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リシュリューの猫 その8

このシリーズ最後はリシュリューの一番のお気に入りだったという

Soumise スミーズちゃん。 

ペルシャ猫だったらしい。いつも膝に乗せていたとか。

このネーミングは何か不思議だ。

Soumiseとは服従した女性、従順な女性という意味だ。

猫、特に雌猫にはあり得ないような性質である。

いや、ひとつだけあり得るかもしれない。

スミーズちゃんのことを考えるとどうしてもラグドールを連想してしまうのだ。

ラグドールは抱き上げると腕の中でぐったりと脱力するのでぬいぐるみのようだと言われていて、抱っこ好きの猫飼いなら一度は憧れる。

1960年代にアメリカでアン・ベイカーという人が、ジョセフィーヌというペルシャ猫の産んだ3匹の子猫たちがみな異常におとなしくて愛情深いことに気づき新種として改良することを思いついた。

売りだすにあたって、猫が抱っこに抵抗せずに、布の人形ラグドールのようにぐったりと身を任せることの不思議について、遺伝子の突然変異だとか、神さまのプレゼントだとか、宇宙人に拉致されて返されたからだとか、さまざまな説が広められた。

新種猫の販売にマーケティングが利用された最初のケースだと言われている。

ラグドールはあまり声を出さずひたすらおとなしく、室内にいるのが好きでおっとりしている。警戒心がなく簡単に服従する。

「服従」…。スミーズちゃんそのものだ。

といっても、猫飼いは、猫を犬のようには服従させようなどと思わない。

抱かせていただければ、愛撫させていただければそれで望外の幸せを感じる。

普通は、猫飼いの方が猫に服従しているくらいだ。

腕の中でぐったり身をまかせてくれるなんて、猫飼いなら想像しただけでも萌えるだろう。

これまで見てきたようにリシュリューの他の猫たちはけっこうにぎやかでいたずらっぽいイメージだ。

そんな中に、突然、一匹だけ、ぐったりごろにゃん猫が登場した。

20世紀のアメリカで「これは売れる」と思って商品化された最初のラグドールたちのように、ペルシャ猫の中には、何らかの変異で警戒心がない脱力系が生まれることが昔からあったのかもしれない。

だとしたらリシュリューのお気に入りになったことも分かる。

リシュリューは権勢を誇っていたが、失脚した王母や王弟をはじめとして多くの敵がいたし、陰謀、暗殺計画もたくさんあった。
それを事前に摘発するために公的なスパイ制度をはじめて作った人でもある。
心の休まる暇はなかっただろう。命を狙われ続けていた。

逆にリシュリューの怒りをかわぬよう表向きは忠誠を誓っていた人や服従していた人ももちろん多い。

そんなリシュリューには犬は必要ではなかった。三銃士のような親衛隊を何百人単位で抱えていた。

で、自由でおもねらない猫たちに安らぎを求めた。弱い猫を無償で保護し愛して、さらに自分の方が猫のご機嫌をうかがうことに倒錯的な喜びすら覚えたかもしれない。
いや、カトリックの高位聖職者の称号を持って説教などしていた人だから、猫に対する時にだけ「弱者に仕える」キリスト教的愛の実践をすることで良心に折り合いをつけていたのかもしれない。

そんな自由奔放、我儘放題の猫たちの中に、唯一、天然ラグドールの美しいペルシャ猫がいた。

スミーズちゃん。「お気に召すまま」ちゃん。

権力者に対する下心もおもねりも恐れも崇敬もなく、ただ、ぐたりと身を任せる猫。

フランス絶対王政の基礎を作り軍事にも政治にも文化事業にも超人的なパワーを発したリシュリューのさぞストレスフルだった生涯を思う時、スミーズちゃんは彼にとってこそ「神からの賜物」だったのだなあと思う。

今、多くの国でラグドールは純血種のうちトップ・テンに入る人気者である。

1960年代半ばにラグドールの母となったペルシャ猫の名が、フランス革命を経てナポレオンが皇帝になった時にナポレオンの手から冠を受け取った皇妃ジョセフィーヌの名だった。
ジョセフィーヌはナポレオンとの間には嫡子が生まれなかったが最初の結婚で生まれた娘を通して孫が後の皇帝ナポレオン三世となっている。
奔放で恋多き女性だったので従順とは正反対の人だったが、「ラグドールの母猫」の名として猫の歴史にも縁ができたわけだ。

リシュリューが今この記事を読んだら、なんというだろうか、ちょっと聞いてみたい。
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by mariastella | 2013-08-23 00:20 |

リシュリューの猫 その7

13番目の猫はGazetteガゼットちゃんだ。

ガゼットとは後に「新聞」となる定期刊行物である。

リシュリューはフランスで最初のガゼット発行を主導したことで歴史に名を残す。

発行者はテオフラスト・ルノドーだ。

ルノドーは、プロテスタント出身の医師だった。後にリシュリューが陥落させたプロテスタントの牙城モンプリエの医学校では、プロテスタントの学生でももちろん受け入れられていたから医師になれたのだ。

