L'art de croire             竹下節子ブログ

<   2009年 11月 ( 13 )   > この月の画像一覧

2012

 ローランド・エメリッヒ監督の『2012』を結局観にいった。大迫力特撮モノは嫌いじゃない。

 Mが、カリカチュラルだと言っていた。権力者、金持ち、白人とかは「悪」で、有色人種や慎ましい人々が「善」という図式とか、中国やヒマラヤのキャパシティとか、アフリカが最後に残る希望の大陸(無理して象やキリンを運ばなくてもよかったかもしれない)とか、世界の終わりになるとイタリア人はみなカトリックになるのかとか、お決まりのチベットの坊さんの智恵へのファンタスムとか。
 特にMをイライラさせたのは、「実の父親」が最終的に子供を救う、という図式みたいだった。Mは同性のパートナーの子供二人と暮らしてきて、子供たちに不当干渉する実の父親の横暴ぶり、倒錯ぶりにうんざりしているからである。(黒人大統領が殉死すると「白くなる」んだよ、とも言っていたが、雪のせいのあれをそう深読みできるのか?)

 それに、この映画見てると、子供たちを救うには、実の父とステップ・ファーザーと二人が要るなあ。車の運転のプロでSF作家と、飛行機の運転ができる医者との連携が最低必要だ。

 実の親が云々というより、何かこれを見ていたら、やはり世界(あるいは個人の人生)の終わりには、人間としての幸せは、「愛する人とめぐり合って子供を持てること」、みたいなメッセージが挿入されるのが、抵抗があった。まあ、「男女が出会って子供が生まれるのは価値あること」という基本的なインプットがないと、それこそ種が絶滅するのだから、それはいいけど、「わが子を助ける」ことや、「親子が愛してると言い合う」ことばかりが、人間性の発露とか人生の意味みたいなのに矮小化されるのは嫌な気分だ。人生において伴侶を得られなかった人、子供を持たなかった人、子供を守れなかった人なんか、は救われないし、実の親でもほんとうに鬼のような親だっているしね。

 うちはチベットの坊さんたちと関係が深いのでよけい感じるのだが、こういう異文化への憧憬みたいなのも、構造主義人類学以来の西洋人のファンタスムと切り離せられない。
 
 白人文化はもうだめでアマゾンの奥地や遠いヒマラヤに真の智者がいると思う心性と、移民の子孫や不法移民が治安を妨げる悪徳分子だと排除したい心性とは、表裏一体である。

 幸福の青い鳥は、他所に探すが、結局自分のすぐそばにあった、というのはよく言われることだが、悪や不幸も、がんばって不法移民や狂信者などに投影しても、結局、自分の中にあるのだ。

 ほんとうに世界の終わりが来そうなら、私は特に生き延びたくもないし、無理だと思うが、それでもできるだけは生き延びて、終わりの様子を見てみたい、地球の様子だけじゃなく人間の行動も。その「好奇心」が恐怖より強い。

 まあ、この映画は、結局、聖書的な展開をするので、「贖罪による再出発」という「希望」のメッセージになっている。商業映画のお約束でもあるが、大切なことでもあるな。

 つまり、やたらと「世界の終わり」を言いたてて不安を煽り自滅するより、「何かの終わり」はまた「何かの始まり」でもあることを信じることの大切さだ。既得権や良い思い出や失われた健康や若さなどにしがみついて変化についていけずに自分を不幸に追いやるというケースは多いからなあ。

 この映画、10年前の、1999年の「世界の終わり」話を思い出しながら、観た。
 あの時も、何月何日に世界が終わる確率は、それまでに病気や事故で私の終わりが来る確率より小さいだろうなと思っていた。この10年の間に私の両親の世界は終わっている。
 彼らにとって宗教はどうだったろう。生きている時には何かしらの役に立ったかもしれないが、亡くなる時には、別に必要としなかったみたいだ。

 そういえば、「人間を信じる人はみんな神の子」、ってシスター・エマニュエルが言っていたなあ。

 


 
[PR]
by mariastella | 2009-11-30 03:24 | 映画

ハミングはいつも孤独

 半世紀以上も音楽をやってきて、つい先ごろ始めて知って、驚倒したこと。

 ある種の楽器奏者にはひょっとして常識なのかもしれないが、私もその種の楽器を始めてもう15年になるというのに、先ごろ気づいたのだ。

 ことの起こりは、クリスマスに室内楽のトリオで弾くためのCambiniの曲。私がヴィオラで1小節に三連音符を4つ続けて弾くのが10小節くらい続くところでヴァイオリンのジャンとフルートのエリカがメロディっぽいものをかぶせて弾く。しかし、メインはこの三連音符の連なりであり、本来なら他の二人が私にあわせなくてはならない。2拍子なのでテンポはかなり速い。つまり2拍のうちに12の音を弾くのである。しかも80歳近いジャンは近頃耳がとおいこともあって、マイペースで弾く。だからジャンにあわせるのはいつもこちらであるが、私は三連音符を外さないことに集中していてなかなか彼のパートを聴けない。で、彼の楽譜を借りた。出だしの彼のリズムは、付点四分音符一つに十六分音符二つである。私は彼のパートを何度か弾いて、それから、自分のパートを弾きながら彼のパートを歌って練習しようとした。

