L'art de croire             竹下節子ブログ

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子供の貧困とル・ナン三兄弟

最近、子供の貧困について雑誌に記事を書いた。

「貧困」が話題になる時、目に浮かぶのはルーヴル美術館に飾られているル・ナン兄弟の『農民の食事』だ。

単に「農民の食事」といっても、この解説の絵を見ると分かると思うが  ここには三種類の階層が描き分けられている。

中央がおそらく農場主で、襟が開いていないのは「労働」をしない人だからだ。

ワインとパンはカトリックの聖餐を思わせる。

分厚いパンは皮が厚いことで中の柔らかさが保てるタイプのもので「金持ち用」と言える。

向かって左の家族は雇いの農業従事者とその妻子だろう。ズボンのひざは破れているがまあ状態のいい服を着て靴も履いている。

右には物乞いと思われる父子がいる。
二人とも裸足だ。

招かれて共に食卓に着いているのだろうが、三グループの社会的立場の差は歴然としている。

まず、左の男にグラスが渡されたらしくもう飲み始めている。

主人のグラスの持ち方から見ても、このグラスをこの後で右の物乞いに差し出そうとしているのが分かる。

左の男はひょっとして、物乞いと同じテーブルにつくのを快く思っていないのかもしれない。

他のグラスがない所を見ると、食事を共にするというより、農場主が一方的に施している「お恵み」のようにも思える。

それにしてはホスト役のまるで貧しさを恐れるようなおびえた目つきが気になる。

物乞いの父の方は、グラスに手を差し出そうともせず帽子を膝に、うつろな目をしている。

後ろに立つ息子の方は挑戦的な視線をこちらに向けている。

そして、後ろから眺める形の、左の家族の子供の目、大きく開いた彼の眼も、絵の前に立つ人々をじっと見ている。

農場主の後ろでヴァイオリンを手に父の指示を待っているかのような少年は彼の息子なのだろうか。この「招待客」の食事のバックで演奏するように言われて待機しているのだろうか。

各自の思惑がものすごくちぐはぐで、居心地が悪く、それでいて、強烈だ。

都市の貧困が目立つようになり多くの修道会が貧者や病者に施しをしてまわった17世紀半ばにパリの真ん中で暮らしてバロックの宗教画だけでなく社会的なテーマを扱ったル・ナン兄弟は、パリの通りであえぐ貧者を敢えて描かずに、「農民」の姿にそれを託したのだろうか。

明暗や小道具のディティール、表情や視線の描き分けが見事すぎて、「格差」を前にした時に人はどうふるまうべきなのかについていろいろと考えてしまう。
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by mariastella | 2015-04-30 01:52 | アート

ヴィトゲンシュタイン一族のあれこれ

健康ブログと化している『たかが、肩』に久しぶりに少し書くつもりが長くなってしまったので、ここの読者にも紹介することにします。

心身の病と生きる力――パウル・ヴィトゲンシュタイン

です。興味のある方はどうぞ。
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by mariastella | 2015-04-29 20:37 | お知らせ

女性政治家への性差別とその「例外」

フランスの政界におけるセクシスム(性差別)についてのドキュメンタリー番組を偶然見た。

かなりシビアなテーマを切り下げているのに、そこはフランス風としか言いようのないエスプリがあって、よくできている。

フランスも政界は「男の世界」がデフォルトだったから、そこにある基準は男性用のものしかない。

フランスでは選挙の候補者を男女同数立てない政党は罰金を払うことになっているが罰金を払っても男性候補者をたてる政党は多い。

先日の地方選でははじめて、どの候補も男女一組という方法がとられた。

それでも実際は女性は飾りでしかないことが多いのだが、「いるだけ」でも「目に見えるだけ」でも、人々の意識がだんだんと変わってくるから意味があるのだという。

前に、イギリスではサッチャー首相などのカリカチュアがひどく醜かったのにフランスのギニョールなどでは男性のデフォルメはすごくても女性政治家は概してきれいなままであることを書いたことがある。

