するのは誤りであると私は考えている。

 フランスとは全く別の文脈だが、そして日本ではあらゆる意味でマジョリティの平均的日本人だった私が言う限りではあるが、私の育った頃の日本ではまだ「単一民族の日本」という神話が根強くて、よく見れば南方系だったり大陸系だったり、肌の色白や色黒にもかなりのヴァリエーションがあるにもかかわらず、みんな同じ日本人だと思っていた。同じ地域に何代も住んでいたような家系でもないので、ローカル性もあまり意識したことがない。だから、フランスのユニヴァーサリスムは、私には最初からとてもナチュラルなものであった。

 それでは、今、「異なるアイデンティティの戦い」の様子を呈しはじめているフランスで、ユニヴァーサリズムを立て直すのにはどうしたらいいかというと、一つは、キリスト教ユニヴァーサリスムの見直しがある。ユニヴァーサルを、「短期間に成果を出すべきプログラム」としてではなく、人間性を見据えた、決して完全には到達できないが、そこへ向かって収斂していくように絶えず回心を迫られる義務であると見ることである。これについては、最近Chantal Delsol 女史の優れた講演を聞いたので、また別のところで述べよう。

 もう一つは、ひょっとして、ソリプシスム? の精神かもしれない。
 ソリプシスムは無神論の一つの解決だと思っていたが、ユニヴァーサリズムの方法論にもなるかもしれない。
 ソリプシスムはエゴイズムの対極にある。エゴイズムでは、他者より自分の利を優先するわけで、これをコミュニティに広げればコミュニティ同士のエゴイズムが衝突しあう。

 しかし、たとえば、ソリプシストKが、ラブレターで、「君は私だ、君はすべてだ、だから君は神だ。」と宣言する時、それは愛する人を神のように崇めるというのではない。
 Kのソリプシスムというのは、全能感によるものではなく、「分解できない全体」感から来るものなのだ。

 ソリプシストのロジックでは、すべての人が神なのであり、自分なのであるから、たとえば、「俗人」を蛇蝎のように嫌う高等派などとは全く違う。ソリプシストの中では自己対他者は支配関係はもちろん、対立関係にもならないのである。

 K s'impose comme un Tout.

Kは常に、一つの全体として自分を開示する。
 こういう文学者や思想家は稀有かもしれない。むしろ、ある種の絵画作品や彫刻などに、ディティールの鑑賞と呈示を拒否して「全体」としてだけ迫ってくるものがある。

 私たちは、自分も、他者も、そのような「全体」として生きるべきではないのだろうか。
 肌の色や文化や生い立ちや健康状態などのカテゴリーで矮小化して微調整を測り、「自分の生活の質」を向上するためにアレンジメントしたり権力者の政策というお情けにすがったりするのは根本的に間違っているのではないだろうか。

 マタイによる福音書(22-36・・・)の中に、もっとも重要な掟は何かと問われたイエスが、まず、あなたの神である主を愛しなさい、と言い、続いて、それと同じように重要だとして、隣人を自分のように愛しなさい、と答えるシーンがある。

 これも、ソリプシスムの光をあてるという禁じ手を使うと、非常にロジックである。
 ソリプシストのロジックにおいては、神と、自分と隣人は、いずれも、「全体」であり、愛と尊厳においてきれいに並ぶからである。三者を切り離すことはできない。
 創造者である神の前では自分も隣人も平等であるから愛し合わなくてはいけないのではなくて、「全体」であることにおいて、自分も隣人も神であるからなのだ。

 私は、「人となった神」を説き、三位一体を説くキリスト教が、近代の原動力となった無神論を内包し、分身のように用意したと考えているが、ソリプシスムも実は、同じ分身のようだ。
 そこには、権力をふるう神とか、裁く神とか、祈願の成就を期待する神とかいう「他者性」はなく、関係性だけが残る。「inter-indépendance=相互独立」というやつである。独立と孤立は違う。

 ソリプシストKが自分のことを形容する言葉で、一つだけ、私とそっくりなのがある。

 それは「私は私の猫たちの奴隷である」という言葉だ。

 「無償でお世話させていただく立場」から決して解放されないという意味では、立派に奴隷だ。

 そして、猫こそは、一匹一匹はそれぞれ個性がまったく違うのにもかかわらず、それぞれが完全な「全体」という個体であることとは一体どういうことなのかを、実感として分らせてくれる存在である。

 分析的に理解しようとするとくらくらするKの世界だが、猫好きの一点で、分るかも、と思ってしまえる。

 
 

 
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by mariastella | 2009-03-24 23:41 | フランス

ソリプシストKのための覚書その3

 エリカにいくつか質問した。

 冷戦後、Kの本が解禁になった後、チェコの精神科医たちも彼の「診断」を試みようとして、いずれもあきらめてしまったんだそうだ。

 知性が極端に肥大しているだけなのか?

