L'art de croire             竹下節子ブログ

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キエフ・バレー

 先日、キエフ・バレエのソリストを中心にして、ファルフ・ルジマトフと吉田都を呼びものに掲げた『バレエの真髄』というのを新宿で観た。

 日本でクラシック・バレエを観るのは久しぶりかもしれない。

 軽いカルチャー・ショックを感じた。

 ひとつには、今アートの無神論について考えていて、踊りの特殊性を考えているからだ。
 つまり、アーティストとアート作品との間にあるアートというものについての論考なのだが、いろいろなアートの中で、踊り(演劇を含む)だけは、アーティストの肉体とアート作品を切り離すことができない。

 絵画だって造形だって、音楽でさえ、アーティストの顔や形と独立して鑑賞しうる。

 しかし、踊りだけは・・・

 肉体の外的条件と切り離せない。

 実際、老舗バレエ学校は子供の入学に、家族の体型まで確認するのが普通だ。
 群舞においては、身長はもちろん、首の長さ、つき方、腰の位置、頭の大きさ、すべての相似が考慮される。

 だからよく言われることだが、肉体的条件の違う日本人ダンサーなどは、ソリストとしてしか存在できない。
 このグローバル化の時代に、身体能力も高いはずの黒人の姿は、クラシックのレパートリーにまずほとんどない。

 それを差別と呼ぶ人はない。

 で、この日のファルフ・ルジマトフは、日本で非常に人気で毎年来日し、追っかけもいることが分った。実際、彼が何をしても熱狂し、終わりのステージに花束を持って駆け寄る女性たちがたくさんいた。
 私の若い頃にはあり得なかった光景だ。フランスにもない。

 最初のバレエ名場面集にも違和感があった。どのヴァリエーションも、女性ならフュッテ・アントゥルナンとか連続回転をいかにぶれずに回れるか、男性ならグランジュテの回転をいかに高く跳ぶかというようなものばかりで、まるでサーカスを見てるようだった。フィギュアスケートの解説で、

「あ、これは高いですねえ、着地もぶれてませんね」とか、

「あ、回転が少し足りませんでしたね」

とかの声が聞こえてきそうな雰囲気で、TVの前の人が一億総評論家になってるような感じというか、微妙な上から目線。

ローザンヌ・バレーコンクールのTV解説の声も聞こえてきそうだ。

『ああ、いいですよ、表現力はありますね。やわらかいです」とか。

 多くの女性のお目当てのルジマトフはこの第一部では「阿修羅」という興福寺の阿修羅像を模した新作をやるのだが、これはロシアでは受けるかもしれないけれど、アクロバティックな刺激はないなと思っていたら、この人に関しては、何をやっても、顔と姿を見られるだけで、観客は夢中なのだ。この踊りは謡曲のような掛け声が入っていて私にはおもしろかった。

 もうひとつ、日本人ダンサーがいて「侍」というのをやり、これも、日本では今ひとつという題材だ。まあ私はこの岩田守弘さんは、すごくうまいと感心した。逆に、この人が、ロシア人ダンサーと古典のパ・ド・ドゥなどを王子様服でやると、すごくうまいのに、人種の差による微妙な体型の差みたいなのがなんだか国際結婚を見てるみたいで、体の情報とアートが切り離せないという問題にぶつかる。

 その点、女性の方が東洋人であると、もともと女性の方が小柄というバレーの普遍的バランスがあるので、違和感が少ない。
 
 しかし、吉田都さんは、他のソリストのように、名人芸を見せない。
 オーラはあるんだけど。
 しかも、多くのカップルが同時にリフトをやる時に、彼女の腿にだけ、ダンサーの手が添えられた。

 あれは、もう、彼女が故障していたとしか思えない。
 その日が公演の最終日でよかった。
 他人事ながら、ほっとする。

 ちなみに、ルジマトフは白系ロシア人ではなく、中央アジアのタジキスタン出身であり、かなりあくが強くエキゾティックだ。
 イギリス人のロバート・チューズリーなんかのほうが、やはり、クラシック・バレーの雰囲気には合っている。

 そんなエキゾティックなルジマトフの肉体条件が本領を発揮するのは後半の「シェヘラザード」で、アラビアの宮殿の奴隷役というのが、ぴったりで、エレーナ・フィリピエワとの絡みはすばらしい。色彩も美しく、群舞も美しく、ドラマティックで、ルジマトフの個性と、円熟しながらも初々しい感じのフィリピエワの組み合わせが抜群の効果をあげている。これは踊りよりも演技力の卓抜さともいえるかもしれない。ここではもう、フィギュアスケートの解説やコメントは脳裏をかすめす、豊かで贅沢な時を過ごせた。
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by mariastella | 2010-07-26 21:23 | 踊り

