L'art de croire             竹下節子ブログ

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ハートブレーカーL'Arnacoeur (パスカル・ショメイユ)

Pascal ChaumeilのL'Arnacoeur というロマンティック・コメディを観た。
先週のコメディがいまいちだったから。

 Romain Duris, Vanessa Paradis, Julie Ferrier, François Damiens

という配役が、ハリウッドのロマンティック・コメディには絶対あり得ないようなタイプなので、親近感がある。

なんで近頃フレンチ・コメディを見たいかというと、目的は、言葉のニュアンスが隅々まで分かる状況で笑いたい、というのに尽きる。時事ネタとかでも笑えるのはあるが、棘があると後をひくし、いろいろ考えたくない。これが日本にいる時ならまよわず寄席に行っているケースだ。

そういう目的なら、この映画は先週の家族モノより笑えた。カップルを別れさせるためのプロ・チームの話で、アシスタントは主人公の姉さん夫婦という設定で、この二人が常軌を逸しているのに妙にあたたかくてほっとさせられる。

このチームは、愛し合っているカップルは壊さない、カップルを壊しても心は壊さない、という原則だったのが、金に困り、難しいケースに手を出して、自分の心が壊れてしまう。

日本で、やはり金をもらってカップルをつぶすという別れさせ屋みたいな商売の人がいるというノンフィクションの記事を読んだことがあるが、それは、要するに、誘惑する、浮気させる、という方法だった。

この映画のチームは、相手の情報を調べつくして、ハイテクやエキストラも駆使した大がかりなもので、誘惑したりもしない。カップルをなしているもののすでに懐疑にとらわれている人を、カップルから解放するひと押しをするとか、ほんとうに求めているものが何なのかを気づかせると言った、なかなか高度な(?)話なのだ。

モナコ周辺が舞台で、同じ場所が舞台の他のコメディの記憶もかぶり、なかなか楽しい。アメリカ映画にありがちな直線的な盛り上げという分かりやすい迎合がない分、疲れなくて済む。一応メモ。
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by mariastella | 2010-03-21 20:32 | 映画

Pièce montée

 先日観た『シャッター・アイランド』があまりにも期待はずれだったんで、全然違うタイプのフレンチ・コメディで気分を変えてみようと思ってDenys Granier-deferreの『Pièce montée』を観た。

 Julie Gayet, Charlotte de Turckheim, Clémence Poesy, Jérémie Renier, Jean-Pierre Marielle, Danielle Darrieux, Christophe Alévêque, Léa Drucker, Julie Depardieu, Hélène Fillières などのうまい俳優がたくさんそろっているので、見ている間は飽きない。群像処理もまあうまい。 

 半世紀も離れていた恋人同士が孫娘の結婚式で司祭と祖母という立場で再開するという話は、すごくステレオタイプなのに、年老いた元恋人同士のくさいセリフをここまで感動的に見せるのは、芸の力なのだなあ、と、ダニエル・ダリューが単にある世代のマドンナを超えて名女優なのだと感心した。

 花婿役のJérémie Renierは、ダルデンヌ兄弟の『L’Enfant』で赤ん坊を売ったりする若い父親役が印象的だったベルギーの男優で、これも、うまいと思った。

 ジュリー・ドゥパルデューとエレーヌ・フィリエールの最後のダンスシーンは、こちらのゲイ雑誌『テチュ』に、このシーンを観るだけでもこの映画に行く価値あり、と書かれていたが、あまり私の琴線に触れなかった。ジュリー・ドゥパルデューがあまりにもエキセントリックで女っぽいからかも。

 この種の女性二人のダンスのからみシーンではやはり、もう古いがベルトリッチの『暗殺の森』のステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダの伝説的シーンとつい比べてしまう。
 レズのカップルは私の周りに何組かいるが、両方ともがアンドロギュノスっぽくて、いわば「宝塚の男役」が二人いるようなカップルが一番好みだ。
 「宝塚の男役」二人が女装しているみたい、というのはもっといいなあ。ドミニク・サンダたちってそんな雰囲気だった。

