L'art de croire             竹下節子ブログ

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シリアとイラン そしてダロリオ神父のこと

ある雑誌(Le Monde des Religions/ N.60) で、パオロ・ダロリオ(Dall’Oglio)神父のインタビュー記事を読んで衝撃を受けた。

このイタリア人のイエズス会神父は、シリアに11世紀からあるマル・ムーサ修道院を1980年に改宗してカトリックとイスラムをミックスしたコミュニティを営んでいたが、バッシャール・アル=アサド政権を批判して2012年に追放された。

イラクに逃れた今でも、「シリア独裁政権を倒す革命軍」側にはっきりとついていることでいろいろな批判を浴びている。

シリアの反政府軍にはイスラム過激派が目立っているので、カトリックの神父が彼らを支援する過激な言辞を発し続けるのを見ていると、南米の「解放の神学」のイエズス会士たちのことを思い出してしまう。

まず、そのインタビュー記事のうち、いくつかのやりとりを訳してみよう。

--あなたの親革命軍という立場は、あなたと意見を異にし、対話によって紛争を解決しようと願う大部分のシリア人キリスト教徒たちを大いに心配させています。

--多くのシリア人キリスト教徒たちは現体制の犯罪の共犯者だということを知る必要がある。今の体制にいささかの反対も呈さないのは道徳的な見地から潔白ではない。それは犯罪的構造に与することになる。拷問、殺人、弾圧を許すことになる。善きキリスト者はそのようにふるまうべきだろうか?  シリアのキリスト教徒が、シリアの(紛争の)解決は反乱軍を徹底的に制圧することだと言うのを私は聞いた。つまり彼らは暴力的弾圧を呼びかけていることになる。

--けれども聖職者が紛争を対話でなく実力で解決しようと呼びかけるなんて矛盾していませんか?

--武器を手にしてイエスの名を唱えて死んだキリスト教徒はいくらでもいる。立派な大義のためにそうした人もいれば、もちろんひどい理由でそうした人々もいた。キリスト教が公的なことに関して急進的な責任を行使する能力がないなどと子供扱いするような考えがどこから発したのか分からない。ワルシャワのゲットーでキリスト教徒が一人でもユダヤ人を守ろうとして武器を手にして死んでいたとしたらなんと言われていただろう?ソビエトが河の向こう岸で待ちかまえているうちにユダヤ人を守るキリスト教徒がいたら…。今は、シリア人が虐殺されている間にヨーロッパは地中海の反対側で待っているのだ。
なぜキリスト教徒は力を使ってはいけないことになっているのだ?  
どうして武器を持つことが禁止されているのだ? 
キリスト教のこの天使ぶりはどこから来るのだ?
 私の会の創立者イグナチウス・ロヨラからではないことは確実だ。彼は武器こそ捨てたが、社会の安全を保障する必要を否定したことはなかった。そして、こうやって私たち非暴力のキリスト教徒の市民が話している間、私たちは核兵器によって守られているのだ。

--ローマ教皇はあなたのようにイエズス会出身ですよね。そしてアッシジのフランチェスコに特別の思い入れを持っています。そのフランチェスコはスルタンを表敬訪問しました。 あなたは教皇がもっとシリアに関わるべきだと思いますか?

--教皇は近東の有力聖職者や正教会の首長らによって完全に麻痺した状態にされているのだ。教皇がこの件について個人的な見解を持つことはできない。アルゼンチンのムスリムたちは教皇がムスリムに友好的で親愛を抱いていることからその選出を寿いだ。
けれども教皇はシリアの状況を知らないし、反政府軍側にいるキリスト教徒はヴァティカンにほとんど話をきいてもらっていない。アル=アサド体制擁護派の声だけが届いている。ベイルートのマロニットの主教やダマスカスの正教の主教は親アサドだ。ダマスカスのギリシャ・カトリックの主教も積極的に体制擁護の役割を果たしている。ヨーロッパ・カトリックの保守層に信頼されているあるシスターは体制のまわし者だし司教たちもみな反政府軍弾圧派だ…

etc…

うーん、この過激ぶりにはついていけないと思ったが、安全圏にいて「対話を、外交を」と言っている私たちが、冷静に考えるととても正気の沙汰ではない核の傘に守られているからきれいごとを言えているのも確かに事実だ。

一部のイスラム過激派とは違う普通のムスリムたちと共に祈りを通して同じ神に向かう宗教間対話を現場で何十年も続けてきたダロリオ神父の言葉だから重みもある。

第一アル=アサドが一体いつ頃からどんな独裁体制を敷いていたのかさえ私にはよくわからないのだ。

でも…

などと思いながらトロカデロ広場を通った時、強い風に抗しながらスタンドを設けようとしている女性の姿を見かけた。イランの反体制運動をしている人だった。

彼女はイランのイスラム革命によって虐殺された犠牲者20000人というアルバムを見せてくれて、あるページの下に並ぶ6人の顔写真を見せて、それが兄やら弟やらの家族なのだと言った。声が震えている。

