L'art de croire             竹下節子ブログ

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悪の慣性

今年一番脅威をおぼえた出来事はやはり「イスラム国」の侵攻だ。

ある軍事勢力が勝手に他の主権国に乗り込んできて力で制圧して法を制定して税金を取り立てて「国」を名乗ってしまうようなことが今の時代に起こってしまうとは想像もしなかった。

国際法上はもちろんどこからも「国家」認定されていないわけだけれど、思えばほんの100年位前までは帝国主義国家がやりたい放題に力で国境線を描き変えていたのだということを今更ながら思い出す。

中東問題の専門家がラジオで語っていたけれど、イスラム過激派を名乗るテロリズムはわずか10数年でアルカイダ・モデルがイスラム国モデルに取って代わられた。

アルカイダ・モデルは、上意下達で、たとえばビン・ラディンがテロの標的を決めて通達し、航空券を支給するなど、ある意味で欧米の諜報組織の鏡のような組織だったので、比較的追跡しやすかったという。
クラシックな秘密組織のネットワークだったからだ。

けれどもそのような「上意下達」のモデルと違って「イスラム国」は、facebook、 twitter、 youtubeなどを駆使して水平に顕在しながら情報を拡散して勧誘、洗脳するシステムになっている。
完全にポスト・モダン的であり、近代の「秘密」カルチャーよりは顔が見える分特定しやすいのだけれど、これまでの「秘密組織が秘密組織を追跡する」というノウハウが役に立たなくなっている。

しかもそういうヴァーチャルなプロパガンダと実際に支配するテリトリーを創ってしまうという実効が両立している。

思えば2011年初頭から広がった「アラブの春」もそういうヴァーチャルなネットワークが政教分離や表現の自由、グローバリゼーションを訴えて新しい世代を動員して展開したものだった。

それなのに、今、何とかその成果をとどめているのはチュニジアくらいなもので、エジプトの「革命」をになった人の多くは獄中にある始末だ。シリア、イラク、リビア、イエメンなど、暴力的状況は深刻になるばかりだ。

なぜだろう。

「自由・平等・共生」の普遍主義の運動は、せっかく新しい情報ツールによって広がったというのに、それに見合った「新しい国家」を組織する力はなかった。

イスラム国のような恐怖支配の原理主義テロリストの疑似国家はあれよあれよという間に組織されたのに。

これは今の新自由主義経済の貧富の差の拡大と同じで、一種の「覇権主義」の方が、重力の助けを得て弾みがつくからなのかもしれない。

「悪貨は良貨を駆逐する」というやつで、「悪」の方が「重い」のだ。

ここでの「悪」とは、ある種の人間、そのグループが、他の人間や他のグループの生殺与奪の権を持つという意味だ。すべての人がそれぞれ与えられた命や環境を安全に全うするという自然権を、「強い者」が力で侵すことだと言ってもいい。

それに対して、弱い者、貧しい者、搾取されていた者、差別されていた者らが連帯して立ち上がるとか、「自然権」の回復を求めるとかの運動は、「悪の慣性」に押し戻される。

しかも、最初は弱者のために戦っていたはずの人間がいったん権力を持つと既得権を守ったり拡大したりして他者の権利を侵害する側に回ってしまうように、この「悪の慣性」はフラクタルのように再生する。

「弱者を守る」という「強さ」は、その慣性に抵抗するために、「弱者を踏みつぶす」という強さよりもさらに強くなければ維持できない。

善く生きることは悪く生きることよりも難しい。

怠惰や利便や飽食を断って「生活習慣病」から抜け出すことすら難しいのだ。

いや、善く生きたり悪く生きたりという選択の余地さえない状況の人だっている。

鬱のどん底にいる人は浮き上がる気力もなければ意志すらない。自然権を完全に奪われている人や、痛みや恐怖によって支配されている人もそうだ。

それを思うと、まだそこまで追い込まれていない幸運な人は、やはり困難に立ち向かう義務があるような気がする。

と、これは自分に言い聞かせているのだけれど。

「イスラム国」の恐怖支配も、それに対する欧米の力の制裁も、安易な「生活慣性」に流される自分と完全に無縁なものなどとは、とても、思えない。
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by mariastella | 2014-12-31 00:17 | 雑感

寒波とホームレス

年の瀬。

急に冷え込んでいる。

田中龍作ジャーナルで渋谷区が野宿者を公園から締め出したという記事を見てショックを受けた。

私はフランスに住んでいて比較文化的なことを書いているから、ときとして「おフランス礼賛」トーンになるのではないかと誤解されるのだけれど、「フランス文化人」は中華思想でなく自虐好きだし、私も別にフランスが全体的に日本よりましだと思っているわけではない。

でも、ホームレス対応の差にはショックだ。

フランスでもともとの例えばカトリック修道会系の福祉事業の発達しているのは別としても、少なくとも、1954年の厳寒のパリでアベ・ピエールが発した連帯の呼びかけはいまだに有効で、政権が代わっても、これだけはアイデンティティになっている部分がある。

今年も寒波が来て以来、パリ市内の体育館が3週間単位でローテーションを組んでホームレスに簡易ベッドを並べ、暖かい食事や医療を提供し始めた。日本で公立の体育館が避難所になるというと台風や地震などの災害の場合だけの印象があるけれど、この季節のパリのホームレス避難所として体育館は大活躍だ。受け入れは男女別または家族用になっている。

