L'art de croire             竹下節子ブログ

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真実は人を自由にするか(承前)

前記事の「真実は人を自由にする」について、カトリックの見方を質問してきた方がいたので、もう少し敷衍しておく。

前教皇のヨハネ=パウロ二世の教勅に『Veritatis Splendor(真理の輝き) 1993/8/6』というのがあって、そこ(64)には「良心の自由は真理を無視した自由ではなく、真理の中にだけいつもある」とある。

この「良心」というのは、「善悪を見分けるために備わっている知識」から「自意識」まで使われるconscientiaから来た言葉だが、日本語だと「良」心に限定される感じで分かりにくい。

ここでは、「真理が自由にする」ということを別の角度から見て、世にはびこる「自由」至上主義が「好き勝手なことをしてもよい」方向にいかないように、むしろ「真の自由」とは何か、と問いかけているのだ。

これも、日本語の「自由」という言葉は「自らに由る」という「自分が基準」の感じがあるから、分かりにくい。

「なにものにもとらわれない状態」というのは、自他の利害の対立や権利義務の拮抗などを超えた、集合的な命全体の流れの中でのみ成就されるという意味なのだろう。

その底には、人にはそういう「真理」を感知する能力があって、それを行使すれば、「自由に」人生を「善」の方に向けることができるという確信があるわけだ。

この「真理」は、表面的ないろいろな対立や視点の相違を超越したものだから、ある家庭の事情で今、家族関係が実はどうなっているかというような「現実」とは関係がない。むしろ理念に近い。実際、近代理念というものは、欧米キリスト教国が(神の)「真理」から「神」を削除または希釈したものだと言える。

「事実は真実の敵(かたき)なり」

というのはドン・キホーテの有名なセリフだ。

「事実が真実をつつみ隠すこともある」

この場合、事実を事象と言い換えた方が分かりやすいかもしれない。
私たちが感知する事象は、事実の「相」であって、本質ではない、というように。

「一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことだ」

なかなか含蓄のある言葉だ。

といっても、ドン・キホーテにとっての「あるべき姿」は騎士道世界の「幻想」なのだから、「戦い」は「風車に突進する」ような馬鹿げたものとなる。

ドン・キホーテは自分の「幻想」世界の「捕らわれ人」となっているのだから、それを信じて「自分勝手に」振る舞っても、それが「真の自由」の行使とは言えない。

ドン・キホーテを「正気」に戻そうと、司祭や学士があれこれ策を練る。

17世紀初頭、宗教戦争がまだおさまらないヨーロッパはキリスト教にとっての危機の時代なのに、スペインでは、レコンキスタ以来のカトリックがさまざまな宗教的公正にのっとった「真理」をしっかり掌握していた。

人々にとっては、その真理を吟味するよりも、新大陸に進出する欲望やエネルギーの方が優先する時代だったのかもしれない。

何が、誰にとって、「真理」なのか「幻想」なのか、見分けることは難しいし、見分けることを要請しないような社会も時代も状況も存在する。

それでも、「現実」や「真実」との「折り合い」のつけどころというのは、その時々にあるわけで、それをうまくインスパイアしてくれるのは、宗教の聖典よりも、ある種の文学作品だったりするのかもしれない。
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by mariastella | 2011-12-30 08:47 | 宗教

ロバート・B・パーカー 『晩秋』

ロバート・パーカーのスペンサー・シリーズの『晩秋』は名作と言われる『初秋』でスペンサーが救った15歳の少年ポールが10年の時を隔てて、行方不明の母を見つけるためにスペンサーの助けを求める話だ。

ポールはスペンサーや精神科医のおかげで、「自立」や「自律」の道を歩み、最後の母離れ(母が自立していないで、見かけばかりの男にばかり依存している現実を受容する)をこの作品で果たすことになっている。

敵対するギャングの方の父子関係にも「息子の自立」をめぐる判断の誤りや親の煩悩による悲劇が展開する。

この作品ではスペンサー自身がどのような育ち方をして「大人の男」になったのかというような話も出てくるのだが、なんといっても、この話のクライマックスは、ラストに近いこのやりとりだ。

母親を直視してその現実を知ったことは進歩だと評価するスペンサーに対して、ポールは、

「真実が人を解放する」

と、怒りを含んだ口調で言う。するとスペンサーが

「必ずしもそうとは限らない。しかし、《偽り》は絶対に解放しない」

と答える。その後、ポールはスペンサーの方を一分間ほど見て、さらにビールを飲んでから、にっこり笑い、

「モルトはミルトンより役に立つ」
「人に対する神のやり方を正当化するのに」

と言って、大人になる通過儀礼を終了したことが分かるのだ。

私はもちろんここの部分に反応した。それについて書こうとして、はじめて文庫本のカバー(自分でつけていたもの)を外したら、元のカバーの表紙絵の下に、その部分が英語で書いてあった。

“The truth will set you free, ” Paul said.
His voice was angry.
“Not necessarily,”I said.
“But pretend sure as hell doesn’t do it.”

