L'art de croire             竹下節子ブログ

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トリオの公演で日本に出発します

午後に日本に出発します。

大阪の「聖家族の家」の子供用コンサートが22日、宇部での師井公二さんのインスタレーションとコラボするコンサートが子供用(童話仕立て。みんなで踊るのもあり。)と大人用(オペラ仕立て。日本語のナレーション、フランス語の朗読あり)の二つが26日のそれぞれ午後2時と6時です。

11/1の17h30が築地本願寺です。

今年2月にパリの日本文化会館で能管と能がバロック・オペラと共演したのにヒントを得ての構成です。能管の槻宅さんとは音楽と「境界領域」についてメールでお話ししては共感しています。

槻宅さんとの最初の出会いは、2007年にやはり日本文化会館で、宇高会が原爆禍を主題にした『原子雲』という新作能を上演された時に、私や、メンバーのアキム、他の友人たちが、フランス語で合唱部分にボランティアで参加した時です。(最初にパリでゆっくりお話ししたのは2011年ですが。)

2010年のハクジュホールに続いて、フランス・バロックの本質を深くつかんでいる稀有な奏者、トラヴェルソ、ヴォイス・フルートの朝倉未来良さんもジョイントしてくれます。

ナレーションは不思議なキャラの丸山有美(あみ)さん。

『ふらんす』の編集長としてもう5年以上のお付き合いですが、絶対信頼できるプロフェッショナルな有能さと、精神の軽々とした自由さのギャップがものすごく魅力的です。

場所、時間、予約先についてはここを参照してください。チラシの裏も表も見れます。

築地本願寺でお話をなさる大村英昭先生は「コルモス」(仏教の垣根を越え、キリスト教他のトップ宗教者が「宗教を考える」のもと集って60年)の理事長でいらっしゃって、死生観に関する私の話などに関心をもっていてくださる方です。

いろんなご縁がつながりあって楽しみです。

では行ってまいります。
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by mariastella | 2014-10-18 20:30 | お知らせ

ロシュディ・ゼムの『ボディビルダー』

最近ほとんど偶然のきっかけで観た映画がロシュディ・ゼムRoschdy Zemの新作『Bodybuilder』だ。

借金を返せないで不良仲間に追いかけられている若い男アントワーヌのせいで、家庭を築いている兄やクリーニング店を営んでいる母親のところにも嫌がらせがあったり暴力がふるわれたりする。兄と母はアントワーヌを、もう何年も会っていない父親のところでしばらく身を隠すように言う。

アントワーヌが3歳の時に別かれたこの父親は、ボディビルのジムを経営していて自分も何度も50-60歳のカテゴリーで賞を取り、今も2か月後のコンクールに向けて体つくりに励んでいる。

怠け者、嘘つき、泥棒の息子(Vincent Rottiersヴァンサン・ロティエ。演技がうまい)と、意志の強い禁欲的すぎる父。その対比をうまく描いていて、ボディビルという珍しい世界を紹介し、父子モノのメロドラマにも仕上がっている、まあまあよくできた映画なのだが、驚いたのは父役のYolin François Gauvin の体だ。

俳優が役によって20キロ体重を落とすとか10キロ増やすとか、過酷に外見を変えるという話はよくあるが、こういう特殊な体をつくるのは無理だから、実際の世界チャンピォンが父役を演じているのだが、うまい。うますぎる。

考えればシュワルツネガーがミスター・ユニヴァースから俳優になり政治家になったように、あれほどの意志を必要とする世界で勝ち抜いた人間は、他の分野で秀でることがあっても不思議ではないのかもしれない。

しかし私が一番驚いたのは、映画を観た後で、しばらく、その父親役の姿が目に焼き付いてしまったことだ。

いわゆるスポーツではなく外見だけが問題となるこのようなタイプの執着というものにはもともと興味があった。

依存症の一種だと思っていたが、何かもっと実存的な、精神と肉体のせめぎあいを感じる。

だから、『果てなき渇望―ボディビルに憑かれた人々』というノンフィクションにも惹かれた。

でも、ヴィジュアル的には、「気持ち悪い」と思っていたし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」というか、機能的な意味のない筋肉の発達など美しくないと思っていた。

