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L'art de croire             竹下節子ブログ

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同性愛、当事者、ランボー etc...

日本で買った本でまだ読んでないもの

横山泰子『妖怪手品の時代』青弓社

佐宮圭 『さわり』小学館

ダグラス・アダムス/マーク・カーワディン『これが見納め――絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』みすず書房

ベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体』中央公論新社

その他、伊勢神宮に行ったので、式年遷宮の話など、伊勢神宮崇敬会叢書を何冊か購入した。読み終わったのは『伊勢の神宮と刀剣』だけ。美しい。

新書を2冊読んだ。

文春新書 竹内久美子『同性愛の謎』

男の次男以下の方が同性愛になりやすいというのは周りの人の実感と合わない。母方の血縁の女性がよく繁殖するというのも…
ホルモンについての他の話の方がおもしろかった。接触刺激によってオキシトシンという快感ホルモンが分泌され、猫を撫でている人も撫でられている猫も同じように気持ち良くなるんだそうだ。これは実感とぴったり合っている。

光文社新書 佐々木俊尚 『「当事者」の時代』

今、精神疾患や障害の「当事者研究」に関心を持っているので読んだのだが、全然違う話だった。でも、その人の考えの筋道が問題意識の中ではっきり分かるこういう書き方がされている本は日本には少ないので楽しかった。

日本の戦後史のさまざまな「運動」がマイノリティ憑依とかインサイド・アウトサイドの視点で整理されているので興味深かった。少なくとも、1970年代の中頃までは私も日本の戦後史の中での自分の立ち位置やら当事者性をずっと考えていたからだ。そして、当時の総中流社会の生活設計の自明さにうんざりして「遠くへ行きたい」と思うのが若者の基本マインドだったというのもすごく理解できる。

私にはそれが可能だった。

しかし同心円的な幻想の総中流コミュニティに残った人々は、常に「空気を読む」ことを強要されるハイコンテキストの社会をますます強固にしていった。

マイノリティ憑依は、そこでは、メディアの提供するエンタテインメントでしかなかったというのだ。

そんな社会では、政策ですら、ほとんどは、官僚なり政府なりが明瞭な責任を負うこともなく「ダンゴレースのように決まっていった」らしい。

私は同心円的社会から出て以来、別の場所に中心を置くこともなく、結局、フランスと日本という異質な二つの焦点を持つ楕円のような世界に住んで、そこから周りを眺めるようになった。

そして、マイノリティは、私の世界のアウトサイドにはない。それは確かだ。

この見方を有用に言語化するには、もっと時間が必要かもしれない。


他に日本語では、当事者研究を掘り下げるために、中井久夫さんの『治療文化論』と現代思想(Vol.39-11)の『痛むカラダ』を読んだ。どちらも刺激的だが、ちょっと食傷したのでまた別の時に書こう。

その他、いただいた本もたくさんあるがまだあまり読めていない。そのうちで読んだのは、

野内良三編訳『ランボーの言葉』中央公論新社

帯の表にある言葉が、「道徳なんて考えだすのは脳みそが弱ったせいだ」で、ランボーにぴったりと思ったら、帯の裏にある言葉が「まじめで学歴のある前途有望な男が現れた場合、イザベルが結婚しないというのは大変なまちがいです。この世で孤独はよくないことです。この私も、結婚して家庭を持たなかったことを悔やんでいます。」(イザベルは妹)というもので、ちょっとのけぞってしまう。

編者によるひらかなの「こめんと」は、なんだか私が寝る前に時々読んでいる佐藤一斎『言志四録』(一~四、講談社学術文庫)の川上正光の訳注みたいで、ほのぼのとする。

ランボーは、19世紀後半のフランスの教育システムでは十分「エリート」になれたはずだ。

けれども、その頃、エリートの中には、親や祖父母の財産相続による年金生活が可能な階級が決して少なくなかった。
プチブルの単親家庭で育つような普通の「共和国型エリート」は、学歴を武器にして自分で働いて生計を立てるしかない。