パリ市のいくつかの区役所(1,3,4,11,15区など)もホームレス収容の場所を提供しているし、ホームレスでなくても一般の生活困窮者のために暖かい食事を提供する場所はたくさん稼働している。

SOSの無料の115番というのがあって、休みなしの24時間対応のそこに電話すると、心理的、身体的、社会的困難に応じてしかるべき場所に誘導してくれる。

昔は夜露だけをしのぐ場所の提供が多かったが、今は昼間も残れる避難所が増え、20くらいのNPOが七つの食堂で1000人以上分の夕食を炊き出している。

パリ市社会活動センター(CASVP)では現役を引退したボランティアの医師が無料診察を常時引き受けている。
単に寝食を提供するだけでなく社会復帰のオリエンテーションや心理セラピストによるケアもある。

それでも社会格差は進み失業者やホームレスの数は増え続けているのだけれども、少なくともそれが「公的な問題である」という意識はある。

プロテスタント国ほどには個人による寄付文化は発達していないのだけれど、その代わり、たとえ財政赤字があってもともかく「国や公共団体が対応すべきだ」というコンセンサスがあるのだ。

フランスというと、出生率が回復して久しいので、今や半数以上に上る婚外子の権利保護はもちろん女性が子供を産み育てやすい環境整備や公的な援助の充実などばかりが「お手本」のように日本でも話題になるけれど、妊婦や乳幼児、乳幼児を育てる人という「社会的」な競争力や戦力のない弱者を守る政策と失業や心身の故障や老いなどで安全な生活基盤を失う弱者を守る政策は本来同じルーツを持っているものだと思う。

ホームレスの炊き出しが行われていた公園を次々と閉鎖するようなメンタリティで「女性が輝く社会」だとか「少子化に歯止めを」だとか言っても効果がないのは自明ではないだろうか。
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by mariastella | 2014-12-30 03:27 | フランス

『シェルブールの雨傘』

9月に4日間だけシャトレー座でやった『シェルブールの雨傘』劇場版がテレビで放映された。

3月ごろまでネットでも視聴できるのでリンクを貼っておく。

『シェルブールの雨傘』といえば、少女時代に字幕付きで何度か見たので、フランス語は聞いていたはずだったが、脳内では日本語の言語野にストックされていたらしく、最初にフランス語が聞こえてきたとき、なぜか、日本語ものがフランス語に訳されているような妙な感じがした。

しかしストーリーが進むにつれて、映画のあのシーンこのシーンが想起されて二重写しになる。

多くの日本人にとって、フランスでは1月6日に食べる「王のガレット」というパイがあって、仕込まれた陶器片が当たった人は冠をかぶるという習慣を初めて知ることになる映画でもあった。蒼白のカトリーヌ・ドヌーヴの金髪に金色の冠が置かれるのが印象的だった。

今度の舞台でもちゃんと再現されていた。

ところが、もっぱらそういうノスタルジックな鑑賞になるかと思っていたのだけれど、すぐに、本格的に引き込まれた。

今思うと、舞台となる1950年代終わりのフランスでは、婚外子が半数を超える今なら未婚の娘が妊娠してもスキャンダルにもならないけれど、即パニックで世間体が問題になっていたこと、68年5月革命を経て1970年代半ばにやっと妊娠中絶が合法化したこと、50年代終わりはフランスがアルジェリアで最後の植民地戦争をしていたこと、徴兵制が完全に廃止されたのは21世紀に入ってからのこと、などと、確かに隔世の感がある。

母一人娘一人の母子家庭で17歳の娘ジュヌヴィエーヴが恋をし、恋人が兵役でアルジェリアに発った後に妊娠が発覚し、戦況が悪い中、無事に帰ると確信できない恋人を待てずに、母の経済的苦境をも救ってくれる富裕な宝石商と結婚する。

最後はクリスマス前の夜に、幼女を連れたジュヌヴィエーヴがやはり男の子の父となっている元恋人のガソリンスタンドに立ち寄る、というストーリーも、まあよくある話の部類で、取り立ててドラマティックなものではない。

それなのに、登場人物の演技力が半端なものではない。

ヒロインはなんと、ジュヌヴィエーヴと同じ年、17歳のマリー・オペールで、前に『サウンド・オブ・ミュージック』の子役をやった時に見たことがあるのだが、とにかく理想のジュヌヴィエーヴ役だった。ノスタルジーがふっとぶほど胸に迫るリアリティがある。

母親役が、フランスの誇るオペラ歌手ナタリー・ドゥセというのは評判になっていた。
彼女にこの程度のミュージカルではもったいないのではないか、と思っていたが、すごい演技力で、この母親の人生、時代の背景、娘への愛と葛藤など、完璧に表現されている。

この母親の陰影に富んだ堅固な存在感があるからこそジュヌヴィエーヴの無邪気さ、はかなさ、ひたむきさ、弱さなどが引き立つ。

恋人のギイ役のヴァンサン・ニクロだけが、姿も歌も演技もいいのだが、アラフォーとなった今は、さすがに実際の17歳のマリー・オペールの傍に立つとやけに老けて見える。

そして何よりぜいたくなのは、作曲者のミシェル・ルグランと、モノクロで描いたイラストで効果的な舞台装置を造ってしまったイラストレーターのサンペ(今もバリバリの現役だ)という82歳のコンビがこの若者たちの悲恋物語を支えていることだ。

