L'art de croire             竹下節子ブログ

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『パリとヒトラーと私 - ナチスの彫刻家の回想』アルノ・ブレーカー/中央公論新社

『パリとヒトラーと私 - ナチスの彫刻家の回想』アルノ・ブレーカー/中央公論新社

パリとヒトラーというと、昔観たルネ・クレマンの映画『パリは燃えているか ?』を思い出してしまう私。

そのイメージで、

「ヒトラーはパリを破壊したがっていた」

という刷りこみがあった。

思えば、『アンネの日記』から『マウス』まで、ナチスのユダヤ人狩りとその悲劇に関するさまざまな言説は、どこの国のどんな境遇にいる人が読んでも、「これはひどい、非人道的だ」、「人間の本性は悪なのか」から「神は存在しないのか」まで、一種普遍的な負の衝撃を与えてきた。

もちろん世界大戦中の出来事だから、戦勝国と敗戦国という軍事的政治的な立場の差があるし、加害者と被害者という二元論的構図も、戦後のイスラエル建国からずっと引き続く地政学的緊張の中で、意図的に補強されてきた面もあるだろう。

当然、「人が人に対してこれほど残虐になれるのか」というような「普遍的」な驚きや義憤なども、実は、特殊なレッテルを貼られて刷りこまれているのだ。

そこから逸脱するものは、ネオナチのような極端なスタンスであったりするから、なおさら二元論から逃れられない。

戦後生まれでユダヤ人でもドイツ人でもない私にもしっかりバイアスがかかっている。

この本は、1920代の芸術家の黄金時代だったパリに過ごして、後にナチスのお抱えのアーティストとなってしまったドイツ人彫刻家の目から見たヨーロッパのアーティストとヒトラーとパリという、かなりめずらしい視点から書かれた回想録だ。

こういうものを読んで、はじめて、今まで自分の中に蓄積されてきたナチスとアートや占領下のパリというもののイメージがいかにイデオロジカルだったのかが改めて分かる。

この「分かり方」が普遍的なものかどうかは分からない。

パリに何十年も暮らし、パリのアーティストたちと交流し、音楽活動をし、その中でつきあうアーティストの友人たちがほとんど100%国際的だという環境にいる自分の実感が、「分かり方」を支えているのかもしれない。

ドイツ人の著者の妻はギリシャ人、占領下のパリのドイツ大使アベッツの妻はフランス人、その顧問の妻はアメリカ人など、国際色豊かな状況もよく分かるし、そういう環境では、民族意識とか国家意識など下位のものでしかない。

フルトヴェングラーだとか、カラヤンだとか、ハイデッガーだとか、ナチスの時代でも人々は生き延びなくてはならなかったのだし、「ナチスに加担する」とか「ナチスに抵抗する」という二つに一つの選択はしないで自分の情熱や仕事を優先した人も多かったというのは当然考えられる。

直接自分たちの「自由が侵される」という体験をした知識人やアーティストは事態を考察せざるを得ず抵抗に回るが、とりあえず「自由が確保されている」と思えた知識人やアーティストたちが「観察者」にとどまろうとしたのはそれこそ人間的なリアクションだった。

ブレーカーは、占領下のパリで個展を開く時に敵意むき出しのジャーナリストから「国家社会主義の芸術は存在」するかと聞かれて

「盲腸の手術をカトリック式かルーテル教会式で行うということがある」かと答えた。

アーティストにとって、イデオロギーの何々主義とか何国人とかいうのは関係がない。

アートが優先する。

それはもちろん普遍的だ。

けれども、アートの国民性、文化の民族性は確固として存在する。

ブレーカーも、彼の周りのアーティストも、ヒトラーすら、「フランス文化」「フランスのアート」の憧憬者だった。

それは国籍などとは関係がない。

たとえば「フランス・バロック音楽の感性」というのは明らかに存在する。バッハだろうとモーツアルトだろうとそれが何かを的確にキャッチしていた。それを使うことも知っていた。

ヒトラーがフランスのアートに熱狂していたのは、特に建築である。ヒトラーはパリを訪れたいという燃えるような願望を抱いていた。

私は若き日のヒトラーがウィーンで描いた建築の絵の展示会を昔見たことがある。ヒトラーは画家になる夢も建築家になる夢も潰えて挫折した人だが、あの絵を見た限りは、パリの街に抱いていた憧れも本物だったのだと理解できる。

