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L'art de croire             竹下節子ブログ

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アンリ=ジョルジュ・クルーゾーのQuai des Orfèvres

アンリ=ジョルジュ・クルーゾーのQuai des Orfèvres (1947年)をTV(Arte)で見た。

日本のwikipediaで調べたら邦題が「犯罪河岸」となっていたが、これではまるで河岸の通り魔事件みたいだ。
Quai des Orfèvres オルフェーヴル河岸というのは司法警察の本部のあるところで、この映画での取り調べシーンが皆そこが舞台だからだ。

もっとも最初のタイトルはクリスマス・イヴの夜かなんかだったと思う。

原作はベルギーの『正当防衛』という小説で1942年のもの。

それを戦後のパリに移し替えたこの作品は、キャバレー、ミュージック・ホールを舞台から、舞台裏から、楽屋から、客席から、活写している。

すごい。

バックとなるノイズもすごい。

絶えずセリフが大声で聞こえるほどにバックの音楽や喧騒の音量が大きくて疲れるのだが、その前から後ずさりをする代わりについ前のめりになって入り込んでしまう。

限られた舞台であらゆる要素をきっちり計算して配置している職人技は感動的だ。

『恐怖の報酬』を見たことがある人ならこの監督の名人芸は想像できると思う。

歌手の妻ジェニーとその伴奏のピアニストの夫モーリスという組み合わせはこの前の『フェニックス』に似たシチュエーションだ。

しかしこの映画の中のカップルは本当に愛し合っている。

夫モーリスはパリの音楽院の作曲科を優等で卒業したブルジョワでキャバレーの歌手ジェニーとの結婚を家族から猛反対された。額が禿げあがっていてパッとしない男だが、何より、病的な嫉妬がその魅力を半減させている。キャバレーの世界では何となく溶け込まない融通の利かない感じでもある。

でもジェニーは彼を愛していて、夫の幼友達で隣に住む写真家の女友達ドーラにいうセリフが最高だ。

「彼は私の炎よ、燃えているみたいに見えないけれど私を照らしてくれるの」
(Il est ma flamme. il n'a pas l'air de brûler mais il m'éclaire)

日本語で言うといまいちだけれど、この言葉で、彼女が嫉妬深いモーリスの愛の真実をきっちり把握していることが分かる。この一言で、ジェニーが浮気な女芸人などではなく生命力のある知的な人間だと分かる。

このような言葉の前では、ドーラは自分のジェニーへの愛を抑圧せざるを得ない。

ジェニーはドーラがモーリスを少し好きなのかもとくらいに思っている。
そう女友達が寄せるストイックな愛というこの関係も「フェニックス」に出てくるヒロインと女友達の場合とそっくりだ。

で、真の主役は、女にはもてないで旧植民地から養子を連れて来て育てている警視のアントワーヌで、名優ルイ・ジュベ(当時60歳)が演じる。

武骨でやり手だが人情味があり哀愁もあるすべての刑事役のプロトタイプみたいだ。

彼だけがドーラの心を見抜いて、「あんたと俺は女に運がないという点で似たもの同士だ」などという言葉をかけたりする。

メトロの駅の人混みがリアルで、劇場でも警察署でもありとあらゆるところで男も女もタバコを吸っているのが時代を感じさせる。

ディティールに見とれて、サスペンスに引き込まれて、終わり方の意外さと気持ちよさに満足感を得る。

白黒作品なのにものすごく濃い感じがするのも驚きだ。

ぎしぎしぎちぎちと詰め込まれた「こだわり」が深さへと形を変えているのがおもしろい。
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by mariastella | 2015-03-18 02:09 | 映画

ベルタイナの絵を嫌いだという人などいるのだろうか

アレックス・ベルタイナという画家がいる。

トリノの出身でヴェニスの絵などを描いている。なぜかカタカナで検索しても出てこなかったのだけれど、

Alex Bertaina と入れて画像検索すればたくさんの作品を見ることができる。

こういうのとかこういうのとか本当に美しい。

水彩画のような透明感があってまるで感性にまかせてさらさら書いているようだけれど実はばりばりの油絵で、計算尽くしていて、すごく工芸的で、どうやって仕上げていくのかを紹介した動画まである。

この人にまつわるエピソードや心地よい作品群を見ていると、実はなぜだかすごく複雑な気分になる。

ムード・ミュージックを好む人に、なぜフランス・バロック音楽の方がすばらしいのかと自分の考えを語ることはできるのだけれど、ベルタイナの絵を好きだという人には多分何も言えない。

実物を観たことがないので分からないのだけれど、写真だけを見ていても彼が多分「万人受け」することが容易に想像できる。今年は台北のアート展に招かれているそうだが、日本でも受けるような気がする。