17世紀の初めごろ、社会の貧富の差が拡大し庶民が苦しむのを見て、社会改革を目指し、マリー・ド・メディシスの内閣に『貧者の条件について』という論文を上奏した。

それが評価されて1612年にルイ13世の侍医の一人としての称号を得るがカトリック勢力にはばまれた。

結局1625年ごろにカトリックに改宗し、リシュリューの内閣に参与した。

求人と求職の情報を載せる印刷物も発行している。社会政策を標榜することは変わらなかった。

同じ流れで、1631年5月30日に、フランスで最も古い週刊新聞となった『ガゼット』をリシュリューの肝いりで刊行したのだ。

ガゼットとは装丁なしの情報誌で、その語源はヴェネツィアのGazeta de le noviteという新聞が16世紀の貨幣gazeta硬貨一つの値段だったからだとか、宝や富をあらわすラテン語のgāzaに由来しているのだとか諸説ある。

ともかく政府主導で刊行され800部を刷るようになったこの新聞が、『ガゼット・ド・フランス』と名を変えて革命時代なども経てなんと1915年まで続いたというのだから大したものだ。

ヨーロッパ全体で見ると最も古い新聞はストラスブルクで1605年に発行された4ページの週刊紙で、« Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigen Historien »(すべての重要で記憶すべき話の報告) というものだった。

フランスのガゼットより後にスウェーデンのクリスティナ女王が1645年に出した新聞はなんと2006年末まで続き、その後も紙はなくなったが今も電子版が続いているというから、ヨーロッパの新聞の息は政治形態よりも安定して長いようだ。(イギリスの最初の定期刊行物は1622年の『Weekly Newes from Italy』だったそうで詮索するとそれもなかなか興味深い。)

さて、リシュリューの『ガゼット』は金曜発行の4ページ(週に寄っては12ページに上った)もので、外国のニュースとパリのニュース、宮廷のニュース、外交と政治情報が主な内容だったが、当然リシュリューの政策を支持するものである。
1634年には主だった事件を特集する別冊も発行されるなど人気を博し、17世紀末には郵便制度の発展によってかなりの部数に達したらしい。

リシュリューは1642年に、ルノドーも1653年に世を去り、ルノドーの子孫によって受け継がれたガゼットは、ルイ14世の絶対王政の時代を経て1762年、『ガゼット・ド・フランス』として政府の広報紙になった。

それ以来、政権が目まぐるしく変わっても、時の政府の広報誌としての役割を果たした。革命で国民国家の概念が生まれルイ16世が処刑された後は『ガゼット・ナショナル・ド・フランス』となり、ナポレオン時代にも慎重に中立を保ちながら1915年まで存続したのだ。

ガゼットちゃんという名の意味と語感からは、あちこち飛び回っておしゃべりな猫がなんとなく想像される。

『ガゼット』が登場した1631年に以後に生まれた猫なのだから、リシュリューの死の床の近くにそのガゼットちゃんが丸まって静かに喉をならしていたという可能性も、充分あるだろう。

「ガゼットはどこだ」と猫を探すリシュリューに新聞を持ってきたり、

「ガゼットはどこだ」と新聞を探すリシュリューのもとに猫を連れてきたりした召使もいたかもしれないな。
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by mariastella | 2013-08-22 02:23 |

マイノリティをカテゴリー化することの危険について

(リシュリューの猫はお休みです。)

ドイツでは出生証明書に男女の他に性別未定の項目が付け加えられるようになるとラジオで言っていた。
男女の性は胚の早い段階でホルモンの量によって基本の女性形が男性になっていくことで決まるので、その量や期間などによって分化がグラデーションになっているのはよく知られている。

卵子には男女別がないのだ。染色体もいろいろな複合系がある。

実際、両性具有など性別が不確かな子供の誕生は決して少なくない。

これまでは出生時に医師と両親が決定して、手術したリホルモンを投与したりして男女のどちらかに押し込めてきた。

その結果、長じて性同一性障害に悩む人もいる。

ホモセクシュアリティやバイセクシュアリティとして現れることもある。

性的マイノリティの人たちはいつも差別されてきたが、中でも、それと戦うゲイのロビーがいつしか力を持つようになり、今や、同性結婚法などがあちこちで成立しつつある。

もちろん次世代を育てるという社会の存続のためには「男=父」と「女=母」と子供という家族の枠組みは必要なのでそれを囲い込んで社会的に保護するというのは理解できる。

けれども、性的傾向は別に「ホモセクシュアルとそれ以外」の二項のみに分けられるわけではない。

ホモセクシュアル以外に非-性的人間も少なくないし、そもそも人生の長いスパンで見ていけば普通の人が性的存在である期間すらそんなに長くないかもしれない。

また、同性愛嗜好の他に、「社会的に不都合な性的嗜好」はいくらでもあるし、その中には、小児虐待のペドフィリアや屍体損壊のネクロフィリアのような犯罪として取り締まることが必要なものももちろんある。

