L'art de croire             竹下節子ブログ

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『華麗なるフランス競馬--ロンシャン競馬場栄光の日』

『華麗なるフランス競馬--ロンシャン競馬場栄光の日』大串久美子/駿河台出版社

公式ブログ

  
馬と人と国家の物語で、フランスの近現代史を競馬の世界から照射したもの。

馬との関係を通して、イギリスとフランスの熾烈なライバル関係があらためて分かる。

フランスとイギリスでは、王家も貴族も、姻戚関係が複雑で、バイカルチャーの人も少なくないのに、イギリスから取り寄せた馬を交配させて「フレンチ・サラブレッド」を生産して勝負に勝つことが強迫観念になるなど、驚くべき宿敵へのこだわりがある。

そしてフランスでは馬の外見も大事で、「走るエレガンス」が目指されたというのも興味深い。つまり、両者は、単に似た者同士が同じ土俵で優劣を争う関係ではなくて、底にある価値観が違うわけだ。そして互いがそれをよく知っている。

フランスの馬術ではもともと速く走ることに特化された訓練はされていなかった。
馬術と剣術と踊りは騎士の三大訓練であり、美しい体の動きが最も重要視されたのだ。

これに対して、商業の発達していたイギリスでは馬の調教師も生産者も立派な商人で、競走馬は「走ること」だけに特化した商品であり、取り引きされる「財」だった。

フランス革命をはさんで、貴族たちや新興ブルジョワたちが馬にかける情熱は、いつも「対イギリス」のライバル意識と無縁ではなかった。

競馬はいつも「英仏対抗戦」だったのだ。

文化のほとんどのジャンルにおいて、フランスは、ギリシャ・ローマの伝統はありがたがるので、イタリア文化は進んで取り入れてそれを洗練させてフランス風にしてしまうが、アングロ・サクソンのイギリス文化にはどうしても負けるわけにいかないのだ。

ナポレオン三世下で第一回のパリ大賞レースが行われてイギリス馬が優勝し、フランス人は大失望した。
翌年に始めてフランス馬が勝ち、イギリスのクラシックレースでもフランス馬が勝つようになる。

15世紀にイギリス軍をフランスから追い出したジャンヌ・ダルクがナショナリズムの隆盛と共に国民的人気を得ていく時代である。

フランス国内では絶対にフランス馬がイギリス馬に勝たなくてはならない。

また、イギリス・ダービーをアウェイで制覇することは、ナポレオンにとってたったひとつ不可能だったイギリス上陸の夢を実現することに等しかった。

1865年、創設以来86回目のイギリス・ダービーで、始めてフランス馬グラディアトゥールが優勝した。

イギリスのスポーツ紙は

「本当にイギリスのものである唯一のスペクタクル、我々が独占していたダービーは、もはや終ってしまった。」

「我々は、武力によって戦争に負けた方がましだったと思いたくなるくらいだ」

などと書いた。

イギリス皇太子主催の晩餐には、ダービー卿も、ワーテルローでナポレオン軍を破ったウェリントン将軍の息子も出席していた。

グラディアトゥールは「ワーテルローの復讐者」という異名をとった。

グラディアトゥールの勝利を知ったフランス人たちは涙を浮かべて「フランス万歳」と連呼したという(もっとも調教師も騎手もイギリス人だったのだが)。

グラディアトゥールはイギリスで三冠王となり、パリ大賞でも勝った唯一の四冠王となった。競走馬としてのキャリアにおける19戦中の16戦で優勝した。

しかも、「君主のような優雅さ」で走った。

おもしろいのは、グラディアトゥールは引退してからイギリスの牧場に売られて種馬として過ごしたのだが、高い種付け料にかかわらず、フランスに操をたてるかのように、速い子孫を残さなかったことだ。14歳で安楽死を施された。

亡き名馬の蹄の一つと皮の一部はフランスの競馬教会に寄贈され、イギリスのジョッキークラブは国立競馬博物館で尻尾を大事に保管した。聖人の聖遺物保存と似ている。

時代を遡り、「アルプス越えのナポレオン」の肖像で有名な白い馬は、エジプト遠征の時に捕獲したマレンゴという名馬だった。五時間続けてギャロップで走ったとか、空腹のまま80キロ走ったとか神業の伝説がある。

