L'art de croire             竹下節子ブログ

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よかったこと その2 ジェレミー・リフキン『マージンゼロの社会』

アメリカの経済評論家ジェレミー・リフキンが新著『マージンゼロの社会』について語っているインタビューをラジオで聞いた。

実際に読んだらひょっとしてネガティヴなつっこみどころがあるかもしれないけれど、2050年頃には、金融資本主義が社会資本主義に移行していて、情報もエネルギーも無償で分け合える社会が到来するという第三次産業革命の楽観的未来を語ったものだ。

メルケル首相のアドヴァイザーでもあるリフキンはヨーロッパの可能性を信じていて、フランスの資本主義はすでに13%が社会資本に向けられているとか、今ヨーロッパが古いタイプのインフラに投資している7800億(ドル?)を情報インフラ投資に変えるとマージンゼロの社会が出現するなどという。

すでにマージンゼロの直接の恩恵である日光や風を主要エネルギーに変えていくのはもちろんだ。自動車産業もこれからの世代がマイカー離れしていくと、今の15分の1になって産業界を変えてしまう。

などと私が書くとお花畑風だが、実際にこの20年ほどのデジタル革命の恩恵を受け、世界への視点や視界が無償で広がっていくのを見た体験に照らし合わせても、いろいろ説得力のある論が展開されていた。

リフキンも1945年生まれで、私と同様、21世紀後半の世界を直接に見ることはないかもしれないけれど、エコロジーな経済が可能で、人間が謙虚になって環境やお互いを尊重するよりよい世界が来るのだと言ってくれる人がいるのは次世代のために力づけられる思いだ。

どんな道具だって使い方によれば建設的にも破壊的にもなる。

今は、建設的な可能性を鼓舞してくれる言説がなかなか届きにくい時代だからこそ、多くの人にぜひリフキンを読んでほしいものだ。
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by mariastella | 2014-09-28 00:41 | 雑感

よかったこと その1 ピエール・ローランが元老院で言ったこと

「イスラム国(こういうと国家があるように誤解されたりムスリム全体にも誤解を招いたりするので今は政府の声明や報道などでは略語から来たダーイシュが使われるようになった)」の脅威、環境破壊、地球規模の貧富の差の拡大、など、考え始めると暗澹とするテーマばかりで暗くなるので、最近嬉しくなった2人の論客について書こう。

アメリカがテロリストに「宣戦布告」し、フランスも同調して空爆を一度やったらフランス人観光客がアルジェリアで殺されたのでさらに戦闘強化を決意した後、2003年にアメリカ追随したイラク派兵が間違っていたと「反省」して迷っていたイギリスもそれに加わることをやっと決めた。

中近東のイスラム諸国も同盟しているという形をとっているが、国連などは完全に無力化の状態。

2002年の国連で堂々とアメリカのイラク侵攻に反対したフランスはなかなか気に入っていたのに、その後は右も左も、サルコジ、オランドと、NATOには復帰するし、アメリカに尻尾をふるし、「独立の心意気?」を見せたのは、サルコジが単独でリビア空爆を始めたりオランドが単独でマリに軍事介入したりする「アフリカの守護者」気取りにおいてだけ。

そんな絶望的な中でも、よく見ると正論を言い続けている人もいて、カトリック陣営だったり、極左だったりもう有名無実かと思っていた共産党だったりして、それを互いに認め合っているのもおもしろい。

以下にコピーした共産党のピエール・ローランが24日に元老院で行った演説は、カトリック系ブログで見つけたものだ

読んでいてすっきりしたので試訳を載せておく。

「サルコジの自由主義アメリカ偶像崇拝に捕らわれた自由主義保守派も、オランドの「政治的公正」に捕らわれた自由主義左翼も、嘗てフランスが今より強いわけではなかった時(2002-2003年が念頭にある)にそうであった自由電子(ポテンシャルがゼロで何ら束縛を受けていない電子)の役割を取り戻そうなどと今では思いもつかないだろう。(…)

ヴァルス首相が「致命的危機」「世界のセキュリティ」「価値観)などの言葉で議論を抑え込もうとする時、François Asensi(左翼戦線党)は、「国連の安全保障理事会がこれをもう一度扱うべきだ、それなしにはパリは、アメリカ政治の「アフターサービス」に巻き込まれることになる(…)、NATO支持派の逸脱が我々の外交方針に進出し続けている」と発言した。

元老院では共産党のピエール・ローランがこう発言した。

「アメリカ主導で展開された『テロリストとの戦争』が10年間混乱を拡大した後で、我々は教訓を得なければならない。すなわち、ジハディストのグルーブとの戦いが、彼らが成立することになった原因に向かわない限り、目的は果たされないと言うことである。

『テロリストとの戦争』には4兆ドルが掛けられた。

その結果は?

ジハディストのグループは1から14に増えた。

これらの軍事介入はすべて災禍を増やすものとなり、人々をさらに屈辱と悲惨に追い込み、テロリストのグループを強化することになったと正直に認めようではないか。(…)

問題は、行動すべきかどうかではない。もちろん行動しなければならない。

しかし、真の問題は、誰とどのようにしてこの蛮行をやめさせるのかということだ。

悪の根源を叩き、都合のいい時にはジハディストのグループを武器と物と人において支援してきたNATOに属する国家や同盟国の責任が問われなければならない。現時点において「イスラム国」が支配した油田から石油を買っている者の責任を問わねばならない。

(…)さらに、フランスがNATOの内部で、トルコや湾岸諸国のようなこの地域(中東)の強国を武器の販売相手として築いている密接な関係について議論しなくてはならない。

この現実に目をつぶったままでいられるものだろうか? 

テロリストたちを支援したこれらの強国が今は彼らと戦うと言うことにどれだけ信頼がおけるのだろうか?

シリア国内のクルドに対する「イスラム国」の介入に便宜をはかりつつ二枚舌を使うトルコのような同盟国をどうやって信頼できるのだろうか?

それでは、戦争の真の目的は何であるべきか。

それについてこそ議論を重ねなければならない。

アメリカは戦いが少なくとも3年と長引くだろう、と言った。

フランスも同じ年数を想定しているのか?
そしてその後は?

我々にはNATOが政治的解決をもたないこと、NATOとその覇権的戦略こそが問題の一部であることが分かっている。

ではフランスのとる戦略は? 