                   
ここが表紙カバーで引用されているのは誰の選択なんだろう。
Amazonの英語版の表紙には見えない。

で、この部分だが、言わずと知れた福音書の超有名部分で、イエスの語った言葉だ。

私の好きな言葉でもある。

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書31-32)

ここの「真理はあなたたちを自由にする」が有名なので、ポールは、

「母の真実の姿を直視するのはつらいけれど、それによってぼくは母親のくびきから本当に解放されて自由になれるんだよね」

と自分に言い聞かせているわけである。

ところがスペンサーは

「必ずしもそうとは限らない。しかし、《偽り》は絶対に解放しない」

と、言ってやる。

聖書の解釈学や神学の中でも、「人を自由にするのは真理だけとは限らない」などという言説もあるし、何よりも、この福音書の場合の「真理」とは「神の言葉」の中の真理なのだから、たとえば、「偶像化していた母親の真実の姿を見てしまった」というような「真実」なのではない。

スペンサーは、まず、普通に使われているような紋切り型の「生活の知恵」としての聖書の言葉を「必ずしもそうとは限らない」、と相対化してポールを軽く驚かせたのだ。

その後に続けて 「しかし、《偽り》は絶対に解放しない」と「父のお告げ」を下す。

この「偽り」とは、pretend sure as hell で、「はっきりしないことを絶対確実だと言いきる」という感じだから、確かに福音書のイエスが蛇蝎のごとく嫌った唯一の悪徳である「偽善」にも通じる。

ここでスペンサーが言いたかったのは、

「真実を知ったからと言ってそれが君を自動的に解放するわけじゃない、けれども、真実から目をそむけて、思い込みにとらわれていては、君は決して自由になれないんだ」

ということで、つまり、

「君が真に自立するかどうかはこれからの君にかかっているんだ。でも、ひとまず、不都合な真実を直視したことで、第一歩は踏み出せたんだよ」

と言いかえられる。

ポールは、すぐにはその意味を解せずに、スペンサーを1分間ほど見た。
さらにビールを飲んでから、にっこり笑い、

「モルトはミルトンより役に立つ」
「人に対する神のやり方を正当化するのに」

と言ったのだ。

ここでは「モルト」maltと「ミルトン」Miltonの音の遊びもあるのだが、ミルトンは『失楽園』の詩人で、スペンサーやポールの生きるキリスト教文化圏においては、人間が神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べたことで楽園を追われたというイメージを定着させた。

「善悪の知識の実」というのは「真理」を探究したいとか「真実」を直視したいという人間の欲望のようでもあり、それをそそのかしたのが悪魔で、「pretend sure as hell」のように、所詮、人間が浅知恵で「真実」だと確信することなど、「地獄」からの誘惑のレベルなのかもしれない。「真実」は常に「神のみ旨」にしかないのだから、何が真実だとか、自分が真に自由かどうかなど、本当には分からないのだ。

無言でスペンサーを見つめた1分間で、ポールの脳裡にはこういうことがいろいろ浮かんだのだろう。自分でその場で考えなくても、キリスト教文化圏では何度も繰り返されるようなことである。それでも、その本当の意味を人生のしかるべき時に咀嚼できるかどうかは、それこそ、「神のみぞ、知る」である。

ポールは母離れという試練に際して、まず、紋切り型の「真理は人を自由にする」で自分を慰めようとした。しかしそれでは、これからのポールのさらなる試練を乗り切れないと見たスペンサーが、より深い神学的な人間性の洞察を口にしたわけだ。

で、ポールが最終的にキャッチしたのは、「この試練に何が何でもポジティヴな意味づけをするのはひとまずやめよう」、というメッセージだった。

彼は、自分の誠意が母親に伝わらなかったこと、母親が下らない男を選んだことに対して怒り、しかも、自分の母離れ、「自立」の名目でそれを受容しなくてはならないことを不当で不条理だと思っている。そのような「神のやり方」はとても受け入れられないのだ。

しかし、その「神のやり方」を敢えて受け入れるのには、いくつかの方法がある。神のやり方を理屈で意味づけて「正当化」することも、一つの方法だろう。
そして、信頼できる人間といっしょにビールを飲んで、「ああ、うまい」と思えることで、とりあえずの充実を感じて前に進むのも、また、別の方法なのだ。

どんな不条理なことが起こっても、誰かがsure as hellで「神のみ旨」だと言い張ることで他の人々を悲惨な境遇に閉じ込めるという歴史は形を変えて、どの国にもどの文化にもあったし、今でもあるだろう。

