L'art de croire             竹下節子ブログ

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フェーメンの活動、ゲイの結婚法、アセクシュアリティ

4月23日、ベルギーのブラッセル自由大学で、カトリックのアンドレ・レオナール大司教とギイ・ハルシャー名誉教授が「冒聖: 表現の自由か侵害か」というテーマで公開討議を始めた途端に、裸の上半身に抗議文を書いた四人の若い女性がカメラマンと共になだれ込んで、怒号と共に、大司教に聖母型の容器に入った「聖水」を浴びせかけるという事件が起こった。


彼女らはカメラマンと共に去ったので、最初からメディアに流す目的でのパフォーマンスであったらしい。

この女性権利団体フェーメンはトップレスで抗議することで有名(パリでは展示中のノートルダムの鐘を叩いたりした)なので、もともとニュース性がある。

ウクライナが発祥の地で、ロシアのパンクバンド、プッシー・ライオットがモスクワの救世主ハリストス大聖堂でプーチンに抗議して厳罰を受けたということで、ドイツ訪問中のプーチンにも抗議してすぐに取り押さえられたが、プーチンがにやにや眺めていたのが印象的だった。

ベルギーでは、水をかけられた大司教は落ちついて祈りの体勢に入ったので、その姿が共感を呼んで、それまで大司教に批判的だった会場の人々からの支持率が一気に上がったという。討議相手の教授の方も、意見を異にする者同士が話し合う場を壊す行為を糾弾しているし、何よりも、フェーメンのメンバーがカメラマンを引き連れての行動であったことに、スキャンダル作りの商業主義を非難する声が上がっている。

フェーメンのような活動はウクライナ生まれであるように、政教の癒着や全体主義的統制の残っている地域では一定の意味があっても、ベルギーやフランスのような国ではあまり意味をもたない。

このアンドレ・レオナール大司教という人は、確かに、同性愛者について、そのような性的傾向は自分で選べないものであり、その原因も解明できないままではあるが、そういう傾向に気づいた人は独身の道を選ぶのがベターである、というような発言を最近していて、それが今回攻撃されたわけだ。

でも、自身も独身を選んでいるカトリックの大司教が、一昔前のように同性愛が大罪であるかのような扱いではなく、いわば、目立たないようにしなさい、と言うくらい、別に強制力がないのだからどうってことがない気がする。
カトリックの大司教の言うことが本当にそんなに気になるのだろうか。
気になるような人は黙って悩んでいるだろうし、気にならないような人にとってはどうでもいいことなのではないだろうか。

それともただ、トップレスの女性たちが司教に向かって聖母型容器から水をふりかけるという図が「絵」になるので宣伝に使っただけなのだろうか。

フランスでは先ごろ同性婚法(関連記事)が議会を通過したところで、それが「伝統的な家族を壊す」としての反対運動も過激化している。私は前にも書いたように、この法律は方向を間違っていると思っている。この法律はアンチ同性愛陣営が過激化する口実を与えてしまった。

こんなことは誰も言っていないが、あるいは気づいていないのかもしれないが、「同性婚」法に嫌悪を感じる人たちが少なくないのは、実は、「結婚」を性的なものにすることに嫌悪しているのではないのかとも思う。

フランスでは結婚の「秘跡」はずっとカトリック教会の専売制度で、フランス革命の後、「共和国」か゛それを全面的に占有しようとした。で、市役所に結婚式ホールを設けて、三色旗の襷をかけた市長や助役が厳かに結婚式を取り持ち、説教もして、指輪の交換もして、祝福して送りだす。

つまり、日本の結婚のように、役所に届を出すという散文的な手続きのみの「入籍」と、家族や友人の前で挙式したリ披露したりするというシンボリックな部分が分かれていない。

政教分離どころか、役所が「聖なる部分」を教会から奪って成立しているのだ。役所の手続きと「式」とが一体化している。

だからこそフランスではその共和国の結婚証明書がなければ教会での結婚式も挙げてもらえないことになっている。

日本では入籍する前に結婚式を挙げる人や結婚式をしても入籍しないままというケースもある。逆に入籍を促すのは妊娠や出産であることが普通だ。

フランスでは妊娠出産自体は結婚の動機にはならない。日本風にいう「婚外子」が半数を超える国である。

ところが、よくよく考えてみれば、聖バレンタインの昔には愛し合う二人の合意だけを祝福したキリスト教の結婚制度も、その後は、夫の財産継承や子供や母親の立場を保護するものに過ぎなくなったので、共和国婚もそれを踏襲したものにすぎなくなった。だからこそ、「婚外子」でも父親の認定や母子の権利が保証される世俗の法律さえ整うと、「結婚」自体にあまり意味がなくなったわけである。

それでも結婚「式」が維持してきた含意とは、それを聖なるもの、祝福されたものとするところにある。

で、逆説的にだが、「聖なるもの」とは、実は性的なものを拒否するのだ。

まず、男が自分の財産や地位を実施に継承させたいという意思を持つ時、血筋を保証するために「妻」を「母」として囲い込む必要がある。「妻」も財産の一部なのである。「性的存在」ではない。その証拠に「愛人」という言葉は常に「婚外」の関係を指している。

また、「病める時も健やかな時も」というように、病や老いなどによって互いが「性的存在」でなくなった時にでも、社会的な身分や暮らしの安定を互いに保障し合う意味で、結婚の「聖」化が必要なわけである。

結婚とは「性的存在」でない男女を社会的単位として囲い込む制度と課している。

そして、これもあまり誰も言わないことだが、多くの女性は実は、「アセクシュアル」ではないかと私は見ている。

セクシュアリティを語る時、同性愛も異性愛も両性愛もはっきりと線引きのできる区分ではなくホルモンの量などによるスペクトルであることは知られている。

そして、女性のマジョリティは、多分、子供を安全に生んで育てるために、アセクシュアルの傾向を持っているのではないだろうか。アセクシュアルというのは別に性的欲望がないとか、妄想がないとかいうものではなくて、生身の人間と実際に性関係を持ちたいという欲求のイニシィアティヴがないという「性的傾向」である。

