L'art de croire             竹下節子ブログ

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ブラジルの世界青年の日(WYD)に思う その3 『ワイルド・ソウル』

最近のブラジルで反政府デモが盛んになった理由のひとつは2014年のブラジルのワールドカップに向けた予算の増大である。

ブラジルではこの他に2016年のリオデジャネイロのオリンピック開催も決まっていていかにも経済発展国の勢いを感じさせるのだが、国内の経済格差が広がり過ぎている。

国民の20%が2ドル/日以下で生活している。けれどもほんとうの最貧層は1%しかいなくて、たとえばアフリカ諸国の貧困ぶりに比べるとどうということがない。

中間層が多くなったことで、交通費の値上げなどに抗議の声が上がった。

最初に「中の上」の層が増え、次に「中の下」の層が増え、ついに「中の中」が広がった。

それでもこの20年間は暴動などがほとんどなかったのだ。

暴力が生まれるのは富裕層と最貧層の格差が大きくなった時である。

経済格差があり若者が失業しても「暴動」に発展しないのは日本ぐらいのものかもしれない。職のない若者は日本では外でアクションを起こす代わりにうちにひきこもる。

それにしてもあれほどのサッカー王国なのだからワールドカップの招致に関してはみんな大歓迎なのかと思っていたので意外だった。
サッカー施設関係の予算が90億ユーロくらいで空港など関連経費がさらに100億ユーロとだんだん膨れ上がったそうで、公共事業予算を上乗せした不当取引の問題もある。
南アフリカ大会では経費が当初の予算の17倍になったというのだから、ブラジルも恐れているのだ。

中間層の子弟のために技術系専門学校などの増設が待たれていて、ワールドカップの予算があれば500の教育施設ができるという話だ。

今回の世界青年の日(WYD)では、百万人単位の若者が一箇所に集まって開放的に騒いでいたのに、事故らしい事故はほとんどなかった。

まあ当然で、世界中から集まる若者たちは一応「巡礼者」なのだから、大会が全体としてうまくいくことをみなが願っている。ワールドカップでは「自国のチームが勝つこと」だけを願う過激なフーリガンなどのサポーターなども押しかけるのだから安全上のリスクは大きい。

といっても、アフリカの最貧国や内戦中の国などと違って、BRICsのような国の場合、少なくとも都会の中間層の様子を見る限り、日本やフランスともうあまり変わらない。

若者たちはスマホを持ってゲームしているし、ショッピングモールにも人がいっぱいだ。

ところが、少し観察するとやはり貧富の差は極端なようだ。

日本のような国はもともと国土が狭いから、大金持ちの豪邸と言ってもBRICsの金持ちの家とは違うし、そもそも、金があっても表向きは質素に暮らす質実剛健や儒教的徳の伝統もある。「出る杭が打たれる」のをおそれる警戒心もあるだろう。貧しい人は貧しい人で、暴動を起こす代わりに片隅でひっそり暮らしていたり、生活保護の申請さえせずに孤独死や自死に至る人も少なくない。

日本では経済格差が見えにくいし、それを顕在化させないメンタリティがあるのだ。

垣根涼介『ワイルド・ソウル』(新潮文庫)という小説がある。

1961年に日本政府の移民募集の甘い言葉に騙されてアマゾンの僻地にわたって次々と命を落とした入植者の生き残りによる外務省への復讐譚である。

彼らは、入植予定地はすでに開墾が終わっていて灌漑用水も家も完備、地平線いっぱいに広がる二十町歩の土地が無償で提供されると言われ、8ミリの映像も見せられ、夢いっぱいで海を渡ったのだ。

ところが映像は現地とは関係のないもので、日本移民に関する特許権を与えられている現地の日本会社は不当な利益を得ているし、入植者はアマゾンの密林を自分で開墾するしかなかった。気候は過酷だし伝染病にも次々とやられた。

日本政府は戦後の食糧難の時代に、「口減らし」のために棄民したわけである。

現在ブラジルの日系移民は140万人以上で、バブルの頃の人手不足で日本に出稼ぎにきた人も多く、その後の不況で職を失ったが帰る費用もなくなってホームレス化するケースさえある。