これについて女性の外見をリスペクトすることはいいことだと私が言うと、フェミニストの友人から、

それ自体が女性差別だ、男性と同等の扱いをされるならデフォルメされているはずだ、

と言われた。

でも私は、たとえばサルコジ前大統領は大嫌いだったが、彼の身長について何かというと差別言辞が普通にとびかうのはもっと嫌だった。本人の努力で変えられないような身体的要因について揶揄するのを許すのと女性政治家を女性ということで揶揄することは同じ流れにある。

で、「政治家」の「基本形」が短髪ダークスーツの中高年男性であるから、女性はヘアスタイルからアクセサリー、服や靴まで、モデルというものがない。

それで何をどうしても揶揄される。

女らしくないとか、女っぽすぎるとか、派手すぎるとか地味すぎるとか、とにかく外面をまずコメントされるのだ。

政策インタビューでヘアスタイルの変化の意味について質問された女性候補が怒り出したこともあるし、セゴレーヌ・ロワイヤルが社会党の大統領候補のプレ選挙に出た時は「子供の世話はだれがするのだ」と対立候補に言われた。

内閣には女性大臣が多用されているが、「アリバイ作り」の感は否めないし、子育て中の若い女性も多い(ロワイヤル女史も4人の子供がいた)。

ドキュメンタリーの中では、女性閣僚の一人が、子供の学校が昼から休みになる水曜日に定例会議をするのを変えてくれと申し出たら、第五共和制になって以来ずっと水曜日であり変えられない、と断られたという証言もあった。

しかしこのドキュメンタリーのコメントで私が一番驚き納得したのは、そのような「女性」というレッテル付けからたった1人「圏外」にいる大物女性政治家がいるという指摘だった。

次の大統領選では決選投票にまで進むと言われている人だ。
極右人民戦線党の党首マリーヌ・ル・ペンである。

確かに、彼女のことを形容する時は誰も「女性」とは言わない。

ル・ペンであり、極右であり、その言動、その政策だけが問題にされる。
外見をとやかく言われることはまったくない。

ひとつには党を創設した父親のジャン=マリー・ル・ペンのイメージが強いからかもしれない。
最初は一卵性父娘のようにセットになって、いつの間にか世代交代して娘が父を追い出しかねない勢いになっているのだが、娘はそのまま父の進化型というイメージなのだ。

彼女の外見がどうかというと、極右らしいというか白人フランスのイメージ通りの明るい金髪が肩にかかっている。同じ金髪でも短髪のメルケル女史とは違う印象だ。こんなとかこんなふうに胸のあいた服にペンダントという「女性」らしいスタイルもしている。

まだ今年47歳で、一男二女の母。

二度離婚して今もパートナーがいるが、みな党の歴代幹部だ。

「女性」人生のフルコースをこなしていて、その意味ではロワイヤル女史と同じなのに、「子供の世話は誰がする?」というような揶揄はない。

もちろん極右、「共和国の敵」としてそれこそ『シャルリー・エブド』などではひどいカリカチュアが出るが、彼女の場合、それは決して性差別に発してはいない。

ドキュメンタリーの中でも分析されていたが、政治家というのは人の集まりの中で「いかに大きな声」を出すかが重要で、声質の高い女性、細い声の女性は声量から言ってもどうしても不利になる。

高い声は子供の声にも通じ、男の子は声変りをして、「大人の男になる」ことと「低い声」がセットになっているから、女性が選挙戦や議会で高い声を張り上げていたらヒステリックだとか感情的だとか批判される。

ロワイヤル女史は低音だったのでその点は落ち着いた印象を与えたが、声で「女性」性を揶揄される女性政治家は少なくない。

ところがル・ペン女史は、生まれついての大声の上、がらがら声で迫力がある。体型も、太っていないが骨格が堂々としている。「大きく強い」印象がある。

それらの要素が相まって、ル・ペン女史は自らを性別、性差別、ジェンダー差別の圏外に置くことに完全に成功しているというのだ。

そういわれてみれば、確かにそうだ。

ロワイヤル女史が大統領になっていたら「フランス初の女性大統領」と言われたろうし、次にヒラリー・クリントンが大統領になったら「合衆国初の女性大統領」と言われることだろう。