それに抵抗するためには、「人を自由にしない真実は見せかけの真実である」と唱えることが必要な時もある。

自己正当化へのあくなき欲求や、神の意志を代弁する理由なき自信や、他人の自由を侵蝕することでのみ完全になると思われる自分の自由・・・

それらのどの罠からも解放されて「自由」に生きることは、簡単なことではない。

信頼する人と飲む一杯のビールだとか、愛する女とチェリイ・パイを食べるとか、いうことを聞かない犬と遊んでやるとかなどが、本当の自由への嗅覚を保つ秘訣なのだと、『晩秋』は繰り返し語っているのだ。

原題が『PASTIME』であるのは、それと無関係ではないだろう。

(But pretend sure as hell doesn’t do it.では、「絶対に確か」だというふりをするのが「偽り」なのだが、翻訳では、「しかし、《偽り》は絶対に解放しない」と、「絶対に」は「解放しない」にかかっている。最初の聖書の文が持つ紋切り型の絶対性がぴんとこない日本人向けの翻訳として、後の方に「絶対に解放しない」と持ってきたのは絶妙のさじ加減だと思う。だから、あえてこの部分をカバーに載せているのかなあ、とも想像してしまった。)

(追記:カバーの英語引用にタイピングミスがあったので修正しました。指摘してくれたYCATさんありがとう。)
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by mariastella | 2011-12-29 02:20 |

『ルルドの泉で』

★『ルルドの泉で』12月23日(金)よりシアター・イメージフォーラムにて公開!

http://lourdes-izumi.com/

オーストリアの女流監督ジェシカ・ハウスナーによるオーストリア、フランス、ドイツ合作映画。

主演はシルヴィー・テステューで、「信心が足りない」人がなぜか奇跡の治癒の恵みを受けるとどう反応するかというおもしろい役柄にぴったりのキャストだ。

試写に行った人から、「ルルドがこんなに大規模なお祭りの様相を呈しているところだとは知らなかった」という感想があった。もっとひっそりしたイメージだったのかもしれない。

この映画は全編ルルドでのロケなので、雰囲気はかなりよく分かる。

ルルドをテーマにした映画はいろいろあって、「水浴」とか「洞窟」のシーンがまったくパロディになっているコメディまである。

1987年のジャン=ピエール・モッキー監督の『Le Miraculé(奇跡の治癒者)』が最たるもので、ジャンヌ・モローなどそうそうたる配役なのに日本では公開されていない。本物のルルドが知られていないのにパロディは分からないと思われたのだろう。

私はこの年には、まだルルドに行ったことがなかったので、ユイスマンスやアレクシス・カレルのルルド紀行によって培われたのが私のルルドのイメージだった。
映画のセットがジョークだとは分かっていても、大洞窟風呂のようなセットや、コインを入れて「告解」するシーンなどに驚いた記憶がある。

その後いろいろなドキュメンタリーのビデオを手に入れたので、ルルドの変遷を視覚的にもたどることができた。それでも実際にその地に足を運ぶと、テンションの高さに圧倒された。

後に『奇跡の泉ルルドへ』(NTT出版)という本を書くに至ったのだが、モッキーの映画を見ていなければひょっとしてあれほど熱心にルルドに関心をいだいたかどうかは分からない。

実際にルルドに行って驚かされるのは、病気や障害というタイプの不幸や試練を前にした時の人間の絶望や希望や諦念や怒りなどの重さと、それらを突き抜ける別の次元から吹いてくる風の実感だった。

そこでは生と死や健康や病に対する「外界」での条件付けがラディカルに無化されていて、パーソナルに背負っているものが相対化されてしまう。

私が今興味を持っているのは

Nimatullah Youssef Kassab Al-Hardini (1808-1858)

というレバノンのマロン派の聖人で、ヨハネ=パウロ二世に列福(1998)列聖(2004)された人物の列聖認定の時に認められた「奇跡の治癒」の話だ。

このことについて詳しく書こうと思っているのだが、日本語では聖人の名が何と表記されているのか検索しても一向に出てこない。

この時の奇跡の治癒を受けた人は、19歳で末期の血液癌だったので、運動障害や痛みなどと違って、それが「治癒」したかどうか、即座には自分でも分からなかった。検査されていくら治ったと言われても、信じられなかったという。
ヴァティカンでの審査はほとんど拷問のように感じるくらいに厳しかったらしい。
この人は今はマロン・カトリックの司祭なのだが、子供を難病で失った母親などの嘆きを前にする時など、どういう言葉を発するべきか大いに悩むという。