たいていの女性は、心身の危険(妊娠や病気や暴力)がなく社会的な強迫も制裁もないのなら、相手が誰でもなんでも、気持ちよくさせてくれるものならOKというだけで、特定の相手を見て自分から欲求を満しに行くということはない。

実際は、「心身の危険がなく社会的にも安全な相手」というのはほとんどの場合が「夫」であるが、その「夫」は妻を「性的存在」として見ないのであるから、妻の快感のために努力することもなく、「結婚」はますます「無性」的なものになり、「聖」なるものだけがかろうじて残る。

もちろんある種の女性は、異性愛の男性が女性に抱くような積極的欲望を女性に対して抱くのだが、そういう真正のレズビアン女性は「男」ではないという先入観のハンディがあるから、相手のために努力し、「性的存在」として接するので、「夫」と「性」が乖離している女性がそういう女性に出会うと、夢中になってしまう。

私の身近にいるレズビアンのカップルというのにはそういうケースが少なくない。真正のレズビアンの女性に誘われてはじめて自分の性的傾向を「発見」したのではなく、もともとアセクシュアルだったのを、社会通念上結婚して、夫からモラルハラスメントなどを受けて「気持ちよさ」の追求さえできなくなっていた時に、献身的に尽くしてくれる相手が現れたから、女性であろうと何であろうとOKなのである。

アセクシュアルの人が「気持ちよさ」を追求するためにはそれが性的なものでなくても別にかまわない。「食べてしまいたいくらいにかわいい」赤ちゃんにほおずりする人とか、飼い猫の腹に顔を埋めて幸福感に浸る人などいくらでもいるが、よほどの倒錯者は別として、そのかわいがっている対象に性的欲求を抱くことなどない。

アセクシュアリティ(人口の1%と言われているらしい)をひとつのセクシュアリティとして認めさせようという運動はかなり最近のものであるが、それを知って、はじめて自分の性的アイデンティティを確認して安心したという人もかなりいる。

ここではこのサイトのフランス語の定義に従って使っているのだが、日本語で検索すると、ノンセクシュアリティ(非性愛)とアセクシュアリティ(無性愛)が区別されていた。(この記事での使い方は非性愛の方に近い。)

女性は結婚生活の中で母としての地位があればアセクシュアリティがデフォルトでもあまり悩まないのだが、欲望にかられて迫っていく側とされる男性にとっては結婚でさえ敷居が高い上、今の消費社会ではセクシュアリティがどこでも強調されてそれこそ「聖なるもの」であるかのように煽られているので、アセクシュアルの男性の疎外感は大きい。
フランスのような国ではなおさらだ。

それに比べるとホモセクシュアルの人たちはこれまでのマイノリティの反動からか、異性愛者のカップルよりもずっと性的なことが多い。

子供がいないダブル・インカムで可分所得が高いこともあって消費者としても市場を形成している。そういうセクシュアルな人たちに性的でない「聖なる」場所である結婚を踏みにじられたくないと思っている人が多いというのは想像がつく。

結婚やアセクシュアリティつながりでもう一つ気になったのは、

プラン・ジャパンというところによる世界中の女の子に教育をというキャンペーンだ。

Because I am a Girlという国際NGOプランが展開しているグローバルキャンペーンで、途上国の女の子や女性たちが「女の子・女性であること」で社会の底辺に置かれ、機会を制限されながら、さらに暴力や性的嫌がらせを受けやすく、早すぎる結婚や家事労働を強いられる現状を打開しようというものらしい。

しかしその

「13歳で結婚。 14歳で出産。 恋は、まだ知らない。」

というキャッチ・コピーの三つめの「恋はまだ知らない」というのは、消費主義社会での恋愛やすべてを性的に語る決まり文句にとらわれ過ぎている気がする。

「13歳で結婚。 14歳で出産。」という社会において、女性が「性的存在」としてではなくモノ、財として扱われているというのは事実であるし、そういう状態から女性を解放すべきなのは当然だと思う。

けれども、「若い時にはまず精いっぱい恋をしなくてはいけない」というふうな言辞は、「結婚しないと社会的に一人前ではない」というのと同じで、一部の人には無用の圧力になる。

女の子は恋に恋することがあって妄想もすることがあっても、必ずしも性的な接触を求めていないという点ではアセクシュアルなことが多いのに、変に「恋」という言葉で煽ると、それにつけ入れられて異性愛ばりばりの男の性的欲望の犠牲者になるのでは、とも思ってしまう。
人間以外の動物で雌が発情して性的な誘いをする場合は、その雌に選択権があることが多いと思う。発情したのら猫をオス猫たちが囲んでも、選ぶのは雌の方なのだ。人間の女の子が発情もしていないのに、性的マーケットの犠牲となってセクシィな格好をして不特定の男の性的対象となるのは危うい傾向だ。

今回のフランスの、「共和国市民の権利としての結婚をすべての人に平等に」という名目の法律は、そんなわけで、「同性愛結婚法」と言われるくらい、「性的」なものだからこそ、性の縛りのなかったパクス(同性または異性の成人2名による共同生活を結ぶために締結される民事連帯契約)の恩恵を受けていた人たちが疎外された気になっているわけだ。

協力して子供を育てているが性的関係のない同性や異性の友人同士とかきょうだいとか、障害のあるきょうだいや友人の法的保護(遺族年金受取の権利など)を用意したいとか思っていた人たちにとって、その方向でパクスが改正されていく見通しは消えてしまった。