 すると、

 声が出ない。

 で、もう一度、彼の楽譜を見て、「ラーン、ララ」(最初のラーンの間に私は三連音符を三つ弾き、後のララの間に三連音符をひとつ、つまり三つの音を弾く)としっかり頭に入れて、トライ。

 やっぱり、声が出ない。
 まったく、出ない。

 確かにすごく簡単なリズムでもないが、それにしても、この程度なら、ピアノで、左手で同じ三連音符を引き続け、右手でヴァイオリンのメロディーを入れるなんてことは普通にできる。

 クリスマスの発表会では生徒たちとピアノの連弾やギターのデュオもするのだが、私はいつも自分のパートを弾きながら、生徒のパートを同時に歌ってやっている。何の問題もない。バロックのギター・トリオの曲を一人で練習する時も、MやHのパートを歌いながら弾くのはよくあることである。
 
 それなのに・・・

 ヴィオラのレッスンに行った時、先生にそのことを言ったら、

 「ああ、それは当然よ。だって、ヴィオラはそれ自体歌だから。」と言われた。

 ヴィオラやヴァイオリンは脳の楽器でピアノやギターは物理だから、というのだ。
 それってどういうこと? ピアノだって脳も使っていると思うけど。

 つまりこういうことらしい。

 ピアノやギターは早い話が、楽譜を読んで、しかるべきキーを叩いたり弦を押さえたり弾いたりすると目的の音が出る。これに対して、例えば、声を出して歌を歌う時、声を出す一瞬前に、私たちは音程を脳の中でつくらなくてはならない。かってに音が出てくるわけではない。
 そして、ヴィオラやヴァイオリンのようにフレットのない楽器では、やはり先に音程をイメージしない限り、正しい音は絶対に出ないのである。だから、ヴィオラを弾く時の脳は歌う時の脳になっているので、別のメロディーを同時に歌うことはできないのだという話である。

 うーん、そういえば、ピアノやギターの弾き語りというのは普通にあるが、ヴァイオリニストがヴァイオリンで伴奏を弾きながらメロディを歌うなんて聞いたことがないなあ。

 もちろん、ヴィオラを弾きながら、ヴァイオリンのパートを「聴く」ことはできる。それができなければアンサンブルもオーケストラもなりたたない。しかし・・・他のパートを自分で声に出すことは、できないのだ。

 それは、一つの歌を歌いながら別の歌を同時に歌えないのと同じよ、と言われた。
 
 そこでよみがえった思い出。

 『サウンド・オブ・ミュージック』というミュージカルに有名な「ドレミの歌」があって、その中で、「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ、」とハーモニーを繰り返させた後で「ソー、ドー、ラー、ファー、」とメロディラインをのせていくという「練習」がある。これを一人で口ずさむ時、「どっちか一方」しかできないのである。自分としては、どっちか一方を歌いつつ、脳内でもう一方を喚起してハモりたいのに、不可能なのだ。
 もちろん声さえ出さなければ、両方を脳内で思い浮かべることはできるし、管弦楽曲や協奏曲だって、全体として喚起することはできる。しかし、いったん、一つのメロディを声に出すと、脳内でその音程を作る回路が優先して他の音楽喚起機能がブロックされるらしい。
 まあ、ドレミの歌くらい単純なものなら、細切れの画像を早送りすればつながって見えるような感じで、高速で頭を切り替えると、それらしい気分にはなれるのだが、いつもフラストレーションがあった。

 考えると、すごーく単純な輪唱、たとえば、「Are you sleeping」みたいな曲でも、二人で歌って相手のパートが重なってハモるのを聴くのは楽しいが、一人じゃできない。自分のパートを声にしたとたんに、別のパートは、脳内で喚起できないのである。

 人間の耳は2種類以上の音を処理できないので、指揮者なんかは、一秒の何分の一とかという高速で各パートを選択して聞き分けて脳内で再構成して繋げているという話は読んだことがあるけれど。

 そういえば、一口に、たとえばレコードで聴いた大オーケストラの曲や、ナマの演奏会で聴いたポリフォニーの大コーラスとかを、後で脳内再現したつもりでも、それって、どの程度の再現なんだろうか。メインのメロディーの追っかけでなければただの「印象の連なり」ではないのか。だんだんあやしくなってくる。

 もちろん、訓練もあるだろうし、個人差もあるだろうけど。

 歌手が伴奏なしに練習する時、伴奏を思い描けない。協奏曲を弾くヴァイオリニストも、ソロパートを一人で練習する時、オーケストラは聴こえてこない。できるのは、伴奏者と音合わせする時のために自分の楽譜に相手のパートを書いておいたり、あらかじめチェックしておいて、聞き取れるようにスタンバイすることだけである。もちろんイントロとか間奏部分などは一人でも、自分で歌ったり喚起したりできる。

 だとしたら、ハミングは、いつも孤独?