短期的、長期的な政治的落としどころは?

その政治的解決は中東地域のすべての国や権力者との不可避な対話を通してしかあり得ないのではないか?(…)

悪の根源を叩くというのは、我々が、国際秩序の保証人と自称する少数の欧米国のうぬぼれと共に(中東に)介入し続ける枠組み自体を解体することでもある。

他の選択肢が必要だ。

貧困を根絶し、健康、教育、住居、雇用、麻薬密売禁止などすべての分野におけるセキュリティの確立を目的とする、全体の発展と協働と連帯に基づいた別の政策が必要だ。(…)

国際法と地球のすべての国家の主権に基づく唯一の多極的枠組み(国連)を棄てることはアメリカに率いられたNATOの役割増大に利するばかりであり、冷戦終結後に犯された最大の過ちのひとつである。

フランスは自分の世界観を再び築くべきであり、NATO列車にしがみつくのをやめるべきである。

フランスの対外政策についての徹底的討論を両院において組織するよう願い、呼びかける。」



以上がピエール・ローランの発言要旨とそれを転載したブログの試訳だ。

2002-2003年にかけてのフランスの立場を支持してきた私にとって久しぶりに耳にした正論だったので、ここに紹介しておくことにした。

自由電子のたとえもおもしろい。フランスはそういうレッテルを大事にすべきだった。

長くなったので、私の心を少し明るくしてくれたもう一人の人物ジェレミー・リフキンについてはこの次に。
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by mariastella | 2014-09-27 20:21 | フランス

クルド、ジハディスト、理念と実際の乖離など。

書き留めておこうと言うことがいろいろあるのだけれど暇がないので、最近TVとラジオのニュースで見聞きした中の気になったことをいくつか忘れないうちに。

1.「イスラム国」に立ち向かうクルドの軍隊の前線に女性兵士が登場したというニュース。
この中の0:12くらいから見ることができる。
これによると、女性が前線に立つのはメリットがあると言う。

ジハードの軍隊は女性によって殺されたら天国には行けないので逃げるからだというのだ。

女性兵士がそう言っている。

ほんとうにそんなことがイスラムの教えの中にあるのか確認する暇はなかった。

でも突っ込みどころの多いコメントだ。

前戦にいるのが女性だと分かる前に敵が攻撃してくる可能性はあるし、第一、イスラム国の戦闘員がイスラム原理主義の人たちばかりだとは限らない。

よく知られていることだが、ヨーロッパの各国からもネットを通してイスラム国のプロパガンダに惹かれて「イスラム国」に合流する若者がかなりの数いて、その大部分は、「イスラムの教え」とか「天国」がどうとかではなくて、「戦い」「暴力」「武器」に惹かれ、ヨーロッパや社会でうまく生きられない恨みを晴らしたいなどのモチヴェーションでテロリズムに走るのだから、「女性に殺されて天国に行けないかもしれないリスク」なんて無視だろう。女性や子供を殺すことは平気でも。

でも、女性兵士が微笑んでそう語るとしたら、彼女らにそれを吹き込む男たちがクルド側にいると言うことで、彼女らもやはり洗脳されているのではないだろうか。違和感ありまくりのエピソードだ。

2.フランスには旧植民地系のムスリム移民やその子孫がたくさんいて、もともとは共和国の教育社会主義で「統合」政策をとっていた。

しかし二世三世(多くは親の国の国籍も持っている二重国籍者だ)の世代で失業率が髙かったり教育システムから落ちこぼれてしまったりした若者たちが少なくない。その中には、モスクや刑務所でムスリム過激派というアイデンティティを植え付けられて「聖戦」を鼓舞され、シリアやイラクに行って戦闘訓練を受けて現地で戦ったり、テロを展開するよう使命を帯びてフランスに戻ってきたりする者がいる。
ムスリム家庭でない「普通のフランス人」の子弟でもジハディストのサイトを見て鼓舞されてシリアに向かう高校生でさえ存在する。

たいていはまずトルコに出てそれからシリアなどに向かうので、家族や親族も彼らをトルコで見つけて帰国させるように必死だ。

で、フランスは、「聖戦」に向かった後でフランスに再入国する二重国籍者のフランス国籍を剥奪して入国拒否することにした。

しかし、二重国籍を持たずフランス国籍(基本的にフランスで生まれれば誰でも国籍が取得可能)しか持っていない者の入国を拒否することはできない。

そのようにして、「イスラム国」から戻ってきて再入国した「フランス人ジハディスト」が、昨日のニュースでは今120人いて、彼らのうち55人はテロ謀議などで収監されているが、残りは自由の身なので、警察が盗聴をはじめとして24時間監視している。その監視には1人につき30人の警察官が必要なのだそうだ。

日本などでは、アメリカの覇権主義が目立つおかげで、「旧植民地の警察」を自称するかのようなフランスのタカ派ぶりはあまり報道されないが、イスラム国からはちゃんと「敵」の筆頭グル―プに分類されていて、いや実は「敵のナンバーワン」とされているのでリスクは大きく、深刻だ。

3. その「イスラム国」制圧にはもうリアル・ポリティクスしかないということで、欧米がイランはもちろん、シリアまで協力態勢を築くなりふりかまわぬ状況にも驚く。

さすがに、「『欧米が介入しなかったから』この3年で20万人も自国人を殺しまくったシリア政権」と組むのはいかがなものかという人はいるのだが、

すると、

ヒトラーを倒すためには、何百万人も自国人を粛清してきたスターリンとも組んだではないか、

と返される。

もちろんもうすでに、アメリカはエジプトやサウジアラビアともしっかり同盟しているのだから、政治なんて理念よりもパワーゲームでしかないのだろうか。

それでも、目に見える「理念」を掲げておかないとすべてが崩壊するということもあり、新10ユーロ札にヨーロッパの語源であるギリシャ神話の王女エウローぺーの顔が登場した。

ユーロ札のデザインは、これまで、すべての文化的宗教的過去から離れた中立的なものにするという方針で建造物ばかりで、地図も、ユーロを使わない国やEU非加盟国もいれた「開かれたもの」になっていた。で、