しかし、そのマレンゴも、ワーテルローで傷を負った。

マレンゴはイギリスに連れていかれて手当てされ、ある将校に買い取られてナポレオンの死後も11年生きて、38歳で死んだ。

この馬も、種馬としては良い子孫を残さなかった。

しかも、どんな雌馬を使っても、生まれてくる馬はみな成長すると白くなる芦毛馬で、イギリス人にとって悪夢のようなナポレオンを思い出させた。

このマレンゴの骨格はロンドンの軍事博物館に収蔵されていて、ひづめの一つを灰皿に加工したものがセント・ジェームス宮殿の士官食堂に保存されているそうだ。

フランスの四冠馬グラディアトゥールやナポレオンの馬マレンゴへのこの異様なフェティッシュな執着も、英仏間の確執の深さを思わせる。

今やフランスの凱旋門賞は世界で一番崇高なレースとなり、フランスのジョッキークラブが世界一格調高いクラブになった。

しかしいまだに英仏では競馬施行規約が異なっていて、判定などに影響を及ぼしている。

日本はフランス式を採用している。

フランス式は走行妨害があった時など、「被害馬」に有利なように採決される。弱肉強食タイプのアングロ・サクソンとのメンタリティの差がある。

日本は何でもアングロサクソン追従かと思うが、フランス革命が採択したメートル法を採用したように、フランス式を選択することもあるのだ。

しかし、空手や柔道の国際協会の本部が今はどちらもパリにあるように、フランスは仕切るのが好きな国なのだ。競馬の世界でも施行規約の統一が審議されている。

この本は、フランス競馬にまつわる興味深い歴史の他に、もちろん現在のフランス競馬の様子や仕組みも書かれている。また、日本からフランス競馬に参加したディープインパクトのレースに多くの日本人ファンがつめかけたことで、フランスが日本の競馬を国民的スポーツだと感心したことも書かれている。

それが、2011年の東日本大震災のチャリティにつながった。

著者のブログの記事を引用しよう。

http://turffrancais.seesaa.net/archives/201104-1.html


 「4月17日、日曜日、オトゥイユ競馬場にて、「仏日連帯デー」なるものが催されました。
競馬協会フランスギャロが、地震・津波の被災国、そして「競馬大国」日本に対する連帯の気持ちを表すために企画したものです。

この日はもともと入場無料だったのですが、「入場者一人あたり5ユーロ(約600円)を協会が日本のための寄付にまわしますので、ぜひ大勢でおいでください」という呼びかけでした。よく晴れた気持ちのいい日曜日(しかも復活祭の休暇中)で、大入りでした。私はテレビ観戦でした。

この日のイベントレース(*)には、「共和国大統領賞(G3)」が指定されていました。国家元首を称えて二旗のフランス国旗がスタンド席の屋上にはためいていましたが、それらと並んで、日本の国旗もやはり二旗かかげられており、「連帯」のイメージがよく出ていました。
また、その「共和国大統領賞」のレースが始まる前に、コースでは日本の大国旗が広げられて、場内に「君が代」が流れました。
……ぐっと来てしまいました。
コースに出てきた出走馬全頭のゼッケン番号の下には、小さな日の丸とJAPANの文字が入っていました。
在仏日本国大使の齋藤泰雄氏も招かれており、このレースの後で謝辞を述べられました。

義援金は、最終的には競馬協会が少なくとも5万ユーロは準備することになっていました(結果的に入場者数で5万ユーロは突破したということです)。さらにそれにPMU(馬券業務団体)が5万ユーロを上乗せし、合計では10万ユーロ以上が日本国大使館を通して日本赤十字社へ寄付されます。

これで終わりではありません。競馬協会としての日本支援企画はこの回が第一回目で、これからいろいろと続いていくのだそうです。」


英仏の関係、日仏の関係、実に意外な示唆に富んでいて興味深い。

フランス史や文化に関心のある人なら、フランス革命から恐怖政治、その後のナポレオン帝政、王政復古やら共和制復活やらナポレオン三世時代など、フランスの激動の時代が、まったく別の肉付で脈動するこの本を読むことで得られる情報やあらたな気づきはたくさんある。

今まで「名前」でしかなかったフランス史上のいろいろな人物を、馬への情熱を通した体温と共にインプットし直すことができる。

著者が言うように、フランス革命も七月革命も、ナポレオンの敗退も産業革命も、みな競馬への情熱を抜きにしては語れない、という気にすらなってくる。

ぜひ、お勧めの一冊。
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by mariastella | 2011-09-30 00:07 |

横浜トリエンナーレ

9月の上旬、横浜のトリエンナーレに行った。 

3年前の秋、新港ピアでのインスタレーションなどがわりとおもしろかった。

http://spinou.exblog.jp/10264922/ 

そこで 「直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。」となどと書いたが、少なくとも、エネルギーやテンションはあった。 

今回は、そのエネルギーも減っていた。

メインが新港ピアのかわりに横浜美術館。

なぜかというと、民主党政府の予算の「仕分け」で、国際交流基金から横浜トリエンナーレへの支出がカットされたからだそうだ、それでもトリエンナーレを救うために横浜市ががんばって美術館を提供したわけだ。

前回のタイム・クレヴァスに続くテーマは

Our Magic Hour

ということで、タイトルのセンスは相変わらずいい。

でも、どこか、ちょっと残念でしたね、と言いたくなるようなコンセプチュアル・アートがほとんどだ。

ハインのスモーキングベンチなんて、アトラクションパークにおいたら誰にも見向きもされないんじゃないか。

映像作品でじっくり見たのはシガリット・ランダウの「死視」で、死海に五百個のスイカと全裸のアーティストがぐるぐる巻きになっているのがほどけていく。
スイカのいくつかは割られていて、真っ赤な実が見えているのが鮮烈だ。数珠繋ぎの渦巻きがゆっくりとほどけていく具合を上から遠くながめていると、一種倒錯的な魅力にとらえられる。