けれども、もしル・ペン女史が大統領になったら「フランス初の女性大統領」ではなくて、「極右国民戦線の大統領」で「共和国の危機」となる。

ル・ペン女史の支持率の急上昇はいろいろな意味で気になる問題なのだけれど、セクシスムの観点から見ると、なかなか珍しいケースだと感心した次第だ。
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by mariastella | 2015-04-28 00:32 | フェミニズム

パートナーシップの話

社会学者の田中ひかるさんのブログで渋谷区の「パートナーシップ」証明についての記事を読んだ。全面的に同意。

>同性婚の認否以前に、国によって結婚制度そのものが異なる。
当然ながら「結婚しないと損をする国」ほど、婚姻率が高い。

>真に「人権や多様な生き方を尊重する」社会を目指すなら、結婚制度の間口を広げるよりも、「結婚しなくても損をしない社会」にするべきなのだ。

など、私が日頃考えていることだ。

私はフランスの同性婚法の採択にある意味で反対した。

先行するパクス(PACS:Le Pacte civil de solidarité)という、共に暮らす二人の人間の連帯を保証する法律(別居を余儀なくされる転勤を拒否できるとか、どちらかが死んでも住居や遺産や子供についての権利がある程度守られるなど)がさらなる充実をする可能性を妨げ、共生の概念を性的なものだけに矮小化するものだと思ったからだ。

性的関係のない同性の友人同士、きょうだい、師弟などでも、未成年の子供を共同で育てる選択をした者同士なら結婚家庭と同様の保証を受けられるようにすべきだと思うし、共に暮らす選択をした二者のどちらかに障害があるとか、年金がないとか収入がないとかの場合に、残された時に遺族年金が受けられるようになることを願う人も多い。

それがロビーの力が大きく消費者としても有望な同性愛者にのみ「結婚」という枠を与えたので、パクスが救っていた「相対的強者が相対的弱者を守るというような関係」の強化は見込み薄になってしまった。

アルツハイマーの初期である身寄りのない友人の面倒を見ている元公務員のある女性は友人とパクス契約を結んでいるが、自分の死後に相手を守るためだけに「同性婚」に移るなどとてもできない。
「同性婚」は愛と性がセットになった旗印だからだ。

確かにフランスは「結婚しないと損をする国」ではないし、婚姻率も低い。
でもカップルが暮らす率も高く出生率も高くて、子供たちも差別を受けない。

それでも、性的マイノリティがどうとか出産がどうとか育児がどうとかだけに視野を限ると、あらゆる人の「生活の質」の本当の意味での尊重や、連帯の必要性を見失うと思う。

田中さんは

>結婚も出産も人生の選択肢の一つに過ぎないと考えるような人間は、この国では最早「非国民」なのだろう。

と結んでいる。

結婚も出産も「選択しない」人は「負け犬」どころか強い人の場合も多いと思うが、

結婚も子供を持つことも最初から選択肢にない人、また選択肢から消えた人も、リスペクトされ支援されて生きる権利がある、

と考える私は「神の国」に引っ越すしかないのかもしれない。
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by mariastella | 2015-04-27 23:11 | 雑感

フランソワ・オゾンの『危険なプロットDans la maison (家の中)』

2012年のフランソワ・オゾンの映画『危険なプロットDans la maison (家の中)』。

この人の映画は私の好みに照らして当たり外れが大きいので、テーマ(リセの教師と男子生徒の心理劇)を鑑みて公開当時は観る気がしなかったのだけれど、最近観る機会があった。

つい最近の作品Jeune et joliもリセの女子学生が主人公で、高校生が主人公というのは興味が持てなくて観ていないのだけれど、オゾンはリセの教師夫婦の家庭で育ったそうで、家庭で採点をする様子や校長との軋轢などの様子がすごくリアルだ。

私もリセで教えたことがあるし、親しい友人にもリセの教師が何人かいるのでそのリアルさが「息苦しさ」とし実感できる。

原作はスペインの戯曲で『最後列の少年』、つまり教室の最後列にいれば(教師以外の)誰にも見られることなくすべてを見渡せる、という学校やクラスのコミュニティの外側にいる生徒の視点があり、それは社会の外側でもあり、最後は現実と創作の区別さえつかなくなっていく。