占領下の最初の日、幽霊の町のようながらんとしたパリをめぐったヒトラーが、パリの建築の均斉と律動に感動して興奮するさまは、ある種の倒錯とともに、強烈な印象を与える。

このような姿のパリを、このような目で見たのは、この時のヒトラー一行だけだったろう。

ヒトラーは、パリは私にとって模範なのだと言い、オペラ座を「世界で最も美しい劇場」と言い、モンマルトルの丘の上からパリを見降ろして感慨深げにこう言った。

-戦争が始まった時、私は自分の舞台に、パリを迂回しも周辺地帯のあらゆる戦闘を回避するように命令を下した。

-我々の目の前で花開いている、この西洋文明の驚異をどうしても守らなければならなかった。後世のために、完全無欠なまま残しておかなければならなかった。我々は、それに成功したのである。

こういう証言を聞くと、その同じ男が、1944年8月23日付で

「パリは敵の手に渡ってはならず、さもなくば廃墟となるべきである」

とい総統指令を出した事実にも、単に退却する場所のインフラを、敵の手に渡る前に破壊しておくべきだという通常の戦略とはまた別に、

我がものとなったはずのパリを失うくらいならすべて燃やしつくしてしまいたい

という、愛憎の倒錯的感情すらうかがえてしまう。

パリを完全無欠に守りたかったと言った言葉も、パリを廃墟にせよと言った言葉も、同じ情動の裏表だったのだろう。

この本にはフランス人ピアニストのコルトーのエピソードも出てくる。コルトーはヒトラーと同じくワグナーの信奉者であったのだが、1943年にベルリンでコンサートを開いた時は、当時ドイツのプログラムから抹殺されていたショパンのみを弾いた。高額の謝礼が払われ、彼はコラボとして戦後の活動をはばまれた。

ラモ-とルソー、ドビュッシーとワグナー、フランス的な音楽とロマン派的な音楽は、決定的に別のものがある。

ラモ-の音楽は、数学的な比に還元できる人工的なヴァイブレーションを人間のリアルな体の感覚にフィードバックすることで、エレガンスと明瞭さの中で「魂」に導くものだった

コルトーも、ワグナーの信奉者ではあったが、フランス音楽のその「身体性」を理解していた。

音楽をユマニスムの中に位置づけて、総合的なパリ音楽師範学校を創立したのもそのためだ。それは演奏テクニックや理論を偏重する音楽院に対抗するものだ。

私はこの学校に籍を置いていたことがあり、コルトー・ホールで弾いたこともあるので、あらためて感慨をおぼえる。

で、コルトーをフランス語で検索したら、日本に「コルトー島」があると書いてあったので驚いた。日本語で検索したら、戦後日本でコンサートしたコルトーが下関の近くの厚島という無人島を見て、その島を購入して永久に住みたいと言ったので「孤留島」(コルトー)と呼ばれたとあった。

それに関して日本のピアニストが書いている記事も見つけた。

これを読むと、ドイツや日本的な厳格な演奏スタイルとフランス的なメンタリティの違いもよく分かる。

これは決して、ドイツ人がドイツ的メンタリティ、フランス人がフランス的メンタリティで、その逆はないというような意味ではない。

繰り返していうと、メンタリティや文化に「国民性」は確かにあるのだが、「国境」はない。

しかし、いつでも誰でもどこでも本質的にはみなが同じメンタリティを持っているというような意味での「普遍」というものは、もちろんない。

でも、いつでも誰でもどこでも、ある個人があるスタイルに共感したりそれを採用したりする自由の可能性は、情報がいきわたる環境さえ与えられれば普遍的にあると私は実感している。

このアルノ・ブレーカーの本は、占領下のパリという極めて政治的な舞台を中心にくりひろげられるので、そのような普遍性を抽出するのは心情的に困難だ。出版する側も、それをあらかじめ免罪するためにわざわざ「ナチスの彫刻家」とネガティヴなイデオロギーがらみのレッテルが貼っているのだろう。

けれども、彼に貼られたそのレッテルは、読んでいる間も小さなトゲのように心に刺さる。

多分、回想記を書いているブレーカー自身の心にも刺さっていたトゲだろう。

にもかかわらず、彼が後づけの自己正当化やルサンチマンや開き直りの欲望などと微妙に折り合いをつけながらこの回想記をともかくも乗り切って貴重なアングルの証言を残してくれたことは、十分すぎるくらい評価できる。