しかしゲイのロビーが強くなると、解放されて市民権を得られるのはまさにゲイのコミュニティだけなのであって、「その他」の多数者の中に埋もれている性的マイノリティは、まるで存在していないかのようになる。

この世には「同性愛者」と「異性愛で子供を産んで育てるマジョリティ」のどちらか、というくくりになってしまうのだ。

ドイツの新民法では、性別未定の人は、成長してから自分で決定することができるそうだ。こういう曖昧ゾーンを設けて二分法に風穴を開けるのはいいことだと思う。

そもそも、差別されている社会的マイノリティや社会的弱者のうちの特定のグループを擁護するような運動は、全体としては人権尊重が少しずつ拡大されていくのだろうが、弊害もある。

特定のグループの「解放」「勝利」の影で、かえって見えなくなり忘れ去られる弱者も出てくるし、特定のグループがカテゴリー化されるとその内部での多様性が無視されるので、かえってグループ差別を固定化してしまうこともある。同性愛の場合でも、ゲイ・プライドのような派手な運動が着実な成果を上げる一方で、ひっそりと地味に社会に同化して生きることを選択したゲイの人はかえって肩身が狭くなるかもしれない。

そのような例として、アメリカ大陸植民地化の歴史の中で盛んになった黒人奴隷貿易のことをあらためて考えさせられた。

以前にも触れたが、もともと奴隷とは、戦争に負けた国の人間や、同国内でも貧困層の人々を強者が平気で搾取していたわけで、必ずしも肌の色とは関係がない。

旧約聖書の出エジプト記でも神がユダヤ人たちに律法を与えた時、主人の財産としての奴隷の扱いについても詳しく述べている。そこでも、「あなたがヘブライ人である奴隷を買う場合は…」などという記述があるように、「奴隷制度」とは、人種の差と直接結びつかない力関係が基本なのだ。

つまり、人間の社会では古今東西、「強者が弱者をモノとして生殺与奪をほしいままにする」、という形があって、人身売買による奴隷制はそのひとつであるに過ぎない。

実際、新大陸にはヨーロッパの農奴や犯罪者や浮浪者などの社会からはじき出された弱者も多く送りこまれた。その中で黒人が圧倒的に多くなったのは、気候に適応し労働力として最もコストパフォーマンスがよかったからである。

すでに15世紀以来、コーヒー、砂糖、タバコどの嗜好品を手に入れるために1200万人もの黒人奴隷が西アフリカから投入された。奴隷の歴史の中でも最も大規模なものだ。

ところが、もとは「強者」対「弱者」の構造の一部であった黒人の搾取が特化されていくことになる。

黒人は「洗礼を受けていない非キリスト教徒」という異文化的存在でもあったので、現地のインディオたちと同じく「キリスト教徒」対「野蛮人」という図式にシフトし、さらに「白人」対「黒人」という肌の色の差異に落としこまれていったのだ。

しかし、キリスト教は普遍宗教であるから、根本的には肌の色での差別は許容できない。

実際、ヨーロッパの本国においては、植民地における黒人奴隷制度を激しく糾弾する人たちが出てきた。

その非難をかわすために作られたのが1685年の「黒人法」だった。

コルベールが起草しルイ14世がサインした。

アンティーュ、ルイジアナ、ギュイエンヌ、そして今はフランスの海外県となっているモーリス島にレユニオンという植民地全体に適用されたもので60条からなり、財産としての黒人奴隷の扱い方を規定する。


この法文化の目的は、絶対王政の強化にもあった。奴隷の主人である植民者たちは自分たちの権利が制限されたと考えてこの法律に不満を唱えた。

黒人法によると、主人は奴隷を鎖につないでも鞭うってもいいが、傷つけたり拷問したり殺してはいけない。
10年働けば毎週7,5リーヴルの小麦と2リーヴルの塩漬け牛肉、三匹の魚を最低支給しなくてはならない。
しかし、最も大切な条項は、奴隷は洗礼を授けられなくてはならず、カトリックの教えを受け、結婚は司祭によって司式されるなどである。

この「カトリック化」によって、王は「無力な黒人を買って奴隷化する」という非難をかわし、奴隷貿易を、「無教育で野蛮な黒人をカトリックに改宗させる」という文化事業にすりかえようとしたのである。時には当事者自身、本気でそれを信じていたふしもある。

その偽善は19世紀まで続き、1848年に奴隷制が廃止された後も、フランスの帝国主義は「未開の人間を無知から解放する」という名目を掲げていた。

フランスの植民地にはもともとアパルトヘイト政策はなかった。
肌の色による差別という感覚がなかったのだ。
肌の色が同じで洗礼を受けたカトリックであろうと、単に弱者が強者に搾取されていただけだった。

