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L'art de croire             竹下節子ブログ

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佐宮圭『さわり』(小学館)

いわゆる東西の文化の比較論を安易になさる時に、比較される対象のレベルだの範囲だの時代だのがあまりにも非対称すぎるだろう、と思うことがよくある。

その一つが、佐宮圭の『さわり』(小学館)のp217-218にかけての「西洋音楽」と「邦楽」の違いだ。

「西洋音楽」と言っても、いつの時代のどの国のものか分からない上に楽論の一部が取り上げられていて、それに対置されるのは、琵琶と尺八という限定された楽器の奏法における精神論の問題になっている。

まず、西洋音楽は一音では音楽とは呼ばれず、ドレミなどの音程の関係性によって音楽が構築されるので、複数の音が集まって初めて「音楽としての価値」が付与される、とある。

で、

――音と音の間の無音の状態は、西洋音楽にとって、ただの『休み』でしかない。
ところが、邦楽では、これらの西洋の常識が覆される。――

というのだ。

音符と音符の間の休符は「休み」、って…

日本の幼児音楽教室の用語ですか。

ちなみに休符はフランス語では四分休符以下の短いものはsoupir(吐息) で、二分休符以上の長いものはsilence(沈黙)と呼ばれる。

それに対して、

――邦楽の「無音の沈黙」は、その一音に拮抗するほど無数の“音”がひしめく〈間〉として認識される。――

んだそうだ。

洋楽だろうが邦楽だろうが、およそ演奏家と言われる人で、「休符」を「ただの休み」などと認識する人なんてだれ一人もいない、と断言できる。

それが意味を持つのは多分音楽をデジタル入力する時くらいだろう。

音程の関係性によって音楽が構築されるのも、どこでも同じだし、一音に命をかける意気込みがあるのも、琵琶や尺八だけではない。

ここで「西洋音楽」と言われているものが、音程の関係性というより、ハーモニー進行の関係性というのは認めるが、そのような、音楽の構造は、マチエールでしかない。

「音楽性」を創るものは、いつも、音と音との合間、無音、無限の音の大洋の中から、どのように音が生れてくるのか、生みだされるのか、という「力動」の中にあるのだ。

こういう比較のされ方というのは、まるで、

「西洋文学というのは主語と動詞の関係性で構築されるので動詞の活用が間違っていると意味をなさない、それに対して俳句というのはぎりぎりの凝縮した表現の中に森羅万象を込める幽玄な複雑性を有して・・・」

といっているのと同じだ。

文法の話と、芸術としての訴求力は全然別の話だろう。

こういう言辞というのは、往々にして

「一神教というのは自然を征服し…それに対して日本の仏教的風土は自然と共生し…」

云々の安易な比較にも繰り返し繰り返し使われる。

実際この本の洋楽と邦楽の違いでも似たようなことが書かれている。

このような比較にはいろいろうんざりすることが多いし、反論もいくらでもできるのだが、こうやって、音楽についてもっともらしく書かれると、あらためてひどい。

ここでは武満徹や小澤征爾がどのようにして邦楽器と西洋オーケストラを共演させていったかという文脈で、その苦労話はよく分かるのだが、残念だ。

音楽の構造、素材は、文化や時代によってヴァリエーションがあるが、それでも、テトラコルドのような、人間の耳にとって普遍的なポイントは共通しているし、だからこそ、音楽自体に普遍性がある。

それよりさらに、すぐれた演奏というのは、文化の違いやテクニックや構成の細部を超えて、それらのマチエールを運んでいく大きな流れや息吹が大きな「命」と共振していると感じさせてくれるものだ。

ノヴェンバー・ステップスがニューヨークの人の心をとらえたのは、別に、邦楽の精神性の優越に人々が降参したのではなく、すぐれた演奏に出会ったからだ。

佐宮圭の本によれば、邦楽器と出会うまで、武満は一つ一つの音がレンガで、作品はそのレンガを積み重ねて築く「建物」だととらえていたそうだ(P227)。それを邦楽との出会いで、宇宙観、精神と音楽を合体させたという。武満にとってはきっとそうだったんだろう。

