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L'art de croire             竹下節子ブログ

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キリスト教の真実

サイトの著書紹介をまだ更新していないので、最近出たちくま新書の自己紹介記事をここに転載しておきます。

もうひとつ、旧サイトがなかなか消えない事情があって、今でも、私の名で検索すると最初に出てくるらしく旧サイトを登録している方が少なくないことが分かったので、ここに改めて新サイトのアドレスを書いておきます。マウスを動かすと猫が出てくるやつです。

http://setukotakeshita.com/

よろしくお願いします。 では、以下に新刊紹介。


現代世界の底流にあるキリスト教思想を読む  『ちくま』2012・5月号より

チュニジアやエジプトを発端に「アラブの春」と呼ばれるイスラム世界の民主化運動が始まってから、一年以上が経過した。しかし「民主的」選挙で選ばれた多数党は過去の独裁政権下で弾圧されていたイスラミスト政党で、これからはイスラムを基本理念にすると言い、それではイスラム革命をしたイランと同じではないか、と危惧する声もある。  

ところが、民主主義下の政党が宗教理念を掲げること自体は、世界では別に珍しいことではない。日本のように、軍国主義の基盤となった国家神道から、敗戦によって、天皇が「神」から一転して「人」になり、無神論的な過激な政教分離の「民主主義」になった国のほうが特殊だ。国王を殺したフランス革命でさえ、ナポレオンの時代にはカトリック教会と和親条約を結んだし、神の国の建設を目指して植民者が開拓したアメリカのような国では大統領が盛んに「神」を口にしてはばからない。ドイツのメルケル首相は「キリスト教民主同盟」の党首だし、イギリスのエリザベス女王は英国国教会の首長である。

でも、誰もそれらの欧米諸国を「民主主義」でないとは言わない。彼らは、彼らの民主主義や人権思想を生んだ「西洋近代思想」の背後にキリスト教の神がいることを口にしなくても自覚しているからだ。だから、今のチュニジアのようにイスラムを軸にしようという新民主主義国家を、宗教色だけで批判することはできない。西洋は不寛容な戦いを何世紀も繰り返してきてようやく彼らの宗教から抽出した普遍的な価値(自由、平等、友愛)を政治理念に掲げた。それは多様化する世界でのサバイバルと共存の知恵として世界中で広く認められつつある。

 といっても、政教分離のさじ加減というのはどこの「民主主義国」でも独自の文化や歴史やメンタリティに応じて、かなり違っている。イスラム国でもアラブ系ではないトルコやインドネシアなどでは、けっこうフォークロリックな政教分離が見られる。中には、形ばかりの「勘違い」もある。

 また、近代世界を牽引した本家のキリスト教圏欧米でも、一六世紀の宗教革命や一八世紀の市民革命の時点においてどんな教会が政治的にどのような勢力を持っていたかによって、その後の政教分離の建前と実際や、民主主義の落とし所は微妙に違ってくる。とこが「欧米」の内輪同士では、それらの差異を混同することなく、自分たちがどういう政教分離のどういう民主主義で、相手のそれはどういうものなのかを互いによく心得ている。同じローマ・カトリックの根っこから分かれてあれほど激しく殺し合いを続けて血を流してきて、やっと棲み分けの智恵をつけた文化圏なのだから、当然なのかもしれない。

彼らが狡猾なのは、それだけ異質なくせに、非キリスト教世界や非欧米世界に向けては、まるで申し合わせたように同じ口調で「民主主義」や「自由平等」などを唱えるところだ。これでは、「圏外」の人にはなかなか実態を見抜けないし、「使い分け」のリテラシーも身につかない。特に、たとえばアングロ・サクソンの情報源に頼っていれば、無神論系やラテン系の民主主義のニュアンスをつかむことは難しいし、「欧米」内談合の機微をうかがうのも楽ではない。

 もちろん、民主主義の理念などに興味を示すふりをする必要もないほど人口的にも経済的にも軍事的にも勢いがあって上り坂にある大国であれば、機微も必要なく、リアルポリティクス一辺倒で押していけるのだろう。でも、日本のように、「欧米」先進国と同じように疲弊して低成長なのに、欧米の「老獪民主主義」パワーの仲間になれるパスワードを持っていなければ、国際社会の中で「空気を読めないヒト」とみなされてしまう。欧米民主主義を解読するキイとは、普遍主義の戦略上、彼らが敢えて口にしないキリスト教のルーツである。『キリスト教の真実』が、日本が国際社会をサバイバルするヒントになることを願っている。
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by mariastella | 2012-04-29 12:02 | お知らせ

夕鶴

先月末、日本文化会館で團伊玖磨のオペラ『夕鶴』を観に行った。昨年も予約していたのに大震災の影響で中止になったもので、今年どうしても行っておかないと震災が終わらない気分だった。

オーケストラの代わりにピアノと打楽器だけだったが、まず圧倒的な懐かしさだった。

確か中学校の音楽の教材か何かで、全編を聴き、歌詞もプリントされたのだ。

私は子供たちの合唱の文句も、ヒロインつうの登場シーンのレシタティフも全て覚えていた。どういうわけか、悪役二人のせりふはあまり覚えていないのに、つうのレシタティフは歌うこともできて、フランス人に日本のオペラについて聞かれたときには必ず歌うことにしていた。

実際、日本のオペラというのを聴いたのはそのときが初めてで(最後でもある)、強烈な印象を受けていた。登場人物によって変わるテーマのメロディも覚えている。こういうテーマを認識させるものは、『ピーターと狼』も有名でそれも学校で習ったが、私にとっては夕鶴が原型となっている。

木下順二の原作の戯曲の方は、高校の文化祭で一度観ただけで、その時もイメージはオペラと重なっていた。

で、今回初めて舞台を見て、まず、もとの戯曲の台本をそのまま使うことという条件だったことの意味がよくわかった。歌手の高い演技力が要求されるし、メッセージ性も大きい。

そして、当然ながら、レシタティフの優越である。

これが何を意味するかというと、フランスのバロック・オペラとの共通性だ。

リュリーが、オペラ歌手に「美声の俳優」を求めたのと一致する。

フランス・オペラは、「歌いだした演劇」だからだ。

だから、音楽がはじめにありき、のアリアや、名人芸や、楽器としての声のパフォーマンスは優先しない。

すなわち、わたしにとって、夕鶴は、子供の頃の懐かしい日本オペラの洗礼と、今浸りきっているフランス・バロック・オペラの二つを同時に想起させて圧倒的な懐かしさだったのだ。

もともと邦楽の歌における「語り」性と、バロック音楽が同じ地平にあることはわかっていたし書いてもきたが、最初の洋風の日本オペラが、木下順二の要求のおかげでごく自然に「語り物」になったことは興味深い。

で、さらに興味深かったのは、この「日本オペラ」に、イタリア・オペラのようなものを期待してきた人たちがいて、退屈で途中で退席した人とか、メインになるアリアがない、などコメントする人がいたことだ。

こんな人たちは、ラモーのオペラを聴いても同じことをいうかもしれないなあ、ブフォン論争で、ルソーの側に立つんだろうなあ、と思った。

ポスターはここで見られます。 http://makotokuraishi.blog.fc2.com/

PS:今日本にいます。4月25日夕方、四ツ谷のイグナチオ教会ヨセフホールでトークをします。興味のある方はどうぞ。
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by mariastella | 2012-04-19 13:12 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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