1960年の悲惨な入植のたった50年後に「飽食」だと騒ぎ、「少子化」だと将来を憂う時代が来た。

『ワイルド・ソウル』を読んでいると、昔も今も変わらないのは「弱者切り捨て」という国のメンタリティだという。

けれども、その末端には、敢えて助けを求めず自分を犠牲にする「誇り高い弱者」が「日本人」を形成している。勤勉で義理堅く真面目。

小説の中で主人公を救ってくれたアラブ人は「日本人」を、

「餓死寸前なのに物盗りになる度胸もない。かといって乞食にまで落ちぶれるにはちっぽけなプライドが許さない…中国人とも韓国人とも違う。馬鹿正直に生きるだけが取り得の黄色人種だ」

と評する。

弱者は誇り高いが、強者はそんな弱者を切り捨てることをためらわない。

その主人公がアマゾンから命からがら逃げ出してリオデジャネイロに流れてきて生ゴミの回収をするようになった頃、60年代の終わりにコパカバーナなどの観光地に日本車や日本製品があふれカメラを持った団体観光客が繰り出しているのを見て愕然とするシーンがある。その日本人たちは現地のブラジル人よりも裕福そうに見えた。入植者が打ち捨てられて死んでいった間に日本は世界史にもまれな経済成長を遂げていたのだ。

コパカバーナは今回のWYDのハイライトとなった300万人野外ミサの行われた海岸である。
2キロに渡って、砂が見えないほどに若者に埋め尽くされた。(枢機卿60人、司教1500人、司祭11000人も出席した)

教皇は、若者たちの連帯に期待している、世界を変えるために政治的にも社会的にも現場に関わるようにと言った。
人生をバルコニーの上から眺めていてはいけない、社会を変えるために動け、イエスもそうした、と語った。教会を惰眠から覚醒しなくてはいけない、と。

マイノリティである日本のカトリックの中には、「ミッションスクール出身のお嬢さま」が上流の男と結婚した後、ブルジョワ教区の教会に通って社交に励んでいるというケースもある。そんなところでは「社会派」の司祭の話などはもちろん歓迎されない。教会に政治を持ち込むなとも批判される。

教皇フランシスコは、教会を出ろ、辺境に行け、無関心の地に行け、政治を変え、社会を変えろ、と言ったのだ。

『ワイルド・ソウル』には、生き延びた入植者や日系の二世や三世が「ラテン化」するうちにブラジルの民衆宗教であるキリスト教とどう関わったのかは書かれていない。でも、復讐に手をそめる二世である後半の主人公ケイは、底抜けに明るい。

中南米の「殺し屋」たちは外交的で陽気な人間が多いと書かれている。物語に出てくる陰湿な殺し屋というのは恐怖を煽る嘘っぱちで、プロの殺し屋にはサイコパスもいない。仕事は単なる「作業」であって、相手の苦痛や恐怖が内面にしみこんでいくことなどない。だから心の平衡を失わずに仕事を続けていけるとある。

日本人二世の主人公ケイは「殺し屋」ではないが、暴力に対してそういう変な「自然体」を保つことができる明るい男だ。

ここで、なんとなく伊藤計劃の『虐殺器官』(ハヤカワ文庫)のことを思い出した。そこには、兵士たちが心の平衡を失わずに人を殺せるように、戦場で余計な感情負荷を追い込まないように脳の神経回路をブロックする予防措置が施される時代が書かれている。

そんな措置をされなくとも、自分が害する他者を自然に「作業の対象物」としか見なせない人がいるということだろうか。

それは環境なのか素質なのか、相手との関係性が変われば変わるだけのものなのだろうか。

「弱肉強食」と称される新自由主義経済の中では、強い者が「感情の負荷」なく弱い者を食い物にするのだろうか。

ブラジルと日本の経済発展にまつわるこの半世紀の劇的な関係性の変化を思う時、アルゼンチンの貧困や暴力を近くで見てきた教皇がブラジルから発した言葉のひとつひとつがいろいろな響きをもって聞こえてくる。


次のWYDは2016年にポーランドのクラコヴィで開催されるという。

もちろんWYDを始めた聖人JP2を記念するためである。
JP2も故国ポーランドから冷戦を終結させた社会変革の立役者だった。
そのポーランドも今はすっかり新自由主義の洗礼を受けている。

これからの3年で世界はどう変わるのだろうか。私はそれをバルコニーの上から見ているだけなのだろうか。
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by mariastella | 2013-07-29 08:54 | 雑感