学業優秀だったランボーには、中途半端に自由を制限されているそんな将来が耐えられなかったのだろう。

妹に勧めているように、いっそ女性だったら、「稼ぐ夫」によって生活の基盤を確保してストレス・フリーになれたのかもしれない。

晩年のランボーの願いは、家庭を持って息子を自分の思い通りに育て、最高の教育を授けて身を固めさせ学問のおかげで羽振りがよく力のある人間になるのを見ること、というのだから、自分にもそのような人間になる選択肢があったことは十分理解していた。

しかも、病院で死の半月前に回心し(つまり告解して終油の秘跡を受けたんだろう。病院付きの司祭を無理やり兄に押しつけた妹が、兄さんは信仰を再発見した、と喜んで母親に書いている)、なんだか、痛々しい気もする。

その妹は、結局、ランボーの願ったような共和国型エリートとは結婚せず、詩人ランボーの崇敬者だった画家で詩人のパテルヌ・ベリションと、ランボーの死後6年程経ってから結婚した。当時だと、かなりの晩婚同士だ。

妹も絵がうまく、死の床のランボーをはじめとして兄の姿をいろいろ残している。そしてこの夫婦は、激烈な天才だった兄の著作権を継承し、出版を続けることで、なんというか、兄の遺産で食いつないでいたような感じだ。
まあ彼らのおかげでランボーの作品がフランスの文学遺産として継承されてきた面もあるのだろうけれど。

自分の才能や夢にふさわしい経済基盤がないので、まず過酷な実業に乗り出して、金ができてからようやく夢を実現させたシュリーマンのことも考えてしまった。ランボーとはある意味で真逆だ。

夢と才能と金と気力と体力を使い果たした後で、パンドラの箱の底に残っていたというランボーのユニークな信仰についても、もっと知りたいものだ。

マルキ・ド・サドの『司祭と臨終の男との対話』のことも当然頭に浮かんでしまう。

サドの作品では瀕死のはずの男が司祭よりもよくしゃべり、神の存在の必要性が自分にはないことを分からせる。

最初の方で、死ぬ前に今までの悪行を悔い改めろという司祭に対して、

自分が悔い改めるのは果実をたっぷりと収穫できた時に花だけを摘んでしまったことだ

と、サドの分身が語るところがある。

サドが花を摘めたのはやはり、不労所得のある貴族だったからかもしれない。

この世で花も実も期待できない時、人は身を削りつくした後で、神に賭けてみるのだろうか。
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by mariastella | 2012-05-23 03:00 |

最近近所で観たフランス映画と日本映画


是枝裕和監督の『奇跡』を観た。

こちらでのタイトルは『I Wish. Nos voeux secrets』、つまり、ぼくらの秘密の願い事、というわけで、「miracle=奇跡」とは言わない。

欧米語だと「奇跡」というのは、願い事が叶えられるというより、こちらの期待を超えて神から一方的に与えられるものだという感覚があるから、都市伝説にのっとって願いを叫ぶというのはそれだけでは奇跡とはならない。

もちろん「奇跡を願う」といういい方はフランス語でも可能だが、奇跡の「起こり方」は、やはり「願い通り」というよりも、予測不可能な神の業に属しているのだから、この映画のタイトルが「奇跡」というのは、たとえ「子供らしい」思い込みという設定だとしても、フランス語としては違和感があり過ぎるのだ。

そういう点にまず考えさせられた。

で、話は、子供たちの一種の通過儀礼、イニシエーションものになっているのだけれど、フランスでのある評には、「現実を受け入れるという東洋的な智恵に到達する」みたいなことが書かれていた。小津マジックが働いているのだろうか。