同性愛者が結婚によってさまざまな問題をクリアできるなら、ロビーを形成できない同性愛者以外の人たちには力がないからだ。

かといって、「性的関係がない」けれど法律の保護を必要としている二人の人間が、そう簡単に「式」を伴う「結婚」を申請することはあり得ない。結婚式は長い間、「性」を「聖」で飼いならすものであってきたし、「同性婚」を認める新法はそれを「性的なもの」に揺り戻したわけで、「性的関係のない」二人の市民による連帯の保護からはますます遠ざかっていくのである。
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by mariastella | 2013-04-29 21:59 | フェミニズム

フランシスコ法王とキリル1世

ロシア連邦の45地域の130都市で行われた調査(« Levada center »の社会学者たちによるもの)によると、フランシスコ教皇がロシア正教のキリル一世を訪問することに好意的な意見が71%にのぼったそうだ。

今はまだその時でないという否定的な意見は9%である。

過半数が、ローマ・カトリックとロシア正教の関係改善が可能だとみている。

これは「フランシスコ効果」なのだそうだ。

なぜだろう。

正教との関係改善はベネディクト16世の頃にすでに良好になりつつあったと思っていた。

思い出すのは、2010年5月のB16の誕生日の折に、ヴァティカンのパウロ6世ホールで、ロシア正教のキリル1世がB16のためにコンサートを開いたことだ。

それに先立ってヴァティカンが「ロシアの文化的霊的な日」というのを催していた。

ロシア国立オーケストラを指揮したのはカルロ・ポンティ(ソフィア・ローレンとカルロ・ポンティの息子)だった。

2012年の8月にはキリル1世が、カトリック国ポーランドを3日間訪れて、ポーランドの聖職者たちと共に和解の宣言に署名した。

冷戦時代の鉄のカーテンが引き裂かれたきっかけの一つがポーランド人のローマ法王に勇気づけられたポーランドの連帯運動だったことや、ロシア正教徒の関係回復が旧ソ連でも重要になっていったこと、今のキリル一世がプーチン大統領を支援していることも含めて、いろいろ感慨が深い。

ベネディクト16世が名として選んだ聖ベネディクトはヨーロッパの守護聖人でもある。

最近は、ある種の外交問題でロシアと中国が足並みをそろえたり、ロシアとヨーロッパが険悪になったりする場面も少なくないので、ロシア正教とヴァティカンの関係がよくなるという展望は国際関係の緊張緩和にとって悪くない。

ロシア正教はその名のごとくロシアのアイデンティティが強いけれど、ローマ・カトリックの方は、今やイタリア離れどころか、ヨーロッパからも離れたアルゼンチン人のフランシスコ教皇がしきっているので、二者の接近はよりグローバルな視点での平和につながるかもしれない。

それが「フランシスコ効果」ということなのだろうか。
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by mariastella | 2013-04-28 04:56 | 宗教

宗教弾圧と日本

世界史において、異教徒の弾圧、迫害の話はいつでもどこにでもあるし、時として想像を絶する残虐さがあるのも共通している。

どこかの民族や社会が他宗教に比較的寛容に見える場合でも、それは経済的繁栄や政治権力の安定などによる一時のことでしかないことがほとんどだ。

その意味では、日本における「キリシタン弾圧」も、非常に残酷なものもあったし、拷問や処刑を受け持つ下級役人などの中には、単に命令に従っているという以上にひょっとして本格的なサディストがいたのではないかと思えてしまうのだけれども、それでも、日本におけるキリシタン狩りには、日本ならではの犠牲者へのリスペクトというエピソードがいろいろ残っている。

確かに、処刑されたキリシタンの中には大名も含めた身分ある人もいたし、その主人に倣って改宗してそのままそれに殉じたという人が少なくないから、彼らが他人を殺めた犯罪人などではないことも、周囲のみなが知っている。

棄教を求める幕府の通達に従わないという罪はあっても、「直接の主人や父や夫に殉じて信念を覆さなかった」という意味では、日本的な美意識に適っていた。

しかも、抵抗せずに静かに運命を受け入れる人たちに対する尊敬の情も伝統的にある。

で、キリシタンをうち首にした役人の中にも、リスペクトの姿勢を崩さず、処刑の時に周りにいた群衆も、みなが合掌したなどというエピソードも残っている。

もう一つ、日本には、自分がいわゆる悪行をしたわけではないのに命を断たれるという「非業の死」を遂げた人に対する「畏れ」の念もある。

「何とか、やすらかに成仏(キリシタンだけど…)してください」と祈ってしまうのだ。

しかも、安土桃山時代にけっこう日本の各地で活動していたキリシタンの修道会は、当時の日本が「天刑病」として忌み、隔離していたハンセン氏病などの感染病にかかった人たちを組織的に世話した。

「捨て子」の世話と「癩病」者の看護は伝統的にキリスト教の守備範囲なのだ。

そしてその二点は当時の日本の社会で見捨てられていた部分だったから、いくらでもキリスト教が進出することができた(後に、修道会本部から医療行為を禁じられて去った修道士もいる)。

日本人はそのことに驚き、敬意の念をもって記録した。

そういう文脈の中で、円空の話をあらためて考えた(前田速夫『異界歴程』)。

円空本人も癩病者だったのではという仮説のもとに、円空が名古屋でキリシタン殉教者の霊を弔ったのは、キリシタンが癩者の治療に当たっていたからだろうというのだ(池田勇次さん)。(前田速夫『異界歴程』より)

愛知県犬山市五郎丸万願寺五郎丸の稲荷社には、キリシタン弾圧による殉教者の供養塔があるそうだ。

五郎丸村では、7年間に124人が捕らえられたそうで、村の人口が半減したという。万願寺という地名も、もとはキリシタン寺で、禁教令によって取り壊されて、「諸神諸佛諸菩薩(しょしんしょぶつしょぼさつ)」と書かれた卒塔婆が残っているという。

