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L'art de croire             竹下節子ブログ

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ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その7

(これは「ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった  その6」の続きです)

第一次大戦によってフランスにおける死者への「喪」の服し方が劇的に変わったことについては後述しよう。

しかし簡単に言っておくと民間のレベルで「煉獄」が消滅した。

戦争での苦しみと犠牲によって戦死者はすでに「贖罪」を果たして天国へ直行、みな聖人となったのだ。

これはある意味では日本の戦死者の「英霊」がみな「祭神」に昇格したことと同じ感性かもしれない。

そうなのだ、戦争や大災害による大量の犠牲者を前にした時、人は「犠牲者」をまとめて祭ってしまいたいのだ。それによって、「死者の恨みや苦しみ」とそれが生存者に罪悪感を与えたりする畏れと恐れを回避するために、「慰霊」し、ひいては生存者を「守護してもらおう」という都合のいい感性でもある。多くの「神々」や「聖人」たちはこうして祭られてきた。

フランスの場合興味深いのは、第一次大戦で、アラブ・アフリカの植民地国からも志願兵を募り、軍需工場の働き手としても移民を奨励したことだ。そのほとんどはアルジェリア、モロッコ、チュニジアにセネガルなどのムスリムだった(アルジェリアはフランスの「県」あつかいなのでそもそも徴兵された)。

この時、政教分離で激しくカトリック教会を排斥していたフランスがカトリックの神や聖人を必要とし、一丸となったように、フランスのために戦うムスリムの宗教性も、もちろんまるごと受け入れられた。

イゼールの戦いに送られた植民地軍の駐屯地には兵士たちのために仮のモスクが建てられ、日に五度のメッカに向けての祈りが軍隊ごと許可された。

第一次大戦で宗主国フランスのために「動員」(「同じ血を流せば同じ権利を」と約束された)されたイスラム教徒は60万人と言われていて、そのうち5万5千人が戦死した。10%に近い。

そして、戦後、これらのイスラム教徒の戦死者を祭るために建てられたのがパリ市内の大モスクであり、そこにすべての戦死者の名が刻まれた。今でも大統領が訪れて謝意を表する。

あのイデオロギッシュな政教分離だの、公共の場での宗教シンボル着用禁止だのというフランスにして、これである。

日本の場合、植民地における宗教がどうなっていたのかよく分からない。国家神道が強制されたのは想像できるが、もともと一神教的素地のない場所だし、兵士たちは皆平等に現人神である「天皇陛下の赤子」と見なされていたのだろうか。

『植民地朝鮮と宗教  帝国史・国家神道・固有信仰』三元社

[編著者]磯前順一+尹海東

という本を見つけたけれど未読なのでよく分からない。

フランスでは「フランス」という国家は「無宗教」であり、しかし内部にある宗教に優越・優先するとされていた。20世紀の初めにはそれはカトリック教会の既得権益の排除と同義だったわけだが、原則としてはすべての宗教が、「公共の地位を与えられない」という意味で「平等」だった。

だから、戦争によって「神」だの「聖人」だの「喪の儀式」だの、ありとあらゆる「聖なるもの」が「ナショナリズム」のもとに呼び返され、結集した時は、もちろんイスラム教もOKだったわけである。

日本のように「国家」の基盤に「国家神道」を組み込んで「近代国家」の仲間入りした国が戦争をする時に、植民地を巻き込んで生と死、「犠牲」と「聖なるもの」をマネージメントする場合は、別のロジックであったろうことは大いに想像できる。

ともかく、フランスは、第一次大戦の現実によって、

「人は実存の危機においては宗教共同体を必要とする」こと、

「ナショナリズムの沸騰する時には、多様な共同体をプライヴェートな部分に押し込んで掲げていた普遍主義の理念などふっとんでしまう」

というこの二点を、決定的に自覚してしまったのだ。

それを思うとき、「アメリカのプラグマティズムに対してフランスが理想主義的でヨーロッパ中心の独善主義だ」などというお決まりの対比などが、実は、深いところで逆転していることが見えてくる。

(続く)
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by mariastella | 2014-02-20 00:49 | 歴史

