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L'art de croire             竹下節子ブログ

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おかず

私は朝、たいてい床の中でぐずぐずしてラジオを聞いている。

好きなのはインタビュー番組で、寝ぼけながらぼーっと聞いていることも多く、聞き逃しや聞き落としする言葉も少なくないが、別に支障はない。たまに、固有名詞で知らないものがあると、メモしておいて後で検索したり、分からなかったものはネットでもう一度番組を聞いて確認することもある。

単に、ある人の名がRoland と Laurent (日本人耳にはどちらもローランと聞える)のどちらかなのか聞きとれないことはあるが、そういうものが問題になることは少ない。分からないと困るのは団体名の略称などで、後で確認することが多い。

ところが先日、ある人のインタビュー(政治論議だったっけ・・・)で、二度「オカズ」という言葉が聞えて、意味が分からなかった。

普通は言葉一つなら意味が分からなくても全体として困らないのでスル―するのだが、短時間に二度も出てきたので注意を引いた。

あまりテーマの本質とは関係がなくただの言いまわしだとは思ったが、

「おかず」?

何だ、これは・・・日本語のおかずみたいだなあ、と寝ぼけた頭の隅にひっかかった。

それで目が覚めてしまったので、インタビューの終りの方でもう一度「オカズ」と出てきた時には、文脈からようやく意味が分かった。

au cas où (・・・という場合には)

と言っているのだ。

私は驚いた。

これはごく普通の表現で私もよく使うが、

「オ、カ、ウ、」と言う。

これって、ひょっとしてリエゾンするのか?

この国に35年も住んでいて気づかなかったのか?

さっそく起きて、すぐにインタネットで調べてみた。

すると、最初にフランス語のとある掲示板で、

「au cas où」というのはokazou と発音するのでしょうか、という質問が出てきた。

そこにいろいろな返事があり、台湾の人とか、いろいろなフランス語学習者が書き込んでいるのが分かった。同じ場所に、

「Fais attention!」(気をつけて)というのもフェザタンションでしょうか、と続いている。

私は一瞬目を疑った。

突然、なんだか、すべてに自信がなくなってきた。

幸いその掲示板からすぐに、アカデミー・フランセーズのサイトにとぶことができた。

結論を言うと、特定の言いまわしを除いて、

発音されない子音で終る名詞の単数形の後にはリエゾンはない。

ほっとした。

そりゃそうだ。「Ce pays est ・・・」とか「Le chat est…」という文がリエゾンしてたら大変だ。

二人称単数動詞の後もしかり。

他にもいろいろあって、すべて納得がいく。

http://www.academie-francaise.fr/langue/questions.html#liaisons

私がソルボンヌでリエゾンについて習った時は、

pas encore(まだ…ない) のリエゾンは必須だが、あえてリエゾンしない時には「まだで助かった」というニュアンスが加わるのだということと、英雄の「héros」という単語はもとはmuetのhだったが、複数でles héros という時にリエゾンするとレゼロとなって「zéro」と区別がつかないと不便だからリエゾンしないhに変更されたのだ、女性形のヒロインは l’héroïneとリエゾン可能なままなのだという話題だけを今でも覚えている。

何であの頃、アカデミー・フランセーズの規則をまとめて教えてもらわなかったのだろうと思うが、まあ、いろいろ習っても、こちらのレベルが低いと意味がなかったかもしれない。

で、「オカズ」は明らかに間違いなのだが、フランスの掲示板でも、「たまにオカズと言うのを聞くのですが・・・」ということで迷って質問が寄せられていたわけである。

だから実際にオカズと言っている人はいるのだ。

方言でリエゾンをあまり使わない地域はある。また、近頃はリエゾンをしない人が増えてきたという現象もある。

でも、リエゾンのない場所でリエゾンをする方言もあるのだろうか。

そして、もちろん、学者がラジオで「オカズ」と10分以内に3度も発しても、インタビュアーが「それはおかしいですよ」などとは言わない。
だからこの人はこれからもいつまでも気にせずにオカズを連発するのだろう。

そう思うと、複雑な気分だった。

参考にリエゾンの規則だけコピペしておこう。


***

liaisons

En français, la liaison peut apparaître entre un mot qui se termine par une consonne et un mot qui commence par une voyelle ou un h non aspiré (voir aussi l’article Le haricot), si ces deux mots ne sont séparés par aucune ponctuation ni par aucune pause orale. Selon les cas, elle est obligatoire, facultative ou interdite. Les noms propres sont également soumis à la liaison.

La liaison est obligatoire :
- entre le déterminant et le nom : des(z)amis, tout(t) homme ;
- entre l’adjectif antéposé et le nom : un(n)ancien(n)usage ; ainsi on dira un savant(t)aveugle si aveugle est un nom, mais un savant aveugle si savant est le nom ;
- entre le pronom (sujet ou objet) et le verbe : ils(z)aiment, on(n)aime, ils vous(z)aiment, ils(z)y vont, courons(z)-y, donnez(z)-en ;
- entre est et le mot qui suit, dans des formes impersonnelles ou dans la forme présentative : il est(t)évident qu’il viendra ; c’est(t)à voir ;
- entre l’adverbe et le mot unis étroitement : trop(p)étroit ; bien(n)aise ;
- entre la plupart des prépositions monosyllabiques et le mot qui suit : dans(z)une heure ;
- dans la plupart des mots composés et locutions : un pot(t)-au-feu, mot(t)à mot, de temps(z)en temps.