 ダニエル・ダリュー演じる祖母が、結婚した孫娘に、「時々姿を消しなさい、そうしていつも求められるようにするのよ」とアドヴァイスするのも面白かった。彼女は何しろ50年も恋人の手の届かないところにいたことで、ずっと過去の恋人から想われ続けていたと後で分かるので、なかなか説得力がある。

 全体としてヘテロセクシズムと偽善とを揶揄しているのがテーマでもあるのだが、とてもフランス的だ。
 結婚とか結婚式とか子育てとかいうシーンになると、フランスと日本はかなり意識の差が出てくると思う。フランスではブルジョワ階級の偽善者ぶりも半端でないが、その暴き方も伝統的に筋金入りだ。

 聖アガタ教会のアガタ像がショッキングで隠してしまう母親、式を手伝う子供のミスで聖別するための無酵母パンが全部床に落ちたこと、とか、おもしろいディティールもあった。ま、テレビ画面でも楽しめるタイプの映画なので、わざわざ出かけるほどのことはなかったかも。

 
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by mariastella | 2010-03-15 00:52 | 映画

宗教と民主主義

 宗教に合議制というのは必要だが、民主主義、特に多数決というのは合わないんじゃないだろうか。

 インドの南に、日本の資金援助によってダライラマが再建した名刹ガンデン僧院がある。2008年の3月、そこを二つに区切る壁ができた。壁には窓も扉もない。

 私は、ダライラマに請われてそこの僧院長を6年勤めたことがある高僧と関係が深い。壁の両側に彼の弟子がいて、互いに憎みあっている。今年84歳になる彼の悲しみが大きいのを見ていると、心が痛むし、危険も感じる。

 ことの解説はこんな記事こんな記事が参考になると思う。

 
 簡単に言うと、、チベット仏教内部のあるシンボル(ドルジェ・シャグデン)の崇敬をめぐって、ダライラマがそれを禁止し、それを捨てない僧は各僧院から追放するという決定を下したことである。

 ダライラマは、宗教間の対話の立役者だし、イスラム教やキリスト教も尊重し、評価もするし、チベットの古宗教であるボン教にすら寛容だ。その彼が、なぜ、内部の分派争いで不寛容になるのかと攻撃されているわけだが、彼の発言から推察すると、内部争いがある場合、たとえば70%が賛成すればそっちを選択する、というような原則に従うという方針のためらしい。

 ダライラマは、もし、ある日、チベットに戻ることがあっても自分は一人の僧として戻りたいというような趣旨のことを言っている。チベット亡命政府にも「民主主義」体制を敷いている。

 彼は、中国共産党からさんざん「封建主義」の独裁シンボルとして非難されてきた。実際は、ごく若くして、政治的な動乱の渦中に入り、責任感の重圧の中で、生き延びて、チベット文化や仏教の平和主義を世界に知らしめることができたのだから、その功績は大きい。

 苦難の中で、仏教の基本を守ることと共に、他宗教や他文化との連帯も目指して、リベラルになり、非常に近代的な世界観も体現しているように思われる。その中で、過去のチベットの単一宗教による社会の支配の体制を見直し、「民主主義」に行き着いたのかもしれない。

 で、たどりついたのが、対外的には尊重と寛容、内部的には民主主義(=多数決)だったとしたら、それが今回の混乱を招いているのではないだろうか。民主主義の理念にはマイノリティの尊重もあるはずだし、宗教のことでは、たとえ、99%が賛成しても、それが自分の掲げる大義に反しているなら採択しない、という判断もあるはずである。
 
 今回のことで「迫害」されている側は、彼のことを偽善者だと非難もするが、私はそう思わない。むしろ彼は自分に課した「民主的原則」の犠牲者かもしれない。確実にいえるのは、今二分された壁の両側では、互いへの憎悪が高まっていて、それは、チベット人たちにも彼らの宗教にとってもマイナスだということだろう。