福島県の猪苗代成就院で処刑されたキリシタン110人のためには、成就院の僧侶の建てたキリシタン供養の像がある。

有名な天草の乱の激戦地にもキリシタン千人塚という供養碑があるが、こちらは、

「鬼理志丹の根源は専ら外道の法を行い 偏に国を奪わんと欲するの志ふたつ無きなり」

などと書かれているから、リスペクトというよりは非業の死をとげた人たちの荒魂封じ込めのようなニュアンスがある。

さすがに「神にして祀ってしまう」というのはしなかった。

でも、日本には、赤穂浪士の討ち入りに続く切腹や、源義経と弁慶の最期への思い入れのように、いわゆる「判官びいき」というものがあるから、キリシタンの悲惨な運命も、古今東西の「宗教弾圧残酷物語」の中では、少し救われるような気がする。
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by mariastella | 2013-04-27 00:26 | 歴史

パリの個人書店での出会い

先日Léon Bloy について書いたが、『ジャンヌダルクとドイツ』という本をボストンの公立図書館のジャンヌ・ダルク・コレクションからPDFをダウンロードしたものを今読んでいる。

それにしても、この人のハルマゲドンへの期待みたいなものと第一次大戦でドイツに期待したアンテクリスト的なヴィジョンは一体何だったんだろう。

関心のジャンルが私と似ている割には大きな謎が残る。

で、先日、バロック・バレーのレッスンの近くにある本屋に寄って『ナポレオンの魂』を注文しようと思ったら、

「あ、それならここにあるから」と

すぐに出されたのには驚いた。まだ出版社の名も言っていなかったのだ。

私の行きつけの書店はサン・シュルピスにあるLa Procureで5%の割引カードも持っているのだが、バレーのレッスンの前後に寄るためには、近い割にアクセスが悪い。

バレーのレッスン以外にはほとんど出歩かないので、近頃は、10回買うと全額の5%を次に引いてくれるというバレーの近所の個人書店でよく注文するようになった。

とても狭い店舗なので自分の目当ての本などはないだろうと思っていたのに、いきなり棚から出してくれたのだ。

それから、その書店主さんと、ブロワとベルナノスの反ユダヤ主義がミスティックなもので差別的なものではなかったということなどについて、いろいろな話をした。

フランスのような国に住んでいると、どこにホロコーストの犠牲者の子孫がいるか分からないし、戦闘的無神論者や差別主義者にぶつからないとは限らないから、私は「知らない人」とは宗教や思想的な話はできるだけしないようにしている。

まあ向こうの方は一目見て私がユダヤ人でもなく共和国原理主義風無神論者でもないことは分かるだろうから、話がしやすいかもしれない。

結局、大いにレクチャーしてもらってブロワの『ユダヤ人による救済』も勧められて購入した。

それからメールでやりとりするようになって、今は、フランス型のフリーメイスンにおける一神教折衷主義についての本を探してもらっている。

「ついでに私の代わりに読んで要点をレクチャーしてくださいよ」と言ったら自分も興味があるから、と答えて、いろいろ読んでくれている。

私の知りたいのは19世紀末におけるフリーメイスンの「教義」の中で、三つの一神教が関わる折衷主義l'éclectismeと混合主義syncrétisme の区別の付け方だ。

ジャンヌ・ダルクとユダとフリーメイスンとナポレオンという私の最近のテーマが19世紀末の神秘主義の流れの中でつながっていくのは興味深い。
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by mariastella | 2013-04-23 23:46 | 雑感

ミュージカル『シスター・アクト』フランス語版

ミュージカル『シスター・アクト』

ここ数年で見たミュージカルの中で最高に楽しめた。

他のミュージカルとの関係でいえば、ギャングのグループが『ウエストサイド・ストーリー』を思い出させ、堅物ぞろいのシスターたちに音楽を教えて生まれ変わらせるシーンは、『サウンド・オブ・ミュージック』のドレミの歌のシーンで子供たちが変身する様子を思わせる。

おどおどしている見習いシスター(志願者)の少女がついに声をはりあげる場面は、『サウンド・オブ・ミュージック』よりも感動的で胸が詰まるほどだ。

(これはパリのアメリカン・チャーチで演じられた時の動画で衣装などが違うのだが参考に貼っておこう。)

『サウンド・オブ・ミュージック』と言えばこのタイトルは日本語でも英語をそのままカタカナにしているのにフランス語では『幸せのメロディー』といういかにもぬるいタイトルがつけられている。

一方、この『シスター・アクト』はフランス語でも英語タイトルをそのまま使っているのに、日本では映画のタイトルが『天使にラブソングを』と、これもあまりにもインパクトなさすぎの甘ったるいタイトルで驚く。

『ウエストサイドストーリー』も『サウンド・オブ・ミュージック』も人気ミュージカルの映画化で、映画も舞台も両方観たが、『シスター・アクト』は映画の舞台ミュージカル化である。

といっても曲も変わっているし、筋もけっこう変わっているし、何よりも、衣装や舞台装置や照明が舞台版ではすばらしく、本当に贅沢で楽しくわくわくする仕上がりになっている。

ミュージカルというと昔はブロードウェイなどが本場というイメージだったけれど、『レ・ミゼラブル』以来フランス産ミュージカルがいろいろ生まれて、今やすっかり根付いてしまった。
考えてみると、ミュージカルは、フランス・バロック・オペラとよく似ている。
レシタティフというか、語りが曲になり、「歌手が演じる」というより「役者が歌う」という感じで、しかも、ダンス・ナンバーが絶対に欠かせない。
「朗唱にダンス」のエンターテインメントというのは、フランス・バロック・オペラそのものだ(フランスのオペラはその後イタリア・オペラ方向に発展していってバレエと分かれてしまったわけだが)。

