L'art de croire             竹下節子ブログ

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無神論原理主義

 今の世の中、無神論原理主義が元気なのはアメリカだろうな。

 キリスト教的信仰と無神論が光と影のようにセットになっていることを今書いているわけだけど、その先鋭的な場所では、切り立った稜線の片側に一神教原理主義と偶像崇拝がびっしり並び、もう片側に戦闘的無神論が負けじと支えている。どっちかに崖崩れがおきそうだ。

 ネット資料をカバーしていたらきりがないのでできるだけ見ないようにしているのだが、デリダのインタビューのYoutubeを見ていたら、つい、彼の無神論に行き当たり、続いて、無神論プロパガンダの森に迷い込んだ。

 なんだか、気の毒だ。

 たとえば、無神論は悪くない、っていう主張がある。
 
 アメリカのキリスト教徒は75%で、刑務所に入っている人の75%もキリスト教徒。
 無神論者は10%で、しかし、刑務所には0.2%しかいない、とか、
 離婚率も無神論者の方が有意に少ない、とか。

 こだわりの元は、『詩編』14-1で、

 「神などない」と言う人は、

 「腐敗している。忌むべき行いをする。善を行うものはいない」

 というところで、これに反論してるのだ。

 そして、エディソンとか、スピルバーグとか、マリー・キュリーとか、ジャック・ニコルソンとかブルース・リーとか、いろんな人を、その反証となる無神論者として挙げている。

 かなり普通の日本人で、普通のフランス人の感覚でもある私から見たら、こういう発想そのものが、強迫的としか思えない。挙げられている人の中には、いわゆる不可知論者も入っていて、もっというと、定期的に教会だの宗教施設に通ってない、というだけの感じの人もいる。

 こういう「運動」が成り立つのは、「無神論者=信用できないやつ」という偏見があるからなんだろう。
 古代のギリシャ・ローマと変わらない。初期のキリスト教徒もそんな世界で無神論者として迫害されてきたのだ。

 フランスなんかは、こういう原理主義的無神論のフルコースを経て、かなりヌルイ社会になっているわけだが、こういうのをただ黙って見ているわけにはいかない。原理主義との戦い方そのものを忘れている。キリスト教原理主義とキリスト教無神論の戦いに疲れて、そこで得た智恵というものを風化させて、別の形の原理主義や不寛容や偶像崇拝とどう向き合うかを真剣に考えなくなった。

 Youtubeのデリダだが、愛について訊ねられて、「え?愛?それとも死?」なんて聞き返すところとか、この人って、なんかコンプレックスがあるのかなあと思った。隣にフーコーのインタビューがあって、こっちはとても分りやすい。こういうのは著作だけでは分らないおもしろさである。

 
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by mariastella | 2009-10-31 03:40 | 宗教

柳田國男対談集

 手元に『柳田國男対談集』(筑摩叢書)というのがある。

 高校時代に読んだ本なのだが、今の方が、時代の差を感じて感心もしたし笑えもした。

 高校生にとっては、同時代の作家やインテリも、一昔前の作家や学者も、等しく遠い存在だったので、住む世界の差はあっても、時代の差をあまり意識しなかったのだ。
 
 いろんな意味ですごく面白い本だ。

 昔の対談というのは、速記でもして、そのまま原稿にしたんだろうか。あまり手を入れた後がなくて、誰かが何か言いかけたのに無視されたりされたところとか、そのまま載っている。
 その自然な感じが、床屋談義みたいでおもしろい。

 清水義範という言葉の達人の小説に、『三人の雀鬼』という短編があって、三人の認知症気味の老人が、不条理な掛け合いのような会話をしていく奇妙な話があるのだけれど、この対談集の最後の柳田國男と芥川龍之介と菊池寛の掛け合いなんかは、ほとんどそれに近い雰囲気だ。

 例えばこんなの。 



 菊池 「(四国に狐が)いないというのは、弘法大師がこさせなかったと言うのですけれども、いないというのは不思議ですね。(・・・)あれだけの海だから渡れそうなものですが、渡れないのですかね。」