閑話休題 : 『ウルヴァリン SAMURAI』を観た

『ウルヴァリン SAMURAI』(ジェームズ・マンゴールド)を観た。

『X-MEN』も観たことがないし、興味がないし、アメリカン・コミック原作映画自体あまり興味もない上に、何度も書いたが「もうこれからの人生でわざわざヴァイオレントな描写やホラーやスプラッターの画像(カタストロフィや事故や戦争を含む)を見にいかない」と決めたのに、アクション映画を見てしまったのだ。

ウルヴァリンというのはヒュー・ジャックマン演じる『X-MEN』人気キャラクターで、その外伝のようなエピソードらしい。

たまたまTVのニュース番組で紹介をやっていて、芝の増上寺らしい風景が現れたことと、長崎の原爆で被爆してミュータントになったという場面もあり、新幹線の車両の上での戦いシーンと、それをスタジオで大型扇風機みたいなのを回しながらやっている様子をあわせて紹介しているのを目にしたので、なんとなく見てみたくなったのだ。
スペインで高速鉄道が大脱線事故を起こしたばかりで、日本の新幹線の無事故ぶりに改めて思いが至ったこともある。

ヒュー・ジャックマンはオーストラリア人だそうだが、ともかくこういうハリウッド型のアクションスターが日本にやって来ていろいろやるのを見ると『ブラック・レイン』へのノスタルジーもそそられる。ブラック・レインもタイトルそのものに原爆のイメージが重なっていた。

今の東京なら欧米系外国人もけっこういると思うのだが、この映画では白人は主人公と、もう一人アメリカの化学者という女性の悪役だけである。ふたりとも典型的なアメリカンな「映画スター」の外見だ(そういえば、「白人女性」は他にも出てきた。ヒロインの婚約者である大臣が痴態を繰り広げている部屋に複数いたセックス産業系の女性だ。当然彼女らも日本人がこの種のシーンでイメージする典型的な外見の白人女性である)。

で、この映画の日本で唯一の白人男であるヒーローは「ガイジン、ガイジン」と呼ばれ続ける。その辺が、なんだかなあという感じ。

彼をとりまく日本人の女性は2人ともアジアン・ビューティ系のファッション・モデルだ。
日本国内のモデルはハーフの女性が人気だけれど、国際的に活躍するモデルは日本的な雰囲気の人が強い。
華奢でしとやかで武道も達者という設定だが、対照的な雰囲気の2人とも演技に説得力がある。
TAOは体がきれいでかわいいし、福島リラは初音ミクのコスプレをしている写真が一番ぴったりくるようなCG的なキャラだ。

『ブラック・レイン』やなんかのアクション映画と違うのは、銃撃戦がほとんどないことかもしれない。

何しろSAMURAIだから、弓矢や刀がたくさん出てくる。
他には化学者の蛇女がまき散らす毒で、寄生虫みたいなものを心臓に送りこむことすらできる。

ヒーローのミュータントも武器は格納可能な特殊金属製の爪であり、これがシャキーンと出てくるので、怖いと言えば怖いが猫みたいなやつだなと思う。

あまりにもゲームみたいな展開だから、ヴァィオレンスといっても、酷薄さや倒錯がないので後をひかない。

雪国の忍者の山里みたいなところにそびえるハイテクのタワーとか、設定も非現実的なので長崎の海辺のロケなどとのギャップがあってそれもまた楽しいと言えば楽しい。

もし私が日本に住んでいたら絶対に見なかった映画だとは思うけれど。
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by mariastella | 2013-07-27 08:21 | 映画

ブラジルの世界青年の日(WYD)に思う その2  ブラジルの福音派とは

テレビでは教皇の車にすがりつく若者たちのフィーバーぶりが伝えられている。

サッカーのスタジアムのような雰囲気です、とレポーターが言っている。

しかしこの教皇の警備などのためにユーロにして4000万ユーロが計上されているので失業や経済格差に苦しむ人たちは抗議のマニフェストをしていると付け加えるのも忘れない。

といっても、若者たちはこの教皇がはっきりと経済的な弱者の側に立っているのを知っているので、抗議デモをしている若者と教皇のファンはむしろ重なるのだ。批判しているのはアノニマスのようなウルトラ・リベラルなグループの方である。

しかし、フランスのメディアは、現在世界一のカトリック人口を擁するブラジルもカトリック教会は閑散としつつあり、2030年には福音派教会に信者数で抜かれてしまう、みなが福音派教会に流れていると強調する。

