L'art de croire             竹下節子ブログ

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人間的か非人間的か

生徒がこういう動画のリンクを送ってくれた。

http://www.youtube.com/watch?v=toXNVbvFXyk&feature=youtube_gdata_player

自動音楽機械の好きな私のツボにはまる有機的な動きだ。

音楽性というのは、音と音の間、ひとつの音が消える時に次の音がどう満ちてくるかという部分にあると思うので、「音楽性」という意味ではこういう機械にはあまり意味がない。

手回しオルガンなどは手回しの加減でそれを表現することができるのだけれど、その呼吸を調節できないタイプの機械では不可能だ。

でも、この機械の動きは、不思議で、魅力的だ。

倒錯的なところはない。

以前、別の知り合いが、中国の子供たちのギター演奏のビデオのリンクを送ってくれたことがあった。小学校低学年くらいの子供たちが舞台にずらりと並んで、大人サイズのギターをかかえて、一糸乱れることなく完璧な合奏を、統制された身振りをまじえて聴かせるものだった。

この知り合いは、明らかに勘違いをしているのだ。ヴァイオリンの鈴木メソードなどの連想から、もちろん日本と中国の違いも分からないフランス人だから、日本人ってやっぱりすごいよねえというノリで、悪気なくリンクしてきたのだ。

ぞっとする映像だった。

中国の体操競技で、すごく若い少女たちの演技なんかを見てもすごく嫌な感じがするのだけど、あれはまあ、技術の完成度が問題になっているのだから分かるとしても、音楽演奏はアートの領域だから、こんなに非人間的な光景を見せられると胸が悪くなる。

機械がえらくなまなましい人間的な動きをする動画の方は、その対極で、なんとなくわくわくさせられる。

こんな機械を手元においてその動きをながめていたい感じだ。

それとはまったく別に、実際のピアニストの演奏をデジタル録音したものをプログラムして電子ピアノに自動演奏させるものがある。そして、それをベースにして、別の人が、自分の感性によってデジタル上でカスタマイズして、「自分の理想の演奏」というのを創り上げてからピアノに自動演奏させるのを聴いたことがある。
その人はその音をウェブに乗せて、その「演奏」を評価され、ある機関から「ピアニスト」と認定された。自分の指を使って弾くわけではないが、デジタル化してウェブに乗せる限りでは、そのような区別には意味がなくなるのではないかと判断されたそうだ。

私はその人の自宅の音楽室で、彼のピアノが「彼の演奏」をするのを聴いたが、そこにはもちろん「生きた指」の重みや弾力は介在しないのだ。目の前にあるのはデジタル自動演奏ができるグランドピアノだ。キイが勝手に動いている。

中国の子供たちの不自然で非人間的で完璧なパフォーマンスのような倒錯と違って、別の種類の乾いた倒錯がそこにはあった。

ここに紹介した動画の自動楽器では、増殖したような奇妙な複合弦楽器の弦を押さえたりはじいたりする機械の指が超アナログにせわしなく動き回る。ほほえましい。
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by mariastella | 2012-02-28 08:50 | 音楽

フランスのペシミズム

2月22日にifopの統計で、今の経済危機についての個人の反応を調査した結果があって、

フランス人は79%が危機のさ中にあると答えたのに、

アメリカは2年前と変わらず、52%、

ドイツは 38%、

ロシアも 38%、

中国は 35%、

ということで、

「フランス人ってなんてペシミストなんだ」、と、フランスのメディアが競って自分でつっこみを入れていた。

サルコジが大統領再選を目指してキャンペーンに入り、この5年間の政策の失敗をごまかすために「皆さんも知っているように今は世界的に未曾有の経済危機、未曾有の危機、(ちなみに未曾有はsans précédent」)と繰り返すものだから、その影響もあるのだろうか・・・

私は今、英仏関係について書いているところなので、イギリスはどうなんだろうと思って調べてみたら対象外だった。日本人としては日本のことも知りたい。

(この結果はこのサイト

http://www.la-croix.com/Actualite/S-informer/France/Sondage-Ifop-pour-La-Croix-sur-la-crise-et-le-pessimisme-francais-_NG_-2012-02-22-771264