 柳田 「船頭をだまして渡ればいいわけですが。」

 芥川 「現に僕の友達などは動物園にどうしてあれだけの大勢の人がはいろうとするのかというと、あそこには狸がいるから、化かされて入るんだろうと言うんですよ。」

 柳田 「 その人自身がおかしいじゃないですか。」

 芥川 「多少おかしいかもしれません。」




 と、こういう調子で、実におかしい。
 この対談は昭和2年に掲載されたもので、芥川はこの年に自殺している。そんなことも考えると、少し感慨深い。

 この対談集を読んでいると、明治期に輸入された西洋無神論というものが、日本では無神論という形でなく、「明治初年の科学万能、迷信打破、という浅薄な功利説」という形で入っていたのが分るのもおもしろい。

 日本文化論(『改造』昭和15)について、対談者がみんなアナトール・フランスの『Sur la pierrre blanche』を読んでいて、日露戦争で日本が勝って白人の資本主義の植民地運動をひょいと食い止めたと演説する男の話を読んで初めて、日本はえらい仕事をやっているのだ、と気づかされた、日本は馬鹿にできないと目が醒めた(和辻哲郎)、とか言っているのも、へえっと思った。日露戦争って、なんだか、勝った当初から日本ではそういう見方が合意だと思っていたからだ。ひょっとして、日本人はただ、必死だっただけで、そういう「歴史上の意義」的な見方自体が、「西洋」経由だったのかなあ。
 
 
 
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by mariastella | 2009-10-29 00:03 |

友川かずき

 知人の息子が日本人のミュージシャンのドキュメント映画を作成中だと報告してきた。
 その歌手を知ってるか?と聞かれた。

 私は、フランスの歌手のことすら知らないのに日本の歌手のことなんて無理無理、と答えた。

 一応ネットで検索すると、なんと、私と同世代の歌手だった。でも、知らない。
東北出身で、コンプレックスがたくさんあり、岡林信康に影響を受け・・・という話で、姿を何となくイメージした。自分と同世代といわれて、うらぶれたおじさんを自然に想像するのもちょっと悲しい。

 ところが、写真を見て、ちょっと驚いた。 こういうの。
 
 http://www.interq.or.jp/www-user/kurenai/info/info.html

 なんだかとてもかっこよすぎる人だ。

 知人の息子はどんな風にこの人とめぐり合ったんだろう。

 前にこの知人の息子の映画を見に行ったとき(2008・6・6)書いた感想をコピーしよう。

 「A Skin a night-The National と 6days-REM 
 パリのサン・マルタン運河の水辺にある現代アートの巣窟みたいなところLe Point Ephemereでやってる「音楽を撮る」というフェスティヴァルに行ってきた。
 知人の息子 Vincent Moonが2作品を上映するというので。

 入口の反対側は、普通の下町の通りだが、入口は、運河に面した別世界になってる。
 美術学校に紛れ込んだみたいな感じで平均年齢はすごく若そう。そんなとこでもベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い女も混じってるのがパリらしいと言えば言える。

 Vincent出品の2本の映画は、どちらもロックグループのコンサートやスタジオ録音の舞台裏を追ったドキュメントだ。

 私はロック・グループのことは全然知らない。

 最初のは、The National という若いグループで、メンバーには兄弟が二組いる。だから親密感がある。
 
 私は、ヘッドフォンをつけて、聴衆の嬌声の中でがんがん音を出すグループって、シャーマン状態とか、エクスタシー状態で演奏しているのかなあと何となく思っていた。

 そしたら、演奏の前に、ヴォーカルの男が、

 「Really scarely」

 と言っていた。

 その顔は、まだ少年のようでもあり、繊細で脆弱だった。

 このひと言のつぶやきで、なんとなく、演奏家って皆同じなんだなあ、と親近感を抱いた。
 
 その上、彼らは演奏家であるだけではなく、作詞、作曲をやるクリエーターでもある。
 インスピレーションと閉塞と、不安と爆発の間を往き来する姿は、アーティストとしての真摯さと孤独がにじみ出てる。