エディット・シュタインの「受難」

マリーズ・ヴォランスキーという作家が『エディット・Sの受難』というエディット・シュタインを題材にした戯曲と小説を両方発表したので話題になり始めている。

カルメル会修道院からアウシュヴィッツへ送られるまでの「十字架の道」をたどったもので、カルメル会の修道女服の上にユダヤの五芒星の印をつけられているエディットに、同じように連れ去られるユダヤ人女性が質問を続けてエディットが回想と共にそれに答えるという趣向だ。

確かに、考えると、無神論者でフェミニズムの作家でもあったユダヤ人哲学者がなぜよりによってカトリックの観想修道会であるカルメル会の修道女になったのか、まるでわけがわからない。

アカデミックな学問や知の世界への失望、

失恋、

そして「絶対」の探求の欲求

という3つの理由の複合が考えられるし、女性への連帯と異性への愛の葛藤も微妙に働いたと思われる。

彼女に大きな影響を与えたのは同学の友人アドルフ・ライナッハの未亡人Pauline の信仰でもあった(ライナッハは第一次大戦中に妻と共にプロテスタントの洗礼を受けた後で戦死した。この第一次大戦の愚かさを目撃したことによってエディットら知識人たちがヨーロッパ普遍主義に失望したことも重要だ)。

しかしエディットの場合、若くしてユダヤの共同体主義からすでに離れたということがまずある。

ユダヤ人というとひとまとめにホロコーストの犠牲となったわけで、その反動として今や彼らの伝統はまるで不可侵のように扱われることも多いのだが、実は、今も、ホロコースト以前も、どんな共同体でもそうだけれど、その内部では権力や収奪の構造があり、女性差別や抑圧も根強い。

その中で、長らくヨーロッパに根を下ろして、「西洋近代」の啓蒙主義や人権意識などの洗礼を受けたユダヤ人たちは、ユダヤ共同体員であることをやめて、住んでいた国の啓蒙的な層に「同化」していったケースが多い。
それは別に、強制的に改宗させられたとかいうものではなく、民俗宗教で閉鎖的であるユダヤ教から、根本的には普遍宗教(地縁血縁を問わない)で神の前の絶対平等主義をルーツにもつキリスト教世界のメンタリティに感化されたからであると言った方が当たっている。

もちろん、キリスト教の平等主義や平和主義、普遍主義は、覇権国家の特徴をすべてそなえていたローマ教会の支配の現実とはかけ離れていたので、「西洋近代」は巨大なカトリック教会の霊的ヘゲモニーから自らを解放することによって築かれていった。

だからこそ「反教権主義」が「無神論」イデオロギーを生んだわけで、開明的なユダヤ人は、開明的キリスト教徒たちと同じように、「無神論」へと向かったのだ。

ユダヤ人であろうと、キリスト教ヨーロッパの白人であろうと、その伝統文化との付き合い方には求心的なものと遠心的なものがある。

内部で特権を享受しているようなグループは当然求心的な生き方をするし、普遍主義や平等主義、民主主義などに共感するグループや、搾取され抑圧されているグループ(女性など)は、遠心的に生きる。

そして、遠心的な部分では、人種や伝統の差異は薄くなって、多様性というよりも共通の価値観や言葉が語りだされるのである。そういう普遍性を志向する人たちは、元の共同体からは批判されたり裏切り者扱いされたり破門されたりする。スピノザもそうだった。

エディット・シュタインがユダヤ共同体の精神性から早く離れて、ドイツの知識人の一員となりその中でフェミニズムを戦ったのもそういう文脈である。

しかし、彼女が普遍的だと思っていたアカデミズムの世界も実は別の意味で、閉鎖的で覇権的で男性優位の世界だった。

その上彼女は同学のHans Lippsに恋をして告白して振られた(オランダのカルメル会のRomaeus Leuvenの解釈)。しかも、リップスは別の女性と結婚して二女をもうけるが、妻に若くして死なれてからエディットに結婚してもいいというようなことを言い出す。その時すでにエディットは修道女となっていた。決して自分を裏切ることのないイエス・キリスト、姦通の女を裁くこともしなかった真のフェミニストであるキリストと「結婚」していたわけである。