あの有名なシェルブールの雨傘のテーマがオーケストレーションされてさまざまなシーンで様々なニュアンスでたっぷりながれ、ジャズのスィングが効果的にはさまれ、それらをミシェル・ルグランが楽しそうに指揮していた。

最後に客席にいたサンペにも盛大な拍手が送られた。

この人たちの感性のみずみずしさには脱帽する。
ミシェル・ルグランは、もう30年以上前のセザール賞の授賞式で、舞台でピアノの即興演奏をしたことがすごく印象に残っている。

このミシェル・ルグランは9月シャトレー座での4日間の公演の2日後に、モナコで、40年前から付き合いのあるマーシャ・メリルと結婚したそうだ。

マーシャ・メリルはロシア革命で亡命したウクライナ貴族の末裔で、昨年だったか、プーチンの申し出たロシアパスポートをきっぱり拒絶している。

もちろん結婚歴も離婚歴もある2人だが、モナコで結婚した2日後、パリの聖アレクサンドル・ネフスキー・カテドラルでロシア正教の結婚式を挙げている。

若々しい。
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by mariastella | 2014-12-21 21:01 | 演劇

キューバのニュースを聞いて思う--エドゥアルド・マネの言葉

51年ぶりにアメリカとキューバがついに歩み寄る、というニュース。

「キューバ危機の時はオバマ大統領はまだゆりかごの中にいた」という言葉に時の流れを思う。

アメリカによる経済封鎖は国連によって23回も非難されているのだから(イスラエルのパレスティナ政策と同様)、いかに国連に力がないかという証明みたいな年月だったが、フィデル・カストロが本格的に年をとったこともあって新しい時代が来そうだ。

キューバというとカストロにゲバラ、と革命の勝利、というイメージが昔はあったのに、いつのまにか、今時の一党独裁、インターネットの接続が5%以下、言論統制、のようなカストロ独裁の悪者国家のような刷り込みができてしまった。

マイケル・ムーアの映画のように、その一党独裁の社会主義国家ならではの医療の充実と無償性を知らしめる情報もあり、実際キューバの医師団が世界中に派遣されて活躍していることは知られているし、サルサなどラテンダンスの明るいイメージも少しあるが、アメリカのプロパガンダのせいでネガティヴな方が大きかった。

私は藤永茂さんのブログの愛読者なので、アメリカのひどさも刷り込まれているのだが、公平に見ると、アメリカの「弱い者いじめ」的な経済封鎖のおかげで、キューバ自身も、政策上のすべての不都合をこれまで「経済封鎖のせい」、「悪の根源アメリカ」に帰することができてきた、という面もある。

今朝のラジオで、ラウル・カストロと同級生だったキューバ出身のフランス作家で映画監督でもあるエドゥアルド・マネ(Eduardo Manet)が話しているのを聞いた。

彼は68年に完全にキューバと決別し、フランスに半世紀近くいてフランス人になっているのだが、

「私はキューバを離れたが、キューバは私から離れない」

と言っていた。

「フランスは私の愛(アムール)でありキューバは私の十字架である」

とも。

こういう時、

共産主義革命に親和性の高かった68年5月革命のフランスに本格的に同化(その前からフランスで活動していたらしいが)したこと、

スペイン語とフランス語のラテン系の言語の近さ、

カトリックのルーツ

なども大いに関係しているだろう。

「私はキューバを離れたが、キューバは私から離れない」

という言葉は、なんだか「無神論者」の言葉のようでもある。

社会主義国家キューバもキリスト教を離れようとしたが、カトリック的心性はキューバを離れなかった、

とか、

ある人が「神の代理人」としての教会権威からは離れても、自分の心の中に宿る「聖なるもの」は出て行ってくれない、

というような。

ロシアの経済封鎖はどうなるのだろう。

ロシアはヨーロッパ依存を捨てて中国、インド、メキシコなどとの経済関係を深めようとしているので、最終的にはグローバル化がもっと進む世の中になるのかもしれないが、世界が理念なしの「功利主義」という一党独裁のようになってしまうような気がする。

金権政治による文字通りの「金」縛りの封鎖から世界が解き放たれる日は来るのだろうか。

それともいつか来るのはこのようなシステムのグローバルな破綻や崩壊なのだろうか。
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by mariastella | 2014-12-18 18:52 | 雑感

市役所葬儀の法案

市民葬という法案がついに出てきた。

フランスは、「政教分離のチャンピオン」と自認している国だ。

それはただ、国が特定宗教に肩入れしないなどというものではなく、フランス革命まで国民の冠婚葬祭から教育、福祉までの生活すべてを仕切っていたカトリック教会のやっていたことをすべて国や市役所がする、ということと同義だった。