 「ダライラマが宗教の自由を認めない」と言って、中国政府に訴えるチベット僧すらいて、あの共産党政府が、「宗教の自由」の側に与する戦略をとって介入するなど、何だか、とんでもない状況になっている。

 宗教共同体が半世紀以上も亡命や離散を余儀なくされていると、当然いろいろな部分で緊張、齟齬、誤解、劣化、破綻も起きるだろう。これは、とても人間的な危機なのだ。

 神託によって導かれて子供の時に認定されて選ばれるダライラマが、多数決路線を採用して批判されたり、多数決で「民主的」に選ばれるローマ法王が、自分の信念を曲げないことで批判されたり、皮肉なものでもある。
 ただし、今のチベットのように非常に政治的な局面では、パンチェンラマの問題でも明らかなように、今のダライラマが亡き後に、次のダライラマが誰にどのように選ばれて利用されるかどうか、混乱は目に見えている。そして、そのシステムを続ける限り、必ず一人の「子供」が政治と権力と宗教の道具にされるわけで、それを考えると、民主主義への移行というダライラマの気持ちは分る。一人の子供の「人権」を考える時、自らも幼くして選択の余地なく今の地位に着かされたダライラマの決意には、やはり、重いものがある。
 
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by mariastella | 2010-03-12 21:07 | 宗教

眠れる森の美女

 春の学期が始まった。

 月曜はバロック・バレーと室内楽。

 バロック・バレーはリュリーのAlcideのメニュエット。室内楽はグノーの弦楽四重奏の最終楽章。
 火曜はトリオの練習と、バロック・ダンサーとの資料づくり。

 私たちは今、私のバレー仲間のエマニュエルといっしょに、『眠れる森の美女』のミュージカルを用意している。語りと音楽と踊り。音楽は私たちのミオンが中心。オーロラ姫の両親の世代の舞踏会の時はルネサンス曲を使う予定。私たちは16年前にミオンを発掘、編曲し始めるまではけっこうルネサンス曲も弾いていたのでストックがある。

 エマニュエルが国立音楽院でやったデモンストレーションをはりつけておこう。


http://www.youtube.com/watch?v=L2e2Nwkx4eI


 ここで使っているのはリュリーの曲だ。エマニュエルと踊っているのはカロリーヌで、彼女には、2007年に私たちのトリオと踊ってもらった。『王は踊る』(これにエマニュエルが出ていた。)を観てバロックに憧れてコンテンポラリーからバロックに来た時のカロリーヌは当時七区のコンセルヴァトワールでセシリアの上級クラスにいた私を「先輩」と意識していたのでおかしかった。コンテンポラリーから来たダンサーってどことなくアスリートの感じがする。筋肉の付き方とか。

 これから私たちと組むのはエマニュエルと、もう一人別のダンサーで、彼女はクリスティーヌのクラスでバロックを始めたもとクラシックダンサー。大柄で迫力がある。

 このプログラムは、子供たちにも楽しんでもらうようにできている。ヴェルサイユから映像資料を出すように言われているので昨日それを用意したのだ。ヴェルサイユで演るならリュリーを少し入れた方がいいかも。ただし、使いたいリュリーの曲は、五声部なので、私は中声部を二声同時に弾かなくてはならない。純粋にテクニック的には結構準備が必要だ。
 来年のモンサンミシェルのフェスティバルでも可能性がありそうで、家族連れの観客と接するのはなんだか楽しい。

 私たちは2003年に日本で公演した時、『聖家族の家』という養護施設で演奏した。私たちを歓迎してくれるために女の子数人が日本舞踊を披露してくれた。完成度が高くて、かわいくて、涙が出た。
 私たちを紹介した先生は、「ギターと言ってもいつも僕が弾いてるようなやつじゃないんだよ、宮廷で王様のために弾いていたものだから静かに傾聴するように」と子供たち(3歳から18歳)に注意していたが、私は前夜必死に考えたシナリオをもとに、効果音を入れた話を用意していた。それはもちろん日本語だから、しかるべき所でしかるべき音を出してもらえるように、養護施設に向かう車の中で、フランス人の仲間たちに説明した。しかも始まりは、自動演奏人形を模したスケッチで、三人で一台の楽器を弾く構成になっていた。子供たちは笑ってくれた。