例えば水泳選手などが肩や腕の筋肉がもりもりなのを見れば、なるほどとは思うが、それですら、そんなに特定の筋肉が特化して発達しても体に負担がかかるのではないか、要するに「不自然」なのは美しくないのではないかと思っていたのだ。

だからこの映画でも、もし画面いっぱいに筋肉ばかり見せつけられるのなら嫌だなあ、と懸念していた。

実際、すごいインパクトでたじたじとなるし、ただ筋肉を見せるコンテストなど、即物的で怖いのと非現実的でほとんどコミックなのとの両面がある。映画の中のアントワーヌもそうだけれど、あそこまですごい筋肉を前にしたら、普通の人はだれも別に劣等感をもったり憧れたりはしない。なんだか「人間のカリカチュア」を見ているようだからだ。見世物と紙一重のところにある。

それなのに、この映画を観た後に、とにかくヴィジュアルが目に焼き付いたのはなぜだろうと考えた。

何となくわかる。

それは人の意志が自分の体をまさに造り上げることがダイレクトに出ているのを見るのが初めてだったからだ。

私もダンスをするから多少筋トレをする。「当社比」にすぎないけれど、鍛えれば鍛えるほど、楽になる動きがあるし、持久力もつく。
あるいは、楽器を弾く時に、生徒にも、例えば左手の小指と薬指が独立して自由に動けるように練習の課題を与える。ピアノでは指を均等に使うが、ギターは左手の小指は駆使するけれど右手の小指は使わないので私の小指の筋力は左右にはっきりと差がある。

けれども、それは目に見えない。どんなに強くなっても、小指は親指のようにはならないし、左右とも見た目は全く同じだ。ただ、演奏するとはっきり違いが分かる。

多くの努力とはそういうもので、たゆまぬ努力を続けても、成果は直接に見えないし、成果が上がることも上がらないこともある。体力も技術も完璧の一流のアスリートでも、試合の時にミスをしたり負けたりすることがある。

それに比べて、ボディビルディングというのは、早い話、やればやるほどその「成果」がまさに目に見える形で自分の体にひとつひとつ刻印されていく。筋肉は正しく育てれば必ず増強する。裏切らない。だから、裏切られない。

過酷な修行を続けた武芸の名人が一見飄々とした「普通」の人だったり、悟りの境地に達した聖人がにこにこ穏やかで庶民的な人だったり、という外見のギャップはよくある話で、だから逆に「偽物」も見分けにくい。

でも、ボディビルディダーの「努力の量」と「見た目」は完全に相関しているので、ごまかしも聞かず、だまされもしない。

「努力」や「意志」が完全に「見た目」に反映されることのあからさまな分かりやすさ、に圧倒される。

見えないところで超人的努力をしていながら、それを表に出さずに軽々とふるまったり、謙虚にふるまう人というのはいると思う。それは立派で高潔な態度だと普通思われている。

でも、見えないところ日夜の努力の一つ一つが、リアルタイムでそのまま体に積み上げられて行って、「服を脱げばそれが全部、誰の目にも見える」というすごさ、ある意味「あられもなさ」がボディビルダーの体にはある。

依存だろうが憑かれたのだろうが、逃避だろうが、ふつうは絶対に可視化しない「鉄の意志」が可視化されているのを初めて見たから、それが目に焼き付いたのだ。迫ってきたのは「体」ではなく「意志」なのだった。

これに匹敵する意志の力での外見の変化というのは、まったく対極の例だが、拒食症患者の体かもしれない。あれも、「普通の人」が見たら、スレンダーでうらやましいというものではもちろんなくて、痛ましいのを通り越して怖い。拒食症患者はそれでももっと体を絞りたくて、死に至ることもある。
ボディビルダーもトレーニングの過剰によるアクシデントがある。ボディビルダーの方はジムもあればコーチもいるし、さまざまな筋肉増強剤というマーケットもあるから、それなりのバランスが保たれているが、拒食症は放置すると死に至る緩慢な自殺であり、医学的介入や精神的なケアが必要だ。

