L'art de croire             竹下節子ブログ

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死に方のエコロジー

書くことがいろいろあるのだけれど今取り込み中なのでもう少ししてからまとめるつもりだ。
でも今日発売のエクスプレス誌をぱらぱらみていたらおやっと思った記事があったので覚書。

つい半世紀前までは埋葬以外の選択肢がなかったフランスが、今は火葬が半数に届くようになり、パリなどの都市部では過半数を超えている。

エコロジーの雑誌は、フランスの147の火葬施設のうちダイオキシンや、水銀、鉛、カドミウム、他の重金属を排出しないフィルターをつけているのは9ヵ所しかないと空気汚染の警告を発しているそうだ。

エネルギー節約と木材節約のためにはダンボール製の柩が推奨されるともある。

私の知っている限りでは日本は火葬先進国だから、これらの問題をクリアしているのだろうか。

今は煙を出さない火葬場があるので都市部でもOKとなっていることは知っている。

祖父の葬式の後で山の上の火葬場に上って煙突から昇る煙を見上げたのはもう45年も前のことだ。
あの頃はいろいろな有毒物質も輩出していたということなのだろうか。

ダンボールの棺というのは聞いたことがない。今ネットで検索したら5万円だとあった。フランスのものは1万円くらいからなので、ずっと安い。

驚いたのはもっと手本にすればいいとされているのがスウェーデンにあるという冷凍によって粉末化できて堆肥にできる処理方法とか、アングロ・サクソン国にある液体処理resomationというもので沸騰したアルカリ水の中で溶かす方法なのである。なんだか殺人者による被害者の遺体処理のような気がする。

キリスト教国では長い間「最後の審判」での肉体の復活にまつわる民間信仰から埋葬だけがスタンダードだった。その縛りがなくなったと同時に火葬も解禁されたわけで、他のもっとエコロジカルな方法があればそれでももちろんいいというわけだろう。

でも日本では、埋葬した後に骨だけをあらためて取りだして洗って埋葬し直すというような風習があったところに、仏教と共にやってきた火葬がマッチして根づいたのだから、他の方法に向かうハードルはキリスト教国よりもずっと高そうな気がする。

イスラム教やユダヤ教は基本的に埋葬だし、「元キリスト教文化」国だけがえらくリベラルになっているのか、あるいはエコロジー原理主義という新しい宗教を信奉してのことなのか、よく分からない。

私の希望?

第一は聖母マリアのような「被昇天」。これが一番エコロジカル。

次はイメージ的には冷凍で堆肥かなあ。まあそんな特殊なのはフランスにはないのだったら、ダンボールに火葬でいいか。日本のようなお骨の確認とかなくて完全に灰になって壺に入って出てくるからあっさりしている。

日本で終活ノートなどを発行している会社とご縁ができていろいろなことを考えている最中だからつい書いてしまった。生から死に移行するスピリチュアルな部分を「遺体の処理」の部分に投影してクリアする必要はない、その部分はプラグマティックでもいいと思うのだが、結局問われているのは「残された者」の側の「死」との向き合い方なんだろう。
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by mariastella | 2013-10-31 06:41 | 雑感

バロックの装飾音とギター

来年はラモーの没後250年記念の年なので2006年、2007年とプログラムに入れていたラモーのオペラからダイジェストした2つの組曲を再び取り入れることになった。

改めてラモーの天才を感じることができる。

2007年のライブのCDを聴いて、あらためて、他のどんな編成のもので聴くよりも精緻で清新でエレガントだと思った。

私たちのカスタマイズしたギターがラモーやミオンらの舞曲にぴったりであるわけの一つは、トリルなどの装飾音の精妙さにある。

たとえば、「ソー(のシャープ)・ラー」と終わるところを

「ラーソーラーソラソラソラー」 と装飾するわけだが、

ギターでは最初の1音の後にその音が自然に消滅していくところを左手指だけで装飾をかけていくので、その震えるような消え方が絶妙に浮かび上がる。

これが、たとえばヴァイオリンやチェロのような弦をこするタイプの弦楽器だったら、装飾音の部分はやはり左手指で演奏するのだけれど、音は右手の弓が弦の上をすべり続けるので、そこから力を抜いていく加減が難しい。

ほとんどの奏者はそこに注意しないので、ベースになる音が装飾音と共にはかなく息をつめたり吹き返したりする感じが全く出ないのだ。そこは絶対に弓を練り込んではいけないところなのだが、よく行って均質、悪く行くと濃密に重くなっていく奏者がほとんどだ。

天上的な感じが出ない。

管楽器でも同じで、装飾音の指づかいに気をとられるから呼気の配分で息が震える感じをなかなか意識できない。
ピアノに至ってはすべての装飾音を叩くしかないので極細なニュアンスは問題外だし、チェンバロは撥弦だからどの音の響きも残って重なっていくのでピアノよりはずっとましだが、やはり風に吹かれているような軽さは出ない。

それが、ギターだと全神経を左手に集中して装飾音を作るだけで、最初の音はひとりでに消滅しながらあえいだり上下に揺れたりしてくれる。短い装飾音の切れ味も透明感があって軽くていい感じだ。

バロックの舞曲はメロディーが足のステップで装飾音は腕の動きと言われるくらいに重要だから、そのバランスを見つけることの大切さはいくら強調してもし過ぎということはない。