 その自動人形スケッチは、1995年にエール・フランスが阪神大震災の被災児童をパリに招待した時にインタコンチネンタルホテルでいろいろボランティアが集まってコンサートをした時に考えたものだ。あの時に、無償で、自分たちのレッスンや仕事を休んでまでかけつけてくれたのはトリオの仲間と、古い友人のルイ・ロートレックだった。この時の演奏は録画されて被災地の避難所に配布されたというから、どこかで誰かの目に触れたかもしれない。

 『眠れる森の美女』のプランを練ってると、子供たちの笑い声を思い出す。

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by mariastella | 2010-03-10 19:26 | 踊り

Benoîte Groult

今日は「女性の日」の日だということで、ラジオでブノワト・グルーがしゃべっていた。

 なんて生き生きして説得力があるのだろう。エリザベト・バダンテールに少しつきまとう臭みがまったくない。

 そして、ヒューマニズムとしてのフェミニズムは老いと死の問題に行き着くのだということがよくわかる。フェミニズムを完成させるのは老いと死への洞察なのだ。

 90歳のグル-の写真が下のサイトで見られる。

http://www.leprogres.fr/fr/region/l-ain/bresse-revermont/article/2795243,182/Rencontre-ce-soir-avec-Benoite-Groult-une-femme-d-honneur.html

 すてき。

 でも、バダンテールのかっこよさが、彼女を味方につけることに力を得る人と、ひがみ根性を誘発される人とに二分されがちなのと比べて、グル-のかっこよさが突き抜けているのは、やはり老いの効用なんだろうか。バダンテールが超名士の夫と連れ添い三人の子があり二人の孫がいるというと、スーパーウーマンに見える。フレンチ・フェミニズムの旗手だったボーヴォワールは独身で子供を持たなかったが、バダンテールはその「つっぱり」も乗り越えたように見える。

 しかしグル-が結婚三回、娘三人、孫娘三人、ひ孫娘ふたり、と言うと、なんだか楽しい。
 私はフランスのフリーメイスンの歴史を通してフレンチ・フェミニズムの本を書きたいのだが、それまでグル-に長生きしてもらいたい。

 土曜日に『ルイーズ・ミシェル』(Louise Michel de Solveig Anspach) の映画を見た。Sylvie Testud は今や何を演じても絶好調だ。しかし、この、有名女性アナルシスト、見てるとつらい。

 さて、フレンチ・フェミニズムについては、実は日本との関係が私にはよくわからない。
 フランスでは男は老いても社会的存在だが、女は存在しなくなる、とグル-は言っている。
 日本を見てると、なんだか、リタイアした夫婦とかでは立場が逆転して女性は地域に根を下ろして消費者としても年季が入っているが、組織人間だった男性は肩書を奪われると社会的に存在しにくい、という図式があるようにも思える。

 これは「メチエ」があるかないかの違いかもしれない。

 フランスでのメチエは職業でなく職能であり、たとえばジャーナリストとか哲学者とかいうメチエは、一生ついて回る。日本なら経済学部を出ても新聞社で働けばジャーナリストで、やめればジャーナリストじゃなくなるが、フランスのメチエとはすべて国家資格みたいなものなので、社会的には一生保持できるのだ。