 試しにこれを書きながら、特定の曲(ベートーベンの歓びの歌)をハミングしながら、飛行機の轟音がバックにあることを想像してみた。

 できたよ。

 次に同じ曲をハミングしながら、うちの猫がうるさくなくところを想像。

 できた。

 次に同じ曲をハミングしながら、「子曰く、朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と脳内で唱えてみた。

 できた。

 次に同じ曲をハミングしながら、後ろからシューベルトの『楽興の時』が突然流れてくるところを想像。

 できないよ。

 先生が言った。

 「それが分るには、耳栓して練習してみるといいわよ、弾けないから」

 って。

 ピアノでもギターでも、実は、こう言われる。

 1.下手な演奏者は自分の出した音を聴かない。
 2.普通の演奏者は自分の出した音を聴く。
 3.真の演奏者は音を(脳内)で聴いてから出す。

 微妙だなあ。

 だとしたら、アルペジオなんか弾きながら歌ってる人は、絶対、3はあり得ないなあ。
 機械的に弾いて、それを声と一緒に聴いて楽しむ耳があるだけだ。

 左手で三連音符の連続を速いテンポで弾きながら右手でメロディーを弾くピアニストは、少なくとも片手は2どまりだなあ。けっこう複雑な気分だ。


 

 
[PR]
by mariastella | 2009-11-29 03:38 | 音楽

『移民の子供たちの運命』


LE DESTIN DES ENFANTS D'IMMIGRÉS. de Claudine Attias-Donfut et François-Charles Wolff. Stock,

忘れないうちにメモっとこう。

 信頼できるらしいエコノミストと社会学者が書いた上記のタイトル『移民子弟の運命』の本に拠れば、フランスの6000人の移民とその子孫2万人の統計では「移民の子弟=失業、犯罪、暴動」という昨今の報道のされ方は全く事実を反映していないらしい。

 私は、フランスのユニヴァーサリスムに基づいた移民の同化政策を支持している。フランス語の習得(フランス文化の享受可能性)と、普遍的人権を掲げる共和国主義への合意ということであって、別に、みんなが同じように横並びになれというわけではない。第一、生粋のフランス人ほどそういうのが最も苦手である。
 これに対して、近年は、マイノリティ側に、コミュノタリスムに根ざした犠牲者主義というのが蔓延し、「旧植民地の子孫とか奴隷の子孫」という圧力団体が形成されがちなのを苦々しく思っている。

 しかも、2005年の「移民の子弟の暴動」報道のようなものがある度に、

 「ほーら、フランスのユニヴァーサリスムはもう賞味期限が切れている、機能していない、理想主義、偽善だ」

 といった類の、アングロサクソンのプロパガンダみたいなものが横行した(2003年のイラク派兵の際にアメリカのコミュノタリスムとフランスのユニヴァーサリスムの戦いが表面化したのを受けていた)。それを受け売りした日本の評論家の中にはそれをリピートする人がいて、ユニヴァーサリスム擁護する者を「フランスかぶれ」扱いする人さえいた。

 私は、今の世界の状況では、日本はユニヴァーサリスムを採用した方が外交戦略としては圧倒的に有利だと思うので、別にフランスかぶれでユ二ヴァーサリスムを擁護しているわけではない。

 それに、30年以上の私の生活実感としても、フランスのユニヴァーサリスムはまだ機能していると思うし、自分ははっきりその恩恵を受けている。
 でも、郊外のシテ(低家賃集合住宅)は無法地帯で移民の子孫が騒いでいてゲットー化しているという報道を見るたびに、居心地が悪かった。

 この本によると、移民の子孫の80%は普通の町に住んでいる。普通の町ではアメリカのような人種や宗教の棲み分けはもとよりない。移民の子孫は親も子も、3分の2以上が、親よりも子の生活水準が上がった、と答えている。これは「普通のフランス人」の2倍の数字である。
 その理由は、移民の第一世の親には、子供を成功させたいという上昇志向があって、それが子供のモチヴェーションになっているからで、フランスの教育社会主義が、それを可能にしている。女性が男性よりも社会的に上昇率が高く学歴も高いのは、移民家庭の「母親」が娘のジェンダーの縛りの解放をより望むからだというのだ。日常的に差別を感じる人は5,8%に過ぎず、これは、たとえば、女性や障害者が女性や障害者であることで差別を受けていると感じる数字と大差ないかもしれない。

 アフリカの旧植民地国出身の親には、citoyenneté de contestation つまり、クレーマー公民性というのがある場合があり、これが若い世代の犠牲者主義運動につながり、この場合には、社会的上昇や統合も困難になる。

 なんといっても、フランスでコミュノタリスムや犠牲者主義が広まってしまったのは、もう20年以上、政権保持者が、左派も右派も、ソシアルの問題を人種問題や宗教問題にすりかえてきたからである。
 低所得や失業やホームレスなどに結びつく社会的弱者の救済を、ソシアルの問題としてちゃんとユニヴァーサルに取り組まないで、移民などのマイノリティの問題にすりかえたからだ。

 (実はもう一つ理由があって、これは日本にいると本当に分りにくいのだが、最近亡くなったレヴィ・ストロースなんかがさんざん利用されたのだが、遠隔地のマイノリティ文化の「発見」による西洋文化の相対化とポスト・モダンの底に流れるフランス人独特の自虐趣味がこの風潮を放置したのだとも言える。この辺についてはまた書くが、日本のように、フランスから見て「周辺」文化にいる者たちは、その自虐趣味を都合のいい所取りして、問題をますます見えなくした。笹野頼子さんのような方に「西哲野朗」と呼ばれる追随の仕方で、大きな「勘違い」をした部分が多々ある。私が今「無神論の系譜」について書いている目的のひとつはその「勘違い」に光をあてることである。私もまた70年代の構造主義が抱える裏のニュアンスに当時はまったく気づかなかった一人だ。)