それはそれで日本の音楽史としては興味深いが、それを「日本の音で世界を震わせた」という文脈に持っていくのは、「邦楽」にとっても「洋楽」にとっても、「現代音楽」にとっても、読者を残念な方向にミスリードすると思った。

この本を読んだのは、鶴田錦史という(男装の同性愛者である)琵琶奏者にジェンダーの点からも興味を持ったからだ。

音楽家が資産家であるというシチュエーションにも惹かれた。

邦楽における撥弦楽器による「語り物」が、フランス・バロックと近いものがあるから、ということもある。

とてもおもしろかった。

昔見た小林正樹の『怪談』の耳無し芳一の琵琶と語りが鶴田によるものというのも初めて知った。その一部も、「ノヴェンバー・ステップス」の鶴田の演奏も、今はネットでアクセスできる。ネットでの映像と音も、本も、十分にこの型破りな人のカリスマ性を伝えてくれる。

鶴田のエネルギーが安易な東西比較などを軽々と越えているのは、確かだ。
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by mariastella | 2012-06-18 01:03 | 音楽

お告げを聞いた2人の少女

昨日のアヌーイのジャンヌ・ダルク劇の続き。

イギリス軍を追い散らしてオルレアンを解放しろと神が望んでいる、と強弁する少女ジャンヌに、シャルル七世が

「そんなこと言うけどさあ、イギリス人だって同じ神に祈ってるんだぜ、で、神はより多くの軍隊とより多くの金を持っている側につくって、相場が決まってるんだ。軍隊も弱く金もない僕には無理無理…」

みたいな感じの答えをする。

そこで、ジャンヌは

「それは違うわ、神は勇気のある方につくのよ」

ときっぱり言うのだ。

思えば、天使から受胎告知を受けた時のマリアと、やはり天使から声を聞き始めた頃のジャンヌは同じくらいの年の娘だった。

マリアの場合、ナザレというローマ属領の辺境にわざわざ天使が来て、神に選ばれたと少女に告げたわけだ。

少女は、突然の受胎を告知されて最初は驚くが、すぐに、アーメン、フイアット、let it be 、ainsi soit il、み旨のままに、お言葉どおりこの身になりますように、という感じで、受け入れる。
それもすごいけれど、「受胎」とか「受け身」とかいう「受動」ではある。

ジャンヌ・ダルクの方も、フランスのはしっこの田舎で暮らしていた少女なのに、突然やってきた天使から使命を告げられるのだが、こちらの方は、自分で兵士を率いてイギリス軍を追い出せ、と言われたのだから

「え、そ、それは、お人違いでしょ」

とあわてたのも無理がない。

なるようになるとか、み旨のままに、とかいう受け身でじっと耐えたり待っていたりすれば事足りるのではない。

10代半ばの田舎娘。

馬に乗れ、

シノンに行って王太子を説得しろ、

軍隊を率いてオルレアンに行って戦え、

王をランスに連れて行って戴冠させろ、

などと無理難題を言われても…。

神は、ジャンヌの親や守備隊長や王太子や聖職者やらに対しても、お告げだの夢だのによる「根回し」すらしてくれていなかった。

すべてはジャンヌだけに、かかっていたのだ。

キリスト教の歴史の中では、時々聖人や聖母が一介の信者の前に現れて「ここにチャペルを建てろ」などとあれこれ難題を吹っかける話がある。困った信者はそれを司祭に伝えるのだが、もちろん一笑に付されるし、しつこく言うと、では証拠に奇跡を起こしてもらえ、などと言われる。