 たとえばTV局で働いていて、リストラがあったとしても、メチエとしての「ジャーナリスト」はかなり保護されている。メチエの元である「同業組合」の力も大きい。同じメディアの会社に同じ職種で入社しても、「ジャーナリスト」であれば、給料も高い。これはフランスが基本的に教育社会主義のような国で、国立大学やグランゼコールの課程で統一されているからでもある。トップ・エリートは「エンジニア」で、「エンジニア」のタイトルを持っていれば、会計監査会社で働こうと銀行で働こうと、特別ルートが待っているし、失業することはまずない。いや、退職してさえ、エリート看板を掲げていられるのだ。「元エンジニア」ではなく「エンジニア」として一生を終える。(日本語や英語のエンジニアとは意味が違う)
 ところが、女性は長い間この「同業組合」から外されていたから、グル-が言うように、「働くのをやめれば存在しなくなる」、という面があるのだろう。いわゆる68年世代からは大きく変わったので、これからは変わるのかもしれないが。

 いろいろあるが、一応、覚書。


 
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by mariastella | 2010-03-08 20:03 | フェミニズム

C'est toujours les autres qui meurent... (Marcel Duchamp)

  冬休みで練習やレッスンがなかったので、久しぶりに美術展などに行った。
 
  アラブ世界研究所のハリリ・コレクション展、ロダン美術館のマチスとロダンの彫刻(特にダンサー像)の比較展、最後にマイヨール美術館で C'est la vie! Vanités --- de pompéi à Damien Hirst という企画展。

 最後のものは完全に私のツボにはまるテーマだ。

 近頃のネオゴシック・ブームというか、若い女の子なんかが髑髏のアクセサリーをつけてるのにはすごく抵抗があった。不健康、不吉、縁起が悪い、というネガティヴ・イメージがある。若い頃はそういうものを偽悪的、挑発的に身につけても、年取ると死の実感やいろいろな記憶が重なって無意識に忌避したくなるのかもしれない。
 実際、アートにおける髑髏のモチーフは、ナチスのホロコースト発見のショック以来、ヨーロッパでは、かなりわだかまりがあったらしい。現実の残酷さの前でのアートの無力感とか、生き残ったすべての者の罪悪感とかがまざっていたようだ。それをねじ伏せて「死」をテーマにするのはピカソのゲルニカのように、かなりの腕力の持ち主の作品か、ユダヤ系アーティストによる告発の意味とか、政治色も免れなかった。
 その髑髏のモチーフが、アーティストの中で親密で深刻になってきたのは1983年の不治の病エイズが同定されて以来だそうだ。アーティストには同性愛者が少なくなく、エイズの犠牲者も多かった。彼らが死の恐怖と共に髑髏をモチーフとしたいろいろな作品が生まれている。その前にも、アンディ・ウォーホールは、死ぬことでスターは、スターになると言っていた。スカルの作品があるし、有名なマリリン・モンローのポートレートも、不吉といえば不吉なベースがある。

 しかし、ゴスロリなんて悪趣味だなあと思うその私は、自分の内部に髑髏を持って生きている。表に出れば「死」の象徴である髑髏は、「生」が中に詰まっていて外を覆っている限り、生の一部なのだ。

 この展示会のタイトルが「セ・ラ・ヴィ(これが人生だ)」というのもまさにそうで、怖いもの見たさで髑髏を眺める人々の目は、それぞれ、あの、髑髏の眼窩の闇におさまっている。
 
 メメント・モーリというのは、中世からルネサンスのお気に入りのテーマで、この展覧会でも、カラヴァジョ(しかしこの聖フランチェスコはあまりにもそこいらのおじさんすぎるなあ)やド・ラ・トゥールを見てると、迫力がある。
 ダミアン・ハーストというのは切断した牛をホルマリン漬けにしたりして「本物の死?」をアートに持ち込んだ人だが、ここでは、ダイヤで作った髑髏と、ハエの死骸で作った髑髏が、両方展示されている。前にTraces du sacré のテーマ展でもハーストの真っ黒なハエを無数に貼り付けた巨大タブローがあって、ムシ嫌いの私には悪夢の世界だった。ダイヤの髑髏(「神への愛のために」)とハエの髑髏(「死の恐怖」)を見ると、ダイヤの方は歯と顎があって笑っているし、ダイヤは富と美と恒久性のシンボルで、ハエの方はまさに死を樹脂で固めた顎なし髑髏で、あるのは暗い眼窩だけ、という感じだ。しかし、どういうわけか、ダイヤのより、ハエの方が、微視的には気味悪いのに、ずっと美しく見える。なぜだろう。