このテーマをオゾンが自由に「料理」したら、最近コメントしたクルーゾー風味もあり、明らかに影響を受けているパゾリーニの『テオレマ』だのベルイマンの作品なども透けて見える上に、オゾン自身がそうである同性愛者の陰影も濃縮だし、「語り方」「見せ方」だけで緊張感を高めていく手法も職人技で、確かに独特の世界に仕上がっている。

ナレーションと演技の組み合わせ方が工芸的ですらある。

オゾンの魅力で可能になるキャスティングも相変わらずすごい。

リセ教師ジェルマンのイギリス人妻が任されているが経営危機に陥っているパリの画廊の持ち主である「双子の姉妹」という端役がヨランド・モローということだけでキャスティングの癖の強さが分かる。

主人公の少年クロードは16歳という設定で、本当のリセアンにこんな演技(倒錯的でナルシスティックで頭脳明晰なのに実生活では母に捨てられ失業者で障害者でアルコール依存の父親の世話をしなくてはいけない)をさせたら精神衛生に悪いんじゃないかと思うが、やはり「成熟」が必要ということで、金髪碧眼ゲルマン系21歳のエルンスト・ウンハウアーだったのでほっとする。

16歳の少年がクラスメイトの数学の勉強を助けるという目的で良心の中がよさそうな「中流家庭」の中に侵入し、家族同様に扱ってもらいながら家族には慣れず、インテリアのことばかり考えている専業主婦らしい母親に接近したり、一人息子であるクラスメイトから同性愛に近い思いを向けられたりする。
でも、そういう性的なイメージが喚起される割には、サスペンスの方が勝っていて、セクシーではない。

もちろんなんといっても、秀逸なのはジェルマンを演じるファブリス・ルキーニで、映画製作過程を記録した52分の記録映画を見ると、この人って、本当にリアルでも、ハイで饒舌で、アドリブの連続だということが分かる。
しかし名俳優である彼と共に盛り上がりながらもその暴走を避けようと緻密な演出にこだわるオゾンの様子もよく分かって、2人の掛け合いが興味深い。

クリエイターとは何か、その享受者とは何か、というのを、小説作法の形を借りながら実は映画製作についての監督の自分語りが展開されているわけだが、フランス人が「小説家志望」であることと日本人が「小説家志望」であることの文化的、歴史的な違いにもあらためて感じ入る。

日本の「国語教師」がこのような思い入れをすることはあり得ない。フランスにおける「作文」の課題の執拗さは日本では想像できないし、日本の国語の教科書ならいつもダイジェストばかりだけれど、フランスでは一学期間に古典を何冊も読まされる。

だからこそ、小説家志望の夢が潰える時も、個人的なルサンチマンよりも、読み込んできた大作家の才能の大海の中で溺れ沈んで浮かび上がることのない苦しさが消えずに残る。

もう一つ今のフランス的だなあと思ったのは、昔のアメリカン・ドリームみたいなものが今は「中国」に向けられているというところだ。これは実態を反映していて、中国の呼びかけたアジアインフラ投資銀行(AIIB)にヨーロッパの主要国が迷わずに参加するのも当然なのだ。
いまやヨーロッパもアメリカから中国に乗り換えた方が夢を見られるというわけである。

「乗り換えられる」側のアメリカが参加しないのも分かるし、日本の場合はアメリカ追随プラス中国への反発があるのだろうが、日頃、フランスと日本のメンタリティは結構似ているなあと思っているのに、「中国」にどういうイメージを持っているかに視座を置くと、さすがに共通点が一つもない。

日本から英仏や独仏の歴史的葛藤が全然見えないのと同じだなあと思う。
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by mariastella | 2015-04-21 07:24 | 映画

ネット難民になって思ったこと

電話線がようやく復旧した。

最後はさすがに友人から借りたルーターを使っていたが、最初から「すぐに復旧する」「48時間待ってくれ」「週明けにはOK」などと言われ続けたので、それなら我慢しようかと思って騙され続け、結局4週間も過ごした。

