L'art de croire             竹下節子ブログ

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美とプロポーション Lucian Freud が死んだ

Lucian Freud が死んだ。

こういう絵で有名。

http://www.google.fr/search?q=lucian+freud&hl=fr&sa=X&biw=1280&bih=862&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=p9xYTvOKG6OimQWk3KSsDA&ved=0CCwQsAQ

Lucian Freudが数日前に亡くなったので、現存する画家で作品が最も高価に売れる人のランクが繰り上がることになる。

Lucian Freudと言えばエリザベス女王の肖像画、Lucian Freudと言えばジグムント・フロイトの孫息子。

すごく絵はうまい人だと思う。

でも絶対に言及されることを嫌っていた彼の祖父の名が、それこそサブリミナル情報のように、彼の全ての絵を性的な無意識界の表象のように見せてしまう。

それを言うのはタブーなのだ。

彼のモデルは全部彼の中で咀嚼され同化して、彼の無意識のフィルターを通して、くちゃくちゃとグロテスクなマチエールになって吐き出される。

でも、人間だけ、特に、裸の肉体だけが、贓物の再構成されたみたいないかがわしさを見せるのに対して、枯れた植物なんかは、昇華されたように美しい。たとえばこれ。

http://www.anglonautes.com/ill_paint/ill_paint_freud.htm

人間の裸は昇華の間逆だ。

枯れた植物は美しく見えるのに、肉体の解体と再構成には冒涜感が付きまとうのはなぜだろう。

近頃、向川惣一さんの博士論文『レオナルド・ダ・ヴィンチ-絵画理論とその原理に関する研究』を読んだ。

ダ・ヴィンチが、人体比例理論や線遠近法において幾何学的な作図システムを研究していたこと自体は、プラトンやピタゴラス学派と同じくイデアの世界に美を探していたからだと言えるだろう。

しかし、調和比例と黄金比の等比数列を同時に満たす『人体権衡図』の人体各パーツの比例による美というのは、果たして普遍性があるのだろうか。

それはルネサンスの頃のラテン人の基準かもしれない。文化が異なると人間の社会関係における美の評価が違ってくるのはよく知られている。日本の平安時代の引き目鉤鼻も有名だし、マサイ族とピグミー族ではプロポーションは明らかに違う。

人が円やら正多角形やらを美しく感じるのはかなり普遍的だし、顔や体のパーツの左右対称性を美しいと感じることもよく知られている。遺伝学的な説明もされている。

しかし、人間の肉体におけるプロポーションと美の関係には普遍的妥当性はないのではないだろうか。

また、たとえば数学者であるラモーが和声進行を数学的に理論化したこと、それをあらかじめ「知る」か知らないかで、音楽の受容=観賞の深度が天と地ほども変わって来ることと、絵画作品においてプロポーションの理論をあらかじめ「知る」ことの関係はどうだろう。

ダ・ヴィンチの絵を美しいと思うかどうかは、比例への感性の普遍性と関係するのだろうか。

では、ルシアン・フロイトは?

彼の描く超肥満の裸婦像の身体プロポーションは、勿論ダ・ヴィンチの「基準」を大きく逸脱する。

では、比例は別のところに適用されているのだろうか。

水墨画家に言わせると、水墨画における美を決める比率は白い部分と墨の部分にある。つまり面積比だそうだ。

明治の画家岡本月村(京都丸山派の流れ)が南画を修行した時の「模写」帖のコピーを彼のお孫さんからいただいたことがある。

人体について、勿論、骨格や筋肉の解剖学的アプローチはない。ではデッサンが不正確かと言うと、すばらしい。その訓練とはたとえばあらゆる姿勢の人体図をそのまま何度も写して描くことだ。うずくまる人間をあらゆる角度から、全体の塊として、膨大なプロトタイプをストックしておく。いつも、全体の塊としてインプットされる。子供の体もしかり。鳥の姿も。花も、木も。博物誌のようにあらゆる形や種類がひたすら模写される。

後は、どんな新しいものに出会っても、自分の中のストックから似たようなものを選び出してそのベースで描いていくので、新たな対象のパーツを「観察」する必要はない。選び出した「型」に対象の固有性のエッセンスだけ注入すればいいのだ。だから、速い。たちどころに読み取る。だから月村は優れた新聞画家でもあった。

その「美」はやはり、切り取られた「塊」をいかに配置するか、という比率にかかっているのだろうか。
色の濃淡を重さに還元してから徹底的に計算して色彩の面積比のバランスをとったクレーのような画家もいた。

視覚芸術と聴覚芸術において、比率や比例の意味するところや受容のされ方は大きく異なるが、それが受容する側にとってどの程度の「生理的快」に結びつくのかもまた変わる。

音楽におけるオクターヴやテトラコードの比率は物理的なもので、あらゆる文化に共通している。和声もある程度は共有できる。しかし、和声を永遠に繰り返される祈りのようなものから「解放」してそれにはじめと終わりを与え、「進行」の自明性を数式化しようとしたのが一神教文化の西洋にいたラモーだった。

一般に日本人も難なく音楽のグローバル化を受け入れるところから見て、そこにはある程度の普遍性がありそうで、現代音楽や前衛音楽が和声を否定し、調性から抜け出し、リズムを破壊したりすることによってなす挑発に対する忌避感もかなり普遍的だ。

それに比べて、絵画のほうはわりと簡単に抽象へ向かう。まず具象のテクニックを身につけて、それをだんだんと崩して、抽象にいたることが、何か一種の進化のように容認される。絵画が鑑賞者を浸蝕する力の方が音楽が鑑賞者を浸蝕する力よりも小さいから抵抗感がないのだろうか。