で、時々、泉が湧いたり、季節外れの花が咲いたり、マントに聖母像がプリントされたり、花びらの雨が降ったりなどの「奇跡」が恵まれる。

ジャンヌ・ダルクはそういう「徴し」ももらえなかった。

でも、彼女には、インスピレーションが与えられた。

村を出ること、

守備隊長を説得して、シノンの王太子のもとに行く手配をしてらうこと、

王太子を説得すること、神学者たちによるチェックに耐えること、

歴戦の将官たちと渡り合うこと、戦火をくぐること、

そして、宮廷全部を移動させて敵地にあるランスの大聖堂での戴冠式にこぎつけること、

不可能に次ぐ不可能を彼女は次々と可能にした。

アヌーイが、彼女がランスで人生の頂点に到達したと見なしたのは本当だ。

それに比べたら、その後の敗北や逮捕や異端審問や火刑台で生きながら焼かれたことなどは、ひょっとして、別の位相の出来事なのかもしれない。

地方の庶民の17歳の少女が、王や聖職者や軍人と渡り合い、一国の歴史の流れを変えた。

悲劇的な最後まで見るからひとつの数奇な人生のように思われるけれど、彼女の「されたこと」ではなく、「したこと」や「言ったこと」だけに注目すれば、まさにそのままが奇跡だ。

与えられた使命がどんなに不可能に思える時でも、十五世紀のこの少女がそうしたようにゴールに向かっておそれずに進めば、不可能が可能になることがあるのだ。

マリアの受容とジャンヌ・ダルクの能動ぶりは、対極にあるようでもあるが、私たちには、人生で、抵抗せずに何かを受容すべき声を聞く時と、不可能に挑戦すべく突き進むべき声を聞く時と、両方あるのかもしれない。
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by mariastella | 2012-06-16 06:13 | 宗教

Jean Anouilh のジャンヌ・ダルク劇『L’Alouette』


Théâtre du Montparnasse でアヌーイ(Jean Anouilh )のジャンヌ・ダルク劇『L’Alouette』(ひばり)を Christope Lidonの演出で観る。この同じ劇場で、半世紀以上前の1953年にSuzanne Flon の主演で初演されたものだ。

今回のジャンヌ・ダルク役は、Anny Duperey とBernard Giraudeau の娘で26歳のSara Giraudeau だ(20歳で、母親とやはりアヌーイの『白鳩Colombe』で共演してデビューしている)。シャルル7世役が歌手のミシェル・サルドゥーの息子のDavy Sardou と、二世の若手が出ているのも話題だ。

Anny Duperey は好きな女優で、猫好きで有名で、彼女の猫のアンソロジーなどは私も愛読している。故ベルナール・ジロドゥも名優だったが、私には、昔日本で観た日仏合作のTVドラマ『恋人たちの鎮魂歌(フランスのタイトルは « 明治神宮の鳥 »)」の中で、ミス・フランスでボンド・ガールだったクローディーヌ・オージェと共演していたごく若い時のイメージが強烈だった。日本が舞台だったせいか、ドロンやベルモンドのような有名な映画スターよりも、へえ、フランス人のテレビ俳優ってこんな感じなんだ、という等身大の印象を残したのだ。だから年配になって彼が名優で監督でプロデューサーとしても認められていることが分かっていても、私の中では今でも日本と結びついたなじみ深い思い出になっている。

そんなわけで、娘のサラ・ジロドゥーも、なんだか娘のような感覚で見守りたい感じになる。

ジャンヌ・ダルクというと普通は短髪なのだが、牢獄のジャンヌは9カ月も拘束されていたのだから、髪はのびていただろうというので三つ編みになっていて、幼い少女のような雰囲気がより強調されているので、審問官らを前にした堂々とした様子がさらにコントラストをなしている。

実は先日、アヌーイにも大きな影響を与えたJean Giraudouxの『La folle de Chaillot』をお気に入りのJean-Luc Jeener の演出で観たのだが、自分でショックを受けるくらいに感動できなかった。このブログに書く気もしなかった。

私はこの戯曲を読んだことも観たこともなく、今までに知っているのは、1970年頃に日本で観たアメリカ映画の『シャイヨの伯爵夫人』だけである。キャサリン・ヘップバーン主演で、彼女らの言動や、パリのシャイヨ宮の印象が強烈で、初めてパリでシャイヨ宮を見た時も、それから長い間もシャイヨ宮に行くたびに、その映画のシーンが思い出された。