私が
「でもロハニ大統領が選出されて雪解けの可能性も出てきたのでは…?」と質問すると、
「とんでもない、ロハニは両腕も両足も現体制のもの、そもそも最高指導者の許可がない限り大統領選候補にもなれない、イランが変わる唯一の道は現体制を倒すことにしかない」

ときっぱり言われた。

「あ、でも、イランはシリアのような内戦はまずいと判断して少しずつ着実な解放、開放を目指していると聞きましたが…」と言うと、他のメンバーが出てきて、「いや、体制の転覆以外に道はない、そして我々にはそれが可能だという見通しがある」と熱弁をふるいはじめた。

その「犠牲者の家族」という当事者たちの決意を目の前で見せられことで、私はダロリオ神父も現場でこういう固い決意をもつに至ったのだろうなと、なんとなく実感できた。

そこで、その時にいっしょにいた相手に、メトロの中で「シリアの反政府軍を支援するのは間違っていないのではないだろうか」、という話をふったら、

「革命によってイスラム過激派にシャリア法を課せられる結果になるよりも無神論の独裁者による秩序維持の方がましだ」と言われてしまった。

で、行きがかり上、私はダロリオ神父の意見を擁護することにしてみたのだが、そのまま相手とほとんど口論になってしまった。

「イランだって、王政を倒したイスラム革命で宗教原理主義の国になったからこれほどの犠牲者を出したのではないか、」と言われて「宗教は結局政治のツールにされているだけで、問題はもっと広義のパワーバランスにある」と反論しミャンマーの例をあげたら、ますます剣呑な雰囲気になったのだ。

トロカデロで話したイランの反体制活動家たちはいろいろなパンフレットをくれたが、「ミッテラン夫人も支援者だった、ほら、だれそれも我々の支援者だ」、などと、有名政治家たちとの写真を次々と見せて強調した。そりゃあ、アメリカがイランと険悪なのだから、アメリカ寄りの陣営はみな「反体制」で決まりだろう。
で、そのイランとシリアは友好的な関係にある。シリアやイラクやリビアの「独裁者」たちはもともと別に「無神論者」ではないのだ。

サウジアラビアのように親米的な王室が宗教の擁護者としてふるまうことで宗教権威と拮抗している国もある。そしてそれらの危うい均衡はその国の軍事状況や経済状況によって保たれているのだ。

このような複雑系の状況を、一体何を譲れない一線としながら判断していったらいいのだろう。
これまではそれが「非暴力」だと思っていたのだが、自分自身がこのヴァイオレントな世界で超ヴァイオレントな核の傘に守られているし、住んでいる国も生まれ育った国もヴァイオレントで理不尽な歴史を過去にじゅうぶん積み重ねてきた。その中では、ダロリオ神父のような人も義憤に駆られて戦ってきたに違いない。

反論しないことが唯一の良心であるようにすら感じてしまう極論や暴論も、たまには、ある。

私は、誰の、「共犯者」なのだろうか。
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by mariastella | 2013-06-30 08:48 | 雑感

民族浄化、キプロス、政教分離

ミャンマーでは、ビルマのビン・ラディンと言われる過激な僧の扇動で、マイノリティであるイスラム教徒の殺害が勃発している。

イラクやエジプトの独裁政権が倒れた後ではマイノリティのキリスト教徒が迫害されテロの対象になり続けている。シリアの内戦地域でも同様だ。

ミャンマーの方はあまり報道されない。アウン・サン・スーチーも口先では批判はしているが積極的な対策をとらない。圧倒的な数の仏教徒たちが大切な選挙民であるからだ。

またミャンマーのムスリムはほとんどがインド系やインドからの移民なので、「民族浄化」の色彩もある。

軍事独裁政権のタガが外れると自由になった人々は異種を排除し始めるのだろうか。

中近東のキリスト教徒は、イスラム教が成立する前にキリスト教徒だったのだから、厳密には「民族浄化」ではないが異種である「欧米」とキリスト教を共有していることで、「敵」と見なされているところがある。

こういう事情を見ていると、たとえ一見どんなに不自然で人為的でも、今の地球では、どの国家も厳格に「政教分離」を進めていくしか平和の道がないように見える。


たとえばキプロス共和国の場合を見てみよう。

ここはギリシャ語を話す正教徒の国で、「キリスト教」圏なのだが、15世紀にオスマントルコに征服されたし、その後20世紀に大英帝国に併合され1959年に独立したがイギリス連邦加盟国の一員という位置にある。

ユーロ圏であり、ギリシャと同じく深刻な経済危機にあり、失業率は15%に上り、EUからの援助を受ける代わりに過酷な緊縮財政を強いられている。

ところが、この国のキプロス正教の大主教は大金持ちだ。

正教つながりでモスクワとも強固なラインでつながっている。

政府に介入して財務大臣を更迭することなども堂々と行われている。

地元ビール・ブランドの大株主であり、国で第三の銀行(Hellenic bank)の株も29%を持っている。国に次いで第一の大地主でもあり、少なからぬ土地を国に貸して賃貸料をとっている。もちろん貧しい子供の給食を提供するなどの慈善事業もしているのだが、クリソストモス主教がまず第一級のビジネスマンであることは間違いがない。

