L'art de croire             竹下節子ブログ

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ユーゲン・ハーバーマスの言葉

6/25付の Le Monde紙にドイツのユーゲン・ハーバーマスの後述のような記事が載っていた。

いわゆる「激しく同意」という思いだ。

ギリシャを前にしてEUのやっていることはもはや「政治」ではない、「経済」だ。

先日のバカロレアの理科系の哲学の問題のひとつに

« La politique échappe-t-elle à une exigence de vérité ? »

(政治は真実の要求をかわすことができるか?)

というのがあったのを思い出した。

今の政治は「真実」からは程遠く、「現実」、しかも「経済的現実」が突きつけるものにのみ従っているようだ。

しかもその「経済的現実」というか要するに金の論理は、「数字」が並んでいるのでいかにも合理的科学的「真実」であるかのようにも見えるので、ギリシャをたたくのは「正義」にすら見える。

ツィプラスが挑発的なのは別としても、ヨーロッパの債権国の面々がギリシャを「子ども扱い」にするさまを見ていると、戦後、日本人の精神年齢は12歳云々とマッカーサーが言っていたとかいう話まで想起される。

今度日本が「貧乏」になったらギリシャどころの扱いではないんじゃないか…。

一方で、「金返せ」といえるレベルではない一方的な「悲惨の流入」である中東やアフリカからの難民問題では、「数字」で責め立てる次元ではないので、EUは一応「人道的」な処置をとっているわけだけれど、それって実は「動物愛護」のメンタリティに近いのではないかと疑ってしまう。

難民問題、ギリシャ問題を合わせてEUを観察すれば、彼らの矛盾や偽善も露わになるけれど、ハーバーマスのような人がこういうことをちゃんと発表できるということ自体がやはりヨーロッパの成熟したところなのだろう。

86歳でこの意気。こんな年のとり方をしたい。

以下ル・モンドの記事の抜粋(暇がないので訳しません。フランス語読みの人向けです)

<< Le conflit n'échoue pas à cause de quelques milliards de plus ou de moins, pas même à cause de telle ou telle clause du cahier des charges, mais uniquement à cause d'une revendication : les Grecs demandent que l'on permette à leur économie et à une population exploitée par des élites corrompues de prendre un nouveau départ en effaçant une partie de leur passif – ou en prenant une mesure équivalente, par exemple en prononçant sur cette dette un moratoire dont la durée dépendrait de la croissance. Au lieu de cela, les créanciers continuent de réclamer la reconnaissance d'une montagne de dettes que l'économie grecque ne permettra jamais d'apurer...

La faible performance du gouvernement grec ne change rien au scandale : les hommes politiques de Bruxelles et de Berlin se refusent à endosser leur rôle d'hommes politiques lorsqu'ils rencontrent leurs collègues athéniens. Ils en ont certes l'allure, mais, lorsqu'ils parlent, ils le font exclusivement dans leur rôle économique, celui de créanciers. Qu'ils se transforment ainsi en zombies a un sens : il s'agit de donner à la procédure tardive de déclaration d'insolvabilité d'un Etat l'apparence d'un processus apolitique, susceptible de faire l'objet d'une procédure de droit privé devant les tribunaux. […] Angela Merkel a fait d'emblée monter le FMI dans le bateau : cet organisme […] agit dans l'intérêt général des investisseurs, tout particulièrement des investisseurs institutionnels. En tant que membres de la “troïka”, les institutions européennes ont fait cause commune avec cet acteur-là, si bien que les politiques, pour autant qu'ils agissent au titre de cette fonction, peuvent se replier dans le rôle d'agents opérant dans le strict respect des règles et auxquels il n'est pas possible de demander des comptes. Cette dissolution de la politique dans la conformité au marché peut peut-être expliquer l'insolence avec laquelle les représentants du gouvernement allemand […] nient leur coresponsabilité politique dans les conséquences dévastatrices qu'ils ont pourtant acceptées […] lorsqu'ils ont imposé le programme d'économies néolibéral...