「それがよくなかった、最初からプラトンの顔を印刷していたらギリシャのユーロ危機はなかったにちがいない」などという人がいる。

どんなにリアルと乖離していても、「理念」は見えて聞こえる方がいいと言うのは一理ある。

理念と実際の乖離がひどくなった時に、理念の方を放棄するかリアルを強引に理念に合わせるかという二択になるのではない。

理念の方がリアルに歩み寄るということはなく、放棄される、削除されるしかないのだから、共存があるとしたらリアルの方が努力、工夫しなくてはいけないだろう。

その工夫が憲法九条の「解釈改憲」という国もあるわけだが、フランスも、同じくらいまずい乖離が、憲法とリアルの間で起こっている。

それは憲法の「人権」の定義となり、憲法に組み入れられている「1789年の人権宣言」だ。問題はその第一条だが、ネットで拾った日本語訳で前文の一部と第一条をコピーする。

まず前文のはじめ、なかなかいい。

西洋の歴史の中で、最初は「人」といっても「税金を払う成年男性」だったり、「キリスト教の白人」だったりしたわけだけれど、それが拡大して「すべての人間」と見なされているのはともかくめでたいことだ。

 「フランス人民の代表者たちは、国民会議を構成し、人権の無知、忘却(無視)あるいは軽視が、公衆の不幸及び政府の堕落の唯一の原因であると考え、 厳粛な宣言の中で、人の不可譲かつ神聖不可侵の、自然権を、断固として述べた(→呈示することを決意した)。
 この宣言が、社会的集団の全構成員(の心)に絶えずあり続け、その権利及びその義務を絶え間なく想起させ続けるために。」

「人権の無知、忘却(無視)あるいは軽視が、公衆の不幸及び政府の堕落の唯一の原因」と言い切るところは素敵だ。

で、問題は、その後の第一条だ。

「人は、法律上(→権利において)、自由かつ平等に生まれている(→生まれながらにして、自由かつ平等である)。
社会的差別は、公共の利益に基づくのでなければ、存在することはできない。」

こういう訳もあった。

「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。」

この「社会的差別は、共同の利益、または公的利益に基づくものでなくてはならない」というのは、要するに「自由競争」の制限で、私利私欲個人の幸福の追求のために利益を生む活動をしてはならないということだ。

「公共の利益」というのは英語ならコモン・ウェルスだし、何をもって共通とか公共とかいうのかが問題であるが、フランスはこの一句によって、個人の抜け駆けの「成功」だとか「蓄財」とか「成り上がり」を封じている。

それは「建前」で、新自由主義経済、グローバル経済の社会ではそんなことはいっていられない、実情と乖離しまくっている、というのは事実だ。

それは、日本の憲法の第九条が、朝鮮戦争の警察予備隊や自衛隊創設の昔からすでに建前化し始め、「軍隊ではない」など詭弁風言辞が弄され、さらに、防衛庁から防衛省、武器も輸出するとか、ついに「解釈改憲」に向かっているのと似ている。

フランスの方は、そこまではいかず事実上の有名無実化なのだけれど、それでも、「共通善」や「自然権」の「絶対理念化」はDNAに組み込まれているらしい。

右派から左派までのフランスの評論家が集まって規制緩和やらについて討論しても、「生き残りのために自由主義経済は大事、でも、行き過ぎの自由主義経済はダメ」と全員が口々に言って「アメリカ化するのはもちろんダメ」という点では合意するのを見ていると、私なんかは「なんか、こいつら、かわいいなあ」と思ってしまう。

逆に、この乖離がフランスとフランス人の不幸のもとで、このねじれが神経症を形作っている、だから、この「社会的差別は、公共の利益に基づくのでなければ、存在することはできない。」というフレーズをいっそ削除しよう、という人も存在する。

そうすればフランス人は妙なコンプレックスから解放されて「格差社会」を受け入れられる、そこで初めて成長政策も可能になるのだ、というのだ。

それを聞くと、かえって、ああ、この人たちにとってはその「理念」がやはりインパクトを持っているのだなあ、と感慨深い。

この件についてもっと書きたいことはあるのだけれどまた次の機会に。
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by mariastella | 2014-09-25 00:14 | フランス

2014のカンヌでグランプリを獲得した『ウィンター・スリープ』

すでに『スリー・モンキーズ』(2008)で監督賞を受賞しているトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督が今年グラン・プリをとった作品『Winter sleep」をついに観に行った。

何しろ3h15の大作で、新学期やら何やらで忙しい今は敬遠していたのだ。

しかも、アナトリアのカッパドキアで小ぶりの岩窟ホテルを家族経営している引退した初老の元俳優アイディン、年の離れた妻、出戻りで鬱病気味の皮肉屋の姉、が雪に閉じ込められた環境で延々とルサンチマンをぶつけあう、という概要を読めば、腰が引ける。

自然が美しい、3時間を感じさせない、普遍的な人間ドラマ、というような好意的な評はあっても決心しかねていた。

結果、さすがに、後悔はしなかった。

もっと陰鬱で閉塞感があるかと思っていたら、登場人物もけっこういるし、それも、妻に先立たれて娘はイギリス人と結婚してロンドンにいる孤独な農場主とか、つっぱりの小学校教師とか、失業して酒におぼれ年老いた母や妻子とともに貧困から抜け出せない男などヴァリエーションがあるし、野生の馬や冬の駅、ウサギ狩りなど場面にも変化がある。ホテルの客に日本人のカップルまで出てくる。

ベルイマン風、アントニオーニ風、それにシューベルトとチェーホフを配して技巧的、職人的な映画作りの上手さに脚本のセリフのすごさ(というかこれは全くセリフのやり取りで見せる戯曲そのものだ)、それに加えてアナトリアというエキゾティックで特殊な背景で、「トルコ人の生活」という特殊なものを内面まで覗けるのだから、まあ、贅沢であり、見所が多いので確かに飽きない。

最初の方で子供の投石で車の窓ガラスに亀裂が入った時のショック、

野生の馬をとらえる時の攻防の衝撃、

撃たれて倒れてまだ息をしている兎の姿が語るあからさまな「生と死」の境界、

そして何といっても、結局は人の幸不幸を決めるように見える暴君で偶像である「金」、しかも「家一軒が買えるほどの現金」のたどる運命。

これらのシーンは、いずれも「雪に閉ざされた室内での人間模様」などとはかけ離れたリアルに衝撃的なものだ。

しかも、「雪に閉じ込められて延々とルサンチマンをぶつけ合う家族」というので、なんだか物質的にも悲惨なものを想像していたが、

この家族は裕福で、インテリで、携帯もあってパソコンもあって、男はトルコの演劇についての歴史書を書こうと研究しているし、毎週地方紙のサイトに記事を書いている名士だし、姉も昔は翻訳者だった。