人間、人生でどんな目にあっても、どんな過ちを犯しても、生き延びてそれを伝え残すことは意味がある、とあらためて思う。
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by mariastella | 2012-08-22 21:59 |

「どこでもドア」とカルヴァンの「ダンボール箱」

『カルビンとホッブス(Calvin and Hobbes)』は、ビル・ワターソン(Bill Watterson)のコミックだ。

ネーミングからしてただものではない。

Calvin は宗教改革のあのカルヴァンでHobbesはリヴァイアサンのあのホッブスである。カタカナのタイトルではあまりピンと来ないかもしれないが、アメリカやフランスでこのコミックを手に取る人には明らかにその含意が伝わってくる。

主人公のCalvinは6歳の少年で小学校の1年生という感じ。

ホッブスは彼がいつも抱いているトラのぬいぐるみだが、彼と2人だけの時には大きい2足歩行のしゃべるトラになる。

その掛け合いも面白いのだが、もっとおもしろい小道具は旧式の大型TVが入っていたと思われるダンボール箱だ。6歳の子どもがすっぽり入るくらいの大きなダンボール箱。

子供が「これちょうだい」と言って、自分の部屋で秘密基地にするような大きさだ。

で、この箱が、最初はこの中に入れば恐竜にも昆虫にもなれるような変身ボックスとして使われる。

次は向きを変えて自分の分身(コピー)を製造(5回で機能しなくなる)するマシーンになる。

分身がCalvinの代わりに学校に行ったりするのだ。分身ナンバー4が帰ってきて、「校長室に呼びだされて叱られた」と報告する。分身ナンバー2もナンバー5もすでに校長室行きになっている。
Calvinは「ぼくの評判はどうなるんだ、どうしてくれる」とナンバー4に文句を言うのだが、「文句言うなら自分で学校に行けばいいじゃないか」と反論されて「まあ、なんとかなるだろう」とひっこんだりする。

この箱は最後はタイムマシンとして使われる。

もう宿題が終わっていそうな2時間後に行くとかわりあい細かい実用的なことにも使われるのだが、2時間後も宿題はまだできていないのだ。

このコミックにおける現実と空想の境界の味は、よく読むとちょっと怖い。
脳内世界の現実を見ている感じだ。

たとえばドラえもんの「どこでもドア」を見て、いろんな人がいろんなことを空想するのとは決定的に違う何かがある。

夢の既視感とでも言おうか。

Calvinのダンボール箱を「パンドラの箱」と評した人がいたが、いいところをついている。

ダンボール箱はあまりにもありふれた外観を持つ。そして、日常の中で使い古し、ある時はわくわくしながら中身を取り出したり、ばらして捨てたり、不用品を収納したり、本や書類を死蔵したり、中が詰まったり、空にされたりの繰り返しの中で、それ自体は「なにものでもないもの」でしかない。

なんとなく、「穴」みたいな存在だ。

忘れられた記憶の穴。

ドラえもんが「未来から来たネコ型ロボット」で、のびたくんの友人であるとともにメンターとしての「使命」とか「意味」を持っているのに対して、ホッブスは、Calvinの自我の投影なのか逸脱なのかよく分からないが、ともかくその本質は「ナンセンス」であり、「不条理」を抱えている。

誤解を恐れず言ってしまうと、Calvinとホッブスとダンボール箱が生む奇妙な世界は、ある種の「霊能者」と自称する人たちが日常見ている(らしい)世界に似ている。

Calvinとホッブスの世界に親和性のある人、違和感を覚えない人たちが確実にいて、その人たちの「リアル」とはこういうリアルなのだ。

これを「子供の世界」と言いかえると、無難なのだけれど、少し違う。

なぜなら、それは、そのリアルをキャッチできない人にとって、

「ほほえましい世界」

などではなくて、

「見て見ぬふりをしなくてはならない世界」

であるからだ。
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by mariastella | 2012-08-19 22:28 | 雑感

トロムラン島の謎

TV のニュースでトロムラン島の発掘について「ポンペイのような考古学の宝庫だ」と学者が興奮して言っていたのを見て複雑な気がした。

インド洋、マダガスカルの東450kmにある周囲が3,7kmしかないサンゴ礁に囲まれたこの無人島は、絶えず強風にさらされて林すらない平らな砂ばかりの標高7mの島だ。