それなのに、その差別が「肌の色」に還元されて批判された時点でこの「黒人法」が出てきたので、「非キリスト教徒を教化する」という正当化がなされたわけである。

結果として、他の多くの弱者が肌の色や宗教に関係なく差別されている事実が不問に付されてしまった。

その後の解放運動も、黒人というカテゴリーの被差別者ばかりがクローズアップされることになる。

中途半端な法律が差別の基準を特定したり、特定されなかった被差別者の権利回復を遅らせてしまったりという例のひとつだろう。

たとえカテゴリー別に少しずつ差別をなくしていくことしかできなくても、「相対的弱者の非差別をなくす」という普遍的な目標を忘れると、社会のひずみは治らない。

(参考Le nouvel Observateur2544/ p60 )
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by mariastella | 2013-08-21 08:59 | 歴史

リシュリューの猫 その6

雄猫のPyrameと雌猫のThisbe 。

ピラムくんとティスブちゃん。カップルだったのだろうか。

古代ローマの詩人オウィディウスによるラテン文学の名作『変身物語』に出てくるバビロンの有名な恋人たち「ピュラモスとティスベー」にちなんだ名である。

リシュリューはこの2匹がいつも脚をからませて抱きあって眠っているのを見てこう名づけたという。

「ピュラモスとティスベー」はロメオとジュリエットの原作になったとも言われる話で、隣同士に住む美男美女が恋におちたのに父親同士に反対されて駆け落ちの約束をし、ティスベーがライオンに喰われたと勘ちがいしたピュラモスが悲観して自殺、それを見つけたティスベーも後を追い、2人の灰は同じツボに入れられたという悲劇だ。小アジアの河の名にもなった。

くわしくは日本語のwikipwdiaにも載っているので見てほしい。

でもこのリシュリューが猫を見て連想したという2人の恋人の絵だが、1619年には挿絵つきの本が出回ったというからリシュリューの見たのはそれだろうと思ったのだが、国立図書館のサイトで見られる原典の画像のはぱっとしない。


ローラン・ド・ラ・イール(1606-1656)というバロック画家でリシュリューが自分の宮殿のために絵を描かせた人がいて、その人の描いたこの悲劇のシーンはこれ


この絵がリシュリューの所有していたものかどうかは知らないが見た可能性はある。

リシュリューの死後に描かれたものではこういうものがあって

これはなかなかの迫力だ。

こういうテーマの絵は、先人の構図を継承することが普通だから、どちらにしても、この2作に近いものをリシュリューは見ていて、重なり倒れている2人の恋人の姿から2匹の猫の名をインスパイアされたわけだろう。

悲劇のシーンであるはずなのだが、猫というものは、寒い時こそ丸くなっているが、暑い時は、本当に行き倒れているのかと思うほどばたりとのびて脱力しているので、それが2匹折り重なっていたら確かにこんな感じになるだろうなあ、と思う。

リシュリューって教養がある。一応カトリックの高位聖職者なのに神話にのめり込んでいていいのかね。
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by mariastella | 2013-08-20 01:36 |

リシュリューの猫 その5

さあ、後6匹。

Rubis sur l'OngleとSerpolet

リュビー・シュル・オングルくん、つまり「爪の上のルビー」くんは大のミルク好きだったそうだ。

フランスは酪農国だから牛乳はふんだんにある。そして「猫はミルク好き」と決まっている。

昔の日本人が残り飯に味噌汁をぶっかけたものを猫飯としたように、フランス人は硬くなったフランスパンの残りをミルクに浸して猫パンにしていた。

これを猫と犬の両方に与えていたフランスの農家の人を見たことがあるが、猫は喜んでパクパク食べ、犬は悲しそうな顔をして飼い主を見上げたのを覚えている。

今は人間と同じで成猫にはミルクは消化できないのでやってはいけないなどと言われているが。

「爪の上のルビー」というのは別に爪が紅いわけではない。

Rubis sur l'Ongleとは口語の慣用句で「すっかり、きっちり」と言った意味だ。

リシュリューと同時代の17世紀が起源の言い回しで、ルビーというのは、あの紅い宝石ではなくて、赤ワインの最後の一滴のことだ。

最後の一滴は、爪の上にたらされて、舐められたと言う。

金をすぐにきっちり払うという意味でも使われるようになった。

この表現は今でも通用しているのだがその由来を知らずに、ルビーの指輪をはめているような人は金持ちで金払いがいいという意味じゃないのか、と思っている人もいる。

「爪のルビー」くんはミルクの入った皿をいつもさぞぴかぴかに舐め上げていたのだろう。

少なくなってきたらほんとうに前足ですくうようにして最後の一滴を爪にひっかけようとしていたかもしれない。

なかなかフランス的でかわいい響きの名だ。

セルポレくんの「Serpolet」は香草タイムの一種で日光を好む性質がある。

セルポレくんは猛烈に日向が好きだったそうだ。

時に連れて陽だまりが移動していくと、そこから離れないようにこまめに移動していく猫の姿はほほえましい。

たまに黒猫で強い日の光を浴びて寝てしまって温度が上がり過ぎ、自分でもあわてて熱くなった側を影の床にすりつけて冷ましている猫がいるが、それも愉快だ。

パリの緯度は高いので冬は部屋の奥まで陽がさす。

でも17世紀は寒冷期に向かった時代だから陽の差す日は少なかったかもしれない。

こたつのない国の猫たちは暖炉の前に集まって丸くなっていたのだろうか。
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by mariastella | 2013-08-19 01:47 |