Ce sont les citoyens, pas les banquiers, qui doivent avoir le dernier mot sur les questions touchant au destin européen. L'assoupissement post-démocratique de l'opinion publique est dû aussi au fait que la presse a basculé dans un journalisme d'encadrement, qui avance main dans la main avec la classe politique... >>
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by mariastella | 2015-06-28 00:13 | 雑感

フリーメイスンと陰謀論

講談社の広報誌『本』に書いたフリーメイスンについてのエッセイがネットで読めるのでリンクをしてほしいと要望があったのでここにはっておきます。

その後フリーメイスンつながりでデジタル・イミダスというところにも陰謀論についての記事を書いたので(まだアップされていません)久しぶりにベスト新書を読み返しました。

この種のテーマではどのようなアプローチをしても、陰謀論オタクからも反陰謀論者からも批判されるのは分かり切っていたので、それでも誰にでも少しは楽しめるところがあるようにと架空の陰謀研究会の記録を挿入しました。今でも後悔はしていません。

私はネットでの批評は一切見ないことにしているのですが、その記事を書くためにザッピングしていたら偶然私の新書について丁寧に解説したブログに行き当たり、自分で読み返すよりも便利だと感心しました。

こういう共感的なコメントを見ると、著者冥利に尽きます。

昨日はフランスでもチュニジアなどでもまたテロがありました。
ラマダンの金曜日だから殉教者として戦死して天国に行くチャンスだと呼びかけていたISに反応したようですが、それを未然に防げなかったのかというインテリジェンスの問題がまた取り上げられています。

陰謀論にも通じますが、反社会的な行動計画や犯罪を計画している個人やグループやネットワークがある場合、情報を収集して分析し、調査し、その結果、「陰謀を暴く」というのは大切です。

「陰謀」は「暴く」ものであって「陰謀論」として「あげつらう」ものではないとつくづく思います。

もっともその「暴き方」にもいろいろあって、むやみにメスをいれてあちこちに転移してしまうというようなやり方ではだめで、中期的長期的な視点が必要です。

容易ではありません。
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by mariastella | 2015-06-27 23:42 | フリーメイスン

区別と差別について

日本に出発する前に済ませるべきことが多すぎて時間が取れないのだけれど、きょう6/26にぜひアップしておきたいことが一つあるので書く。

今から72年前の1943年6月26日、ラジオ・ヴァティカンは

「ユダヤ人とその他の人間とを区別する者はだれであれ不信心者であり、神の戒律に背くものである。

人間が人類という家族のメンバーの中で差別を続ける限り、世界の平和、秩序、正義が打ち立てられることはない」

と四ヶ国語で宣言した。

次の日、ニューヨーク・タイムズはそれを報じた。

ドイツではゲッべルスが電波の妨害を命じたが、メッセージは伝わったという。

当時のピウス12世は共産主義と敵対するあまりナチスと妥協したと後に批判されることもある教皇だが、1931年以来ラジオによって強力ですばやいメッセージを発信してきたヴァティカンのこのメッセージに込められた姿勢は明快だ。

近頃は「普遍主義」に対して「西洋スタンダードを普遍的だとしておしつけるものだ」などという言葉を時々日本のオピニオンの中で見かけるのだけれど、キリスト教が掲げる「普遍主義」というのはまさに、「神の前で平等」である全人類を兄弟、隣人と見なして区別しないという原則に立っている。

皆が兄弟であり隣人であるということは、人間世界の狭い意味での血縁と地縁による「区別」の意識を取り払うということだ。

血縁主義や地域主義は容易に「他者」(「みんなと違っている人」も含む)の排除に結びつくからである。

だから、いわゆる「愛国心の強化」というのも、決して真の「平和」には結びつかない。

それなのに「他者を排除する」という「積極的平和」の志向は、ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策の頃から何も変わっていない。

今の日本の「内部」であっても、戦後の安全保障政策については、ずっと「日本」「日本人」の中で、「沖縄」と「沖縄の住民」が「区別」=「差別」されてきた事実を無視することはできない。

先日の沖縄の慰霊祭で阿部首相のあいさつに野次がとんだそうで、それを「場をわきまえない」と批判する向きもあったようだが、私は中継で見ていたネルソン・マンデラの追悼式で、群衆が他国の首脳や宗教者には拍手もしていたのに、自国南アの大統領が登場すると激しいブーイングで、席を立つ人も多かったのを見て驚いたのを思い出した。