私たちトリオはそれぞれヴィオラ、ピアノ、チェンバロ、オルガン、テオルブ、バロックギター、アルシリュートなどを守備範囲にしているし、バロック・ヴァイオリンやバロック・フルートとも演奏するわけだが、カスタマイズしたクラシックギターのトリオで弾くラモーやミオンのきらめくような美しさに勝るものには巡り合えない。

来年の予定はラモーを中心のプログラムを2月からはじめて、10月末には日本でも公演し、11月末のパリのギター・フェスティヴァルで終了しようと考えている。

そのうちラモーの組曲のダイジェストをサイトにアップしてもらう予定なので、できたらお知らせします。
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by mariastella | 2013-10-26 01:39 | 音楽

ウディ・アレンの『ブルー・ジャスミン』を観た

『Blue Jasmine』は、ウディ・アレンがヨーロッパを離れてアメリカを舞台に撮った映画だけれど、欧米のカルチャーの違いよりも、アメリカ東海岸のブルジョワ・セレブと西海岸プロレタリアのカルチャーの違いの方が強烈だ。

というよりも、今の時代、国や歴史や文化の差よりも、新自由主義経済で広がった先進国内での「貧富の差」の方が普遍的現象になっている感を深くした。

金や地位がある者が即「勝ち組」というような「序列」がベースになって消費社会を煽っている一方で、金や地位を断罪する二元論的ディスクールもたくさんある。

つまり、金や地位は悪いことをして手に入れたに違いない(先住民を虐殺した、奴隷の労働を搾取した、侵略戦争をした、脱税や詐欺をした…)という決まり文句だ。

そのせいで、金や地位のある人は、「罪滅ぼしのためにチャリティ行為に精を出す」し、金も地位もない人のルサンチマンからは、

「あいつら(セレブ)は今に悪が発覚して没落するに違いない、いや没落しなくても、ドラッグやアルコールやストレスで自滅して不幸になるに違いない」

という期待と、その裏返しとして

「金も地位もないうちらの方が幸せかも」

という満足も生まれる。

実際は、金も地位もあって精神的にも充実している人もいれば貧乏な上にいがみ合って不幸のどん底にいる人もいるのだし、どの人も人生でそれなりの大波小波に翻弄されるのは言うまでもない。

ウディ・アレンの切り口(過去と現在の重層)やシナリオ(セリフ)は名人芸だし、主演のケイト・ブランシェットはウディ・アレンの世界にいながら独自の世界を失っていない名演だ。

ヒロインのジャスミン像を語る時、『欲望という名の電車』のブランチが引き合いに出されているのだが、この作品にはさらに今日的な普遍性がある。

つまり、今は、普通の人でも、セルフ・プロデュースしたり自分を等身大よりも大きく「見せる」ことや「売る」ことを社会やメディアからたえず刷り込まれていたりする時代だからだ。

特に女性にのしかかるこの「強迫」(いつも若く美しくおしゃれで人から羨まれる存在でいたい)は根深い。

最近テレビで『ソーシャル・ネットワーク』(2010)を観たところなのだけれど(この映画も時間軸の交差が巧みに使われている)、『ブルー・ジャスミン』と比べてみると、セレブとかサクセスストーリーにおけるジェンダーの差が明らかに分かる。

Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグのキャラクターはアスペルガー風に書かれているので世間の評価とはあまり関係がない感じだが、彼を訴えて賠償金を得た双子の兄弟などは、ハーバードのエリートである上にもともと金持ちの息子で容姿もよく、スポーツでも認められていて、女性にももてて、それでも、この訴訟を起こした、つまり、金や権力や名誉の追求において男たちは自分たちの能力の承認欲求が強いのだ。

ブルー・ジャスミンのヒロインのように大学を中退しようともセレブの妻になりさえすれば100%の満足を得られるのとは根本的に違う。
「男にセキュリティと尊厳を与えるのは仕事であり女にセキュリティと尊厳を与えるのは結婚である」と誰かが言っていたが、そのような感覚は21世紀のアメリカのセレブにも根強いということなのだろう。

だからこそ、没落したジャスミンはサンフランシスコでも自分にふさわしい男を見つけた時に、彼を陥落するために嘘を重ねることになる。
「人は自分をリメイクする権利がある」と信じているからだ。
社交界で優雅にやっていた自分がレジ係になることはあり得ない、自分の特技はインテリア・デザイナーだ、と思い、プロのインテリア・デザイナーとしての勉強を始める前にもう自称している。

日本でも、まだ何も修行していないし実績もないのに「クリエーター」などの「横文字の肩書き」を自称する現実感のないモラトリアム人間の話を聞くけれど、横文字世界のアメリカでも同じような「おしゃれな幻想」があるのだと分かる。

幻想と言えば、ヒロインがフランスやパリに託すものも一昔前からの日本人と変わらない。

そもそも「ジャスミン・フレンチ」と名乗っているし、上流の証としてヴィトンやシャネル、ディオール、パリ、リッツ、サントロぺ、コルシカ、サルデーニュ(イタリアだけれどセレブご用達の場所がある)、などのブランドや地名が何度も出てくる。NYに出てきた妹にフェンディのバッグを買ってやるシーンもある。