Elle ne se pratique pas :
- après la conjonction et : un fils et une fille ;
- après la consonne finale d’un nom au singulier : un temps idéal, un nez épaté ;
- après le s intérieur dans les locutions nominales au pluriel : des moulins à vent ;
- après la finale -es de la 2e personne du singulier de l’indicatif présent et du subjonctif présent : tu portes un habit vert ; Il faut que tu lui écrives un poème. On fera en revanche la liaison lors de la lecture de vers ;
- après les mots terminés en -rt en -rs, sauf s’ils sont suivis de il, elle, on ou s’il s’agit du t de l’adverbe fort ou du s de toujours : de part en part, tu pars à huit heures (mais : quand dort-(t)on ? quand sort-(t)elle ?) ;
- devant un, oui, onze et les mots étrangers commençant par y : des oui ;
- devant les noms de lettres de l’alphabet : des i, des a.

Dans le reste des cas, on peut choisir de faire ou non la liaison mais celle-ci est plutôt la marque d’un langage soutenu.

On distingue par ailleurs deux types de fautes de liaison :
- le cuir qui consiste à faire une liaison en t à la place d’une liaison en z, et plus généralement à effectuer à mauvais escient une liaison en t : Il s’est mis(t)au travail ; J’ai cru(t)apercevoir un écureuil ;
- le velours qui consiste à faire une liaison en z à la place d’une liaison en t, et plus généralement à effectuer à mauvais escient une liaison en z : vingt(z)euros ; les dix-huit(z)ouvrages ; Il est venu aujourd’hui(z)encore ;
Ces deux types de liaisons fautives sont aussi appelés des pataquès.
Par extension, on désigne par pataquès, cuir ou velours toute liaison fautive, quelle qu’elle soit.
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by mariastella | 2011-02-28 04:59 | フランス語

アラブ世界で起こっていること その6 チュニジア

流血沙汰が比較的少なくて独裁者ベンアリが早めに国外逃亡したことでアラブ世界の「民主化ドミノ現象」のきっかけとなったジャスミン革命のチュニジアで、新たにヴァイオレントな衝突が起こっている。

フランスの外務大臣のMAM(Michèle Alliot- Marie)は、この革命初期に、チュニジア政府に「世界的に知られたフランスの治安維持のノウハウを用いて暴動を鎮める」提案をするという失態のせいで、さすがに更迭されそうになっているが、それでもここまで持ちこたえたのは、政権にある人々がみな「脛に傷持つ」感を持っていたからだろう。

それはMAMが年末のチュニジアのバカンスで、ベンアリに近い人間から接待を受けていたというスキャンダルのスクープが続いたからだ。

政権にある者は、社会党政権の時代であっても、あちこちの国の権力者の接待を受けている。アフリカの独裁者であったベンアリでもムバラクでもカダフィでも同じだ。

理由はいろいろあるだろう。

武器だの飛行機だの原子力発電だのといったものをセールスして国益を図りたい。

石油や鉱物資源などの利権を確保したい。

これら「独裁者」たちは、一応「民主主義」の選挙で選ばれている。

他の主権国の内政に干渉はできない。

彼らは「西洋帝国主義」に搾取されてきたアフリカの独立のために戦った「英雄」たちの系譜にある。少なくともそれを看板にしている。だから引け目がある。

ここ20年は、グローバリズムと新自由主義経済のせいで、実はどこの権力者も、国益がどうとかイデオロギーや理念がどうとかいうのはもうどうでもよくて、ただただ、互いに私腹を肥やす可能性に目がくらんだ。

などなど・・・

若者が不満を爆発させることも、既得権益者がなんとしてでもそれを守ろうとするのも、ある意味「人間的」であり、単純な善悪や正・不正の二元論でくくれないのはもちろんだ。

しかし、力と経験とがある者は、それを、より力のない者や経験の少ない者のために役立てる義務があるのは明らかである。

といっても、実際には、権力者は、平気で建前と本音を使いまわすし、欺瞞や偽善やデマゴーグを駆使する。

これはアメリカだろうが、チュニジアだろうが同じだ。

そして人は、自分の信じたいものを信じ見たいものを見る傾向があるから、欺かれやすい。

欧米の政治家のアフリカ軍事独裁者との慣れ合いは、分かりやすい。

でも、そのような利権もなく国家権力もなく、クリーンで、弱者の側に立つ原則を持っている人でさえも、騙される。

独裁政権を長く維持できているような人たちは、それなりのカリスマ性や演技力があり、裏で私腹を肥やしていても、表は本気で理念を信じていることもあるのだろう。だから説得力があるのかもしれない。

共産党の不破哲三さんが2003年にチュニジアの与党党大会に招待された時の話を読んでいると、感慨を覚える。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-08-25/01_03.html