観客が言葉を並び替えて参加できるノイエンシュワンダーの作品は、日本語のバージョンもあって、「シゴトガホシイ」などという文が残っていたりするのは「はっ」とさせられる。駅の掲示板みたいだ。ゴルゴ13への依頼が紛れているかもしれないな。

GPSをつけた人がホーチミン・シティや横浜などをひたすらランニングする軌跡をドローイングと映像作品にしたものもあった。こういうのは私には苦手。

日本では、他にももっと伝統的な絵画展もいくつか見に行った。工芸すれすれの油絵もあった。3・11以後にスランプになった後、猛然と製作再開したという人も少なくない。

一点一点では気にいったものもあったが、こんなことなら3年前のトリエンナーレのノスタルジー(母と行くつもりでいたのがその数日前に倒れて、私は結局葬儀の前に一人で訪れたのだった)にとらわれずに、練馬区立美術館の礒江毅展のリアリズムの洗礼をうけておくべきだった、と少し後悔する。

フランスの大統領選に向けた社会党内予備選挙では、オーブリー女史が文化予算を大幅に増やすと言い、この赤字財政の中でそんなことをいうのは無責任だとオランドが批判していた。文化の擁護とプロモートはフランスという国のアイデンティティに関わるものだから財政が苦しい時にこそ切り捨てないでほしい。
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by mariastella | 2011-09-29 01:38 | アート

帰仏する機内で見た映画

帰仏する機内で見た映画

帰仏する時に使ったのはエール・フランス機だったので、前に触れた

1.La Conquête

の他、

2.Omar m’a tuer
3.L’élève Ducobu
4.La femme du 6e étage
などのフランス映画を観ることができた。

2.La Conquêteでサルコジ役の俳優が、Omar m’a tuerでオマールの復権に駆け回る作家役で出ているのが不思議な感じだった。
Omar役の俳優はオードリー・タトゥ相手のラブコメディvrais mensonges

ttp://spinou.exblog.jp/15681851/

で、勝ち組のインテリ青年を演っていた人なので、フランス語もうまく話せない移民の犠牲者役をこなすうまさに驚いた。

「文法の誤りを含む血まみれのダイイング・メッセージ」というこの事件は当時すごくうわさになったので私もよく覚えているのだが、文法が間違っているのだから書いた方も「フランス語弱者」なのかもという印象を持っていた。実は被害者はインテリだった。

けれども、確かにちょっと考えてみたら、まだ死んでないのに「オマールが私を殺した」なんていう長い文を必死で壁に書くなんて変だ。たとえ名前だけを書いたとしても、何かの遺恨があったり、残った家族に警告したかったりするならともかく、たかが庭師である「オマール」の名を自分の血で残すような切実さは理解できない。変なところがありすぎる。

先日はアメリカのジョージア州で、20年前に白人の景観を殺したとされる黒人男性が死刑を執行された。物的証拠がなく、当時の証人の9人のうち7人が撤回したと言うのに。 州の判断に連邦大統領は口出しできないらしい。

フランスでは、死刑がないから、ともかく無実の罪で殺されることは避けられるし、大統領恩赦(オマールはこれで解放された)もある。それでもオマールと支援者らは完全な「復権」を求めている。

3.次の小学校が舞台のものは、まあマンガのようなものなのだが、メガネの優等生の女の子や、デブの劣等転校生など、日本なら、マンガの笑いよりいじめの対象にならないかと思うようなカリカチュアで、これも「お国柄」の違いを感じさせられた。

4.La femme du 6e étage
は、思いがけない人気で話題になった映画だ。
考えてみると、イタリア移民やポーランド移民、ポルトガル移民に比べて、スペイン移民というのははっきりした「顔」がない。この国のフランコ政権の時代が、独特の影を落としていたのだとあらためて分かる。

アメリカ映画では、ジョディ・フォスター監督でメル・ギブソンと共演している
5.The Beaver

があり、軽い気持ちで見たらブラック・コメディなので驚いた。
主人公が「鬱」になった理由がまったく分からないのだが、その奇想天外な自己セラピーの方法や、それが通用するところとしない所が明暗くっきり分かれて、なかなか鋭い寓話になっている。
幼い子供にはすんなり受け入れられるのに、当然だが高校生の息子には蛇蝎のごとくに嫌われる。
そして、それをあくまでも治癒に向かうステップとしてポジティヴに見ていなかった妻にとっては悪夢となる。

メル・ギブソンってこんなに名優だったんだ。

さらに軽い気持ちで見た
6.Xmen 

の方は、こういう特撮アクションSFみたいなのは、この種のゲームをやりつけてる人でもないと本気で見れないんじゃないかと思った。ニューエイジ風の優生思想でもある。こういうミュータントはある種の人々の見果てぬ夢なのだろう。