子供に代父、代母を登録する洗礼も、頼めば市役所で無料で市民洗礼をやってくれる。

教会での結婚式に代わって、すべての市役所には結婚式ホールがあって、市長や助役が結婚式を司式する。指輪交換も誓いの言葉もある。

その結婚証明書をもっていけば教会ではまた別に教会の結婚式を挙げることが出来るが逆のことはできない。

教育や医療などの多くが無料に近いことも社会活動型修道会のやってきたことを踏襲しているからだ。

ところが、葬儀だけはこのシステムが機能していなかった。

もちろん金のない人も公的共同墓地に葬られることはできても、葬儀というセレモニー自体は各自が各自の宗教、または無宗教で行わねばならない。

その点は、金がなくても、小教区の信者として教会に出入りしていれば、ちゃんと葬儀ミサをしてもらえる。そのせいか年取ってから突然教会に戻る人もいる。

ペール・ラシェーズのような公営墓地には、キリスト教のチャペル風ではあるが十字架などのシンボルがなくて、どんな宗教のセレモニーでもできるようになっている建物がある。無宗教葬儀をオーガナイズしてもいいし、仏教の僧侶を呼んできてお経をとなえてもらってもいい。

それが今回の法案では各市役所に葬儀用ホール(結婚式ホールを兼用してもいいらしい)を設け、市長などしかるべき人物が無宗教で葬儀を司式するようにできることになっている。結婚式と同様、無料である。

今はフランスでも友達葬だとか無宗教の葬儀をやる人も少なくないが、そのためには誰かが金を払ってオーガナイズしなくてはならない。

日本でも今は斎場があって、どこの宗派のお坊さんでも呼んでくれるわけだけれど、もちろんサービスは有料だ。

結婚式を見てみよう。

日本では結婚届にしかるべきハンコを押して市役所の窓口に届けるのが「籍を入れる」という正式の手続きで、後のセレモニーは、すべて個人がオーガナイズするものだ。

「結婚式」でさえ、仏式、神式、信者でなくともチャペルでなどほぼコスプレに近いような演出でもOKであり、法律とは関係がない。

法律的に籍を入れていなくとも「結婚式」で誓いの言葉をかわすのも自由だ。

披露宴となるとなおさら、社会的なパフォーマンスであって、消費主義経済の中では莫大な金がかかることも少なくない。

そういう「金のかかる結婚式」と「市役所の窓口に書類を提出」との差はあまりにも大きい。

フランスなら、一銭も使わずに、市役所で一番立派な結婚式ホールで、友人や親戚にたくさん出席してもらって「式」を挙げてもらうことが可能なのだ。

そう、冠婚葬祭という人生の節目はどんな共同体でも通過儀礼の一種だから、人は「お披露目」としての何等かのセレモニーを必要とするのだろう。

「結婚」には、二人の成人が家庭をつくって共同生活をするというコンセンサスがあるけれど、死んだ人を「送り出す」とか残された人を慰めるというセレモニーの方は宗教によって違う「死後の世界」の考え方によって微妙に変わるから、今まで国が介入しなかったのだ。

でも、無料、無宗教の「市役所葬儀」法案を導入するというのは、フランス風政教分離のロジックの帰結点であり、考えれば当然のことだと思う。今までなかったのが不思議なくらいだ。

まあ、誕生や結婚は心の準備をする暇があるけれど、「死」というのは時として突然訪れるし、残された者のショックが大きくて、とりあえず宗教にすがって伝統的にやる、というリアクションがほとんどだったので、市役所には「死亡届」だけですましていたのだろう。

でもこの法案が通ったら、結婚と同じようにまず市役所での葬儀セレモニーを済ませなくては教会の葬儀もできないのだろうか。それとも「オプション」としてあるのだろうか。まだまだこれから検討されるのかもしれない。

まあ個人的には自分自身の亡き骸など、密葬でも直葬でも何でもいいと思うし、簡単なものほどいい。

でも、「残される側」としては、飼い猫が死んでも、写真を飾って、花を飾って、蝋燭を灯して在りし日を偲び、どうか安らかにと祈る、というプチセレモニーなしには次の一歩が踏み出せない。

人間的な、とても人間的な「喪」というものをどのように「自由・平等・兄弟愛」の共和国理念に取り入れるのか、注目したい法案だ。
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by mariastella | 2014-12-17 00:58 | フランス

フランスのラジオで聞いた日本の総選挙の結果についてのコメント

今朝のラジオのニュースで日本の衆院総選挙の結果が報道されていた。

日本の経済が(株価と輸出大企業の業績をのぞいて)、GDPが落ち込み、財政赤字率ばかり上がる深刻な状況なのになぜ国民は同じ政党を信任したのか、パラドクサルだと言っていた。

その解説として、日本人は苦境に陥ると、為政者を批判するどころか一致団結して戦士のようにがんばるからだと言う。
なんだか東日本大震災の後の助け合いを称賛した時のような言い方で皮肉にも感じる。

無論私は多くの人のように、共産党前議長不破哲三の京都での演説をネットで見ていたから

(こんな84歳になりたいなあ、とこれも多分多くの人が思ったことを思ったのだけれど)、
不破さんが心配していたように阿部首相が勝利したら日本はネオナチとして世界中から叩かれ切り捨てられる、みたいな感じはなかった。

ちょっとほっとする。

もっとも、今回の選挙の争点となると不都合な集団的自衛権や原発の再稼働、特定秘密保護法を阿部首相は経済政策だけで包み隠してしまっていたので、外野の「欧米」もネオナチがどうだとか考えもつかなかったに違いない。