 今フランスでは不法移民の排除を厳しくして、国民アイデンティティの問題を政策的に話題にし、「移民の子弟の暴れそうな」郊外シテの警備をますます厳しくする(今の大統領は安全を求める人の不安を煽ってこれに迎合することでのし上がってきた)とまた言い出した。これがまた犠牲者主義に油を注ぐだろう。

 共和国理念というのが、まがりなりにも「普遍的人権」だったように、フランス人のアイデンティティとは、そのままコスモポリタンのアイデンティティであリ続けてほしい。
[PR]
by mariastella | 2009-11-29 02:07 | フランス

Sasの話

 うちには室内飼いの猫が3匹いて、そのうちの雌2匹はここ6年来完全棲み分け体制である。いろいろわけがあるのだが、とにかく間違って接触したら確実に血を見ることになる002.gif。その一番若いサリーは、基本的に階下のLDKのみに住んでいて、家政婦さんが来るときにだけ、寝室のひとつに閉じ込める。玄関からLDKに行くには4メートルちょっとの狭い廊下がある。あるいは客用ダイニングを通るがそこは猫禁止ゾーンなので、たいていは廊下を通る。こうすれば、通行自由の雄猫スピノザもついて来れるからだ。

 その時、うっかり廊下のドアを開けるとサリーが飛び出すことがあるので、私たちは廊下の両端のドアを両方閉めることにしている。こうすればLDKのドアを開けたときサリーが逃げ出しても、危険ゾーンには行かないで廊下に閉じ込められるから、ゆっくりと連れ戻すことができる。

 先日階下のLDK の向こうにあるトイレの水漏れがあったので、修理の人に来てもらった。彼を案内する時、廊下のドアを開けて、二人が入るとただちに後ろ手にドアを閉めることになる。狭い廊下に二人きりで閉じこもり、さらにドアを開けてLDK に入ってもらって、またただちにドアを閉める。「猫がすみ分けてるもので・・」と言い訳するが、自分でも変だ。しかも、サリーは臆病だから、LDK の冷蔵庫の上に隠れていて見えなかった。猫の姿は見えないわけだ。ますます気まずい042.gif

 すべてのドアが閉まっていて、通過するとすぐに閉めるこのシステムを見て、ホラー映画みたいだ、と言われたこともある。

 私たちはこの廊下のことを「sas」と呼んでいる。逃亡防止の安全地帯である。潜水艦や宇宙船で船外から戻ってくる時に内部と分ける中間地帯である。

 先日、このsas のことを日本語で何というのかわからないことに気づいた。

 うちでは全く日常的な言葉なのだが。日常語でも、日本語訳を度忘れするということはあるので、ひょっとして知ってる言葉じゃないかと思って考えてみたが、やはり分らない。
 ついに辞書を引いた。仏和を引くのは翻訳している時以外ではめずらしい。

 すると、「sas 」は、「運河の閘室(こうしつ)」とあった。知らなかったよ。
 しかも字面もなじみがないし、聞き覚えもない。猫のせいで毎日のように普通に使ってる言葉が、こんなにレアな日本語とはね。
 食べ物や動物、植物の名では、フランスにあっても日本にないとか、名と本体が一致しなくて日仏語の対応が分らない、ということはよくあるのだが、こういうなじみのある一般語ではめったにない。それとも日本語では、何とかルームってもっとなじみの英語を使っているんだろうか。と思って今ネットの仏英辞書でしらべたら、

 sas とは、
 1.airlock;
 2.(on canal) lock;
 3.(in bank) security double door system.

 とあった。

 そうか、うちのはこの「セキュリティ・ダブル・ドア・システム」だなあ。
 長いよ。
 sasって短い。ほんとに日常的な言葉だ。何度も繰り返すことを 「Ressasser」と言って、クロスワードパズルにもよく出てくる言葉なんだけど。

 うちの廊下のドア、「あ、これ、猫のためのsasなんですよ」と笑って言えばなんとかなるが、「あ、これ、猫のためのセキュリティ・ダブル・ドア・システムで・・・」って言うと驚かれるだろう。かといって、「閘室(こうしつ)でして・・・」なんていって通じる人なんているのか・・・

 言語の対応って、ほんとに不思議なゾーンだなあ。
[PR]
by mariastella | 2009-11-25 08:45 | フランス語

洗礼、砂漠、その他

 知人の話では、ベルギーでは続けて7番目に生まれた男の子の洗礼に国王が代父となり、続けて7番目にうまれた女の子には女王が代母になるそうだ。7番目まで続く男子や女子は珍しいので、少ないそうだが、実際にいるとのこと。
 ベルギーでは国王夫妻は必ずカトリックだ。先代のボードワン国王は、1990年中絶容認の法律を通さざるを得ない時に一時的に廃位したくらいだ。でも、同性の7人の子持ちの親がカトリックでなかったり洗礼を望んでいない場合はどうなるのかなあ。
 フランスでは、大統領が男女に関わらず12番目の子供の代父になる。
ただしフランスはライシテの国だから、カトリックの洗礼とは限らないのだろう。洗礼による代父代母の設定は孤児率の多い時代の互助保険みたいなものだった。フランス革命の時に共和国洗礼というのを市庁舎でできるようにして、代父代母制度も温存していて、今もあるはずだから、12番目の子は「共和国洗礼」が前提なのかなあ。もしカトリックの親がカトリックの洗礼で大統領に代父を頼んだらどうなるのだろう。代父母のどちらかがカトリックならばもう一人はカトリックでなくてもいいことになっているから。小説では知っているが、実際のケースは聞いたことがない。
 