でもボディビルダーには「強者」のイメージがあるから、みんな後ずさりしてしまう。

年を取れば人格が顔に出る、などという話はよくある。
ボディビルダーには「顔」はほとんど関係がない。

脳が命じて体をつくる。

人の意志とがこれほどあけすけに見えてしまう現象を目にするとたじたじとなる。

もう一つは、努力による他のどんなパフォーマンスも恒常的ではなくて、例えば眠っている時には一時停止になる。思考能力でも芸術的才能でも、運動能力でもそうだ。寝ていれば発揮できない。

でも、体の形、凹凸、筋肉の量は寝ている時も変わらない。

ボディビルディングを一つのカテゴリーにすることを思いついたのはいったい誰なんだろう・・・

フランス・バロック美学に耽溺している者にとってはほぼトラウマなのに、センス・オブ・ワンダーを刺激される。
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by mariastella | 2014-10-16 01:26 | 映画

国家の里子たち  des pupilles de la nation

フランスには「国家の被後見人」という制度がある。

私のバロック・バレーの友人で被害日本大震災のチャリティーコンサートでも踊ってくれたエマニュエルも父親が空軍で戦死または事故死(?)して国家の里子認定を受けた人で、子供たちのためにバロックの「踊れる森の美女」という物語をボランティアでやっている。そのつながりのネットワークは密なようだった。

それについてのドキュメンタリー放送を見て感心した。

第一次大戦の1917年7月に戦災孤児を救うために発足した制度で、第二次大戦、植民地戦争、その他殉職警官の孤児も含み「国のために死んだ」親の孤児だという裁判所の判定により「国家の被後見人」となる。出生証明書に「国家によって養子とされた」と記入される。

子供には2年に一度外套が支給されるなど物質的援助もあるし、必要なら優先的な養子縁組も得られるし、彼らのための教育機関もある。グルノーブルの全寮制中高一貫の空軍士官学校はその後各種グランゼコールにも進める。「国家の里子>現役軍人の子弟>民間航空事故の孤児」の順で優先権があって、生徒の70%を占める(後は司法官の子供、他の奨学生など)。

日本的な感覚ですごいなあと思ったのは、例えば第二次大戦の末期のノルマンディなどでアメリカ軍の空襲の犠牲になって死んだ民間人の子供たちも皆認定されていること、ロシアからフランスに亡命してきた後で母親がアウシュビッツに送られてしまった姉妹たちなどフランス国籍を持っていなかった子供にも適用されていること、などだ。 警察官の父を失ったある少年は、カリブ海にあるフランスの海外県であるマルチニク出身の黒人の父親と旧植民地からの移民であるアルジェリア人の母を持つが「フランスの子」として保護されて「すごーくフランス人」だと感じると言っていた。旧仏領インドシナ出身の女性もフランス人家庭の養女となった。

日本にも殉職者の家族にはいろいろな保障制度があるのだろうとは思うけれど、第二次大戦による多くの戦災孤児は、もちろん日本が敗戦国で占領されていたこともあるけれど、手厚く支援されたわけではないだろう。

カトリック系の修道会が養護施設をつくったり、そこに進駐軍が寄付したり、混血孤児を世話して学校まで作ったことで有名な聖公会系のエリザベス・サンダースホームがあったりしたのは知っているけれど、「国」がどこまで手を差し伸べたのかは知らない。

ましてや旧植民地の被害者は無視されたのだろう。
軍人ですら、連合国から「戦犯」のレッテルをはられて処刑されたら、他の戦死者と合同の慰霊を忌避されかねない空気だし。

敗戦国のドイツやイタリアの戦災孤児はどうだったんだろう。

こういうところに意外に国民性の本質が見える気もするので、いつか調べてみようと思ってここに覚書しておく。
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by mariastella | 2014-10-12 23:36 | フランス

ギユンター・アンダースとプロメテウス的恥辱

フランスの環境問題で、原発削減が事実上棚上げにされたことを見て複雑な思いだ。

原発のようなリスクの大きいものは、たとえドイツやイタリアが廃止に向ったとしても、フランスや旧共産圏で古い原発が稼働している限り事故が起これば一蓮托生なのだから、これこそ少なくともEU規模で取り組むべきだと思うのだけれど。

日本の原発の問題を考えると、原爆のことがセットになって思い浮かぶ。

そもそも、原爆被爆国である日本に、例えばギュンター・アンダースのような思想家が生まれなかったのはどうしてだろう。

彼の最初の妻であるハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴して悪について考えたというのはよくわかる。
アイヒマンが、原爆を落とした飛行兵も命令を遂行しただけだと言った。