どうしてある人は奇跡的に救われ、ある人は救われないのか。

長いスパンで見れば、どちらの人も、「生まれた」ことと、遅かれ早かれ「死ぬ」ことでは共通している。

エントロピーに対抗しながら生と死が繰り返される大きな流れの中にいるのだ。

治癒を求める「祈り」の中にはそういう大きな流れと一瞬接触する契機のようなものがあるらしい。「神秘」との邂逅である。

『ルルドの泉で』では、人間は素晴らしくよく描かれているのに、そういう「神秘」の視点は描かれていなくて、それが残念だ。
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by mariastella | 2011-12-23 06:01 | 映画

フランスで聞いた北朝鮮の世代交代

今朝(12/19)のラジオで(Europe1)、北朝鮮の金正日の死のニュースを聞いて驚いた。

後継者の金正恩のことを、「日本人の母」の息子とはっきり言ったからだ。

さっそく日本のwikipediaで調べると、母親は1950年、大阪の鶴橋生まれの在日朝鮮人で1961年に家族7人で北朝鮮に渡ったとあった。その父親はプロレスラーで、北朝鮮でも柔道の指導者になったらしい。

正恩の母は舞踏家になり、金正日と結婚して2人の息子を得たが、2004年にフランスで亡くなっている。正日は彼女のことを「あゆみ」と日本名で呼んでいたとか・・・

正恩はスイスのローザンヌに留学したのでフランス語は堪能、とあった。漢字を勉強しているが日本語の能力は分からない、と。

北朝鮮のことはさすがにフランス語より日本語の情報の方が信頼できるだろうと思う。

それでも気になって夕方の公営放送2chのニュースを見たら、そこでもまた「日本人の母親」と言っていた。その言葉をわざわざ付け加えるというのが、どれほど微妙なことなのかフランス人には分からないのだろう。

フランスのwikiを調べてみると、さすがにそんなことは書いていないで、母はKo Young-Heesという元ダンサーでパリ郊外Villejuifの癌研IGRで乳癌で亡くなったとだけある。

本当にわざわざフランスで治療を受けていたというなら、正恩のフランス語の人脈が関係しているのだろうか。

スイスはローザンヌではなくベルンのインタナショナルスクールGümligenにPak Cholという名で留学し、さらに公立校LiebefeldにPak Unという名で在籍し、英独仏を操るようだ、とあった。

日本語の能力ことは書いていない。
しかし11歳まで日本にいた母親には日本の人脈もあるだろうから、ひょっとして日本語も分かるかもしれない。日本語情報には、母と共に東京ディズニーランドに来たこともあるとか、拉致されてきた日本女性とコンタクトがあったような噂さえ出ていたが、どうなんだろう。

フランスの新聞はどう書いているかと思って『ル・モンド』の電子版を見てみたら、東京にいる特派員がインタビューに答えていた。さすがに「日本人の母」という言葉などは出てこない。

「日本のメディアは控えめなのでありきたりのコメントしかない」と特派員のPhilippe Mesmer氏が答えている。

「スイスで学んだのなら、世界に向けて開けているのではないか?」

と質問されて、

「金正日だって1970年代にマルトに留学して英語を学んでいる。それが政治に影響するとは思えない。」という趣旨のことも言っている。

フランスは北朝鮮と外交関係がないのだが、サルコジに派遣されたジャック・ラング(この組み合わせがまた不自然なのだが)のピョンヤン訪問の後、この9月に「協力事務所」というのが開設されている。すでに北朝鮮で活動しているフランスの複数のNGOと共にフランス文化を広めるというのが目的らしい。

北朝鮮は資源はある国だから、今後、風向きが変わった時のために、窓口を設けておこうという策かもしれない。

実際は、カリタス・コリアをはじめとするカトリック系の福祉団体の活動が最も顕著だ。ピョンヤンにはカトリック教会が三つあり、ちゃんと信者が集まっている。


そこでは共産党員だという人が、信教の自由は憲法に明記されていると話している。

韓国のカトリック教会や司教団は充実しているし、フィリピンのように植民地として宗主国の影響でキリスト教化した国と違って、昔から宣教者が活躍して迫害されつつも信教の自由を拡大してきた、アジアで最もキリスト教の盛んな国になっている。

フランスのパリ外国宣教会の影響も大きい。北朝鮮にはそういう、キリスト教やカトリックつながりの「フランス語」人脈があるのは間違いない。

在日朝鮮人だった金正恩の母親が日本ではなくて遠くフランスで癌の治療を試みた背景にも、多分そういうものがあるのだろう。

「アラブの春」は若者たちの自由への渇望によって幕を開けた。
金正恩は、まだ20代という若さだ。そんな国際派で、スイスやヨーロッパの空気も味わった人なら、最初は身動きが取れないとしても、何年か後には何かが少しずつ変わってくるという可能性もなきにしにあらずだ。