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一九八七年にベンアリ氏が大統領になってからの党大会には、すべて大会の性格を象徴する合言葉が選ばれている。一九八八年が「救国の大会」、一九九三年が「堅忍不抜の大会」、一九九八年が「卓越の大会」、そして今回が「大志の大会」である。
 開会演説に、その「大志」を具体化した計画や政策がもりこまれているわけではないが、その主眼はなによりも、国民生活の安定的発展にむけられているようだ。大統領演説が、冒頭の部分で、かつての民族独立の任務と独立チュニジアの社会的発展という現在の任務とを一つの流れのなかで表現したことは、そ の象徴だったかもしれない。
 「この大会をもって、立憲民主連合は、新たな世紀に入る。われわれの活動は、国の解放の時代だけにとどまらない。植民地時代の立憲民主同盟の活動 の焦点は、『国土の一ミリでも植民地下にあれば国民の尊厳は不完全だ』という自覚を広めるところにあった。現在われわれは、『みじめな暮らしをしている国 民が一人でもいれば、国民の尊厳は不完全だ』という自覚を広める努力をしている」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-08-31/03_02.html

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とか、

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 独立闘争といえば、その指導者だったブルギバ前大統領にたいする評価も、興味ある点だった。ブルギバは、政権党・立憲民主連合の創立者であり、三 〇年代からチュニジアの民族独立闘争の先頭に立ってきた、いわゆる「建国の父」である。一九五六年に独立をかちとり、一九五七年に王制を廃止して共和制に転換した時、初代大統領になり、三十年にわたってこの地位にあった。最後の時期には、制度的にも自分を「終身大統領」に位置づけたうえ、個人的な権力に固 執する専横の傾向が強まった、と言われている。
 そのブルギバ氏に任命された最後の首相がベンアリ氏だったが、ベンアリ氏が首相就任の一カ月後に、「執務不能」という医師の診断書をブルギバ大統 領につきつけて「終身」大統領の退陣を実現したのが一九八七年、それによってベンアリ大統領を中心とする現体制が実現したのである。一九八七年のこの政変は、論者によっては「無血革命」とも呼ばれるが、公式にも、国と党を破滅から救った歴史的な「改革」と位置づけられている。
 興味深いのは、ブルギバを強引に退陣させた一九八七年が、現在のチュニジア政治の出発点になっているにもかかわらず、歴史の見方がブルギバ時代の全否定とはなっていないことである。ブルギバ前大統領は、退陣後に亡くなったが、首都チュニスの中心をつらぬく幹線道路は、いまでもブルギバ道路である。 この大会でのベンアリ演説でも、ブルギバをはじめとする先人たちの建国の功績への感謝と、ブルギバ体制を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが並列し て強調され、ブルギバへの評価を述べた時には、ひときわ大きな拍手が起こる、という情景があった。
 この評価は、表面だけの儀礼的なものではないようだ。私たちの世話役ハマム氏の解説によれば、ブルギバは民族独立闘争で大きな賢明さを発揮した指 導者で、その賢明さは、たとえば、第二次大戦の時、反フランス路線に固執することなく、反ファシズムの立場でフランスをふくむ連合国に協力する立場をとっ たところにも、表れたのだという。
 第二次大戦中に世界の反植民地独立運動がとった路線の問題では、インドにこれとは対照的な実例があった。国民会議派をはじめとするインドの独立運 動が、反イギリス路線を根拠に、第二次大戦に「中立」の立場をとり、一部には日本軍に協力する流れさえ生まれたのである。ハマム氏が、世界の大局を見るブ ルギバの賢明さを評価するのは、納得できる話だった。こういうことを含めて、「建国の父」ブルギバにたいする高い評価と、晩年のブルギバ専横を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが、合理性をもって共存しているのだとすると、ここに、独立運動の歴史にたいするとらえ方のチュニジア的な柔軟さがあるのかもしれない。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-01/03_01.html

****


などというくだりを読んでいると、おそらく誠実なだけに、MAMだのサルコジだののご都合主義やマキャベリズムとはかけ離れている分、複雑な気分にさせられる。
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by mariastella | 2011-02-27 22:50 | 雑感

中央公論3月号

送っていただいた中央公論3月号を読んだ。

明るい気持ちになれたのは「復活!理系大国ニッポン」という特集。どれも楽しい。

たった一つ、せっかく楽しいのにがっかりしたのは例の比喩があったことだ。

それこそ「文系」の人は不用意に連発するが「理系」の人でも言うんだなあ。

省エネでエコロジカルな日本の技術を世界に輸出しよう、というのはいい。

そのシンボルとして「こたつ」を出して、「新こたつ文明」と呼ぶのも楽しい。

でも、

欧米人がこたつを発明できなかったわけは生活習慣だとして、次のように解説される。
 
***

(欧米人は)基本的に狩猟民族であるから、夜でも「窓の外を食べ物である鹿が通れば、弓矢を持って飛び出す」という感覚を、文明の底流として持っている。そのために、室内でも靴を脱がない。/ 日本民族は、水田耕作を生業としてきたので、その日の農作業が終われば、夜の間にやることはないので、履物を脱ぎ、ゆっくりと「こたつ」に入ってくつろぐことができる。/ 日本民族的な生活の方が、いつでも獲物を探している西欧文明的な生活よりも、幸福なのではないだろうか。(P88-89)