 Kは緻密でまともで論理的である。戦略的ですらある。チェスタトンが言ってたように、完全に整合性のある世界というのは狂気の世界でしかない、となれば、Kはやはり「まとも」ではないのだろうが、本当に、彼は、他のソリプシストの誰にも似ていない。山の端にいる私にすらそれが分かる。何十年も山に分け入っているエリカもそう言い切るのだからすごい。Kの世界の前にはシュミットの世界なんか、本当に泡沫でしかない。

 エリカは他の本の翻訳をして生活費をためてから、数ヶ月をKの翻訳だけにあてている。他の何かと同時進行できるような世界ではないのだ。翻訳どころか、ただ「読むだけ」で、頭がおかしくなりそうなので、私も気をつけなくては。
 それでいて、Kは本当に愛想がよいのだ。彼が自分の精神構造をきれいに説明できる唯一の覚醒がソリプシスムだったんだろう。読む方もそれを受け入れたら多分、少し分りやすくなるのだろうが、それを神経症やら心理現象やら韜晦やらで分析しようと構えているので、理解不可能になる。

 私にとって、Kが特殊な理由。

 これまで、たいていの「偉大」な哲学者だの思想家だの文学者などの作品に接した時は、相手がどんなに巨大でも、自分の都合のいいところ、自分に役に立つところ、そのときの自分の背丈と理解能力に合ったところだけをつまんでくることが可能だった。部分理解や部分利用が可能で、自分の都合のいいようにそれなりに消化吸収できた。山全体を見なくても、木や葉っぱだけでも恩恵を受けた。あるいは、そういう印象を持てた。

 しかし、Kには、「部分」というものがない。
 Kは、常に、「全体」としてしか現れないような現れ方をするのだ。

 これが、真性のソリプシストの所以なんだろう。

 「偉大な魂」というのは、何かその先に、憧憬するものとか、希求するものとかが透けて見えていて、彼らの作品を通して我々もそれを垣間見たり、同じ渇きを共有したり、歓びを得たりするものだ。

 Kは、何かを理想としたり希求したりしない。完結した知性だ。
 
 エリカを見ていると、Kを理解するには、自分がKであるというレベルにいくしかない。
 なぜならこの世界とはすべてソリプシストKであるからだ。

 よい子はこの覚書を無視するように。
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by mariastella | 2009-03-24 04:03 | 哲学

ソリプシストKのための覚書その2

 ソリプシストというと、「私が神である」と昂然と顔を上げているようなメガロマニアを思い浮かべるかもしれない。あるいは、私のように、シュミットの『エゴイスト・セクト』のせいで、どこか心を病んだ陰鬱な男を浮かべたり、傲慢なニーチェ風「超人」だったり。

 Kはその誰にも似ていない。

 私はKに「病名」のレッテルを貼りたかった。
 
 妄想症とか、
 統合失調症とか、
 アスペルガー症候群とか。
 
 どれも違う。

 何のアポイントメントも取らずに突然Kを訊ねた若者(1読者)は、冷たく追い返されると覚悟していた。
 ところが、Kは非常に丁寧で如才なく、見知らぬ彼を迎えてくれた、という。

 Kのようなタイプであれば気難しくて孤高で激しい気質だろうと思うかもしれないが、実は、人当たりがよく喧嘩もほとんどしなかった。
 Kはそれを、自分で、「私はすべての人にとって、優しさと愛想のよさの化身である」と言っている。
 
 自分は生まれながらにして「隠者」だと思っていて、普通の人のような嫉妬や恐れの感情もないと言っているので、そのへんは一種の情緒障害かとおもってしまうが、短期間は「みなのようにふるまおう」と努力したこともあるそうで、要するに、自分がいかに他人とかけ離れているかをはっきりと自覚している。徹底的に明晰なのだ。
 
 では、どうして、他人に愛想よくふるまえるかというと、ここがKのすてきなところなのだが、

 『J'ai trouvé un modus vivendi avec tout le monde---fondé sur un certain amour (condescendant) issu d'un mépris absolu』