インテリアとしてもぴったりの一枚だ。
私には言葉が見つからないのだけれど、大野左紀子さんあたりが言語化したものを読んでみたいなあと思う。

そういえば全然別の話だけれど、さっき知り合いがメールで9歳の天才少女歌手アミラちゃんの動画のリンクを送ってきた。

開いてみたのだけれど、会場を埋め尽くした大人たちが涙を流しているのがしつこく映されているのを見て強烈な違和感を感じた。
確かにあの子供の体、肺活量や声帯などであの声量はすごいし、表現力もあるのだけれど、なぜか感動できなかったのはどうしてだろう。

「わー、すごいね」という返信ができない。
「…」という感じ。

人々が見たい絵を描き、聴きたい歌を歌い、それに制作の秘密とか天才少女とかいう付加価値が加わって立派な商品が生まれるのだろうか。
アイドルを消費し続けるよりはましかもしれないけれど。
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by mariastella | 2015-03-14 03:08 | アート

メルケル首相とヴァニティ・フェア

メルケル首相が日本に来たという話題を耳にすると、変な話だけれどVanity Fairの最新号のメルケル特集にあったヌード写真を反射的に思い浮かべてしまう。

ヌーディストの海岸でのスナップだというのだが、その写真の年ではメルケルさんはまだ少女だったはずだからでよく似た女性というだけらしい。でも、すごく似ているし、健康的でかわいい。

私はもともとメルケル首相ってかわいいかも、と思っているのだけれど、そういうとフランス人の友人たちからは一斉に変な顔をされる。Vanity Fairの表紙に実物大の顔写真がアップされていて確かにその至近距離では目の周りの皺など目立ち、私より若い人とは思えない。

1/11の「表現の自由」共和国行進に参加した時、エリゼ宮でオランド大統領に迎えられた時に寄り添ったような写真が出回った。

これは単にフランスで起こったテロに哀悼の意を表明したのがこういう一瞬になったのだと思うけれど、私がメルケルだったら噴飯ものの一枚だ。
ドイツは経済政策や改革のことでフランスに厳しく迫っていて、オランドもたじたじのはずなのだけれど、こういうシーンで、まるでメルケルの方がオランドから慰められているような写真を撮られることの政治的あるいはメディア的な意図が見え見えで不愉快だ。すごいシャッターチャンスだったろう。

これにくらべたら浜辺を駆けるヌード写真(そっくりさんだと分かっているならそもそもなぜ載せるのだ、とそれも不愉快だがインパクトが大きすぎる)の方はほんとにかわいい。

サッチャー首相などには絶対なかった愛らしさがある。
こんなことを書くのがそもそも差別的なのかなあ。
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by mariastella | 2015-03-12 01:15 | 雑感

スーパー・ヒーローはフランス生まれ

スーパーマンやバットマンや、スパイダーマンや、有名なスーパー・ヒーローはアメリカンがルーツだと思っている人が多いかもしれない。

まずアメリカンなヒーローを見た後で日本では月光仮面などが生まれたし、ウルトラマンからセーラームーンまでいろいろ派生したのだと思われるけれど、実はアメリカン・スーパー・ヒーロールーツはフランスにある。

20世紀初め以来、フランスのコミック、映画、小説などに登場してきたスーパー・ヒーローは300を超えるそうだ(Xavier Fournier « Super-Héros.Une histoire française »)。

その原型は、なんと、実際に20世紀初頭にパリやフランスの大都市で、マスクをつけたりコスチュームをつけたりして出没した「正義の味方」だったという。人々はそんな謎の人物について三面記事を読んで、想像力をたくましくした。それがスーパー・ヒーローものを生んだらしい。

その前には、産業革命で都市が発達し、地方から労働力が流入した19世紀末からの社会的カオスがあった。
ロマン派全盛の時代でもあり、人々は、神から使わされて社会正義を行うシンボルをスーパー・ヒーローに託したのだ。
つまり、スーパー・ヒーローは都会が生んだヒーローだった。

確かに、アメリカのように広大な土地があるところで牛を追うカウボーイのようなのがヒーローになれる世界では、超能力のスーパー・ヒーローなど出てくる必要は特にない。

ごちゃごちゃした都会でこそ「強きをくじき弱きを助ける」スーパー・ヒーロー(あるいはスーパー・反社会人)が待たれていたのかもしれない。ファントマやアルセーヌ・ルパンは日本でもよく知られている。

ロマン派の都会のヒーローはジャン・バルジャンであり、モンテ・クリスト伯であり、ノーティラス号のネモ艦長(彼は都会とは言えないけれど)だった。彼らはみな何らかのトラウマをかかえていた。

ところが20世紀に入ると社会正義の執行人であるスーパー・ヒーローの名は、ファンタクス、フュルギュロス、サタナックス、スーパー・ボーイ、フェリーナという非日常的なものに変わっていく。
皆アウトローで影がある。
ニクタロップは暗闇でも目が見える超能力者だ。
「星の騎士たち」というグループはテレパシーの能力があった。

1930年代にアメリカに現われた「ザ・シャドウ」は黒服に黒帽子で夜に活躍するフランスの「ジュデックス」からインスパイアされたコピーで、それがフランスに逆輸入された時にフランスの出版社はジュデックスの名に戻したほどだった。