日本は、植民地問題、拉致問題、など、複雑で難しい問題を抱えているが、何か別の突破口が開けないとは限らない。

これからの若い世代が、憎しみや警戒心や攻撃欲でなく、自由や連帯や平和の希求にうながされて、世界を今よりもよくしてくれればいいのだけれど。
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by mariastella | 2011-12-20 07:15 | 雑感

オノレ・フラゴナール

南仏のGrasseで買ったFragonardの香水を一つ持っている。
ネーミングで選んだ。
『BAROQUE』という。

このフラゴナールの家系のオノレ・フラゴナールが、パリ郊外にあるアルフォール獣医学校にある有名なミイラ騎馬像を作った人だとは知らなかった。

Arteのドキュメンタリーで、香水を調合している兄が、花の香りを「生命の香り」だと言って、弟の解剖する動物の死骸は腐敗臭しかない、と言う。すると弟は、それこそ生命の香りかもしれない、と言う。彼は解剖によって動物の生命の神秘に迫っているからだ。

騎馬像も、人と馬の筋肉を比較することと、その「標本」が「死」でfなくて「生命」を表わすための演出だった。

この人は、解剖と生命の仕組みの内部を再構成することに情熱を注いだ。最初はルイ15世下で王立の外科アカデミー、国家資産ともいえる馬のために設立された獣医学校での実技講義、やがてそこから追われて個人の博物コレクションであるcabinet de curiositésのための標本作り、さらに、フランス革命後に獣医学校の標本をはじめとしてフランス中の解剖標本の保存のアドヴァイザーなど、怒涛の18世紀を、ひたすら、解剖標本作りで駆け抜けたのだ。

後に盛んになるロウ細工の標本でもなく、ホルマリン漬けの病理標本でもなく、フラゴナールの仕事は、アートとまでは言えないとしても明らかに彼の「美意識」に貫かれていた。

こういう仕事が自由にできていたということから、当時のカトリックには「建前」主義はあっても「原理主義」はなかったのだなあ、とあらためて思う。
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by mariastella | 2011-12-19 01:15 | 雑感

『造物主の掟』

ジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の掟』を読んでいると、キリスト教文化圏の宗教と科学の対立的歴史観や無神論や進歩主義がどれほど普遍的な「物差し」になっているかがよく分かる。

とことん考え抜くのは多くの人には時間がかかり過ぎるから、イエス・キリストからカール・マルクスまで、すばやく効果を上げた人たちは、民衆を啓蒙するより条件づけた、

とか、

現世でりよい生活を望むよりも来生で報われると信じさせてきた、

とかいう切り口も、いかにもという感じだ。

アメリカがニューエイジの洗礼によって新しい蒙昧に入って、日本や中国やインドやアフリカ(!)などのプラグらティズムに負けた、という近未来観も、この本が書かれた1980年代初頭の空気を反映している。
日本は宇宙進出でもアメリカと肩を並べていることになっている。

第一、この近未来(2020年頃?)では東西冷戦がまだ終わっていないし、ソ連への牽制や米ソ核戦争の可能性などがまだ続いている。

慣性式核融合発電で熱核宇宙船を飛ばしているという状況も、「フクシマ以降」の今の時点で読むと感慨を覚える。アメリカは日本からトカマク反応炉を輸入していることになっているのだ。
欧米諸国は、消費財の新たな開発のために、無批判で消費する愚民操作をしたので力を失っている、インテリの間ですら各種「陰謀論」が氾濫しているという設定だ。

しかし、このような欧米人も、ヨーロッパの中世末期からルネサンス・レベルであるタイタン星人を前にして、

「地球上での過去の帝国主義の過ちを繰り返さず、タイタン星人らの『集合的知性』が成熟するまで見守ろう」

という啓蒙的な「上から目線」を獲得するのだ。

ホーガンはがちがちのアングロサクソンだから、こういう視点は無理もない。

しかし、壮大なSF作品というものが、ここまで、科学哲学、歴史哲学、政治哲学によるバイアスを抜きにしては成立し得ないという事実に、当然ながら、軽いショックを受けた。

知性のある生物が進化するにあたって、宗教や科学観、自由や世界観の拮抗、すなわち「進歩のし方」が、必ず地球の「欧米型」の歴史をたどるであろうという自明性への違和感だ。
地球の人類における近代以降の「進歩」の型は、宗教としてかなり特殊なキリスト教と切り離せないというのに。

ホーガンはそれをタイタンでも普遍的な発展であるのように描き、そこに、わざわざキリスト教っぽい「非暴力」や「隣人愛」を説くことで彼らをさらに「啓蒙」しようというシナリオを書く。