それから何十年も経ち、今ではジロドゥの当時のフランスも想像でき、語られているフランス語も完全に分かるのだから、彼のフランス語の華麗さもさぞや新しい気分で堪能できるだろう、そしてこの時代の社会派の意味と、ある意味で今も変わらぬ資本家の貪欲さを痛切に感じられるだろうと期待していたのだが…

まったく心を動かされなかった。

どうしてだろう。

それに対してこのアヌーイの『ひばり』は、やはり、脚本も演出も俳優の演技も素晴らしいのだが、それに加えて、ジャンヌ・ダルクの生のカリスマがみなぎっている。

「私は(天の)声を聞いたその時に初めて生まれ、やれと言われたことをしている時に生きたのです。」

と、自分の生の意味を理解してはじめて死を受け入れるシーンは、それまでの、ユーモラスでかつドラマティックな展開のすべてをまとめあげて、舞台も観客もいっせいに、ジャンヌ・ダルクの見ていた世界にテレポートしてしまう。

テキストがところどころ今の世相を揶揄したものになっていることもあるのだが、とにかくまったく古びていず、真実というものは、あるところにはいつも厳然としてあるものだと分かる。

ジャンヌがもっともヴァイオレントに制裁を受けたのは、審問法廷や牢獄や火刑台よりも、ひょっとして、家族や村人の無理解を突破しなくてはならなかった時かもしれない、とも、この舞台を見て思った。
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by mariastella | 2012-06-15 06:35 | 演劇

ビデオ・アートの出光真子

私が、日本の多くの家庭の主婦の置かれている時として抑圧的な状況を、具体的な形でありありと感じるようになったのは、さまざまな女性の書くブログを見るようになってからだ。

それまで、個人の家庭の中の事情というのは、友人から愚痴を聞くというようなシチュエーション以外になかった。

それが、今や、ブログによって、いろいろな世代、いろいろな地方、いろいろな状況にある人の実態が、ある時は演出を加え、ある時はナルシシスティックに、多くは赤裸々に、怒りを込めて、ほぼ実況として伝わってくるのだ。

いわゆる掲示板に寄せられる質問と答えの内容にもくらくらする。

最近偶然行きあたって、一番ショックだったのはこれ。

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2012/0531/512215.htm?o=0

うーん、質問も答も、想像もおよばないくらいに私の現実とはかけ離れている。

そんな折、ポンピドーセンターの近代美術館のデジタルアートのコーナーで出光真子の作品を見た。

ポンピドーで草間彌生展を見ようと思っていたのに見損ねてしまって、なんとなく、日本女性アーティストの作品を探してみたくなったのだ。

そこにあったのは、『Yoji, What’s Wrong with You ?』(洋二、どうしたの?)1987という作品で、これがなんというか、強烈なのだ。

日本語で検索したら

http://www.makoidemitsu.com/www/home_j.html

というサイトにいろいろなものが紹介されていた。

東京のブルジョワの家庭に生まれたが家父長的な環境からアメリカに飛び出した姉妹がアーティストになってアメリカ人と結婚して子供を生み、その子育てや主婦業にも疑問を持って葛藤して…

という出光真子の経歴から絞り出されてきたような訴えの数々であり、構成が斬新で訴求力があるのだが、どれもみな、いわゆる「イタイ話」ばかりで、出てくるすべての人間が不幸に見えてくる。

女性をヒロインにした日本の演歌とかホームドラマとか人妻ドラマとか社会ドラマとか、無数のものが語りながら実は語れていなかったものが、出光真子の映像と映像内映像(大きなテレビ・スクリーンが必ず配されている)によって、ごまかしのきかない姿で突きつけられているという感じだ。

この人の作品はフェミニズムから評価されているんだそうだ。

作品の中にはママコさんの「主婦のタンゴ」というマイム作品をベースにしたものもあることも知った。ママコさんみたいに「主婦」の対極にいる人がこのような作品とコラボできるというのは、芸の力というものがリアルの生活体験とは関係ないという見本みたいなものかもしれない。