オーストリアやハンガリーの例でも分かるが、たとえ選挙で「民主的に選ばれた」としてもそれがそのまま「正しさ」や「正義」を意味するものではないということこそ、ヨーロッパはナチスの台頭の時に学んだので、阿部首相がすでに「ネオナチ」認定されていたら選挙で勝っても勝たなくてもとっくに叩かれていただろう。

もちろん、構造改革をしないということで自分たちはドイツに散々叩かれているフランスなので、フランスの一歩前を行くデフレでマイナス成長の日本がどうやって経済を立て直すかということの方がそもそも注目されているわけだ。

ヨーロッパ経済を単独で牽引しているかのように鼻息の荒いドイツでは、2030年にはドイツが世界一の経済大国になっているなどと大言壮語する人までいるらしいのだが、ドイツは改革する時に、そもそも国民の利益よりも国家の利益を優先する国なのだ、とフランス人は言う。そして移民問題、格差問題、少子化問題もあるのだから、むしろ2030年には破綻しているのではないかと。

「経済成長」を前提に次の世代を養うという社会のシステム自体がうまく行かなくなっているのだから、やはりポスト経済成長のシステムを考えるしか解決はないように思う。

けれども、自分たちの既得権益を失いたくない、という目先の保身や損得がはっきりしている人の方が選挙に出かけることが多いのが現実なのかもしれない。

もっと不満をもってもいいはずの人々の多くも「この道しかない」トークに何となくだまされているのだろう。

少なくともフランスのラジオが想像させるように、「未曽有の経済危機に瀕した国民が一致団結して」今回の選択をしたわけではなさそうだ。

剣聖宮本武蔵の「観と見」という二種類の目の使い方のことをこの頃考える。

近くを遠くに見、遠くを近くに見るという話だ。

間違ってはいけない。誤解するとまるで逆のことになる。

まだ先のことで本質的に予測不可能なことなのに、できる範囲の準備を越えていわゆる「取り越し苦労」をして、現在の可能性を小さくして消耗してしまうのは「遠くを近くに見る」とは言わない。
遠くのものを近くに引き寄せるのではなく、自分が「今ここ」の利害をいったん離れて遠くの方に近寄るということだ。

たとえば、今の便利さや快適さや経済性の基準からいったん離れて、環境問題だとか、原発廃炉の問題だとかを、次世代の視点に立って考えて今の生き方を修正するということだろう。

もうひとつの「近くを遠くに見る」というのも、今ここで解決しなくてはならない問題を不都合だからということで見ないようにして先送りするという話ではない。

目前に迫っているので対応に冷静さを失いそうな問題を前にした時に、敢えて一歩下がって距離を置き、客観的に見るということなのだろう。

そういうものの見方をしているかを常に自分でチェックしたいと思う。
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by mariastella | 2014-12-16 03:34 | 雑感

星の王子さまはイエス ? サン・テグジュペリの福音書

Pierre Lassus の『La sagesse du Petit Prince(星の王子さまの智慧)』を読んで驚いた。

イラスト入りの本では世界で最も読まれている本だとも言われる『星の王子さま』(今は全編がWEBで見ることができる)を、子供の心理療法家ピエール・ラシュが分析した本だ。

著者は、4歳で父親を亡くし母親に溺愛されて育ったサン・テグジュペリが、6歳の時に好きな絵をあきらめ、パイロットになったのに何度も事故を起こし、怪我もして、普通ならもう無理なのにコネを使って自由フランス軍のパイロットになり、最終的には飛行機で遭難するという経歴から、子供時代のトラウマと星の王子さまの関係を探ろうとする。
けれども、星の王子さまの誕生の秘密には触れた気がしても、それが大ヒットした理由は納得できない。

で、プロテスタント出身の著者は、聖書と照合し始めて、星の王子さまから、旧約と新約の中で問われていることについてのメッセージを受け取るのだ。

荒れ野(砂漠と荒野はフランス語で同じ言葉)で(神の)「声」を聞く。

天から降りてきた子供が、荒野で遭難した大人の心を開く。

「羊を描いて」、というメッセージ。(羊はユダヤ神殿の捧げもので子羊はイエスのシンボル)

心の目で見ることができて大人よりも智慧のある子供。(神殿で学者を論破する少年イエス。または子供たちが先に天の国に行くというイエスのメッセージ)

いつも風にたなびいているように見える金色の襟巻は天使の翼 ?

すべての星は、渇いた者を潤す井戸。

「王子さま」とは「王」の息子。イエスは父なる神の息子。「子なる神」である。

話のラストで星の王子さまは蛇(アダムとイヴに原罪を与えた悪魔)に噛まれて命を落とすが、砂に倒れたはずのその体は翌朝消えていた。

「ぼくは死んだみたいに見えるかもしれないけれど、違うんだ。」と言っていたように、

王子さまは自分の星に帰ったのだ。(イエスの死、復活、昇天)

でも、星の王子さまはいつかまた、そっと誰かのそばに現れるかもしれない。(再臨)