アーレントによる悪の「凡庸」化を批判する人もいたが、元夫のギュンター・アンダースは彼女を支持し、日本の被爆地も訪れ、原爆を落とした飛行兵と文通を続けた。

アーレントのようにアイヒマン裁判を傍聴した開高健はなぜトルーマンが裁かれないのかと自問したそうだが、ギュンター・アンダースのように執拗に突き詰めることはかなわなかった。

ひとつには言葉の問題があるかもしれないし、「西洋」文化圏との壁があるのかもしれない。

ギュンター・アンダースはユダヤ人でポーランド生まれのドイツ人でフランスでも暮らしたし、アメリカでも暮らしたし、またヨーロッパに戻ってオーストリア人としてウィーンで亡くなった。こういう超国境性がないと、原爆について突き詰めることはできないのかもしれない。

そしてそれはそのまま原発への問題提起の深度に関わっていく。

(あまり言いたくないけれど、ウェブで検索したら、日本ではなんと、某宗教の教祖が「公開霊言」でトルーマンがあの世で原爆投下を激白謝罪したと告げたらしい。ギュンター・アンダースのような直球は誰も投げずに、戦後半世紀以上経ってこんな言説が…と思うだけで脱力)

オリヴィエ・レイ(Olivier REY)の新刊『尺度の問題』にはギュンター・アンダースのプロメテウス的恥辱という言葉が出てくる。

元数学者の哲学者オリヴィエ・レイは1600年頃を境に、理系と文系が分かれたこと、それまで「自然哲学」と呼ばれていたものが「自然科学」へと特化して哲学や思想と分かれたことを指摘する。それ以来、「数」の問題は「理系」の分野となって、哲学や思想には取り入れられなくなった。
アリストテレスが紀元前四世紀にギリシャの都市国家について考えた時に最初に問題にしたのは適切な市民数だったのに。

いや、18世紀ごろもまだモンテスキューやルソーの考えにはある社会の構成員の数が想定されていた。

でも今は、人口4万人のアテネも7億人の有権者がいるインドにも同じ「民主主義」という言葉が使われる。

「尺度」が哲学から消えたから、テクノロジーの暴走が起こり人間や人間性が失われたのだとオリヴィエ・レイは主張する。

言い換えると比率の問題でもある。

イヴァン・イリイチもすでに、技術発展の追求が一定の線を越えると、人間の自立、自律を喪失させて本来の目的から外れると批判していた。(この人は今の教皇の元ならカトリックの神父として発言し続けていたと思う)

テクノロジーや効率主義が独り歩きすると、その恩恵にあずかるべきだった人間は、その技術を前にして誇りに思うかわりに劣等感を感じるというのがギュンター・アンダースのいう「プロメテウス的恥」だ。

それは人工物の機械が道具として完璧に創られているのに対して、人が自分は有機的に生まれた不完全な存在だと感じる劣等感でもあり、自分の想像や理解を越えたテクノロジーを前にした時の恐れと劣等感でもあるという。

ハイテク製品が壊れて修理を頼んだ人が、修理するプロの前で「何か自分が無知ゆえにバカなことをして壊したと叱責されるのではないか」と恐れてしまう感情だのだそうだ。

うーん。私はまだそこまでは劣等感に苛まれないで開き直っているけれど、今の若者のように生まれた時からハイテク機器に囲まれている人たちとは違って、確かにとまどいは大きい。

もともと、ラジオやブラウン管テレビであっても「不思議の機械」でありその仕組みが分からないというか分かろうともしなかったので、今さらデジタル弱者であることを若者やデジタル強者から嘲笑されても揶揄されても恥じるところまではいかない。

でも、私より少し前の世代にはもっとデジタル弱者の人たちがいて、その人たちとは以前はファックスをやり取りしたり手紙をやり取りしていたのに、今や、メールもサイトも見てくれない人とはお付き合いが絶えてしまったケースがあり、そのことの方に罪悪感を感じてしまう。