 砂漠の神秘家としてシャルル・ド・フーコーは超有名なのだが、大きな声では言えないが、私はこの人の聖性の裏には、ヨーロッパ人にたまに見られる異常なまでの「砂漠好み」が関係していると感じていた。
 今でも、ニューエイジ風スピリチュアル・グループが主催する砂漠での瞑想ツアーみたいなのが盛んだが、私はサヴァイヴァル系が苦手なので敬遠している。 砂漠は大海にも似ていて、魅せられると共に、警戒心の方が勝つ。最近、そのシャルル・ド・フーコーと、アラビアのロレンスを並べた評伝 『L'Aventure du désert 』(Christine Jordis 、 Gallimard ) が出て、なるほどと思った。聖人対冒険家なのだが、二人ともその「過剰さ」が共通している。ロレンスがマゾヒストだったということも何となく納得した。ヨーロッパ人の孤独な砂漠のロマンチシズムにはどこか倒錯の香りがすると思っていたからだ。
 シャルル・ド・フーコーをテーマにした歴史小説 『Les amants du silence 』(Alain Durel、 Ed. L'Oeuvre )の方は、彼が従妹への恋を契機に砂漠と神に向ったとある。
 シャルル・ド・フーコーとその従妹とアラビアのロレンス。三人並べると聖なる殉教者が人間くさく見えてきて、その信仰が何かでびっしりと満たされているのが予感されるようだ。
 
[PR]
by mariastella | 2009-11-16 00:56 | 宗教

Le Cantique de Jean Racine de Gabriel Fauré

 スーパーに行ったら今週末からクリスマス仕様になっていた。

 何だかあわただしい。ものがあふれているのを見ると気分が悪くなる。

 12月には13日と18日にクリスマスコンサートを企画しているので、自分も弾いて生徒たちにもクリスマス曲を弾かせているのでますます落ち着かない。
 でも今日は、フランス語のクリスマス・コーラスで一番好きな フォーレのLe Cantique de Jean Racine を合わせたので楽しかった。これを作曲した時のフォーレは19歳だったというが、いかにもシンプルな若々しさがあるんではないだろうか。

 http://www.youtube.com/watch?v=-OFOOjxmC-s

[PR]
by mariastella | 2009-11-14 07:44 | 音楽

Ludibrionisme(ソリプシストKのための覚書9)

 サイトの掲示板でKの 「Je suis LUDENS absolu」という文が引かれていたので少し。

 Ludibrionisme は、K のソリプシスムのシステムにおいては重要なものの一つである。
 
 私には何となくシュールリアリズム系のイメージがあったのだが、K にとってはこの世の不条理からの逃走、絶望のねじ伏せの香りがする。

 K の中ではいろいろなISMが循環していて階層化しにくい。

 私がK の文の難解さの前で尻込みする理由の一つは、頭の隅にエリカのフランス語能力への不信感が拭いきれていないからだと思う。今日ついにそのことを遠まわしにエリカに言ったら、K の原文の方が難解で、エリカの翻訳のおかげで理解できたことがたくさんあるとチェコ人から感謝されているのだと言われた。

 11月にはチェコに行き、パトチカの国際学会の報告書をチェックして英仏語とチェコ語の翻訳語の検討をするのだそうだ。メール文書を送ってもらえないのかと聞いたら、メールではチェコ語のアクセントがとんだりスペースがあいたりとても細かいチェックができないそうだ。

 パトチカでさえ、翻訳は、伝言ゲームみたいに大変なことになって内容が変わっているケースもあるそうだ。
 例えば、彼にとっては重要な1936年に書いた論文は、カナダに移住した英語使いのチェコ人が、フランス語に逐語訳して、それをもとにベルギー人がリライトしたものだそうだ。たとえば、現象学にはよくあるKinesthésie(この言葉は、バロック音楽奏法でも使われる。バロックバレーでも重要な身体運動意識概念だ)という言葉を知らなかった訳者が、わざわざ「これはSinesthésie (共感覚)のことでしょう」とパトチカに言って変えてしまったというのだ。パトチカは絶望のあまり「ああ、それはいいですね」とか言って礼を言ったらしい。パリで学んだパトチカはフランス語が分るのでそのフランス語訳のひどさにがっかりした。
 そのひどいフランス語訳を読んで引用したイタリア人学者が、学会発表のためそれを学生に英語に訳させて、報告書ではその英語からまたチェコ語に戻されたので、最初のものとは似ても似つかない代物になっていた。ひどい話だ、
 
 昔、ノストラダムスの『予言書』の訳が、世界の終わりだとか歴史上の事件を予言していると類の話がはやったが、あの時も、日本の訳は英語からの重訳がほとんどで、もともと分りにくい詩がなおさら変な風になっていたのを思い出す。たとえば、原文のフランス語で動詞の原型がぽつんと置かれているのを、英語でも対応する動詞になっているのだが、英語では原型と現在形が同じであれば、日本語ではそれがちゃんと活用しているように訳されていたりした。ある意味で分りやすくなっているが恣意的だ。

 言語の壁はやはり大問題だ。私は個人的には、思想の核というのは非言語領域にストックできるような気がするのだけど、それを元の言語と違う言語で取り出すときには、逆の操作をした時にまた元に戻るかどうかというのは確かに微妙だし。

 エリカが pdf で送ってくれたテキストの分は、例えば Ludibrionisme で検索すると当該箇所が次々出てくるからこれはありがたい。もう少しじっくり読む時間が取れればいいのだけれど万聖節の休みはトリオの録音にかかりきりだったし・・・ そのうちもう少しまとまったことを書きたいが今はメモだけ。
[PR]
by mariastella | 2009-11-10 09:25 | 哲学

V・Iはユダヤ人?