この辺については、そもそもリップスのようなタイプの男を好きになってしまうところが「甘い」というか、頭がいい割には感情のマネージメントができていないというか、そういう人だったのだろうとしか言えない。

それに比べたら、彼女がカルメル会に志願するきっかけとなった16世紀のアヴィラの聖女テレサなどはある意味で剛の者で、危機管理もしっかりしているし、知性の厚みや硬度が並はずれている。テレサの時代にはカトリック世界以外で何かを実現するような選択はなかったから、彼女は「求心的」な内部から改革していったのだ。

情緒に揺さぶられるタイプのエディットが自叙伝を読んでテレサに心酔したのは十分想像できる。しかし、それが、やはり別の形の閉鎖的な「共同体」へと彼女を招いたことは皮肉と言えば皮肉だ。

もちろん彼女の外見や暮らしの形態が「観想修道女」になろうともそこで彼女が目指したのはマックス・シェラーに通ずるペルソナを生きる共感を前提とした普遍主義の実践であって、実際、修道女となってからの彼女は情緒的にも知的にも花開いたと思う。それを支えたのはやはりアヴィラのテレサの強靭さや信念に対する納得だったのだろう。

「ユダヤ性」や「ユダヤ共同体」を超越したこういう人が最後まで「ユダヤ人」であることでホロコーストの犠牲になったのは、人間をペルソナとして見ないで共同体アイデンティティによるレッテル貼りをする人間の愚かさ故であり、それこそエディットが懸命に闘ってきたものだった。

そんな彼女の犠牲を、またカトリック(エディットを殉教聖女の列に加えた)だのイスラエル(イスラエル国家はすべてのユダヤ人犠牲者の国際法的な代理人として認められている)だのが自分たちの都合の良い文脈にとりこんで語ることがあるとしたら、彼女の戦いはまだ終わっていないのだろう。
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by mariastella | 2014-02-18 00:04 | 雑感

エスパス・ベルナノスの『Saint Jean de Dieu(神のヨハネス)』

パリのカトリック関係の講演とか公演のあるところでうちから一番アクセスがいい(door to door で30分以内)のは、1994にサン・ラザール駅のすぐそばにオープンしたエスパス・ベルナノスだ。ベルナノスはこのすぐ近くの通りで生まれて洗礼を受けた。

そこでやっていた「音楽劇」を最近観た。

一人語りによる「Saint Jean de Dieu」の物語

サン・フアン・デ・ディオス、聖ヨハネ・ア・デオ、神のヨハネスなどと呼ばれる16世紀の聖人(1495/3/8–1550年/3/8と、誕生日と神の国での誕生日が一致しているのでもちろん3/8が祝日だ)で、日本にも支部がある聖ヨハネ病院修道会の創立者でもある。

ポルトガルで生まれたが、スペインに移住した両親の家から8歳で家出して(と語られるが、誘拐されて捨てられたというヴァージョンもある)、羊飼いになったり軍人になったりしてアフリカも含めて歴戦するなど、いったいいつになったら「神のヨハネス」と呼ばれる「立派な人」になるのかと思うと、42歳になった時、グラナダでアヴィラのヨハネの説教を聞いて回心するのだ。
でも、死ぬまであと13年しかない。

しかし、それまでの人生でのハイパー・アクティヴぶりを、全力で貧しい病人の世話に振り向けて、死ぬまでに「神のヨハネス」と呼ばれるほどのすごい社会事業を成し遂げた。

はじめて金も身寄りもない病人(それまでは放置されるか「狂人」と一緒に「隔離・拘束」されていた)に尊厳ある居場所と医療を提供したのだ。
夜になると金持ちの屋敷を訪ねては寄付を頼んで回るのが日課だった。

その過剰な熱心さを見て、善意を試してやろうとしたある金持ちが、自分は破産してすぐに金を返さないと子供も家を失い死ぬしかない、という類の虚言をヨハネスの前で弄したところ、ヨハネスはその日、特別多く集まって身につけていた収益を、迷わずその男にすべて差し出した。