みんな若い頃にヨーロッパの大学を出ているらしい。考え方もヨーロッパ的だ。

なるほど、トルコがEU加盟を求めるのも、エリートたちにはすっかりヨーロッパ人アイデンティティがあるのだと分かる。

トルコ内部での経済格差が大きすぎ、それがそのまま文化の断絶につながっている。日本なら経済格差が大きくなったとはいっても、金持ちも貧しい人も、みんな似たような日本人の感性を持っていて、みんな似たように「アメリカ化」した生活をしている。そこがまったく違うのだ。

そういえば以前に知り合ったトルコ人社会学者とメールを交換していたことがあったが、彼はヨーロッパと非ヨーロッパの懸け橋としてトルコを位置づけ、日本ともその意味で連携したい、と言っていた。この映画の感想を聞いてみたい。

主人公アイディンの姉は次々に嫌味を繰り出すのだが、それが、妙に哲学的で論理的で理屈っぽく、「インテリの嫌味」である。

例えば「イギリスの労働階級の家族の不和」を描く映画で繰り出されるような嫌味の応酬とは全く違う。

主人公のアイディンは「もっと大物になる」夢も破れた人生の秋で、けれどもパトロン根性が抜けなく説教ばかりする「上から目線の男」、と紹介されている記事もある。

でも、年齢的に同世代のせいか、私はなぜか一番親近感が持てた。若い妻があれほど苦しむような精神的マッチョとも思えない。男も姉も若い妻も、みんな頭が良すぎて物事を反芻して考えすぎて自分を追い込んでしまっているのは認めるけれど。

私にとって、登場人物の中で一番強烈だったのは、家賃をはらえずにテレビなどを差し押さえられた貧しい家庭でただ一人働いている男。結婚もできず、老いた母や甥の面倒をみながら、自暴自棄の兄を必死にフォローする。この男の「正しさ」と「まともさ」が苦しい。

いつも穏やかでにこにこしていて、礼儀正しく、それが卑屈と紙一重で、それでもその強さが、他の偽善者たちや偽善をかなぐり捨てた憎悪全開の人々の両方に、微妙な罪悪感を与えてしまう。

この人がにこにこして繰り出す紋切り型の優等生的セリフが一番底が浅くて、他の狂暴な人や偽善者や欲求不満の人々たちは「言語能力」が高すぎる。

そのせいでリアリティがないと言えばその通りで、この世界が完全に「書きこまれ尽した」演劇的世界なのだと分かる。(原作は小説)

後、前に『家庭の庭』について書いた時にも思ったのだが、金があってもなくても、教育があってもなくても、最終的な幸不幸「感」の拠り所は、配偶者がいたり子供がいたりすることに収束するのかと思うとショックでもある。

この映画はラスト・シーンが安易だといえば安易だが、いつか終わらさなければならないのだからまあこんなもんだろう。特殊から普遍へという意味では、「作り過ぎ」のせいで深みに到達できなかった感がある。

来年日本でも公開というから、日本にいる日本人のコメントをまた聞いてみたい。
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by mariastella | 2014-09-23 01:02 | 映画

スコットランド独立派が敗れた後で

「スコットランド独立投票が独立否定派の勝利に終わったことについてのコメントは?」
と聞かれた。確かにこれまで何度も触れてきたので、ここで一応まとめの記事を書いておく。

まとめはもちろん宗教ネタで。

9/14の日曜、エディンバラの聖メアリー大聖堂のミサは人が入りきれなかった。 

スコットランド国教会首長のJohn Chalmersの説教はBBCでも生中継され、彼は「兄弟愛のうちに投票するように」、「投票がどんな結果になろうとも、共に未来のために働かなければならない」などと言った。
そして、投票後の21日の日曜のミサに独立派のアリステア・ダーリングと反対のアレックス・サマンドの両方を招いて「和解のミサ」を捧げると言った。

毎日曜に「国教会」の首長がこうやって、建設的な呼びかけをしてみんなが耳を傾けるのってすごいなあ、と思った。

そもそも、スコットランド国教会というのがちゃんとあることも、日本人には知られていないかもしれない。

イングランド国教会というのは例のヘンリー八世がローマ法王のもとから離れて自分が国教会の首長になって以来の「聖公会」というやつだが、その時点ではスコットランドは連合王国に入っていない。
「聖公会」は教義や典礼の上での「改革」を求めたわけではなかったからその点でローマ・カトリックと近い。

一方スコットランド国教会の方は改革派の「長老派」由来なので、よりプロテスタント的だ(ここから分かれた「スコットランド聖公会」というのもあってスコットランド国教会の32%、ローマ・カトリックの16%に次ぐ)。

で、連合王国になってからどうなったかというと、簡単に言うと、

英国王はイングランド国教会の首長だがスコットランド国教会では一信者。
スコットランドの別荘に滞在する時は地元の教会のミサに出席する。
ただし長老会議に送る使節の任命権がある。
アイルランドやウェールズの教会では特別の権利がない。

スコットランド国教会の首長は前述のジョン・チャーマーズで、連合王国的にはイングランド聖公会トップのカンタベリー大司教が上に来るのだが建前でしかない。

建前と言えば、イングランド聖公会の首長が連合王国の君主(今はエリザベス二世)だといっても、それは歴史的な建前で、実際は、司教などは司教会議がリストを提出したものを首相が認可し、君主はサインだけすることになっている。女王は名誉首長というところだ。

もちろん他宗教も無神論もOKで共同体棲み分けもOKの国だから、こういう「政教分離」ぶりも曖昧である。

これが日本なら、国家神道の政教一致が「近代化」して「政教分離」になったのだ、だから天皇は「象徴」に、ときっちり政教分離を遂行したわけだから、日本のような国からイギリスを見ると、そんなのでいいのか、と思ってしまう。