理念としてのキリスト教と、「キリスト教」の中でキリスト教を否定することで紡がれた「西洋近代」の視点とが分けられていない。

ホーガンは日本でも人気作家だったらしい。

もちろんハードSFとしての着想のユニークさはイデオロギーと関係なく光っている。

機械人間にとっては自らの機械構造が最後の神秘で、外部にある有機体を「道具」として開発している途中だとか、異種間のコミュニケーションについて、それぞれ固有の感覚器官によってキャッチして再構成した「現象」を見るのでなく「関係性」を分析していくのだという発想も説得力がある。

しかし、SFが、ひとたび異星とか異星人とか、百万年の時のスパンや進化について語り始めると、それは結局、人類とその歴史をどの視点からどう評価するかという俯瞰的な思想の上に展開することにならざるを得ない。

欧米人にはそれでいいし、そもそもSFが拠って立つ「近代科学」が「欧米」系なのだから、それを採用している日本人にもそれでいいのだろうか。

イスラム圏の人やアジア・アフリカの少数民族の人などには、とてもユニヴァーサルとは見えない設定だと思うのだがどうなのだろう。

私はユニヴァーサリズムの信奉者なので、それがまず「地球人」をどのように連帯させられるものなのかをあれこれ考えなければ、「異星人」の物語に心から参入できなくなってしまった。

逆に、宇宙や「異星人」との関係に思いをはせなければ、この地球でのユニヴァーサリズムは成就しないだろうとも思う。

『ビッグコミック』でホーガンの『星を継ぐもの』をコミック化したものを読んだことがあるが、そうやって一度「絵」にしてしまうと、ますます「哲学」が見えなくなる。私たちが宇宙的な広がりを持つ思想を展開できるのは、やはり、「想像力」の中でしかない。
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by mariastella | 2011-12-18 03:45 |

最強のふたり Les intouchables

話題の映画 『Les intouchables』のことを書こうと思ったのだが、今大成功をおさめているこの映画を見ていない上に、タイトルをどう訳そうかと迷っていた。

思い立って監督名をカタカナにして(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)からネットで検索したら、何と、「最強のふたり」という邦題で、11月の第24回東京国際映画祭でサクラグランプリを獲得していた。

http://mainichi.jp/tanokore/cinema/

「事故で首から下が麻痺してしまった富豪と、介護役の黒人青年との、実話に基づく交流を映画化した作品で、主演したフランソワ・クリュゼ、オマール・シーは揃って最優秀男優賞も受賞」らしい。

フランスでは興業的成功が第一の話題だ。

その上、フランス在住の日本の方による詳しい内容説明があるブログを見つけた。

http://pepecastor.blogspot.com/2011/11/blog-post_10.html

くわしい内容を知りたい方はそちらをどうぞ。

で、私はこの映画を見ていない。

バロック・バレーの知り合いが少しだが出演して、観に行った仲間が「よかった、絶対に行くべき」と言ったので、迷ったのだが、貧富の格差と障碍の有無で立場がまったく違う二人の友情など、あまりにもお手軽な感動シチュエーションだと思って抵抗があった。

それに、差別の問題や格差の問題が日常にあるこの社会で、ある意味でラディカルな状況をフランス人がみんないっしょにブルジョワも失業者も、インテリもドロップアウト組も、右翼も左翼も笑いころげて感動することで連帯の気分になる偽善性も嫌だったのだ。

すると先日、ヒットしたフランス映画のアイディアをリメイクすることが少なくないアメリカ映画界の反応が新聞に載っていた。

この映画は人種差別映画だと批判されている。

「黒人奴隷が白人の主人を楽しませる」というテーマはアメリカではよくあった、というのである。

やっぱりなあ、と私は思った。

フランスの「本土」ではいわゆる「黒人奴隷」という歴史がほとんどないので、この映画でもそうだが、黒人はアフリカから経済的その他の事情によってやってくる移民や難民というのが一般イメージである。もちろん「差別」はあるのだが、奴隷制やら植民地やら強制連行やらホロコーストなどといったフランス側の「罪悪感」には直結しない。だから、フランスで黒人の「不良」が白人の貴族の富豪と仲良しになる話をしても、「政治的公正」の刃でもろに切って捨てられるリスクはない。

それまで、「みんなが勧めるいい映画」であるこの映画を、うちの家政婦さん(白人フランス人女性)だけが、「私は絶対に見に行かない」ときっぱり言っていた。

いわく、この金持ちは、重度障害者の手当て(700ユーロ未満)を国から受け取っている。金で買えないものはない。金さえあれば、24時間体制で全て世話してもらえて、パラグライダーもできるし、旅行もできるし、幸せになれるのだ。不愉快だ。
金がなくて障碍を抱えている者を馬鹿にしている。