 『ダウンタウン・シスター』の後半には、

 「ガブリエラがユダヤ人だということでジャイアック夫婦から受けた昔の侮辱の数々がよみがえってきた」という文章がある。それに続いて、

 「よくも自分たちをクリスチャンだなんていえたものね。あなたなんかより、うちの母の方が千倍もクリスチャンにふさわしかったわ」

 というヴィクの言葉がある。彼女のアイデンティティ意識はどうだったんだろう。

 母方の祖母がユダヤ人の学者の家庭の出身で「一族はユダヤとの混血だった」というからには、例の、「ユダヤ人とは母親がユダヤ人であること」という「公式」にあてはまると自分を多少はユダヤ人と見なしていたのか?

 しかし母のガブリエラは、カトリック右派である大叔母に引き取られて、「ふしだら」ということで追い出されたくらいだから、叔母のところでは教会に通っていたはずだ。だからこそ罪悪感も一生引きずっていたのだから。
 しかしジャイアック夫婦がガブリエラをユダヤ人と侮辱していたのは、単に差別や憎悪の現われなのか、娘のヴィクの洗礼を「省略」したための言いがかりなのか、ガブリエラが私はユダヤの混血ですから、とでも言ったのか? ヴィク派サウス・シカゴのカトリック系の白人地区で生まれ東欧系カトリック小教区で周りが熱心に教会に通うような環境で育った。母の「秘密」を知らず、アーティスト風のリベラルさと女性の自立を教えてくれた母に感謝し、自分がいわば無党派でただ社会の差別と不正に戦いを挑む人間であることに埃を持っている。だから、別に自分はユダヤ人とかは思っていないだろうし、「うちの母の方が千倍もクリスチャンにふさわしかったわ」という言葉は、周りのクリスチャンの偽善は弾劾しても、キリスト教的慈悲の価値観は刷り込まれていたのだろう。

 ヴィクとロティの関係がもっと出てくる作品を読まないと分からないなあ。
 ウォーショースキー・シリーズは日本でもとても人気でファンクラブがあるくらいだから、こういうこともくわしく調べてる人もいるのかもしれない。アメリカ人には、別に気にならないのだろうか。

 ちなみに私の周りにもユダヤ系フランス人がたくさんいるが、母親がユダヤ人だからとユダヤ意識のある人もいるし、カトリック(洗礼は受けているが別に教会に通わない)と結婚して普通に子供も洗礼だけ受けさせている女性もいれば、カトリックのイタリア系女性と結婚したユダヤ人男性が、息子たちにしっかり割礼を受けさせて、離婚した後で、母親が慌ててカトリックの洗礼を受けさせてという例もあるし、「公式」なんてあまりない。
 ヨーロッパではもう二千年近く混血が進んでいるし、少なくとも日本人の目から見たら、誰がユダヤ人なのか全然分らないことも多い。アメリカのような棲み分けもないし。

 サラ・パレツキーの世界に興味ない人にはどうでもいいことだろうが、一応メモ。

 
[PR]
by mariastella | 2009-11-09 20:18 | 雑感

V・I はなぜ洗礼を受けていないのか

 前回の、V・I が、クリスチャンではなかったことについて

 http://spinou.exblog.jp/12753225/

 もう少事情を知りたくて、つい『ダウンタウン・シスター』を読んでしまった。

 いろんなことが分った。シカゴのカトリックといえば、何となく、イタリア系、ポーランド系、アイルランド系、を想像していたが、ボヘミア系もしっかりコミュニティを形成しているみたいだ。そして、ポーランド系とは東欧つながりでまあ、連帯感がある。そういえば、ハンガリー・レストランというのも出てくるから、カトリック系東欧がしっかり存在感があったのだろう。

 市会議員の大物にアート・ジャーシャック、その秘書はメアシック、未婚で妊娠してボヘミア地区から逃げてきたのがルイーザ・ジャイアック、みんなしっかり、ボヘミア系の名だ。未成年で妊娠したルイーズは、聖ウェンツェルの修道女の施設に入れられようとした。聖ウェンツェルは10世紀のボヘミア大公でボヘミアの守護聖人聖ヴァーツラフのことだから、分りやすい。聖ウェンツェル系のカトリックがモラルの番人だったわけだ。
 ウェンツェルに行くのを拒否して家を出たルイーザが流れてきたのがポーランド地区。一応東欧系カトリック地区だ。そこで彼女を受け入れたのガ、V・I の母、ガブリエラだった。

 V・Iは、ジャイアックの実家に行って、「イタリア女の娘」とか「混血のあばずれ」とか罵倒される。ここで、ポーランド人であるヴィクの父がイタリア人と結婚しただけで、イタリア女とか、混血とかいう偏見をもたれていたことが分る。アイルランド人なら、アッパークラスで、聖パトリック祭がシカゴで一番盛大なくらいだから事情は違ったろうが、イタリア系は東欧系カトリックから見ると決して有利な立場ではなかったことが想像できる。