 次の映画は、REMという、これは有名なグループみたいで、言葉は少ない。でも映像的にも音楽的にもこっちの映画のほうが完成度が高い。

 しかし、このグループのメンバーの姿を見てちょっと驚いた。
 The National とは世代が違うのである。

 80年代にすでに活躍したというから、メンバーは皆50がらみだ。

 ロック歌手って、50になっても60になっても、若いときのままの削がれたような体型を維持してる人というイメージがあって、それが、「年とること」を否定、または、時間性のないところで燃え続けるアーティスト、ってブランドイメージかと漠然と思ってた。

 でもREMの人たちは、The Nationalの映画を見た後のせいか、あるいは、上演場所にいる若者たちのせいか、一目見て、「おっ、同世代」って、感じの年配だった。

 もちろん、メタボ体型とかではないんだけど、彼らは、明らかに、厚みがある。文字通りの意味で「充実」してる。つまってる。

 ここで、彼らは、「おじさんたち」とか、「昔の青年」とかには見えない。

 そして、そんな彼らのヴィジュアルは、凝縮力があって、大人感、本物感がある。

 不思議だ。

 よく、40過ぎの顔は人生の履歴書だとか、生き方が顔に現れるともいうが、REMのミュージシャンとしての、また、人間としての、背負ってきたものが詰まってる感じがする。

 The National のメンバーは若くて感受性が強そうで緊張感もあって美しいし、そこでいっしょに映画を見てた若者たちもみな、スタイリッシュできれいだ。

 でも、彼らとは明らかに異質なもの、年月を背負ったREMの発する力と存在感は、それだけで、映画を支えている。彼らにはもう、孤独が怖くない。慄えていない。
 孤独を血肉にしてしまっている男たちの充実。

 音楽もなかなかいい。
 アートの普遍性というより、人間の普遍性を再確認して、楽しかった。 」

 私は、The Natinal も REMも、友川かずきも知らない。友川かずきは、世代的にはREMと近いな。でも、国が違う。見た目の雰囲気も違う。画家で競輪評論家(!)でもあるそうだし、人間的にはさらに深みがあっておもしろいんだろう。Vincentはフランス人を扱わないで、アングロサクソンから日本に目を向ける。どんな作品になるのか興味津々だ。
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by mariastella | 2009-10-28 22:37 | 雑感

V・I はクリスチャンではなかった!!

 サラ・パレツキーの『センチメンタル・シカゴ』(ハヤカワ文庫)を読んで、びっくりした。

 前から、パレツキーの描くシカゴの宗教事情はすごく説得力があるなあと思っていた。

 ヴィクのポーランド人の父親が警察でアイルランド人の派閥に阻まれて出世できなかったが、明らかにカトリックつながりでアイルランド人の親友がいたこと、イタリア移民の母親と結婚したこと、ポーランド人とイタリア人のカップルというだけで、これも当然カトリックつながり、だと思っていた。
 ミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』がはじめユダヤ人とキリスト教徒の恋に設定しようとして、それはあり得ないからカトリック同士にした、というエピソードがある。ジェット団もシャーク団も、カトリックだからこそ、仮想結婚が一応可能なのである。アイルランド移民子弟とポーランド移民子弟がカトリックのプアホワイト同士でつるんでいるのも分る。
 ヴィクが最初に結婚して別れた男はWASP、つまり、アングロサクソンのプロテスタントだった。互いの家庭から反対されたのもまあ分る。

 シカゴは、少なくとも30年前とかなら、マフィアのイメージが強く、マフィア=イタリア=カトリックというので、カトリック教会の影響が強いというのも分る。
 この小説に出てくるコルプス・クリスティというカトリック秘密組織がポーランド人教皇に忠誠を誓って暗躍するという構図も、ダン・ブラウンによって描かれたオプス・デイの陰謀のお粗末さよりもずっとリアリティがある。

 で、ポーランド人とイタリア人の両親を持つヴィクは当然カトリックだと思っていた。いや、彼女のフェミニズムとの係わり合いなどを見ても、筋金入りのインテリ左翼であり、メンタリティ的にはむしろピューリタン的自助努力派であるのは分っていた。しかし、少なくとも、カト的文化教養があって、洗礼は受けたが教会を離れたというか、まともに信じたことがないのだと思っていたが・・・・