前半は2人の兄弟の福岡と鹿児島での日常の小さなことの淡々とした積み重ねで交互に積み重ねられるのがとても「映画的」だ。後半はロードムービー風になってスピード感、非日常感が、よくできた音楽で高められる。

美男美女の両親の子供2人(実の兄弟)が全然両親に似ていないのは不自然でなかなか慣れなかったけれど。小学校の先生たちもみんな美男美女過ぎる。

それにしても、桜島の有徴性は突出している。煙を吐くこの火山を毎日目にして育った私の父は、それを、一生刻みつけていた。

先日はEtienne Chatiliez の『L'Oncle Charlesシャルルおじさん』を観た。

Eddy Mitchellは悪くないし、Alexandra Lamyは好きだし、ニュージーランドで大富豪になったフランス人とナントの近くの貧乏家族の出会いというシャティエらしいシチュエーションもおもしろそうなのに、あらゆるところで浴びせられていた酷評に違わず、猥雑で意味のないシーンの連続だ。

それでも、すごく本質的に「フランス的」なのが、日本から戻ったばかりだったせいか、かえって身にしみた。

日本に滞在中は一本だけロードショーを観た。『テルマエ・ロマエ』だ。

原作のコミックを全巻読んでいて気に入ってたからだ。最新刊ではラテン語を話す若い娘が出てきてあり得ないシチュエーションだよな、と思ったが、映画ではそれがもろに採用されて、一週間徹夜でラテン語を勉強したら古代ローマで立派に意思疎通ができるという設定になっていて、無理があり過ぎだがそれなりに「映画版」としてのストーリー展開になっていた。

映画まで見るな、マンガだけにしておけ、と忠告されていたのだが、行って後悔したということはなかった。豪華だしサービス精神にあふれていて気分転換になる。

後は、時間がなかったので、往復の飛行機内で何本もの映画を観た。

フランス映画では、見損ねていた『The Artist』。

想像通りで、モノクロ・サイレントという今となっては珍しさが目新しさに映る表現を使ったアイディアの勝利である。それ以外にはこれという驚きのない予定調和の映画だった。アメリカで受けたというわけはなんとなくわかる。

日本映画は矢口史靖監督の『ロボジー』。「ニュー潮風」というさびれた温泉旅館みたいなネーミングがおじいさんを中に入れたロボットにつけられているのが笑える。

他にもたくさん観たが、続きはまた今度。
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by mariastella | 2012-05-22 21:04 | 映画

大統領選が終わった

フランスで17年ぶりに社会党の大統領が選出された。

31年前にミッテランが初めて当選した時にバスティーユ広場はひどい雷雨におそわれて、「神が怒っている」と言い出した知り合いがいて驚いたのを今でも覚えている。

興味深いのは人民戦線のマリーヌ・ル・ペンが、反サルコジを貫いて白紙投票したことで、極右人民戦線の票を取り込もうとして移民排斥などの政策をコピーしてきたサルコジって、いったい・・・というところだ。

人民戦線の「躍進」のせいで、フランスでは極右が台頭しているんですか、とか右傾化してるんですか、というような質問を時々されるのだが、今回ル・ペンにシンパシーを感じた人と、極左メランションにシンパシーを感じた人との間には、ほとんど差のない層がいる。

過去にブッシュに尻尾を振っていたサルコジが、アメリカの不況を見てあっさりとメルケルに乗り換えるのを見て苛立った層といえるかもしれない。

実際、メルケルとサルコジが並ぶのを嫌ってオランドに投票したという人民戦線の支持者も少なくなかった。

サルコジは社会党をこきおろすために盛んにスペインを貶めたことでも際立っていた。社会党政権が7年続くと経済が破綻する、というのだ。これに傷ついたスペイン人は少なくない。

それに、極右が台頭したというより、父の後を継いだマリーヌが、少なくとも公的な場所では前よりも共和国主義やその要である政教分離を強調しているので、新しい世代からは、「新保守」くらいの軽い気持ちで支持されている部分もある。