からダウンロードできる。)

すると、今朝のラジオで、もうすぐ

『Le pays où la vie est plus dure』(よそより生き難い国)

というフランスのメンタリティ分析本を3月1日に出すPhilippe Manièreがインタビューに答えていた。

フランスという国は、自分で構築したプロジェクトをこつこつやり遂げる努力はいとわないが、よそからのスタンダードには耐えられないのだ、フランス人が満足するためには、経済に関してはレッセ・フェール、これもフランス語 (laisser faire、放任)なんだから、レッセ・フェールして、社会政策だけフランス独自でこだわればいい、

という要旨だった。

なんとなくシンクロしている。

考えてみると、前述のifopの、このような独自調査の対象にイギリスが最初から入っていないということ自体も、フランスの世界観の一部であってなかなか考えさせられる。
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by mariastella | 2012-02-26 20:07 | フランス

『魔女-その神話と現実』展

郵便ミュージアムmusée de la posteに『魔女-その神話と現実』SORCIÈRES Mythes et réalitésという展覧会を観にいった。

http://www.histoire-pour-tous.fr/tourisme/105-france-paris/3892-expo--sorcieres-mythes-et-realites-musee-de-la-poste.html

ジャンヌ・ダルクがイギリス軍から本気で魔女だと恐れられていたことについて、もう一度、キリスト教世界における魔女の位置づけをつかんでおこうと思って、その「雰囲気」に浸ろうと思ったのだ。

展示はもちろんすごくフォークリックなのだが、呪い系黒魔術のエネルギーが半端じゃないのに改めて衝撃を受けた。

太い釘を隙間なく突き立てるような強烈なオブジェは、私がフランスで実物を見たのはたいていマリ、ドゴンなどアフリカ系のもので、それらも十分迫力があって気味が悪かったが、自分の中でそういうものをいつの間にか、アフリカのプリミティヴなパワーと関連づけていたらしい。

とこが、フランスの20世紀半ばまでベリーBerry近郊に生きていた魔女マダムPの作らせた呪術用彫刻などは、ヴラマンクやピカソが見ていたら泣いて喜んだだろうと思えるくらいにすばらしいオブジェばかりだった。プリミティヴな心性やその表出はいわゆる「文明」とは関係がないのだ。

1922年のスウェーデンのサイレント映画の『Heksen』も少し見ることができて、これがしっかり特撮のあるキッチュでシュールな傑作だ。サバトで自分の尻に接吻させる悪魔は監督のBenjamin Christensenが自分で演じているそうだ。箒の乗ってぴゅんぴゅん移動する飛行はETみたいだし、グロテスクなのか剽軽なのか分からないキャラがわんさと出てくる。

まあ、結局、いわゆる魔女狩りなどは16世紀以降の話で、盛んになるのは17世紀、ファンタスムとしていじられるのはそれよりもっと後だ。だから、ジャンヌ・ダルクが火刑になった15世紀前半にはまだ魔女のプロトタイプは確立していなかった。『マクベス』に出てくる魔女のイメージ以上には、彼女らのもたらす恐怖の実態がどういうものだったかは分からない。

フランスの悪魔憑き事件で最も有名なのは17世紀のルーダンLoudunの女子修道院の集団悪魔憑きで、修道女たちではなくてグランディエという神父が火刑になったことで知られている。そのグランディエの火刑の「灰」というのが残っていて、今回展示されていた。灰をすべてセーヌに投げ捨てられたジャンヌ・ダルクのことが思い出されて、これがジャンヌのものだったら確実に聖遺物だよなあと思った。

そんなことを考えながら帰宅したら、長く会っていない知り合いから電話があって、話していたら、ふとしたはずみにその人がマダムPと同じBerryの出身だと分かった。それで、見てきたばかりの魔女展について話したら、なんと、その人の奥さんはLoudunルーダンの出身だと分かった。奥さんの先祖は、グランディエに結婚式を挙げてもらったという記録が残っているそうだ。