人々のその反応のおかげで、マンデラの偉業を利用する政治家たちの繰り広げる綺麗ごとの中で、今の南アが実はどういう方向に向かっているのかについて考えるきっかけをもらえたのだ。

あのブーイングに「場をわきまえない」という批判があったという話は、耳にしたことがない。
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by mariastella | 2015-06-26 23:51 | 宗教

成田達輝と萩原麻未のコンサート

先日、Cercle militaire (Cercle National des Armées)での二度目のコンサートに出かけた。

日本の若手ヴァイオリニストとピアニスト成田達輝さんと萩原麻未さんのフレッシュな演奏。

パリで聴くのに、フォーレを別にしてスペイン風味の曲が続く。いわゆる「つかみ」がいいので、聴衆をあっという間に虜にした感じだった。

成田さんの超絶技巧の噂は知っていたけれど、感心したのは、テクニカルに絶妙な瀬戸際でフレンチ・エレガンスを捨てていないところだった。

萩原さんも切れのよさとエレガンスを併せ持っている。

この二人は日本での楽器修業の後でパリで勉強したそうだけれど、そのせいでフレンチ・エレガンスを身につけたのか、あるいはフルートやサックスでもないのに勉強の場としてフランスを選んだという時点でそもそもフランス的感性を持っていたのかもしれない。

クラシック音楽もグローバリゼーションと新自由主義のマーケットに組み込まれる今の時代に、若くて才能ある演奏家が精神の自由やしなやかさを維持して聴衆といっしょに一期一会の音楽を創っていくという伸びしろを常に持ち続けているというのは、猛進型や陶酔型の輩にはできない業だ。

演奏会の後の食事の後、もう真夜中を過ぎた頃に、お二人にサインしてもらった。

成田さんに「パリで弾くのと日本で弾くのは違いますか」と尋ねると、それはもう全然違います、特にここで弾くのは大好きで、聴衆の集中力がすごい、という答えだった。

概してパリのクラシック音楽の聴衆は、よほど大手のメディアが関わっているイヴェントでない限り、日本によくあるような予備知識や先入観をもって聴きに来ない。

演奏家の名を聞いたことがなくても、何歳でもどこの国の出身でも、その日その場所の出会いの中で錬金術のように生成される「共に生きる時間」に満足すれば惜しみなく拍手をくれる。

ささいなミスタッチやらホールの音響まであげつらったり、他の演奏家との比較や同じ演奏家の過去の演奏との比較に薀蓄を傾けたりする人はまずいない。
ある種のコンサートに行くとか著名な演奏家を聴くことを自分のステイタスと結びつける人もいない。

他人の目を気にしないフランス人の個人主義が一番いい形で現れるのがクラシックのコンサートかもしれない。

かといってみんながばらばらに聴くのではなく、楽しさを無邪気に共有する技には長けている。アンコールを求める拍手がすぐ手拍子になるのもフランスの特徴だ。

成田さんが「集中力」と表現したのはそういう前向きの連帯感みたいなものだといっていいだろう。

どんなタイプの曲のどんな演奏であれ、究極の「成功」は幸福感の共有で、そこには精神の「自由」という余裕が必要だ。

このミリタリー・サークルでのコンサートが特にすばらしいのは、その環境とコンセプトにある。サン・オーガスタン教会の発する「霊的」オーラの半径内にあることもそうだけれど、主催者が制服姿の軍人というのも独特だ。
軍人といえば、その根底に「殺人ロボット」の部分がある。殺人というのは、戦地において敵軍を死傷する戦闘を遂行する可能性があるからで、ロボットというのは、その攻撃を決定するのは個々の軍人ではなく、指揮官の「命令」によるからだ。
個人主義者のフランス人が「軍人」であることを自由意志で選び全うする時、そこには必然的に葛藤があり、自由の聖域を守るかのようにアートへの傾倒が見られることがある。

私を今回ここのコンサートに二度目に招待してくれた海軍士官夫妻も、実は死地をくぐり抜けてきた人で、大の音楽ファンだ。

で、さらにいいのは、コンサートの後でディナー・ビュッフェがあるのだけれど、その場所も演出も、料理も、最高だ。軍人家族の結婚式や披露宴にも使われる70メートルのギャラリーが続く宴会場だから、普通のレストランではこれに匹敵するところはない。