1722年にフランス人が発見したこの島は現在モーリシャスとフランスの間で領土問題となっている政治的な場所でもあるが、一応フランス領とされていて、1953年に設置された気象観測所の点検のために2カ月に一度フランスの空軍機が訪れるそうだ。

当初「砂の島」と名付けられたこの島が「トロムラン島」になったのは、1776年にこの島で漂流者とその子孫を救った船長の名を冠されたからだ。

1761年に置き去りにされた60人のマダガスカルの奴隷は、15年後に救助された時には、8か月の赤ん坊とその母と祖母と5人の女性だけだったという。

その組み合わせがいかにもミステリアスだったので、調べてみると、1774年に救助を試みた船が、結局島に近づけずにボートと船員一人だけを残して去り、泳いで島にたどりついたその船員が、翌年に男と女数名を連れて筏で脱出したが行方不明になってしまったということだ。

その時に去った船員だか男だかが赤ん坊の父親で、1776年の救助よりも17カ月前(9か月の妊娠期間を足して)の時点では少なくとも男がいたということになる。しかし、もし最初の遭難で残された男女がみなカップルだったとしたら、もっと他に子供や赤ん坊がいても不思議ではないから、ひょっとして島に残っていたのは女性ばかりだったのだろうか。

ことの起こりはこうだ。

1761年、フランス東インド会社が、マダガスカルで男女子供の奴隷160人を密買して当時フランス島と呼ばれていたモリシャス島に売るために向かった。

ところが「砂の島」の近くで遭難し、鍵のかかった船底に閉じ込められていた100人の奴隷と、フランス人20人が命を失った。

この時に閉じ込められていたのがそもそも屈強な男の奴隷で、助かった60人はもとより女子供だったということも想像してしまう。あるいは全員閉じ込められていたのだが、遭難した時に女子供だけかろうじて解放されたのかもしれない。

ともかくフランス人122人とマダガスカル人60人が「砂の島」に漂着、船からはSOSを知らせるための大砲(錆びついたまま今も浜に残っている)や食料や道具類を持ちだし、船の残骸をかき集めた。

島には何もなく、木の実も果物もない環境だ。

船長は正気を失っていたので、リーダーが代わった。

とりあえず、奴隷用とフランス人用の二つのテントを作り、井戸を掘り、鋳造炉まで作って、船を造り、2ヶ月後にフランス人122人が脱出した。

残された60人には少量の食料を置き、すぐに救助に来るからと言い残した。

彼らは4日後にマダガスカルに着き、さらに「フランス島」で総督に救助を要請したが断られた。

「フランス島」の総督は奴隷売買を禁じていたからだ。

奴隷売買を禁じるような人道的な総督がなぜ救助を出さないのかと思うが、奴隷を入れたくなかったのは、奴隷を養いたくなかったからであった。

おりしも英仏の植民地7年戦争の時代で、総督はイギリス軍に島を封鎖されることを恐れていたのだ。

奴隷を買って食い扶持を増やしている場合ではないし、ましてや、総督命令に背いて密売されようとしていた奴隷をわざわざ救いに行っている場合でもない。

乗組員はパリに戻り、ことを知った啓蒙の世紀のパリの貴族やインテリたちは、この置き去りを非人道的なスキャンダルだと見なして騒いだが、おりしも7年戦争が激しくなりフランスが敗れたので、「砂の島」のことはすっかり忘れられてしまった。

最初の救助がこころみられたのは7年戦争が終わって10年も経ってからだったが、試みは挫折した。「砂の島」はそれほどにアクセスの困難な「絶海の孤島」だったのだ。

奴隷取引では、男は骨格で、女は腰の大きさで、子供は歯で選ばれたと言われる。

砂の島に残された60人が何歳くらいでどういう性別だったのかという構成は分からない。

2006年と2008 年に考古学者が「発掘調査」を始めると、珊瑚のブロックでできた数棟の建物が発掘された。

食料になっていたと思われる海鳥や亀の骨も出てきた。火打石や手づくりの各種食器も出てきた。

で、絶海の荒野のような孤島でいったいどうやって15年もサヴァイヴァルが可能だったのかについて、学者たちは調査しながらその貴重な発見の連続に興奮しているわけである。