 カトの右派がシカゴ大学を「ユダヤ人や共産党員の学校」と呼んでいた、とあることからも、ユダヤ人医師ロティとの友情も、そのような「インテリ左翼」心性+ロティの出身地オーストリア(カトリック)文化の親近感が混ざっているのかと漠然と感じていた。

 しかしヴィクは、この作品で何度も、「私はクリスチャンじゃない」「カトリックではない」と言い、洗礼を受けていない、と言明している。いや、カトリック右派のおばから「洗礼すら受けていないくせに」と言われている。
 母はフィレンツェの出で、母のおば(母の父親の妹)に当たる人ががちがちのカトリックなのだから、家族は当然カトリックだと思うのだが・・・
 母方の祖母がユダヤ人の学者の家庭の出身で「一族はユダヤとの混血だった」とヴィクは言っている。その辺もロティへの親愛感の原因の一つなんだろうか。しかし、ポーランド人移民の父親との組み合わせは、どう考えてもカトリックだと思っていたのだが。

 この組み合わせで一人娘に洗礼を受けさせなかったというのは不思議だ・・
 想像できるのは、ネタバレになるが、ヴィクの母親がひどい罪悪感に悩んでいたことで、彼女が「信心深い」としたらなおさらそれは重大だったろうし、それがヴィクの無洗礼と関係があるのかもしれない。

 パレツキー自身はどうなんだろうと思って、英語版のサイトを見てみたが、はっきりしなかった。
 ミステリーマガジンに連載されていた自伝も学生時代からデビューにかけての部分しか読んでないので、確かめようがない。サラって名前はユダヤっぽいし、パレツキーはポーランドっぽいし、見た目はスラブとラテンの混血と言われると通る感じだ。まあ、彼女のアイデンティティにとって最も重要なのは、宗教的頑迷や不寛容やマイノリティ差別と戦う部分にあるのだから、ことさら、親の宗教とか洗礼の有無とかで自分を形容したくないのだろうけれど。

 シリーズの他の本をもっと読まなくちゃ。
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by mariastella | 2009-10-27 00:55 | 雑感

sacrificium

Cecilia Bartoli の新作CD の sacrificium を買って聴いた。

http://www.ceciliabartolionline.com/cms/francais/sacrificium.html

 で試聴もできる。

 このCG合成の写真、うちのトリオの連中は気に入っていたが、私はぞっとした。何とかならないか。
 もちろん、実際のカストラートの体はこういう筋肉質じゃないだろうから、カストラートのふりをしてるわけじゃない。Mは、アンドロギヌスだと言ってたけど、そんな中性的でもない。
 カストラートの伝説、いや、去勢そのものについてミニ百科みたいなのもCDについていて、それはそれで、おもしろいのだが、あらためて分ったのは、カストラートのセクシュアリティの実体は謎に包まれているということだ。宗教的神話的な話は別に目新しくない。

 フランス人一般がカストラートに示した嫌悪については前にマルキ・ド・サドの手紙でも触れた。ナポレオンがイタリアを征服してカストラートを禁止したことことからも、王党派も共和派も、その手の倒錯には同じ禁忌の念を持っていたようだ。ドイツにはけっこうあったことから見ると、必ずしも「ラテン的倒錯」ではない。じゃ、やはり、バロック音楽のメンタリティにおいて、ドイツがイタリアと軌を一にしていた証拠である。

 最近読んだ論文に次のようなものがある。

LOUBINOUX Gérard – La voix entre âme et viscères dans les textes de la
Querelle des Bouffons.

 歌手にはイタリア語がよくて、声楽をやる人はフランス語で歌うと声帯を傷めてしまうというのは今でもよく言われるし、素人耳にもイタリア語の方が母音がはっきりしていて歌いやすそうとか思うかもしれないが、Querelle des Bouffonsの時代には、フランス人はイタリア語の歌を「騒音」扱いしたし、イタリア人はフランス語の歌を「わめき声」扱いしている。それぞれけっこう分析しながら。
 まあ、このカストラートのレパートリーを聴いていると、確かにアクロバットというか、サーカスであり、イタリア語とかいう「言語」の次元じゃなくて、喉、傷めると思う。