なぜ、経済が破綻している国で教会がこんなに豊かなのかというと…

ニコシア大学のテオパヌス経済学教授によれば、オスマントルコの支配下で、キプロス正教の主教が政治的にオスマントルコとの交渉相手になったので、島の住民たちはオスマントルコに奪われることを恐れてこぞって財産を教会に寄付した、その結果、教会に富が集中したという。

そもそも、15世紀にオスマントルコの攻撃を受けた時、正教は、まずローマ教皇にSOSを発信した。その時ローマ教皇は、正教がカトリックの支配下に入るという条件なら援軍を送ると言ったので、結局援軍は来なかったという。

だから、キプロスがオスマントルコ支配下の時代を通じてギリシャ人の文化、正教の文化を保存できたのは、100%、正教会のおかげだという認識が今のキプロスの基盤にあるわけだ。

第一、1959年の独立時の大統領は、大主教のマカリオス三世で、この人は再選され続けて、ギリシャ介入の一時期を除いて1977年に死ぬまで終身大統領職にいた。

独立した時にはトルコ人もいたのだが、1974年に南北に分断されて、今ヨーロッパ連合の一員であるキプロス共和国は、ほぼギリシャ人の単一民族国家となっている(移民には同じ正教のルーマニア人やブルガリア人の他にパキスタン人やフィリッピン人もいる)。

「民族浄化」は南北分断で解決したわけだ。

このキプロスの話(Figaro 2013/6/21)を読んでいると、政教分離とは何かということをつくづく考えさせられる。

キプロスの歴史から民族と宗教と政治を分けることはできない。

そして、実際、ほとんどの国が、近代的な意味での国家として成り立つまでに多かれ少なかれ「民族浄化」という隠れた(時にはあからさまな)誘惑に導かれて、政治とマジョリティ宗教の癒着の歴史を歩んできたのだろうと思う。

それでも、政治体制が、敢えて「歴史」や「伝統」を否定してでも、自覚をもった「政教分離」へと向かった国だけが、本物の普遍的な共生への道を開いてきた。

強権支配による見せかけの平和などではないし、カリスマ的リーダーへの盲目的信頼でもない。

マイノリティの抑圧や排除や、歴史的に貸し借りのある国同士の憎悪や敵対心などの多くの罠を避けながら、また絶えず是正しながら、少しずつ、少しずつ、この地球で平和な共生の場所を広げていくには、「正しい政教分離」がどうしても必要なのだ。
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by mariastella | 2013-06-28 01:42 | 歴史

クライスト著「マリオネット劇場について」

この短編エッセイについては10年前の『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)でもバロック・バレーに欠かせない理論として紹介したが、最近行きつけの本屋で、これだけが小さな本になっているのを発見して嬉しくなって買った。

40ページ、80グラム、日本の文庫本くらいのサイズ。このシリーズにはいいものがたくさん出ている。この手の装丁は偉人の名句集とか聖典の言葉とかにはよく見かけるのだけれど、一続きの内容のつまっているものを何度も読むのに最適だ。

ウェブの世界でかなりの古典がダウンロードできてしまうことには利用する度に感動を覚えるが、好みの書店に入って紙の本がぎっしり並んでいたり積み上げらたりしているのを見ると「感動」でなく「歓喜」を覚えるのは私だけではないだろう。

さて、このクライストのテキスト、久しぶりに読み返してみても、本当に奥深いものだ。ダンスだけでなく、楽器の演奏にも応用できる。生き方そのものにも応用できる。

ネット上で読んだフランス人の読者の感想に、「ドイツでしか現れないような忌まわしいテキスト」とあったので驚いてなぜかと続きを読むと、人形遣いという言葉が「 Führer」とあるのだそうで、つまりヒトラーの呼称と同じだから、テキストの伝えたいのは「人は自分の意思を捨てて人形遣いの手に操られるのがいい」、ことだと解釈しているのだった。

これはいくらなんでも誤読だろう。

しかし、このような名テキストにこのような誤読が可能であるのだとしたら、読者の意識にかかっているバイアスとは恐ろしいものだ。

どんな名文もどんな名曲も、受け手にリテラシーがなければ、泡沫作品と変わらないのだ。

昨日のクリスティーヌのクラスで、シャコンヌは過去に一拍157くらいで踊られていた、という記事を紹介された。
以前セシリアのクラスでも120-157とあった。
でも16分音符が連続するようなデュフリィのシャコンヌ(これは踊るために作曲されたものではないが)はクラヴサンでも128がせいぜいだし、ギターだと115くらいが限界だ。

というより、これより速いと、ステップにヘミオラを駆使して間のびさせないと踊る方が疲れてしまう。

17世紀の後半にほんとうに157のテンポでで演奏され、踊られていたのだとしたら、それこそクライストの言うように、重力の作用と反作用の反復にだけ魂を乗せて聖霊にあやつられて弾いたり踊ったりしていたのかもしれない。
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by mariastella | 2013-06-25 22:47 | 踊り