それまで、満点の星に花が咲き開いているのかを見よう。星たちが笑っていれば、一緒に笑おう。

で、実際サハラ砂漠で遭難してトゥアレグ族に命を助けられた体験のあるサン・テグジュペリは、その後も、飛行機に乗り続けた。

少しでも星に近づくために、

星の王子さまの星が笑っているのを見るために。


うーん、こう言われると、、確かに、キリスト教文化圏の人にとってはスピリチュアルなサブリミナル・メッセージ満載だ。

著者はサン・テグジュペリ自身がそれを意識したのではなくて、無意識のものだっただろうと言う(サン・テグジュペリはイエズス会やマリア会系の学校の寮に入っていたのでカトリックの教養があったことは間違いない)。

だから、キリスト教文化圏でヒットしたのは大いに理解できる。

でも、たとえば日本のような非キリスト教文化圏でもこれほどの人気を博している理由はなんだろう。
それとも「聖書」のメッセージが日本人にもサブリミナルに届いているのだろうか。
だとしたら、「星の王子さま」は福音書のすぐれたヴァリエーションなのかもしれない。

今はクリスマス前の「降誕節」の時期だけれど、天の星のお告げのもとに生まれてくる赤ん坊がいて、その赤ん坊が、後に、荒野の真ん中で絶望して進めなくなった大人のもとに現れ、心をいやしてくれた後で天に戻っていつまでも「きらきら」笑っている、という結末まで視野に入れたら、イメージが変わってくる。

その光をキャッチするには空を眺めなくてはならない。

そして、星の王子さまは、私たちが星といっしょに「きらきら」笑うことを、望んでいる。
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by mariastella | 2014-12-12 00:19 |

『奇跡の人 マリーとマルグリット』(Marie Heurtin マリー・ウルタン)

映画館に行っては絶対見ない映画を機内でいろいろ見てフランスに戻った後、絶対に行きたかった映画を観に行った。

Jean-Pierre Améris ジャン=ピエール・アメリス監督、Isabelle Carréイザベル・カレ主演の『Marie Heurtin マリー・ウルタン』だ。

19世紀末のフランスで、一人の修道女シスター・マルグリットが、修道院経営のラルネイ聾盲学校で、マリー・ウルタン(1885-1921)という生まれながらの盲目聾唖の少女に手話を教えて言葉の世界を与えた実話に基づいた映画だ。

「三重苦」で「野生状態」にある少女を組み伏せながら絶対にあきらめずに、「モノには名前がある」ことを教えることに成功するというテーマはもちろん、ヘレン・ケラーとサリバン先生を思い出させる。

アーサー・ペンの『奇跡の人』(The Miracle Worker)は、私が子供時代に見た映画の中で最も強烈な印象を残したものだった。

アン・バンクロフトやパティ・デュークの演技が壮絶で、今思うと主役はサリバン先生で、全盲聾唖という三重苦の少女に言葉の世界を開いたという奇跡の教育者なわけだが、映画を見た時の年齢がパティ・デュークの方に近かったせいか、「偉人ヘレン・ケラー」というビッグ・ネームのせいか、なんだか、「奇跡の人」とは「奇跡を起こした先生」ではなく「奇跡が起こったヘレン・ケラー」のような感じがしていた。

(追記:誰でもそう思うのか、2015年の日本での公開タイトルは『奇跡の人 マリーとマルグリット』だそうで、2人とも「奇跡」の人というわけだ)


ヘレン・ケラーよりも前の時代に、病気の後遺症ではなく生まれながらのハンディという、より難しそうなケースの教育成功例が先にあったのだと初めて知った。
しかもヘレン・ケラーは家庭教師を雇える家庭の子供だったが、マリー・ウルタンは貧しい村の貧しい家庭の娘で、そのままでは社会から捨てられる精神病院に隔離される将来しかなかったのに、使命感にあふれたシスターに修道院から迎えに来てもらって救われた。

自宅内で家庭教師を迎えることができたヘレン・ケラーと違ってマリーは無理やり環境を変えさせられたわけで、パニックの期間があり最初はむしろ退行したのだけれど、シスターの忍耐により(というより、少なくとも映画では、結核で自分も命が長くないと自覚しているシスターの執念に支えられた「共依存」の坩堝の中で)、共同体生活を送ることができるようになり、さらに言葉も獲得する。

「神が言葉となった」という命題は、神が受肉し人間として語ったキリスト教ならではのもので、マリー・ウルタンが真に人間となるには「言葉」を得る奇跡が必要だったわけである。

日本のような社会では19世紀末に全盲全聾に生まれた子供はいったいどう扱われていたのだろう。

今なら、精密検査もできるし補聴器類も発達しているから全盲全聾のまま10代になる子供というのは少ないのかもしれないが、19 世紀末にはそう珍しくもなかったのかもしれない。実際、マリーの後にも同じような少女が修道院に連れて来られて、マリーもその教育に力を貸したという。そしてその子供たちは必ずしもマリーやヘレン・ケラーのような「野生の少女」ではなく、おとなしいケースもあったらしい。

むしろ、マリーやヘレン・ケラーは、元の知能が高いのに言語が与えられず、そのフラストレーションで暴れまくっていたのかもしれない。こういう場合は、社会の不適格者として隔離されるか、マリーやヘレン・ケラーのようにいい教育者にめぐりあって運よく言葉を与えられると、すばらしい言語能力を発するかのどちらかに明暗が分かれたのだろう。