 (私は、すべての人に対する生き方の作法というものを見つけた。それは、絶対的な侮蔑に由来するある種の謙虚な愛に基づいているものだ。)

 というのだ。

 Kを読んでいてくらくらするのはこういうところである。

 彼の精緻極まるロジックや徹底的で過剰で激しい言説から、一体どうしてある種の否定できないエレガンスがあふれているのかは不思議だが、それも、「絶対的な過剰」に由来するエレガンスというものかもしれない。

 
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by mariastella | 2009-03-23 22:34 | 哲学

méditation cosmographique はキリスト教の曼荼羅なのか

 méditation cosmographique という言葉はGérard Mercator という16世紀の地理学者(というか地図学者)が作った言葉だ。

 大航海時代を経て、世界地図の作成が盛んになり、天体観測の技術もだんだん進んで、プトレマイオス天文学も浸透していたので、天球儀や天体観測儀が非常な権威を持っていた。

 中世キリスト教というと、天動説で古い、地動説を異端扱いにした非科学的なものだというイメージがあるかもしれないが、観測技術が進むに連れて、地球中心で宇宙を説明するために、後のすっきりした地動説とは比べものにならないくらいの複雑な理屈付けと天球図と惑星運行図ができていた。

 その天球図や世界地図を眺めてメディテーションするというのが、当時流行って、学校の教育プログラムにも入っていたらしい。

 神の啓示には2種類あり、一つが言葉による聖書での啓示、もう一つが、万物=被造物である。万物=宇宙に現れる神の永遠の力と神性は、宇宙の観察を通して知ることができる。

 ストア哲学などでは宇宙は人間を超越した秩序であったが、キリスト教においては宇宙も人間と同じ被造物であるから、人間によって秩序付け得るものであるし、そうすることで神の業を読み解く書物の一種である。

 15世紀くらいから現れた当時の典型的なコスモグラフィー(=宇宙図)には、黄道12宮の帯のシンボルはもちろん動植物も配されている。地球を中心とした天球の下には3人の人物が描かれている。
 真ん中に座っているのが「アストロノミア」という女性で、両手にそれぞれ、天文観測儀と天球儀を持っている。向かって右のとんがり帽子に髭の男が彼女の智の父であるプトレマイオスで、自著を開いている。向かって左に裸の女が立っている。これが「ウラニア」であり、時には「テオロギア」とも同一視され、彼女は、目が眩まないように手をかざして空を眺めている。

 当時のリベラル・アーツの象徴であるわけだが、裸の女が「神学」と結びついているところが意外だ。

 ここには、神だのキリストだの天使だのというキリスト教的なものは出てこない。
 あくまで、「被造物」の図であるからだ。世界地図の周りに配されているのもギリシャ神話の神々だったりする。

 そこに、ある仕掛けが施されている、と言ってもいい。

 この世界地図や宇宙図を眺めて神の業について瞑想することは、神を讃えることでもあるが、同時に、それは、神の視点で被造物を見ることでもある。

 世界地図というのは、天高くから見下ろした形になっている。後の航空写真のようなものだ。
 天球図、宇宙図というのは、さらに、宇宙を外から俯瞰する。
 それらを眺めることは、創造神が、自分の作品を鑑賞するのと同じである。

 だから、そこに神だの天使の姿がないのは理屈に合う。
 神は、外からの視線、超越した視線だからだ。

 「コスモグラフィーのメディテーション」というのは、それ故に、神を崇めながら、同時に人間を神格化する方法なのである。キリスト教では超越的なはずの創造神がキリストとなって受肉したことになっているので、神と人との相互のダイナミクスが可能になっている。だから、このようなメディテーションが存在し得るらしい。

 こういう経緯を考えると、私たちが小さい頃から見慣れている「世界地図」などというもの自体が、非常にキリスト教文化圏の産物であるように思われてくる。限られた地域の地図ではない「世界地図」という概念は、単に「西洋帝国主義の副産物」などではないのだ。

 世界の「読み解き」の伝統は、プトレマイオスもそうだが、ギリシャ的知の系譜の文脈上にある。

 これに対して、東洋の曼荼羅を「発見」したユングなどは、それをすぐれた「心理地図」と見たふしがある。
 
 しかし、西洋風の心理学とか精神分析学などは、実はキリスト教無神論の展開の一つである。

 それは、神や宗教感情を「意識の現象」であると捉えた。
 ユングは心理学的視点から東洋思想をとらえた。
 キリスト教世界では、何かというと「仏教は無神論だ」と決めつけられているのも無理はない。