広々とした開放感とエレガンスが共存しているし、同じコンサートを楽しんだ人同士がその後で今度は食事を楽しむのだから、五感を総動員する充実した連帯感が生まれる。

それにはっきり言ってしまうと、何しろミリタリー・サークルの内部だからセキュリティは最高で、もちろん私のような一般人も来ることができるのだけれど、軍人や元軍人同士の仲間意識や信頼感にあふれているから、テロのリスクの高いパリのど真ん中ではなかなか味わえない「安心感」がある。

その贅沢さは、金持ちが内輪で集まるゲーテッド・コミュニティやシャトー・ホテルのそれではなく、「金では買えない」豊かさなのだ(実際カクテル付きの商業的コンサートよりもずっと安価である)。

ディナーも込みのコンサートだから、食べた後で支払いをするシステムもない。そして演奏家も同じ場所で同じものを食べるのだ。

ここに来る人のほとんどは、「噂の有名演奏家の演奏を聴く」のが目的なのではなく、ディナーや同席の人との会話を含めた「全部」を楽しみにやって来る。

だからといって演奏を聴くのがおざなりなわけではなく、反対に、貪欲に幸福を求めるかのように一体になって楽しむわけだ。
そういえばコンサート用のホール内でミネラル・ウォーターの小ボトルが配布されるのもここの特徴で、そのボトルを手にした瞬間からもうある種の「一体感」が伝わってくる。

私がコンコルドの海軍省本部でコンサートをした時も、リハーサル時の差し入れからカクテルパーティに至るまで、プロフェッショナルなのに家庭的な気づかいにあふれていたのを思い出す。

こういう不思議な空間で日本の若い演奏家が演奏すること、彼らがその独特の空気をキャッチしてインスパイアされる感受性を持っていることを嬉しく、また頼もしく思う。
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by mariastella | 2015-06-25 06:10 | 音楽

東京での講演会のお知らせです

7月7 日の講演会のお知らせです。
フランスと日本の死生観を見ながら、死後の世界との関係性などをポジティヴにとらえる話です。

主 催:宗教新聞社 
後 援:NPO法人 にっぽん文明研究所
日 時:7月7日(火) 【開場】午後1:00 【開会】午後1:30 ~ 午後4:00 
会 場:アルカディア市ヶ谷(私学会館) *会議室名は当日案内板でご確認ください。
電話 (03)3261-9921 
〒102-0073 東京都千代田区九段北4-2-25
●JR中央線(各駅停車)市ヶ谷駅下車 ◇地下鉄有楽町線・南北線 市ヶ谷駅A1-1出口 
▼地下鉄新宿線 市ヶ谷駅A1-1またはA4出口  各徒歩2分
JR中央線(各駅停車)、地下鉄有楽町線・南北線、都営地下鉄新宿線 各市ヶ谷駅下車徒歩2分

会 費:1,000円(本紙購読者無料、資料・コーヒー含む)

申 込:氏名、住所、電話番号を記入の上、7月1日(水)までに、ファックスまたはEメールで。
● 宗教新聞社……………・〒160-0022 東京都新宿区新宿5-13-2 4F
                電話03-3353-2940 FAX03-5363-5182
                 E-メール religion@sage.ocn.ne.jp 
● にっぽん文明研究所………電話045-481-9361 FAX045-491-7461
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by mariastella | 2015-06-15 23:07 | お知らせ

ステファヌ・ブリゼとヴァンサン・ランドン『La loi duステファヌ・ブリゼ『quelques heures de printemps (春の数時間)邦題 :母の身終い』

(これは社会派の映画監督ステファヌ・ブリゼと性格俳優ヴァンサン・ランドンの弱肉強食システム告発映画『La loi du marché(市場の掟)』についての前の記事の続きです。)
『市場の掟』があまりにも衝撃的だったので、同じくステファヌ・ブリゼとヴァンサン・ランドンのコンビの前作『quelques heures de printemps (春の数時間)邦題 :母の身終い』のDVDも見ることにした。