福音派教会のカリスマ牧師が、若者たちに「未来はどんどん良くなる」と手のひらに書いて唱えなさい、などというシーンが紹介され、若者たちが熱気を帯びてそれに従っている。

なんだか自己啓発系カルトに見える。

実際は、「福音派」とひと口に言っても、実態はさまざまで、劇的な動員力のある福音派とは、ほとんどカルトに近い。

福音とは新約聖書の福音書に基づくものだから、広い意味では福音主義とはキリスト教そのものを指す。
歴史的には、宗教改革の時代のプロテスタントや、その少し前のユマニスムの時代の福音書再発見の動きをも指している。

ヨーロッパのカトリックではラテン語を読めない一般信者は、福音プラス伝統つまり、聖人伝だの神学だの典礼だのによってのみ教会主導のキリスト教を生きていた。それがルネサンス以降に、福音書に向き合うことで、個人対神(=福音)という関係が生まれて、体制としての教会に縛られないリベラルな流れができたのだ。

ヨーロッパはほぼカトリック一色だったからエラスムスやラブレーらユマニストもカトリック内部の異端児だった。
やがて個人の信仰に基盤をおくプロテスタントの諸派がカトリック教会を離れ、福音派はプロテスタントの別名のようになった。
プロテスタントには多くの派が生まれたが、今はメソジストやバティスト、ペンタコイストなどが福音派と言われる。聖書に忠実な原理主義的な傾向も大きいので、その意味ではもはや「リベラル」とは一致せず、むしろ今となれば第二バティカン公会議以降のカトリックと比べてもずっと保守的である。

だから、

「カトリックが古臭くて保守的なので若者はリベラルな福音派に惹かれる」

というような見方は的を外れている。

ところが、第二ヴァティカン公会議で旧弊を斥けて近代化を担ったカトリック進歩主義者たちは今や平均年齢80代である。

ざっと言うと、たとえばフランスのような国では生まれながらのカトリックで自ら内部改革を推進してきた高齢世代がいて、その後はすっかり宗教離れが起きたので、若い世代でカトリックのアイデンティティを持っている人たちは別に進歩主義など標榜していない。「進歩派対保守派」のような対立は実はもう実態を伴わないといっていいだろう。

これがブラジルのような国ではどうなのかというと、日本や西欧先進国に顕著な宗教離れや個人主義はまだ見られず、ラテン風の濃い祝祭的なメンタリティを持ちながら失業率が高く貧富の差が激しい若者の不満が「宗教」的なパフォーマンスにはけ口を求めているかのように見える。

そのマーケットにつけこむ福音派カルトは、巨大ビジネスであり、彼らはキリスト教の福音主義というメソードを使いながら、若者たちに「君の未来はどんどんよくなる」という「福音」を刷りこんでいるのだ。

教皇が社会主義的改革に近い路線で弱者の救済を唱えるのに対して、福音派カルトの説く「福音」とは、ブラジルの高度成長、大量消費の夢なのである。
だから、多くの若者がそちらの方に惹かれているのだとしたら、先が心配だ。

ル・モンド紙によればブラジルで福音派に流れるのは15-19歳が顕著であるらしい。

若者にとって「繁栄」という名の福音は魅力的だ。

それは「消費」をはばむものはすべて、哲学も宗教も著作権保護も否定するウルトラ・リベラリズムと親和性がある。

何も

「カトリックが中絶や同性愛に否定的だから顧客を失いつつある」

わけではない。

前述したように、本来の「福音派」プロテスタントはカトリック以上に保守的なぐらいなのだから。(この項続く)
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by mariastella | 2013-07-25 08:05 | 宗教