閑話休題  映画『エリジウム』Elysiumを観た

Elysium『エリジウム』を観た。

暴力描写のインプットは避けると言いながらまたSF サスペンスアクション映画をなぜ観に行ったかというと、「ソシアルのテーマ」と娯楽映画の関係を考えたかったからだ。

(以下、日本ではまだ公開されていないようなので結末など知りたくない人は読まないでください)

目的がはっきりしていたので、戦闘シーンや暴力シーン、事故、手術などの怖いシーンはすべて目を閉じたり心理的に逃避を試みてバリアをはった。
だから、この映画のB級アクションのおもしろさとか、機械と合体した人間の戦闘能力とか、武器のこだわりとかを楽しもうと観に行く人とは全く別のモノを観ているわけなので、そのつもりで読んでほしい。

2154年、人類はアルマダイン社製造の宇宙ステーション「エリジウム」に移住した少数の富裕層と、スラム化した地球に残る貧困層とに二分二極化されていた。

「エリジウム」市民の安全を司る政府高官ローズ(ジョディ・フォスター)は地球から来る不法移民を拘束して強制送還する。
時には絶望した移民を乗せた宇宙船を追撃することもある。

エリジウム法でも地球人を殺してはいけないことになっているのだが、ローズは安全を守る緊急事態にはそれが適用できないという。

その強硬策に異を唱える大統領(これはパキスタン系の俳優ファラン・タヒールでWASPではない設定)に、

「あなたは子供がいないんでしょうね、子供がいないから、自分の築いてきたものを脅かす者は絶対排除するという気持ちが分からないのよ」

というようなことを言う。極右ナショナリストのル・ペンでも言いそうな台詞だ。

その他にもこの悪役のローズは、「神の愛の名において」などと平気で言う。

神も正義も家族への責任感や愛もみな「自分だけ」のものなのだ。
世界の紛争地帯で一神教の神が都合のいいように使われていることと同じだ。
「ゴッド・ブレス・エリジウム」である。

映画の終りで地上の革命軍が上陸した時、ローズはそれを本格的に殲滅しようとして、戦時には平時と違って軍事最高責任者の決定が優先すると言って、大統領を逮捕させてしまう。 今のエジプトの軍事クーデターの泥沼のことも考えてさせられる。

不法にエリジウムに侵入しようとするほとんどの人々は、ただ生き延びる希望を抱いているだけだ。

あるいはエリジウムにだけある万病を治す医療カプセルに病気の子供を入れて救いたいだけだ。
別にエリジウムの住民に危害を加えに来るわけではない。

しかも、その不法の移民宇宙船を飛ばしたりエリジウム市民の偽のID認証(これがないと治療は受けられない)を与えたりするために、仲介業者はもともと貧乏な人たちから金をとっている。

西アフリカから生死をかけてランペドゥーサ島へ渡ってくる不法移民たちも船主に金を払っているのと同じだ。

ランペドゥーサに漂着した人も強制的に隔離されるが、さすがに殺されることはない。

けれども、海の向こうの不幸や貧困を隔離しよう、見ないことにしよう、近くにこられたら困る、という先進国メンタリティはエリジウムのそれと変わらない。

不法滞在者が国内で見つかったら基本は強制送還である。

一つ不思議なことがある。

エリジウムの住民がどうみても金髪碧眼がマジョリティらしいのは分かるし、現にアメリカに存在する金持ち用の要塞都市ゲーテッド・コミュニティを拡大したものだというのも分かる。

警備員や軍隊の構成員はみなアンドロイドでできているので、少なくとも、そこで命令する側とされる側とには人種差別の構造はない。

でも、地球上でスラム化したロスアンジェルスの風景にほとんど黒人の姿がないのだ。

アメリカの人種差別のルーツだった黒人たちはどこに行ってどのような階層をつくっているのだろう。

22世紀半ばのアメリカの貧困層はひとえにヒスパニックのようなのだ。

アメリカがスペイン語とのバイリンガルになる日は近いと言われているから、みながスペイン語を話すのはさもありなんと思うし、そもそもロケ地はスペインだったそうだ。でも、黒人は?