私は『バロックの聖女』(工作舎)の中でこのルーダンの事件について紹介したことがある。でもそれ以来、ルーダンともベリーとも縁がないのに、魔女展に行ったその日に、ベリーやルーダン出身の人やグランディエゆかりの人と話すなんて、不思議なシンクロニシティではある。
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by mariastella | 2012-02-19 06:25 | 宗教

パトリシア・プチボンとママコさん

先日、国立図書館に18世紀の五感文化についての対談の最終テーマ「聴覚」を聴きにいった。

ジャンヌ・ダルクのお告げの「声」の文化的スタンスの変容を知る一環になるかと思ったのだが、全然参考にならなかった。

モーツァルトのオペラに話が集中して、アリアなどをいろいろ聴きながら、コロラトゥーラ・ソプラノのPatricia Petibon がいろいろなエピソードを語る趣向だ。モーツァルトがかなりのフェミニストだったとか、声をマチエールとしてクリエイトしていくやり方とかそれなりにおもしろい話はあった。モーツアルトを上演するときはいつも彼の臨在を実感するというのも興味深い。

流された音源の中にはもちろんパトリシア・プチボンの歌っているものもあり、彼女がとても気さくなので、最後の質問やコメントの時に、せっかくだからここで少しばかり歌ってくれないかと頼む人が出てきた。

その時の彼女の答えはすぐに「ノン」だった。

歌うことはincarner(歌う人物になりきる、変身するということ、憑依するようなシャーマニックなニュアンスもある)することだ、この場で普段着で舞台のテーブルの前に座った状態ではそれができない。それができない限り、歌うことは道化を演ることと同じで、私はサーカスをやるつもりはない、と言うのだ。

それを聞いて、もう20年ほども前になるが、パントマイマーのヨネヤマママコさんがパリ郊外のセーヌの岸辺に館を購入したときのことを思い出した。

首尾よく契約のサインが終わって、お祝いに、私の友人である公証人の自宅で食事をする事になった。

表情豊かなママコさんがパントマイマーだということを知った公証人の奥さんが、

じゃあ、ちょっとここで何か簡単なものをやって見せて、

と所望したのだ。

ママコさんの答えはもちろんノーだった。

奥さんの手料理を食べていたママコさんは恐縮したが、ママコさんがマイムを演るということはやはりincarnerすることであって、かくし芸大会での演し物ではない。

「即興で、少しばかり」やることができないのは、ママコさんにとっても、パトリシア・ブチボンにとっても、準備していないからとかその気になれないからとかの問題ではない。

「ちょっとばかり披露」することなど簡単にできる。
それで周りの人を感心させることも簡単だろう。

けれども、それは、彼女らの全身全霊が伴わない限り、彼女らにとっては空っぽの猿芝居なのである。そして、彼女らには、猿芝居をする気はない。

時を隔てて、2人の姿が、重なって見えた。
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by mariastella | 2012-02-14 08:03 | 雑感

クラシック・バレーにおける足の外旋について。

先日の夜、マレ地区のダンスセンター(CENTRE DE DANSE DU MARAIS)で、外に開く足のポジションについての実演付きの講演会があった。

http://www.paristango.com/l-en-dehors,-des-indes-a-l-occident-samedi-4-fevrier-20h-n214.html。

クラシック・バレーの五つのポジションに見られる、左右の足先をそれぞれ外側の真横に180度開くやり方の起源と意味を探るというものだ。

インド舞踊の Sharmila Sharma をゲストに、紀元前1800年のプロト・シヴァ神のその浮き彫りなどを手がかりに、外向き足(日本語ではむしろ「外また」に近いが」のルーツを探る。

その後で、ポーランドのバレリーナDaria Dadun-Gordonが男女7人の生徒のレッスンを、バーなしでセンターで実演した。

ものすごく興味があった。

けれども、ここまで面白いテーマをここまで面白いアイディアで掘り下げながら、ここまで、視点がずれているのは驚きでもある。

何しろ、クラシック・バレーの直接の祖先であるバロック・バレーについての文献を誰も読んでいないのだ。ピエール・ラモーが外向きの足についてバランスとの関係で書き残したこともスルーされているし、クラシック・バレー以前は「娯楽の宮廷バレー」と切り捨てられているのだ。