 ガブリエラは、「聖ウェンツェルから来た正義のご婦人たちが」ルイーザのうちの周りを練り歩くと、怒り狂って出てきて彼女らを追い払った。そのガブリエラは自分の隣人たちからは、非常識な女として批判されていた。特に娘であるヴィクの「洗礼を省略した」ことや聖ウェンツェルのシスターたちのクラスにやることを拒否したことである。つまり公教要理のクラスにやらなかったことだろう。ポーランドでは子供が7、8歳になった時の初聖体の儀式がとても華やかなイヴェントである。ヴィクはそれをしなかったらしい。

 それもこれも、多分、ガブリエラが、叔母の夫と不倫の関係にあったこととの罪悪感と、それに関して叔母に責められ続けてきたことへの反撥との両方があって、教会や宗教に関する忌避反応ができていたからなんだろう。ヴィクはその事情を知らなかったわけだが、東欧系地区で「母がイタリア人」という特殊な環境にあることと、母が音楽家=アーチストであるという意識からリベラルなのだろうと漠然と思っていたのかもしれない。
 
 ここではその他にメソジスト系の同窓生とか、ドイツ系の大金持ちとかが出てくる。
 ヴィク自身も母校に行って、時代の差を感じたようだが、1952年あたりの生まれだと思われるヴィクの育った頃のシカゴでは人種や性別や宗教の差が、大きな意味を持っていただろうし、それは今でも影で尾をひいて暗黙の了解がいろいろあるのだろうな。 日本やフランスのような国に住んでいるとなかなかぴんと来ない。

 全く関係ないが、この小説の中で、縛られて毛布にくるまれ沼地に投げ込まれて死にかけたヴィクを愛犬のペピーが、沼の腐臭に関わらず、見つけ出し、救い出す。その後もずっとヴィクを守ろうとする。

 そのシーンを読んでると、猫たちと暮らしてる自分がちょっとあわれだ。こいつらは、私が行方不明になっても、ぜーんぜん知らん顔であろうことは目に見えている002.gif
 やっぱ、信頼できるのは犬だなあ。でも頼りになりそうな大型犬は寿命が10年くらいだから、今から飼い始めても、私が老犬介護をするはめになるかもしれない。
 
[PR]
by mariastella | 2009-11-09 06:15 | 雑感

キリスト教の話

 キリスト教関係の本を三冊買った。

 Didier Decoin の "Dictionnaire amoureux de la Bible"
 
 これは、お約束の作家の楽しい本。飽きない。

 Dietrich Bonhoeffer "Resistance et soumission"

 これはナチスの収容所で殺されたルター派の牧師で神学者の手紙。

Patrick Kéchichian "petit éloge du catholicisme"

 この人はル・モンド紙で長く文芸評論を担当していた。小さく単純だが個性的な本だ。

 BD(フランスのコミック本)も1冊。

 Marc-Antoine Mathieu "DIEU en personne"

 これ、なかなかおもしろい。SF の一種で、近未来のフランスに突如受肉して現れた「神」をめぐる話。
 現代に神が現れるという話では、たいてい、貧乏したり無視されたり精神病者あつかいされるのだが、ここでは彼は「神」と認められて、神の業に不服な人間たちから莫大な損害賠償の訴訟を起こされる。神が肉体として存在するなら責任も生じるというわけだ。

 最初の8ページがここで見られる。

 http://www.bdgest.com/preview-572-BD-dieu-en-personne-recit-complet.html.

 その神が消えた後の回想ドキュメンタリーの撮影シーンだ。

 かなりの不条理ストーリーなんだが、この手の話は、キリスト教の文化と無神論文化(そう、無神論は文化である)との、両者の教養の拮抗具合がちょうどいいバランスにあるフランスだから生まれるユニークなものだと思う。

 訴訟では、弁護団は、神の責任を軽減するために神の重要性を軽減しなければならないというジレンマがある。当然、被告である神の同定、あるいは、神の存在証明が問題とされる。
 「存在が証明され得るような神は存在しない神、または偽の神、偶像である。私を証明してみたまえ、私は存在しなくなるだろう」(パスカル)とか「神とは人間たちの孤独である」(サルトル)とか、「よくできたメディアのキャンペーンがあれば2ヵ月後には、誰でも神の存在を信じるだろう」(Maurice Donnay)、アインシュタインやルナールやユングの言葉もちりばめられている。ハイパーコンピューターがこれまでの人間と神の関係を全部インプットして総合した究極の質問が、被告への「神さま、あなたって誰なの?」という子供のような問いだったりもする。
 神をめぐる肖像権とかロゴとかコーチングとか、商魂のエピソードもおもしろい。

 まあ、神とはふるさとみたいに、「遠くにありて思うもの」であって、触れられるところに「降りてこられる」といろいろ不都合が生じてくるということらしい。
 よくできた話がすべてそうであるように、この話は決して神の話ではなくて人間の話であり、同時に、自己を無限に肥大化、神化させていく人間よりは、神の方がずっと「人間的」だったりする。
 