音も光もない世界に生きながらおとなしく扱いやすい子供たちというのは、その障害と知力の低さが連動しているのかもしれない。

ともかく、モノと手話を対応させるメソードはこのシスター・マルグリットが考案したものだと言われている。ラルネイの聾盲学校は今でも若い視覚障害者や聴覚障害者の教育を続けているそうだ。

この映画には『奇跡の人』に酷似しているシーンがいろいろあるのだけれど、それもそのはずで監督はヘレン・ケラーのファンだが、ヘレン・ケラーを題材にする権利を買うのは高くてあきらめてフランスの例に行き当たったということだ。

ヘレン・ケラーとサリバン先生がいわば密室での二人だけの戦いだったのに、この映画では、他にも聾唖のシスターたちがいて、聾唖の子供たちがいて、シスター・マルグリットも修道院長に従うヒエラルキーがあって、共同生活があって、しかも自分の病気まである。彼女にとってマリーは生命と(言葉を得ることによる)創造と復活の象徴ともなった。だから彼女は「共依存」状態から抜け出せないのだけれど、若いマリーの方がシスターの運命と別れを受け入れて真に新しい出発をする。

シスター役のイザベル・カレはもともと演技派の女優で、迫真の演技だが、マリー役のAriana Rivoire(アリアナ・リヴォワール)がすごい。

彼女は撮影当時18歳の真正の聾唖者で、この映画のために監督が全寮制の聾学校で見出した新人だ。撮影には手話通訳が常時2人ついたという。

パティ・デュークも映画撮影の時16歳で天才少女俳優と言われたけれど、アリアナはまさにそのまま「奇跡の人」だ。

そんな経緯もあって、この映画には、セリフだけではなく音の解説(鳥のさえずり、とか、メランコリックなチェロ音楽とか苦しい息といったもの)までが字幕で出てくる。

映画館には実際、聴覚障害者のグループも、身体障碍の少女なども来ていた。

映画にはチェロの音色がよく似合っていた。
チェロが人の声に近いというのがよくわかる。
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by mariastella | 2014-12-11 00:43 | 映画

オランド大統領がプーチン大統領と会ったこと

12月6 日、フランスのオランド大統領がカザキフスタンを訪問した後1時間ほど足を延ばしてモスクワに行き、空港でプーチン大統領と会談した。

プーチンと会談するためにカザキフスタン訪問をアレンジしたのではないかと誰もが思っている。

8カ月で4300人以上の死者を出したウクライナ危機が始まって以来、モスクワでプーチンと会った「欧米」唯一の元首だ。すごい。

グルジア危機の時にサルコジ大統領も颯爽と出かけて最悪の事態を回避したことがある。
サルコジはリビアに攻め込んだし、オランダもマリに兵を出したし、フランス大統領が「アフリカの警察」さながらに軍隊を派遣するのは苦々しい限りで、近頃はオランドの顔を見るのもうんざりしていたのだが、今回のスタンドプレーには感心した。

フランスは経済システムの「自新由主義的な改革(規制緩和というやつだ)」が遅れていると、ユーロ圏の優等生ドイツのメルケル首相から近頃名指しで糾弾されている。

そのメルケル首相は旧共産圏の東ドイツ出身だからかロシア語がしゃべれて、プーチン大統領もドイツ語が話せる。で、二人は直接会話ができて、ドイツとロシアの経済関係も緊密だったし、政治的にもけっこう歩調を合わせていた。そのメルケル首相もウクライナ問題では、オバマ大統領に同調してロシア糾弾で硬化したままだ。

そんな時に、オランドが、軍艦売りたさ(ロシアから発注されたミストラルの配達を現在ストップしている)の一心かもしれないが、アメリカとドイツを尻目に堂々とプーチンを呼び出して会談してしまった。

日本の首相なら考えられない。

うーん、こういう時、フランスが第二次大戦の時に米ソと共にちゃっかり「連合軍」側としてドイツに勝利したという歴史が関係してくるのかなあ、と思う。

オランドは、(ベルリンの壁のような)壁が我々を隔てるのは避けなくてはならない、障害を乗り越えて解決をみつけるべきだ、解決を共に見つけよう、きっかけをつかむ時期はあるものだ、と言い、プーチンも「我々の会談はポジティヴな結果を生むと信じる」と答えたらしい。

なんにしろ、あらゆる紛争には、示威行為や軍事衝突の前に「話し合い」があるべきで、こういうことをできてしまうフランスのような国があって、経済成長だとか何とかいうのとは別の次元でそれを許してしまう複合的なヨーロッパのような地域があってよかったと思う。

ヨーロッパはいろいろな意味で満身創痍でもあり、そんな折、ヨーロッパ議会の議長マルティン・シュルツ(カトリック系リセで学んだドイツ人)が、ローマに行ってフランシスコ教皇にヨーロッパ議会で話してくれ、と頼みに行った。

教皇は11/25にストラスブールで演説し、人々は市民であり経済主体であるだけでなく超越的尊厳を持つ人格であるということがヨーロッパの根幹にある、を強調した。その「人格」としての人々が社会の中で権利と義務と共通善のもとに結びついているのだ、と言い、出席者に賛同された。