Katharina Kanterの仮説は次のようなものだ。

外向き足は、人類が車輪を発見したのと同じような革命的な発見だ。輪を転がすことで移動を獲得したように、外向きの足によって、人間は体の自由を獲得した。
インドではダンスはスピリチュアルな分野であり、インドの舞踊の型はそのままヴェーダの象徴である。外向き足こそが人を他者に向かわせ、超越者に向かわせる。

ヨーロッパで始めてダンサーの外向き足が彫刻によって現れたのは1480年で、Erasmus Grasser の婚宴で踊る男と、 Veito Stossの踊るダビデ王で、両者とも、不自然なくらい強調して交差させた足と脚を見せるために服の裾をわざわざからげている。インドからシルク・ロードを渡ってイベリア半島まで来ていたモール人のダンサーたちが東欧に移動したからだ。

その外向き足をますます発展させ、表現の限界を追及したのがクラシック・バレーだと言う。

ただし、最近のクラシック・バレーはそのスピリチュアルな意味を忘れてただの静的なポジションとして強制するので、職業病のように体の故障が出てくるようになった。バーにつかまって片足ずつ鍛えるのは、本来の動きから見て不自然だ。最初からセンターで体重を両足に感じながら腰や足や脚を開き、外旋する訓練をしなくてはならない。

とまあ、こういう概要だ。

別の人が、人体の骨格模型を持ってきて、骨盤と脚の付き方を説明し、人間が快適な四足から後足だけで立ち上がった時からすこし外向きのほうが安定がよくなった、と言った。

インド舞踊のダンサーは、インド舞踊では両足先の角度は90度にしかならないし、動きの受容の時にそうなるのであって、準備のためではない、と言ったのだが・・・。

インド由来という仮説の方は、パワーポイントも駆使して詳しく説明されて、論文掲載した小冊子も配られた。

なんというか・・・

インドから、何ですぐに1480年に飛ぶんだろう。

バロック時代に流行したサラバンドでさえメキシコ経由のスペイン由来だという説がある

(http://setukotakeshita.com/page7.html#c)

のに、シルク・ロードまで持ち出してインド起源とは。

それに、霊長類は四足歩行というより、四本の腕、四つの手で枝をつかんで木の上を移動して生活していたものが主だから、むしろ、後ろの腕と手で直立するようになったと言えるはずだ。

四肢で枝をつかんで体を支えるとすると、股は外向きでひざから先は内向きという姿勢だって考えられる。
日本舞踊の女舞の足運びが内股なのは日本人なら知っている。
体の安定はひたすら腰にある。

外向きの足が人間を解放してスピリチュアルに向かうだとか表現がどうとかいうのも大いに疑問だ。
披露されたインド舞踊でも、視線や腕や手指や上半身の動きが十分に表現力を発揮している。脚や足を見せない日本舞踊だって表現の強度というのは変わらない。

脚を180度開脚して振り上げたり跳んだりするのは、普通の人にはできない「名人芸」に近いが、それがエスカレートしてきたのは、踊りが産業として発展してきたからで、観客から対価を得るためには、「普通」の人には不可能な技を披露する必要があった。そのために、有名なバレエ学校では、解剖学的に、もともと極端な開脚が可能な骨格や筋肉の付き方の子供だけを受け入れるようになったほどだ。

インド舞踊のダンサーは、インド舞踊の学校で毎日朝6時半から夕方6時半まで練習したが、最初の2時間はヨガで、午後は音楽や歌もやる総合的なものだった、自分の先生は74歳でまだ現役だ、体に無理をかけないからだ、と言っていた。この考え方もバロック・バレーに近い。

残念なのは、インド舞踊のデモンストレーションについてきた生徒(若いフランス人女性)が、体もどてっとして動きも切れが悪かったことだ。生徒の絶対数が少ないだろうから無理はない。