日本映画二つ

 
 忘れないうちにメモっておこう。

 日本映画二つ。

 機内で見たのが

 『ダーリンは外国人』 小栗左多里原作、宇恵和昭監督、井上真央、ジョナサン・シェア

 東京で見たのが、

 『告白』 湊かなえ原作、中島哲也監督、松たか子、岡田将生、木村佳乃

 前者は、原作のコミックは時々見たことがあり、髭面のダーリンって、なんとなくインド人かと思っていた。普通のアメリカ人だと知って意外だった。じゃ、草食系というか、ちょっとニューエイジ入った人?
映画を見て、出会いのこととかいろいろ分り、このジョナサン・シェアというのが、すごく誠実で好感を持てる人なので、すべてに説得力がある。ラストにアメリカの家族の前でひざまずいてプロポースするシーンを見て、アメリカにおける「ひざまずきプロポース」のオブセッションって、ほんとうにいきわたってるんだ、と感心した。あれは、どこの移民がどう行き渡らせた風俗なんだろう。
それが21世紀もしっかり残る理由は? 
それとも、新しいのか?
でも、日本側の親の偏見とか、そういう非典型的カップルでも女性がしっかり家事をするという構図でスタートして破綻しかけるという展開など、いろいろ引っかかる点はある。日本語ぺらぺらで「日本文化だーい好き」という感じの「白人」たちを胡散臭く思ってしまう私自信の偏見は抜きがたい。まあ、この映画の中にはそういう「いかにも」的なアメリカ人も出てきて、それがまたダーリンの誠実さを際立たせるんだけど。

 後者の『告白』は、15歳未満禁止とかこわそうな映画だと思ったのだが、結論としてそんなに怖くなかった。多分、小説で読んだ方が効果的だったと思う。

 しかし、ここに出てくるシチュエーションは、まったくのフィクションで、あり得ない設定なのだろうか。

 それとも、こういうこと、つまり、教師が自分の子を学校に連れてきて保健室においておくとか、罰として生徒にプール掃除させるとか、中学一年生が全員携帯電話をクラスに持ち込んで、いっせいにメールしあっているとか、いじめもそうしてオーガナイズしているとか、先生の話を聞かずに勝手に教室から出て行くとか、とかの事項は、部分的には、日本の現実の中学の実態を多少とも反映しているのだろうか。私には分らない。

 フランスでもいろいろな問題があるけれど、こういう感じのはあり得ない。
 落第もあるからクラスの生徒たちの年齢がまちまちだったり、経済状態に差があったりして、このような形での団結(?)はないし、子供のいる教師の保育の問題もないし、学校の掃除はすべて専門の人が毎日ケアしている。携帯も、普通に、持込禁止。

 もちろんこれはフィクションだから、と思ってみても、もうそれだけで胸が悪くなる。
先日ちょうど、TVで、永山則夫のドキュメンタリーをやっていて、彼が母親に捨てられたトラウマから連続射殺魔になったことや、その後の勉強から、どんな人も教育によって新しい可能性を与えられるということがよく分った。

 しかし、永山時代から何十年経っても、この映画でも、父と別れた「母に捨てられた」トラウマが、人を絶望させ、人生を崩壊させるという設定になっているのは苦しい。これも、フランスでは、たとえ離婚しようと別居しようと、未成年の親は、子供が成人するまでその住所を明らかにして、共同親権者として子供に責任を持たねばならないことが法律で決められている。
 一週間の半分を母と、残りを父と暮らす子供もいる。だから、一方が遠方に引っ越すなど子供の生活に支障をきたすような移動は裁判所の許可がいる。逆に未成年の子供がフランスにいれば、その子供が成人するまでは外国人でも滞在許可証を与えられる。

 両親のどちらかがかなりの異常性格だったり、嫉妬深かったり、いろんなケースがあるので、この「フランス型」が必ずしも子供にとってベストの選択とは言えないのだが、少なくとも、母親に捨てられた、居所も分らない、というようなタイプのトラウマにはなりにくい。

 エイズの扱われ方も、なんだかなあと思う。

 これらが、すごく今風なのか、どろどろした日本の偏見みたいなものが特殊化してるのか、よく分らない。

 どちらの映画にも、ちょっとカルチャーショックを受けた。
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by mariastella | 2010-07-26 20:13 | 映画