キューバ危機や核戦争の可能性など、ノスタルジックであると共に、世界にはまた同じような核抑止のにらみ合いが残っているわけで、アメリカとイランの間に核攻撃誤認防止のホットラインを引こうというニュースをつい最近聞いたばかりである。

この他に、夏にフランスで『Super8』を観た。ETにインスパイアされていると言うがサイズがちょっと・・・

『クローバー・フィールド』みたいな趣向でもある。
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by mariastella | 2011-09-28 00:09 | 映画

日本行きの飛行機の中で見た映画から

まずアメリカ映画

1.Water for elephants /フランシス・ローレンス

おもしろかった。1930年代のアメリカという設定、サーカスという国際的な無法地帯、主人公がポーランド移民の子で、ポーランド語ができて、無能だと思っていた象がポーランド語で芸を仕込まれていたことが分かった驚きだとか、すごくいい味の人格障害者である団長(Christopher Waltz)の妻との恋とか、ハッピーエンドとか、
エンタテインメントのよさが全部そろっている。

2.ミッション :8ミニッツ Source Code /ダンカン・ジョーンズ

列車の爆破事故の現場に何度も戻って過去を変えられるのか。
時間はいつも8分しかない。最後のオチもショッキングで、こういうのをSF・テクノスリラー 映画と言うんだそうだ。ソースコードを経由して、パラレルワードに何度も侵入して、「過去を変える」というより「世界を変える」ことができるかが真のテーマなんだろう。飽きない。

3. Limitless/ニール・バーガー監督/
 ブラッドリー・クーパー、ロバート・デ・ニーロ

別れた妻の弟から、脳の潜在能力を100%引き出す薬を手に入れた男が出世していくが副作用にもおそわれる。ロバート・デ・ニーロは悪役。
アディクションの悪夢でもあり一種のミュータントものでもある。薬がなくなったらどうするのかと思っていたら、金さえあれば薬学者を雇って分析させて製造だってできるんだという盲点や、効果だけ残してアディクションから脱する方法だって考えられる。結局、能力も健康も手に入れるので、ビルドゥングス・ロマンにもなつている。

4.きみに読む物語The Notebook/ニック・カサヴェテス

2004年の映画なんだけれど、これを、JALの機内でもう3度も見た。
まあ、「身分違いの純愛」ストーリーの一種なんだけれど、言い難い魅力がある。純愛が何十年経とうと、相手の記憶がなくなろうと、確固として続く、ということのリアリティが毎回身にしみる。

この4本を見た後で、日本映画を見ようと思って

阪急電車 片道15分の奇跡

というのを見た。

私にとっては梅田から宝塚歌劇場へ行くために乗る宝塚線はなじみがある。

映画の中の今津線と言うのは西宮北口から宝塚だそうで、2003年の公演で神戸に泊まっていた時に、仲間を連れて宝塚歌劇を見た時に使った記憶がある。だから親近感がある。

展開する話はみなテレビドラマみたいで、すごく日本的で、やりきれない。大学生のカップルの間での暴力とか、有閑マダムの食事会の全体主義とか、男に捨てられたので結婚式で嫌がらせしようとするキャリア女性とか、なんとなく、女性の側にかかってくるひずみばかりだ。

日本文化のガラパゴス化という言葉を思い出してしまう。

それでも最終的には打たれ強い女性たち、という話なのだけれど、高校でも大学でも小学生も未亡人も、キャリア・ウーマンも、主婦グループも、日本人が集まるところはみな、人間関係が大変だなあ、とあらためて驚く。

移民問題も、若者の暴動も、セキュリティの問題もなくても、人が平穏に暮らせるとは限らないのだ。
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by mariastella | 2011-09-27 01:20 | 映画

Habemus Papam

Habemus Papam

監督Manni Moretti/ 主演Michel Piccoli

カンヌではわりと評判がよかった。

でも、中途半端でがっかりした。

ヴァティカン、スイス衛兵、緋色のマントの枢機卿群、システィナ礼拝堂でのコンクラ―ヴェなど、フォトジェニックで壮大な装置だけなら、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』のような荒唐無稽の話の映画でもじゅうぶん楽しめるのだが、この映画は、「ローマ法王もやはり人間」とか「何歳になっても自由を選択できる」というような妙にヒューマンな筋立てになっているので、かえって説得力がない。

コメディだと割り切って笑うには、ミシェル・ピコリがあまりにもうまいので、実存的なシリアスな感じもする。

法王がお忍びで巷の精神分析医の所に行くのは、なんだか、『キングス・スピーチ』を思わせる。

いまどきのローマ法王は、みな超インテリだし、そこまで上り詰める人たちはさぞ精神的にも強靭だと思うので、老齢で選出されたからといって突然動揺して鬱になったりするという設定が、正直言って非現実的だ。