それに比べれば、クラシック・バレーの実演をした7人の生徒は、いずれも、ほれぼれするようなきれいな体で、もちろん脚も足も180度らくらく開いて、全身しなやかな若者ばかりだった。

それだけ見ていたら、エキゾチシズムは別として、なんとなくクラシックバレーのほうがインド舞踊よりプロフェッショナルで難易度が高く上等な気がしてくる。

クラシック・バレー界の人たちばかりのバイアスがかかりすぎだ。

ただ、クラシック・バレーを子供の時に8年間やって、バロック・バレーをこの15年ほどやっていて、最近またクラシックをやり直し始めた自分(体は昔から硬いほうで、今はなおさら動きが悪い)の実感がひとつある。

あの、延々と繰り返されるバーでの基礎訓練や、姿勢の細部をああしろこうしろと矯正されることを子供時代に何年もやっていたら、一種のアディクションに陥るということだ。

その証拠に、バロックバレーに夢中で、その良さや、エスプリに共感しまくっているこの私が、何十年ぶりかでクラシックバレーのバーでのレッスンに復帰したら、とたんに、脳から明らかに快感物質が放出されるのを感じた。ぎりぎりの限界まで足を曲げたり伸ばしたりすることで快感スイッチが入るのだ。
だから、寒い日も暑い日も風邪ひいて咳き込む日も必ず踊りに行く。

身体の良好感を追求するバロックとは真逆なことを平気でやっているわけだ。

ある意味で恐ろしいが、今は別に体を痛めるほどの完璧志向はないから、ちょっと変わった健康法程度でちょうどいい落しどころになっているのだろう。

最近、私のピアノの生徒でバレーを熱心にやっている少女が両足首腱鞘炎の診断を下されて泣いていた。痛くてもレッスンをやめたくないのは、すでにアディクションになっているからだ。そうなると「自衛本能」などは狂う。親がその辺を理解していないと、扱いは難しい。
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by mariastella | 2012-02-10 07:38 | 踊り

18世紀の五感カルチャー 対論シリーズにまた行く。

先日、国立図書館での18世紀の五感カルチャーについての対論の4番目、「視覚」にも出席してきた。

Michel Pastoureauの色彩の歴史についてはすでにいろいろ読んでいるのでなじみがある。
一方の「現場の人」は、デザイナーのJean-Charles de Castelbajacで、実は、この人の方が圧倒的に有名なようだった。会場も満員だった。

ディズニーキャラなどを最初にTシャツにプリントしたのはこの人だそうで、アメリカでも日本でも一世を風靡したが、当初、フランスではまったく売れなかったそうだ。私はまったく知らなかった。後でカタカナで検索すると、日本語のサイトもちゃんとあった。

2人の共通点は紋章学で、中世からの紋章の基本6色が現在国際的な交通標識に使われているなど、グローバル化していることが自慢そうだった。カステルバジャックにとっては、ポップなロゴというのはキャラクターに意味があるのではなく、それは、シンボルとしての色の組み合わせで、紋章のヴァリエーションなんだそうだ。

あるときブロンクスで3000人の黒人を前にしたドイツのテクノミュージャックのグループが彼のTシャツを着ていて、それを紋章という記号だと的確に把握していることを知って感激したそうだ。

この2人は「討論」にはならなくて、蘊蓄の傾けあいという感じだった。

それにしても、いわゆる団塊の世代に相当する同世代のこの2人が、対照的な外見を持っているのは印象的だ。学者のパストゥローはでっぷり太ってビール腹の爺さんという感じで、貴族デザイナー(レヴィ・ストロースとも血がつながっているらしい)のカステルバジャックの方は、スマートで若々しく、カリスマ性があって魅力を振りまいている。

先週は、女性同士で、学者の方は女優のような華やかなオーラのある美人、ダンサーの方は、もちろん美しくしなやかな体が分かる個性的な美人だが、2人とも今回の男2人より数歳年上の60代後半だ。こういう場所で舞台上で対談すると、肉体性が生々しくて、「個人差」の大きさを実感する。そういう差は、年をとるほど大きくなるのだろう。