   ***

これではあまりにも突っ込みどころが多いというものだ。

現在でも狩猟を主として暮らしている民族はいるが、熱帯地域なら、そもそも「こたつ」はいらないのでは・・・とか、

夜行性動物を狩るなら昼間休むだろうし、まあ人間の狩りは目がきく昼間が多いと思うので、夜になったら休むのでは・・・とか、

窓の外を鹿が通ってから飛び出してももう遅いのでは・・・とか、

もちろん、ヨーロッパ人も農耕定住に入ってから文化を蓄積するようになったので、弥生時代以降の日本人と同じではないか・・・とか、

例の「ヨーロッパ人は肉食だから草食系日本人より残虐だ」的な論と同じくらい変だし、間違っているし、リスペクトを欠いているのではないだろうか。

面白おかしい文脈ならもちろんそれでもOKかもしれないけれど、せっかく「理系日本」の素晴らしさを鼓舞している話題なのだから、気持ちをそがれた。

私は、日本人は優秀だと思うし、欧米人と差異化が可能な技術を生むことにも長けていると思うので、そういう話の時にこのようなステレオタイプのレイシズムが出てくると残念だ。

この号にはもっと深刻な、私を暗澹とさせる話題もある。

ジェフリー・ゲルトマン「永遠に戦争が続くアフリカの現実」

だ。

ニューヨークタイムズの記者が書きそうな偏見も入っているが、要するに今のブラック・アフリカは、暴力のための暴力から抜け出せない、という話なのだ。

「イスラムは民主主義と両立しない」式の言辞は、今のアラブ世界革命で覆されつつある。それによって、欧米の「リアルポリティクス」民主主義の欺瞞が浮き彫りになるのは痛快ですらある。

しかし、このブラック・アフリカの現状を見ていると、そのうちに、白人から「文明の衝突」よりも「人種の衝突」と言いだされかねない。

ブラック・アフリカは、イスラム教も多いし、土着宗教もあるし、過去の宗主国の遺産であるキリスト教も多い。だから、「宗教の差」という言いわけはきかないからだ。

今、この瞬間も、ブラック・アフリカで虐殺される弱者や虐殺者に仕立て上げられる子供たちの問題をとどのように取り組めばいいのか、というのは今の人類の共通の最大の問題ではないだろうか。

もちろん、すべて過去の帝国主義者たちが悪い、とか、欧米から利を得た独裁者たちが悪いとか、いうことだけでは片づけられない。

誰でも、時代や環境や状況によって簡単に「鬼畜」になったり「非人間」になったりする。鬼畜とか非人間というのは人間の特性かもしれないと思えるくらいだ。

しかし、どんなにひどい状況でも、極めて少数だが、人道的に「ぶれない」人というのは、存在する。

「存在する」のだ。

(人間にいいように使いまわされる神が存在するより心強いかも。)

このことはまた別の折に。
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by mariastella | 2011-02-26 01:05 | 雑感

アラブ世界で起こっていること  その5 イラク

今日はイラクの「怒りの日」で、どうなるかと思っていたら、やはり死者も出たらしい。

教育や医療システム、飲料水や電気などの深刻な問題はあるか、イラクの若者の蜂起を見ているとやはりつらい。

他のアラブ軍事政権諸国での若者の要求と、イラクの若者のそれは、微妙に違う。

たとえば、チュニジアやエジプトでは雇用促進を求めるものがあった。独裁者の汚職に関しても、独裁者の中には、最初は社会改革を目指していた人もいたのに、それがここ20年の新自由主義経済によるマルチナショナルな投資の余禄が肥大して、個人資産の拡大に突っ走ってしまった、という事情がある。

ところが今のイラクは、「アラブ世界の民主化をドミノ倒しに達成する」といううたい文句のアメリカによる一方的な戦争で荒廃した上、今のイラク政府はそのアメリカから来る復興予算(8億ドルと言われる)を一部の閣僚が懐に入れている。

今度の騒ぎで、政府は一般公務員の給料を引き上げて、大臣の給与は半額にカットすると言ったらしいが、要するに、今のイラクの汚職の中心は、自由投資家からの賄賂や場所代などを独占しているからではなく、アメリカなどから供与されている復興予算で私腹を肥やしているところにあるのだ。

だから、若者の不満も、

「自分たちに職を与えろ」

というよりも

「復興予算を公平に分配しろ」

というのがあって、その辺が、悲しい。

国の富を独占している独裁者に分配を要求しているのではなくて、国自体がぼろぼろ状態だからだ。

構造的に違う。

サダム・フセインを打倒する、というようなかたちの民主革命にはもうなり得ないからだ。

誰がこんな風にした?