その金持ちは感心して、翌日にそれを「倍返し」してヨハネの病院に持って行ったという。

「神のヨハネス」は、病院や看護人や病人の守護聖人となっている。

1時間15分のこの小劇は、ヴァイオリンとアコーディオンの2人のミュージシャンが最初から最後までいろいろな曲を伴奏や間奏して、語り手の掛け合いにも参加する。その2人がすごく素直そうというか善良そうなので、これはこういう場所でこういうテーマの劇に参加するのだからもともとそういう「いい人」なのか、単にプロとしてその場にふさわしい雰囲気を演じているのか分からないけれど、ともかくナチュラルでいい雰囲気だった。

入場無料で、帰る時に適当に寄付するのだが、今回の場合はその収入の半分が聖ヨハネ病院修道会に寄付され、四分の一が会場の維持費に、最後の四分の一が出演者3人に渡されるという。

150席の会場で満席に近かったけれど、子供連れもいたから一人当たりにしたら平均10ユーロくらい払ったとしても、ミュージシャンの取り分は微々たるものだろうから、やはり「いいことをやっている」という意識か、使命感か場所や趣旨についての賛同がなければ無理だろうなあなどと考える。

いや、これもきっと、「神のヨハネス」の生涯に起こった不思議な出来事の一部をなしているのだろう。

このホールでは小さなリサイタルもいろいろあるのだが、後ろにたっぷりした幕が垂れているので音響がいいとはいえない。

でもこの場所はサンラザール駅とオスマン通りの間に位置して、リセやブティック、銀行、ショッピング・モール、デパートなどが密集しているあたりにぽかりと口をあけているので、なんというか、市場利益第一主義の海の中に隠れる孤島みたいな感じで、カルチエ・ラタンなどとは比べられない独特の魅力を放っている。
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by mariastella | 2014-02-17 03:08 | 演劇

『あなたを抱きしめる日まで』Philomena

『あなたを抱きしめる日まで』Philomena / ジュディ・デンチ主演、スティーヴン・フリアーズ監督

評判がよかったので何となく観に行った映画『フィロメナ』。

この記事を書こうとして日本語ウェブを検索したら、邦題が『あなたを抱きしめる日まで』というので驚いた。

ふた昔くらい前と同じテイストだ。

昔は何かというとメロドラマっぽい邦題のせいで、その映画について英語やフランス語で話題にしようとしても肝心のオリジナル・タイトルの見当がつかなくて困ったことがよくあったのを思い出す。

マーティン・シックススミスのノンフィクション本『The Lost Child of Philomena Lee』というのがあって、その映画化らしい。80歳近いジュディ・デンチの演じる老いたフィロメナとBBCから追われたジャーナリストのコンビがいい味を出している。

アイルランドのカトリック教会の修道女が、自分たちは禁欲しているのに「ふしだらな快楽によって未婚で妊娠した少女たち」への嫉妬から、「罪の子」たちをアメリカに売り飛ばしてしまうという話が根底にあるので、カトリック団体からクレームがついたとかつかないとかでも話題になった。

冷静に考えてみたら1952年のアイルランドの片田舎にはカトリックしかなかったのだから、別に「カトリックが悪い」という話ではない。むしろその頃の社会で未婚の母が制裁されるか排除されるよりも、金のあるアメリカ人に養子手続きをしてもらった方が子どものチャンスも、未婚の母の将来も、いい方向に行く確率が高かったので、すべてが悪かったわけではない。

フィロメナは、息子がアメリカに渡ったと知らされて、「ベトナムに派兵されて殺されたんじゃないか、飲食物の量が多いアメリカの食生活で肥満なのではないか」などと、と心配する。

しかし想定外のことがあきらかになる。

若くしてレーガン大統領のアシスタントになるほどの地位に上っていたフィロメナの息子は、ゲイであり、エイズで世を去っていたのだ。

しかし、アイルランドに残っていたら期待できないような高等教育を受けて社会的地位も獲得し、恋人(男)もできて幸せに暮らしていたのだからいわゆる「不幸」とは言えない。

息子がゲイだったことについてはフィロメナが「あの子の3歳の頃(この頃に子供から引き離された)の感受性から見て不思議ではない」などと言ってあまり驚かないことは実話ならではの味である。
フィクションならもう少し別のリアクションがあっただろう。「ゲイであったことよりも、子供(フィロメナにとっての孫)を残してくれなかったことが悲しい」とかね。