 ここの売店で、カタログといっしょに、Jacques Chessex の 『Le dernier crâne de M.de Sade』を買ってしまった。1814年に死んでシャラントンの墓地に葬られたサドは、1818年に掘り出されて、頭蓋骨がラモン医師の手に渡り、聖遺物のように守られた。そのあたりの話をテーマにした小説だ。面白すぎ。

 ともあれ、こういう展覧会を見てると、「聖なるもの」とアートの関係が無神論からカオスに行くのと似て、両義的であるのがよく分かる。アーティストが時として冒涜的な作品を創るのは、倒錯や侵犯の歓びもあるだろうし、秩序破壊の衝動もあるだろうが、神にとって代わりたい、唯一のクリエーターとして君臨したいという、独我衝動である場合もある。だとしたら、それはキリスト教世界のヴァリエーションだ。人間中心主義の情熱が、神の全知全能を自分に付与することだったりするのと似ている。神という概念がすでに人間の理想を投影したものだったのなら、神を殺してしっかりとフィードバックしたものが無神論や近代だったのかもしれない。
 
 時はすぎる、死ぬことを忘れるな。というメメント・モーリのメッセージは、そのまま、

 fugit hora, memento vivere

 と背中合わせになっている。時は過ぎるから、生きることを忘れるな、というわけで、carpe diem とも即つながる。この記事のタイトルに載せた「死ぬのはいつも自分以外の人」というマルセル・デュシャンの言葉も、そのままエピクロスみたいなものだ。

 今、書いているのは陰謀論と終末論の仕分け方みたいな本なのだが、私の場合、書き始めるころには、脳内ではすでに仕上がっているので、興味の中心は次に移っている。それは音楽の受容における関係性の問題で、特に、日本でのいわゆる「西洋音楽」に対するアカデミズムの謎を解いて、フランス・バロックが実は「西洋アカデミズム」からの突破口だったことを書きたい。西洋クラシック音楽にまつわる言説は、過去には政治の支配、今は金の支配を担保するための権力構造を持っている。「音楽の無神論」では、「偶像崇拝」がいかに権力的であるかに注目して、フランス・バロックやある種の日本の芸能において創る人、聴く人、演奏する人、踊る人が、クロスオーバーしていたことの意味を考えたい。

 で、そのためのシェーマなのだが、これを、美術作品とその受容、鑑賞と批評の世界に置き換えたら、すごーく分りやすいことがわかった。この「セ・ラ・ヴィ」展のようなケースは非常にすっきり分析できる。
 とにかく「西洋アート」と名のつくものは、絵画にしろ音楽にしろ、クリエーターと作品と批評家と受容者の関係が、創造神であるキリスト教の神とその啓示と仲介者である教会と信者との関係の拮抗とセットになって発展、変容してきた。それを踏まえるといろんなことがクリアーになる。
 絵画は分りやすいので、ほんとはまず絵画論で分析してから音楽論に行くべきだが、音楽のエピステーメーについてはすばらしい論考が周りにたくさんあって刺激的なので一度きっちり書いておきたい。

 このシェーマ、すごく単純なのでここにすぐ書きたいくらいのだが、書いてしまうと後止まらないので、また後日。
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by mariastella | 2010-03-04 21:20 | アート

フランス人の働き方

 先日TVのニュースで、フランス人はアングロサクソンや北ヨーロッパといかに違うかということを解説して、「知ってますか?」という口調で、「アングロサクソン国や北ヨーロッパでは、19時を過ぎても会社に残っているのは、仕事の効率が悪いことの証明なんだよ、ところがわがフランスでは19時過ぎても働いているのは、熱心だという証明(engagement) なんだから・・・」と批判的に言っていたのを聞いた。