これはトラック運転手だったアラン(ヴァンサン・ランドン)が出来心で麻薬を搬送し18ヵ月の懲役の後で未亡人である母のもとへ帰るという話で、その母が脳腫瘍の末期でスイスの自殺幇助協会に申し込みをしているというやはりどうしようもなくやりきれない設定なので敬遠していた作品だ。

監督がこの自殺幇助システムのドキュメンタリー番組を見てテーマにすることを思い立ったというのでそこのところは一種の情報映画として、なるほどこんなものなのかと感心するばかりだ。

でも、たとえば、息子と母の関係で息子から母に罵声が浴びせられるシーンは、これもリアルなせいであまりの「世界の違い」を感じてしまってつらい。

私の周りで父親が母親をどなったり息子が母親にどなったりするようなシーンなど一度も見たことも聞いたことがない。

もちろん、これよりずっと暴力的で残虐なシーンのある映画などいくらでも見たことがあるけれど「自分と比べる」などという発想はあるわけもなかった。

ステファヌ・ブリゼとヴァンサン・ランドンに見せられるとたちまち自分と引き比べてやりきれなくなるのはなぜだろう。フランス語が分かるからというのは理由のひとつだろうが、ダルデンヌ兄弟のベルギー映画のフランス語ではこのような切実さはないので、やはり「国」の雰囲気というのが大きいのかもしれない。

もちろん普通に「映画として面白い」部分はある。母親が息子を戻すために犬に毒を盛るシーンなどはその意図が分からぬままサスペンスフルでぞっとする。

私にとっては、好き嫌いを超えたメッセージを名演と名演出で伝えることに成功する映画の一例だ。

今回のカンヌで話題になった映画がヒットしすることで、このコンビが次の作品に取りかかる助けになればいいと願うばかりだ。
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by mariastella | 2015-06-15 01:31 | 映画

『ティエリー・トグルドーの憂鬱(La loi du marché)』ステファヌ・ブリゼとヴァンサン・ランドン

社会派の映画監督ステファヌ・ブリゼと性格俳優ヴァンサン・ランドンのコンビが私費を投じて売れないのを覚悟で作ったネオリベラリズムの弱肉強食システム告発映画『La loi du marché(市場の掟)』が、カンヌ映画祭で認められたので上映が延長、拡大されている。

最優秀男優賞を得たヴァンサン・ランドンが涙していたのが印象的で、こんな救われない暗い映画は嫌だと思っていたのについ観に行った。

父や母に賞を取ったのを見てもらいたかったのにもう亡くなってこの世にいない、とか、これではじめて子供に自分が何をしているか言える、など、キャリアのある名優とは言えないような謙虚なコメントをしていたが、彼がブルジョワ・エリート家庭の出身で自分も最初はジャーナリスムで働いたこともある背景などを考えると、本音なのかもしれない。

で、この映画、リセの最終学年に進もうとしている障碍児(言語障害や運動障害がある)をかかえた機械工が失業して、不毛で屈辱的なさまざまな体験(スカイプによる面接とか、グループ・コーチング、無意味な職業訓練もあれば銀行とのやり取りやモバイル・ホームを売りに出すなど)の後でようやくハイパー・マーケットの警備員の職を得る。

監視カメラを常にチェックし、携帯のチャージ機を盗んで「外で万引きして来いと脅された」のだと言い訳する若者や、肉を盗んだ初老の男などの尋問のシーンもつらいが、レジ係りの女性がポイントを盗んで解雇され自殺するなど、衝撃的なことも起こる。

映画としては抑制があって、妻と踊るシーン、息子との絆なども描かれていて救いはいろいろあるのだけれど、ハイパー・マーケットで繰り広げられるみじめな悪があまりにリアルで見ていられない。

これがおなじ社会派映画でもケン・ローチのイギリス映画とか、ダルデンヌ兄弟のベルギー映画(同じ労働者の絶望的状況の『サンドラの週末』など)なら、距離を置いてみることができるのだけれど、このハイパー・マーケットの店員たちや警備員たちの様子、問い詰められても開き直る感じ、絶対に自分の非を認めない感じ、など、私も毎週ハイパー・マーケットに買い出しに出かけるので、まさにこの通りというのが身につまされる。