私はおずおずと、

「そりゃ、貧乏で障碍があるのは悲惨よ。でも、大富豪で首から下が麻痺していてあらゆる世話をしてもらえるよりも、誰でも、貧乏で元気な方がいいんじゃない。だから、映画見てる人は誰でもそれなりのカタルシスを味わえるのでは ?」

と言った。

確かにそれだけ金があるなら、私なら同じ障碍の人のための施設を創るとか別の連帯を考えると思うけど…

すると家政婦さんは、テレビでこの映画のモデルとなった「主人」と「介護者」を見た、障害者手当をもらっていると堂々と言ったのはその富豪で、幸せいっぱいそうだった、すごいエゴイストだ、と言った。

おまけに、現実の介護者は、アフリカ黒人でなく、フランスでは最も「郊外」の移民ゲットーで問題を起こし差別もされているマグレバン(アルジェリア、モロッコ、チュニジアという旧植民地や保護領)の若者なのだそうだ。
この映画が実話に基づいていることは聞いていたが、介護者がアラブ人だとは知らなかった。

なるほど。

今のフランスで、「郊外のアラブの若者」が「パリの白人の富豪」と友情で結ばれるというストーリーをそのまま映画にしたら、アメリカでの反応と同じくかなりの「政治的公正」の琴線に触れていただろう。で、ビジュアルにはもっと対照的で、けれども政治的歴史的にはややプレッシャーの少ない黒人をもってきたわけである。

しかし、アメリカ人の目から見ると、微妙以上のリスクである。

すると家政婦さんとその話をした日(12/13)の夜、たまたま、テレビ(2ch)で、この映画のモデルになった2人のドキュメンタリーをやっていた。

なんというか・・・

すごいのは、この重度障害の富豪貴族duc Pozzo di Borgoのキャラクターだ。

この人の中には、アブデルという介護者に出会う前から、独特の強烈なバイタリティとオプティミズムがある。ソルボンヌで一目ぼれした妻を癌で失って落ち込んだが、アブデルに助けてもらえたのは事実だ。

自分がパラグライダーの事故にあって寝たきりになってから3年後に妻が死んだ。その亡くなった妻のことを話すだけで泣いている。彼の生涯での一番の苦しみは、自分の事故や障碍でなくて、今でも、「妻を失ったこと」なのだ。

障碍に関しては、他の障害者に向けて、全身麻痺でも「人生を楽しめる」というメッセージをちゃんと出し続けている。

家政婦さんの言ったように「金さえあれば」というのでは反発されるだろうが、この人には独特の、天然の明るさがあって、「私は楽しく生きている」と言われると、みな、惹きつけられてしまうのだ。

アブデルの方はフィリップ・ポゾ・ディ・ボルゴと出会えてラッキーだった普通の人だ。とても頭がよくて性格もいいが、相手次第では冷酷にもなれそうな男だし、皮肉屋でもあり、コンプレックスと裏返しになったつっぱりや顕示欲もある。フィリップ・ポゾ・ディ・ボルゴのような稀有の男と出会ったチャンスを見抜く力もあり、信頼を得る力もある。

彼はフィリップを取り巻く人々の偽善を感知し、フィリップがそれらと一線を画することも感知した。

アブデルは、頭のいい普通の男だが、フィリップの周りには絶対いないタイプであることは事実である。

フィリップは、病気の妻が子供を産めないのを慰めるために2人の養子を育てた。この、ぜいたくに育った養子がそもそも、いわゆる白人ではない。この娘の方がアブデルを差別の目で見ていたようだ。それも実感がある。アブデルはそれにも敏感だ。

なんだか、映画を見ずに私が感じていた違和感の正体が次々ととけていく気がした。

興行収入の一部は障害者支援に回されるというので、そのうち見に行ってまた感想を書こう。
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by mariastella | 2011-12-16 02:39 | 映画

ユーロ危機とフランス

サイト http://setukotakeshita.com/

の掲示板にユーロ危機に対するフランス人の反応について質問があったので答えました。

http://6318.teacup.com/hiromin/bbs?

興味がある人はそちらを見てください。
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by mariastella | 2011-12-15 23:05 | フランス

Le pouvoir de l'Amourのその後

先日の記事

http://spinou.exblog.jp/17153366/

で、Royerのオペラバレー 『Le pouvoir de l'Amour』の台本作者がフランス語のWikiによるとC.H. Le Fèvre de Saint-Marcという人で、プロローグの内容が素晴らしいのに他に台本を書いていないので変だなあと思っていることを書いた。

すると、トリオの仲間のHが、

http://operabaroque.fr/ROYER_POUVOIR.htm

によると、台本作者は長い間C.H. Le Fèvre de Saint-Marcと思われていたのだが、実はl'abbé de Voisenonだと判明しているのだと教えてくれた。