誰かの書いたものを読む時に著者の風貌など特に考えたことがない。でも、五感について、学者と現場の人を対峙させるというこのシリーズの興味深い試みにおいては、この人のこの風貌がこの人の思想や表現にどういう影響を与えたのかと考えてしまう。「五感」というのが自己の身体イメージと切って離せない感じがするからだろうか。

18世紀というのは染料にパステルカラーが広く登場した時代で、特に服飾や装飾におけるピンクの勢いは凄かった。でも、パステルカラーには実は、いつも曖昧でネガティヴなイメージがひそかについてまわっているという話はおもしろい。パステルカラーの認識は「ニュアンスの認識」と同義で、ある種の洗練を連想させるのに、どこかにいかがわしさが伴うのは不思議だ。

純粋ではないという優生思想もあったらしい。たとえば、緑は青と黄色のミックスだから格が下という人もいたそうだ。

19世紀末にアンケート調査というものが登場して以来、ヨーロッパ中で、人々の好きな色のトップはいつも不動の「青」で、緑、赤、白、黒、黄などが細々と続き、嫌いな色はこげ茶、紫、オレンジ、ピンクなどだ、という話も、原色志向の根の深さをうかがわされる。

青は「自然」を想起する色でもあるそうだ。人間にとってもっとも大きな自然のスペースである海の色、空の色だから当然といえば当然だ。

今はどの国でも自然を守るエコロジーを掲げるのは「緑の党」ということになっているが、「青の党」にしたほうが実は訴求力があるんじゃないかと彼らは言っていた。日本語でも「木々が青々として」なんていうのは普通だから、ほんとに、そうかもしれない。
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by mariastella | 2012-02-09 04:18 | 雑感

Cavalliのオペラ『Egisto』


Opéra Comiqueで、 Francesco Cavalliのオペラ『Egisto』を観た。

http://www.opera-comique.com/fr/egisto/egisto.html

これまで、Monteverdi以降Vivaldiまでのイタリア・オペラの流れにあまり関心を持っていなかったことにあらためて気づく。

このオペラは知り合いの Benjamin Lazarの演出で、前にVincent Dumestreと組んだ『Cadmus et Hermione』が楽しめたから、ダンスがないことを承知で観にいった。

でも、照明がすべてろうそくで、主に下からの明かりなので、舞台がすごく暗く、神秘的なのを通り越して閉塞感があった。スパイラルな回り舞台も、バロック風に過剰なのか簡素なのか分からない半端な観がある。

日本の演劇も好きなバンジャマンのイメージでは、前作は歌舞伎、今回は能の雰囲気だったのかもしれない。でも、実際は、初めての商業オペラともいえるCavalliの上演は、大衆受けする大胆さを狙ったものだから、歌舞伎風でもよかったのにと思う。

Cavalli はMonteverdiの弟子で、ヴェネツィアに1637年、はじめてできた商業劇場 Teatro San Cassianoで活躍した。そこは700人収容で、Opéra Comiqueは1200人だから、それにあわせてオーケストラの規模も変えたという。17世紀の照明はもちろんろうそくだったろうが、もっとパストラルな明るさを目指していたのではなかろうか。Cavalli が今のテクノロジーを使えたら、もっと派手な演出をしていたと思う。

ヴェネチアは共和国だったので、王の賛美や教会への気兼ねもなく、台本の中の神々はコミカルに描かれている。司祭が女装して歌うキャラまで定着していた。このオペラにも出てくる。

favola drammaticaはその後、ナポリに根付き、ベルカント・オペラが誕生するので、それはやはりイタリア語のディクションと関係がある。リュリーがフランスに来てフランス・オペラを注文されて、フランスの演劇に通いつめて生まれたフランスオペラとの大きな違いがすでに分かる。

1年に6ヶ月も続いたというヴェネチアのカーニヴァルでメセナたちは競い合ってあらゆるアートをプロデュースしたのだから、オペラにバレーがついていないはずはない。
ところが、イタリアでは、オペラに挿入されるバレーは、ダンス教師とダンサーたちが、曲と振り付けをもって出張出演していたらしい。だから、オペラの総譜や台本にはバレーの指示が残っていない。