で、この『シスター・アクト』は、完全なフランス語ヴァージョン版であり、フランス語のエスプリが自在にちりばめられている。

シスターの名が「ポワトゥのセゴレーヌ」だったり、「クリスマスですよ、マザー」というセリフが「ノエル・マメール」(緑の党の政治家)のだじゃれだったり、「神よ、私に徴しをお与えください」と歌う修道院長が、「聖ジョルジュには竜が、聖・・には・・が」と聖人の名をずらりと上げていく時に、「聖ポールにはマレが、聖ドニにはシテが」などと言う(パリのサンポールはマレ地区で、郊外のサンドニにはシテというゲットー化した団地がある)。

ヒロインと修道院長が心を通わすシーンで「これは神のマジックよ」と言う修道院長にヒロインが「人間のマジックかもしれないわ」と返すやりとりも、フランスのような国(カトリックと戦って共和国主義を確立した)で聞くと味わい深い。

典礼のシーンでは客席が信者の席に見立てられていて、最初はがらがらの教会が満杯になるという展開も、フランスの教会のいろいろな事情を連想させる。

また、歌って踊ってのパフォーマンス付きの典礼が人気を集める様子も、中南米でショー的な要素の多い教会に人が集まり、それに対抗してコンサートを開くカトリック司祭も出てくると言った昨今の現実も想起させられる。

ウエストサイド・ストーリーもカトリック系移民の世界が舞台だったが、シスターアクトも当然ながらさらにカトリック色が濃い舞台になっている。

司教はアイルランド系の名だし、最後のシーンはローマ法王パウロ六世を迎えてのコンサートということで、キーボードも叩く指揮者が突然、教皇の白い帽子と白い上衣をつけた後姿でオーケストラボックスの影からにゅっと立ちあがる(映画版でも後姿が見えていた)。

客席にプログラムを売りに来る男もハレルヤと叫んで客にも声を上げさせたりして、なんとなく、ここに過激派のムスリムとかいたら気まずいのでは、と心配になった。

日本や韓国での上演 (ブロードウェイ版の英語で字幕付きのものなのか、日本語ヴァージョンなのか分からないが)の話も進んでいるとプログラムにあったけれど、上記のようなニュアンスが全く意味を持たない日本のような国で、はたしてどの程度おもしろくなるのか、いろいろなニュアンスが伝わるのか、分からない。

フランス語版のヒロインはハイチ系のカナダ人だ。ギャングの黒人も黒人が演じている。

日本で日本語ヴァージョンをやる日が来るとしたら、『ライオン・キング』みたいに黒塗りメイクということになるのだろうか。日本語使いのアクターや歌手の外見に多様性がないのはこういうアダプテーションの時に不自然になって残念だ。『蝶々夫人』を西洋人歌手が演じていると日本人が見て違和感があるのと共通していると思うのだが、たとえばフランス語を母語とする黒人がいくらでもいるフランスで、黒人役を白人が黒塗りメイクをして演じるということはまず考えられない。逆に黒人オペラ歌手がカルメンやラ・ボエームの主役を歌っても別に白塗りメイクをするわけではない。

この「シスターアクト」では、ヒロインが高校の時に白雪姫を演じて、白は抜いて「雪」だけにしたというセリフがあるし、彼女が名前も身分も偽っていたことが判明した時に「じゃあ、黒人ってところは?」と聞かれて、「ああ、それは私の一部だから」と答えるところがあるので、肌の色は看過できないファクターなのだ。
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by mariastella | 2013-04-22 00:18 | 演劇

レオン・ブロワLéon Bloyのこと

最近になって、レオン・ブロワと私には共通点がたくさんあることを発見した。

ジャンヌ・ダルクの本、聖母御出現の本、ナポレオンの本(私はまだ書いていないが準備中。ナポレオンと神についての論考という切り口も似ている)、ヴィリエ・ド・リラダンとの交流があり彼の死後に「リラダンの復活」という文を書いている(リラダンは私の卒論のテーマだった)。

なぜ急にレオン・ブロワの本を集め出したかというと、新ローマ法王フランシスコが3月14日のシスティナ礼拝堂での最初の説教でレオン・ブロワの言葉を引用したからだ。

レオン・ブロワのことはリラダンとの書簡があるので19世紀末作家としての認識はあったけれど、南米で根強いファンのある人気作家であることなど知らなかった。

カトリックつながりで、レオン・ブロワの洗礼子に当たるジャック・マリタンが1930年代から40年代にかけて南米でアクション・カトリックに影響を与え、ブエノスアイレスなどでレオン・ブルムについての講演をしたことも人気の要因になった。

神秘主義と、貧乏礼賛というか金持ちの憎悪が分かちがたくセットになっているのが南米の風土に合っていたんだろうか。

生活に困窮しインクが足りなくて水で薄めながら高邁な言葉を繰り出していたというリラダンのことも久しぶりに思い出している。 社会カトリシズムの観点からリラダンの短編をもう一度読み返してみなくては。
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by mariastella | 2013-04-21 06:55 | 雑感

ヴァティカン銀行

先日書いた8人の枢機卿による改革委員会なのだけれど、実は教皇になったベルゴリオを含めて、コンクラーベの前から顔ぶれが決定していたそうだ(チリのJavier Errazuriz枢機卿が明かした)。では、ベネディクト16世による人選だったのだろうか。

フランス教会の関係紙はこれまで教皇の補佐として存在感のあったフランス人枢機卿が全く入っていないことに関して憶測を述べている。

でも、それならなぜ最初の会議が10月まで開かれないのか、それはフランシスコ教皇の意思ということなのだろうか。

スキャンダルの源でヴァティカン改革のもう一つの対象になっていたヴァティカン銀行(IOR、宗教財務院 :1942年に公認)も閉鎖する方向だそうだ。

フランシスコ教皇はブエノスアイレス司教時代に、財政難を切り抜けるためにIORの援助を受けているので心情的に難しいのではないかと言われていたのだが、イタリア銀行から免税処置を受けているこの銀行は新自由主義経済の中での脱税装置として機能してしまっていたから閉めるほかないのだろう。