ポンピドーのビデオコレクションには他にも日本人女性(1930年代生まれの人)の作品がいくつかあったが、どの人もみな若くしてアメリカにわたってアヴァンギャルドに活躍したという感じの経歴であり、日本社会から突き抜けてしまっている。そうやって突き抜けてはじめて、逆に、ものすごくローカルでプライヴェートで伝統的な闇を串刺しにしてえぐって見せるのだから、草間彌生も含めて、何か宿命的なものを感じる。

日本のような国で生れ育った女性アーティストが「普遍」に到達するにはジェンダーのプリズムを通過せざるを得ないのか、あるいは、すべての規範的なものを無視し、あるいは無視されなければならないのか、と問いを立てたくなる。
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by mariastella | 2012-06-14 01:55 | フェミニズム

Troels Wörsel

Troels Wörselというデンマークのアーティストがいる。カタカナでなんと書くんだろう。

ポンピドーセンターにこの人の大きな馬の絵があって、すごく迫力がある。

http://www.cbx41.com/article-26338775.html

実はこの作品もいろいろな連作、習作になっていて、Troels Wörselの画像で検索したら写実的なものや、さまざまなトーンのものを見ることができる。

左向きの一頭の馬を真ん中で分けて背景によって味付けを変えたものだ。

「味付け」というのはこの画家が意識して使っている「料理する」という言葉にぴったりだ。

この馬のヴァリエーションは、調味料や盛り付けや付け合わせや食器をいろいろ変えてみたものだというのがよく分かる。

マチスにおけるアフォーダンスが「視覚」優先だったのに対して、Wörselは味覚に引き寄せているわけだが、右側の後半身がモノクロの「食材」状態で、左側に侵入した前半身が芳醇な味覚の至福に変身しているという感じが、オリジナルの前に立つとすごくよく伝わってきて、いつまでも眺めていたくなる。

おもしろい。
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by mariastella | 2012-06-13 01:23 | アート

Matisse : Paires et séries マチス展

ポンピドーセンターのマチス展が終わりに近づいたのであわてて行ってきた。この間から、忙しさにまぎれてたくさんの展覧会を見逃していたのだけれど、このマチス展と、リュクサンブールでやっているチーマ・ダ・コネリアーノ展だけは絶対に見たかったのだ。

Paires et séries、つまり、「ペアと連作もの」、マチスに特有の、同じテーマで同じ大きさの絵を何度も描き直す、というか、ヴァリエーションを研究したものを合わせて展示するという面白い趣向だ。

ラフな軽いものがじっくり描き込まれるものに変化するというのは分かるのだが、じっくり描いたものが、単純化していく作業の緻密さの方がおもしろい。

今回彼の室内画を並べてみて、フランス・バロック音楽との共通点を発見した。それは、mise en scène 演出、へのこだわりということだ。何をどう並べて再構成するか、「単純さ」さえ、実は考え尽くされたものなのだ。

こんなやり方を見ていたら、この人がもし、絵をデジタル処理できる時代に生きていたらそっちに走ったのかも…とまで思ってしまった。クリック一つで、色を変えたり、いろんな試行錯誤ができる。

実は同じ階でゲルハルト・リヒターの回顧展をやっていて、この人がまた、写真に特殊効果を与えて描くというデジタル処理の先駆みたいな人で、最近は実際にレーザープリントを使った作品をコンピューターで創っているのだ。

もっとも、マチスの「連作」も、リヒターの作品も、デジタルどころかずっしりとこだわりの手触りがアナログに伝わり、画家の気配というのが濃縮なので、たとえばウォーホールの連作だとか、他の画家のパロディ風の連作などとは全く違う。

また、下の階の近代美術館の常設展の方に、マチスの彫刻の裸の背中の連作が展示されているので、それも絶対に合わせて見るべきだ。何年も間をおいてレリーフが単純化していくのを見ると、色がなく、形とうねりだけが手触りと共に伝わってくるだけに、彼が絵に求めていたものがもっとはっきりと分かってくる。