にゃんとも猫だらけ

 先日、秋のコンサートの会場の下見をするため京都に行った時、梅雨のさなかですごい雨だった。

 そのほかに、立体曼荼羅を見てどうしても確かめてみたいことがあって東寺に寄ったのだけれども、雨に濡れるとなんだか気が萎えて、立体曼荼羅を前にしてもじっくり観察する意欲が出てこなかった。

 だからその後もあまり動き回らなかったのだが、幸い、京都駅ビルのデパートに隣接した美術館「えき」というところで、私にぴったりの展覧会をやっていた。京都の駅ビルって、ここから一歩も出なくても、ミュージカルに行ったり各種ミュージアムに行ったり、買い物も飲食も宿泊もできるし、大好きだ。

 それは「にゃんとも猫だらけ」展と言って、歌川国芳を中心に浮世絵の猫を集めたものだ。

 すばらしい。

 猫好きには眼福の極みだ。

 国芳の猫は有名で知っていたけれど、こんなにあるとは。猫だけでなく猫をデザインした着物や扇子や小道具もいっぱい描かれている。すごくマニアックだ。

 他に、猫というと、藤田嗣治とか、コクトーとか、ピカソの猫の絵や、ジャコメッティの猫のブロンズも好きだけど、浮世絵の猫、いずれもすごい。

 美人画と組み合わされると、必ず、懐に入る、着物の裾にまつわりつく、裾の中にもぐりこむ、などの姿態が出てきて、なるほど、和服と猫は相性がいいと気づかされる。

 思えば、たとえば今から150年前を比べて、フランスと日本の美人画というか女性の肖像画には、表現に大きな差がある。様式の差もあるし、和服やドレスのような文化の差もあるし、髪型も、体型も、理想とされる美の基準も大いに違っただろう。

 しかし、猫は・・・

 今ジャパニーズ・ボブテールと呼ばれる尻尾の短い猫たちが浮世絵には確かにたくさんいるけれど、そして、ペルシャ猫やシャムネコ、シャルトルー、ノルヴェジアン風のはいないけれど、しかし、どの1匹をとっても、今のどの世界でも一発で理解してもらえる普遍的な「ねこ」がそこにいる。完全にインタナショナルだ。

 そのあまりにも優れたデッサンや表現力、ネコとヒトとの関係や愛情をとらえた様子、まったく古びていないどころか斬新そのもの。

 ネコを配してはじめて、その関係性の中で、逆に浮世絵の本質が見えてくる。浮世絵の「美人」たちが本当はどういう風に生きていてそれをどういう風に描かれたのかということが、普遍のネコを軸にして分ってくる。いやあ、おもしろい。猫たちのしなやかさ、柔軟さ、いたずら、ネコを前にした時の人間が「支配関係」「主従関係」の誘惑を逃れて、ひたすら、人間的にユーモラスになっていくところ。

 支配関係がないところでは人は真にユーモアを解する。

 私が行ったのは会期のほぼ終わり頃だった。 

 雨の日の、幸運。
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by mariastella | 2010-07-26 18:51 | アート

Ne jamais admirer la force

 フランスの空港で出発前に買って飛行機で読んだ本 、レジス・ドブレの『イスラエルの友へ』"A un ami israélien" Régis Debray( Flammarion)の中に、レジスタンス時代のフランスで若くして死んだ有名なシモーヌ・ヴェイユの言葉が引かれていた。

 平和な世界を実現するための最も大切な三つのこと。

 
 ne jamais admirer la force, (決して力を尊敬しないこと)

 ne pas haïr les ennemis  (敵を憎まないこと)

 et

 ne pas mépriser les malheureux. (不幸な人を軽視しないこと)

 正確に言えば、ヴェイユは、これを、ホメロスの『イーリアス』について書いている。、戦争や政治において「力」の効果は常に栄光に包まれていて悲惨さを隠すようになっていって、近代ヨーロッパでは悲劇はむしろ悲恋など「愛」の物語に応用されたことを書いている。

 そして、力を尊敬すること、敵を憎むこと、不幸な人を軽んじることの三つは、人間にとって宿命的なほどに大きい誘惑だと書いているのだ。

 中でも、決して力を尊敬しないこと、は、最初にあげられていて、さらに、「決して」と強調されている。

 人間が「力」を誇示し、崇めるところでは魂はいつも、ひずみを受けるというのだ。

 私たちは、強いものや大きいものにあこがれる。

 動物行動学的に言うと当たり前、そうプログラムされていると言われるかもしれない。
 弱肉強食で、強いものが選択されて生き残ってきた。
 メスはサヴァイヴァルのチャンスの大きい強い遺伝子を持っていそうな大きくて強そうなオスを配偶者として選択する。
 縄張り争いで勝ったものが子孫を残す。