レジ係りが当然配るはずのサービス券だのシールだのをくれないということもよくある。「要りますか」と聞かれれば「要りません」と答える(こういうと領収証に徴しを入れられる)ことがほとんどなので最初からもらえなくても困らないし気にしていなかったけれど、いろいろなことが内部では摘発されているのかもしれない。

とにかくリアルだと思っていたら、なんと配役はすべてその仕事をしている素人を使ったそうだ。警備員もレジ係りも、店長も。この店長とか本社から派遣された人事担当の男とかがまたいかにもビジネス・スクールを出ていますという感じなのだ。

職安の職員も、コーチングのグループも、銀行の融資担当も、みな「その道の人」の特別出演だそうだ。フランス人ならみんないかにも引き受けそうではある。

あまりにもリアルなのでまるで覗き見しているような罪悪感を覚える。

こんな映画が、宝石キラキラのカンヌ映画祭で大喝采を得たなんてその落差を考えただけでショックだ。

ローンが払えないとか失業とか警備員とかスーパーで働くこと自体も絶対にあり得なかったしこれからもさらにあり得ないだろう自分の人生とまったくの別世界がおそろしい。ある意味ではすべての映画は自分の実人生の体験と何の関係もないわけだけれど、フランスに住んでいてこの映画を見ると、映画の中身でなく、リアルに周りにいて普段から客としてかかわっている人たちひとりひとりが尊厳をもって生きられない現実を突きつけられて動揺するのだ。

次にハイパーに行ったらもう絶対に今までのようにはふるまえないだろう。

(続く)
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by mariastella | 2015-06-15 01:24 | 映画

ジャクマール・アンドレ美術館『ジオットからカラヴァッジョまで』

この展覧会で、カラヴァッジョのこの有名な絵のオリジナルを今回はじめて見たような気がするが、

それを、これも有名なクールベの絶望の自画像と同時に見ると、これまでその二つを結びつけて考えたことがなかったのに、記憶の同じ場所にしまわれていることに気がついて、なるほどそうだったのかと何かが腑に落ちた。

もう一つ新鮮だったのは『荊冠のキリスト』のテーマだ。

イエスの受難と言えば、鞭打ち、十字架の道、釘打ち、十字架上の苦しさと渇き、十字架からの降下からピエタや埋葬まであらゆるものが描かれてきたけれど、茨の冠を無理やりにかぶせられているシーンはあまり「残虐」という印象はなかった。

でも茨の冠はかなり刺々しいもので、かぶせる方も二人がかりで、手を痛めないように棒でねじ込んでいくのだから実は恐ろしい。それでもカラヴァッジョのこの絵などは刑吏が無表情で構図や明暗の見事さ以外には「痛み」は感じられない。

ところが今回カラヴァッジョ派のバルトロメオ・マンフレディのものが展示してあって、迫力に驚くとともに、そのもととなったカラヴァッジョの別の「茨冠のキリスト」との比較にはっとした。

カラヴァッジョの原画のキリストの「顔」にショックを受けたのだ。

マンフレディのものは諦念があり、イエスがある種の悟りの中でこれから十字架の上で息絶えるまで続く受難やその後の復活のことまで思いをはせているような気もするのだが、カラヴァッジョの方のイエスの顔はそのまま「神性」が顕現している、もう人としての彼はそこにはいないのでは、と思わせる何かがある。

首から肩、胸にかけての流れも陰影も美しく、同じ形を踏襲したマンフレディのそれとは格が違う。

カラヴァッジョはいったい何にインスパイアされたというのだろうか。
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by mariastella | 2015-06-12 06:18 | アート

Le Souper (夜食) タレランとフーシェの対話

今とりかかっている新書が終わったら次は今年の春まで『ふらんす』に連載していた『ナポレオンと神』の書下ろしをまとめようと思っている。

今年はエルベ島から脱出したナポレオンの百日天下、ワーテルローでの敗北とセント・ヘレナ島への島流しの1815年から200年経った記念の年なのでいろいろとナポレオン関係の催し物が多い。今のうちに見ておかないと秋にはいずれも終わってしまうのであれこれチェックしている。