フランスでは1910年にすでにスーパー・ヒーローもののシリーズ映画が作られていたという。

アングロ・サクソンは大体10年遅れだったが、バットマンに出てくるジョーカーがユゴーの「笑う男」のコピーだったように、今でもフランスの名残はあるらしい。

スーパー・ヒーロー映画はハリウッドの代名詞みたいになるけれど、フランスでは1950年ごろからそういうロマネスクな映画は流行らなくなる。
ヌーヴェル・ヴァーグが台頭したころは、スーパー・ヒーローのジャンルは中学生向けのB級ジャンルだと見なされるようになったからだ。

その後宇宙から来たスーパーマンがアメリカの摩天楼より高く飛んだり、日本ではゴジラや怪獣たちが都会を破壊したりするようになるのだけれど、なるほど、ジャン・バルジャンから発したフランスのヒーローはなかなかそちらの方には進化しなかったようだ。

それでも、フランスのコミックで第一次大戦時にフランス軍を鼓舞する半人半ロボットのスーパー・ヒーロー「ターユフェール」が出てくる『歩哨』が去年映画化されたところを見ると、ジュール・ヴェルヌの国の想像力は案外健在なのかもしれない。
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by mariastella | 2015-03-07 09:53 | フランス

危機の時代の「いい加減」と「曖昧」

日本とフランスが両極端なのに「似ている」というところは、大都市での普段の生活に宗教臭がない所だと昔から思っていた。

もちろん日本でも盆や正月や冠婚葬祭に宗教的な形はあるしフランスでもクリスマスや復活祭や昇天(イエス)や被昇天(マリア)や聖霊降臨が祝日になっているし子供の洗礼式などの形も残っている。

けれども、政治家は絶対に「神」を口にしない。
フランスで一番多いのは洗礼を受けているかどうかにかかわらず、いわゆる「不可知論者」だ。
聖なるものに対して「判断保留」という、曖昧な、または政教分離の共和国で一番無難に市民が共生できる「大人の選択」だ。

他のキリスト教文化圏の国ではもっと二元論的な緊張がある。

曖昧にしておくのは、「共生」以外にも利点がある。

特定の宗教共同体に定額の「寄付」や勤労奉仕をし続けなくてすむ、また、結婚、出産、死亡という人生の「通過儀礼」や、老い、重病、重度障害など実存的な危機に遭遇した時の心理的、あるいは社会的なセーフティ・ネットはとっておける、などだ。

それは日本の都会の根なしマジョリティも同じで、初詣や病気平癒、入試合格、結婚、安産など都合のいい時に「神頼み」できる場所を確保しておいても、「伝統宗教」ならその都度対応してくれて、それまで「悪い信者だった」などと責められることはない。

この「いい加減さ」がすごく似ている。

日本からフランスに来た私にはそれがあまりにも普通なので長い間気づかなかったのだが、アメリカや他の国では宗教的な旗色を示すことがアイデンティティに組み込まれていることの方が多い。

で、フランスも日本も、そのいい加減さが、「大人同士」で分かり合う、という状態ならいいのだけれど、問題は、そこに「本気」の人が入ってきてもなかなか気づかなかったり本気にしなかったりすることだ。

一昔前は「出る杭は打たれる」という風潮があったかもしれないが、いまや

「多様性だよね」

くらいにしか思わない。

ところが「本気の人たち」の中には、「折伏型」のグループがいる。

で、「うちは何でもありで寛容だから」といいつつ実は他人に無関心で自分のことしか考えていない多数の人は、いつの間にか「折伏型」グループが根を張っていたり若者に影響を与えてしまっていることに驚くのだ。

ヨーロッパは第一次大戦が「終わらなかった」ことを学んだ。
その終戦条約の過酷さが次の戦争のポテンシャルを高めたので何一つ解決せずに、「力づくの平和」は20年しかもたなかったのだ。
それで目が覚めたので、第二次大戦後には「恒久平和」を目指して独仏が手を取り合ってEUの基礎を創った。

ユルゲン・ハーバーマスの「すべての人間にあてはまる規範」という普遍主義的理想のもとでヨーロッパは構想されたのである。
つまり、我々はもはや文化的、愛国的アイデンティティから離れて、普遍的価値である個人の人権を守ることを目的にした理性的落としどころを見つけなくてはならない。そのための複合的な過程である民主主義体制を固める必要がある、ということだ。

日本がすごいと思うのは、そういう感じの言説を「うんうん、民主主義だよね、平和だよね」と、わりと簡単に受け入れて(実は宗教色も濃く愛国主義も濃いアメリカ経由だったけれど)「平和」を享受したことだ。
まあ、ヨーロッパもそうだが戦後の復興に大変で、天下国家のことをいろいろ考える余裕がなかったのだろうけれど、そういう思考停止のまま、結果的には、そういうことをあれこれ考えてきたフランスと同じような社会になってしまった。