放蕩息子の帰還 -- 恐るべし、レオン・ブロワ

レオン・ブロワの『Le salut par les juifs』(ユダヤ人による救済) をようやく読み終えた。

ものすごく抵抗がある本だった。

いくら通常の意味での反ユダヤ主義の本ではないと言っても、強烈に19世紀末の宗教事情を反映しているし、もし隣の席にユダヤ人が座っていたらと思うと、恐ろしくてメトロの中では読めない。

私は戦後日本で育った普通の人間だが、それでも子供の頃から『アンネの日記』などでユダヤ人はナチスのホロコーストの犠牲者でユダヤ人排斥は悪、というのが刷り込まれていたらしく、なんだかポルノ小説を隠れて読む中学生のように罪悪感にさいなまれる。

もちろんレオン・ブロワは「ユダヤ人排斥主義者」ではなく、ゾラを非難したがドレフュスは擁護したくらいの人なのだが、キリスト教が旧約から新しい道へと進んでいったことを認めず、神とユダヤ人との関係が改善されなければ救いはない、とこだわっているのだ。

キリスト教は普遍宗教になったので、いってみれば、「民族神にしがみついている人々は無視」という形で発展した部分があるのに、レオン・ブロワはそれをご都合主義だとみる。

ユダヤ人がナザレのイエスを「救い主キリスト」であると認めない限りはキリスト教は普遍宗教になれない、救済はこの世で実現できなくて、ただの信仰と期待の問題になってしまう、という。

たとえば、分かりやすい例を引くと、聖書の中の有名な『放蕩息子の帰還』のたとえ話(ルカ11.15-32)の解釈がすごい。

そこには父と2人の息子が出てきて、兄はまじめに父のもとで働き続けるが弟は金をもらって家を出で放蕩したあげく、一文無しになって豚の世話をするまでに身を落とした。豚の食べる豆を食べたいと思うほど飢えて、結局父の元に戻ると、父は帰還を祝って子牛を屠って祝った。兄はそれに不満を覚えたという話である。

で、レオン・ブロワによると、

父は「神」、

兄は父なる神に忠実だった「イエス」、

弟は神に背を向け放浪する「さまよえるユダヤ人」、

弟が食い物を欲しがった豚は「キリスト教徒たち」、

の象徴である。

そして、弟が改心して帰ってきたときに、救いの成就を祝って父から犠牲に供される子牛が兄イエスだというのだ。

つまり、さまよえるユダヤ人の回帰なしには救いはなく、そのためにはイエスは何度でも十字架につけられる役回りだということだ。

いやあ、すごい。

なんというか、何にインスパイアされているのか知らないが、全編このようなユニークで熱い確信に満ちている。

聖金曜日の祈りから不実なユダヤ人のために祈るという部分が今や削除されていることをブロワが知ったら、キリスト教会はいよいよ豚小屋になったと言うかもしれない。

19世紀末の時点でヨーロッパのキリスト教徒の抱いていた「ユダヤ人」と「ユダ」の関係がどんなものかを探るにあたって、かなり衝撃的な読書となった。
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by mariastella | 2013-06-24 07:24 | 宗教

ルルドの「水没」

数日前に続いた大雨でフランス南西部に洪水の被害が続出している。

夏が巡礼シーズンのピークとなるフランス最大の巡礼地、ピレネー山麓のルルドも「水没」した

今年はピレネーの雪解けが遅かったので水量の増えていたポー河のガーブが氾濫して、有名な奇跡の泉の湧く洞窟にも泥があふれ、聖域は閉じられ、巡礼者や病者も避難させられた。

25000人収容可能の聖ピウス10世大聖堂は地下聖堂になっているので、ほんとうに、浸水というより水没という感じになった。

川岸に近いホテルや記念品売りの店も多大な被害を受けて、泥だらけになった無数の聖母像がニュース映像に流れた。水は引いても、泥が40 cmも溜まり、ひどいところでは1,5mにも達していたという。 

奇跡の起こるルルドなんだから、みんな福音書のイエスのように「水の上を歩く」ことができるようになるんじゃないかというジョークも出てきた。

奇跡の聖地なのだから、たとえ他の地域が水没してもここだけは奇跡的に「決壊」しなかった、とうストーリーなら盛り上がると思うのだけれど、そうはならなかった。

でも、「奇跡の聖地のくせにこんな被害にあってしまって…」という失望とか揶揄は不思議に起こらない。

ただ、これからのシーズンに毎日4万人というツーリスト(巡礼者)が来るはずなのにそれが見込めないとなると経済的な被害は甚大だ、という報道はあった。
この町には聖地の周りにはりめぐらされた巡礼者用のホテルやレストランや土産物などの観光産業でハイ・シーズンに働いて冬場はスキー三昧で過ごすなどという人たちも少なくないのだ。