そこで猛烈に気になるのが、監督のニール・ブロムカンプが南アフリカのヨハネスブルクで生まれ18歳でカナダに移住した白人だという事実だ。

アパルトヘイトの歴史のトラウマは大きいはずなのに、アメリカの貧困を描く時に黒人なしでいいのだろうか。

アメリカでは娯楽冒険映画でもヒーローに一人は黒人や女性を入れるなど「政治的公正」に気を使う国だが、南アフリカ出身の監督なら不問に付されるのだろうか。

それにしても、彼の第一作は『第9地区』で、ヨハネスバークの上空で指揮官を失い停止してしまって難民となったエイリアンの話である。黒人はもちろんたくさん出てくる。

地球人はこのエイリアン難民を強制隔離する。

エイリアンは文化や外見が違うので地球人から反発され差別されまくる。

彼らに比べたら黒人差別の根拠は何だったのかと思える仕組みにもなっている。

差別されているエイリアンは、もともと被支配の階層であったから野心はなく地球のスクラップで兵器やマシンを作って好物のキャットフードと交換したりしていた。

この映画も、社会風刺は批判は目的でなく純粋なエンターテインメントなのだと説明されていたのだが、地球上の差別構造を宇宙に広げたのは事実だし、『エリジウム』では地球上の貧富の拡大が宇宙規模になっているのである。

『エリジウム』は評論家たちからはあまり高い評価を受けていない。

ストーリーが貧弱で予定調和的で、人物も進行もカリカチュア的なのでメッセージ性も伝わらないしすべて中途半端だというのだ。

予定調和的というのは主人公が自己を犠牲にして地球の人々を救うというありがちな終わり方になっているからだ。

けれども、この映画での敵は大事故や天変地異でなく、宇宙人の侵略でも地球に激突する小惑星でも地下の陰謀組織でも疫病でもない。格差社会の構造そのものなのだ。

『第9地区』のエイリアンも、侵略しに来たのではない難民だった。

『エリジウム』では構造的な貧困に埋もれたままトレランス・ゼロで機械に管理されている人々と、ただ自分たちの安全を守りたいだけという富裕層がいるだけで、彼らは互いを倒したいと思っているわけではない。

今の社会でも、貧富の差が拡大したと言っても、実は、貧しい人は富裕な人の富を過小評価していて、富裕層は貧しい人の窮乏ぶりを過小評価しているのだそうだ。つまり、貧しい人には金持ちのスキャンダラスなまでの金持ちぶりがとても想像できないし、金持ちには困っている人々の真の状況が分からない。

ランペドゥーサに漂着する人の実態は想像もできないのだ。

ある意味では、その鈍感さが平和の担保になっている。

憎み合い殺し合わないことの抑止力になっているのだ。

同じように『第9地区』だの『エリジウム』だのが描き出す差別や絶望や狂気も、エンターテインメントの軽さで薄めないと商品として通用しない。

SF映画には人類が核戦争の果てに地球を滅ぼしたというような設定のようなものもいくらでもあるのだが、その後に展開するお話のディティールで売っているので、映画を観終わった後に、「やはり核のない世界を目指さなければ」などとかたく決意する人はいない。

それでも、それでも、作り手がどこかの時点でサブリミナルにでもいいから、「よりよき世界の理想」を織り込み続けてくれたら、世界は変わるのだろうか。

それとも、「自己を犠牲にしてみなを救う」というようなテーマが、キリスト教的な文化のお約束になっているだけなのだろうか。

ジョディ・フォスターの演じる軍事責任者が「裏切り者は吊るされるから」などと口走る時にはイエスを売ったユダのイメージが確実にある。「神の愛によって」の言葉と同様、21世紀半ばになっても、WASPのキリスト教イメージは健在だということなのだろうか。

この映画にはもう一つのキリスト教が出てくる。

それはヒスパニックの修道女だ。

彼女らは、どんなに地球が悲惨になっても、昔ながらの難民救済、孤児救済の仕事を黙々とやっているらしい。

で、そのシスターが、「いつかはエリジウム」に行きたい、という子供時代の主人公に、

「あなたにはきっと果たすべき使命があるわ」

などと言っている。

そのシーンが、まさに自己犠牲を決心した瞬間の主人公の脳裏をよぎるのだ。

彼は最初、自分自身の命を救いたくてエリジウムに向かおうとした。

それが、孤児時代の初恋の少女と再会して、彼女が白血病で死にかけている娘を必死で救おうとしているのを知り、彼女のために彼女の娘の命を救うという目標に変わる。

その過程で、すべての地球人を「エリジウム市民」として認識するようにエリジウムの初期設定を変えることですべての人を救うことへと使命がシフトしていく。

すべての人が神の子として平等だというキリスト教原理にたどりついたわけだ。

「あなたには使命がある」と言った時にシスターが主人公にくれた小さなメダルがある。

カトリックのシスター風だから当然聖母マリアの奇跡のメダイとか、主人公の守護聖人のメダルなのかと思ったが、それは、宇宙から撮影した「青い地球」だった。

青は聖母マリアの色でもある。21世紀の半ばには、聖母マリアのメダルは青く美しい地球のメダルになっている。

「あなたがここから来たということを忘れちゃだめよ」

幸せは要塞堅固な「ゲーテッド・コミュニティ」の中にあるのではない。

地球外からやってきた弱者を隔離する『第9 地区』であろうと、強者が地球を捨てて自らを隔離する『エリジウム』であろうと、それは「解決」ではない。

自分のもの(自分の命、自分の財産、自分の幸福…)を分かち合おうと考えるから無理が生じるので、自分のものではないもの(与えられた命、地球の自然、他者から受けた愛や恩)を分かち合おうと考えればいいのもしれない。