無人島に主人と奴隷が漂着するというシチュエーションはへーゲルの『精神現象学』の主人と奴隷の弁証法を思い出してしまう。

このケースでは、遭難した場合の危機管理のノウハウがあった船員たちのスキル(船から何を取り出すべきかという判断も含めて)が全滅を救ったとも言えるが、船員がすべて屈強な男たちで、屈強な奴隷の男は船倉に閉じ込められて溺死、残ったのは奴隷の女子供と、船員たちとの間にできた子供、という組み合わせだったのではないのかと、どうしても考えてしまう。

もし奴隷の男女と子供の割合がバランスよく残されたのだとしたら、生き残った数のアンバランスも謎になる。

この島は砂の荒地だから、毒性のある動物や危険な獣もいなかったはずだから、リスクを冒す男が命を落としやすいということもないだろう。

奴隷貿易を弾劾すべきなのは当然だが、長い航海のうちにばたばた死んでいったり、植民地のマニファクチャーなどの過酷な労働条件で死んだり殺されたりした無数の奴隷たちの運命の不当さや苛烈さとはまた別に、何もない空っぽの涙型の孤島で15年も生き抜いて、救出された後は「解放された」という以上の記録を残していない7人の女と赤ん坊のそれからの運命を思うと、万感の思いがこみあげる。

女たちと赤ん坊を救助して「砂の島」を「トロムラン島」にした騎士トロムランは、この時31歳だった。

7年戦争で敗れたイギリスに一矢報いるためにアメリカ独立戦争でも戦った。

聖ルイ騎士章を授与され、フランス革命下でも海軍副総督に出世した。

ナポレオンが失脚してイギリス領のセントヘレナ島に置き去りにされた年の翌年、1816年に、81歳で生まれ故郷のブルターニュで死んでいる。

トロムラン島で生まれたあの赤ん坊は、フランス革命をどんなふうに生きたのだろうか。
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by mariastella | 2012-08-17 07:59 | 雑感

選択か合意か - アベ・ピエールの言葉

先日テレビで久しぶりにアベ・ピエールのことをやっていて、前後は聞いていなかったのだが、その中で、アベ・ピエールが語っているビデオが挿入された。

「人が選択していると思っていることは、ほとんどの場合、同意(合意)しているにすぎないのです」

というワン・フレーズだ。

ちょっとショックを受けた。含蓄がある。

今の世界では、なんでも自己責任とか自助努力とか、表現の自由とか、あるいは、既成の価値やらに惑わされないで自分の頭で考えて自分の生き方を選択しようとか、「自分が主役」という考え方が主流だ。

それが極端に行くと、他を踏みつけるエゴイズムはもちろん、自傷や自死の権利、売春の権利など、にまで及んでしまう。

でも、確かに、私たちが、そうやって複数、または無限の選択肢から「自由」に「選択」していると思っていることのほとんどは、単に誰かから、社会から、システムから、提案または強引に勧められたものに「同意」「合意」しているにすぎない。

「選択の自由」は巧妙に仕組まれた幻想かもしれない。

「2030年までに原発依存率を・・%にするのに賛成か」

「子孫に借金を残すのか今増税や緊縮を受け入れるか」

などという欺瞞的なものから、

「女性がキャリアを優先するか子供を優先するか」など、

とにかく、選択肢の立てられ方、与えられ方そのものが、すでにイデオロギー的だったり、社会や伝統のバイアスがかかっていたりする。

「選択」したつもりでも、そもそも選択肢の与えられ方に反論する余地がなかった場合には、「自分で選んだのだから後は自己責任」だという論は立たない。

幻想の自由を与えるたいていの「選択肢」は、未知の要素、不都合な要素をあらかじめ恣意的に排除し、見ないようにした上で、分かりやすい情報だけを分析し予測した上で準備される。

その恣意的な選択肢を検討した末に最適解を得たかのようなポーズをとり、いざ未知の部分が立ち現われてくると、「想定外」だったと言って、嘆いたり逃げたり諦めたりごまかしたり開き直ったりするスタイルは、今や、特権階級のレベルでも一般人のレベルでもスタンダードになっているほどだ。