連作で今回のマチスと同じような印象を受けたのは、バルセロナのピカソ美術館で観たベラスケスの模写のシリーズである。

その印象とは、ずばり、「アフォーダンス」だった。

これについてはまた改めて書こう。
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by mariastella | 2012-06-12 08:23 | アート

プラハに行くことにした

月末にプラハに行くことを決めた。

ボヘミアのバロック・アートは前からかなり好みだったが、エリカのおかげでソリプシストKを読んでから、プラハはまた特別のところになった。

いわゆる観光地としては、共産圏であった頃の方が今よりずっと風情があったとみなが言っている。今では、メインストリートは、パリでもNYでも表参道でも似たような高級ブランドがずらりと並んでいるのはプラハでも同じだ。グローバリゼーションの「正体」がよく分かる。

でも、共産圏の時代より格段にいいこともある。それは社会主義政権時代には没収されていたさまざまな美術や資料のコレクションがかなり復活したことだ。

だから第一の楽しみは、ストラホフの修道院内にある国立図書館だ。

出発までにもう一度バロック・バレーのクラスでエリカに会うのでプランを見てもらう予定だ。

チェコはヨーロッパの歴史の大きな流れや支配者たちの思惑に翻弄され続けて、文化的にも思想的にも、民族的にもいくつもの表の顔や裏の顔を持っている。その中でしか生まれないようなキャラがいる。

私にとってはやはりヤン・フス、そしてソリプシストのK(ラディスラフ・クリマ)の2人がその始まりと終わりにいる。

今ドボルザークの弦楽トリオを練習(ヴィオラ)しているところなのでドボルザークにも思いがとぶ。Opus74の第一楽章なのだが、どこかバロック的な香りがする不思議なエクリチュールだ。

スメタナとかドボルザークはいかにもボヘミアとかスラブらしさとかのロマン派バリバリのイメージで、それも嫌いではないのだが、この弦楽トリオが一作だけあって、それを弾けることはKの世界に別の方法で入っていく感じがする。

24日の生徒の発表会の後でこれを弾いて、翌日にプラハに出発である。
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by mariastella | 2012-06-11 00:15 | 音楽

リジューの聖女テレーズを読み返すことにした。

リジューの聖テレーズは近代カトリック最大の聖女で「教会博士」の称号さえ獲得した人だ。

同じカルメル会で同じ名のアビラの聖テレジアも同じく教会博士でビッグネームだが、彼女は67歳まで生きて、かなり華やかな活動をしている。

24歳で死んだテレーズの方は、生前は修道院内でしか知られていなかった。

私は19世紀末のフランスの時代背景とからめてテレーズについて書いたことがある(『聖女論』筑摩書房)。

彼女の時代や家庭環境などから彼女の心理だとか動機などはよく分かる気がした。「かわいい」という感じもする。彼女のような「聖女」が時代のニーズと合致して、いろいろな意味での「奇跡」を起こしたことも分かる。

それでも、私には、どこか、彼女に夢中になれないところがあった。

濃密な情感がみなぎる16世紀スペインで生きた常軌を逸したような過剰な神秘家テレジアにはわくわくと魅惑されても、反教権主義の高まりとその反動のセンチメンタルな「女子供」のカトリックの香りが強い19世紀末のノルマンディの女の子テレーズにはどこか冷やかな目線で向かってしまうのだ。

テレーズはもちろん「ただ者ではない」一種の天才なのだけれど、その「小さき者の神学」も含めて、私を芯からインスパイアするものではなかった。なんだか、大人たちからよってたかって過剰解釈されているような気もしていた。

ところが、最近しばらくぶりにリジューについて調べていると、そのデジタル・アーカイヴの充実ぶりに感動した。

時代が比較的新しいこと、活動の時期と場所が非常に限定されていること、家族に複数の修道女がいることなど、その気になれば、彼女と彼女にまつわるすべての「言葉」を網羅することができて、実際、それがほぼ実現されているのだ。