その思いがシスターがくれた「青い地球のメダル」にこもっているのだろう。

機械とのハイブリッドな男たちが背中から日本刀を抜いたり、サバイバルの死闘を展開したりというユーモアもあるアクションシーンの連続の後でこのようなラストに到達すると、「安易で安っぽすぎる」と感じる人も少なくないようだ。

けれども、ヴァイオレントなシーンはすべてバリアをはって見ていた私には、ラストシーンは素直な希望のメッセージに響いた。

神よ、神よと連発するような大国の商業映画がこれくらいのメッセージを付加するのは最低限の義務じゃないかと思うほどだ。

主演のマット・デイモンも、アフリカの貧困や難民を生む市民戦争のを不当性を積極的に告発している人だそうだから、この映画のもつメッセージになにがしかを寄与することを意識していたと思う。

エリジウム市民はゲーテッド・コミュニティの住民と同じく、別に悪人ではない。

金があって想像力がないだけだ。

自分の築いてきたものを安全に守りたいと思っているだけだ。

実は、その他に、この映画を見て、一番胸をつかれたシーンがある。

その地球外の楽園エリジウムの様子が最初に出てくるところ、スーツ姿のジョディ・フォスターが最初に登場するシーンに、バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードが流れているのだ。

王侯貴族や教会というパトロンがいなければバッハはあれほどの曲を残すことは到底できなかったということ。

エリジウムという楽園を真に楽園にしているのは、美しい邸宅や庭園や高度な医療機械や安全と秩序だけではなく、バッハの無伴奏チェロ組曲なのだということ。

美しい邸宅も庭園も医療設備も安全もない場所に、バッハが流れれば、何かが変わるのだろうか、ということ。

そのようなことがずっと頭の隅に残ってしまって、振りはらえない。

別の音楽だったらよかったのに…
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by mariastella | 2013-08-18 02:53 | 映画

リシュリューの猫 その4

猫マニアのことはfélinomaneとよぶ。

一代で王家をしのぐ資産を築いたリシュリューもフェリノマーヌだった。

リシュリューは私財を投じてソルボンヌの立派な聖堂を造らせたし、アカデミー・フランセーズの基礎も築いた。

アカデミー・フランセーズは今でもフランスで一番権威のある学者組織であり、フランス語学士院でもある。

空席ができた時にだけ新入会員が選ばれる。その挨拶は時代がかっていて厳粛なものだ。

でもその厳粛な席に猫が迷い込んだら…

リシュリューの猫の名にPerruque とRacan がある。

ペリュック(鬘という意味)ちゃんは、アカデミー・フランセーズの名士の鬘から落ちた雌猫だそうだ。

当時の王侯貴族や公人がくるくる巻き毛の長い鬘をつけていたのはよく知られている。
けれどもリシュリューはカトリックの枢機卿の称号を持っていたので赤い枢機卿の帽子をかぶっているから、大仰な鬘などつける必要はなかった。

この猫のエピソードを読んだ時、厳粛なアカデミーの席で、リシュリューの愛猫がアカデミー会員の頭に上ってその鬘を落としてしまったのかと思った。

でも、落ちたのは猫らしい。

周りにいたみなが一瞬鬘が落ちたと思ってあせったのだろうか。
その猫はどこから来たのだろう。

ともかくその猫はペリュック(カツラ)ちゃんと名付けられた。

で、雄猫のラカンくんとは、件のアカデミー会員のラカン侯爵の名をいただいたのである。

詩人のラカンさんはリシュリューより4歳年下で、リシュリューの指揮のもとにプロテスタントのラ・ロッシェルを攻めた戦争にも参加している。
成立したばかりのアカデミー・フランセーズの30番目の席(今でも定員は40名)を与えられたのは36歳の時だ。肖像画を見ると鬘も頭頂部が薄い感じで、ユーモアのセンスにあふれた顔には見えない。

でも夢見がちの人だったというエピソードも伝えられている。

鬘に猫が乗っているのに気がつかなかったのか、巻き毛の鬘になら猫は絡まってぶら下がるのではないか、そもそも猫は「落ちる」のか、飛び降りるのではないか、などという疑問が渦巻く。
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by mariastella | 2013-08-17 06:51 |

リシュリューの猫 その3

リシュリューは軍人になる教育を受けていた。海軍士官学校で、馬術、剣術、ダンスのレッスンも受けていた。バロック・バレーを踊っていたわけだ。

ところが司教になるはずだった兄が急に修道僧になると言いだしたので、家族の領地であるリュソンの司教になるべく進路を変更、ローマで4年間神学を学び、21歳で司教に任命された。