そして、彼女が最終的に壊れたのは夫がフランス人のオペールとパリに行き、浮気ではなく本気になったと宣言したからだ。
並みいる他のセレブやセレブ志向の浮気相手と違ってただの「小娘」なのに、ヒロインにとっては一番こたえる「フランス人」というブランドに負けるのは致命的だった。

こういうのをフランスでフランス人たちといっしょに見ていると、その場になんとなく苦笑を誘う空気みたいなものが流れるのが分かる。

ウディ・アレンは、次は南仏を舞台にしたロマンティック・コメディに取り掛かるとインタビューで言っていた。

アメリカとフランスということでは、もうすぐ、リュック・べッソンが監督した、FBIの証人保護プログラムによってノルマンディで暮らすマフィアの一家を描いた映画Malavitaが公開される。ロバート・デ・ニーロやミシェル・ファイファーやトミ・ーリー・ジョーンズというアメリカ映画のスターたちがフランス的な場所でフランス人と共に演技するわけだ。

デ・ニーロにはイタリア系のイメージがあるし(この映画の総指揮を務めるスコセッシのイメージとも重なるので)、ファイファーはドイツ系のイメージ、ジョーンズは先祖にゴール人もいるがチェロキーインディアンの祖父母もいるということで、多様なルーツのあるアメリカ人がノルマンディの田舎にやってきて起こる事件(他のマフィア・ファミリーがのり込んでくる)がどのように描かれているか楽しみだ。
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by mariastella | 2013-10-21 00:55 | 映画

ヴァティカンの標語は「アーメン」 ? がんばれ、ムヒカとフランシスコ

近代国家の政教分離だけではなく、新自由主義の市場経済、利益史上主義での環境破壊など、経済や資源開発の問題はすでにグローバル化している。

一国の政治の手を離れてしまっているような事態になって久しい。

冷戦下の緊張の元では「政治」がけっこうな力を託されていたのだけれど、東西のイデオロギーが「経済」に圧倒されてからは、世界はもう境を超えたマルチナショナル企業の主導で動いているかのようだ。

そんな状況で、今のローマ教皇フランシスコは、環境(破壊)問題や経済(格差)問題は、「政治」問題であって、政治による介入やコントロールなしには歯止めがきかない、と声を高くして言っている。

ヨーロッパ系カトリックには、保守的ブルジョワ層が根強くて

「宗教は子女の教育のためであり、政治には口をすべきでない」

というイメージが大きい。

プロテスタント系の保守階層でも同じで、宗教は個人の良心の拠り所であって政治経済に影響を与えてはならない、というのが一般的だ。

そしてそこには、

「ほら、ぼくらの先祖も過去に宗教の名によって蛮行を重ねてきたことは認めるけどさ、今は、民主主義で自由の世界、宗教抜きで世界に君臨できるもんね。それに比べて、イスラム教は遅れてるよね、いまだに宗教で政治を縛ろうとしていて、聖戦というテロをしかけてきたり、女性差別したり、布教エネルギー満々の原理主義だし、ああ野蛮でうっとうしい」

という感じの「蒙昧宗教卒業」の自負だか何だかが見え隠れする。

もちろん自滅した「共産主義」のようなイデオロギー闘争ももう卒業してクールに利益率を計算できる「ボクたち」、がますます経済力を蓄えてさまざまな分野を支配している。

そんな状況下で、世界最小の領土しかない国の元首であるローマ教皇が

「環境保護と経済格差の解消は政治の仕事である」

とはっきり訴えている。

環境団体や人道支援団体や宗教団体にまかせることではない。

政治が介入して根本の構造を変えない限り問題は解決しない。

「あら、政治なんてとんでもない、教会の役目は迷える信者の魂を救うことですわよ」というブルジョワ信者が目をひそめそうだ。

アルゼンチンの最貧困地域を知っている教皇は、大司教館に住まずに質素なアパートで自炊していた。

彼に匹敵する「原則を貫く元首」といえば、ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領しか知らない。

教皇より少し年上の78歳。

2009年から現職だけれど、もう20年も自宅である農家に暮らしていて官邸には住まない。

上院議員でもあるファーストレディが食事の支度をして、二人ともいつもジャージの上下の普通の庶民。
大統領の給料のうちから1000ユーロだけ受け取って残りは国に還元。
市場開放型社会主義で、失業率は6%以下だし、中南米で最も社会的に安定している資源や食物の輸出国だ。

ラテンアメリカだから伝統的にはカトリック国だけれど、大統領はきっちりと「政教分離」をしていて「神」の名を出さない。

社会民主主義の今のフランス政府と似ている。同性婚を認める法を通過させたのも同じだ。

このムヒカ大統領が、やはり世界に向けて、弱肉強食の競争原理が環境を破壊して格差を生んでいるのだから、「政治」がそこに介入すべきだと言っている。

2012年のリオ会議での演説は有名だ。

経済や環境の危機は政治の危機である。

こういう正論を世界に向けて堂々と語る国家元首はムヒカ大統領とフランシスコ教皇くらいかもしれない。

二人の共通点は「言行一致」でもある。

「言行一致」の人が言う正論には力がある。

キリスト教というのは、社会政策の指針で言うと、本来は、「弱者に仕えよ、旅人をもてなせ」に尽きるのだから、そこに忠実である限り「極左」みたいなものである。エスタブリッシュメントにとっては迷惑過ぎる宗教なのだ。