これはカトリック教会がどうだとか陰謀がどうとかいう話ではなく、情報公開が少なく金の集まるところには違法に利益を得ようとするものが集まるのは世の常で、イタリアとなるともちろんマフィアも関わってくる。

1982年に、IORが筆頭株主だったミラノのアンブロジアーノ銀行が倒産した時は、頭取がロンドン橋の下で首を吊られたり、フリーメイスンでもあるアメリカ人聖職者が容疑を架けられながら逃げきったり、大スキャンダルになった。

すでに前頭取(聖職者ではない金融のプロ)は2012 年5月に解雇されていて、9カ月も新頭取が任命されぬまま、2013年初めにはイタリア銀行がヴァティカン銀行のATMを停止し、スイスの銀行が担保を保証してようやく再開、ベネディクト16世が退位する2週間前の2月15日にやっとドイツ人の新頭取エルンスト・フォン・フライベルクが任命された。

8 人委員会にドイツ人枢機卿が入っているのも含めて、こうして見ていくと、B16はさすがに、完全に力尽きてから去る前に、しかるべき道を示唆していたのだなあと思う。

7月4日までにヨーロッパ評議会の銀行監査があり、ヴァティカン銀行はとりあえずブラックリストから外してもらわなければならない。まず体質を変えてから組織を解体するということになるのかもしれない。
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by mariastella | 2013-04-19 23:56 | 宗教

Le trac

 朝ラジオを何気なく聞いていたら、舞台に出る前に「あがる=avoir le trac」ということについてインタビューされていた女性がいた。「具体的にどうなるんですか」と聞かれて、

 「いや、説明できないけど、舞台の様子が違って感じられて、すべてに熱っぽくなって、手足も震える感じで、立っていられないんじゃないかとか、ステップができないんじゃないかと思い、パニックに陥って、今すぐ帰りたいと思ったこともある」

 と答えていた。

 「あなたのような水準にある踊り手がそんな風に感じるなんて・・・」

 とインタビュアーが言っていたので、一体だれだろうと思っていたら、何と、シルヴィー・ギレムだった。

 驚いた。

 シルヴィー・ギレムといったら、アーチスティックなパフォーマンスはもちろん、身体能力からいっても、空間と振り付けの記憶力からいっても、何十年に一人といった天才ダンサーである。

 ある若手ギタリストが、有名ベテランギタリストに、自分は一度もあがったことがない、と自慢すると、「心配することはない、キャリアを積めばそのうち分るから」と答えたという逸話もあり、 tracにはいいtracと悪いtracとがあるというのもよく言われることだ。

 私の生徒だけ見ても、普段は下手なのに、発表会だと興奮して何だか堂々とそれなりに弾いてしまう子供もいれば、上手いのに、あがってしまって悪いところが全部出てしまうという子供もいる。子供よりも大人の方があがりやすいというのも普通だ。性格や、「前に、あがってもこれだけはできた」という成功体験によって少しずつ克服する例もある。

 私自身も、小さい時からピアノや声楽、バレーの発表会や公演で、小さな失敗を重ねてきたし、「あがる」ということももちろんあった。

 以前、歌手の友人のフランソワーズがクラブで歌う前夜にホメオパシーのジェルゼミウムを3粒摂り、当日は朝、昼と、本番の30分前に摂ると心臓がバクバクしなくて声も震えない、と教えてくれたので、気休めかもしれないと思っても私も真似したことがある。私は、意識的には、舞台とかが好きなので、事前に「怖ろしい」とか「逃げたい」と思ったことはないのだが、実際本番になると、ヴィオラを始めた頃は弓に圧力がかからなくて音が飛んでふるえたり、ギターのアンサンブルでも直前に頭が真っ白になって、暗譜に自信がなくなり初見のように楽譜を見つめたり、簡単な和音をフォルテシモで弾き落とす直前に突然動悸がはげしくなるという体験はあったからだ。
 気持ち的には落ち着いているので、突然くるパニックは神経生理的なものなのか自分でも驚きで、そういうのには、このホメオパシーは効いたと思う。知り合いのピアニストで、レベルも高く、あがるということもないのに、演奏途中に不整脈や動悸に襲われると歎く人がいて、これを紹介したらすっかり「治った」と喜ばれたこともある。
 
 ヴィオラの場合は、年数を重ねて、テクニックが安定すると弓の震えはなくなった。試験の時、発表会の時、練習量、いろいろな条件を比べて、自分の「あがり方」のデータを収集するのも興味深い。

 6年前に日本にトリオの公演に行ったときは、一日に2回公演とか、6日間連続公演もあったので、そういう時は、さすがに、前日とか当日とかという意味もなくなり、移動がある時などは一つの公演が終わって楽器をケースに入れ、次に取り出すのは次の日の本番、という時すらあった。
 その時もホメオパシーの薬は持っていたのだが、全く飲まなかった。あがりかたをマネージメントする余裕もなく、あがっている余裕もなかったのだ。演奏以外のオーガナイズなどの他のストレスもかかっていて、全体にハイテンションになりすぎていたということもあるのだろう。

 それ以来、「あがらない」という回路が脳のどこかにインプットされたらしく、まったくあがらなくなった。
 緊張して失敗するというのは、生徒と連弾する時で、生徒が下手だと、そっちに気をとられて自分の方は集中できない、しかもそういう連弾の自分のパートは一人で練習するということはないのでいつも初見みたいなものだという理由がある。それに比べると練習してテクニック的に仕上がっているものはやはり強い。