婚外子を抹殺しようとしたり、未婚の出産を隠そうとしたりする社会的制裁の数々は、国や文化や宗教によってそのやり方が違うけれど、いずこでも、「確実な自分の子に地位や財産を継承させたい」という男たちの欲求が制度化された結果なので、特にアイルランドのカトリックが悪い、などという話ではないのはもちろんだ。

いやむしろ、ローマ・カトリックの建前としての「純潔重視」に支えられて「未婚の出産」に「罪悪感」を植え付けてきたキリスト教国の方が、その反動で、いったんそのタガが外れたら、「出産」と「結婚」の間には今や社会意識の中で相関関係がはほぼ消滅したと言っていい。

そういうことに関してある意味でダブルスタンダードがあった日本のような国の方が今でも、「できちゃった婚」のように、「婚外子」を避ける意識が根強いのは興味深いことだ。

同性愛についても同じで、キリスト教圏でのような激しい弾劾や罪悪感がなかったかわりに、日本なら同性愛者も形だけ結婚して子孫を残して「家」を存続させるという例が多い。フィロメナの子供が日本にもし来ていたならフィロメナも孫に出会えていた可能性は大きい。

本物のフイロメナ・リーは、この映画の公開に合わせたのかどうかわからないが、ヴァティカンに行ってフランシスコ教皇に面会して、当時のアイルランドから養子に出された婚外子の行方をたどる会の活動に対する協力を求めたという。フランシスコ教皇は性被害にあった後で中絶を選んだ女性にも慈悲の言葉をかけているくらいだから、子供を生んで手放さざるを得なかった女性ももちろん支援するだろう。

このフィロメナの息子も、アメリカの養子先ではあまり幸せな子供時代を送っていなかったらしい。

にブラウン・ベビーについての記事で、戦後ドイツで黒人GIとドイツ女性の間に生まれた子供たちがアメリカの黒人家庭に引き取られて労働力として搾取されることさえあった話を書いたことがある。
それに比べれば、「未婚の母」から生まれた子供でもフィロメナの息子のように純粋アイルランド系であれば、アメリカのアイルランド系(あるいはカトリック系ネットワーク)の家庭に引き取られた子供はハンディが少ないかと思っていたのだけれど、ケース・バイ・ケースなのだろう。

テンポがよくて構成もよくて、サスペンスがあり、適度なユーモアもあるので、、安易な「お涙頂戴」のメロドラマに陥ることからは免れているし、何よりも、さまざまな社会の規範をつくる人間性についていろいろ考えさせてくれるし、「自然法」とは何かについても考えさせてくれるという収穫があった。
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by mariastella | 2014-02-16 20:41 | 映画

ヴェルサイユのオペラ・ロワイヤルでラモーを聴く

2/13にベルサイユ宮殿の王立オペラにラモー年の幕開けとなるオペラ・バレエ『イーメンとアムールの宴―エジプトの神々』のコンサート・バージョンをトリオのメンバーと一緒に観に行った。

私たちにとってすごく意味のある演目だ。1776年以来上演されていないので、238年ぶりの再上演ということになる。

第二場のメンフィスの場面は、ミオンのニテティスにインスパイアを受けて創られたという。台本作者のカユザックもラモーもミオンも当時すっかり社交場となっていた感のある薔薇十字テイストのフリーメイソンであったのだろうと思う。

ミオンのニテティスが1741年に上演された時、抒情悲劇と呼ばれる長大なオペラの人気はすでに下火だった。で、この1747年の皇太子の再婚を祝う祝典のために創られて演じられたのがミオンのオペラ・バレーでありラモーのこの作品だった(すでに『エジプトの神々』のタイトルで3幕物が完成していたのをこの祝典の閉めるくくりに使うために「ヒーメンとアムール」のプロローグを付け加えて上演されたのでこう呼ばれるようになった)。

この時、指揮したのは誰だろう、ミオンとラモーは同席していて話をしたりしたのだろうか。決して不思議ではない光景なのに、今まで想像したことがなかったのでどきどきしてしまう。