で、私が気にいっているのは、ウルグアイの標語で、

「自由か死か」

というのだ。

過激で潔い。

ウルグアイがブラジルから独立した時の戦いでの言葉で、アメリカの独立戦争の時にも言われた言葉だ。

フランスは「自由・平等・兄弟愛」。

最後の「兄弟愛」は「自由・平等」よりも後に認知された。

私の子供の頃は「自由・平等・博愛」と習って、「博愛」というのは理想主義的だけれど理念としてはフランスの普遍主義に似合っている。

「兄弟愛」は「友愛」とも訳されるが、元は明らかに、フリー・メイスンの「兄弟」の連帯を現している。

今なら「自由・平等・連帯」にすればいいのにと思う。兄弟愛ではなんだか血縁も連想させて、移民の統合政策へと向かう力にもなれない。

標語を決めて紋章やら通貨やらに刻んでしまってしまってから、最初の文脈とずれてきて、今や

「ちょっとやばいんじゃないの」

とみんながひそかに思っていると想像するのは、他の国の標語にもある。

リチャード獅子心王が戦場で口走ったとかで「Dieu et mon droit」(神と私の権利)というイギリスの標語などは、あれほど仲の悪いフランスの言葉であること、ノルマン人に征服されて宮廷がフランス語だったことも連想させるし、戦争に「神」を引き合いに出すところも今や苦しい。
まあイギリスは今でも国王が国教会の首長であり「神」を平気で口に出している国ではあるけれど。

アメリカも、有名なのは「In God We Trust」(我ら神を信ず)とベタなモットーで、見なかったことにしてあげたい気になるくらいだ。

独立の際に決められた古いほうのモットーである「多数からひとつへ」の方はまだましだが、三銃士のセリフみたいだし、ラテン語ってところも時代や文化のバイアスがかかっていそうだ。

(ついでなのでここでネットで見てみたら、ドイツは「統一と正義と自由」だそうでまあ無難。イタリアは標語なしで、スペインはラテン語で「Plus Ultra」(更なる前進)、これも「カトリック宣教師が海を越えて植民地を増やしに行ったんですか」と思われそうだ。まあ、植民地国あがりのカナダもラテン語で「A Mari Usque Ad Mare(海から海へ)」なんで、あまり気にしないのかもしれない。
ちなみにロシアや中国は標語なしで台湾は「民族、民權、民生」と微妙すぎる。)

日本の標語はもちろん、なし、だ。

日本国と日本国民統合の「象徴」が天皇とされているが、欧米の「神」と同じで歴史的にいろいろなニュアンスが加わっているのでこれもあまり前面に出ると議論の対象になったりする。

で、 教皇が元首であるヴァティカン市国のモットーはというと、これも、ない。

一国が標語として掲げる言葉としたら、ヴァティカンには何がぴったりなのかなあと考えれば、強いていえば、「アーメン」かなあ。

アーメンとは神への合意のことば、「み旨のままに」、「かく、あれかし、」「let it be」である。

聖職者から言われたことに対して無批判に「へへー、さようでございます」のように受け入れるとか、「これからいうことはほんとのほんとだからね」というニュアンスで使われたり訳されたりしてきた歴史もあるけれど、本来は、この世の権威ではなくて超越神に対しての「謙虚さ」を現している。

神ならぬ人間のこの謙虚さがちゃんと機能すれば、拝金主義に陥ったり地上の権力に固執したり、「自分ち主義」、共同体主義、排他主義、覇権主義に向かったりするのを避けることができそうなのだが。

日本でキリスト教のことを「あのアーメンが」などということがあるが、なかなか本質を見抜いているのかもしれない。
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by mariastella | 2013-10-16 23:32 | 雑感

パオロ・ウッチェロの描くドラゴンとプリンセスの不思議な関係

15世紀フィレンツェ生まれの画家で、遠近法で有名なパオロ・ウッチェロに『聖ゲオルギウスの竜退治』(ロンドン/ナショナル・ギャラリー所蔵)というのがある。

これが妙と言えば妙な絵で、ドラゴンに捕らわれているはずのプリンセスがまるでドラゴンをペットみたいにつないでいるように見える。

「ドラゴンに繋がれている」という解説もあるのだけれど、ともかくヒーローが自分を助けに来てくれた感動的シーンで激しい攻撃がなされている最中なのにプリンセスには全く動じた気配がない。

せいぜい「あらあら」という感じだ。

ドラゴンはなかなかの迫力で描かれている。

ウッチェロの画力からしてもどんなにスリリングな光景でも描こうとしたら描けたはずだ。

実際、「聖ジョージとドラゴン」あたりで画像検索したらたくさんの絵が出てくると思うがどれもなかなかドラマティックだ。(一番の変わり種はこれだと思う。)

ともかく、ウッチェロの絵は、構図も色の配分もすごくよくできているのだが、背景の洞窟はからっぽのようだし、地面も不思議な草の生え方だし、ゲオルギウスの頭上の渦巻く雲と言い、ドラゴンの翼の三つの丸い模様があることと言い、すべてが暗号めいている。

ドラゴンが死んだのにプリンセスは鎖を離さないので、ゲルギウスがドラゴンの代わりになって、次に自分を殺して鎖に繋がれる勇士を待つのだと解説する人もいる(Eric Dayre)。