ほとんどのケースは、「合理的な最適解」を押しつける「合意」の強制だったのに。

そういえば、レイプ裁判などでも「あれは女性も合意していた」などという弁護も聞かれるが、合意するか殺されるかみたいな強制二択のような状況の「合意」など、「自由な選択」とは真逆のところにある。

登校拒否、引きこもり、二―ト、住所不定などいろいろな社会的にネガティヴな状況も、
社会や環境から一方的に与えられたやり方、生き方に合意せざるを得なかったり、あるいは
どうしても合意することができなかったりする結果であるのかもしれない。
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by mariastella | 2012-08-08 17:58 | 雑感

トロンプ・ルイユ展

装飾美術館で、前から行こうと思っていた「Trompe l’oeil」 展をようやく観た。

Trompe l’oeil (トロンプ・ルイユ)というと、日本でもところどころで見る「トリックアート美術館」だとか、筒状の鏡に映して絵を見るアナモルフォーズなどをすぐ連想するが、この展示会は、摸作だとか偽作だとか錯視だとかイリュージョンだとか多様なテーマを包括している。

リノリウムという素材がlin 麻と oleum油の合成語で実際に亜麻仁油を使っている発明品だったとはじめて知った。リノリウムにタイル模様が描かれていたり、フローリング柄だったり、大理石柄だったりというのは日常的に見かけるので、普通のように思っていたのだが、なるほどあれも「だまし絵」の一種だ。

素材感やら凹凸やら、遠近感やら、いろんなものを工夫して、人はいつも「偽物」を創ってきた。

創造の模倣、パロディ、いや、創造そのものかもしれない。あらゆるポートレートや銅像だって、実物の模倣、固定、似せたものなのだから、だまし絵の一種かもしれない。

また、CGやデジタルプリント技術の発展によって、誰でも手軽にかなり高度な模倣やだまし絵の制作ができるようになったし、安価に手に入れられるようにもなった。考えたら、コート柄のTシャツとか、サングラスが胸にひっかかっている柄のTシャツなどは私も持っている。本物そっくりの家具や食べ物や食器のミニチュアなども持っている。かなり好きだ。

錯覚を狙うというより、何かを手がかりにして想像をふくらませるのが楽しい。

こちらの庭にはよくキノコやコウノトリや小人さんの置物がある。妖精や小人などはリアルには存在しない(少なくとも目に見えない)キャラクターだけれど、その「偽物」、コピーを創ることで、逆に、どこかにあるかもしれないリアルを想像できる。

バロック様式の教会の天使たちや、植物をモティーフにした凝った装飾などにもみな同じ効果がある。

いや、カトリック世界では教会の中にも道端にも、家庭にも、個人の首にかかるペンダントにも至るところに見られる「キリストの磔刑像」なんていうものも、その大量のコピーの力でそのもととなった「オリジナル」を現出させる勢いだ。

パリのバック通りとか、ルルドとか、ファティマとかメジュゴリエとか、有名な聖母の「ご出現地」でも、実際に聖母の姿を見たりお告げを聞いたりするのは少数の幻視者とか神秘家だけだけれど、彼らの描写した聖母の姿がすごい勢いで大量に生産され、コピーされ、拡散され続けるので、「ご出現」とは実はこのことなのか、とも思ってしまう。

「だまされる目」とは「期待する視線」のことなのだろう。
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by mariastella | 2012-08-07 01:43 | アート

未成年の自殺報道について

大津いじめ自殺事件についていろんな方から意見を聞かれたのでひとこと。

自殺防止のためには報道を規制すべきだということは、国連のWHOからのガイドライン
でも強調されていることだが、その中で、

「個人的な問題に対処する方法として自殺を描き出さない。」というのがある。

自殺が「問題対処の方法」の選択肢の一つであり得たかのようにまず描いておいて、それからその選択肢を選ばせない方法をあれこれ議論するのはどこか間違っている、と私も思う。

日本語では「自裁」、「自決」という言葉もあり、「自殺」というのも『春秋左氏伝』などに出てくる古い漢語らしい。私はなんとなく、Suicideの翻訳語だと思っていた。

日本の昔の心中だとか切腹とか自害というのは、「選択」というより、社会的に行き詰って他の選択肢がなかったり制度化して強制されるものだったりという印象を持っていたのだ。

キリスト教国では、「狂気の果て」と見なされない正常な判断力のある人間の自死は長いあいだ世俗の法律上でも犯罪で、死骸が罰せられて裁判所の前で引きずりまわされたりあらゆる名誉や記録を剥奪されたりした。