 力はいつも、数値化されて比較対照され、差別化に使われる。

 力の大小や多寡は、人の価値や優劣やましてや尊厳には何の関係もないのに。
 実際、異種間では、そういう比較には使われない。
 ゴリラがヒトより強くても、チータがヒトより速く走っても、別に尊敬はされない。

 人間同士で力を優劣や勝敗の基準にする世界では、必ず、強いものが弱いものを支配する形で利用されるのだ。

 それでも、力崇拝の遺伝子の誘惑は大きい。

 日本に帰ったとき、サッカーのワールドカップと大相撲などで、スポーツ番組がたくさんあった。

 強い、天才的、というプレーや、それを可能にする才能、すさまじい根性や気合や努力の物語があふれている。

 分りやすい。

 見てると、すごいなと思い、尊敬し、自分も少しは努力しなきゃと思う。

 私は今肩と腕を痛めているので、TV画面で大写しになる力士の裸の腕や肩の筋肉の見事さになおさら感嘆する。力と力がぶつかりあう。全力を尽くして、勝敗が決まる。

 「死闘」という言葉がある。

 ヴェイユは、人が人に力を行使すると究極的には相手を死に追いやりモノ化するという。あらゆる支配とはモノ化だ。

 死闘を見て高揚する私たち。

 ローマの闘技場では、ライオンと人との格闘に狂喜した人たちがいた。

 パレスチナでは、後に神の子と崇められる人が、辱められながら、期待された何の力も行使せずに、十字架上で、苦しみながら悶絶した。 
 
 ne jamais admirer la force(決して力を尊敬しないこと)

 というのは、「その人」が身をもって伝えたメッセージだった。

 力を崇め、求める限り、老いや病気や障害や体質その他いろいろな理由で不幸にも力を持たない弱者を軽視することとつながるかもしれない。ヴェイユの三つ目の戒めは、一つ目を自戒しなければ本当には実現できない。

 「力の発揮を前にして感動する」という分りやすい体験を、何か危険なものへの「誘惑だ」として一度も自問しない人は、十字架をシンボルにする宗教に、全然似合わないと思う。

 
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by mariastella | 2010-07-14 16:50 | 雑感

公式サイト引越しのお知らせ

 1月末に管理人さんが亡くなった後で対策を考えていた私の公式サイトですが、ようやく Reiko Mery さんのおかげで新しいサイトを立ち上げることができました。
 彼女のサイト http://heyreiko.fr/ を見て、 素敵だなあと思ったのでお願いしたのでした。

 気軽に引き受けてくださったのに、納得のいくまであれこれ最善を尽くしてくださる方で、予想外の大仕事になって恐縮しています。私の場合は、前の管理人さんのパスワードその他が分らなかったためもあって、前サイトの記事のコピーだけで膨大な作業になってしまったのですが、Reikoさんはいろいろな形のウェブ・クリエーションの相談にのってくださると思います。ここで宣伝。私のサイトからもリンクできます。

 で、新サイトのアドレスがこれ。一部工事中もあります。

 http://setukotakeshita.com/

 ここから、前のサイトの掲示板にも引き続きいけます。このブログもリンクしてあります。
 新たに二つのブログもリンクしましたが、まだ記事をアップしてません。
 
 表紙絵は以前に引き続き、八木美穂子さんのものです。原画は私のうちの音楽室に飾ってあります。


 首都圏の書店には明日から並ぶはずの私の新刊、

 「ベスト新書」の『陰謀論にダマされるな!』

 のお知らせはここ。

 http://setukotakeshita.com/page1.html

 です。陰謀論リテラシーの講座は残念ながらやらないことになってしまったのですが、この新書は読みやすいのでどうぞ手にとってください。5月に出した中央公論新社の『無神論』と実はつながってます。

 新しいサイトは多くの方がクリックしてくださると検索しやすくなるそうなので、よろしくお願いします。
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by mariastella | 2010-07-07 10:27 | お知らせ

切羽詰った時に採用するストーリー

 
 日本とパラグアイのPK戦の時にちょうどTVのある部屋でPC をやっていたので、偶然見てしまった。試合はもうとっくに終わっていると思ったら、延長の末のPK 戦だった。日本の選手が輪になってひざまずいてシュートの成功を祈っているような、今時の若者たちのその必死な一体感が、意外な感じだった。翌日の新聞にその写真が載っていて「祈る日本チーム」というキャプションがあった。では、あれはやっぱり「祈り」だと認識されているのだ。

 誰に祈ってるんだろう。あるいは何に?