 というか、もし、この人がこう断言していなかったら、実作を見たことがない上に目の悪い私にはとても「プリンセスがドラゴンをつないでいる」、なんてことは言う勇気がない。この人はこの聖ゲルギウスがキリスト教の歴史に対する一つの冒涜とまで言っているユニークな人なのだ。

彼の説には私には腑に落ちない部分もあるのだけれど、まるで「貴婦人と一角獣」みたいなこのプリンセスとドラゴンの不思議な関係の謎が解けない限り、どう対応していいか分からない。
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by mariastella | 2013-10-14 06:17 | アート

ミミ・マーティの話

ミミ・マーティというのは人気投票をしたらフランスで一、二を競うコメディアンでユモリストのタレントだ。

私はこれまであまり興味がなかった。それでも『守護天使ジョゼフィーヌ』という有名なテレビ番組は一度みたことがある(ギターの生徒のおとうさんがこの番組のプロデューサーだった)。

彼女はいわゆる小人症であり身長が132cmで独特の風貌もあるのだけれど、明るくて頼りになるエネルギッシュな姐御のようなキャラで好かれている。

その彼女がラジオで話しているのを聞いてへえーっと思った。

彼女がこんなにポジティヴにやっていけたのは、落ち込んでいた時に、おかあさんが、

「あなたがみんなと違っているんじゃないのよ、みんながあなたと違っているだけよ」

と言ってくれたことで気持ちの持ち方が変わったからだそうだ。

含蓄がある言葉だ。

「私はみなと違っている」

と言えばその「みんな」がまるで一枚岩のようで自分だけ規格外れのような気になるが、

「みなが私と違っている」と言えば、違い方もいろいろあって多様性があるのだと感じさせられる。

「足らないものを欲しがるよりあるものをもって前に進むのよ」

と母親に後押しをされて、芸能の道に進んだ。

それでも、そのお母さんは、彼女が12歳の時にルルドに連れて行ったのだそうだ。

彼女の小人症は治療のできない染色体異常の骨形成不全なのに、母親はやはり娘の奇跡の治癒を願ってルルドに巡礼に行ったのだろう。

で、彼女の背が伸びることはなかったのだけれど、やはり奇跡は起こった。

その後の彼女が前向きに生きてフランス一の人気タレントになれたのだから、それが奇跡だったのだと彼女は言う。

祈りの聞き届けられ方を決めるのは、祈る側ではないのだ。

10年前、45歳の時のステージで、ある夜、いつものように最前列に座っている観客の一人に舞台に上がってもらった。

その人がすごくユニークで、彼につられてミミ・マーティは今までにない芸を繰り出してしまった。

その人は料理人で、その夜以来二人は離れたことがなく、結婚した。

「うちは全く普通じゃないカップルなんですよ。」

とミミ・マーティは言う。

「まず、異性愛の夫婦だし(フランスで最近同性婚が合法化されたばかりなのを受けている)、私には髪があるのに彼には髪がない、45歳で結婚したのに子供が4人 !(結婚相手は4人の子持ちだったのだ)」

笑えた。

いろいろと、いい話だなあと思った。

彼女の人気の理由が分かった気がする。
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by mariastella | 2013-10-13 07:06 | 雑感

リー・ダニエルズの『ザ・バトラー』を観た

Lee Daniels' The Butler (2013)

ホワイトハウスで34年間も働いて8人の大統領に仕えた執事ユージーン・アレンをモデルにフォレスト・ウィテカーが主演したリー・ダニエルズ監督作品だ。

黒人の公民権運動に焦点をあてながら、ホワイトハウスでの仕事に献身して二人の息子の世話をできなかったり、過激な運動に関わって逮捕歴を重ねる長男と絶縁したり、次男をベトナム戦争で失ったりという家庭のドラマを、社会や政治のドラマと織り合わせて、涙を誘う作りになっている。

フォレスト・ウィテカーがエレガントで情のあるいいキャラだし、いろいろあっても彼を支えて尊敬する妻もいいし、すべてがあまりにもよく出来過ぎている。

こう簡単に泣かされるとかえって疑念がわいてくる。

民主党側へのかすかな肩入れぶりが気になるとか、オバマの勝利がハッピーエンドになっていて本当にいいのか、とも思うし、結局、勘当していた長男が最後は歴史のヒーローになって政治家としても活躍、つまり出世して、孫娘もできて、「君に似ているよ」と言われた妻が、「そう言われればかわいいかも…」のようなほのぼのした感じがハッピーエンドのシンボルというのも月並みだと思う。
結局、仕事があって、夫婦仲良く長生きして、子供が出世して孫もできるというのが、すべての人に平等に保証されなければならない「幸せの権利」の「幸せ」の中身なのだろうか、と抵抗を感じてしまうのだ。

最後にヒーローがオバマに会いに訪れる時に迎えてくれるホワイトハウスの執事がやはり黒人というのもなんだか気になる。
もちろん初の黒人大統領夫妻」に仕えるのが全員白人のスタッフになっていたらそれはそれで不自然だろうけれど。

考えたら、私の世代はアイゼンハワーやらケネディのこともリアルタイムで覚えていて、キング牧師やマルコムXのことも覚えているし、KKKのことも知っていたし、ベトナム戦争はもちろん切実だったけれど、日本に住んでいてアメリカの人種差別の実態を実感としては考えたことがなかったことにあらためて驚く。