でも、遠いところからもう何か月も前にあるいは一年も前から予約して巡礼に来た人たちは、みなあきらめて帰ったわけではない。

水が引きはじめるとすぐに、公的な災害救助や地元の人たちの活動の他に、巡礼者たちも何百人という規模のボランティア・チームを組んで水を汲みだしたり泥を掻きだしたりの作業を始めたのだ。

地下聖堂の聖具室で泥まみれになった2500もの聖職者用の服も外に出されて放水で洗われた。

その努力が実って、夏至の翌日の22日には洞窟が解禁された。

大蝋燭が再び灯され、ルルドの水を好きなだけ汲める蛇口のコーナーには、水を病者のために持ち帰る人がいつものように列をなした。

もちろん各種施設の被害は甚大なのだが、聖域関係者は、「予定されているすべての巡礼団を受け入れる」とコメントしていた。

それにしても、たった4日で聖母ご出現の洞窟まわりがともかくアクセス可能になったのは、ある意味「奇跡」的である。

同じ地方で被害の大きい他の町の映像では、呆然とする人々の絶望的な姿が繰り返し流れ、再起の見通しはまだたたないというニュースばかりだからだ。

ルルドという場所は巡礼による経済効果だけで動いているのではなくて、天気がいい時にだって移動が不自由な病人や障害者などを全員でサポートしてしまう特殊な場所だから、こういう奇跡の復興ができてしまうのかもしれない。

信仰があろうとなかろうと災害にあうのは同じだが、災害から再起する時には「信仰の力」が発揮されるということなのだろう。

「癒し」という奇跡のほんとうの意味も、きっとそのへんにありそうだ。
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by mariastella | 2013-06-23 06:40 | フランス

ヨハネ=パウロ二世スピード列聖なるか

2011年の5月1日に福者の列に加えられたばかりのヨハネ=パウロ二世(以下JP2)がもう1段階ステップアップして聖人の列に加わりそうだ。

列聖には列福後に起こった新しい「奇跡」が必要なのだが、これ以上ないスピードで、つまり、列福式の日の夕方に、コスタリカの女性の脳損傷が説明不可能な状況で治癒を得たというものが採用されそうだ。

この1月に正式に申請されたものを、列聖に関わる7人の医者からなる委員会がその「治癒の現代の医学でによる説明不可能性」を4月13日に認定した。

さらに神学者の委員会によるチェックが入り、この治癒によって女性の家族がみな信仰の道に戻ったということで、「奇跡」が6月18日に認定された。

これがさらに、7月2日に担当の司教や枢機卿によって批准されれば、ようやくフランシスコ教皇が許可して、列聖式の日程を発表する。

2013年の10月20日(JP2の祝日の前々日)や11月24日(信仰年の最期の日)や2014年4月27日(2000年にJP2がポーランドの修道女にちなんで設定した神の憐れみの祝日)などが、列聖式の候補としてすでに噂に上っている。

クラコヴィ大司教(JP2の特設秘書だった)は6月15日に教皇と会見した後で10月の列聖式を期待するとコメントした。

普通は亡くなってから5年は列福手続きが始まらないのだが、JP2に関してはベネディクト16世が例外を認めたので一ヶ月後という早さだった。

列福手続きの開始が早まった理由は、葬儀の時に人々が「SANTO SUBITO」(直ちに列聖を)と訴えたのを、中世以来の« Vox populi, Vox Dei 》(民衆の声は神の声)という伝統によって取り上げられたからだと言われている。

結局亡くなってから8年というスピード列聖で、列福から列聖までが3年未満というのも、パードレ・ピオ(列福1999/5、列聖2002/6)の記録を破ることになる。

いつもながら列福や列聖にまつわるカトリック教会の手続きは、厳密なのかフォークロリックなのか、近代的なのかアナクロニックなのか、民主的なのか聖霊による親政なのかよく分からないのがおもしろい。

「民衆の声は神の声」というのもある意味ですごいし、内部での反対派の声もちゃんと聞こえてくるところもすごい。

JP2の列福に反対する聖職者による七つの理由も公開されているのだ(2007年10月にスペインのイエズス会士Jose Maria Castillo やイタリアの Giovanni Franzoniらが、JP 2による避妊や教会における女性の役割へのコメント、小児愛スキャンダルへの対応の遅さ、多くの神学者を糾弾したこと、Banco Ambrosianoとの関係の不透明性などを挙げた)。

列福にあたって認定された奇跡は、亡くなって二カ月後に起こった、フランス人の修道女のパーキンソン病の突然治癒だった。

今回の治癒の詳細はまだ分からないけれど、列福式の日のように、多くの人がカリスマ性のあった教皇に頼り祈って盛り上がったその日に、全員のサイコ・エネルギーのようなものがどこかである人に奇跡の治癒をもたらしたとしても不思議な感じはしない。

変なたとえだが、宝くじを買う人は、たいていはまさか自分に当たるとは思っていないがみなささやかな希望を託して賞金の一部に寄与しているわけで、誰かがそれを獲得するということ自体は疑いがない。