絶対王政に支えられた専用劇場に専用バレー団を置くようになったフランスとは根本的に違う。

Cavalliの曲にはわずかにダンス曲風の場所があるが、大半は、歌を支える通奏低音だ。けれども、リュ-ト、チェンバロ、バロックギター、テオルブ、ハープなどの弦をはじくタイプの楽器が活躍して独特のソフトで官能的な雰囲気を出していた。

タイトル・ロールのエジストはバリトンのMarc Mauillonで、この人が、もう一人のテノールと同様、姿も美しくて、演技もうまい。大衆に受けたので当時は必ず組み入れられたらしい「狂乱の場」(Folie)での迫力はなかなかのものだった。ヴェネチアの人たちはここで大いに叫んだり拍手したりしたのだろう。

前日に、国立図書館のカサノヴァ展で、18世紀のヴェネチアの雰囲気に浸ったので、そこからさらに100年さかのぼる不思議な感覚だった。18世紀にサドがカストラートへのイタリア人の熱狂を理解できなかったように、 たった1世紀でイタリア・オペラとフランス・オペラは完全に別の方向に進化したのだなあ、とあらためて感慨を覚える。

イタリア風の、産業としては「民主化」して名人芸に走ったオペラと違って、フランスは国の主導で総合芸術としての洗練をひたすら追及した。そのフランス・バロックのもっとも華美なダンス曲を、はじく弦楽器だけで再構成する私たちトリオの活動は、まったく古びないし、新しい意味を持つと思う。

今朝は、新たに、Luc Marchandの『 La flatteuse』(おべっか使い)と、Mr de Buryの『Chaconne』を練習した。チェンバロ曲にハーモニーを加えて、そのままオーケストラでも弾けるように編曲しなおして、3つのギターで弾いているので、ミオンのオペラのバレー曲と同じように華麗になる。

リュック・マルシャンの小曲の、旅に誘うような感じはデュフリーのロンドとも似ている。ビュリーの方は、小さな驚きの連続で、両方ともわくわくするフレンチ・エレガンスの華だ。デュフリーのシャコンヌやロワイエのパサカリアとあわせて、シャコンヌとパサカリアの美学について解説する、踊りつきと演奏だけの2つのヴァージョンを並べるコンサートをやってみたい。
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by mariastella | 2012-02-08 06:28 | 音楽

気になることの覚書

最近の世界のニュースを見ていると、不思議なことがたくさんある。

たとえば、シリアで民衆弾圧を続けるアサド大統領の退任を求めるアラブ連合をはじめとする「国際社会」の動きにあくまでも抵抗するロシアの思惑。

ロシアはシリアに武器を輸出する最大の国だとか、地中海で唯一残ったロシア海軍基地(しかも改修したばかり)を置いているとか、人口の7.5%であるシリアの正教徒にロシア正教が影響を持っているとか、もっともらしい解説もされる。
リビアの時に棄権しただけで拒否権を発動しなかった大統領に不満だったプーチンの意思表示だとか、強気を示して国内の不満分子を威嚇しているとかいうのもあるのだう。

日本的な感覚では、ロシアはトルコなどよりはるかに「ヨーロッパ」の仲間のような気がするのだが、シリアに関する報道をフランスで聞いている限り、ロシアの異質性が目立ってくる。

アメリカの大統領予備選の共和党の2人のプロフィールもなんだか驚きだ。
この2人のうちどちらかが大統領になるようなことがあれば、オバマの時よりもある意味で衝撃的だ。

ギングリッチはルター派から、福音派バプテスト、さらにカトリックへと三回も宗旨替えをした男だし、不倫と結婚、離婚を繰り返している。

ロムニ-はモルモン教徒で、これもかなり特殊だ。

これがフランスならどうってことのない経歴だが、あのアメリカでこういうことになるなんて、2人の共通点である「金持ち」というところだけがやはり今は基準なのだろうか・・・
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by mariastella | 2012-02-02 08:48 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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