 笑え、考えさせられ、「真実」が説明され、それでいてオチは、なかなか怖い。このテーマを扱って、読むに耐えるということは、それだけですごいことだ。

 もう一つ、最近話題になったアングリカンの話を少しだけ。
 
 イギリスの国教会というのは日本でも有名な話だけれど、もともと、ローマ・カトリックの堕落を批判して分れたわけでなく、ヘンリー八世が離婚を認めてもらえないという個人的な理由でローマから離れて教会をいわば私物化したことに端を発する。

これが1534年、次に1547年にエドワード6世がカルヴィニズムを採用。これはカトリックをまともに批判した由緒ある(?)プロテスタンティズムである。
しかし彼の死後、メアリがバリバリのカトリシズムに復帰。
1558年から1603年、エリザベス1世が、プロテスタントとカトリックの統合というかハイブリッドなものを決めて設定した。政治的公正、という感じである。

 1833年に、アングカニリズムをもう一度カトリック化しようというオックスフォード運動が起こり、1930年代を頂点にかなりの成功を博した。イギリスの親カトと親プロテスタントの二極化の歴史はけっこう古いわけである。カト派の論客 John Henry Newman(1801-1890)は、しかし、結局、カトリックに改宗してしまい、あまつさえ、2010年にはカトリックの福者として列福が決まっている。

 アングリカンのカトリック流れがはじまったのは1971年の香港、1975年アメリカの女性司祭任命で、これを不服とする司祭や信者がローマに鞍替えした。8千万人のアングリカンには、38の自治管区があって、現在そのうち28が女性司祭を認めている。認めていないのは、中央アフリカ、エルサレムと中東、メラネシア、ビルマ、ナイジェリア、パプア・ニューギニア、タンザニア、東南アジアの8つで、南アメリカの一部とコンゴでは女性助祭のみが存在する。
1988年にはアメリカでついに最初の女性司教が誕生した。
しかし、本家のイギリスで最初の女性司祭が生まれたのは1994年だ。この時、95年から97年にかけて、アングリカンの約450人の司祭がカトリックに合流した。この時、ローマは、すぐに司祭職継承を認めたわけでなく、一定期間、一般信者と同じ身分に据え置かれた。しかし、その後、司祭職に叙階され直して、妻帯司祭も250人ほどいるが、もともと、教義的にも典礼的にも限りなくローマ・カトリック寄りの長い伝統を持つ人たちなので、10数年後の今も何の問題もない。

今回問題になったのは、10月20日にヴァチカンが、アングリカンの司祭が次には一般信者となる期間を経ずに、そのままカトリックの司祭として認められる(司教になるには独身誓願をしなければならないなどいくつかの条件がつくが)という発表をしたからで、これで千人以上の司祭がローマに合流すると言われている。

 これは、2003年にアメリカで、同性愛者のジーン・ロビンソンが司教に叙階されたのをきっかけに、保守的福音派アングリカンとアングロ・カトリックが共に、リベラル派から深刻に分裂し始めたことが背景にある。この人は、ゲイのカップルとして同棲していたので、単に性的傾向が同性愛というわけではなかったのだ。
 アングリカンは何とか教会を統一しようとして、2008年にLambeth会議を開いたが、福音派の270人の司教(リベラル派は670人)はこれをボイコット、ついに教会の中の教会として、事実上分離してしまった。

 このために、アングロ・カトリックはますますマイノリティとして孤立してしまったわけで、そこにヴァチカンが、ではどうぞ、と今回手を差し伸べたわけである。(正確には、2009年2月に、Geoffrey Kirkなどが、ウィーンの枢機卿Christoph Schönborn を訊ねて「カトリックの司教から独立したままでカトリックに全面的に受け入れられたい」希望を述べ、それが9ヵ月後に受け入れられたという)

これらの司祭たちは、移動する従軍司祭と同じで地理的な司教区には属さない。つまり、今いる場所のカトリック司教に従属する必要がなくて、アングロ・カトリックとしての別の司教に属することになるのである。神学生も同様の扱いで、事実上全く変わりなくそのままカトリック・ファミリーに入るわけだ。
しかしヴァチカンはこの決定をたった2週間前にしかカンタベリー司教に通知しなかった。

リベラル派の前カンタベリー大司教George Carey などは激怒して、これでは、40年にわたるエキュメニズムの努力が無に帰する、と言っている。現大司教のRowan Williamsは、前から予定していた11月21日のヴァチカン訪問でどういう風に語るかはまだ分らない。

 私はこの話であらためて、uniatisme とoecumétisme  の違いを認識した。

 カトリック教会は、東方正教会系に関しては、オリエントの典礼を残したままでカトリック・ファミリーに合流できるようにというuniatisme 方式を採用してきた。今回のアングリカンの合流は、1833年以来続いているアングリカン内部のカトリック化(違いは独身制がないことくらいだ)の結末ということでニュアンスが違う。教皇B16 は最近も、第二ヴァチカン公会議を認めずに分裂したカトリック内保守派の受け入れで物議をかもしたのだが、何事につけ、意見の一致を待っていては本来のキリスト教的連帯とかコミュニオンというものはできない、という気持ちは分るので気の毒でもある。

みながばらばらに、自己責任で自由に競合または共存すればいいという今時の傾向の中で、「人類は皆兄弟」、式の普遍理念を死守するのは、容易なことではない。まあ、宗教者ならこそ、がんばってほしいと思うのだけど。
[PR]
by mariastella | 2009-11-09 03:16 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