この映画でも黒人たちに揶揄されているのだけれど、アメリカの黒人というとまさに「シドニー・ポワティエ」というイメージだったのだ。

オバマ大統領の父はケニア人であり、アメリカの開拓時代の奴隷の子孫ではない。そして今のアフリカからヨーロッパに向けて必死の不法侵入を試みている黒人たちが命を落としている悲劇は現在進行形だ。人の命の重さに格差があることは、形が変わっても今でも続いている。

もう10年以上も前になるが、文芸春秋のコラムで、ハワイのヒルトン・ワイコロア・ビレッジというリゾートで感じた違和感について書いたことがある。
ホノルルのホテルなどと違ってそこでは毎年訪れているらしい、いかにもWASP風の常連家族客がたくさんいて、黒人の姿が見当たらなかった。

いわゆるハワイの現地の人もいない。

そしてスタッフもすべて白人だったのだ。

表に見える非白人従業員は日本レストランの着物姿の日本人だけだった
客には日本人がいるのだが少数派で、ツアーのバスは地下に着き、日本語を話せるハワイ人のガイドがつく観光バスも地下の発着だった。

野外ステージでフラダンスなどを見ながら夕食をとるオプションの日は、日本人はまとめて同じテーブルにつかされ、夕食の前には白人の司会者がステージで堂々と「食前の祈り」を唱え始めるのだった。

これだけ白人ばかりの世界だと、差別の対象がそもそもいないのだから、本国では異常にうるさい「政治的公正」を気にせずに、さぞやのびのびとバカンスを楽しめるのだろう。みながゆったりリラックスしていた。ゲーテッド・コミュニティかエリジウムみたいだ。プールも24時間あいている。

日本人は「いないこと」にしているか見て見ぬふりをされていた。

そこでしばらく滞在してからオアフ島に戻ってワイキキのヒルトンでチェックインしていたら、黒人もアラブ人もヒスパニックもアジア人もいかにも雑多な観光客がいて、その多様性になんだかほっとしたことを覚えている。

フランスにはいわゆるメトロポリタン、本国には黒人奴隷はいなかったけれど、今も海外県や旧植民地国からやってくる黒人はたくさんいる。「黒人差別」がアメリカのようなトラウマになっていないのは「アラブ系のイスラム教徒」との軋轢の方が大きくとりあげられるからだ。アフリカ人でもカトリックの多いコンゴ移民などとムスリムの多い国の黒人移民は心理的に違う扱いをされている。でも、アメリカの黒人のほとんどは「主人」であった白人たちと同じ「キリスト教徒」だったのだから、差別と宗教は関係ないということがよく分かる。

人種差別ほど本音と建前が巧妙に操作されているテーマは少ないかもしれない。

自分自身を振り返ってもそう思わざるを得ない。
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by mariastella | 2013-10-11 23:31 | 映画

ゲイのカップルについて解けた謎

西原理恵子さんの「毎日かあさん」のネットで見ることのできた分(2013/10/7)に、西原母娘がネット動画の子犬や子猫をよだれを垂らしながら見ているシーンがあった。

そばには本物の猫や犬がいて、「わたしがいるのになにごとですにゃー」とか「どうしてこっち見てくれないわん」と言う。
あわてた娘さんは「そ、それはそれ、これはこれ」と弁解し、母は、

「たとえ彼女がいてもエッチな画像を見てしまう男心とは今のこの状態を指します」

と娘に説明する。

ついでに、猫カフェについて「お店に新しい子入りました」と情報が入ると、「何、若い子か ?」と色めきたち、子猫を見ると「ちょっとさわってええかー」と相好をくずす客について、

「世間のおとうさんがキレーな女の人のいるところでお酒を飲む」

のと同じだと解説する。

笑えた。

私は毎日毎日、一度はネットで猫ブログや猫サイトを開いて、動画を見たり写真を見たりしては「かわいいー」とでれっとするのだが、その横には本物の愛猫のスピノザがちょこんと座っていたり、しっぽでキイボードをぱんぱんしたりしているのだ。
もちろん本物の猫もしょっちゅう撫でてやったりかまってやったりするが、他のかわいい猫を見るのも飽きない。

西原さんの説明はすごくよく分かる。

彼女がいるのにエッチ画像を見たりキレーな女の人に接待しにもらいに行ったりする男は、こそこそやらないと、たいていは彼女に叱られるだろう。

で、私がいつも不思議に思っていたのは、私の周囲にいるゲイのカップルの自宅に筋肉質の男のヌード写真や絵やオブジェがあれこれ飾ってあり、レズビアンのカップルの自宅には、豊満な女性ヌードの絵などが飾ってあることだった。

現実の自分たちよりもたくましい男の体だとか、セクシーな体の若い女の体などを自分の相方が見るのは嫌じゃないのだろうか。外見よりも人間性、取り換えのきかない自分だけを見てほしいと思わないのだろうか。私なら「自分の彼」がどこかの美女の写真を観賞用に飾っておくなどとても我慢できない。

しかし、どうやら、同性愛カップルの彼らや彼女らは、それらの「観賞用の図像」をいっしょに眺めては鼻の下をのばしているらしい。その心理が分からなかった。

そうか、猫か。

猫好きな人は、自分の猫はもちろん大好きだけれど、よその猫も好き、姿を見るだけでも好き、子猫の画像など見てうっとりしたり肉球の画像を見て萌えたりする。
それで自分の猫への愛が減るわけでも何でもない。