父親の時代にあったカトリック保守主義というイメージも、マリーヌ自身が二度の離婚(最初の結婚で三人の子がいる)を経て、今の相手とは事実婚という保守カトリックのイメージでは考えられない自由奔放な生き方をしていて、年齢的にも他の候補に比べて圧倒的に若い43歳という新鮮さもあった。

彼女の長女はJehanneといって、ジャンヌ・ダルクにちなんでいるし、マリーヌという名も、本名のMarion Anne Perrineよりも聖母マリアや父親のジャン=マリーを連想させる(上の姉はル・ペンの長女らしくMarie-Carolineという)。

もっとも父親も、1987年に68歳で離婚していて1991年に72歳で、ギリシャ、フランス、オランダの血をひく四歳年下の離婚経験者と再婚しているから、さすがにフランスというか、カトリックでも離婚再婚は保守政治家の足かせとはならない
。社会党のミッテランはさすがに前の世代だから隠し子は長い間隠し子のままだったが、今度のオランドは4人の子をもうけた事実婚のロワイヤルとの関係を解消してジャーナリスト(Valérie Trierweiler :2度の離婚経験者で3人の子の母)とまた事実婚の関係にある。

5年前のロワイヤルの大統領選挙戦の時にはすでにこのジャーナリストと暮らしていたが公表していなかった。

彼女のおかげでシェイプ・アップしてイメージ・チェンジに成功したといわれている。

政治家と結婚する女性ジャーナリストは珍しくないのだが、夫が閣僚入りなどすると、報道の中立性を考えて職を去る人もいる。この人は結婚していないから大丈夫なんだろうか。3人の子を育て上げるために税金を使う気はない、経済的に自立していたい、と言っているのを、Paris Match 誌で読んだことがある。

オランドもシラクも選挙区が同じコレーズで、二人が政治的には対立する陣営にいながら、コレーズの人が、前はシラクに、今度はオランドにと、政見よりも地元性を大切にしてはしゃいでいるのも郷土色を強く残すフランスの特色かもしれない。シラクもオランドもワインが好きだから、と地元の人がうれしそうに言っていた。ワインを飲まないサルコジへのあてつけなのだろう。

今朝のラジオでは、新大統領の誕生のニュースを伝える新聞を買う人たちは、サルコジに投票した人でさえ口元がほころんでいた、と言っていた。
平和な政権交代は民主主義がよく機能している証拠で、不況の世に心機一転の気分をもたらすらしい。

実際、80%を超える投票率で、若者の姿も多く、彼らが感涙にむせんで広場に集まって歌ったり踊ったりする姿を見ていると、毎年のようにいつの間にか首相が変わっている日本などとは国柄が変わってくるだろうと思う。

フランスはいまだに「大きな物語」を共有できる国であるらしい。

けれども、この種の興奮はサッカーの勝敗などにも見られるもので、巨大な金が動く政治やスポーツに蔓延する幻想や偽善を思うと、実のところ、かなり絶望的な気分になってしまう。
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by mariastella | 2012-05-08 05:24 | フランス

日本覚書 その2 演劇

国立劇場に南北の「通し狂言 絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」を観にいき、その数日後、
宝塚歌劇でミュージカル『華やかなりし日々』を観る。

共通点は、悪の華、というところか。

南北ものでは、仁左衛門が、大名の悪と平民のワルを両方演じ分けるのが楽しい。

とにかく、何十人も切って捨てられて、子供も殺されたりするので、非常に陰惨で観たくないような場面の連続なのだけれど、それでも、悪役が主役で、悪ければ悪いほどさらに魅力的に見えるという倒錯的な話だ。