 西洋的自我とか自己意識というのは、確かにキリスト教的なペルソナと結びついている。
 だから、自己意識を否定する流れはキリスト教を否定する流れと重なった。

 「私は存在する」という自己意識の優越というものは、「無意識」の存在を認めた瞬間に破綻する、とユングらは考えた。自由意志を持つ主体=自己という幻想は崩壊したと思ったのである。

 そこだけ見ると、なかなかコペルニクス的転回であるが、それははたして妥当なのか?

 たとえば、自己=主体が固定した実体であるというのは幻想だとしても、自己とは、常に特定の対象との関係において現れる文脈的な存在である、と解釈すれば、「ペルソナ」を維持したまま「自己幻想の崩壊」を回避することも可能なのではないだろうか。

 ユングは、せっかく幻想を打ち消したのに、結局は、意識の拡大を試みて、根源的意識とつながった本来の自己だとか自己実現だとか言い出した。しかも、道教の太乙(たいいつ)の概念を応用して、無意識を形成する根源的自己は、個人の生活史に関わる意識に立脚した自我よりも「上」であるかのような上下関係を導入した。無意識の自己は、「天子」であり、自我はその天子をないがしろにして権力を振るう「将軍」のようなものであるといったようなレトリックである。
 
 このへんが、ユング的な言説がニューエイジやカルトに利用されて、盲目的な「輝く本当の自分」探しと「自己実現」の勧めの言説へと展開していった理由のひとつだろう。

 「無意識」もまた、思考上のモデルであって、それが、たとえば精神医療上のツールとして有効に働くならばいいが、「自己実現」マーケットの商品となれば、自我と同様の幻想に過ぎない。

 私はキリスト教の三位一体論の方が、ずっとよくできているとこの頃思うようになって来た。

 神を三つのペルソナ化して関係性の神とすることで、人間もそれぞれの個性を維持したままでその関係性に参入することができるからだ。

 そこには神が上であるとか、父が上であるとかいうような固定的なものはないし、権力的なものもなくなる。
 自己とは常に複雑化していく自分史をかかえたままで、他の全ての被造物=世界=他者との関係性の中でのみその都度現れるものである。

 ユングが三位一体に聖母の女性原理を加えたとかいうのは意味がなくなる。
 三位一体は構造ではなく力学であるからだ。

 仏教の三身論とは本質的に違う。
 ユングが東洋思想と出合った道教の『太乙金華宗旨』の基礎を成す古代の三神(=泰一、天一、地一)の方は、仏教の三身論と明らかに通ずるのだろうが。

 ユングは『太乙金華宗旨』の翻訳の解説の中でパウロの回心体験などと、「意識の解放」体験を関連づけて、自己の拡大を語るが、そこにも、「より高い精神的存在」などという上下関係が導入される。

 無神論も「高貴な宗教」などと言われるが、そういう、「より上等なレベル」への「解脱」の幻想というのも、実存的「苦」の回避の方法論としてどこまで有効であるか、非常に疑問に思う。
 そういう世界では、そのような「高い境地」に到達した先達が崇められがちで、神格化されることもあるし、「最終解脱者」などと自称する「教祖」にだまされることすらあるからだ。

 ジュリアン・バーンズは、「自分は自由意志を行使している」という「西洋キリスト教文化」的な仮説を採用して生きていくことにした、という。その理由は、たとえ、「人間が自由意志だと思っているものは実は遺伝的、環境的、文化的な諸条件、あるいはそれこそ無意識によって規定されているまやかしである」と自覚したところで、実存的恐怖(病・老・死など)は消えないし、自分の人生はもっと生きにくく、惨めなものになるだけだから、というものである。

 私も今となれば、せいぜい「自由意志」を行使して、「被造物仲間」である他者や世界と「主体的」に関わって、何か柔軟で調和的な関係を築いていきたいという気分だ。
 
 曼荼羅を眺めて瞑想して意識を拡大したり、「より高次なレベル」で生きられるようにならなくても、せいぜい世界地図を眺めて、光に目がくらまないように手をかざしながら、関係性のネットワークと出会いを大切にしていければ、充分すぎるくらいだろう。
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by mariastella | 2009-03-22 09:21 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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