 勝負の神さま? あるいは、みんなで「念」というか「気」というか「エネルギー」を送り込んでるだけ?

 怪我の回復が本格的でないといわれるブラジルのカカは熱心な福音派だそうで、結婚前の純潔とかを公の場所で口にしているそうだ。ブラジルでは昔はカトリックが絶対優勢だったけれど、今は福音派の躍進が著しいので有名だ。特に若者に人気だから、スター選手が福音派でも不思議はない。

 そのカカはブレスレットをしていて、そこに「OQJF?」と書いてあるそうだ。

 「O que Jesus faria?」の略で、「イエスならどうするだろう?」という意味。

 まあ、カトリックでも福音派でも、同じ神だから、輪になって祈っても、「気の道」はつながりやすいかなあ。それにブレスレットの言葉は、「勝たせて下さい」じゃなくて、「御旨のままに」って感じだから、それなりに「正しい」感じもするな。

 うちの末猫が先週亡くなった。いろいろあったのだが、とにかく最後は下がってきた体温を温めるために私がはいつくばって息を吹きかけたりしてたので大変だった。はじめは、生きようとして戦っているように見えたので助けてやりたかったが、だんだんと、死ねないで苦しんでいるように見えてきた。強制給餌しようとしても必死で顔を背けるし、背を向けて隠れようとするし。私はいわゆる安楽死には基本スタンスとして反対なのだが、当然それも視野に入ってくる。取って置きのルルドの水で高栄養パテを溶いたりしたんだけど。

 親戚の仏教徒のところで、子猫が死にかけたことがあり、その人は、安楽死させるかすごく迷って、仏教の僧の意見を聞いた。どちらもフランス人。その時の答えはこうだった。

 「その子猫が苦しんでいるのは前世のカルマのせい。それを短縮したりせずに最後までちゃんと苦しめばそれを浄めることになり、それはよいカルマとなり、子猫は来世でステージアップを期待できる。さらに、安楽死させるなどの決断をするのはあなた自身の殺生の罪となり、悪いカルマになるので、あなたの来世は今より悪くなる」

 その人は、それを聞いて、納得がいったので、獣医のところに連れて行かずに、自然死を待ったというのだ。

 仏教ではカルマのメリットやデメリットを計算できるので、ロジックなフランス人に気に入られているという話を聞いたことがあるが、私なら、うちの猫には絶対採用したくないストーリーである。

 で、私も、別のストーリーをさがしてみた。

 人間はいろいろと罪深いけれど、うちの末猫サリーにはそういう罪も業もない。子供は天国に直行できるというように、うちのサリーもピュアだから、天国に直行。

 うちには、15年前にまだ3歳半の元気盛りで医療過誤によって死んだオス猫ガイアがいて、庭に埋葬してある。すごく愛された猫だから、その後の3匹の猫の守護天使みたいになっていたに違いない。

 そのガイアのことを突然思い出し、気が楽になった。サリーの死後の運命が安心できたからだ。


 で、サリーに何度も言って聞かせた。

 「あんたにはね、実は、あんたの生まれる前に死んだ強いお兄ちゃん(実際は血のつながりはないが)がいて、天国から守ってくれているんだよ、で、サリーちゃんが死んでも、ガイアがちゃんと待ってて、天国でサリーちゃんを守ってくれて、世話してくれるからね」

 このストーリーは私の気に入った。

 サリーちゃん、今は思いがけなく苦しいけど、こうやってママがそばについてるし、天国に行ったら今度はガイアに守られてまた元気に遊べるんだよ。

 すごく安心感がある。

 死後の世界って、こういう時のためのストーリーなんだなあ。

 自分より若い小さなものに死なれる時に特に力を発揮するストーリー。

 「畜生道に堕ちる」みたいなのは、「ペットの死」向きじゃない。

 私が死んでも、ガイアやサリーが楽しくやってるとこには行けそうもないが。

 私はストーリーなしで死んでも納得するつもりだったが、猫に死なれるときには、貴重だ。
 生と死って、存在のモードが変るだけ、っていうのが実感になる。

 そうなると、前に失った猫の記憶も貴重だし、次から次へと生と死が別の生と死を豊かにしてくれるのかもしれない。誰もがそういうストーリーに少しずつ貢献していけるんだとしたら、死は決して喪失ではないし、ましてや敗北ではない。

 近いうちに、前に『聖者の宇宙』という単行本で出したものが文庫化されるはずだが、生と死を超えたこういうインターアクティヴで賑やかな関係って、悪くないなとあらためて、思う。
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by mariastella | 2010-07-02 23:47 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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