 ところが、うちのトリオの二人は非常にtrac管理に弱い。

 高音ソロパートのMが責任感による重圧でピリピリするのは分る。
 しかし、音楽学的にもテクニック的にも稀有の実力を持ち、チェンバロもオルガンも指揮もこなせるHが、時々、本番前にパニック状態になるのである。
 この二人は普段も学校の音楽の先生でもあるから、生徒たちを前に話したり弾いたり歌わせたりするのも日常的なのに。
 彼らの精神的な弱さや、本番前の逃げの姿勢というのは、私にとって、ずっとイライラさせられることだった。

 こいつらはそもそも、プロの舞台人にはなれないんじゃないか、インテリ過ぎじゃないか、甘えじゃないか、人前で弾く約束をした以上、どんな状態でも最低限のレヴェルを保証するのがプロだろう、私だってそれなりにストレスがかかってるのに表に出さないようにしてるのに、そんな様子をこっちに垂れ流すなよ、と思う。

 時には、もうこいつらとトリオを組むのはこれで最後だと、何度も思った。

 実際は、tracに関わらずいつもそれなりのパフォーマンスができ、互いの信頼感も育っているし、情熱を共有しているのでもう付き合いが20年も続いているのだけど。

 で、シルヴィー・ギレムの思わぬ告白。

 シルヴィー・ギレムである。

 まあ、彼女だからこそ、いかにtracがあるってことでも平気で話せるんだろうが。でも、実感がこもっていて、H とそっくりで、ほんとうなんだと思う。

 ちょっと気が楽になった。

 Hがいつかこういうtracを克服するんだろうという「時や慣れが解決する」という希望は潰えたが、そして、それは多分、脳神経システム上の個性なんだろうが、だからといって必ずしも舞台のレベルを下げたりアクシデントにつながるというわけではないことがはっきりしたからだ。

 私は時々悪夢を見る。

 たいてい、踊りや演奏の本番や本番前のシーンである。

 バレーで、全然振り付けの記憶がないのに、舞台にたたなくてはならない。最後のリハーサルにだけ参加してあわてて覚える。知っているふりをしなくてはならない。実際、その間に必死に、できるだけ頭にたたきこんで反芻する。あきらめるという選択はない。
 楽器の演奏をする。途中で暗譜の記憶が消えていたり楽譜のページが消えていたりするのが分る。その箇所にたどりつくまでに何とかごまかし方を見つけなくてはいけない。あるいは野外で弾いていて、ひどい時はボートの中とかヘリコプターの中とかで、楽譜が風に飛んだり濡れたりする。
 
 どの夢もとてもリアルで、とても疲れて、全力で事態の打開(=ごまかし)に向っている。新しい曲や振り付けをそれと悟られずに必死で練習していることもある。

 夢だから、結末はこれといってないし、失敗してブーイングされるとか共演者に悟られるとかいう悲劇もない。tracというのも厳密には違うだろう。しかし、舞台に立つ人間にとって、振り付けを忘れるかもしれないとか、曲が分らなくなるという恐怖は無意識の中にけっこう刻まれているのかもしれない。

 私はいわゆる講義や講演というのもしたことがあるが、そういう時にはあがったりもしないし、それにまつわる悪夢も見たことがない。講義や講演は、時間の線軸で展開するし、その時間の「タイミング」を管理するのも自分だからだろう。意味のあるコンテンツ、情報というのも具体的にあるから、たとえば最初の5分間声が小さかろうが震えていようが、1時間半や2時間後には、けっこうな情報や知識など、聞いていた人が後から利用可能なものを提供し終えていることは確かである。内容に失望する人がいたとしても、「決定的なアクシデント」というのはありようがない。実際、講演する方も、最初は、聴衆の雰囲気とかを探りながら徐々に話の向きを変えていくこともあるので、相互性や流動性は大きい。

 しかし、踊りや演奏というのは・・・基本的に人をその場ですぐに満足させなければならない。幸せにしなくてはならない。タイミングというのも音楽的に決まっているわけで、それを一瞬でも逸れると立派なアクシデントであり、一度そういうアクシデントを見せてしまうと、その後で「信頼回復」させるのは難しい。いや、そもそもこちらがどきどきしてるとかあがっているとかという様子を最初の一瞬に見せてしまったりすると、もうそれは、試験だの発表会だののレベルになってしまって、公演やコンサートという関係性は築けないのだ。

 踊りにおいては、踊っている方がいかに自分の身体性に自信を持っているかということも前提となって、すぐに見えてしまうから、ごまかしも聞かない。たとえば楽器奏者なら当然ながら体型や衣装は問題にならない。

 今でもtracのあるというシルヴィー・ギレム。彼女もひょっとして舞台にまつわる悪夢ってみるのかな。
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by mariastella | 2013-04-18 16:56

ベラスケスの磔刑像について

読む本がどんどんたまるので、旅行中(飛行機の中とか)でない限り買った本をその日のうちに読んでしまうということは少ないのだけれど、最近あまりにおもしろかったので一気に読んだ本がある。

ナポレオンの専門家のティエリー・レンツがプラド美術館でゴヤを観に行こうとして通りすがりに電撃を受けたように離れられなくなったベラスケスのキリスト磔刑像について書いた本だ。なぜこの磔刑像がまるで彼に話しかけているように、啓示のように感じられたのか、その謎を探るためにティエリー・レンツは一冊の本を書いてしまう。

Une passion : Promenades autour de la Crucifixion de Velazquez』という本だ。

タイトルにはイエスの受難と著者の情熱とを両方の意味を合わせた「パッション」という言葉を使っている。

プラド美術館で人々が集まっている超有名なベラスケスの『ラス・メニーナス』よりもこの磔刑図の方に惹きつけられるというのは、私も全く同じ体験をしたので、なんだか他人事とは思えない。