彼女の書いたものや解説書はすでに結構な量を読んでいたけれど、アーカイヴのサイトを見ると、圧倒される。

http://www.archives-carmel-lisieux.fr/carmel/

ここにきっと、私が見落としていた何か、テレーズの魅力の決定的な発信源が隠れている予感がする。

テレーズは私にとって「知的」にはもう納得できた人物だったし、人間的にも共感できるパーソナリティだったが、その信仰の位相は実は異邦人だった。

このサイトを細かく読み上げていったら何が見えてくるのか楽しみだ。
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by mariastella | 2012-06-10 00:35 | 宗教

ラカンとカトリック

ジャック・ラカンがカトリックの家庭に育ちイエズス会の教育を受け、弟にベネディクト会士は知っていたが、1974年にローマで記者会見をした時に、「本当の宗教とはどういう意味ですか」と聞かれて「本当の宗教とはローマ(カトリック)の宗教です」で答えていたとは知らなかった。

十字架のヨハネだとかシレジウスだとか、神秘主義者に興味を持っていたというのは分かる。

いわゆる「否定神学」にも。

カトリックのように一時期のヨーロッパの規範になり尽くした教義体系のある世界でそこから「突き抜けた」シンボリックな言葉で語る神秘主義者の世界は、必然的に精神分析学が探ろうとしている世界と似てくるということも分かるのだけれど。

ヨーロッパの知識人で、何らかのキリスト教の影響なしに思想を構築した人なんて存在するのだろうか…
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by mariastella | 2012-06-09 01:07 | 宗教

アンチ・フリーメイスン

フリーメイスンについての本の構成が固まってきている。

昔、岩波の『グノーシス 影の精神史』の中で『フリーメイスンとグノーシス主義という一章を担当したことがある。その時に、独立してフリーメイスンの本を是非、と持ちかけられたのだけれど、どのようなアングルで取りかかっていいか分からなかったので辞退した。

フランスのメイスンとアングロサクソンのメイスンとの違いや、それぞれの宗教や社会や「近代化」との関係はいろいろ分かっていたのだが、それと、私の直接知っているフランス人のメイスンたちの活動や、ロビーイングや人脈作りのあれこれをどう統合するか分からなかった。

そのうち、フランスのフェミニズムとメイスンの関係が、また別のテーマとして現れた。

最近では、大統領選で極左の候補として人気を博したメランションがメイスンであることにも注目した。

これらのさまざまなアプローチを整理して俯瞰するには、やはりヨーロッパにおけるカトリック教会の変遷、ユダヤ人との関係、自由思想や無神論の流れを通さなくてはならない。

フリーメイスンを語るには、さまざまなグループを弁別することはもちろん大切だが、はっきりと、フリーメイスンの歴史を語ることと「アンチ・フリーメイスン」の歴史を語ることとを分けることが大切だと、今は思う。

さらに言えば、フリーメイスンを語るには、「アンチ・フリーメイスン」とは何であったか、何であり続けるのか、を見ることが絶対に必要だ。

「無神論」を通してはじめて、人々の神に託すイメージが明らかになるのと同じだ。

私はもちろんフランスからの視点を中心にしているのだが、今はインタネットのおかげで、歴史的なアンチ・フリーメイスンの文書の原典にが比較的簡単に読める。それらを調べ上げた研究サイトも少なくない。その豊かさは無神論の場合と匹敵するほどである。また。ユダヤ人メイスンやカトリックのメイスンに対する論考も考えさせられるものがたくさん読める。

このテーマについて長年考えてきたおかげで、今や、何を読んでも自分の中のしかるべき文脈にすんなり入っていくところが便利だ。

今日的だと思うのは、何でもかんでも「情報開示」や透明性を求めるという現代の風潮のルーツとアンチ・フリーメイスンとの関係だ。もちろん「陰謀論」の隆盛とも表裏をなす。

ポピュリズムは、「エリートの秘密主義」をいつもスケープゴートにしてきた。それは「選ばれた人(民族)」の持つとされる特権意識や排他性への嫌悪でもある。

権力によって抑圧されたり搾取されたりしている人は多いが、その権力を羨望、嫉妬している人もまた多いのである。
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by mariastella | 2012-06-08 01:05 | フリーメイスン



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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