これを読んでいる日本の人にはあらゆる意味で訳が分からないだろうが、フランスに住んだことのある人やフランスにいる人なら分かると思う。何かのことで明らかに一方的な被害を受けてもそれを修復してもらうのに数ヶ月や数年かかったり訴訟にもつれこむことなどよくある世界なのだ。

ほとんどうちで仕事している私がスマートフォンを使っていないことも含めて、電話線が盗まれただけでどうして4週間もネットがつかえないのだ、と理解できないと思うが、まあ細かい事情を書いてもしょうがない。

日に一度は図書館やマクドナルドでメールのチェックだけはしていた。調べ物がある時はうちでリストを作っておいてやはり図書館のwifiを使って調べた。

そして図書館でもマクドナルドでも発見があった。

まず、市立の図書館。

5月末のコンサートの会場をチェックするためにパリの教会のサイトにアクセスしようとした。

赤文字で「INTERDICTION禁止」と出た。

その下に 「理由=宗教」とあった。

ある人がメールで、日本語のあるサイトのアドレスを送ってくれた。

医学系のサイトで、あやしいものではもちろんない。

クリックするとまた赤文字で「INTERDICTION禁止」と出た。

その下に 「理由=未知」とあった。素性が分からない、というほどの意味だ。

いつからこうなっているのだろう。

はやい話、図書館で若者が過激なモスクやアラビア語の過激派サイトにアクセスすることを禁止したいのが本音だと思う。けれども、イスラムとかアラブに限って遮断すると、イスラム差別、マグレブ移民差別だとか言われるから、すべての宗教、アルファベットを使わない「あやしい言葉」のサイトのアクセスをまとめて禁止しているのだ。

驚いた。

フランスでカトリック教会のサイトがブロックされているなんて日本でお寺のサイトが全部ブロックされているようなものだ。

マクドナルドではさすがにそういう処置はされてないのでなんだかほっとする。

でも、深夜のマクドナルドに子連れの女性が少なからずいるのに驚いた。

たとえば若い女性が2人、それぞれ3歳くらいの子供を連れて自由に遊ばせながら平日の午後11時ごろに延々とおしゃべりしている。

日本で子供連れの若いカップルなどが深夜に居酒屋で過ごしているという話を思い出した。

マクドナルドにはアルコールがないから、子供の環境としては居酒屋よりはましだけれど。

私は今回何度も通ったのでもうマクドナルドのマークを見るのもうんざりしている。
小さい子を連れて夜にファスト・フードに行くという発想がないので、それが「普通」のようにいつも夜に子供たちが走り回っているという状況にショックを受けた。

うちでPC画面を見ているだけでは絶対に分からないことってあるもんだなあ。
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by mariastella | 2015-04-15 23:21 | 雑感

復活祭の憂鬱

もう三週間近くもうちのインターネットが使えず、図書館やマクドナルドなどでメールだけチェックする日が続いている。それでも今日が「復活祭」だったので、うちのネット環境も復活するかと期待していたのだけれど、復活しなかった。

うちのプロバイダーはもう18年前から加入していて機械も古いやつで、電話線につながっているのだが、その電話線がロマに盗まれて近隣の1800世帯の電話が不通となった。うちの固定電話の方は2週間後に復旧したのだが、FAXとネットにつながっている方の線が、よそのうちと入れ替わってしまって、何度催促してもまだ元に戻らない。

幸い仕事はプリントアウトされて送られたゲラの校正が主だったので被害は少ないが、いつ回復するか分からないというのは落ち着かない。おまけにその期間、風邪をひいて喉や鼻がやられていたので鬱々とすごしていた。猫のように「ひたすら寝て治す」対策を実行したが、ひたすら寝たのに治らない。

復活祭前の「精進期間」だしまあいいか、復活祭にはネットも体調も復活するだろうと思っていたのに、結局ネットも使えぬまま、風邪も治らぬままのさえない状態で、ブログも更新しなかった。

それでも、復活祭の今日、昼にテレビでフランシスコ教皇のメッセージを中継で聞いて、彼の顔を見ているだけで、地球人口の過半数を占める一神教世界にこの人がいてよかったなあ、と思った。