先日は見ごたえのあるフォンテーヌブロー城での教皇と皇帝展、つまりピウス七世とナポレオンの対決をテーマにした展覧会に行った。近いうちにカルナヴァレ美術館に「ナポレオンとパリ」展を見に行く予定だ。

6月はじめにはマドレーヌ劇場に『Le Souper』(ジャン=クロード・ブリスヴィル作、ダニエル・ブノワン演出)を観に行った。ウェリントン軍がパリに駐留している時、ワーテルローは敗戦ではなかったという見方があったという部分に興味があったのだけれど、テーマはそんなところではなく、ひたすら、フーシェとタレランという連戦練磨の二人の男の人間劇だった。

「共和国」にこだわるフーシェ、ブルボン家を復権させることでヨーロッパの他の王国を懐柔させようと考えるタレランが、権力と名誉への執着をどのようにコントロールするのか、その駆け引きが見ものだが、パトリク・シェスネとニルス・アレストリュプという名優の掛け合いが堪能できる。

燭台には本物の火が灯され、食事も本物、最後の大雨のシーンでは水が降り注ぎ、舞台は水浸し役者もずぶ濡れと、驚きの迫力だ。

この作品は1989年にモンパルナス劇場でクロード・ブラッスール、クロード・リッシュによっても演じられたのだが、今ならやっぱりニルス・アレストリュプの独特の持ち味を抜きにしては語れない。

フォルカー・シュレンドルフの映画『パリよ、永遠に』

にも、一国の運命をかけた戦局の変わり目に話し合う二人の男というシチュエーションの芝居の映画化で、ドイツの将官として出演した。

今回のタレランは政治家、外交官としてまた「高位聖職者」として、さらに親の愛を受けていないとか、足が不自由であるなど、二重にも三重にも複雑な過去や立場を背負った人間だ。

フーシェもタレランも、「権力」への執拗な執着がある怪物のような存在で、フランス革命、ナポレオンの時代を生き抜いた天才的な処世術の持ち主でもある。

そういう意味ではとうてい共感をかきたてられないない人物たちなのだけれど、そういう「強者、勝者、卑怯者」が一体となったような二人が腹を探り合い、保身を図りつつも、それでも自分たち個人の次元を超えた大きな歴史を背負っていることの自覚はあり、「人間的な弱さ」が図らずも(あるいは自覚的に ?)露呈していく部分には心を動かされる。

外では民衆が騒ぎ窓に石が投げられてガラスが割れるなどの喧騒があるのに、二人の男はテラスで上品にグルメな夜食をとっている不思議さ、歴史と個人の運命の乖離、そして二人の個性が相対する時に歴史が変わる瞬間があること、が、映画でなく役者たちと空間と時間を共有することでいっそうマジックな別世界体験として迫る。

この1815年7月6日の夜、フーシェは56歳、タレランは61歳だった。

フーシェはその5年後に死に、タレランは84歳まで生きた。

六つの頭を持つ男というカリカチュア
には「国王万歳、第一統領万歳、皇帝万歳、自由万歳」などとコロコロ変わるタレランの姿が描かれる。

タレランが悪魔にささやかれている絵もあるが、それを見ると、なぜか、ナポレオンにはきっと悪魔の声も必要なかったのだろうなと思った。
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by mariastella | 2015-06-11 21:18 | 演劇

コンサートの写真と新刊について

書くことがたまっているのにコンサートの準備で遅れたスケジュール調整のため、なかなかブログを更新できません。

とりあえず

ヴァンセンヌの森のパゴダでのコンサート

と、

ノートルダム・ド・シーヌでのコンサート

の写真をニテティス・ブログに載せておきました。

フランス語と音楽の関係などについてもいろいろなことを考えさせられました。

講談社の選書メチエから『フリーメイスン』が出ます。

フリーメイスンといえばおどろおどろしいイラスト、あやしいイラストもありがちなのですが、この本のカバーはさわやかでこれならメトロの中で読めるかなあ、という感じです。

本についての紹介やコメントはサイトの著書紹介に載せましたのでご覧ください。
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by mariastella | 2015-06-10 18:17 | お知らせ



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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