逆に言えば、たとえば保険の積立だって、自分がそれに該当しませんようにと願いながら、該当した人の得る保険金の一部を払い続けているわけだ。

私は自分の病気だの故障だのが「奇跡の治癒」という恩恵を受けるだろうとはつゆほども思っていないが、数多くの人が祈ることでどこかの誰かの「奇跡」に寄与できるかもしれない、という考えは悪くないと思う。

自分には当たらないと信じている宝くじを買うよりは、どこかで誰かを救う奇跡を願って祈る方が精神衛生にいい。
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by mariastella | 2013-06-22 01:16 | 宗教

『Song for Marion(アンコール!!)』(監督 : ポール・アンドリュー・ウィリアムズ)

映画『Song for Marion(アンコール!!)』を観た。

老夫婦の話。

ガンが再発して余命2カ月とされた妻は地元のコーラスクラブが挑戦するコンクール予選で夫に捧げる歌をソロで歌う。妻の死後に、あれほど気難しそうだった夫が実は歌を歌えることが分かり、夫は、妻の仲間たちをバックコーラスにして妻に捧げる歌を歌う。

夫は権威的で一人息子との仲がうまくいっていない。

その一人息子は近所に住んでいるのだが離婚して週末に8歳の娘の面倒を見ている。

明るく前向きな妻を中心に息子や孫も夫婦のところでは団欒の時間を過ごすしていたのだが、妻が亡くなると、父と息子は決裂する。孫娘は心配する。

自分が死んだ後の息子のことを心配する妻に、夫が「わかった、面倒みるって約束するよ」と言うシーンがある。

普通なら老いてひとりになる父の方が息子に面倒みてもらわなくてはならないはずだけれど、夫婦の間では息子はいつも世話してやらなければいけない対象であり、その視線の共有が親としての2人の絆をうまく現している。

また、妻の死後に歌を口ずさむ夫に驚いたコーラス教師が「マリオン(妻)はあなたが歌うって知ってたの?」と訪ねると夫がうなずくところもいい。

夫は別に歌が嫌いとか歌えないから妻のコーラス活動に理解を示さなかったわけではなくて、本当は歌が上手なことも妻はちゃんと知っていたのだ。夫婦の仲は外からは分からない。

まあ、そのようななかなかよくできたディティールを重ねていくのだが、余命宣告とかコンクールとか、サスペンスを盛り上げて一気に感涙を誘うような仕掛けがあまりにも常套的だと言えば言える。

実際、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグレイヴという2人の名優をこんなお涙ちょうだいの安易な映画で見たくなかったという厳しい批評もあったほどだ。

しかしこういう名優2人がこういう予定調和的なストーリーに参加しているからこそ、観客は安心して感涙に淫することになるのだ。

無口でどこか不器用な夫と明るい妻という組み合わせは、きっと一昔前のイギリスの庶民にはめずらしいものではなかったのだろう。
どこか日本的でもある。高倉健と倍賞千恵子でリメイクできそうなカップルだ。

『愛、アムール(老夫婦の晩年)』と『シスター・アクト(歌わなかった人が歌によって心を開く)』と『シスター・アクト2(コンクールに参加するところ)』とこの前見た『カルテット(老人のグループと音楽)』の要素を全部合わせた感じの映画であるが、他のものにはなかった独特の「救い」も感じられる。

父と子の問題や孫娘や若い独身の音楽教師も配して全方位的にできているとはいえ、これからは先進国ではリタイアした夫婦がどんどん増えるし、老親を介護する人も増えるのだから、往年の名優を使って、どうやって老いてどうやって死ぬかというテーマの映画はもっともっと作られるかもしれない。

今この『アンコール!!』を見ると、つい自分や自分の周りの人々の老後に重ねてあれこれつらつら考えてしまうのだが、たとえば、もう30年以上も前にヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘップバーンの『黄昏』を見た時、その頃は自分自身はもちろん自分の親ですらも映画のカップルよりも若くて現役だったから、別世界のことでしかなかった。

『愛・アムール』や『アンコール!!』では先に死んでいくのが妻のほうであるというのも『黄昏』とは少しニュアンスが違う。

しかし、なんというか、観客に夢を見させるような映画と違って老いや病気や衰弱の様子をリアルにクローズアップして突きつける映画を見ると気が滅入るのは避けられない。けれども、カタストロフィ映画とかホラー映画でばんばん死者を見せつけられるのと違って、平和で運よく長生きすればだれでも多かれ少なかれ老いと衰弱の姿に行き着くわけだから、めでたいのかめでたくないのかよく分からない。