ともかく、イラクが他のアラブ諸国の「民主化」余波で、今後どのような展開をするのか注目したい。
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by mariastella | 2011-02-25 20:34 | 雑感

アラブ世界で起こっていること  その4 フランスとアメリカ

エジプトの次はイエメンかバーレーンかと思っていたがリビアになりそうだ。
その血なまぐささは半端でなく、2007年にサルコジ大統領がエリゼ宮にカダフィを歓待した時に「フランスは血にまみれた足を拭くマットではない」と批判して左遷された当時の人権大臣ラマヤデは溜飲を下げているだろう。

アメリカもイギリスもドイツも、当時すでにカダフィと石油と武器の交換貿易の成果をあげていて、フランスもあわてて遅れを取り戻そうとしていたのだ。

(追記:ヨーロッパでリビアに最も利権を確保しているのは旧宗主国イタリアであることはもちろんだ。もう一つ、カダフィはアフリカ大陸からヨーロッパへの不法移民を防ぐための海岸線警備に有能だった。昨年、それを強化して「ヨーロッパを黒くしないために」とEUに5億ユーロだかを要求し、さすがに断られていた。)

サルコジ政権以来、フランスは

「人権理念よりもリアルポリティクスね」

となりふり構わずやってきたが、それでも、その都度、それを攻撃したり揶揄したりする人が、野党にも庶民にもたくさんいる。

それに加えて、フランスに染みついた「中華思想」と「自虐癖」のせいで、いったん、自分たちの化けの皮が剥がれれば、与野党の区別なく過去の政治家たちのご都合主義を皆が暴き始める。

「中華思想」と「自虐癖」はセットになっている。

自分たちが何でもイニシアティヴをとっていると思っているから、失敗したと思った時に「…のせいだ」と責任を押しつけることが難しく、わりと簡単に自己批判をするのだ。

フランス人のアイデンティティの一つが「フランス革命の肯定的評価」なのだが、これが相当苦しい欺瞞に満ちたもので、それでも、啓蒙思想によって生まれた理念を背景に「抑圧されているものが支配者を倒した」という図式にしがみつくことで、かろうじて良識の居場所を確保している。

エジプトのユモリストがフランス人のインタビューで、

「ムバラクが死んだらナセルとサダトが待っていて、『死因は何だ、毒か、銃器か』と聞かれて『facebook』と答えた」

というジョークをとばしていた。

(追記:リビアには150万人のエジプト人が働いているのだそうで、誰でも家族か知り合いがリビアにいるので現在も今後のことも心配だと言っていた)

さらに、インタビュアーが

「これからのエジプトの取る道についてフランスの知識人に期待するか」

と聞いたら、

「外国や世界のことなんかどうでもいい。エジプトの若者に期待する」

と切って捨てたのが気持ちよかった。

これを聞いてまたフランスは自虐に向かうわけだが、アメリカではこういうことは起こらない。

彼らの建国神話の中では、「アメリカは宗主国の支配に打ち勝って独立した」というのが肯定的になっていて、基本的にずっと変わらない。帝国主義的植民者の支配に打ち勝って独立したというのでなく、自分たちが植民者で、先住民のホロコーストの末に出身国から独立しただけなのに、この欺瞞をずっと抱えたままアメリカン・ヒストリーでごり押ししている。無理があるのだが、無理があるほど必死に粉飾するものだ。

フランスの場合は、革命の後、テロル、内戦、ナポレオン戦争、新旧勢力入り混じりあうヨーロッパの再編成、さらなる2度の革命と王政復古に帝政復古、と、ごまかしのきかないボロボロさを呈した上に、2度の大戦でガタガタになり、ドイツに占領されたり、ベトナムやアルジェリア戦争の罪悪感がつもりつもっている。

その上で、なお、

「でもフランス革命は正しかった」

ことにしよう、という決意は、それなりの「抑止力」をとどめていると思う。

それに比べると神に祝福された「アメリカ民主主義教」の一宗派独裁のアメリカは、一党独裁のどこかの国と変わらないな。

http://www.youtube.com/watch?v=N-Vy8fFnz18&feature=player_embedded

の映像が世界中に流れたのは痛快だ。ヒラリー・クリントンに反抗する老人は公衆の面前で手錠をかけられて排除されるのだから。

これからどうなるか分からないが、懐疑よりも希望を抱くところにしか平和は見えてこないと思う。
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by mariastella | 2011-02-24 20:40 | 雑感

Hereafter

昨日久しぶりに映画のことを書いたのでもう一つメモ。

Clint Eastwood の 『ヒアアフター Hereafter 』
/Matt Damon, Cécile de France, Thierry Neuvic,

この興味深い題材とうまい俳優と大きな予算を使って、よくこれだけ残念な結果を出せるなあ。

私がシナリオを書いたら100倍くらいおもしろくできたのに・・・

何気ない出来事を積み上げていってクライマックスで盛り上げるのとは反対に冒頭の津波シーンや事故のシーンが最も迫力があって、結局それ以上には、感動の面でも謎の面でも、まったく進展しないで尻すぼみ。

また、フランスでのこの映画の評に、「パリでのシーンの会話が非現実的だ」というのがあったが、まったく同感だ。ジャーナリズムと出版界の描写や、業界の男と女の様子が、あまりにもアメリカ的なのだ。

セシル・ドゥ・フランスは若い頃のMiouMiouをより繊細にした感じで、もともと気にいっていたが、ますます魅力的になった。映画の中でやつれていく彼女をながめるだけで楽しめる。

それにしても、繰り返し垣間見せられる「死後の世界」はあまりにもつまらない。映画なんだからせめてもう少しマニアックな仮説を立ててもいいのに。
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by mariastella | 2011-02-18 18:42 | 映画

The King's Speech

Tom Hooper監督でColin Firth主演の

The King's Speech

を観た。

日本でのタイトルは『英国王のスピーチ』?