 だから去勢という特殊手段に出たんだろうけど。

 今、こういうレパートリーを歌える人は少ないし、セシリア・バルトーリは中でも、普通はもう誰にも歌えないようなレパートリーを掘り起こして力技を披露してるので、どれも珍しいものだ。伴奏もGiovanni Antonini で実にしっかりしているけれど、バルトーリって、怪物だなあ。

  Cadrò, Ma Qual Si Mira   のような、Francesco Araia の曲なんて、初めて聴いた。イタリア人聴衆が熱狂して涙を浮かべてブラヴォーと叫ぶのが聞えてきそうだ。

 私の好み、つまり、基準を、「一日の初めにベッドの上で聴いて、一日の終わりにもベッドの上で聴くとしたら」、というのに定めると、好きなのは、最後の

Antonio Caldara の『アベルの死』のうちの

 Quel Buon Pastor Son Io

 だけど。

 今ちょうど、フランスでは、小児性愛の累犯者が、自ら去勢されることを願っていることについて、フランスでは肉体損傷刑を死刑と拷問と同列で禁じているので、いろいろな意見が飛びかっている。今朝のラジオでロベール・バダンテールがいわゆるホルモン療法などの、可逆性があるものならOKと言っていた。
 医療行為以外の、可逆性のない肉体への介入に関して、フランス人の持つ文化的忌避観と、「フランス式倒錯」との関係は興味深い。これは、ひいては、ユダヤ世界やイスラム世界の割礼やアフリカの女子割礼(フランス国籍を得たアフリカ系女性が毎年フランス国内で家族内で強制的に割礼を受けている)などの、文化的慣習的な肉体介入にどこまで干渉できるのかという深刻な問題にもつながる。

 へミングウェイの短編にも、『God Rest You Merry,Gentlemen』とかいうのがあって、欲望といっても小児性愛とかではない)を自制できない男が医者に去勢を頼んで断られたので自傷した話だった。思春期を過ぎてからの去勢は断種できても性的行動を変化させないという説もあるから、どうなんだろう。
 性的行動がすべて、「脳」の中にあるというのは本当だと思う。

 うちの雄ネコのスピノザは、いろいろ事情があって、まだ無邪気な子猫であった6ヶ月半くらいで去勢したのだが、避妊手術されていないメス猫サリーと暮らしているうちに、サリーが発情するたびに「学習」して、今は、何だか分らないがすっかりサリーの本能を満足させられるようになった。もちろん誰も教えてないし、完全室内飼いだから他のネコを見て覚えたわけでもない。

 ライオンのようにかっこよく、シンプルでやさしい、男の美点をすべて備えたようなやつである。
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by mariastella | 2009-10-27 00:03 | 音楽

正律弦が欲しい

 せっかく夢の正律ギターを手に入れたのに、今度は弦の調整に悩まされている。

 ヴィオラの弦はギター弦に比べてずっと高価だが、長持ちするし、音も安定している。
 調弦もネックの糸巻き部分だけでなくて、緒の部分にも微調整のアジャスターがついているし、何よりも左手の指の押さえ加減で演奏中の「土壇場の微調整」というのが可能である。耳さえしっかりと、「鳴る前の音」を聴いていれば大丈夫だ。その点で、声楽と同じである。

 しかしギター弦は、例えば、開放弦に対して第3ポジション(開放弦より一音半高くなる)が低すぎると感じた時に、弦を締めると、開放弦は変わらないのに第3ポジションがちゃんと高くなる時がある。

 一方でしか締められないこととマチエールの関係?、ナイロン弦の上に巻かれたメタル線の向きの関係?

 弦が古びると弾力を失うからもちろん不正確になるし、調弦への反応の仕方も変わる。
 新しい弦でも、同じメーカーの同じ張力の弦でも、音の立ち上がりと終わりとの音程の差が大きすぎる弦にあたることも少なくない。楽器との相性というのもある。

 私たちの「正律ギター」は、各弦のラを418に調弦している。だから、例えば、第2弦と第4弦のラを同時に弾くと、当然、完璧にオクターブが重なる。ところが、同じ第2弦と第4弦のレを弾いてオクターブにすると、僅かなうなりが生じるのである。