そんな日本やヨーロッパは、自分たちが例外であること、

世界のほとんどの地域では昔ながらの力の論理や愛国主義や宗教拡大主義が全然終わっていないこと

を、20世紀末にやっと気づいたのだ。
戦争中の「犯罪」を執拗に償わせる国だとか、特定の国に対して敵対プロパガンダを仕掛ける国だとか、「十字軍の西洋」対「イスラムのオリエント」が文明の衝突をしている図式づくりだとか、一つ一つが歴史学的に不当であったり時代錯誤であったり独裁者の戦略であったりしても関係がない。

実情は、暴力に向かう実力行使がヨーロッパ内部で実際に始まっているということだ。

それどころかその覇権主義的や闘争的な言説に賛同し、そのために自分の命を捨てることもいとわないほどの機動力を見せている。

半世紀以上もかけて忍耐強く理想の社会を築いてきたつもりのヨーロッパは、

怒りや恨みや衝動に満ちた人間の歴史と人間の世界から卒業することなどできない、

と悟り、揺さぶられた。

プーチンはヨーロッパの首脳と同じ発想で動いていない。
ISILはもちろん、中近東やアフリカの軍事政権も、ヨーロッパ内の移民共同体も、EU的「コスモポリタンお花畑」の夢物語なぞ聞く耳はもたない。

戦争どころか内側から暴力に蝕まれて行くフランスの「あわて方」を見ていると、歴史も規模も地政学的状況も違うけれど、今の日本の「あわて方」と似たものを感じる。

「みんな違ってみんないい」とお花畑をやっているうちに、隣国から恫喝されるは、ヘイトスピーチは蔓延するは、今にも「軍隊」を世界中に派遣する気が満々のような首相が出てくるは、と、「あいまいな日本の私」の「あいまいさ」はいったいどこへ行ったのだろう、と思わざるを得ない。

(日本の「人質事件」で首相が終始発した強気のコメントを聞いたフランス人は驚いていた。フランスは「表現の自由」と言っているが、かなり強い自主規制が働いている分野があって、その一つが「人質事件」だ。

ジャーナリストや人道支援者はもちろんだけれど、だれが観光で危険なところに行って人質になろうと、そのことで水面下で政府がいかなる取引をしていようと、「人質を批判するような言説」はないし、「人質をさらに危険にするような発言」もされない。

この無言のコンセンサスはいったい何だろうと思うが、彼ら自身もそれに気づいていない。

で、日本の首相の強気発言や日本での人質自己責任論(フランスでは、ある人が自己責任が取れなくなった状態に陥ったから国が乗り出す、と考えられている)を耳にすると、驚くし、フランスにある「タブー」にあらためて気づくのだ。

これって、例えば生活保護受給で、生活困窮に至った理由が何であれ無条件で助ける(日本も法律上はそうなのだが)、というのと、それに対して日本では世間の風当たりが強いこととも通じるのかもしれない。
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by mariastella | 2015-03-05 19:37 | 雑感

新しい『シャルリー・エブド』

事件後すぐの800万部と言われる記念号の後、1ヶ月経ってようやく出た新体制の『シャルリー・エブド』は、予想にたがわず、すべてを笑う棘を失っていなかった。

表紙は『シャルリー・エブド』を加えて逃げる犬を必死で追いかけるグループに極右政党のル・ペン女史やサルコジやテロリストらしい人物が描かれているのだが、カトリックの司教や同性婚反対のデモに参加したカトリック保守派らしき人物が目立っている。

これを見たカトリック・ブログがカトリックは罵倒されても文句を言わない、じっと耐える伝統があるのにこんな風に描かれるのは遺憾だと書いていた。

『マリアンヌ』には、モアメッド・カシミという作家で戯曲家が、パリ近郊の職業高校で演劇について講演を頼まれて行った時の報告が載っていた。

高3のふたクラスに行く前に校長から注意を受ける。

「テロリストという言葉は戦士でありヒーローと同じだから攻撃者と言ってくれ、テロもオペレーションと言い換えてくれ。イスラムとかイスラミストという言葉も避けて、宗教、原理主義者と言ってくれ、イスラムと口にする時にはユダヤ教徒キリスト教も同時に言及してくれ」

と言われた。

ひとつのクラスは男子ばかりで22人が黒人で白人が2人、全員ナイキのスニーカーにジーンズにフード付きダウンジャケット、白人の2人は首に重い銀のチェーンをかけていた。
2つ目のクラスは女子ばかりで黒人16人アラブ人6人。全員GAPの服を着ている。

『シャルリー・エブド』の話題を振ったら、全員が「彼らは人を馬鹿にしたから当然の報いを受けた」と一様に答えた。

こういう話を聞いて、ヴァルス首相が言ったようにそしてアメリカでFOXニュースがフランスでシャリーア法が適用されている場所という地図を流したように(フランスは抗議したが)「フランスではアパルトヘイトがあって黒人やイスラム教徒は差別されていて、しかもその弱者を馬鹿にするからテロの標的にされるのだ」というストーリーを組み立ててしまいがちだが、それは必ずしも正しくない。