英国王にあたる部分が

原題が大文字の「The King・・・」で、

フランス語タイトルは

『Le Discours d'un roi  』

と、小文字の「a king」

に相当するもので、

王一般や英国王やこの映画に対する言語別、文化別の微妙な視線の違いが感じられる。

皇室の皇位継承問題についていろいろ話題になっている日本での受け止められ方はまた独特のものがあるのだろう。

高貴な身分の者の苦しみやら努力やら友情やら家族愛に加えて第二次世界大戦というドラマティックな背景という要素を並べるだけでリスクの少ない感動ものに仕上がる。

私の注意を引いたのは、

ジョージ5世の次男であったアルバートが兄の退位にともなって急遽即位することになった時、

「アルバートの名ではドイツっぽいから、ジョージ5世との継続性を強調したジョージ6世でいきましょう」

とアドヴァイスをうけたことだ。

兄さんはディヴッドと呼ばれていたのにエドワード8世だった。調べてみると、正式の名は

「エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド・ウィンザー」で、

「名前のうち、エドワードは伯父クラレンス公アルバート・ヴィクター、クリスチャンは曾祖父のデンマーク国王クリスチャン9世にそれぞれ因んだもので、アルバートは曾祖母ヴィクトリア女王の強要によって含まれたものだった。また、洗礼名のジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッドは、いずれもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズの守護聖人に因んだものだった。ちなみに、家族と友人からは終生、最後の洗礼名である“デイヴィッド”の名で呼ばれ続けていた。」(Wikipedia)

とある。では、やはり最初のいわゆるファーストネームを王の名にしていたわけだ。
セカンドネームの「アルバート」は「曾祖母ヴィクトリア女王の強要によって含まれた」とあり、次男の時にはこれが晴れてファーストネームに昇格したわけだ。

そのアルバートというのは、曾祖母ヴィクトリア女王がこだわったという通り、ヴィクトリア女王の夫アルバート公の名だ。で、そのアルバート公は、ドイツのザクセン公子で、やはりザクセン公国出身のヴィクトリア女王の母方の従兄にたる。もともと今のハノーヴァー朝はドイツ系で、第1次大戦の時にすでに敵国ドイツのイメージを避けるためにウィンザーと改名した。

で、第二次大戦に参戦する重大な局面においてアルバート王というのはまずい。ここはイングランドの守護聖人であるジョージ(洗礼名には含まれている)で行こう、ということになったわけである。

このことは、1978年にヨハネ=パウロ1世が在位33日目に急死した後で選出されたカトリック初のポーランド人教皇のことを思い出させる。
彼がポーランドの聖人であるスタニスラスという名で即位したいというのを、それではあまりにもポーランド色が強いのでヨハネ=パウロ2世にしろとアドヴァイスされたという話だ。

フランス語ではアルベールという名はベルギー王とかモナコの大公とか王の名としてもなじみだし、もとになった聖人はフランスも込みのフランク王国系ルーツなので、いわゆる「ドイツ色」があるわけではない。

映画の中でもその雄弁ぶりがジョージ6世と比較されているのはヒトラーだが、ドイツ人は名前をずらずらとつけないのだろうか。アドルフというのはゲルマン系の名で、聖人もいないわけではないが、近代以後のイギリスやフランスではごく少ない名だ。

ヒトラーのすぐ下の弟(夭逝)はEdmundという。もしヒトラーのファーストネームがEdmundだったりしたら、エドワード8世も別の名前で即位していたかもしれないな。
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by mariastella | 2011-02-17 19:36 | 映画

Instiut Jeanne d'Arc

先日のイランについての記事
http://spinou.exblog.jp/15921346/
を補足する。

シスター・クレールが20年勤めていたテヘランでのジャンヌ・ダルク学校のことだ。

Institut Jeanne d’Arc とか、 Ecole Jeanne d’Arcとか呼ばれるこの学校はシスター・クレールがバスケットボールクラブを作って未来の王妃ファラがキャプテンとして活躍したことが有名なように、上流階級のご用達だった。

19世紀を通じてイランのエリートは啓蒙思想とフランス革命が好きで、フランス文学も大好きだった。

イギリスの英語やロシア語が幅を効かせていた時代だが、それらの言葉さえもフランス系の学校内で教えられていたほどフランスびいきだった。当時国境を接していたイギリス(インドを通じて)やロシア帝国へのけん制もあったのだろう。

やはりアジアに根を広げていたアリアンス・フランセーズははっきりと商業的メリットをうたっていた。
他にフランスのユダヤ系共和国主義のフランス語学校もあった。
しかし一番上流どころはカトリック系フランス校だったのだ。