26歳が司教になれる最低年齢だったので洗礼証明書をごまかして26歳としたらしい。

さて、今回は

Mimi-Paillon とMounard le Fougueux

ミミ・パイヨンはアンゴラの雌猫

ミミは日本の「タマ」のように今でもフランスの猫のスタンダードな名前だ。フランスの猫は「ミィアウ」となくことになっているから鳴き声に由来する名前だろう。
ミミはミニヨン(mignon=かわいい)にも通じる。
今のフランス語で「mimi」と言えば「カワイー」ということ。猫一般の愛称、何でもかわいいものの愛称にもなっている。

パイヨンは鳥がピヨピヨと囀る感じだ。小柄でかわいい声でよく鳴く甘えん坊な猫を想像する。

ムナール・ル・フグー(勇みのムナール)くんはいたずら好きで喧嘩好きでおしゃべりな雄猫だったそうだ。

ムナールとは鋭い声を発する空想上の動物で、mouton(ムトン、羊)とrenard (ルナール、キツネ)または canard (アヒル)の合いの子だという説もある。
羊の鳴き声とアヒルの鳴き声を混ぜたようになく猫を見て「こりゃ、ムナールだ」と名付けたというエピソードが今のウェブにも載っているくらいだから、勇みのムナールくんも、「ギャアアー」と独特の鳴き声を発しては喧嘩に出かけていたのかもしれない。
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by mariastella | 2013-08-16 07:03 |

リシュリューの猫 その2

リシュリュー(1585-1642)は猫たちといっしょに寝ていた。
宮廷に猫部屋を用意して執務の時も必ず一匹はそばにおくようにした。
鶏のささみのパテを日に2回食べさせていた。
世話係が2人専任で、具合が悪い時は枢機卿の専属医が診た。

-Ludovic le Cruel とLudoviska

リュドヴィク・ル・クリュエル(残酷リュドヴィク)くん  

優秀なネズミ捕り猫だったらしい。
「残酷」というのは捕ったネズミを弄んだからだろう。
リュドヴィクという名はゲルマン起源でhlod (栄光)と wig(戦い)の組み合わせらしく、ここからフランク王クローヴィスの名やフランスのルイの名も派生した。
聖人の祝日にも聖ルイ王の日が適用される。

ルイ13世に仕えたリシュリューが自分の猫に「残酷リュドヴィク」などと名付けたのはそれなりの何かがあったのかと勘繰りたくなる。

リュドヴィスカちゃん 

ポーランドから来た雌猫。だからポーランド風の語尾をつけ加えたのだろう。
けれど、リュドヴィクと名が対になっているところを見ると、同時に献上されたきょうだい猫だったのだろうか。
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by mariastella | 2013-08-15 17:14 |

リシュリューの猫 その1

「差別されているマイノリティまたは社会的弱者が個別にロビー活動したり個別に支援されたりするとかえって全体の状況を悪くするんじゃないか」という日頃考えているテーマをめぐって黒人奴隷制についてまた書こうと思っている。でもまとまった時間がとれないので、その前に、「リシュリューの猫」シリーズを少し。

ルイ13世の宰相だったリシュリューの猫好きは有名で絵もたくさん残っている。(うまくリンクできない時は出てきたページの右上の検索アイコンをクリックしてください)。

女好きでもあったらしくて、連れ添った姪との間に数人の子供がいたとも言われているが、表向きはカトリック教会の司教で枢機卿(ちゃんと神学部で勉強もした)だから後継ぎはいないので猫たちに財産を残したという話もある。

ルーブルの前に構えた住居だったパレ・カルディナル(枢機卿宮)は王室に寄付されて今のパレ・ロワイヤルになったし。

で、猫。

王立図書館の本をネズミから守るために導入したとも言われる。

14匹の愛猫の記録が残る。

まずFélimareくんとLuciferくん。

フェリマールくんは雄のトラ猫。

FéliはFélin(猫科の動物)から来ているのだろうし、Mareはmarreと通じ、今でもmarrant(おもしろい、あるいは反語的につまらない)などと言えるのだが、それよりも、tintamarre(大騒ぎ、騒音。シャリヴァリなどと同義。オノマトペ。鐘や太鼓をみだりに叩くイメージ)を連想する。
そういえば、リシュリューがアカディーと名付けたカナダのフランス人植民者の子孫の間には今もタンタマールというお祭りがあるそうだ。そこから連想すると、いつもギャーギャーとやかましい猫が想像できる。

ルシフェールくんは黒猫。

これはそのまんま悪魔のイメージか。リシュリューは魔女とか魔女の化身の黒猫を粛清している。
でも自分ちの黒猫の、輝くビロードのような毛並みを愛撫してはその妖しい美しさに感嘆していたのだろう。リュシフェールの語源は「光を運ぶ者」で、キリスト教文化では神に反抗した堕天使からついにはサタンと同義にまでなってしまった。
黒猫の毛の艶にしかキャッチできない光沢は特別だし、黒い頭の中で光るグリーンや金色の目の美しさも特別なので、枢機卿さまも悪魔に魂を奪われそうになったかもしれない。
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by mariastella | 2013-08-14 23:20 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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