問題は、日本人にも受けているフランスの知識人までそういうストーリーを口にしていることだ。

たとえば日経のインタビューに答えてエマニュエル・トッドが
「『私はシャルリー』というのに違和感がある。テロの前に私はこのカリカチュアを批判していたから今さらまつりあげることはできない」とした上で移民やその子孫が不平等と失業の犠牲となりその一部が過激派に憧れるのだ、と暴力を「説明」した。

さらに、「自分自身や自分の祖先をからかうのはいいが、他人の宗教をからかうのは別の話だ。イスラムは仕事のない郊外の移民のモラルの支えになっている。イスラムを冒瀆するのは移民という社会的弱者を侮辱することだ」と言っている。

これは、フランスの共和国主義に反する。

ジャン・ジョレスは、「貧者の唯一の財産は国家だ」と言っていた。

共和国主義と民主主義が、社会的弱者の支えとなるべきだということだ。

もっと言えば、第一次大戦後は、その「国家」をも超えた民主主義に依拠する普遍主義が弱者の支えになるべきだという理念でヨーロッパ連合が誕生した。

そこでは宗教の如何にかかわらずまた無宗教でも人々が平等に安全に同じ基本的人権を守る法に守られて暮らせるはずだった。
リスペクトされるべきなのはまず「法」なのであってそれが個々の「宗教」や信条に優先する。

日本の新聞へのトッドのコメントだけでなくアメリカの『デモクラシー・ナウ』というテレビ番組でスイスのイスラム学者タリク・ラマダン(一部のフランス知識人に人気)が、『シャルリー・エブド』は金に困っていたからどんどん挑発的な記事を載せるようになったのだ、あれは勇気ではない、とアート・スピーゲルマンの前で、英語で語った。さらに陰謀論までにおわせている。

「自分自身や自分の祖先をからかうのはいいが、他人の宗教をからかうのは別の話だ。」というトッドの言葉、これが曲者だ。

上記のリセで、「イスラムの名を出すならユダヤもキリスト教も言及するように」というのと同じで、ここ20年、フランスの政教分離の原則を脅かす形でイスラムが問題となっている事項についても、イスラムだけ取り上げるのでは即差別とか侮辱とか言われるので放置していたからこそ、若者がイスラム原理主義を「支え」だのアイデンティティにしてしまって今の事態になったわけだ。

それを言うなら、『シャルリー・エブド』ですら、そういう配慮を欠かしていない。

冒頭に書いたように、今に至るまで、『シャルリー・エブド』がまず無抵抗の「カトリックの司教」をもっとも派手に侮辱するのは、それがフランスにとって「自分自身や自分の祖先をからかう」ことに属しているからなのだ。

こういう自主規制や、他者をからかうバランスをとるために自虐を全開したりすることは往々にしてある。

「当事者」でない時は、堂々と意見を述べられないことがよくある。

電車の中のベビーカーだの、保育園や幼稚園の子供の声の「騒音」だの、子供のない人や孫のない人が批判すると「弱者の立場を理解できない」などと言われるのではないかと遠慮がちになる。
仕事場に赤ん坊を連れてくるとか来ないとかいう論争も昔あったが、子供がない人が批判すると「お前に言われたくない」となるし、子供をあずけて仕事する人が批判すると「子供をあずかってくれる人やあずけられる経済力があって恵まれているお前に言われたくない」となる。
「死刑反対」と言うと「子供を残忍に殺された親の身になれないのか」などと言われそうだ。

そんな中で「当事者」が正論を言ってくれると本当にすっきりする。

今度の件では例えばアルジェリアの作家ブアレム・サンサルが納得のいくコメントを出した。

彼は書くものをアルジェリアで検閲されたりしているが平和と民主主義のためにはアーティストが必要だと言って国に留まっている。経済学博士でもある。

彼は言う。

ヨーロッパ人はいつも南から来るものを過小評価してきた。
ヨーロッパから支援、沈黙、あるいは共謀を引き出そうとしてアラブの独裁者たちが論拠を述べ立てる知恵や策略を過小評価した。
その論拠は、石油だったり、マーケットであったり、ヨーロッパにおける移民の労働力やイスラムやイスラミストやテロリズムや国際同盟関係のバランスなどだ。

ヨーロッパは、イスラムが最終的にもたらすだろう、キリスト教的、政教分離で民主主義で自由主義のヨーロッパにとっての解決不能な問題を過小評価した。

アラブ諸国の政治的イスラム化が進むことは自明だったのに、過小評価した。
アラブ諸国の問題がヨーロッパ内のイスラム共同体に影響を与えるということも過小評価した。

アルジェリア内の様々な問題(ハラールやスカーフや屋外での祈りや羊の燔祭)などがそのままフランスで起こった時にそれがアラブ主義によるヨーロッパにおけるイスラム化政策の第一段階と考えずに単に伝統やムスリムのアイデンティティの問題という社会的文化的見方をしてきた。