建築や彫刻のような三次元芸術との関係もある。

美はどこから来て、どこへ去るのだろう。
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by mariastella | 2011-08-29 20:52 | アート

Une Femme Nommée Marie

Robert Hosseinが、ルルドのロザリオのノートルダム大聖堂前で、『マリアという名の女』というメガ・スペクタクルを一回きりの無料公演するというのが、france3のテレビで生中継されたのを観た。

私は1983年に『:Un homme nommé Jésus(イエスという名の男)』をパリの Palais des Sports で観ている。

イエスが四千人の人々にパンを分ける奇跡のシーンでは、使徒たちが客席を走り回ってバゲットのかけらをみなに分けた。そのパンの味が、忘れられない。

ロベール・オッセンは、40歳でカトリックの洗礼を受け、「イエスもの」も何度も演出しているし、「ヨハネ=パウロ二世もの)まで演出している。

息子の一人Aaron Eliacheffはなんとユダヤ教のラビで、仏教徒の息子、イスラム教シンパの息子もいるらしい。宗教好きなアーティストって、フランスじゃけっこうめずらしい。

で、ルルドでのこの芝居は「聖母マリア」ものかと思ったら、一応ベルナデットが出てくるものの、洞窟のマリアに福音書の話をねだって見せてもらう、という形で、これまでの「イエスもの」のヴァリエーションになっている。

ヨルダン河での洗礼に始まり、ヘロデ王とサロメとか、山上の垂訓とか、ラザロを蘇生させるとか、最後の晩餐とか、十字架の道行きなど。

場所がルルドなので、舞台前には車椅子がずらりと並んでいる。

ルルドには、今でも毎年600万人の巡礼者が訪れ、そのうちの1割が「病者」として参加する人だ。

今は聖母被昇天祭が迫っているハイ・シーズンだ。

開演前にインタビューされたオッセンは、この芝居をこの場所で病人のために捧げるのが夢だったというようなことを言って、感極まって涙をためている。

信者かどうかは関係ない、人のために生きている人は神の手に抱かれている、といういつもの言葉を繰り返している。

彼が年とったことに驚いた。精力的なイメージだったのが、もう83歳だそうだ。

イエスの奇跡のシーンで、左右から病人とか障害者役の役者たちが、わらわらと、つまずいたり震えたりしながら舞台に出てくる。

なんだか居心地が悪い。

ユイスマンスがこれを見たらなんて言うだろう。

でもちろん全員が「奇跡の治癒」を得てとび跳ねながら退場する。

うーん。

いいのか、こんなんで。

あまりにも「べた」すぎないか。

オッセンって、ちょっと耄碌したんじゃないか、と思う。

金持ちが天国に行けない、ってきっぱり言われるところは痛快で、「無償で受けたものは無償で与えよ」と言われると、「命」もそうだなあ、とか、選ばれれて語られる福音書の言葉の要所要所には共感もするが、全体としては、どうよ、という感じが抜けない。

しかし例のパンを分けるシーンがあって、中央通路を進んできた使徒や群衆役の役者たちが、「分かち合い」とか言いながら観客にパンを分けて、観客が驚いて、ほほ笑みながら食べているのを見ると、幸せな気になる。

過去の私は金を払って観た客だったが、ルルドではすべてが無償だから、「分かち合い」もじーんとくる。

でも、それ以外は、あまり感情移入できない。

夜がふけてくる。

芝居の最後に、オッセンがナレーションでしめくくる。

「私たちには癒せない。でも私たちは、愛したり、助けたり、分ちあったりすることができる。まだ間に合ううちに。」

と、しわがれた声が響く。

このフレーズはルルドにぴったりだ。

芝居が終わって、それでも、感激して顔をくしゃくしゃにしているおじいさんもいるなあと思って見ていたら、何とそれがオッセンだった。

背が丸くなり、よろよろと立ちあがって、杖をついて、進み、舞台にゆっくり上がってくる。

イエス役が、手を差し伸べている。
オッセンを見ると、俳優がみな泣きそうになっている。

一番感動的なのは、あんただよ、オッセン。

ルルドはそれ自体が芝居の世界のような異界だから、この芝居が一体何を付け加えたのかはよく分からないが、オッセンの信仰が、ひたすら「与える」ことに向けられているのは分かるし、テレビを通してではなく実際にあの場にいたら、感極まって、病気が治る人も出てくるかもしれない?

「マリア」の出番は、イエスの物語の中にはまったくなくて、「看板に偽りあり」という気がするが、「キリスト教的公正」だからこれでいいのかもしれない。

私は自分が年とるにつれて、まだ30代前半であんな死に方をしなくちゃならなかったイエスがかわいそうでたまらなくなり、「あんたのために何かしてあげるから、待ってなさい」と言いたくなる。

釈迦が悟った後、80歳まで教えがぶれなかったのは分かるが、イエスって短い一生(のしかも最後の方)が激しすぎて、「神の子」だし、「子なる神」だし、後で復活するから大丈夫、という気にはなれない。

この芝居で残念だったのはイエスに笑顔がほとんどなかったことだ。

キリスト教の本当にいいところは、自由意思へのオプティミズムだと思うので、それをもっと伝えてほしかった。

「この世は夢幻」とか、「仮の世」とか、「神のお告げが下される」とかいう解決のし方ではなく、何かを求めて、あるいは何を求められているかを探しながら自分でちゃんと生きていく、というメッセージは、この芝居よりも、この芝居をこの場所で実現させたオッセンの姿を通じてよく伝わってくる。

神の手に抱かれている人、少し羨ましい。
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by mariastella | 2011-08-14 07:06 | 演劇



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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