ブラジルの世界青年の日に思う その1  教皇たちの革新性

ブラジルのリオデジャネイロで世界青年の日が開催されている。

今年で28回目になる、若者を対象にしたカトリック世界最大の国際イヴェントだというのだが、カトリックという形容を抜きにしても同じことだ。

若い世代のみを対象にして、国を変えながら、世界中から若者が集まるこのような大がかりな国際イヴェントは他にない。

第一、ネーミングも世界青年の日、ワールド・ユース・デー(以下WYD)ということで、そこに「カトリック」という言葉は冠されていないのが象徴的だ。

今回は、初の南米出身の教皇がはじめてヨーロッパを離れる遠出で故郷の南米大陸へ戻る形になる。

2005年に初のドイツ人教皇であったベネディクト16世(以下B16)が就任してはじめてのWYDで、出身国ドイツのケルンに赴いて熱狂的に迎えられた様子を思い出す。

その時、B16は、

「聖人たちは改革者だと言われるが、私はもっとラディカルに表現したい。が聖人たちからのみ、神からのみ、真の革命、世界の決定的な変化がやってくるのだ」

と若者たちに語った。

今の教皇フランシスコは、今回ブラジルに発つ前に一度だけローマを離れている。

シチリア海峡にあるイタリア最南端のランペドゥーサ島の訪問だ。

この島はイタリア本土よりアフリカに近いので、ヨーロッパをめざすアフリカからの難民たちが何十万人も船で漂着してくるのだがその多くが難破し、悪条件の航海で死者や病者もたくさん出ている。

ムスリムがほとんどで、いったんイタリアで難民として受け入れられれば、ヨーロッパ内では通行自由となるので不法移民の問題として各国から白眼視される。

そんな中で、そもそも「国境」を設定しない普遍宗教で特に移動の民や外国人を尊重するキリスト教のグループを中心に、現地の人々は必死で難民の世話をしてきた。

そのうちの一人の聖職者の訴えに応えて法王がはじめてローマを離れてやってきたのだ(7月8 日)。

沖で花輪を海に投げ、遭難者のために祈り、その夜からラマダンに入るムスリムたちの、より尊厳ある生活の希求に教会は寄り添うと述べ、難民の窮状に無関心である世界を激しく非難した。世界に蔓延する「無関心」こそが神に対する罪なのだと。

この人を見ていると、カトリック社会主義というものの堅固さがよく分かる。

今のローマ・カトリックのいうことなすことが信頼できると思うのは、ヨーロッパでカトリック教会、いやキリスト教そのものが急激に廃れてマイノリティに「成り下がった」おかげだと思う。

キリスト教は、辱められて苦しみ死んだイエスが復活してこそ成立したわけだから、「権力の側にあるキリスト教」などはすでに本質的な使命を全うできない立場だ。

そんな歴史をくぐりぬける中で世俗主義や無神論や人間主義を内からどんどん産み出しながら、カトリック教会はいったん抜け殻のようになって、そのおかげで、「最も小さき者、最も貧しい者」と同一化し仕えるという初心に還ったとも言える。

日本のような国から見ると、ヨーロッパにはキリスト教文化遺産がたくさんあるからまだまだカトリックの本場のように思えるのだが、実は、その凋落ぶりは日本における神道や仏教離れなどの比ではない。

日本の仏教など、もともとローカルな氏神や自然神に代わって「鎮護国家」のツールとして導入されたわけだし、最初から権威を纏っていた。

キリスト教の方はその成立時からヴァイオレントに迫害され、大量に殉教者を出し、その後で奇跡的にヨーロッパ文化圏の芯となったのに、再びヴァイオレントなイデオロギー闘争の中で敗北し排斥され、辱められて、そういう試練の中で本来の使命に収斂していったという現在がある。

だから、近代の思想闘争のなごりで、カトリック教会がどんなに保守的だとか反動的だとか前近代的だとか頑迷だとかあいかわらず非難されていようとも、もう失うものは何もないカトリック教会は、実は「革命的」なのである。

ヨハネ=パウロ2世(以下JP2)が最初にWYDを企画して、若者たちに歓呼で迎えられた時、ヨーロッパのメディアは、「ローマ法王=保守で頑迷」と現代の若者たちの組み合わせはミスマッチであると見なした。

JP2の個人のパフォーマンスが若者に受け入れられているだけで、カトリックの時代遅れな見解(避妊・中絶禁止だの女性司祭不可だの離婚再婚不可だの…)は到底若者に支持されないと決めつけ、若者たちを「歌手のファンであるが歌っている歌は受け入れない」状態だと揶揄した。

しかし、そのJP2よりもさらに保守的で頑迷だといろいろな非難の対象になったB16が教皇になってからも、WYDはますます盛り上がり、若者たちはアイドルに熱狂するかのように教皇を迎え続けたのである。