復活するべきなのはインターネットでなくて、心の持ちようなんだなあとも思う。

メッセージの後に、聖ピエトロ広場に集まった人やテレビ、ラジオなどで参加している人に対しても、罪の「全免償」が与えられる。教会法的に厳密に言えばいろいろあるのだけれど、気分的にはテレビの前にいるだけで罪が全部チャラになるというリセット気分で気持ちがいい。

これを昔からやってたら、免罪符を売りつけていたことをルターに非難されることもなかったかも、プロテスタントも生まれなかったも、などと思ってしまう。

でもこういう宗教的な「お祭り」で、願い事がかなう、とかご利益がある、とかいうのでなくて、単に(私の場合)実は特に自分で悩んでもいない罪が免償される、というだけなのは、ある意味、まっとうだなあ、取引きでない「恵み」というものの本質をついているなあ、という気がする。

日本では正月には初詣をしていろいろと願い事などしてしまいそうだが、その前の大晦日に除夜の鐘で108の煩悩を清めてしまうというのが「全免償」に似ていると思う。でも、テレビで各地の除夜の鐘を聞いても、108全部を聞くわけではなく、ただの風物詩で、「煩悩を清められてよかったよかった」と言うより、ああ今年もまた終わるんだなあ、という感慨しかない。

先週はケニアの大学でキリスト教徒をターゲットにした大規模なテロがあり、フランシスコ教皇の顔も重々しい。

キリストの死と復活は「暴力を使わないで共生できる世界」への希望に直結しているというメッセージは心に響く。

去年ペレスとアッバスがヴァティカンの庭で共に祈ったのだが、それを呼びかけたのがフランシスコ教皇ではなくて、ペレスとアッバスがフランシスコに頼んで、「ではうちの庭で」ということになったという裏話をはじめて知った。一神教の神はひとつで同じ神に祈ったわけだ。その後でイスラエルによるガザの攻撃があって、「共同の祈りは効を奏さなかった」などとも言われたが、祈りや恵みがいつどのような形で実現するのかなどは所詮「今ここ」のレベルでは分からないのだろう。

アフリカや中東のキリスト教徒たちは今宗教の名において迫害されている最大の被害者だ。金を払うかイスラムに改宗するかと言われて多くの人が土地を捨てたのは記憶に新しい。

それでも、過激派が文化遺産を破壊すると非難の声を上げる「国際社会」は、イラクやシリアやコプトのキリスト教徒が追われたり惨殺されたりすることにはあまり関心をしめさなかった。ずっと声をあげてきたのはローマ・カトリックのフランシスコ教皇で、最近フランスのファビウス外相がようやく国連で訴えた。

それでも、フランスでは、中東のキリスト教徒救済の広告がパリの公共交通機関からはずされるという事件があった。「キリスト教を守る」というような言葉は、公共空間の非宗教性をうたったライシテ(政教分離)に反しているというのだ。

実際のライシテは、公共空間で、多宗教、あるいは無宗教の人が自由に生きることができるという建前でできたものだ。
けれども今は、高まるイスラム原理主義を牽制したいがイスラムだけ名指しで禁じるのはまずいので「すべての宗教」をまとめてプライヴェート・ゾーンに追いやるような風潮になっている。
で、今、迫害されている中東のキリスト教徒(イスラムやヨーロッパのカトリックなどより古い伝統宗教だ)などを支援することには「キリスト教」を贔屓すると思われたくないかのように及び腰だったということである。

明治のはじめ、キリスト教禁令が解かれず、宣教師がやってきたので表に出てきてカトリックに戻った隠れキリシタンたちが迫害された時、フランス中の教会が「日本のカトリックのために祈った」というエピソードを思い出す。
考えてみれば、人が信教の違いや有無によって迫害されなくなったのは「先進国」と言われる場所でも、ほんの最近のことにすぎない。

「人として生まれた神」が捕らえられ、無抵抗で痛めつけられ、それでも父なる神に「彼らを赦して下さい」と言って殺されたのに「復活」した、愛は憎しみや死に勝つ、という「復活祭」の意味を改めて考えさせられる。

教皇はいつものように「わたしのために祈って下さい」と結んだ。

あの人のためなら祈りは通じるような気がする。
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by mariastella | 2015-04-05 23:49 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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