それに比べると、男女のカップルというのは良くも悪くも「飼い主と犬」との関係のように共依存的なものが多いのかもしれない。

互いに「ナンバーワン」や「オンリーワン」の忠誠を求めたくなるし、そのような「特別の関係性」の維持を前提としている。
子育てなどには安定した家庭が必要だからおのずとそうなっているのだろう。

男女の関係があまりにも「対等」で「自由」だと、簡単に別れそうだ。

いわゆる「夫唱婦随」など、微妙な「支配‐被支配」の関係が合意されている方が長続きするのかもしれない。

それは互いの「所有」意識にもつながる。まさに「自分の彼」とか「自分の彼女」だからこそ危機管理が必要となるわけだ。

で、犬は「自分の犬」になっても、猫は完全に「自分の」猫になどなってはくれない。

猫はただ、かわいい。

猫好き同士が猫写真や猫グッズを見せあってデレデレしているのが楽しいように、同性愛のカップルが魅力的な同性の写真や絵をいっしょに眺めてデレデレするのもさぞや楽しいのだろう。

そうなると一番つらいのは同性愛者なのに世間的な理由で異性と家庭を持って暮らしているような人たちだろうな。

人生の雨の日にも嵐の日にも絶対に変わることなく寄り添ってくれる犬と暮らす人はもちろん幸せだ。

猫型同居か、犬型同居か・・・

うちでは犬を飼いつつ、よそでは猫にデレデレするのは許されるのか。

人でも動物でも、苦しい時とか弱った時にどのような思いやりを自然に持てるのか、あるいは育んでいけるのかが永遠の課題なのかもしれない。
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by mariastella | 2013-10-10 00:44 |

弦楽四重奏について

近頃生まれて初めて弦楽四重奏を弾いている。

最高だ。

これまでもヴィオラで室内楽や室内オーケストラにはちょくちょく参加してきた。ヴァイオリンやヴィオラと二重奏をしたこともある。でも中心は、ヴァイオリンとフルートとのトリオ、またはヴァイオリンとフルートとピアノとのカルテットだった。

弦楽器のみという経験は二重奏だけだったが、その時は、自分のパートの重要性が比較的大きいから、そちらに集中していて、ピアノを伴奏にソロを弾く時と意識的にはあまり変わらなかった。

新学期はフルートのエリカがしばらくお休みで、ジャン・マルタンという男性が仲間に加わった。
コンセルヴァトワールのヴァイオリンの生徒のおとうさんであるらしい。どんな人なのか詳しくはまだ知らない。

今までフルートが第一ヴァイオリンを弾いてジャンが第二ヴァイオリンのパートをヴァイオリンで弾くということもあったが、今度はジャンが第一ヴァイオリンを、ジャン・マルタンが第二ヴァイオリンを弾く横で私がヴィオラパートを弾く。チェロ・パートはコリンヌが弾く。

これだとごく普通の弦楽四重奏やそのためにアレンジされた多数の曲がレパートリーに入る。

で、アペリティフ(ハイドン)、魚(テレマンの組曲)、肉料理(ショパン)、というように、いろいろな曲を合わせてみた。

室内楽のヴィオラのパートというのは難しくない。

だからストレスもない。

弦楽器四つで合わせると、まるで、体を寄せ合って船をこいでいるような気分になる。

擦弦楽器の擦る気持ちよさというのはヴィオラを弾くようになってすぐに理解したが、音の気持ちよさは、真の意味では、今回はじめて味わった。

弦楽合奏の音色やハーモニーの心地よさは、メカを通して聴くと、とても快適だ。その心地よさは自分が他の楽器と弾く時には得られなかったのだが、今回はじめて弦合奏の立体的な一体感が得られた。

ギターは音の方向性がはっきりしていて前方に行く。
演奏中に、自分の楽器の音が一番よく聞こえるわけではない。
それでも、長い間のトリオの経験で、バランスをとって脳で再構成することもできるし、全体の音と各パートの音を分けて聴いたり微妙な干渉を入れたりすることもできる。

私たちのトリオの弾くものは室内楽用に書かれていないから演奏も技術的に難しいものが多いのだが、それでも弾きこんでいるから、全体も細部も、手に取るように分かる。

ところが、擦弦楽器、特に、ヴァイオリンとヴィオラは、楽器の先をあごや肩や胸(バロックの場合)にぴったり付けて弾き、共鳴板もすごく近いところにあって微妙な向きになっている。

だから、はじめて弾いてみると、骨伝導に圧倒されて、まさに、距離を保てない。

これは声楽なんかでも同じで、まあ自分の声には慣れているが、録音された自分の声を聞くと誰でも違和感を覚えるのと同じだ。
それでも、コーラスなどに参加すると、骨伝導で伝わってくる自分の声とは別に、ちょっと体外離脱したように、全員の声の中で歌う自分の声が聞こえてくる。

同じように、弦楽四重奏をやって、はじめて、自分の弾くパートを体外から聴くような、催眠術にかかったような心地よい気分になった。

その中で急に、私のパートが主旋律を受け持つところが出てきた。

まるで、他のパートが水面に拡げてくれるバラの絨毯の上をかき分けて進んでいくような快感があった。同質のものに支えられ、同質のものの中から浮き立つ。生クリームをホイップしている時に、ふわりと渦を巻いてきれいな形が浮き上がるような感じだ。