ジャンヌ・ダルク女子校ができたのは19世紀半ばで、男子校はラザリストによる「サン(聖)・ルイ」校である。

彼らはまったく宣教活動はしていなかった。ラザリストも愛徳姉妹会も、17 世紀の聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンチオ・ア・パウロ)が創設した社会事業中心の活動修道会だ。

でも、どうして、この名前なのだろう。

シスター・クレールはこの2人がフランスを代表する名前でフランスの守護聖人であるからだと言った。
つまり、宣教活動はしない代わりに、学校の名前によってフランスのアイデンティティを強調したのだろうか。

ジャンヌ・ダルクが聖女として正式に認められたのは1920年、その前段階である福女になったのが1909年、その審査が始まったのが1894年、オルレアンの司教がジャンヌの聖性を示唆したのが1869年、ミシュレーがジャンヌを民衆の聖女だとしたのが1841年。

テヘランのジャンヌ・ダルク学校は1860年代の初めにできた。だから、聖ルイ(ルイ9世、13世紀)と違ってジャンヌ・ダルクはまだ聖女(サント)ジャンヌ・ダルクと呼ばれていない時期だ。

ジャンヌ・ダルクがオルレアン解放のために立ちあがる時に聞いた天の声の中にはこのサン・ルイの声があった。
だからこの2人の組み合わせでは、どちらかというと王党派のイメージで、イラン人の好きだったフランス革命とはニュアンスが変わってくる。でも当時のイランはガージャール王朝の支配下にあったわけだし、フランス革命的や啓蒙時代のイメージよりもそのような「曖昧ゾーン」の方が都合よかったのかもしれない。

だからかどうか知らないが、ジャンヌ・ダルクが福女になったり聖女になったりした後も、この学校の名には「サント・ジャンヌ・ダルク」と称号を付け加えられなかった。

フランス本国の内部では、その名前の女子校が公立でもたくさんできたというのに。

ジャンヌがフランスの守護聖女となったのもずいぶん後のことである。

フランスの守護聖人としてはノートルダム(聖母)もいるのだから、ノートルダム女子校としてもよかったはずだが、そうならなかった。

ノートルダムではキリスト教色が強すぎる。

当時のイランには宣教色が強いアングロサクソン系プロテスタントの学校もあって、プロテスタントはノートルダム崇敬を認めないので微妙だったからだろうか。

聖ルイもジャンヌ・ダルクも歴史上の人物。

2人とも戦場で戦った。

そういう理由で選ばれたのかなあ。

でもジャンヌ・ダルクの列聖はあまりにも同時代すぎて政治色が濃いので、「聖女」と付け加えるのはさすがにはばかられた、ということだろうか。
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by mariastella | 2011-02-16 08:40 | フランス

アラブ世界で起こっていること  その3 イエメン

イエメンとの仕事に最近挫折したフランス人ビジネスマンと話した。
仕事の挫折は最近の情勢と関係があるのかどうかと私は聞いてみた。

この人は確かに現大統領の家族とコンタクトがあったので、今の体制が崩壊するとすべてを失うことになるから、ビジネスがストップしたこと自体は後悔していない。

けれども、問題は、それよりも、カートにあったという。

カートは麻薬の一種で、イエメン人はカートの葉を朝からくちゃくちゃと口に含み始め、反芻するかのようにかみしめていて、午後1時頃になると多幸がピークになるので、ほとんど仕事にならないそうなのだ。

飲酒が禁じられているという事情があるとはいえ、とにかく町中でも家庭内でも老いも若きも1日中できるだけ長い間カートの葉をチューインガムのように噛んでいるらしい。

もちろんアディクションが起こることははっきりしている。

反体制を目指す若者たちのツイッターなどにカートの話題は出てくるんだろうか。携帯にも依存症という現象があるが、軽いものだとは言え比喩でない本物の麻薬中毒の状態で革命などできるのだろうか。

もっとも、カートは一種の覚醒剤なので、効いてくると怖いものがなくなるということで、革命などの意気昂揚のために有効なのだろうか。

ひょっとして、その背後に、自分はカートを全くやらないで民衆の行動を操作しようとしている一部の人間がいるのだとしたら、それも怖い。
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by mariastella | 2011-02-16 04:06 | 雑感

アラブ世界で起こっていること  その2 イランについて

今度の土曜日(2/19)、パリで、イランの故パーレビ国王(シャー)の次男であるアリレザの追悼式典がパーレビ未亡人であるファラ元王妃を中心にした関係者で行われる。

1月6日にNYでの彼の自殺を直ちに知らされた愛徳姉妹会のシスター・クレールはもちろん出席する予定だ。

11歳の頃からテヘランのジャンヌ・ダルク学校でファラの力となってきたシスターは、ファラの子供たちの中でもアリレザが特に優秀だったことを回顧する。

今93歳であるシスターは1979年に王(シャー)夫妻と同時期にイランを出てからもずっと彼らを陰から支え続けていた。

彼女が回想するのは、あのニューヨークの夜のことだ。

夫婦はイランを出てから、半年の間にエジプト、モロッコ、バハマ、メキシコとたらいまわしにされてきた末、1979年7月にメキシコでパーレビの癌が発覚した。手術の目的でニューヨークのコーネル医科センターに偽名で入院するために到着したのは10月20日、手術は24日だった。