この教皇はアルゼンチン人だ。

こういう離れ業みたいなものとオランドの自由さも関係があるのだろう。

危機管理には多様な道があるべきだ。

正直いって、うらやましい。
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by mariastella | 2014-12-10 00:24 | フランス

泣ける映画

二度目に日本から戻った時に帰りの機内で見た映画について。

コンサートの時以来ずっと目を酷使していたせいか、機内の低湿度が特にこたえて、時々目薬をさしてはいたけれど、とにかく「涙を流す」ことを目的に映画をチョイスした。その結果、普段なら見ないような映画を4本も見てしまった。しっかり涙を流せたけれど、それよりも目をつぶって寝ていた方がはるかに目を休ませることになったのでは…。

デヴィッド・フランケルの『ワン チャンス』。

オーディション番組で最初の一声から審査員と観客の心をつかんでスターになる人たちがいる。
外見はアイドル風でなく、普通の店員だったり、最近話題をさらったイタリアの番組ではカトリックの修道女(このシスター・クリスティナについては、ドミニクの歌で一世を風靡したで後修道院を離れて自殺した修道女のことをずっと追っている私の興味を大いにそそってくれる存在なのでいつか詳しく書くことになるだろう)だったりする。

その様子がYoutubeで世界中に拡散されるので、スーザン・ボイルの活躍を多くの人がリアル・タイムで見たことも記憶に新しい。

この映画はオペラ歌手になったポール・ポッツの自伝をもとにしたものなのだけれど、キャスティングが絶妙だ。ポールの妻も両親も、ヴェニスでのエピソードも、親友とそのガールフレンドも、みないわゆるキャラが立っている上に、ストーリーの展開がドラマティックで、フィクションのシナリオならかえって、嘘っぽい、やり過ぎだ、と思えるくらいよくできている。「事実は小説より奇なり」というやつである。

次にR.J.カトラーの『イフ・アイ・ステイ』。

これにもたっぷり泣けた。高校生の恋物語なんて感情移入できないだろうと思っていたけれど、チェリストの少女とロックのギタリストの青年の恋というカルチャー・ショックみたいなものに気を惹かれた。

若者を意識した、初恋や仲違いや事故による生と死のはざまなどというある意味単純な仕立てなのだけど、『ワン チャンス』と別の過程をたどるとはいえ、音楽の道を進みたい、それには認められる必要がある、などという共通したテーマがある。
また、父も母もロックやパンク系の家庭に突然バッハにのめりこむソロのチェリストの娘が生まれて家庭内異文化に苦しむところや、むしろその両親に近いロック・ギタリストのボーイ・フレンドとも彼の生活や交友についていけないなどの齟齬があるところなど、実は、違う形ではあるけれどいろいろな部分で私の周囲でも「思い当たる」普遍的な問題だ。

「愛する者のための自己犠牲」は結局「犠牲」ではなく「愛」なのだという結論は、「お涙ちょうだい」以上の意味を担っている。
けれども、愛や犠牲についてある種の波長を共有する心の琴線がない限り、「よくある映画」の一つとして涙と共に消費されてしまうのだろう。

泣くのにも飽きたので少し笑おうかと思って見た韓国映画の『怪しい彼女』というコメディにも、実はメロドラマの王道ともいえる伏線がたくさんあって、しっかり泣けてしまった。

こちらは70歳のおばさんが突然20歳に若返るという設定なので、高校生の恋よりは世代的に共感できるシーンもあるかもと思っていたのだけれど、これも「音楽」によるサクセス・ストーリーという点で前2作と共通点がある。

ヒロインが歌いだすと、最初の一声で人々の心をとりこにしてしまうシーンなどだ。

またこの映画も、子供を育てて一人前にするために母親がひたすら自己犠牲をはらうというテーマが根底にあるので、「親子愛」の部分でも三作は共通点がある。結局、人を確実に感動させて泣かせるためには家族にまつわる「愛と犠牲」をセットにするのが一番の近道なのだろうか。

三作とも「愛と犠牲と音楽」の三点セットになっているのでより心がつかまれやすい。

こんなので簡単に涙を流してていいのか、とちらと思う。

四作目は実は『アナと雪の女王』で、フェミニストのお気に入りの映画ということで気にかかっていたのだけれどわざわざ見に行くつもりはなかった。

王女さまにプロポーズしてOKされる王子さまが実は悪いやつという結末が確かにディズニー映画として革命的だけれど、この王子が計算高くなったのは自分の国の王位継承権の下位にあるからという「家庭の事情」なのだ。言い換えると、王子と王女の美しい恋物語が成立するには王子が一人っ子の王位継承者で、王女も一人娘、のような設定が必要なのかなあ、と複雑な気分になる。

アナがすごくかわいいのだけれど、「王位を継ぐ孤独な姉と比較的自由な妹」という取り合わせも、世間にたくさんある姉妹や兄弟の間の確執をいろいろ反映しているので、ファンタジーランドで夢見る構造にはなっていない。

まあ、これも、真実の愛とは、「愛する者のために捧げる自己犠牲」という点では他の三作と共通している。

それにしても、愛と自己犠牲のテーマが「善」や「正義」としてこんなにも万人向けのテーマになってヒットしているというのに、世界では弱肉強食やら拝金主義の蔓延が止まらないのはどうしたわけだろう。
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by mariastella | 2014-12-09 00:54 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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