懐疑にとらわれた法王、というテーマだとは知っていたが、まさか、バルコニーに姿を出す時点で拒否反応が出た設定だったとはね。

フランスの大統領が「心配だ」と声明を出したり、ブラジルの大統領がバチカンに向けてやってくると決めたり、笑えるところもある。

この映画では舞台役者も、ジャーナリストも、テレビの解説者も、みな、突然自分のしていることに自信を失うシーンがいろいろ出てくるので、「自信喪失」が一つのテーマなんだろう。

それでも人々が無邪気に新法王を祝福するのが心温まり、それなら、それに力づけられて何とか不安を克服した、というエンディングにしておけばいいのに、なまじ「自由の宣言」のような終わらせ方をするから、おとぎ話として後味が悪い。

この映画を見たパリの大司教が、選出されてすぐ後のスピーチでイエス・キリストに触れない法王なんて考えられないから、そこのところが一番不自然だった、と言っていた。イエスのいない教会、永遠の生を信じない信仰はカリカチュアでしかない、とも。

監督はカトリック雑誌のインタビューを受けて、「枢機卿たちが祈っているシーンも撮影したのだが最終的にカットした、彼らが祈ることは誰でも知っているから」と弁解していた。

私はミシェル・ピコリやベネディクト16世と同じ年くらいのカトリックの神父さんたちとも親しいけれど、みんな驚くほど気持ちが若々しくて生き生きしている。

仲良しの90代のシスターも元気いっぱいだ。「老後の生活が一生保証されているのだから安心して、倒れるまで働き続ける」という感じだ。

老人性の鬱になったりパニック障害になったりするようなタイプの人はもうずっと前になっているんじゃないだろうか。

「カトリックの偉い人」はできるだけ「機嫌よく生きる」ことが肝腎だ。

「福音」

を、宣べ伝えるのだから。
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by mariastella | 2011-09-26 02:00 | 映画

末廣亭

9月の初め、久しぶりで新宿の末廣亭に行った。

いつも変わらぬ世界だが、今年は「地震の時、私と家内は・・・」などという前振りがあったのが「今年らしい」感じだった。こんな古い建物、地震が来たら大丈夫かと思うが、出口はすぐそばだから怖くはない。

ここにいると、島国共犯意識というのがひそかに共有されていて、そこはかとない差別や偏見が野放しになっている。昔モンゴル人力士の本名ばかりずらずら並べて見せて笑いをとっていた人もいたが、そこでも少し後ろめたく感じたし、外国人ばかりじゃなく女性差別やら「そこの奥さん」差別も平気で口にされる。

確かに、こういう寄席に来て楽しめる人というのは日本語能力が高くなくてはいけないから、自然と「日本人御用達」になる。

他の伝統芸能と違って、ただひたすら「言葉」だけの世界だから、外人観光客や文化研究者にも敷居が高いだろう。
日本人が何年欧米に住んでいても、政治や時事の風刺のトークショーなどになかなかついていけないのと同じだ。

それでも、こういう閉鎖空間ならではの約束事がきっちりあって、それを無視するものは排除される。

落語の途中で誰かが舞台の前を腰をかがめて横切って退場したのだが、すかさず、「これが海老蔵の舞台だったら、ファンに殺されてますよ」と高座からコメントがあった。

その少し後で、どうやら酒の入っていた人が、前列から何度か口をはさんでいるのが聞こえ、演者が「前座さん、つまみだしてください」と促し、結局その人がちょっとふらつきながら自分で出ていくまで、断固とした調子を崩さなかった。

その後で、元に話題に戻すのはなかなかつらそうで、自分でもそう言っていた。

で、残った人は、家族だけ、という雰囲気に。

でも、実は、どれもこれもあまり手放しで笑えなかった。

女性の芸というのも、なんだか痛々しいと思う。

江戸家猫八の娘さんの江戸家まねき猫の、ものまね枕草子というのも、よくできているのにちょっと物悲しい。

芸人には、多くの人がちょっと自虐的なネタを出すのに躊躇しない人が少なくないが、男性芸人なら笑えてしまうところでも、女性芸人では笑えない時がある。
他の観客はどうなのだろう。

違和感をいろいろかかえて、私はこれからも寄席に行き続けるのだろうか。
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by mariastella | 2011-09-25 00:47 | 雑感

團十郎と海老蔵

9月初めに大阪の松竹座で「九月大歌舞伎」を観た。 

いつのまにか東銀座の歌舞伎座が工事中で閉鎖していて、新橋演舞場や京都の南座にも適当な演しものがなかったからだ。去年の夏は赤坂アクトシアターで勘三郎を観たが、今年は大阪で海老蔵と團十郎が出ているのが分かったので。

最初が『悪太郎』で、大酒飲みで周囲に迷惑をかける酒癖の悪い悪太郎が坊主となって踊るという話だ。昨年酒の上でのスキャンダルで謹慎していた海老蔵がそれを演るのだったらすごいなあ、と思っていたら、さすがに違って、右近だった。