もうこの時点うで、長大なストーリーよりも一幕ごとに別の話が展開するバレー中心のオペラになっていたということは、今の時代と同じで、聴衆の側にザッピングの習慣が生まれ、イージー・リスニング化が起きつつあったということだ。それでもこの後にラモーは『ゾロアストル』や『ボレアード』などのオペラを作曲したのだから、彼にとって基本的に流行などどうでもよかったということが分かる。しかも、イージー・リスニングだからと言って、彼の作曲法には何の妥協もないので、リズム的にもハーモニー的にも演奏が非常に難しい。ラモーがなかなか再演されなかった理由はそれに尽きる。

で、2/13 の、コンサート・スピリチュエルとエルヴェ・ニッケ指揮の演奏だが、はっきり言って「ラモー以前」だった。つまりこの難しい曲をなんとかまとめて最初から最後まで通して演奏できたという時点で終わっているのだが、ラモーはそこからやっと始まるのだ。

エルヴェ・ニッケはなんとレシタティフの間にも指揮の手を機械的に大きく振っていて、フランス・バロックのレシタティフにおけるデクラマシオンとオーケストラの関係をまったく無視している。

バレエに入る時も、バレエが終わる時も、のっぺりとひとつながりだし、踊り手の登場やステップをまったく感じさせないで「さっさとすませる」という感じの演奏。音色の工夫もなければ、長調と短調が交互に来るメヌエットやパスピエやコントルダンスやシャコンヌの内部の変化にまったく配慮がない。

カユザックは興味あるバロック・バレエ論を残していて、オペラの中でのバレエというのは、決して筋を中断するお休みタイムではなく、言葉で歌われる世界と音の世界の中間に別世界を可視化させる境界領域を出現させる「憑依の場」であると言っている。

今思えば、クラシックバレーでは途中でソロのヴァリエーションがあったり、終わりのバレーコンサートでキャラクター・バレーがあったりする時に、踊りが終わると音楽が一時ストップして拍手があり、それから次のダンサーのエントリーなどという場面がよくある。

あれはひょっとして、オペラ・バレーでもあったのではないだろうか。それが継承されたのではないだろうか。

18世紀以降はバレエのテクニックも技巧的になっていた。さまざまな妖精だの神だのアレゴリーの人物像が躍る時、その前と後には十分思い入れや賞賛の「間合い」があったのかもしれない。歌舞伎でいえば「にらみ」のようなストップモーションの瞬間だ。

レシタティフやアリアのつなぎに動員されるひとつながりのやっつけ仕事のようにダンス曲が扱われるのは完全に間違っている。

確かに17世紀後半のバレエ音楽は、バレエのステップを支えるものであり、18世紀になってロワイエなどなかなか素晴らしいオペラを作曲した人も、バレエの部分になると急に「お約束」の薄っぺらな曲しか挿入しなかった。

だから、前のブログでそのことを、「『ピリュス』のダンス曲は、ドラマティックなレシタティフとレシタティフとの間に挿入される形式だけの「つなぎ」のような平面的なものだ。そこの部分だけ、別の作曲家のダンス曲を再利用したとしても困らない程度のものである。」と書いたことがある。

しかし、ラモーのダンス曲は、「つなぎ」や「つまみ」ではなくて、まさに「メインディッシュ」である。

エルヴェ・ニッケはダンスのことを何も分かっていない。いやどこかのインタビューで「ラモーにはいらいらさせられる」などと答えていたくらいで、プロデュース力があり売るのもうまい人だけれど、こんな人にラモーを振ってほしくなかった。

本来なら、リズム通りに音をきれいに並べた後で、その構造の「理解」のためにひたすら頭を使って掘り下げなければいけない。フレージングも何重にも重なる時があり、それは拍子、和声進行、音のインターヴァル、対応するバレーのステップなどいろいろな要素がからんでいるからだ。

「心を込める」とか言うのとは対極にあるほぼマニアックな世界である。それだけのマニアックな濃密な構造を軽々と無邪気で透明に展開してみせてイージー・リスニングさえ可能にするラモーはやはり天才だ。