大詰めの閻魔堂の場が絵的には好み。

宝塚の方は、さすがに、悪のヒーローは、詐欺師で、貧しさからのし上がったという設定であり、極悪人ではなく、最後も殺されずにすむ。

大空祐飛のさよなら公演。この人、声がいいな。

悪がテーマなのにからりとしていて、ぜんぜん「濃くない」お話だ。宝塚はやはり「いい人が試練に会う」話の方が「濃い」という気がする。

宝塚マジックはいつも通り機能していて、

「宝塚さえあればこの世に男は要らないなあ」

と、観客がみな感じているのがひしひし伝わってくる。
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by mariastella | 2012-05-01 13:29 | 演劇

日本覚書 その1 美術館

日本でいろんなところに行ったので、忘れそうなので、後でまとめるために覚書。

建築的に面白いと思ったので、乃木坂の国立新美術館と水戸の芸術館に行った。

国立新美術館は、素材や形、外側と内側のマルチ空間の明るい構成、どれをとっても魅力的。黒川紀章最後の作品。ミュージアムショップも素敵なものがいっぱい。

15世紀フランドル絵画の博士論文執筆中のスタッフに大エルミタージュ美術館展を案内してもらった。

バロック・トリオのHと一緒だったので、18世紀ニコラ・ランクレの有名な踊るカマルゴ嬢を見つけて、二人でなめるようにゆっくり楽しめた。

日本に来た最初の週にHと彼の彼氏であるスコットランド人のLと一緒に二見浦に泊まって伊勢神宮にお参りしてきた。Lは浮世絵の収集をしていて、最初の1枚が夫婦岩だったので、どうしても見たかったそうだ。思ったより小さくて意外だったようだ。私は去年津波の映像を見すぎて、もう海辺の宿に泊まるのはいやだと思っていたのだが、彼らのおかげで、半世紀ぶりに二見浦に泊まった。

20世紀のマティスの前で皆であれこれ話していたら、フランス語でマティスについての論文を書いたという女性がいろいろ解説してくれた。「少女とチューリップ」は癒し、快復がテーマと言うのだが、私は少女のまなざしに、もう絶対に「回復」はできない失われた何かを見て気になった。それは、病によって失われたと彼女自身が思い込んだ彼女の幻想の「若い日々」かもしれない。

その後彼らと根津美術館に行く。春の陽光の下でのここの庭は初めてだ。

水戸の芸術館は写真ですごく気に入ったのだが、行ってみたら、前の広場に屋台みたいなショップがいっぱい出ていて、仮設舞台でにぎやかな演奏があって町内祭りのようなノリだったので、少しがっかりした。

現代美術ギャラリーでのゲルダ・シュタイナーとヨルク・レンツリンガーによるインスタレーション「力が生まれるところ」は私好みで楽しかった。横たわって鑑賞する「リンパ系」というインスタレーションが楽しいが、なんだか、やはり、こうしているときに地震が起きたら・・という一抹の不安が。水戸納豆も震災の後一時出荷停止になったと初めて聞いた。

付属のフレンチレストランはおいしかった。

ショップで、ここが出しているWalkという雑誌の2001年6月号の特集「『ダンスはすんだ』のか?』を買って読んだ。日本の現代舞踊協会についても言及されている。

今日の夕方は、「ティアラこうとう」に舞踊作家協会の公演を観にいく。70年代にかぶりつきで鑑賞したアキコ・カンダは、昨年亡くなった。今日は、彼女と同じ歳のヨネヤマママコさんも追悼のマイムをなさる。
93年にベルギーで企画して演じてもらった十牛の最後のシーンだ。彼女には、2003年に私たちトリオが公演したとき、プライヴェートコンサートで競演してミオンを踊ってもらった。もう一度一緒に演ってみたい。

芸術館の後、偕楽園にも40年ぶりで行った。地方都市って、流しのタクシーがほとんどなく、芸術館から歩いた。

被災して閉まっていた好文亭が修復されて今年再開したそうでちょうどよかった。昔行ったのは梅の頃だが、今はつつじが咲き始めていた。
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by mariastella | 2012-05-01 12:59 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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