その結果、イスラム国のように領土を支配するものが現れた。

ヨーロッパのイスラムは政党を形成し権力を掌握しようとするだろう。

アルジェリアではイスラム過激派が世界制覇を使命としていること、目指していること、その第一段階がヨーロッパだということを早くから察知していた。
過激派はそう宣言していた。はじめは誰も本気にしなかった。その頃は少数で、しかもサラフィスト、ジャザリット(アルジェリアニスト=アルジェリアをイラン型のイスラム共和国にすることを目的とする)、タリバン、トルコをモデルにした穏健派、そしてテロによって世界をイスラム化するジハディストなど多くの派に分かれていたからだ。

ヨーロッパはこれらの危険を過小評価したばかりか、イスラミストたちの犯罪を説明することで弁護する役割すら果たしてきた。

同じ趣旨の別の意見をエリザベト・バダンテールや精神分析家で宗教人類学のマリク・シェベル(この人もアルジェリア人で「啓蒙のイスラム」を唱えている)も言っている。

1990年代終わりに展開されたアルジェリアの激しい内戦は、図式的に言うと、「民主主義」対「神権主義」の戦いだった。10万人以上が死んだが、殺し合ったのはムスリム同士である。

文明の衝突ではない。信教の自由を認めた政教分離の民主国家にするか、宗教の法に従うかという対立だ。民主主義が「西洋」の伝統だったわけではない。
「西洋キリスト教文化圏」はさんざん宗教戦争などで血を流してようやく学習して政教分離の平和という合意に至っただけだ。
「神権」といっても神がその都度何か言うわけではないから「神の言葉」を解釈したり「神」の代理としてふるまったりする人間が絶対権力を持つことになるのは歴史が教えてくれるからである。

冒瀆的戯画に対する意識も、そもそも「描かれたもの」を聖なるものの本質だと見なすこと自体がプリミティヴな心性である。それは写真のはじめて見た人々が写真に撮られたら魂を抜かれると思ったのと同じだ。

昨年11月に亡くなった作家のアブデルワハブ・メデッブ(チュニジア出身の敬虔なムスリム)は、堂々と「フランスがイスラム世界に適応することはない、その逆だ」と言っていた。

同じことをフランスの知識人が言ったら、「嫌イスラム」認定だ。極右のレイシストだと言われかねない。
バダンテールの言うことも正論なのだが、彼女は「ユダヤの富豪」のレッテルを貼られることも可能だから、難しい。

フランス語圏であるチュニジアやブキナファソからはフランスで大学を出た知識人やアーティストも少なくないのでウェブサイトなどではっとするほど「過激な」同国人批判の記事やカリカチュアも見られる。「当事者が正論を言う」ことの大切さが、分かる。
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by mariastella | 2015-03-04 07:49 | フランス

インド映画『モンスーン・ウェディング(2001)』

インド映画『モンスーン・ウェディング(2001)』を観た。

珍しいインドの女性監督ミーラ・ナイールの映画だ。

21世紀のインドのブルジョワ家庭がいかにグローバル化していてアメリカ化さえしているのがよく分かる。
同時に、家族にまつわる「文化」や伝統がニューデリーの大都市でさえいかにべたな感じで続いているかには驚かされる。

見合いをさせた一人娘(下に弟がいる)の婚約式と結婚式をオーガナイズしてその間中オーストラリアやアメリカなどからも駆けつける大人数の親戚を泊める夫婦。その群像(65人の出演者で監督の親類が動員された)のさばき方がうまい上、ボリウッド的な歌や踊りもある。
一人娘はテレビのキャスターの愛人で結婚直前にまた会いに行くし、独身の従姉(父親を早く亡くした)はアメリカ行きを考えていてその資金を出すという一人の叔父と過去にトラウマを抱えていて、庭に祭礼の舞台をしつらえる業者は屋敷のメイドに恋をするなどいろいろなストーリーが交錯し、「花嫁の父」のを演じるナジルラディン・シャーの心の襞の描き方はすべての人の共感を誘うだろう。

ヴェニス映画祭で金獅子賞を獲っているから日本でもDVDが出ているしコメントも読めると思うが、私が注目したのは、メイドがカトリックに改宗しているらしいことである。

彼女だけが「アリス」という名前だ。

インドではシンガポールのように西洋風の通称を使うことはない。アリスはれっきとしたカトリックの聖女の名前でアリックスともいい、フランスではアデライドとも言う。インドだから英語風にアリスだ。

インドでは16世紀ごろから特にポルトガルの宣教師が現地人のカトリック洗礼を推進した。

宗主国となったイギリスは国教会だし、資本主義的野心はあってもインド人を洗礼しようという野心は少なかったのだろう。

で、日本でも、宣教師は戦略的に有利な大名への宣教と、社会から差別・疎外されていた賤民や病人(修道会がハンセン氏病患者の施設をつくって世話をしたりした)への宣教との二極を大切にした歴史がある。

後者は共同体の外に隔離されて差別されているから「失うものはない」状態で、イエス・キリストを信じるすべての人の救いを約束するキリスト教に惹かれたのは不思議ではない。