 そこには「デキる人間はてきぱきと仕事を終わらせる。デキないやつがぐずぐずしているんだ」というネオリベ的なコストパフォーマンスの考えがもちろん明らかなのだが・・・
 
 30年前は、企業の日本人でフランスに来た人は、フランス人がすごく働くことに驚くことが多かった。

 「いやあ、フランス人はラテン系で働かないのかと思ってたら、上の人はとにかくよく働く」

 というのだ。ナポレオン以来のフランスのエリート養成システムは、いかによく働くための心身能力があるかの選抜なので、それは実際当たっている。エリートはよりたくさん働く義務があるというか、それを期待され、また身についているということだ。それは今も変らない。

 もう一つ最近よく言われる「比較」は、アングロサクソンの企業戦士は、昼もコーラとサンドイッチだけをPCの前で働きながら一人で食べ、フランスでは、昼休みが昔の2時間から1時間が主流になった今でも、基本的には同僚とそろっておしゃべりしながら食事を楽しむ、という違いだ。これはどちらかというと、フランス人がヨーロッパで最も肥満度が少ないことも含めて、バランスよくストレスをためない食べ方をしている、というポジティヴな言われ方をする。どちらかというと自虐が好きなフランス人だが、さすがに、昼間パソコンの前で一人で食べるのが勝ち組で効率的だというほどには、メンタリティは変化していない。
 食事を楽しむのは、エリートも単純労働者も同じである。アンリ4世の時代から「美食」がトップダウンで政策になった国ならではの根強いこだわりだ。

 日本はどうなんだろう。つきあい残業というのはよくきくし、自分の仕事をもう終わらせていても、周囲が残業していると定時に帰りにくいというのは日本的にはすごく分る。
 食事はどうだろう。女子社員が連れ立っておしゃれなランチというのはイメージがわくが、エリートビジネスマンは、ビジネスランチ以外に同僚と楽しく食事するのが普通だという感じはしない。
 
 日本では儒教の影響で、上の階級はむしろ質素な食事を心がけ、食文化というのは、芝居小屋や遊郭などの「悪場所」で洗練された歴史もあるから、「楽しいランチ」は「女子供」のものというのが残ってるかもしれない。

 アングロサクソンと比べた時、日本とフランスは似てるなあと思うことがよくあるのだが、もし日本の企業人が、昼はアングロサクソンのように慌しく食べて夕方はフランス人のように自主残業するのだとしたら、かなり気の毒だ。

 サラリーマンの鬱病や自殺が増加しているんだから、この問題はきっちりと考える必要がある。
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by mariastella | 2010-03-01 20:23 | フランス

お知らせ

 1997年から使っていたメール・アドレスが、当時は有力サーヴァーだったのが、ネット世界の拡張によってあちこちに合併吸収されていくうちに、スパムの設定が進化したらしく、特に日本仕様のPCとの日本語の通信がランダム(私にとっては)にはじかれるようになりました。
 昨年くらいからそういうことは時々あり、私は読んでいるのに返事が全く届いていないことやその逆もありましたが、今年からひどくなりました。自分で自分の別のアドレスに送信しても届きません。しかも届いてないことが分らないのです。
 日本からでも、特に、アルファベットを使って外国と通信をすることが多い人とはつながっていることもあるのですが。

 そんなわけで、『知の教科書 キリスト教』(講談社)や『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)に載せてある私のアドレスは原則としてもう使わないで下さい。

 たいていの通信相手には個人的に連絡しました。それでも、文字化けして読めないという方もいます。
 サイトの中の著作紹介の読者の感想というところにあるメールアドレスはまだ有効です。今は私が直接見ているので、Gメールアドレスを知りたい方はそちらに連絡してください。初めての方は自己紹介と連絡の理由を願いします。

 何でもネットを介するようになってからかえって不便なことも多いです。全体としてはもちろん、外国にいる者にとっては便利になりましたが、進化の仕方がよく分からなくてついていけません。

 サイトの行方を含め新展開があればここでまた連絡します。
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by mariastella | 2010-03-01 19:49 | お知らせ



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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