 錯視というのもあるから、音程にあまり神経質になって正確な判断が下せないんじゃないかと一瞬思ったが、うなりという現象は、明らかにずれを示している。

 今朝の練習で、ニ長調のLoureの出だしでこの問題が起こったので、あれこれといろいろ悩んだ。
 正律ギターへの「信頼」に影が差したのである。

 で、結論は、よくあることだが、弦のせい。

 弦のメーカーとか張力とかもう少し試行錯誤しなくてはならない。それでもあたりはずれがあるし、しょっちゅう変える必要もあるから完璧な解決はないだろう。

 平均律で何の悩みもなくて思うままに練習できるピアニストがうらやましい。
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by mariastella | 2009-10-26 23:05 | 音楽

K のソリプシズムの考えかた その後

 必要があって、手元にあったD・クーパーの『反精神医学』(岩崎学術出版社)を35年ぶりに読み返した。

 関心のあり方が変わると本が変わる。本も環境と同じで、自分との関係性の中で始めて存在するプロダクトであるんだなあ、と今さらながら思う。
 この人の「反精神医学」の実践は今どうなっているんだろう、とネットで検索してみたら、なんと、1986年に55歳の若さで亡くなっていた・・・・

 35年前も、脱自(Ex-stasis)と入自(en-stasis)と宗教神秘体験の関係に注目したのだが、今回は、私があるという存在(=being that I am )と私があるという無(=nothing that I am)という切り口に特に反応した。

 「私」が戦略的に解体した非存在とは、特殊な限定された無であって、それは一般的な空虚とか無効化された存在(=a-voided being)ではない。
 一般的な意味での自我的な「存在」と、非特異的な無との2極に拡散される間の微小な地点に「具体的特異的な私の存在」がある。

 今、11月下旬に出る『自由人イエス』(C・デュコック、ドンボスコ社)で展開された「自由」論を、宗教としてのキリスト教の言葉を使わずに書きなおす試みをしているのだが、それにすごく役立ちそうだ。

 Kのソリプシズムの理解にもつながりそうだ。

 K のソリプシズムについては、はじめは、無神論の一形態かと思った。

 次に、神秘主義のヴァリエーションかと思った。

 今は、哲学的自由論の枠の中で語れると思っている。

 ソリプシズムは自我的でない自由の一形態であり、自己の解体と再統合を可能にする練り上げられた生存戦略の一つなのである。

 実は、最近読んだ大井玄さんの環境と自己論には、正直言って、そのバイアスのかかり方にがっかりした。こういう、「はじめに結論ありき」という論の立て方は誰でも陥りやすいので要注意だが。
 でも、まあ、人間が実存的不安や情動を最小にするために世界や自己やその関係を仮構するというのは分るので、その仮構の仕方が「キリスト教世界 対 非キリスト教世界」だったり、それがいつの間にか、「西洋近代の無神論的物質主義 対 多神教的協調世界」になってたりとぶれるのも、分らないではない。そういうのを整理するためにこそ、私は無神論の系譜研究を始めたのだから。

 どういう世界の仮構の仕方が、最も平和と共存を望めるのかという問題はもちろん複合的なのだが、それには、「自由」の問題の根本的な検討が必要になる。Kのソリプシズムは一つのユートピア的自由地点である「特異化した無」を標榜することによる「遍在」の試みなのかもしれない。

 D・クーパーは、正常と狂気を対立項におかない。正常の反対は異常であり、統計学的概念に過ぎない。ある種の「精神病者」とレッテルを貼られた人は、単に「正気」を選択しただけかもしれないという。「異常で正気」という組み合わせもあるのである。

 精神異常についてもそうだとしたら、いわゆる生活習慣病もそうかもしれない。
 各種検査で「異常値」が出ても、それは、必ずしも、「病気」とイコールではない。正常値とは健康な人の検査値の平均あたりを指すだけで、「健康」な人の「すべて」が「正常値」というわけではない。

 検査の「異常値」や生活上の「異常行動」は、必ずしも「疾患単位」ではない。それはある個人と環境(あるいは他者)との相互作用のパターンの一定の組み合わせであり、それが多かれ少なかれ特異であるだけだ。
 精神病や生活習慣病は、ある個人の「内に」起こっているのではなく、環境との間に起こっている何かなのである。人間の臓器ももちろん内的な閉鎖系ではなく、たえず呼吸や摂食などにより外の環境と連動している。