聖遺物についての分析は私もすでにさんざんしてきたので特に目新しいものはなかったが、いくつか、あまり考えたことがなかったものがあった。

まず、イエスのわき腹の傷のこと。

これはヨハネによる福音書が旧約の予言が実現したことを強調するためにつけ加えたものと理解していたが、なぜ右わき腹になったのかは気にしていなかった。

また、わき腹わき腹と言っても、多くの磔刑図では右胸の下であるのもまあそんなものなのだろうと思っていた。でも、その刺し傷が、左だと、イエスの聖心臓に傷がつくことになるから、後の聖心信仰にとって不都合なので右に定着したという説があることなど知らなかった。

そう言われれば、左の心臓と対称の場所に槍傷が描かれている。

また、十字架上のイエスの腰布は史実と違うので、これも教会的配慮であるから、布は真っ白で血で汚れていないというのもなるほどと思った(腰布が血で汚れているヴァージョンを描く画家ももちろん存在した)。

わき腹に聖痕を見せている画のイエスは、魂がすでに地獄へ降りていっているのだから、肉体だけである。

神の部分でなく、死すべき、いや死んだ人間としてのイエスを描いている。「受難」中でなくて死後だ。

十字架の上の「ナザレのイエス、ユダヤの王」という罪状の順番がヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語であるはずなのに、いつのまにかラテン語が最後に来てしまっていること、

また普通、罪状はこの場合、「ユダヤの王と自称した」とか「詐称した」などと書くべきところであるはずなのに「ユダヤの王」と言いきっていることの意味なども、改めて考えさせられた。

聖ヘレナが聖地で見つけた磔刑の釘が4本で、11世紀頃までは4本釘、つまり両足にも1本ずつという磔刑図が過半数だったのがいつしか3本になり、ベラスケスのセビリア風は4本だが、両足をおく台が追加されているのでそれでは体重を支えてしまって窒息刑にならないということや、1968年に発掘された釘付きのかかとの骨から見て、丸太の両側に打たれていたのではないかという話もすっかり忘れていた。

この絵が例にあがっている。

この絵はなかなかすさまじくて「冒聖」だと言われたらしい。

そういえばバーゼル美術館のホルバインの「死せるキリスト」も、ドストエフスキーが『白痴』の中で「信仰を失わせそうな絵だ」と形容していた。

そして、先日ダリ展で見た上から見下ろす視点のダリの磔刑像のことももちろん思い出した。

闇に浮かぶベラスケスのイエスもまた左上の光に照らされている。

その光は父なる神の視線の光で、ダリの磔刑像は父なる神から見た姿なのだ。

ベラスケスのイエスもダリのイエスも美しい見事な肉体を持っている。

ベラスケスのそれはギリシャ彫刻の肉体だし、ダリのそれにも運動選手(綱渡り)のモデルがいた。

溺死体や刑死体をモデルにしたと言われるホルバインのキリストやら前掲の絵などとは正反対だ。

だから、魂のない肉体であっても、ベラスケスやダリのイエスには生の躍動の残響があって、後に続く復活の可能性を秘めているともいえる。

痩せこけたあわれな受難像は、昔のキリスト教が強調した「購い」の重さを表現している。アダムの犯した「原罪」が大きいので、イエスはそれに見合うだけ苦しまなくてはいけなかったというイメージが長い間あったのだ。

今のカトリックは、「復活」が本質なのであり、受難はその復活を果たすための必然の通り道だというスタンスに戻った。

それでも、今でも、できるだけリアルに苦しそうな磔刑図を好む聖職者もいる。

1632年に描かれたベラスケスのイエスは、魂のない肉体だけに追い込まれた極限の状態なのに、しなやかで強靭な美しい体のおもかげの中で、復活を予告しているのだ。

この絵の注文主は、ベネディクト会の女子修道院であった。

修道女たちがこのイエスにさぞや夢中になっただろうと想像してしまう。
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by mariastella | 2013-04-17 08:18 |

パレスティナ問題の見方『Au nom du Temple』 

パレスティナの状況というのはある意味では中東の状況以上に継続して気にしている問題なのだが、その一つにイスラエルのポジションの本音が分からないというのがあった。

私にはユダヤ人の友人も少なくない。ユダヤには災難に襲われた時は神の罰と考える伝統があるせいでホロコーストの時に連帯して抵抗しなかった、その失敗を繰り返さないために守るより攻めろの政策に転じたのだ、とイ言う人もいた。また、イスラエルのユダヤ人はヨーロッパから逃げてきた人の他に東欧やロシアから逃げてきた人、さらには北アフリカからの移住者もいて、それぞれに伝統も思惑も違っているから複雑なのだと言う人もいた。

この本Charles Enderlinの『神殿の名にかけてAu nom du Temple
Israël et l'irrésistible ascension du messianisme juif (1967 - 2013)』を読んで、ちょっと目から鱗が落ちる気がした。

1967年から現在まで、終末論的なユダヤ原理主義がいかにしてイスラエルに浸透してきたかについて自分が無知だったことを確認からだ。

最初のシオニズムはむしろリベラルでプラグマティックだったはずで、政治的民族的な意味と宗教的意味は切り離されてはいないものの拮抗していた。

それがいつのまに、カルト宗教的になってしまったのだろう。

こんな状況では政治的外交的な策がすべて無に帰するのも不思議ではない。

私は終末論に依拠して人を駆り立てるような運動が理解できないタイプなので、それが国レベルで繰り広げられることの危険性をあらたに見せつけられておそろしくなった。

一神教同士が云々という話ではなく、イスラム教とキリスト教の対立よりもはるかに深刻なものがある。

「国際社会」も、調停の仕方を根本的に変えた方がいいのではないだろうか。
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by mariastella | 2013-04-15 22:31 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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