第一、政教一致や政教分離が意味を持つのはやはり「一神教」的メンタリティの文化圏だ。

明治以来、いくら天皇を現人神だとして「国家神道」の一神教化が推進されてきても、そこはもともと「八百万神」の国だから、「氏神」や「先祖神」を組織しきれなかった。だから戦後に「政教分離」と言われても、文化的にはインパクトはない。

民主国家が健全に機能するには、「目に見える政教分離」が効果的で、目に見えると言うのは、政治的決定権のない伝統有力宗教の首長の顔が見えているということだ。

フランスは政教分離原理主義みたいな国のひとつだが、伝統有力宗教の首長であるローマ法王はフランスにいないから、分離されているのは顔のない「神」であって、実はうまくバランスがとれていない。

アメリカも顔のない「神」で、しかも顔がないものだから「神」が政治的言説にも利用されまくっている。

ロシアなら何となく、「大統領」対「ロシア正教大主教」というのが見えるし、イタリアもヴァティカンがしっかり身中にいるので、「大統領」対「ローマ法王」というのは見える。

イランのように政教一致の国はさておいて、サウジアラビアはもちろん王がイスラムやメッカの保護者となっているけれど、実は「王族」対「宗教(ワッハーブ宗)」が互いを牽制しているふしがある。サウド王家は建国の英雄アブドゥルアジーズを偶像視するプロパガンダに余念がないのだ。

話を戻して、スコットランドの場合、「無宗教」を自認する人もいればシーク教、仏教、イスラム教など移民を中心のマイナーな多宗教が混在しているが、エリザベス二世(夫はエディンバラ公の称号を持つ)も人気があるし、スコットランド国教会のチャーマーズ長老も信頼されていて、そのへんのユルい感じが、かえって、成熟した民主主義国家のオトナ感がある。

まあ今回の結果は、EUやNATOとの関係から言っても、つまり経済的にも安全保障的にも不安要素が多すぎたからほっとしている人が多かっただろう。
これでますます自治権が拡大すると言っているからある程度は目的を果たしたと言えるかもしれない。

ヨーロッパではカタルーニャのスペインからの独立が、国民投票ができない現状でかなり熱気を帯びている。
その意味でも、スコットランドのこれからも注目され続けるだろう。
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by mariastella | 2014-09-22 01:15 | 宗教

ジェブ・ブッシュとコロンブス騎士団

アメリカの共和党の次の大統領候補にジェブ・ブッシュの名が挙がってきておもしろくなった。

フロリダ州知事だったこの人のことを、私は中公文庫版『ローマ法王』の後書きで、ベネディクト一六世の就任ミサに出たと書いた。

白いフリーメイスンと呼ばれる白鳩騎士団のメンバーだと。

あの訳はまずかった。「コロンブス騎士団」に訂正する。

1881年にコネチカットのニュー・ヘヴンのセント・メアリー教会で、アイルランドから来たカトリック司祭によって立ち上げられた。

コロンブスというのはアメリカ発見のコロンブスで、当時カトリックが冷遇されていたので、コロンブスもカトリックだったと強調したくて名をつけたらしい。

コロンブスという名そのものは、「コロンボ」もそうだが「白鳩」に由来していて、白鳩は「聖霊」のシンボルでもあるから、白鳩騎士団と訳してしまったのだ。(今でもその方が素敵な名前だと思うけれど。)

で、バリバリのWASPのブッシュ一家の次男坊であるジェブは、若い時にメキシコに行って今の奥さんと出会い、一九九五年にローマ・カトリックに改宗した。

スペイン語もぺらぺらだという。

フランシスコ教皇が選出された時も「最初の南アメリカ教皇」の選出は素晴らしいニュースだとツイッターしていた。この教皇とならスペイン語でも話せるわけだ。

こういう写真があって、ヴァティカンのベルトーネ国務長官がヴァティカン旗とメキシコの旗を掲げている

フロリダで行われたコロンブス騎士団の大会で、知事で第四グレード騎士のジェブ・ブッシュももちろん参加していた。メキシコからの移民を排除するのはおかしい、もともとそこはメキシコ人の土地だった、という感じの運動を反映したものだ。 

ジョージ・兄ブッシュの評判はイラクの情勢のせいで今最悪だから、兄との差異性を強調するためにもカトリック風味は大切になるかもしれない。前回のロムニーはモルモン教でさすがに無理があったかもしれないけれど。

コロンブス騎士団は保険業で莫大な富を築いたと言われている。

そういえば、コロンブス騎士団との関係は確認できなかったけれど、やはり保険業で大富豪になったというアメリカ人と結婚しているイタリア女性が、ランペドゥーサでの法王の呼びかけ(前に書いたことがある)に応えて、8億円も投じて無人機を飛ばせる救助艇と二人のリモート・パイロットをアメリカで用意し、医療スタッフも常駐させて、難破する不法移民の救助に乗り出した。救済される難民には子供も少なくなく、臨月の妊婦もいて、救助艦では分娩もできるようになっている。このアメリカ人Catrambone夫妻はマルタ島に居を構えて、Migrant Offshore Aid Station (MOAS)と名づけられた船で娘と共に60日間のミッションに出発した。

ランペドゥーサの市長も難民保護に必死に頑張っている。

だからと言って、それらの難民を次々と受け入れる予算などどの国にもない、余計なことをしてもらっては困る、という政治家ももちろんいて、EUレベルでも、難破する移民の積極的救済は「吸い取り機」みたいなもので、さらに多くの難民を引き寄せるばかりだ、などとはっきり言ってしまう人もいる。

すごい数の難民が命をかけて西アフリカやシリアから流れ着く。

彼らを放置するのは「恥」だとローマ法王が檄をとばし、それに応えて海に乗り出すカトリックの富豪がいる。

ちゃんと実行する人がいるところがすごい。

敵対するマフィアのグループに子供たちまで取り込まれるラテン・アメリカから必死になってアメリカに亡命しようとしてメキシコまでたどり着いた後で国境で阻まれる少年たちのドキュメンタリーを最近見た。

ジェブ・ブッシュはどういう移民政策をとるのだろうか。

「個別の救済」にはなっても「問題の解決」にはならない。根本的な方向転換が必要だ。

それについて考えていることもあるのだけれどまた次の機会に書く。
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by mariastella | 2014-09-21 02:38 | 雑感