 こう考えると、「病気」や「狂気」を疾患単位として封じ込めたり排除したりして「正常」への復帰を目指すcureとは別に、健康とか正気とはそれぞれの人にとって何なのかを考えて再統合を手伝うhealという考え方が大切だということになる。偏った生活習慣もそうだが、単に「老化」するだけでも人は検査上の「異常値」の方に向うのだから、そのへんの考え方は、これからますます重要になるだろう。真のQOLに一番大切なのも「自由」だし。
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by mariastella | 2009-10-21 18:52 | 哲学

正律ギターその後

 正律ギターでトリオの練習を続けている。バスが10弦ギターになったので、その調整が最も難しい。
 6弦ギターは、弾いている方には何の不都合もない。
 3つのギターの和音の響き方が、これまでとは全く違って、快感としか言えない。

 これだけ気持ちいいのだから、このフレタージュが知られるようになれば、すべてのギタリストが採用するかなとも想像したが・・・・

 この特殊フレタージュでは、上からミシソレラミの調弦しか不可能である。
 第6弦をミでなくレに下げて弾く曲は少なくない。
 開放弦だけなら問題ないが、フレットを押さえるとなると、ずれてくる。

 クラシックギターを始める人が誰でも弾きたがる曲に、「禁じられた遊び」の他にタルレガの「アルハンブラの思い出」に「タンゴ」がある。このタンゴは、6弦をミに、5弦をソに下げて、ポジションをずらしながら弾く。

 こういうのは、正律ギターは使えない。使えないわけではないが意味がなくなる。

 正律ギターの調弦は、私たちは今のところ、418ヘルツをラにとって、各弦をラにあわせる。開放弦を使えるのは5弦だけだ。これは少し面倒だけど、慣れるとどうということはない。

 ピアノというのは平均律だが、一音に一つのキーしか対応しない。その上、和音とかが混ざる。だから、それなりに、脳が微調整して聴いてしまう。本来ならばヴァイオリンソナタでピアノ伴奏なら、違和感があるはずなのだが、たいていはスルーされる。平均律に慣れていなかった明治の日本人はピアノ伴奏のヴァイオリンソナタをラジオで聴いてその不正確さに驚いたというが、今の人は生まれたときから平均律に慣れてるし。

 私は初めてチェンバロを弾いた時、そのタッチの違いや音色の違いに気をとられて、調弦の違いは気にならなかった。和音が混ざらないで各音が立ち上がってくるのが一番気に入った。これはギターのトリオと同じだ。

 ギターの一番の問題点は、一台で和音を弾くと楽器の内部で混ざってしまうし、平均律になっている上に同じ弦で別々の音を出せないから、ずれがピアノよりも広がることだ。私たちのように三台のギターで弾く時は、主要和音がきれいに響くように調弦を微調整しておくことが可能だが、そうするとオクターブや開放弦が合わなくなる。その上、一音の初めと終わりで高低差の大きい弦に当たることもあるし、フラストレーションは大きいのだ。

 ヴィオラで和音を弾くと指の位置で調整できるのでぴったりと決まってそれは気持ちがいいが、けっこう難しいし、基本的にメロディラインなので、私の場合いつまでたっても和音が上達しない。しかし、中年になって初めてヴィオラという非平均律楽器を手にして、正確な五度のハーモニーとそこから出発する音程の安定を自分で創って耳にした時の生理的な気持ちよさは忘れられない。

 五度が正確に鳴る正律クラッシック・ギターで、バロック・オペラを演奏するというのは革命的なアイディアだったと思う。しかし、このフレタージュはラディカルなものだから、一人の製作者が初めからやるのでなければリスクも大きいし、心理的抵抗も大きい。エピセアでニスの薄い最高級のギターを「いじる」のは、今思うと無謀な冒険だったが、私たちにはなぜか、無邪気な信頼と、結果への確信があった。

 パリでは来年の1月30日にこの世界で唯一の正律クラシック・ギターの22弦トリオによるコンサートをやる。日本でも来年秋に予定しているので、またここでお知らせすることになるだろう。

 
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by mariastella | 2009-10-20 18:13 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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