もちろん教会も、自殺者の魂は地獄に堕ちると断言していた。

ところが、実は、自殺という言葉自体は、18世紀までは存在しなかった。

Homicide (殺人)という言葉はあったので、それにラテン語sui(selfという意味のse の属格)
を加えて造語されたものなのた。

suicidium というラテン語はあったのだけれど、英語やフランス語にはなっていなかった。

「意図的に自分で自分を殺す」という用法でsuicideが使われるようになったのは18世紀の前半なのだ。

それは、まさに啓蒙の世紀に現れたことになる。

18世紀には、「自分を殺人する」とか、「心臓を溺れさせる」とか「人生を短くする」などの表現でいろいろな人の自殺がニュースになり、フランス中のサロンで、法廷で、告解室で、人々が真剣に語り始めた。

ありとあらゆる階級の男女が自殺し始めたのだ。

遺書が残され、警察の調書が公開されるようになった。

それによって、「自殺」という言葉が生れ、市民権を得た。

それまで、悪魔の行為とされ、法律でも弾劾され、民衆からも忌み嫌われていたタブーのような犯罪が、

人々からも「理解」される個人的な身の処し方、

もっといえば、「自由」を行使する表現の一つに変わったのだ。

「自殺」が18世紀フランスで「市民権」を持つに至った理由の一つは、同じ頃、「幸福」が市民権を持つようになったことであるという。

死後に天国に行けるという希望ではなく、この世での「世俗的幸福」の追求や実現が初めて人々の視野に入ってきたということなのだろう。

「幸福」の具体的なイメージができてはじめて、人は「絶望」を知ったのだ。

実際、常に生命の危険にさらされているような社会ではサバイバルの本能しか働かないだろう。

18世紀のフランスでは、生活の苦しさだけでなく、政治的絶望、失恋、名誉のために、人々は命を絶った。

そしてそれについて意見がかわされたのだ。

フランス革命が起こった。

で、まるで、人権宣言やカトリック教会の否定と軌を一にするかのように、1791年には自殺が刑法の罪から外された。

後にこの91年法は廃止されるのだが、一度「市民権」を得た自殺は、次の世紀のロマン派の時代に向かってますます大きく成長していく。自殺にはロマンティックな付加価値すら与えられた。

これは、何を意味しているのだろう。

もちろんいつの時代にもどのような文化にも、何らかの理由で自死を決意する少数の人や、鬱病などの心の病から自死に至る人はいただろう。

けれども、それだけでは、近代以降の自殺の増加を説明することはできない。

自殺の増加は、それを「身の処し方」「人生の問題の対処法」として認知した社会の変化に深く関係しているのだ。

私たちの住む社会には、

「個人は自分の命に対する全権を有する唯一の所有者であって、自暴自棄自殺を自由に行使できる」

というイメージが描かれ、提供されてしまっているのだ。

けれども、自殺への促しは決して運命的なものではない。

社会的、人為的なものだということである。

それなら、少なくとも未成年から自殺という選択肢をなくしてしまうような社会の仕組みをつくれないだろうか。

WHOのガイドラインが呼びかけていることは、そのような「近代概念としての自殺」の歴史を見据えた上でついに生まれてきたものなのである。

あらゆるメディアはその辺をもう一度深刻に受け止めるべきではないだろうか。

(18世紀フランスで自殺が「個人の選択」として認知されていく経緯を詳しく分析している下記の本を参考にしました)

≪S'abréger les jours: Le suicide en France au XVIIIe siècle ≫Editeur : Armand Colin
Dominique Godineau est professeure d’histoire moderne à l’Université Rennes 2. Elle a consacré de nombreuses études à l’histoire des femmes et de la Révolution française et a publié Citoyennes Tricoteuses. Les femmes du peuple à Paris pendant la Révolution (1988, Perrin, 2004) et Les femmes dans la société française, XVIe - XVIIIe siècle (Armand Colin, 2003).
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by mariastella | 2012-08-03 06:41 | 雑感