スコットランド問題を見てるとため息が出る

スコットランドの独立に関する国民投票、結局延期されないで行われるらしい。

シリアでのスコットランド人殺害の影響の他にも、IMFが恫喝というか圧力をかけてきたので、予想は反転して独立反対派が54%に上っていた。EU離脱扱いも確実なので、イングランドよりEU寄りのスコットランド人にとってはつらい。

過去にヨーロッパでの国民投票による平和裏の分裂にはノルウェーがスウェーデンから離脱(わざわざデンマーク王に頼んで立憲王国にした)があるが、よく見ると、そう「平和」にことが運ぶわけではない。ノルウェーも独立国として安定するのに10年はかかっている。

スコットランドでは緊張が高まって銃を持ち出す人もいるそうだ。

それだけではない。個人的にたまげたのは、9/13に繰り広げられた独立阻止のフリーメイスンの示威パレードだ。

エディンバラに極右プロテスタントのオレンジ・フリーメイスンたち1万5千人が北アイルランドとイングランドからやってきた。笛や太鼓付きで、白手袋とロッジの襷をかけた男たちだけの行進。

北アイルランドのプロテスタントの多くは17-8 世紀にスコットランドから移住した人たちだ。

この「オレンジスト」のお気に入りのスローガンはローマ教皇否定 の« no popery » で、1970年代の北アイルランドの内戦のルーツとなったという。しかしこの時にはなぜかカトリックのアイルランド共和軍(IRA)の過激さばかりが報道された。 

今回の恣意行進では、独立派の「イエス」のバッジをつけている人々を「社会主義の私生児」と罵って乱暴したりする程度だったがグラスゴーでの行進では12歳の子供の頭をビンので殴ったそうだ。

これってスコットランド独立派からすると一種の「内政干渉」というか、ひどい話である。

もちろんクリミアにおけるロシアの戦車ではない。

部族同士が戦う中東でもない。

でも、底に流れる「示威によって支配」しようとするアルカイックなメンタリティは、時代が変わっても、文明が違っても、地政学的状況が変わっても、共通しているような気がする。

まあ、それが一見平和的文明的になったと見える社会でも、「示威」行動の代わりに金権支配で実は同じようなことがまかり通っているのだけれど。

平和と経済について、日本とフランスで興味あるパラレル現象があるのに気付いたので次回はそれを紹介しよう。
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by mariastella | 2014-09-15 18:38 | フリーメイスン

スコットランド、独立どころじゃなくなった

イスラム国にアメリカ人ジャーナリスト二人に続いてイギリス人の人道支援活動者が殺害されたというニュースが入った。

日本では、私もそうだが、「ブリティッシュ」といわずに「イギリス人」という。

でも今回殺害されたのはれっきとしたスコットランド人であり、キャメロン首相はこれでスコットランド独立問題は一時停止にしててイスラム国への攻撃を優先事項にするといって国民を結集し始めた。

キャメロンにとってタイミングがよすぎではないか、といぶかるフランス人もいるが、確かに、今スコットランドが独立しても軍事、防衛をどうするかという問題がすぐに出てくるから、「テロリストとの戦い」にはUK軍の力を結集する必要がある。

それに…今の中東でのテロリストの進出は、もとはと言えば2003年の英米軍の一方的なイラクへの侵攻がきっかけになったわけだが、あの時に民主主義の十字軍気取りのブッシュ大統領を支持してUK軍の派遣を決めたのは、労働党のトニー・ブレア首相だった。 で、そのブレア首相は、エジンバラ生まれのスコットランド人だ。

もし2003年にイングランド人首相がスコットランド議員の反対を押し切ってイラク派兵を決めた、というような展開だったとしたら、「イングランドの政策のせいでスコットランド人が犠牲になった」という恨みも加わっていたかもしれないが、そうはならない。

日本人の人質の運命がどうなるのかはまだ分からないけれど、こうなったら、恨みのシンボルとして、「白人」や「アングロサクソン」の外見をもたない方がリスクは少ないかもしれない。

逆に言えば、日本人は外交でどうふるまったって、国際的に見たら外見が非白人で非アングロサクソンなのだから、それを与件として、独自な道を探究するのが得策だろうと思う。

その「見た目が違う」カードを使えないアジアの隣国との関係ではまた別の知恵が必要だろうけれど。

オバマ大統領も戦闘モードでノーベル平和賞はどこに?という感もあるが、こういう「共通の敵」への戦闘モードがどの国でも、国民を大連帯へと誘導していく様子は嫌な感じだ。

「武器を作るな、売るな」という大きな方向からはどんどん離れていくのが、手に取るようにわかる。
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by mariastella | 2014-09-14 22:36 | 雑感

スコットランドが独立したら…

ここにきてスコットランド独立投票の予想で、はじめて独立派がうわまった。

ひょっとしたら本当にスコットランドがユーナイティッド・キンダムから離脱するかもしれない。

個人的に慌てる。

なぜなら今フリーメイスンについての選書を書いているのだけれど、近代メイスンの発祥はスコットランド。典礼もスコットランド典礼が有名。

でも、一般向きの本を書くときは私は便宜上アメリカ合衆国と言わずにアメリカ、グレートブリテン連合王国とか言わずにイギリスと書いていて、今も、「プロテスタントのイギリスで」などと書いていたからだ。
スコットランドが独立するようなら全部訂正しなくてはならない。

私がフランスで一番親しい「イギリス人」はスコットランド人で、彼はもちろん私がイギリスとかイギリス人という言葉を安易に使うと必ず訂正する。

で、なにかというと、「英仏百年戦争でフランスとスコットランドは一緒にイギリスと戦ったもんね」という話になり、実際、フランス人とスコットランド人がつき合うと必ずそれが話題になり友情の証しみたいになるのだ。

で、もし本当にスコットランドがUKから離脱するとしたら、キャメロン首相の政治生命は無事ではすまないだろう。スコットランドはイギリスの新自由主義を批判して、フランス風の民主社会主義政策を望んでいるからだ。

今回の独立投票が歴史上ユニークとなるのは、民族主義、国家主義によって独立を求めて争うのでなく、その逆で、スコットランドはイギリスよりずっとヨーロッパ主義だというところだ。つまり、「イギリスの一部」であるよりも「ヨーロッパの一部」であることを望んでいる。