死ぬことよりも老いることの方が怖いという人だっているかもしれないし、老いることよりも体が不自由になることの方を恐れる人もいるだろう。

それでもこれからこういう映画をいろいろ見て比べてみたいという「老いの好奇心」は抑えられない気がする。

もう一つ、昔、日本から出ることなく「洋画」を見ていた頃と違って、今はフランスに何十年も暮らしてあらゆる世代の人を身近に見続けているから、たとえイギリス映画でも、どの登場人物の顔にも知り合いの誰彼を思わせるものが必ずあるので、見ているとそのリアルさが半端ではない。
日本人とは限られた人としか付き合っていないし生活の基盤がないから、もしこの映画を日本でリメイクしたものがあったら、そっちの方が私にとっては距離がとりやすいだろうな、と思う。
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by mariastella | 2013-06-21 00:24 | 映画

最近のニュースや読んだ本の覚書

コンサートの打ち合わせなどであわただしくしている間に、世界ではいろんな出来事があった。

前教皇JP2の列福とか、ビン・ラディン殺害とか。

この二つはほぼ同じ日の出来事だったが、対照的だ。

謝罪とか贖罪とか赦しとかを実践し続けてきたJP2と、迷わず「復讐」路線を貫徹したアメリカと。

B16によるJP2の列福は、

「ドイツ人から列福されるのは全ポーランド人の夢」

なんてジョークも出てきたほど、20世紀のヨーロッパ史の一区切りになりそうな出来事だった。

JP2の生き方は、彼が、反ユダヤ主義者では毛頭なかったにしろ、戦時中に「レジスタンス」の立場をとらなかったことに対する自責の念に根ざしていた。
カトリック教会が全体主義に対する確固たる叛旗を掲げなかったことについての自問が、JP2をJP2にしたのだ。
エディット・シュタインやマックス・シェーラーの与えた影響は大きい。

週末はアルプスに行っていたので、エヴィアンのラウンジで列福式の中継を見ていて、JP2の聖母崇敬の姿をながめながら、「聖母」というキャラクターはやはりキリストに向かう強力な道なんだなあ、と思った。
宗教的な意味でもなくて、もっと単純に、母を亡くした子供だったJP2が「無条件の愛」のモデルを、イエスという息子に先立たれた聖母に求めたことが、しみじみと納得できる。

もう一つのビン・ラディンのニュースの方は、

「何でこのタイミングで ?」

という分析の方に興味がある。

逮捕じゃなくて殺害したのは、このことがグアンタナモとセットになっているから当然だろう。
アメリカは国際刑事裁判所憲章を批准していなくて、「テロリスト」は「自分ち」で普通に拷問などしているのだから、ビン・ラディンだけ「逮捕」しても意味がない。今風の話題で言うと原発が核兵器とセットになっているのと同じだ。片方だけ取り上げても意味をなさない。

それを言うならコートジボワールのバグボのその後も不可解である。5月2日にコフィ・アナンが訪れて、バグボはワタラ(新大統領)の正当性や権威に抗議しているという印象を与えなかった、などと証言しているのだ。これってかなり変な印象を与える話ではないだろうか。

ビン・ラディンの殺害で喜んでいるアメリカ人の姿を報道するメディアのやり方も下品だ。第一次湾岸戦争の後、参戦したフランス軍は地味だったが、アメリカの戦車はNYで凱旋パレードをして、紙吹雪が舞い、歓声に包まれたような映像が流れたことがある。フランスではあり得ない光景だ。

今度のも、その映像だけ見てると、「ワールドカップで優勝でもしたんですか ? 」と言いたくなる。
これがほんとなら、広島の原爆投下が「成功」した時だってお祭り騒ぎをしたんじゃないかと思えてくる。(実際「敵の指揮官」殺害の正当性について、第二次大戦での日本軍との例が挙っていたなあ。)

「ワールドカップで優勝」と言えば、フランス中がお祭り騒ぎになった1998年のワールドカップ優勝時のチームにいたローラン・ブランが今「人種差別発言」で大変なことになっている。「ブラン=ホワイト」って名も不運だ。

「体力があって動きがいいのはみな黒人だ」と開き直っている人もたくさんいる。人種別の「遺伝子的な強み」を考慮せずに機会均等で競わせたら、100メートル走のように本当に黒人しか残らなくなりそうだ。
「男女別」の競技は「遺伝子の差」を考慮して普通にあるが、「人種」別ではヒストリカルに見ても政治問題に直結するとなると、真の解決は「混血」がデフォルトになる時代にしか訪れないかもしれない。

ともかく、ビン・ラディンの「征伐」が、アラブ世界で即「反アメリカ、反欧米」のような反応を招かなかったのは、やはり去年の末から続く「アラブの春」のおかげだ。

ビン・ラディンが「欧米と結託したイスラム国の独裁者」を倒せとイスラム原理主義者たちを煽ったのにも関わらずいまいち成功しなかったのが、結局、「反米」ではなく「民主主義」や「自由」を掲げる民衆が独裁者を倒していっているというのが現実だ。

「各論」を見ると暗くなるし圧倒されるが、「総論」を長期的にみると、やはり「自由を連帯を求める欲求」が世界を少しずつ変える、と思いたい。

それが、このところ、原発事故がらみもあって、考えはペシミスティックな方に流れがちだった。

気分を変えるために、オプティミズムの方にバイアスのかかった本を読みたくて

パリとアルプスを往復したTGVの車中で、

Bruno Tertrais « L’apocalypse n’est pas pour demain – Poue en finir avec le catastrophisme »DENOEL『アポカリプスはまだ来ない-カタストロフィズから抜け出すために』