ピアノ伴奏などでは絶対感じられない。

大体、ピアノのような平均律楽器といっしょに弾く時はもう最初から脳が再構成モードでしか動かない。

それでも、ギターのトリオで得られるような有機的な全体感がヴィオラの室内楽で得られないのは私の技術のなさや経験の浅さや練習不足のせいなのだろうと今までは漠然と思っていた。

それが、初見の曲を、初めて加わったメンバーといっしょに弾いても、最初の一小節からもう「みんなで練り練りホイップクリーム」モードに突入できたのだ。

弦楽四重奏というのは聴く時もけっこう癒されるけれど、弾く時にこんな気持ちいいものだとは知らなかった。

だから、オーケストラの団員でも各自で別に四重奏活動をしたりしているのだろうな。

小ぶりの弦楽器ほど、弾く時と聴く時で差のある楽器はないかもしれない。

独奏する時はまさに「歌う」ことができるわけだけど、他と合わせる時には単純に全体の音を俯瞰的に聞けるわけではないのだ。

だからこそ、弦楽器同士でしっぽりと練り合わせながら進む心地よさは独奏や異種楽器との共演では絶対に味わえない。

こう感じたのは私だけではなかったようで、コリンヌやジャンも、「弦楽器っていいねー」とあらためて口にしていた。休んでいるフルーティストのエリカにはちょっと申しわけない気がしたのだけれど。

しかし、

「同質のものが音域など互いの特性に見合った分を守ってまったりといっしょにいるのが気持ちいい」

なんて、まるで共同体主義だ。

「血縁の親子が何代もそろった伝統的な家族がやっぱり一番ですねえ」

とか

「伝統や文化を共有している単一民族の国民が助け合って暮らす国が一番ですねえ」

のような論調で他者を排除する頑迷な共同体主義がけっこう魅力的なのは、その心地よさにあるのかもしれない。
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by mariastella | 2013-10-09 04:17 | 音楽

ヴォイニッチ手稿

Arteでヴォイニッチ手稿のについて謎の特別番組をやっていた。

コリン・ウィルソンの小説などで読んだだけであまり詳しく考えたことがなかったが、ネットで検索すると今は全編がPDFで閲覧できるのだ。

なかなかエレガントでなごむ図が多い。

番組の内容は、現在ネットで知ることのできる以上の目新しいことはなかった。

アリゾナ大学のカーボン14による紙(仔牛の皮)の年代測定で1404-1438年の間のものだと分かったので、今まで言われていたロジャー・ベーコン(13世紀)説やダ・ヴィンチや、最も可能性が高いと思われていたエドワード・ケリー説が覆された、用紙も染料も立派なもので、17000字、200ページ以上に至る内容も凝っているから、費用と時間と技術を費やして作成されたものであること、つまり、素人の手すさびなどではなく、パトロンがいたか、あるいはパトロンから金を引き出すために巧妙にしくまれたものであること、などである。

早すぎるロジャー・ベーコンはともかく、後世の人間が15世紀の用紙を使ったということは考えられる。

また、唯一実在していそうな事物である城塞の絵は、15世紀の時点なら、北イタリアのどこかの城をモデルにしたいたのではないかという。

で、1500年前後のミラノかベニスで、時間と費用と技術を調達できた誰かが作ったのだろうという推測がなされているのだが、私は、今となっては、それが誰か歴史に名を残す著名な絵師とか錬金術師とかが匿名で作ったと特に考える必要はないと思う。

もちろんロジャー・ベーコンとかダ・ヴィンチだとか、その他、美術史や思想史の流れを変えたような天才はいる。

けれども、そのようなよく知られた天才でなくとも、ルネサンス時代の北イタリアになら、ヴォイニッチ手稿で知の冒険やら周到な知の悪戯を仕掛ける意思と費用と時間と技術のあった無名の人だっていたと思うのだ。

変な話だけれど、ここ数年、匿名のブログをいろいろ渉猟していくうちにますますそんなことを思うようになった。すなわち、一昔前までは、学会で認められるとか商業的に出版できるとか、少数の人の作品しか、多数の人の目にはとまらなかった。でも、今は、そのような流れにいない人たちが自分のうちの自分のPCの前で実にいろいろなことを発信しているのが分かる。

玉石混交であることは間違いないけれど、ともかく「玉」は存在している。

商業的や社会的に認知されている人以外にも、それと同等かそれ以上の力量を持った人々はたくさんいるのだ。

あたりまえかもしれない。でも、つい10年くらいまでは意識していなかった。

今は、いたるところに能力のある人がいることを実感する。

たとえば、1500年のイタリアに1人のダ・ヴィンチが出たのたなら、実は、ダ・ヴィンチと同じ力量を持った人だってけっこういたはずだろうと想像することは難しくない。

少なくとも、ヴォイニッチ手稿を作成できる程度の想像力と画力を持った人が歴史的には無名で終わったとしても別に不思議ではないと思うのだ。

ネットは時と空間を超えてあらゆるところに窓を穿ってくれる。ヴォイニッチ手稿の魅力を再確認させてくれるとともに、すばらしさの民主化のような状態を見ると、その魅力がなぜか薄れてくるような気がするのは私だけなのだろうか。
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by mariastella | 2013-10-08 07:47 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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