2003年に国立劇場の楽屋でプログラムにサインしてもらったことを思い出す。

橋弁慶を踊るシーンで被り物が落ちて、黒子があわてて座った姿勢で出てきて松の後ろに隠れてつけ直していた。その間をもたせるために智蓮坊の猿弥が替って踊っていた。こういうアクシデントはめったに見ないので処理の仕方に興味を持った。

最後に松之丞と太郎冠者も加わって四人で踊るのだが、コントルダンス風になっていておもしろい。念仏踊りってバロックかもしれない。

次に三幕四場の『若き日の信長』で、海老蔵が出てくるのだが、久しぶりの海老蔵のカリスマ性と力量に驚いた。

信長の放埒を戒めるために抗議の切腹をした忠臣の死を知って慟哭するシーンの迫力は半端なものではなくて、客席の人の半分は本当に涙を流していた。何というか、海老蔵のキャラクターとぴったりだし、激情を凝縮して吐き出す感じがあまりにも堂に入っていて、天才だと思った。

こんな役者なら、確かに、酒の不始末程度で葬り去られてはいけない。

最期は『河内山』で、御数寄屋坊主の河内山宗俊が團十郎で、彼に騙されるのが息子の海老蔵だ。
團十郎はなかなか味がある。サービス精神にあふれた演目だ。海老蔵は、見ている方が、信長の強烈な印象を消しきれないので少し違和感があったが、この親子は贅沢な組み合わせだと思った。

彼らの前の世代の親子役者の共演も昔はよく観たが(梅幸と菊五郎とか、勘三郎と勘九郎とか、先代の幸四郎と染五郎とか、先代の鴈治郎と扇雀とか)、あの頃より世代間の差の雰囲気が変わっている。私の立ち位置が変わったせいだろうか。

昔は「親子」共に私よりは年上だったが、今や、私と親とはシンクロして、息子の世代の方は別の生き物に見えるので、かえって「世代の差」など感じられない。

こういう体験ができるのも、歌舞伎などの世襲アートならではのおもしろさかもしれない。
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by mariastella | 2011-09-24 00:33 | 演劇

les mains sales de J-P. Sartre サルトルの『汚れた手』

先週、2か月ぶりに Théâtre du Nord Ouest の政治劇シリーズを観に行った。

前回はパトロンであるJean-Luc Jeener演出の『カリギュラ』(カミュ)だったが、今回は彼自身が出演している『汚れた手』(サルトル)だ。

Jean-Luc Jeenerの書いた戯曲、演出したもの、出演しているもの、いろいろ観てきたが、神学者で演劇人という彼のアンガージュマンがますます手に取るように分かってきた。

この芝居では彼は、過激派労働党でリアル・ポリティクスに向かって、純粋派の同志から命をねらわれるエドレールという党首の役だ。

こういう形でのヨーロッパのコミュニズムとか、サルトル世代のエリートには切実だった「ブルジョワ青年の労働者との共闘」などのテーマは、正直言ってもう古い。それなのに、それがそのままで、政治理念と暴力の関係という今も通用する普遍的テーマが浮かび上がってくるところは、サルトルに力量があったのか、これを今上演するJeenerらの手腕なのか、どちらだろう。

Marta Corton Viñals はバイリンガルのスペイン女優で、軽いのか思慮深いのかバカなのか頭がいいのか分からないブルジョワの若夫人で夫を一応愛しているジェシカ役で「爆発」している。

全ての役者の力量が伯仲している。

しかし、開演直前までいつも通りチケット売り場に立っていたJeenerは特別だ。

私との雑談の中で、自分の父親はジャーナリストだった、とか話していた。

もうつき合いが長いので、ちょっと家族のような気がする。
そんな彼が芝居をするのを見たらうまく距離感が保てるだろうか、と、ちらと思った。

とんでもなかった。

彼が役になりきって変身していた、と言うのではない。

その、ちょっと猫背で、けれど優雅な物腰も、
相手のセリフを受けて、「あ、」と合いの手を入れる感じも、
まるで、普段のJeenerそのものであり、芝居の中のHoedrerの方がJeenerに変身しているのだった。

過激派の党首というより修道院長だ。

しかも、若くてきれいなブルジョワのジェシカが、本気で惹かれてしまうのが納得できるほどに、セクシーで魅力的に見えてくる。

それだけではない。

全体がちゃんと、彼の標榜する「キリスト教劇」になっている。

キリスト教はサルトルの強迫観念だったのだろうか。
それがフランスで「無神論者」となることの必然なのだろうか。

しかし、こういうセリフを書けるということは、それがこうして演じられているのを実際に見てはじめて、美男とは言えないサルトルがずっと女性たちにもて続けていた理由が分かる気がする。