これはどういうことだろうか。

若者たちは、教会が真の「革命」の信頼できる担い手だということを直感したのだろうか。

WYDの目的は若者たちにモラルの説教をすることではない。若者たちをリスペクトし、イエスが弱者の側に立って殺された後で復活した救い主だというよき知らせを分かち合うということに尽きる。そのことがどうも彼らにははっきりと伝わっているようなのだ。(この項続く)
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by mariastella | 2013-07-23 08:13 | 雑感

コプトの被害続く

モルシ政権が倒されてからエジプトの各地でコプト教会や教区が荒らされている。

ムスリム兄弟団なのか、彼らを支援するサルフィストなのか、だだの「火事場泥棒」的なテロなのかはっきりしない。警察はかけつけず、キリスト教徒たちの側も武器を持って防衛するので犠牲者の数は増えている。

シリアだとかアレキサンドリアだとか、キリスト教発生的に由緒ある地域で、同民族が政治的混乱の中で宗教の名によって殺し合っているのを見ると、問題は、もはや形式的な「民主主義体制」の樹立ではなくて、もっと根本的なユニヴァーサリズムを標榜することへの合意しかないような気がする。
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by mariastella | 2013-07-09 00:25 | 雑感

シリアのキリスト教徒

ようやくすっきり夏らしくなったパリで、パリ外国宣教会の中庭のマロニエの木陰でのピクニックに招待された。

私たちのトリオが10年前最初に日本に演奏に行った時、聖心女子大のチャペルでのチャリティコンサートをオーガナイズしてくれたオール神父が、現在の任地の函館から一時帰国していたので久しぶりに話した。
コンサートの後で連れて行ってくれた六本木のアフリカン・バーで若者たちと知り合えたことでトリオの仲間が喜んだことを話したら、「自分は不満だった。せっかくすばらしい音楽を聴いた後に太鼓の音でだいなしになった」とまるで昨日のことのように悔しそうに言った。

同席していた人にファリッドさんというシリアのギリシャ・カトリック教徒がいた。娘さんが最近フランスのカトリック教会で結婚したということでその写真をいろいろ見せてくれて、正教とカトリックとがどう分かれてきたかについて周りの人に熱心に話していた。

私は前回の記事でダロリオ神父について書いたばかりだったから、早速、反アサド軍についてどう思うか質問してみた。


すると

「やつらは神父や司教を虐殺した、私は絶対に反乱軍をゆるさない」

と言下に切って捨てた。

なるほど。

ダロリオ神父のような立場がマイノリティだということが確かによく分かる。

エジプトも選挙で民主的に選ばれたはずのイスラム兄弟団系の政府が倒されて国が二分されている。

イスラム兄弟団を支援する人は今回のことを「民主主義を無視した軍事クーデターだ」と言うし、

彼らを追い出したリベラルな勢力は「これは2年前のクーデターの続きだ」と言っている。

エジプトの状況をどう思うか、ムバラクとアサドとを比較したことがあるかについても、ファリッドさんに聞いてみればよかった。

でも、周りには私以外に、シリアのキリスト教徒としてのファリッドさんに今のシリアの状況の分析を聞いてみたいという好奇心のありそうな人はいなかったので、なんとなく気が引けてそれ以上聞けなかった。

パリ外国宣教会といえば長崎で隠れキリシタンに遭遇したプチジャン神父が有名だ。
ベトナムや朝鮮、中国、タイ、ラオスでは多くの殉教者を出している。

ベトナムでの殉教図によれば、迫害されたキリスト教徒たちは十字架を踏んで歩けば棄教したと見なされた。磔刑像ではないただの十字架だ。日本の踏み絵とは雰囲気が違う。

一般人の多くはこうして表向きは棄教したが、パリ外国宣教会から派遣された宣教師たちは最初から殉教する気満々だったのでもちろん踏まずに殺された。

殉教者の「聖遺物」を出さないように遺体は川に捨てられたのに、信者たちがこっそり船を出して遺体を救いあげている絵もある。そのようにして集めたさまざまな遺品が司教の手を通してフランスまで送り返されてきたのだ。

彼ら殉教者が植民地主義政策に結果的にどのような役割を果たしたのかという歴史的判断については、自分たちは保留するしかない、と30年の日本勤務を経て数年前に帰ってきた神父がしみじみと言った。

それを思うと、エジプトやシリアで今現在起こっていることの評価など、一体いつになったら可能になるのだろうと気が遠くなる。
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by mariastella | 2013-07-08 06:53 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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