もし独立が実現したら、カタロニア問題をかかえるスペインも真っ青だろう。

しかし、もしスコットランドが分かれるとして、自動的にEUのメンバーと見なされるかどうかはまだ分からない。

もし独立したスコットランドがあらためてEU加盟を申請しなければならないのなら、イギリスが拒否権を発動する可能性だってある。

今まではワールドカップの代表チームを見る時くらいしかあまり考えなかったイングランドとスコットランドの間の溝の深さだが、これからの動向が注目される。
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by mariastella | 2014-09-09 00:11 | 雑感

マイク・リー『家庭の庭』Another year と 仏映画 『ナタリー』

ニュース以外にめったにTVを見ないのに、最近2本の映画を視聴した。

TVで映画を見るのが苦手な私が最後まで見てしまったので、それだけでもかなりのパワーのある映画だ。しかも、対照的なフランス映画とイギリス映画。ダヴィド・フェンキノス、ステファン・フェンキノス
出演:オドレイ・トトゥ、フランソワ・ダミアン

フランス映画はオドレイ・トトゥ主演の『ナタリー』(ダヴィド・フェンキノス、ステファン・フェンキノス)で、30代のキャリア・ウーマンのラブ・コメディ。

管理職のナタリーが、オフィスの部屋に入ってきた部下の男に突然激しくキスしてしまう。

これって男の上司だったら完全にセクハラでアウトだろうなー、いや女性上司だってこれはセクハラだろう、と思うけれど、そこはフランス映画なので、キスされたスウェーデン男はわくわくしてしまう。

この男が終始「冴えない男」として描かれていて、何であんなやつと、と皆に思われるのだけれど、そのクマさんのような彼がなかなかデリケート(原題は『デリケート』)で、少しずつ愛が育っていくという展開だ。

このヒロインが、ベージュと黒のツートンカラーの印象的な服を着ているのだけれど、それを着まわしているという普通っぽさが計算されて描かれていて、そういうディティールが丁寧なので、ちゃんと最後まで見られたのかもしれない。

オドレイ・トトゥは私の趣味ではないので心情的に寄り添えない。対して、彼女と釣り合わない「凡人」(これはウェブで見た日本語の字幕にあったのだけれど、フランス語では「醜く、無意味な男」と言われていた)の相手役のフランソワ・ダミアンの方は、ああいうあっさりとした飄々とした感じは好きなタイプなのでどこが釣り合わないのかよく分からない。セーター姿がダサいという設定なのだが、別によく似合ってると思うし。ヒロインの部下で外国人という設定が「弱者」なのかもしれないけれど、華奢なヒロインのそばの大男なので「弱者」には見えない。

でも二人がはじめて食事をして夜のパリを歩く時、男の方が

「リヒテンシュタインがアメリカと歩いている気分だ」

と言う。

ここのところは日本語の字幕とかではどうなっているのか知らないが、「スウェーデンがフランスと歩いてる」のにこういうたとえが出てくるところが面白い。体格は男の方が圧倒的にまさっているので、この比較はひたすら部下が「高嶺の花の上司」と歩いていることの比喩なのだろうけれど、この言い回しがかわいいなあ、と思った。

次に見たのがマーク・リーの『家庭の庭』で、いかにもイギリス的とはいえ、この二作を並べると、「格の違いというのはあるもんだ」、と納得する。マイク・リーはなんといっても『秘密と嘘』が強烈だった。

俳優がみなすごくて、繰り出される言葉と、それと重なったりずれたりする動作、表情、目つきなどの組み合わせが素晴らしく技巧的で、うならされる。『家庭の庭』でもそうやって、しかし一見平凡な家庭の四季を定点観測のように撮っていくのだが、絶対に飽きさせない。

これを見た後で、フランス語と日本語の批評や感想をいくつか検索してみたら、見方が国によっても人によってもばらばらなのが興味深かった。

一応の枠組みは、ある初老の夫婦(大学時代に知り合って結婚して一人息子がいる。夫は地質学者で妻は心理カウンセラー)のロンドンの家(夏にはこの裏庭でホームパーティをやる。車で行く場所に菜園を持っていて夫婦でいろいろなものを育てている)にやって来る夫の友人や妻の同僚や、夫の兄(妻を急に亡くして途方に暮れている)などが繰り広げる人間模様だ。

この夫婦の安定した二人三脚ぶりと、そこにやって来るいろいろな意味で破たんした人たちのコントラスト、希望と絶望、安定と不安定、愛と慰め、家族愛と友情などが描かれて、観客はその誰かに自分や自分の知り合いの姿を投影しながら、「それでも季節は移っていく」風な感慨を持つという構成になっている。

で、多くの日本人の目には、ロンドンに庭付き一戸建てを持っていて夫婦ともにインテリで困っている友人にはやさしいし、家庭菜園をかなり本格的にやって夫も料理するし、夫婦の仲はいいし、ホームパーティを開くし、と、この夫婦は「理想的なカップル」のように映るらしいのだ。

そして、その理想の家庭に迷惑をかける一番の困り者は、主演ともいえるレスリー・マンヴィル演じるメアリーで、結婚や恋や不倫に破綻して酒とタバコに溺れ、むやみに若作りして鬱とヒステリーと欲求不満をまき散らす。この人の演技が見ていてやりきれなくなるくらい素晴らしい。

メアリーは、いつも優しい同僚(妻のジェリー)の夫婦の寛大さに支えられながら、子供の時から知っている夫婦の息子に色目を使ったり、息子のガールフレンドに嫉妬までしたりする惨めさ醜さマックスの「イタい」中年女だ。

で、たいていの感想では、このメアリーのひどさに対して、心理カウンセラーのジェリーの対照的な落ち着きと寛容が比較されている。

人生破綻組が肥満者や喫煙者で、幸せ組が家庭菜園で育てたものを食べたり菜食主義者(息子のガールフレンド)だったりするのもカリカチュラルだ。

ところが、私の印象は最初から最後まで、こういう枠から完全にずれていた。

まず、主人公の「理想カップル」がイギリス風の労働者階級の行動パターンを引きずっているようにしか見えない。
地質学者の兄の暮らしやその息子との関係を見るだけで、彼らが親の代からのインテリやアッパーミドルでないことは明らかだ。
監督の世代や俳優の世代からしても、イメージ的には、大学で出会った2人は多分学生運動とかヒッピーとかに影響を受け、今の自然志向もその名残だ。