それでl'abbé de Voisenonを検索すると、11 歳の時に韻文でボルテールに手紙を送ったという伝説があるくらいの文才があり、教養もあり、僧籍はあるがいかにも啓蒙時代の作家で、音楽もMondonvilleのための台本もいろいろ書いている。

納得。

その『Le pouvoir de l'Amour』からHが、プロローグの最後を締めくくる二つのメヌエットと、別のパサカリアとを私たちのトリオのために編曲してくれた。メヌエットはミオンのものにも似ている。華麗だ。

シャコンヌにはぎょっとさせられた。

近頃、ミオンのパサカリアと比較するためにデュフリーのチェンバロ用のシャコンヌを練習していたのだが、デュフリーの一番いい部分が出ている清らかですがすがしくて新鮮でかつダイナミックな曲だ。

ミオンの曲はどれもみな素晴らしいが、デュフリーやモンドンヴィルには平板な曲も多くて、何を選択するかの選択眼が不可欠だ。私たちはHが厳選したものをぜいたくに弾いている。

モンドンヴィルの新しいものではルールを一つ。

で、Royerもチェンバロ曲を主に作曲した人なのだが、このLe pouvoir de l'Amourが、台本の素晴らしさは別として音楽的にどんな感じなのか、私はまだ聴いたことがなかった。

ところが、パサカリアについては、シャコンヌやパサカリアに典型的な華やかな展開なのだが、ずっとある種の痛みをひきずっている。それはほとんど倒錯的で不健康な痛みなのだけれど、曲想と展開が凛としているので、その痛みは注意しないと感じられない。

痛みと「姿」とは違うのだ。

高貴さとは常に演出されるものだ。

今朝の練習で、そのパサカリアを通しで弾いたのだが、弾きながらどきどきして、初見だった私もMも、その「昇華された」というより「隠蔽された」痛みを強烈な美しさだと感じた。

心の琴線とはよく言ったもので、私たちのそれが同じ波長でぶるぶると震えるのである。

私たちがそれを告げると、Hは我が意を得たりという喜びを隠さなかった。

こういう時の感受性というのが、私たちはまったく一致していて、互いに感じていることがありありと伝わっていくのだ。その結果、曲に対してフェティッシュな愛情を抱いてしまうのも同じだ。

私のトリオについて、去年の日本公演のためにブログを作ったので、本来はこの記事もそこに載せるべきなのだが、ここに書いておくことにした。

5月のチャリティ・コンサートの展開の記事も含めてトリオの活動については刺激的なことがたくさんあるのだが、書く時間がない。

ちょっと休止。

来年の5月には、師井さんのExpoとジョイントしたコンサートを企画しているので、その時にはこのロワイエとミオンのパサカリアを合わせて弾きたい。

それにしても、このテキストとこの曲。

わくわくする。
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by mariastella | 2011-12-07 09:18 | 音楽

天まで、昇れ。

どうでもいいお遊びなのだが、ちょっと書いてみたくなった。

長崎の修道士さんのブログ 

http://tomaozaki.blogspot.com/

に、来年が年男だということで、

「来年2012年はタツどし、私の年だよ、84歳、登ぼれ、登れ、天まで昇れ」

と書いてあった。

天まで、と来ると「登れ」が、「昇れ」と字が変わったので、キリストの「昇天」を連想した。

突然、イエスって何年生まれだったんだろうかと知りたくなった。

まず、イエスの誕生年を今の西暦になおさなくてはならない。

http://remacle.org/bloodwolf/gertoux/jesus.htm

というサイトが詳しくておもしろかったのだが、そこでは、紀元前2年の2/19-8/18となっている。

この説はかなり長く有力だったようだが、今では、どうも紀元前4年から7 年の間という説が支持されている。

21世紀の始めという世紀の変わり目にも、当然このことはいろいろ取り沙汰されて、ヴァティカンも、確か2001年の4年くらい前から毎年テーマを決めて準備に入り始めたので、紀元前4年というのを想定しているのだろうなと当時から思っていた。

誕生日が冬至というのは後から決めたことで、実際は羊飼いが外で眠ることのできる春から夏にかけて生まれたというのは確からしい。

で、ともかく、紀元前4年として計算してみたら、あら、イエス・キリストも辰年生まれになるような・・・

キリスト教の福音史家のシンボルは獅子や鷲や雄牛など勇ましいのが多く、キリスト自身は子羊や小鹿といったかわいらしいのから魚も使われるが、辰とかドラゴンとかいうと、天使や聖人たちに退治される悪者キャラだ。
誘惑者である蛇の「巳年」は、紀元前3年生まれだからずれていてよかったが、「辰年」っていうのも微妙だなあ。

でも、意外といいかも。

「天まで、昇れ。」
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by mariastella | 2011-12-05 22:36 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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