インドも同じで、アンタッチャブルと呼ばれる不可触賤民がカーストから脱するためにカトリックに改宗したケースが多いという。

もっとも建前と実際は違って、カトリックの教会や墓地でも、信者のカースト別に席や区画が分けられていたという記録はあるし、カトリック信者の家庭同士の婚活でも「ブラーマンのキリスト教徒」などという条件がつけられていたという記録がある。逆に、カースト差別を排するために取り入れられた下位カースト出身者を優遇する「逆差別」政策が取り入れられた時代、カトリック信者が敢えてそれを断ったケースも知られている。キリスト者になることはカーストから出ることを前提にしているからという理由だ。

今は公式にもカースト制が廃止されているわけだけれど、この映画に出てくるメイドは多分、そういう不可触賤民の改宗カトリックの家庭出身なのだろう。建前はどうあれ社会的グレードを昇るのは難しい。

考えてみたらユダヤ=キリスト教系の「一神教」普遍宗教というのは、どの文化にもある階級のヒエラルキーを超えるための潜在的な「平等主義」を内包している。

それは「原罪」だ。

神の被造物である人間はすべて「原罪」を犯しているので「神の前に罪びとである」という点では全員が平等である。生前どんなに贖罪の努力をしても死後にその努力が認められるかどうかは神のみ旨一つにかかっている。だから、中世の頃からカテドラルの壁画の「地獄絵図」で地獄の炎の中で焼かれている人たちのうちに司教冠をかぶった元司教と思われる者が混じっているシーンというのは普通にある。

司祭でも司教でも教皇でも、キリスト者としてふさわしくない行いをした者は地獄で責め苦を受け得るわけだ。

カトリック世界においては特にこの「地上で聖なる人」や「偉い人」が地獄では苦しんでいるという図柄を表現することのハードルが低かった。なぜなら、救い主であるイエス・キリスト自体が、最悪の責め苦(鞭打ち、いばらの冠、釘で打ち付けられて磔刑など)を受けているシーンをこれでもかこれでもかと表現し続けてきたからだ。栄光のキリストの姿や聖像破壊(イコノクラスト)の伝統のある東方正教とは違う。

こんな文化背景があるから、フランスのような社会では、すべての宗教の聖人や聖職者を冒瀆するようなカリカチュアの容認度が高いのも無理のないことかもしれない。
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by mariastella | 2015-03-03 01:05 | 映画

『ピラトの福音書』の劇場版

E.-E.シュミットの『ピラトの福音書』は前半のイエスとマリアの部分を『オリーヴの夜』、後半のピラトによる遺体消失調査を『ピラトの福音書』と分けて2004年にモンパルナス劇場で上演されたが、その時のDVDを視聴した。

ジャック・ウェベールの力量は天才的だと感心し、彼が一人で様々な証言者の声色を演じ分けるのは、落語の名人芸にも似ていると思った。

この本は、シュミットのキリスト者としてのカミング・アウトとして知られているが、特にピラトのたどった道は彼の「回心」の過程をそのままなぞったかのようだ。

シュミットは無神論の家庭に生まれた無神論者だった。
それはフランスでは、イデオロギーとして頭から信じ込まされるタイプの無神論だ。だから何の疑問もなかったが、後に哲学教師となり、哲学とはすべてに疑いや問いを投げかける学問だから、「無神論」から離れて「神がいるかどうかは分からない」という不可知論者になる。
イデオロギーとしての「無神論」出身だからそこから「出る」時には、すぐ「神の存在、非存在」への問いに直結するわけで、これがヌルい先祖代々のカトリック家庭の出身なら、そういうことを真剣に考えない。日本でお宮参りや初詣でや七五三に行く人が神の存在について特に考えないのと同じだ。

で、その後、砂漠で迷って死にそうな体験の後で、「神」の存在を信じるという、理屈と関係のない神秘体験をして、次にその「正体」を知ろうと世界の宗教の研究を始める。

仏教、スーフィズム、ヒンズー教などだ。ここで身近なキリスト教に向かわなかったのも、キリスト教の蒙昧さを侮蔑している「無神論」出身だったからだ。
もっとも彼は子供の時に公教要理の司祭と接触があり、その人に良い印象を持っていたのだが、いかんせん、その司祭は

「自分がまだ渇いていない時に水を飲ませようとした」

と言う。
すべてのことには「時」があるということである。

で、7年もエキゾティックなものをあれこれ渉猟した後で、ある日、ひと晩で4つの福音書を読んだ。

そのひと晩で、「神の存在」だけでなく「キリストの啓示」も信じることになった。

いわゆる教義は文化や歴史の産物であるが、福音書のキリストの愛のメッセージは全く別の次元の「真」だと思われたのだ。

『ピラトの福音書』の中ではピラトもまだ「信じる」には至らないが、最初のローマ的合理主義や官僚主義にフォーマットされていた立場から不可知論者にまでなってしまった。
使徒たちだってすぐには信じなかったのだから当然だけれど。