しかし、ヒッピーを貫くほどの根性はなく、ちゃんと学位を取って世間的に尊敬すべき職にも就いている。息子も弁護士にしている。
そこのところに一種の罪悪感もあって、自分たちは今はブルジョワだけど、スノッブではなく、土にまみれて畑仕事もできる、服装もシンプルで気取ることもなく、自分たちより一段下の不幸な人たちを暖かく受け入れている、という雰囲気がある。タバコは吸わないけれどワイングラスは離さない。

その一種の偽善というかいやらしさに嫌悪を感じたという感想も読んだけれど、誰も、ジェリー役のルース・シーン(名優だ)の怖さと醜さには触れていない。

夫のトムの方は、確かに、「上流」でも通りそうな雰囲気と体つきなのだけど、ジェリーの方は、ホラー映画みたいにキャラがたっている。性格破綻者のメアリーを熱演するレスリー・マンヴィルの方は実はむしろ古典的な美女だし、顔も体もきれいだ。だからこそその破綻ぶりがより強烈なわけだけれど、平和で愛に満ちた妻で母であるジェリーの方は、ヨードが足りない感じの強烈な顎の線、落ち窪んだ目に隈、ざんばら髪、パーティでの服やアクセサリーのチョイスまで、ただ怖い。

もちろんジェリー役とメアリー役を交換したらダイレクト過ぎてこの妙味は出ないだろう。

でも、本当は、一番存在感のあるのはジェリーをやるルース・シーンのキャラだ。ジェリーが実は残酷だ、というコメントもあったが、当たっていると思う。
ルース・シーンはどんな脇役をやっても怖い。『ファニー・ヒル禁断の扉』という映画でファニー・ヒルに話しかけるジョーンズ夫人の写真を見ても怖い。

こんなキャラでは、いつ豹変して恐ろしい面が出てくるのかと思うけれど、この映画でのジェリーは最後まで落ち着いて抑制している。

でも、はっきりいって、この「理想のカップル」は、そこに集まってくる「不幸な人々」にとっての理想のカップルで理想の家庭でしかない。

第一、このカップルは、自分たちより「上」だと思える人とは付き合わない。

息子のガール・フレンドはリハビリ療法士でちゃんと職を持っているが、母親がビューティサロンに勤めているというし、トムの兄の妻もパン屋さんか何かの店員で息子も落ちこぼれ風なので、「息子が弁護士、両親が学者とカウンセラー」というジェリーの家族が明らかに社会的に「上」なのだ。

そしてある意味「成り上がった」こういうカップルなら、逆に、自分たちと釣り合うか、より「上」のカップルと付き合おうとするケースも考えられる。その背伸びした付き合いの中でスノビズムやコンプレックスや虚栄を育てて悶々としたりするわけだ。

ところが、ジェリー夫婦はそういう「コンプレックス」をあらかじめ拒否する。

その方法が、敢えてワンランク下の人と付き合って、自分たちが彼らの「理想」を体現し、「癒しの港」のような居場所を提供するということだった。
そして、本来なら「成り上がった」自分たちに釣り合う人々との付き合いを避ける理由は、彼らのスノビズムを軽蔑しているからで、自分たちはエコロでロハスでソシアルなライフ・スタイルを「選択」しているのだ、と思いたい。

そのためには、何十年もこの家族にハラスメントを続けるメアリーのような「弱者」の存在が彼らには必要だ。

彼らと、彼らの困った「友」らの関係は、ずばり、共依存なのである。

そして、そういうスタイルを最初から最後まで構築しているのは妻のジェリーの方であり、夫のトムの方は多分あまり何も考えていない。
夫は妻の構築した共依存体制に気づいていない。

夫は天然の人で、もしジェリーが大学教授夫妻たちと付き合うとか、オペラハウスに通うとかのブルジョワ的ライフ・スタイルを選択して採用していたとしたら、多分彼はそれに従っていたと思う。そしてその中で妻がコンプレックスや嫉妬で苛立つ気持ちをちゃんと汲んでやれない。

幸い、カウンセラーでもあるジェリーは自分をよく知っていて、自分のセラピーとして、自分たちを「理想のカップル」として造形し、コンプレックスを持ってくれたり嫉妬してくれたり助けを求めたりしてくれる人々を(無意識にかもしれないが)周りに集めたというわけだ。

これはかなり当たっていると思う。

私はイギリス人との付き合いは少ないけれど、フランスにずっと住んでいて、監督やジェリー夫妻などと同年配だし、彼らと同年配のカップルをたくさん知っているからだ。

この映画ではジェリーの「幸せ」戦略が「いつまでも愛し合う夫婦プラス職があって身を固める息子」という形をとっているので、不幸なのはみんな離婚したとか独身だとか男やもめだとかの形をとる。
「やっぱり結婚して子供と持ち家があるのが幸せなのか」と勘違いしそうになるコメントが出そうなほどだ。

ところが、もちろん金や地位がある人たちでも、結婚していて社会的コンプレックスがなくても別の不幸の種はたくさんある。
子供が麻薬中毒になるなどはその典型だ。

概して自分の「家族」や「家庭」が「他人の目にどう映るか」を気にしている人々にとっては、学歴や収入の有無や多寡にかかわらず、何をどう取り繕っても、不幸や不満や嫉妬や羨望や屈辱感の種は永遠に尽きない。

そしてそこから抜けるには、そのような「他人の目に映るイメージ」にとらわれることをやめるか、ジェリーのように完璧に成功と平和のセルフ・プロデュースを続けるしかない。

けれども、そんな「他人と比較」というプレッシャーを最初からまったく持ち合わせていない天然の人も確実に存在する。
そんな人がこの映画を見たら、まったく理解できないと思う。

マイク・リーの映画の底には「女嫌い」が流れていると指摘していた人もいたが、それも無縁ではない。

だからこそ、この映画を見て何を感じるかは人によってかなり変わってくるのだ。

どんな特殊な状況のどんな特殊な悲惨や不幸を描いても普遍的な人間性を考えさせられる映画も存在する。

この映画はそこに到達できなかったということかもしれない。
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by mariastella | 2014-09-05 01:13 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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