というのを読んでみた。

けっこう微妙だった。

西洋的近代やら民主主義は、今の世界の情勢がよい方向へと向かうことについて本当に有効なのかどうか、を考えたかったのだけれど・・・

後にも2 冊の本を持っていって読んだ。

Frances A.Yates の『科学とヘルメス学』と
Giordano Brunoの『Des Liens』。

共にEditions Allia。ここの文庫シリーズは読みやすくてすぐれものだ。

フランセス・イエィツを読むのは久しぶりだ。昔は迷宮のように思えていたのが、今はすっきりよく分かる。

人間はミクロコスモスだと見なす「ホーリスティック」なイメージはむしろ人間の「傲慢」に依拠していて、今や「西洋近代」の悪弊のように批判されることすらある「機械論的」世界観の方が、むしろフランシス・ベーコン以来の集団研究志向の「謙虚さ」の結果ではないだろうか。

で、ホーリステッィクな科学は地球にやさしいとかハーモニーがどうとかいうのでなく、「人間=神」という「思い上がり」であるゆえのジャンプ力で、科学におけるブレイク・スルーを生んだりするのだと思う。

これらについてはまた別のところで書くつもりだ。
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by mariastella | 2013-06-20 22:26

G8の北アイルランドって…

目を疑うようなニュースを見た。

オリンピック開催の北京ですか、といいたくなるような北アイルランドの風景だ。

不況続きで店が閉まっているのだが、そんなところをG8によって世界中に見せるのはよろしくないということで、遠目には人がいっぱい入っているカフェだとか、書店、文房具店や食料品店にモノがあふれているところを、実物大の写真にしてウィンドウに張り付けてごまかしているのだ。しかも35万ユーロもかけて、テーマパークより安っぽい感じの仕上がり…。

いつも、G8のニュースを聞く度にいろいろ空しくなる。今回、日本の総理大臣が北アイルランドへ行く前にポーランドに寄って東欧4ヵ国に原発をセールスしたなんていうのは特に衝撃的だった。

あり得ないことだけど、どうせなら、ロシアに寄ってシリアの外交筋と会談してシリア内戦の解決と平和的な民主化についての調停役を日本が果たすと決めた、などというニュースを聞きたかった。

日本は、「欧米」とはうまくいかないイランやシリアのような国とせっかくいい関係を築いてきて、実績もあるし、人的、物的、金銭的援助も大きく、彼らからも親日的好意的な信頼を得ていたのに。

麻生さんなどは昔、パレスティナの開発でかなりいい感じのイニシアティヴを発揮していたようなのにもうその片鱗は残っていないのだろうか。

過去に、サウジアラビアで、「私たちと日本はなんといっても同じアジアだしね」のような口調で親しく語られて驚いたことがある。彼らの「非欧米」意識は根深いのだ。

シリアやイランでの日本は、欧米がするような「上から目線」外交はないし、民間企業も高い評価を得てきた。

欧米諸国による経済封鎖や外交遮断にへいこらと追随しないで、地政学的な独特の中立的な位置の「強み」を活かして、「調停」のリーダー役に名乗り出るくらいの覇気や智恵があれば、本当に何かが動くかもしれない。そうすれば、日本は世界の平和と民主化になくてはならない存在になる。

その方が、G8で「尖閣の問題だのアベノミクスだのについて理解してもらう」なんていうよりも、長期的にはずっと日本のプラスになると思うのだけれど。
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by mariastella | 2013-06-20 02:27 | 雑感

バカロレアのおバカなテーマ

6月17日、フランスの毎年の風物詩であるバカロレア(中等教育修了国家試験)が始まった。

初日はいつもフランスの語自慢の「哲学」で、与えられたテーマからひとつを選んで4時間かけて論を展開するものだ。

そのテーマの一つに

「労働は自己意識の確立に寄与するか ?」

というのがあった。

時事一コママンガ家のChimulusが早速ネットで揶揄していた。

このテーマについて、

「君たちのパパやママなら君たちになんと答えるかね」

と聞かれた高校生が、

「自分たちは失業中だという意識はもう持っている、って言うと思います」
 
と答えるのだ。

社会全体で失業率が高まるばかりのフランスで、ましてやバカロレアに受かろうが、大学を出ようがその先の就職の見通しが最も厳しい世代である若者たちにこんな問いをたてるなんて、出題する哲学教師たちってどこまで社会の空気を読めないのだろう。(哲学の教授資格を持っているようなリセの哲学教師たちはもちろん公務員でもあり、失業とは縁がないから仕方がないのかもしれないが。)

このウェブ・マンガのコメント欄に

「人は仕事を欲しいんじゃなくて金が欲しいんだよ」

というのがあったのも、半分しか笑えない。
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by mariastella | 2013-06-19 00:02 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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