女たらし、というより「人たらし」だったんだなあ。

楽譜をいくらながめても、実際に演奏家が演奏しないと、音楽は生まれてこないというのは実感だ。演奏家が楽譜と出会って新しいクリエーションがある。

けれども、戯曲というのは、上演されなくとも、読んだだけで文学として成立する部分があるから、作者と読者の間ですでにやり取りが完成する。
と、思っていた。

戯曲は読んでも理解できる、あるいはアート体験が可能だと思っていたのだ。

しかし、演出家や役者や、役者の体や声や思想がここまで戯曲を新しくクリエイトするのだとは思わなかった。

そう、役者の体や声だけではなく、「思想」が戯曲の「質」を変換したり新しい命を吹き込んだりすることもあるのだ。

私もJeener も、最初の半生がサルトルの時代と重なる世代だ。

しかし、私がフランスに来たのはすでにサルトルの最晩年に近く、彼の芝居も観に行かなかったが、フランスに住んで最初の10年は、演劇でのセリフが一句一句すべてキャッチできるわけではなかった。

だからjeenerのサルトル体験と私のサルトル体験は、さぞやかけ離れているだろう。

でも、Jeenerの芝居小屋での『汚れた手』は、私たちを同じ地平に立たせた。

私とJeenerとサルトルとの3人だ。

そして、その3人をとりまく、今ここの世界の情勢も。

芝居の力は、すごい。
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by mariastella | 2011-09-23 01:33 | 演劇

最近手にした日本語の本

今回日本で買って持ってきた本の一部

1.『世阿弥の稽古哲学』西平直 東京大学出版会

2.『新宗教と巨大建築』五十嵐太郎 ちくま学芸文庫

3.『摩擦との闘い - 家電の中の厳しき世界』日本トライボロジー学会 コロナ社

4.『人はなぜだまされるのか』石川幹人 ブルーバックス

5.『予想能』藤井直敬 岩波科学ライブラリー

脳は情報を予測する装置として進化したことや、法則発見機能の進化などは、それを期待する人間の心理と共に興味深い。


日本にいるうちに読んだ本の一部

1.『働かないアリに意義がある』長谷川英祐 メディアファクトリー新書

集団と個の最適関係というのはおもしろい。

利他的行為の進化の説明の一つに、怪我などの一時的コストも周りからの尊敬などで改称し長期的には得をして最終的な適応度が高くなる、などがあった。修道会などの独身集団でこういう適応をするとしたら、それは個の適応ではなくてグループの適応ということになる。

「家」の存続のために切腹したりするのも似たようなもの。

「完全な適応」が生じれば進化は終わり、全能の神となる。
それはどのような環境でも競争に勝てる、という意味らしい。

だとしたら、「神」、ちょっと、むなしい。

2.『原発事故、放射能、ケンカ対談』副島隆彦、武田邦彦 幻冬舎

母親が子供を心配する気持を利用して煽動するのかどうかとか、女は社会性ゼロとか、陰謀論風の言辞とか、一見、副島さんが挑発的で武田さんが穏健で誠実に見える。

副島さんが、「武田さんは東大の教養学科をご卒業です。この教養学科というのは、理科系と文科系が混ざる特殊な英才教育をする所だというぐらいのことは、私でも知っています。」として、世の中には、学部学科の出身の区別がトーテムのようにある、と言っている。

教養学科は進学の偏差値が高くて、第二法学部とか言われていたが、「特殊な英才教育」という見方があったんだろうか。

それでも何となく親近感を覚えて武田さんの略歴を読んだら、カバーの方には誤植があって、「基礎科学科」が「基礎学科」と書いてあった。

トーテムという文脈でいうと「基礎・学科」というのは意味をなさないし、「基礎科学・科」でないとまずいかも。まあ当時は「教養学部・教養学科・基礎科学分科」という名前だったのだろう。

ここを卒業したら内部じゃエリートで就職率も高いのだけれど、「教養学士」というなんだか中途半端なおバカな肩書きになって、外部の「専門家」から指さされ続けたりすることもあるかもしれない。

まあ武田さんは順調に出世して、副島さんからも「英才教育トーテム」などと評されているわけだ。それはともかく、原子力事故が複数あればそれを「横断的に見なくてはならない」と言うように、俯瞰的に見ることで全体の理解を深めていこうという姿勢などは、いかにも「教養学科」マインドを持ち続けているのだなあ、と思う。

3.『東北地方太平洋沖地震は"予知"できなかったのか? - 地震予知戦略や地震発生確率の考え方から明らかになる超巨大地震の可能性』佃為成 サイエンス・アイ新書

予知、予測、予報、予言の違いやメカニズムを、東北沖大地震をなぜ予知できなかったのかという観点ら説明したもの。筆者は地震予知の専門家。

これを読んでいたら、次の東海大地震より西南日本大地震の方が怖くなってきた。しかし長期予知とか確率のルールとかを見ていくと、毎日の生活ではやはり、「偶然」とか「運命」とか「ランダム」という言葉に落ち着くしかなさそうだ。