ロンドン・オリンピックなど

ロンドン・オリンピック、 時差が一時間しかないので、時々ニュースや中継で見ている。

でも、ニュースの度にシリアのアレッポ爆撃のシーンも報道される毎日だから、すごく複雑な気分だ。

「内戦」にはオリンピック停戦もないのか。

シリアはちゃんと選手団を派遣していて、バッシャール・アル=アサドのロゴのシャツを着て入場していたりする。

7 月30日にはロンドンのシリア大使館から高官が去った。緊張が続く。
アレッポ爆撃にはロシアの兵器が使われている。

親欧米派であるサウジアラビアやカタールからは、選考基準とは別枠で、今回初めて女性選手をオリンピックに参加させている。
これらの国の平和な「民主化」をアピールする必要が「国際社会」にあるからだろう。

こういう背景を見ていると、とても、能天気にオリンピックを楽しむ気にはなれない。

唯一楽しいと思ったのは、わずか十分ほどしか見なかった開会式のセレモニーでのシーンだ。

ジェームス・ボンドに迎えられてやってきたという形の女王陛下が入場し、グレート・ブリテンの国旗が掲揚されるために運ばれてきたシーンだった。

ビデオなどで再確認していないので覚えていないが、多分それぞれの制服を着た数人の軍人が国旗を広げて横にして持ってきたのだと思う。

ポールの下に到着して、その場でしばらく足踏みを続けていたのだが、それが全く足並みがそろっていないでばらばらだったのだ。

中国や北朝鮮とはいかなくても、フランスの革命記念日の軍事パレードでも、各種軍隊はリハーサルをして完璧な動きを見せるものだ。この開会式は国威発揚型の北京とは真逆で全体に肩の力が抜けてユーモラスで好感が持てたけれど、女王陛下の前で国旗掲揚の時に軍人があんなにばらばらでいいんだろうか。あまりの意外さに楽しくなった。

こういうところが、良くも悪くも「先進国」の余裕なのかなあとも思う。

最近『ナチを欺いた死体』(中公新社)というノンフィクションを読んだのだが、第二次大戦下のスペインがどういう状況だったのかが初めて具体的に分かって興味深かった。

一応中立だったスペインは枢軸国側とイギリスのスパイと二重スパイとが複雑に暗躍して化かし合いをしている場所だったのだ。

そして、スペイン人、イギリス人、ドイツ人は、彼ら同士、一目見ただけで分かる。

さらに、ドイツ人にはユーモアのセンスがないとか、今でも言われている類のステレオタイプの民族性が諜報活動や欺瞞作戦に応用されていて、それが単なる偏見などではなくてちゃんと機能しているのもおもしろい。

最近、私の親しい人がドイツ人と働くようになって、ドレスデンからミュンヘンに行くためにルフトハンザの昼の飛行機に乗ったら、周りはみな同じ服装で同じ髪型のドイツ人ビジネスマンばかりだった。機内の乾燥を防ぐためにパイプから突然ミストが吹きつけられたので驚倒してガス室のことを連想したが、もちろん他のドイツ人は平然としていた。

フランスにいたらヨーロッパはいろんな民族が混ざっているなあと思ってあまりステレオタイプな見方はできないが、あのようなステレオタイプは、ヨーロッパ人同士が時間をかけて互いに観察し合って築き上げてきたもので結構根拠があるのだ。

ふと、パトリス・ルコントの『ぼくの大切なともだち』にも出てくるが、ギュスターヴ・エッフェルの祖父はドイツ移民でBönickhausen.という名をフランス人が発音できないのでフランス風に名を替えたものらしいということを思い出した。もし名を変えてなかったらエッフェル塔はブニックハウゼン塔だったと。

そう言われれば、エッフェル塔のような当時最新の建築テクノロジーをものにするなんてケルト系やラテン系のフランス人らしくはないなあ、といまさら思ったりする。

私はもぐらさんの『四国四兄弟』とか県民性のマンガを時々見ているけれど、いろんなレベルで地域性というのはあるものだなあと思う。

ただし、レベルによってそれを持ち合わせていない人もいる。たとえば私には日本人らしいところとフランス人らしいところとどちらもあるが、日本で先祖代々どこかに住んでいたというような故郷がないので、県民性というのは分からない。フランスでもパリやパリ近郊にしかいないからローカルなこだわりがない。

フランスでオリンピックの報道のされ方を見るたびに、あらためて国民性の違いがはっきり感じとられるのはご愛敬であるが、自分の意識も観察できて興味深い。
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by mariastella | 2012-08-02 02:55 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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