大切なのは、テクノロジーの発達が多くの人との連帯を可能にするのは良くても、少数の人を分断してしまうのは良くないという自覚だ。

オリヴィエ・レイのいうように生活や思考方法や哲学に「複数の尺度」を意識して使い分けながら、最終的には「人類」を視野に入れた普遍主義を目指せるかどうかなのだろう。
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by mariastella | 2014-10-11 23:22 | 雑感

『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか 』(矢部宏治)

今いろいろ取り込み中で本を読んだりブログを書いたりしている暇がないのだけれど、ついウェブで「立ち読み」してしまった『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか (矢部宏治)』(集英社インターナショナル)の最初の2章であらためていろいろなことにショックを受けた。

ここに紹介されている平井憲夫さんの手記はかなり前に読んでいて、すでにショックだったけれど、この本で明快に書かれている日本の司法システムを見ていると、今の憲法のままでは、行政の違憲性をチェックするシステムがもはやなくなっていることがよくわかる。

憲法をもう一度各種条約の高位におけるような形で改憲するような方法はあるのだろうか。

私の高校生の頃の佐世保エンタープライズ寄港事件のことを思い出してしまった。
あれはいったいなんだったんだろう、と思うと、胸がふさがる。

原子力空母のような大型船だから「目立った」だけで、軍機が自由に行き来する基地ではすでに何でもありだったのだろうなあ、と思う。

フランスでは、代理母問題をめぐって大規模デモがあったばかりで、首相が、フランスは家族や命の価値を尊重する、命の商業化はしない、みたいなことを言っている。けれど、実はこれも、国内法より高位にあると言われるEU法廷によって、ついこの前、アメリカで代理母によって生まれて連れ帰られた子供に国籍を与えるべきだと言われてフランスが折れた事件があった。本当に代理母出産を認めたくないなら控訴すべきなのに前例を作ってしまったのだから、首相の言うことは信じられないと怒る人々がいるのはもっともだ。

彼らは、フランスに来た子供は他のすべての外国人の子供を含む子供たちと同様に保護されるべきで、健康と安全と教育と、フランス国籍を取得する可能性を与えればいいのだという。

生まれて存在する子供は守るべきだが、まだ存在しない子供を、子供のためではなく自分のために「買う」ことができるシステムを認めるべきではない、と。

代理母が身ごもった子供に障害があった時に引き取りを拒否することの是非やそのための保険金のシステムもある。そのことも問題になっている。

この問題についてはここで私見を述べるつもりはないのだが、日米協定だけではなく、フランスとEUの間にもそのような問題が山積みしていることもあらためて考えさせられた。

またこの本では「外国の軍事基地があるのは独立国ではない」、とあっさり言っているが、ヨーロッパにいるとNATO軍と称していろいろな形での軍事基地があるし、敗戦国だったイタリアやドイツにはもちろん、「連合国」入りしたサウジアラビアにだって米軍基地があった。
カタールにはフランス軍基地もあるし、クリミア半島にもロシア軍基地があったわけだし、冷戦終焉や国境のない「テロリストとの戦い」のために米軍基地の編成はいろいろと変わっている。

フランスにいる方がテロリズムの脅威は大きいし、核保有国だし原子力発電大国でもあるので、日本よりましだなどとはまったく言えないのだけれど、原子力と安全保障について「自分の頭で考える」ことを封じられているかのような日本の状態は別の根源的な危うさがあるような気がする。

でもこういう本を発売前にウェブで「立ち読み」できてしまう時代はありがたい。
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by mariastella | 2014-10-07 00:37 | 雑感

築地本願寺のコンサート

11/1に築地本願寺でやるコンサートのチラシをニテティスのブログにアップしました。

そこからファイルを開いてください。

今回は大阪と宇部で子供のために創作したバロック音楽童話もやるので、このオペラの台本に沿ったコンサートと並行して、準備が大変でした。最初はラモーの没後250年で組んだプログラムを弾いていたのですが、サービス精神が高じて、どんどん楽しいものになっていきました。

でもこうやって曲を配してみると、天から降りてきたようなラモーの天才、天に上るようなミオンの神秘、身体性を揺さぶるフランス・バロックのすごさがあらためて分かって、弾くたびに感心しています。

みなさんと分かち合えればうれしいです。060.gif
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by mariastella | 2014-10-04 05:50 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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