日本を離れて地震リスクの少ない国にずっと住んでいる日本人たちの「地震に対する心象」の実態は、日本にいる日本人とはだいぶ違うのではないかと思う。でも、誰もそれを敢えて分析しようとはしない。

屈折している。

今はそれに放射汚染まで加わった。

心の整理がつかないで動揺している人は、少なくない。
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by mariastella | 2011-09-22 05:18 |

フランス社会党のことなど

先週は社会党の大統領候補予備選挙に名乗りを上げている6人のTV討論があった。うち2人はマイナー候補で、今のところ、優勢なのは前々党書記長のフランソワ・オランド、前書記長のマルチーヌ・オーブリー、前回の候補でサルコジに破れたセゴレーヌ・ロワイヤル、二重国籍やら中途国籍取得の問題で今や「スペイン人」のアィデンティティが有名になってきたマニュエル・ヴァルスの4人。

DSKのスキャンダルもあったし、今のところ社会党にもうんざりしているので、原発についての態度のニュアンスの差に興味を持った程度で、政治的なことはここで書かないが、4人とも、人間関係やキャラが濃すぎる気がする。

なんだか「痛い」人たちも多いし。

今朝のラジオで誰かが、「2人のEX(元配偶者)が…」と言っていたが、オランドとロワイヤルは、4人の子がいるカップルだったのに、前回の大統領選でロワイヤルが敗退してから別れた。そのタイミングなども微妙な気がした。

威勢のいいロワイヤルに比べて、元ダンのオランドの方は、政治家ネタのカリカチュアの世界では、これまで何年も何年も「優柔不断で臆病」なキャラとして、しもぶくれの顔に半開きの口をとがらせて「う、う―」と口ごもる役割を振られていた。

ところが、新しいパートナーを見つけ、ダイエットして、今や精悍で権威のあるキャラにイメージチェンジしている。その過激な変化は違和感がある。多分もともと野心のある人だったのだろうけれど、「外見」がマッチしていなかったのだろう。

で、翌朝のラジオでは切って捨てたように、

「オランドは大統領、オーブリーは首相、ヴァルスは内務相、ロワイヤルは賞味期限切れ」

と評した人がいて、それもやけに当たっているような気がしてショックだった。

5年前にDSKを破ったロワイヤルは、一体なんだったのだろう。

前回の大統領選をめぐってのサルコジを描いた映画

La Conquête ( Xavier Durringer 監督)

を最近見たのだが、そこで、サルコジはロワイヤルとのTV討論の時に、「できるだけ落ち着いて相手にしゃべらせて、向こうを攻撃的な悪者に見せろ」という作戦を採用したことになっている。

そこには、女性が「口角泡飛ばして」熱弁することへの、ネガティヴなイメージの共有がある。

で、先日の討論ではロワイヤルは影が薄くて、オランドとオーブリー女史が熱弁をふるったのだが、新聞などで、

オランドについてはそれが「combatif」(闘争的)と評され、

オーブリーについてはそれが「agressive」(攻撃的)と評されている。

男にとって「戦闘態勢に入っている」のは、「覚悟が決まっている」、という感じで、女が「攻撃的」なのは「ギャーギャーかみつく」という含意が、絶対にぬぐいきれない。

サルコジはと言えば、まだ出馬も正式に表明せず、国内ではおとなしくしていて、リビアに行って、ベンガジではもちろん英雄扱いで感謝の絶賛を受けていた。 サルコジは「利権について何の下心もなく、するべきことをしただけ」とわざわざ強調。

とにかくこれで軍事行動が一応終結するなら、最悪の結果からは逃れられそうだが、シリアやイエメンはその後どうなったのだろう。

世界をいい方に変えるのは、力の衝突では、不可能だ。

DSKもNYでの逮捕劇以来4ヶ月後にTVでインタビューを受けていた。

NYの刑事裁判は起訴が取り下げられたが、パリではまだ予備調査段階で,過去の愛人の娘から訴えられているのに対して「キスをしたかっただけ。キスをしたくなるのはフランスでは犯罪ではない」ともどこかで答えていた。

で、TVでは、女性に対する自分の軽さに対して、この数ヶ月で反省して、これからはその軽さは永遠に失った、と、深刻な顔をして語っていた。

この「軽さ」というのは「弱さ」にも近い。

ある男性に対して「女性に弱い」と使う形容は、特別なものではない。

しかし、「女性に弱い」という言葉の裏で、実際は「力」による関係の強要を迫る人も多い。

DSKのように金と権力を持っていた男が、それを知っている女性にアプローチする時、自分が「軽い」だの「弱い」だの、「合意だった」だのというのは、欺瞞でしかない。

それでも、女性に対する弱さや軽さは、政治家としての「能力」とは別ですから・・・という話法で通し、それが何となく通用してしまうのは、フランスだけなのだろうか。

どんな「力」も、暴力となる可能性がある。

政治の世界でのアピールが、さまざまな形で、結局、「力の誇示」に着地点を求めるのは、そらおそろしい。
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by mariastella | 2011-09-21 18:16 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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