ニッケに比べたらウィリアム・クリスティなどはアングロ・サクソン特有の一種の律義さがあって、よく研究しているのが伝わるけれど、それでも、前の記事に書いたように、「プロローグを時系列に並べて三幕目の後に配したのは悪くないと思うが、各幕の最後に挿入されるダンス曲をまるで付録のように扱うのには失望した。クリスティと演出家がシャルパンティエのオペラで、せっかくの人間ドラマのサスペンスや緊張感を維持するために、幕間にバレエを入れるのをやめてドラマをさらに深めるパントマイムにすることにしたそうだ。」ということがあったように、一番本質的なところが甘い。

最近気に入ったのはエマニュエル・ハイムの振ったシャルパンティエの『メデア』http://spinou.exblog.jp/18592455/ だった。そうなると、ダンス曲を「理解」するにはやはり頭だけではなくて肉体的な感性も必要だということかもしれない。

2/22にパリの日本文化会館に、セルリアンタワー能楽堂であったという『オペラ@能楽堂Vol.1 アクテオン/リヴィエッタとトラコッロ』~能・狂言の様式でバロックオペラを~』というのがやってくるので、トリオで観に行くことになっている。

「聴けばオペラ、観れば能・狂言」とか「ヨーロッパと日本で16世紀末から17世紀にかけて、ほぼ同時期に発展してきたバロックオペラと能楽。双方とも宮廷や大名などの保護のもとで発展してきた 文化で、多くの類似点を見付けることができます。その類似点をうまく融合し、新しい形のオペラを作り出していこうという試みです。」というキャッチ・コピーには何か心配なところもあるけれど、単に「珍しい組み合わせ」というのでない予感もする。

私たちのトリオはミオンのオペラ・バレエの一曲をヨネヤマママコさんのマイムと一緒にとある能舞台で演じたことがあるのだけれど、ママコさんはまさに「シャーマン」なので、何の違和感もなかったのを覚えている。

あれから10年以上経ち、私たちの研究はますます深まっているので、今度は本当にお能の人とのコラボもできないだろうかと考えているくらいだ。バロック・バレーのダンサーとコラボするには、まず振付譜が残っていないのでクリエートするか別の曲の振付を転用するしかない。この時、「型」だけを職人的に再現するダンサーと組むと、それこそ「伝統芸能」保存会です、みたいになってしまう。

「古楽」という特殊な世界を愛でる人の自己満足になりかねない。

難しいところだ。
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by mariastella | 2014-02-15 09:29 | 音楽

近況

しばらく更新していなかったので「心配」という方がいたので、ごあいさつのみ。

第一次大戦の続きについてはいつか書きます。

大筋は、第一次大戦によって、フランスの保守陣営も共和国主義者もカトリックも、みんなずるずるといとも簡単に「愛国主義」、ナショナリズムで一丸となってしまったことに、彼ら自身がショックを受けて、普遍主義の理念の脆弱さに愕然とした話です。それによって、実は、このときすでに「ヨーロッパ近代至上主義」の自負が深いところで変質したというか、まあ学びによってある種の成熟に向かったということで、これはアメリカでは絶対に起こらなかった変化というわけです。もう一つは、大量「戦死者」の喪をどう扱ったか、近代無神論イデオロギーが否定してきたカトリックとどう折り合いをつけていくことになるかの経緯で、このへんを観察すると、日本の国家神道とか靖国問題を考える点でも非常に参考になります。

もうひとつは、エリファス・レヴィとルネ・ゲノンの復権と言うか再発見と言うか、新しい意味を新しい文脈にのせたいということです。

レヴィの22公理を少しずつ見直すシリーズを始めるつもりです。

教皇フランソワの治世が1年近く過ぎ、ヴァティカンに起こりつつある決定的な改革についても語りたいです。

イエズス会のシステムのいい部分がいい方向で出ていて、でもそれはこれまでのヴァティカン1500年以上の歴史における「年功序列」とイタリア各地方の利権を中央で奪い合うという「伝統」的な構造を解体することになります。ほんとうに実現できるのか、できるとしたら、「(福音書的)原則」が「伝統」に勝つ、ことが可能なのだという実例になるので、他の硬直した「伝統社会」で抑圧されている人々にとっても「福音」となりそうです。

少しずつ書いていくつもりです。
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by mariastella | 2014-02-11 00:25 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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