西洋的「回心」には、というか西洋的「キリスト教」にはいつもそういう「理性」との兼ね合いが出てくる。

それが、無神論者にしろ信仰者にしろ、「逆方向の信仰告白」を迫ることになる。

それを回避したいのが「不可知論者」であるが、私の生きてきた「戦後日本」というのはそのどれでもなく、信仰と理性の関係には「無関心」という感じだった。

そして、はじめはまだ無神論や不可知論がインテリの証しだったようなフランスでも、あっという間に、「無関心」ではないが「信仰と理性の関係」は封印するというスタンスが確固とし過ぎて、次の世代は単なる「無知」が広がり、商業的迷信(占い、厄払いからカルト宗教まで)が跋扈した。

特に「宗教=キリスト教はもう終わった」と見なされていたので、フランスは、普遍主義を掲げ民族的愛国主義さえ捨てて「恒久平和」のヨーロッパを創ったと思っていた。

はて気がつくと、ヨーロッパ以外の世界は宗教と非宗教が混じり、共存したり、ハイブリッドになったり、対立したり、時には殺し合ったりまでする世界になっていたのだ。さらに気がつくと、フランスの中もその縮図になっていたわけである。

このような時期だから、シュミットのような、神の普遍主義を見失わない良質な「回心」者の証言に耳を傾ける意味が小さくなることはない。
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by mariastella | 2015-03-02 03:11 | 演劇

暴力の陳腐さについて

暴力というと「イスラム過激派のテロリスト」などというイメージが浮かぶけれど、集団暴力の行使がなくてもいいようなところでもあちらこちらで野蛮な事件が起きている。

ここ数日の国際ニュースで言うと、ウクライナの停戦が守られていないで相変わらず毎日死者が出ている情況なのはまあある程度予想できたにしても、キエフのサッカー・スタジアムでキエフのチームとフランスのブルターニュのチームが戦った時、キエフのサポーターがグラウンドに降りて来て試合をストップさせ、フランスのサポーターたちを椅子で本気で殴るなどすごい勢いだった映像を見た。

今のブルトン(ブルターニュの人)なんて地元では赤ベレーのデモをしても、実際には暴力のための暴力に免疫がない。彼らは身の危険を感じて無我夢中で逃げてスタジアムを去ったという。口々に、

「あれはサッカーの試合でなくて戦争だった、サポーターでなくて民兵だった」

と「戦争体験」を語っている。キエフのサポーターは興奮して降りてきたのではなく、明らかに試合を中断させるために意図して降りてきたとも。

フランスではウクライナ内戦について、親ロシアの軍隊よりも当然「親ヨーロッパ」の政府軍や民兵を応援しているので、このスタジアム事件は大きく取り上げられなかった。イスラム国に手をやく今は手のひらを返したようにシリアのこの前までは悪の権化扱いしていた独裁大統領アサドに接近さえしている。

でも、ロシアに対して「親ヨーロッパ」として東ウクライナで殺し合うのと、サッカー場でブルターニュのサポーターを攻撃するのと、メンタリティの底にある暴力志向は共通しているのではないだろうか。

同じようにギリシャでは、希望の星だったツィプラス大統領がEUの要求をひとまず呑んだというので怒った民衆が暴動を起こし、放火など破壊行為が広がった。
これももう、理屈でなくて、気に入らなければ実力行使という点で、「暴力の陳腐さ」に唖然とする。
冒瀆でなくても神でなくても口実は何でもいいかのようだ。

ハンナ・アーレントが「悪の陳腐さについて」語ったのは有名だけれど、この世には、自分では直接暴力行使をしない総統だの尊師だの国歌元首だの暴力を指揮する「悪」とそれを遂行するという「陳腐な」展開もあれば、不満や怒りをたやすくそのまま暴力に発展させるグループもあるわけで、その暴力の陳腐さ、ハードルの低さには慄然とする。

私は自分にとってさまざまな誘惑や保身によって「悪へのハードル」がぐんと下がる場面は想像できるのだけれど、物理的「暴力」の発現というのはほぼ考えられないので余計にショックを受けるのかもしれない。

サッカーと言えば、2022年だかのカタールのワールドカップがやはり気温のせいで年末開催ということに決まって、プロリーグの怒りをかっている(シーズンを中断させられては彼らの金儲けに大いに影響があるからだ)。
最初から徹底して「金」力で動いているカタールの一連の国際行事開催だが、この国からおそらくテロリストにも莫
大な金が流れていると思うと金と暴力との関係についてもあらためて考えさせられる。
フランスがワールドカップでは五億ドル使い、ドイツは六億ドルが使われたがカタールでは二千億ドルなのだとダニエル・コンベンディットが言っていた。
しかもカタールでは炎天下で、パスポートを取り上げられている移民をほぼ使い捨ての奴隷労働に従事させて工事を進めていることも有名だ。

善や美が「陳腐」に思えてくるような世界の到来は、遠い。
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by mariastella | 2015-03-01 00:03 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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