ところが、その10日後、11月24日にテヘランのアメリカ大使館が襲われて人質にとられてしまう。

国王(シャー)一家の悪夢が始まった。革命政権は明らかに人質の解放と交換にパーレビの引き渡しを要求したのだ。

病院の前で、「王に死を」という叫びがやまず、当時13歳だったアリレザと8歳だったレイラ(2001年にロンドンで自殺)は恐怖と恥辱に震えた。放射線治療のためには、真夜中に起こされては地下通路を100メートルを息絶え絶えに歩かされて治療施設に赴かねばならなかった。その施設は数年前にパーレビの母を治療してくれたところで、王は百万ドルの寄付をしていた。

容態は悪化し、厄介な存在である王が治療中に殺されるのではないかと恐怖に怯えた彼らは中米のパナマに逃げた。

結局最初に受け入れてくれたエジプトに戻り、王は1980年にカイロで死んだ。

一家の忠実な友であり、保護者となったサダト大統領は翌年、イスラミストに殺害された。今回の民衆蜂起で去ったムバラクはその後で独裁者となったわけだ。

サダトを第二の父のように慕っていたアリレザは、さらなるトラウマを受けた。

アリレザは成長してからアメリカに居を構え、プリンストンで数学、物理、音楽学を専攻した後は、憑かれたようにイラン史にのめりこみ、コロンビアやハーヴァードで学位を得た。

兄のレザはNYにいるが、アリレザはずっとボストンを離れなかった。NYは瀕死の父を鞭打った場所であり続けたのだ。

44 歳で一人暮らしでピストル自殺を遂げたアリレザはアメリカで火葬された。

父を見捨て追いやったアメリカの地に埋葬することは問題外だった。
遺灰はファラがパリに持ってきて、2月16日のセレモニーの後で、カスピ海に撒かれる予定である。

ホメイニが1979年にイラン入りする前に、フランスに3ヶ月滞在したことがある。

その間に130 に及ぶインタビューが行われた。
そこでホメイニは、

新しいイランは表現の自由と宗教的マイノリティを尊重する完全で真実の民主主義国家となる

と繰り返し言明した。

無神論者のサルトルでさえ当時はそれを神の恩寵のように評価したものだ。
あの時点でホメイニは確実に「欧米」の支持を得ていた。

現在、当時のホメイニのインタビューや会見はすべて事前に提出されていたものであり、側近の委員会が答えを作成していたことが分かっている。

パーレビ国王(シャー)はイランの近代化を目指していた。その「近代化」は必然的に欧米出自の民主主義や人権理念に基づいている。19世紀半ば以来、イランのエリートは啓蒙思想やフランス革命のファンだった。

シスター・クレールは彼らのブレーンとして、コーランと聖書の共通点から普遍主義を引き出そうと白色革命に協力していた。

今エジプトで起こっていることは、彼女にとってデジャヴュのように不安を掻きたてる。

私は2月6日にタハリール広場で、コプトの司祭がミサを挙げて、その後ですぐにムスリムのイマムが結婚式を司式したことを話し、ムスリム兄弟団には社会政策はあっても人権だの平等だのに対する政策がないこと、イランの時と違って、若者がウェブでつながっていることを強調した。

また、ナセル時代に5年間投獄された元コミュニストで無宗教の作家ソナラ・イブラヒムSonallah Ibrahim( 2003年にカイロ文学賞を拒否して独裁政権を批判した)が、自分は今の若者が戦いもせずFacebookの依存症になっているだけだと未来を悲観していたので、このようなことが起こるとは信じられなかったと喜んでいることも話した。

そして、文明の衝突などと称してイスラムと西洋風民主主義が両立しないかのように、冷戦後の1990年以来、それまでの仮想敵だった共産主義をイスラミストにすり替えてきたメディアの弊害を話し、イスラムもキリスト教と同じルーツの普遍的救済を語る宗教であることを思い出させた。

民族や出自に関わらず、人は信仰によってあまねく救われるというのが普遍宗教であり、その「信仰」の中身や神の属性を都合よく変容させるのは人間なのだ。権力者が「神」の名を口実にする誘惑は大きい。

するとシスターは、そうそう、と言って笑い、敬虔なカトリックだったドゴールにまつわるジョークを披露した。

自宅の浴室でドゴールが裸になっていた時、ドゴール夫人がうっかりドアを開けてしまった。

「Mon Dieu!!」と夫人は言った。

「Pas entre nous.」とドゴールが答えた。

最初のは「あら、まあ!」という感じの「オーマイゴッド」だが、神のように崇められているのに慣れているドゴールは「私の神」と妻が呼んだのだと勘違いして「いや、我々の仲だから(神と呼ぶ必要はないよ)…」と答えたというのである。

アリレザの死以来落ち込んでいたシスター・クレールは少し元気になった。

イランの若者たちもリアルタイムで中東情勢を追っている。

これから情況がどうころぶか分からない。

93歳のシスターのオプティミズムが少しでもファラとレザの慰めになればいいのだが・・・
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by mariastella | 2011-02-15 02:22 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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